ホテルに戻ったら、少しはのんびりできる。そう思っていたのだが、私の期待はあっさりと裏切られた。
それぞれの部屋に移動し、荷物の整理を終える前に夕食の時間がやって来た。
一時間後には大浴場に向かうが、これもクラスごとの着替えを含めて三十分ずつしか入浴時間が設けられていないので、とにかく慌ただしい。ゆっくりと汗と疲れを流す暇もなかった。
しかしそのあとに関しては、寝る準備をするくらいでいい。窓際のベッドに仰向けになって転がった私は、ようやく肺の底に溜まった息を吐きだすことができた。
部屋はツインルームだ。同室の佐藤はといえば、忙しなく班長会議に出かけていった。クラス委員長のみならず班長までやってのける働きぶりには、クラスメイトとして頭が上がらない。
以前、委員長に立候補した理由について訊ねられた佐藤が、内申点のためだと答えているのを聞いたことがあるが、きっとそれだけではないのだろう。
廊下からは断続的に女子の明るい話し声や足音がしていた。各部屋から、こぞって別室に遊びに行っているようだ。
行き先には他の女子部屋のみならず、男子部屋も含まれていると思われる。目を光らせている教師陣に発見されれば間違いなく雷が落ちるが、私の知ったことではない。
部屋でひとりきり。気ままにうつ伏せになった私は、スマホで撮影した写真を見返す。
伸ばした足を交互に動かしながら、画面をスクロールしていく。
「……っふふ」
途中で思わず笑ってしまったのは、画面いっぱいに表示されたのが、大口を開けて千本鳥居を食べようとする吉井の写真だったからである。
何度見てもばかばかしくて、笑いが収まらない。こんなに下らないことで、本当に、ばかみたいだけど……私も真田と同じだ。修学旅行に来て良かったと率直に思えるくらいには、今日が楽しかった。
こんなことなら夏休み前の遠足だって、積極的に取り組んでいたら良かった。そうしたら少しは、何かが違っていたのかもしれない。思い出は黄色く色づいて、数年後も懐かしく思い返すような一日になっていたのかもしれない。今さら悔やんでも時間は巻き戻せないから、尚更そう思う。
ひとしきり笑ってから、そっと口にする。
「……明日も、楽しみ」
小さな呟きは室内に反響するでもなく、ベッドの下に落ちるように消えていく。喉の渇きを覚えた私は、くるりと身体の向きを反転させた。
午後八時四十分。手の中のスマホにも現在時刻は表示されているのに、なんとなくベッドサイドの壁際を見てしまう。壁に埋め込まれたデジタル時計を見るたび、今が旅行の真っ最中だと実感するからだろうか。
もぞもぞと起き上がり、チャコールグレーのスウェットの裾を伸ばす。
暖房の風にやられたのか、見当違いの方向に吹き飛んでいた使い捨てのスリッパに足を入れる。スマホをポケットに入れたら、カードキーと財布を手に部屋を出た。
冷たいドアノブを握り、オートロックが効いているのを確認してから廊下を歩きだす。しおりにホテルの見取り図が載っていたので、自販機の場所は把握していた。一階お土産コーナー脇のドアを出て、すぐのところにある。
エレベーターは十階に留まっているようなので、近くの階段を使うことにした。段を下りるごとに、底の薄いスリッパの底が、ぺたん、ぺたん、と鳴るのが子どもっぽくて、どうにも具合が悪い。
一階に着くまでに、同じ学校の生徒だけでなく家族連れとすれ違った。大きなホテルなので、学校で貸し切っているわけではないのだ。
ロビーを横切り、内開きのドアから外に出る。暗闇の中に現れた小さな空間は、不規則に明滅する自販機の光だけにぽつんと照らされていた。
壁際に設置された自販機の前には、人っ子一人いない。背もたれのある木製のベンチも空いている。室外機の置かれたそこは、吹きだまりのように煙草の残り香がした。
さて、何にしようかと悩む。水かお茶か。フルーツ系の缶ジュースでもいいが、余計に喉が渇くかもしれない。
自販機の前で悩んでいると、空気が揺れ動いた。なんとなく視線を向けると、先ほど私が通ったばかりのドアが開いている。
「愛川さん、今ちょっといい?」
そこに立っていたのは三人組の男子だった。
全員、別のクラスの生徒だ。見覚えはないが、そもそも人の顔を覚えるのは苦手である。
そのときになって、私は部屋を出てきたことを後悔した。後悔先に立たずとは、うまく言ったものだと他人事のように思う。
「……いいけど」
話しかけてきた彼が分かりやすく相好を崩した。
他の二人は励ますようにその肩を叩き、「がんばれよ」なんて囁いてお土産コーナーに引き返す。私への一種のいやがらせなのかと勘繰りたくなるほど、どこかお芝居めいたやり取りだった。
残された彼が、ベンチの隅っこに座る。視線を向けられて、それが隣に座れという意味だと気づいたが、私の両足は地面に縫いつけられたようにその場から動かなかった。
寒々とした京都の風が走り抜ける。殊更、私とその男子との距離を強調するみたいに吹けば、私の気持ちもすぅっと冷えていく。
修学旅行の場で改まって話があると言われた時点で、おおかた内容は決まっている。
明後日の自由行動で、一緒に京都を回るために彼女が、彼氏がほしい。思い出が作りたい。周りと差をつけたい。そんなふうに思う学生は珍しくはないのだと、私だって知ってはいる。
「で、話って?」
むしろ私は、願っていたのだ。予想が外れることを。
私に見下ろされた男子は据わりが悪そうだったが、そう促すと意を決したように膝上の拳を握り、言い放った。
「好きです、付き合ってください」
……ああ、やっぱり。
分かりきっていた答え合わせが終われば、昼間の気分の良さが、砂になって全身から抜け落ちていくようだった。
人目を気にせず拾い集めたかった。必死に集めれば、まだ間に合うかもしれない。どうだろう。本当はもう、手遅れなのだろうか。
遠くから車のエンジン音がする。夜の底のような暗闇に置き去りにされた私は、自分を見つめる二つの瞳に答えを返さなくてはならない。
「今は誰とも、付き合う気ないから」
溜め息のような声で、私はそう返す。
これは私が中学生の頃から使いだした定型句だった。
異性から告白されるのは珍しいことではない。以前は頭に「ごめん」とつける努力をしていたけれど、思ってもいないことを口にするのは、ひどくエネルギーの要ることだった。
申し訳ないなんて一ミリも思わない。迷惑だと思う。心の底から、いやだと思う。そう正直に伝えれば、自分が悪者になるのだと知っている。
きっと今日も、私は悪者にされる。
彼はしばらく啞然としていたが、簡単に引き下がったりはしなかった。
「それは……他に、好きな人いるとか?」
「いないけど」
「じゃあ良くない? 最初はお試しで付き合うとかでもさ、ぜんぜんいいし」
こんなとき、何をどう言えば正解の判定が出るのだろう。
「ねぇ、もう話終わりでいい? 時間の無駄だから」
私は淡々と返して、自販機に視線を戻す。
いちいち赤の他人の、ショックを受けた顔だとか、屈辱や羞恥心で真っ赤になった顔だとかを見たくなかった。私が見たものは、もうひとりの私だって共有するのだ。
またドアが開く。保護者代わりのお友達二人が、私たちの間に流れる冷え込んだ空気に気づいて駆けつけたのだろう。
三人が小声で話す。私には断片的にしか聞き取れない。告白を断られた男子はわざとらしく足の踵を踏みならし、背を向けて去っていく。それを追いかけるまでしないのは、女子と男子の違いだろうか。
ひとりの男子が、言う。
「……なんか、愛川さんってさ」
私は猛烈なまでにいやな予感を覚えた。
右側に立つ男子の顔に見覚えがあった。下の名前が曖昧な彼は、私と同じ小中の出身だった。
私の中の私が、とっさに耳を塞ごうとする。聞かなくていい。さっさとこの場を立ち去ってしまえばいい。いつも私はそうして、自分を守ってきたはずだ。
でも同時に、聞かなくてはいけない、と思う。私はそのために、ここに来たのだ、と思う。
逃げないと決めたから、今、私はここにいる。
逃げだしたい私も、やっぱり、ここにいる。
相反する自分が右と左それぞれに、大慌てで動こうとする。私の身体は、血を噴きだしながら半分に引き裂かれていく。
二メートル先の唇の動きを、血まみれの私は黙って見つめていた。
……ドアが開く。
小銭だけを手にした佐藤が、ベンチにぼんやり座り込む私に気づくなり片手を上げた。
「おー、愛川さんだ。部屋にいないと思ったら」
私は答えなかった。佐藤は気にせず、自販機のラインナップを確認している。
「なんか買いに来たの? あたしはようやく班長会議が終わったとこ」
はー、疲れた。そう言いながら、佐藤は肩を回す。疲れたという言葉とは不釣り合いなほど、その横顔はさっぱりしている。
数分か数十分。止まっていた私の時間を、佐藤が動かす。
そのせいか、ただ隠す気力がなかったせいだろうか。私は取り繕わず、正直に言葉を返していた。
「私は、告白されてたとこ」
「おお。さすが愛川素直、モテモテですなぁ」
明るく笑いながら、佐藤が自販機に硬貨を投入する。
ちゃりん、ちゃりん、がこん。取り出し口が吐きだした小さな缶を摑んで、佐藤は少し距離を空けて隣に腰かけた。
彼女の手にあるのはコーンポタージュ缶だった。緑茶や抹茶ラテというラインナップの中、あえてのチョイスは京都への反骨精神が首をもたげた結果だろうか。
佐藤はプルタブを開ける前に、飲み口の下を指でぎゅっと押して凹ませている。訝しげに見ていると、私の視線に気がついて照れ笑いする。
「こうすると一粒残らずコーンが飲めるんだってテレビで言ってた。ふと思いだしてさ、どんなもんか試してみたくなっちゃって」
ふぅふぅと息を吹きかけながら、佐藤はちびちびとコーンポタージュを味わっている。
「これ、答えたくなかったらスルーでいいんだけど」
「……」
私は身構える。興味本位で、告白してきた相手は誰かと訊ねられるのは明白だった。
「もしかして、告白以外にもなんか言われた?」
予想は外れた。佐藤は、湯気の合間からそんなふうに訊いてきたのだ。
答える必要はなかった。でも私はその瞬間、逆上せたみたいに、首の後ろがかっと熱くなるのを感じた。
言いたい、と思った。聞いてほしいと思った。話したかった。打ち明けたかった。
熱は全身に広がっていく。止められないまま俯いた私は、膝の上で右手の甲に爪を立てた。
つんと鋭い痛みは現実感がなくて、声が震えないように念じながら、小さく口を開く。
お願いだから。
誰でもいいから、聞いて。
「愛川さんって優しさのかけらもないよねって。告白してきた男子の連れから、だけど」
「うへぇ」
佐藤は苦いものを間違えて飲み込んでしまったかのように、舌を出して顔を顰めてみせる。舌べろが、ほんのり黄色くなっている。
「なにそれダサすぎ。興味のない相手に、なんで優しくせにゃいかんのよ。ていうか告白にも友達に付き添ってもらうって、連れションかっつうの」
ここにいない彼らに向けて、佐藤が文句を募らせる。聞いていて小気味いいはずのそれに、私は同意できなかった。
爪はさらに強く食い込む。
ぶつけられた言葉には、まだ続きがあったのだ。
「昔はもっと、優しい子だと思ってたのに……って」
「ん? 昔って?」
三人の中に小中、一緒の奴いたから。そう正しく説明できたのかどうか分からなかった。
佐藤が何か言う前に、私の喉の奥からは、そうじゃない音の連なりが漏れていたから。
「私、どうして。こんな、いつも……だめなんだろ」
自分をだめだ、と声に出してしまうのは、きつい。
本当にその通りなんだって、思い知らされる感じがする。胸のまんなかに烙印を捺されて、二度とそこから逃れられないような気がする。
だから私はいつも、なるべく言葉にしない。内側に押し隠す。誰にも見えないように、ひた隠しにする。
そうしないと私は、まともに立っていられない。
「愛川さん、そんな気にすることないって」
佐藤が笑う。大袈裟すぎる、と私の吐いた不格好な言霊を笑う。
でも私は、違う、と首を強く横に振る。
「だって私、誰にも優しくできない!」
気がつけば、叫んでいた。
前のめりになって、身体を折り曲げて、肺がつぶれていて、苦しくて、頭が痛くて、目の奥が燃えるように熱くて、それで発する声は、聞いた誰かの鼓膜すら傷つけるようにざらついていた。
爪が柔らかい皮膚を裂く。歯の間から断続的な呼気が漏れる。
身体には大した傷も残らないのに、どうして私は、こんなに痛いのだろう。
「や、優しくしたい、のに。優しい人になりたい、のに。あの子みたいに。あの子みたいに!」

「あの子って……」
見苦しい。聞き苦しいと自覚しているのに、言葉が止まらない。ずっと閉じ込めていたものが、震えながら溢れ出てくる。周囲に向けて作っていた壁が、膜が、限界を迎えてぼろぼろと剝がれ落ちていく。
その中で膝を抱えた弱い私が、見えてしまう。誰にも見せたくない、ありのままの自分が。
「私、こんな、っいつも苦しくて……どうして……心にもないこととか、冷たいことばっかり言っちゃう。喉の奥から飛びだして、きて。止めようとしても、だめなの。ぜんぜん、だめで」
だめだ。私は本当に、だめだ。
だめだ、だめだ、いつも、だめなんだ。
私は自分がどんなにだめな人間か知っていて、でも、それを自分じゃどうにもできない。
……ああ。
誰と一緒にいても、ひとりぼっちだって気がついたのは、いつからだろう。
最初はきっと、外見がきっかけだった。
自分の容姿が人目を惹くということは、物心つく前から知っていた。すれ違う人に、かわいいと指さされることが多かった。知らない人に声をかけられたり、写真を撮られそうになることがたびたびあった。硝子の向こうで生活する動物のように、私は、許可なく撮影していい何かとして扱われていた。
でも、生まれつき茶色い髪の毛が嫌いではなかった。色素の薄い大きな目も、小さな鼻も、長い手足も。両親が私にくれたものを、恨むことなんてできなかった。私は、私を、ちゃんと大切にしてあげたかったのだ。
いやなときは、いやだと言うことにした。
だめなときは、だめだと怒ることにした。
そんな自分でいいのだと思っていたけれど、あるときから遠慮がちに指摘されたり、陰口を囁かれるようになった。
○○ちゃんって、最近なんか冷たいよね。怖いよね。棘のある言い方するよね。いろんな言葉を使って、私が優しくないということを、いろんな唇が事実として語る。私を、容赦なく包囲していく。
あの男子が言ったことも同じ。私には優しさどころか、優しさのかけらすら、ない。
人間らしい温かみがない。気遣いができない。他人への思いやりがない。欠如している。欠落している、欠陥品なのだ。
だからなんにも知らないくせに、私を好きだと平気でのたまう人間が、嫌いだ。
だって私は、こんな私のことが、ちっとも好きじゃない。
「本当は仕方ないって、分かってるの。私、……本物じゃない、から」
激情を通りすぎれば、あとは虚しいだけだった。
ぐったりと疲れているのに、頭の芯は茹だるような熱を発している。ずきずきとした頭痛を堪えて呻くように呟けば、聞きとがめた佐藤が口を挟んでくる。
「本物じゃないって、どういうこと?」
こめかみを片手で押さえた私は、胡乱げに見やる。
乱れた髪の間から覗く。ベンチに手をついて半身を乗りだした佐藤は、じぃっと食い入るように私を見つめていた。それが妙に真剣な顔だったので、私はうっすらと笑う。
こんなこと、話したってまともに理解できるわけがない。せいぜい頭のおかしなやつだと思われて、明日から距離を置かれるだけだ。
でも、どうでも良かった。今さら何がどうなったって、もう、構うものか。
投げやりな気分になりながら、私は口を開いた。
「……私、自分にそっくりな分身……レプリカが生みだせるの」
髪を撫でつけながら、暗い夜空を見上げる。京都の空には、月も星もほとんど見えない。暗色の布を引っ張りだして手当たり次第に貼りつけたような、そんな不躾な黒一色が空を閉じ込めているようだった。
「きっかけは大したことじゃなかった。年下の友達と喧嘩して、謝りに行けなくて、気づいたら自分と同じ顔の誰かが目の前にいた」
あの瞬間、心臓が高鳴ったのを覚えている。
だって他の誰も、自分の分身を作ることなんてできない。私ってもしかして、ちょっぴり特別? 物語に出てくる魔女の血が流れてたりする? そう思うと、胸がどきどき弾んだのだ。
「助けてって呼ぶと、どこからともなく現れるんだ。秘密の友達ができたみたいで楽しくて、両親に内緒で遊んで、よくお菓子を半分こにした。じゃんけんであいこを出した最高記録は、たった十二回だけどね。でも最初にパーを出す癖は一緒だったな。……それからも、ときどき入れ替わってクラスメイトを騙して、おもしろがったりして。そんなふうに毎日過ごしてた」
隣から反応はない。
突然始まった妄想話に、啞然としているのだろうか。構わず、私は話し続ける。
「私、昔はみんなからナオちゃんって呼ばれてた。家族とかりっちゃんとか、他の友達からも。だから私も、レプリカのことをナオって呼んでた」
「りっちゃんって、あれか。文芸部の一年生か。阿倍の右大臣か」
佐藤が独りごちる。どうやら話はちゃんと聞いていたようだ。
広中律子だから、りっちゃん。愛川素直だから、ナオちゃん。
小学生の頃は仲良し同士で名前を縮めたり、あだ名で呼び合うのが鉄板で、親愛の証だった。家族からは律子と呼ばれていた彼女を、りっちゃんと呼び始めたのは私だ。
りっちゃんは優しくて明るい子だ。勉強は苦手だけど、興味がある分野にはとことん前向きで、物知りな友達。
私の、大切だった友達。
「でもある日、気づいた。りっちゃんはいつからか、私のことを『素直ちゃん』って呼んでた」
呼ばれた直後は、気づかなかったのだ。
でもいったん通りすぎたあと、じわじわと時間をかけて波のように押し寄せてきたそれは、私に強い恐怖と焦燥感を与えた。そんなまさか、気のせいじゃないか、と往生際悪く抗っていたけれど、次の日も、その次の日も、何度か呼ばれたことで確信に至った。
「りっちゃんはなんていうか、感覚の鋭い子で……早い段階で、なんとなくレプリカの存在に気づいてたんだと思う。それで私を素直ちゃん、レプリカをナオちゃん、って呼び分けて、区別するようになった」
「それは……」
佐藤が、何かを言いかけて押し黙る。続く予定だった言葉を、私は表情筋をぴくりとも動かさず引き取った。
「ね、笑えるでしょ。りっちゃんにとって、私はニセモノになってたの」
今までのナオちゃんに近いほうを、今まで通りナオちゃんと呼ぶ。
今までのナオちゃんと違うほうを、新しく素直ちゃんと呼ぶ。
それが分かったとき、私は、消えてしまいたくなったのだ。
りっちゃんを責めるつもりなんてない。今でも、恨んでなんかいない。
でも私は、辛かった。ショックだった。ひとりでいるとき、ベッドに入ったとき、涙が出てしまうことが何度もあった。
なんで? 私は何か間違えた?
りっちゃんにとって、どうして私はニセモノになっちゃったの?
「レプリカには、何も言わなかったの?」
「言ったよ。ナオはあげられないって、私に返してって。でも、意味なかった」
訴えかける言葉の意味は、うまく伝わらなかった。私が持っているのと同じものを持って生まれてくるナオに、自分が何かを盗っているなんて自覚があるはずもなかったのだ。
それにレプリカは、私の感情までは共有しない。本人の口から聞いたところ、私の目を通した映画を、ぼんやりと観客として眺めているような感覚に近いようだ。
主人公が何を感じ、何を言おうとしたのか。一向に語られない以上、観客はそれぞれの視点を用いて曖昧に判断するしかない。
私の心が傷ついた数多くの出来事だって、それを知るはずのナオにとってまったく別の意味になっている。ナオはあげられない、と勇気を出して伝えたのも、ただの意地悪だと捉えられたのかもしれない。
塞ぎがちになった私は、喋るのが億劫になった。中学に上がると、明らかに授業にもついていけなくなっていた。小六から始まった生理にも苦しめられて、いろんなことが、うまくいかなくなった。
そんなときだった。ナオが勉強を手伝おうか、と申し出てきたのは。私はその申し出を断り、代わりにテスト受けてきて、と返した。
思った通り、次の日からナオは円滑に愛川素直の役目をこなしていった。心のどこかで期待していた問題や摩擦は何も生じず、彼女の口から語られる学校生活は夢物語のように順風満帆なものだった。
その年の夏、りっちゃんが親の仕事の都合で引っ越していった。私は寂しいのと同時に少しだけほっとした。それは私にとって、ひとつのきっかけとなったのだ。
私は自分を、ナオから遠ざけようと決意した。このままじゃ私は、私が分からなくなってしまう。ナオが愛川素直から離れることがない以上、私が意識して離れるしか道はなかった。
まず勉強が苦手で、運動もできないことにしよう。
プリッツじゃなくて、ポッキーが好きなことにしよう。
趣味嗜好だけでなく、学校での過ごし方も変えた。クラスでも目立つタイプの女の子たちとつるんで、一緒にトイレに行って、放課後を過ごすようにする。
集団の中のひとり、という記号であるのは気楽だった。その代わり過去の友人とは疎遠になったし、本音を言い合うような友人はひとりもできなかったが。
希薄な人間関係の中に身を置いて、変えよう。思いつく限りのことを変え続けよう。でもそんなことを繰り返していくうちに、自分が何を好きで、何が嫌いなのかを見失っていく。
私って……どんな人間だったっけ?
最後に鏡の中に映ったのは、愛川素直の抜け殻のような生き物だった。
「そっか。今まで勘違いしてた」
しばらくぶりに、佐藤が口を開く。
缶はとっくに冷えきっているだろうに、未だに両手で握り込んだままだ。それは、佐藤が私の話にこの上なく集中して耳を傾けていたことを意味している。
「あたし、気づいてたよ。確信したのは青陵祭の準備期間中あたりだけど」
私はその言葉に、別段驚かなかった。
「隠すの下手すぎるよなぁ、なんて思って、じっくり観察したりしてさ。でも違った。愛川さんは最初から、隠す気なんてなかったんだね」
「だって、別に隠してるつもりはないし」
りっちゃんに見抜かれた時点で、他の誰にばれようがどうでも良かった。ナオに絶対にばれるなと厳命したのは、彼女をぞんざいに扱うことで自分の心を慰めていたからだ。
私は、そんなことでしか。
「愛川さんは、レプリカを消そうとは思わなかったの?」
「思ったよ、それこそ数えきれないほど」
考えてみれば、ひどく簡単なことなのだ。私がナオを呼ばないという選択肢を選びさえすれば、二度とナオは現れない。なぜだか決定権は今も、ニセモノじみた私が握っている。
この夏休みは顕著だが、実際に何度か思い立って実行してみたこともある。
「でも無理だった。結局、何度だって呼んじゃうの。だって……あっちが、本物の愛川素直だから。あっちのほうが、なんだってうまくできるから」
どんなに堪えていても、気づけば虚空に向かって呼びかけてしまう。私はナオをおそれながら、ナオを求めずにいられない。
たった十六年の人生なのに、たくさん、辛いことがある。
グループの女子に、裏でビジュアル要員と呼ばれていたのを知った。女子会と称して連れていかれた合コンで、一時間で帰っていいよと笑顔で手を振られた理由に、そこでようやく思い当たった。
好きな人を奪われたと、覚えのないことで泣かれたことがあった。みんなはその子を口々に慰めた。愛川さん、そういうとこあるから仕方ないよ。私は、その子が好きな男が誰かも知らなかった。たぶん話したこともない相手だった。
そんな目に遭うたび、私は粉々に砕かれる。立ち直れなくなる。耐えられなくなる。ナオに助けてもらわないと、生きられなくなる。
自分で言うのもなんだが、ナオにとっての私は神様みたいなものなのだと思う。
いつもナオは、緊張に強張った顔で、揺れる瞳で、私をまっすぐに見つめる。私の一挙手一投足を、一言一句を聞き逃すことのないよう、ぴんと全身を張り詰めている。飼い主の言うことを聞く、躾のできた犬のように。
人と神様じゃ、分かり合えっこない。そんな現実に打ちひしがれながら、私はナオの抱く幻想を必死になぞり、無我夢中で守ろうとしている。
私は、よく目を閉じる。窓の外を見る。思ったことを極力、口にしない。
意味のあるものを見なければ、聞かなければ、私はナオと共有しないで済む。知られずに済む。私がとっくにニセモノに成り下がっていることに、神様なんかじゃないことに、気づかれないで済むのだから。
そこで私は小さく咳き込んだ。
たくさん喋ったせいかと思うが、そもそも部屋を抜けだしたのは喉が渇いたからだった。それがどうして、告白されたり、告白したりと、こんなことになったのか。
ばからしく思いながら、改めて自販機を見ようとしたときだった。隣から強い視線を感じて、反射的に目を向ける。
佐藤が私を見ていた。注がれる視線は怖いくらいに真剣で、鬼気迫るほどである。
居心地悪く感じた私は軽く身動いだ。
「佐藤?」
口の中で、佐藤が小さく呟く。言葉は聞き取れないが、何か考えをまとめたような様子だった。
それから彼女は、首を縦に動かした。
「そっか。分かったよ愛川さん。あたし、分かった気がする」
得心したような佐藤の声が、私の乾ききった胸に染み込んでくる。
佐藤は今、何か、私でさえ気がついていない何かに、気がついてくれたのかもしれない。性懲りもなく、私はそんなふうに感じる。
その内容を、私は今すぐにでも聞きたかった。それなのにもったいぶるように顎に手を当てた佐藤が、くるりと後ろを振り返る。
「ちなみにそっちも愛川さんと似たような状況、ってことでいいのかな?」
私は目を丸くした。
佐藤が見やる建物の陰。そこから長身の人影が、観念したように出てきたのだ。
「真田?」
「……ごめん。盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど」
頰をかく真田は、申し訳なさそうにちらちら私を見ている。その様子からして、かなり早い段階から聞き耳を立てていたらしい。
「ってか、よく気づいたな」
「剣道部舐めんなよ。殺気で気づくから」
「そんなの出してないから……」
「あ、分かった。真田くんも、愛川さんに告白タイムだったんでしょ」
怒濤の勢いでいじられ、真田は降参するように両手を上げている。
「違う。喉渇いたから、向こうのドアから出てきたんだよ」
真田が向こう、と言って顎をしゃくるほうは、もはや暗すぎてよく見えなかった。つまりお土産コーナー前のドアではなく、別の出入り口を使ったということなのだろう。
「愛川、なんか飲む? 奢るから」
真田の申し出に、佐藤が「はいはい!」と威勢良く挙手する。
「あたしはクーの白ぶどうでよろしく!」
「佐藤には奢るって言ってないけど。まぁいいか」
小銭を投入した真田が、同じボタンを連続で三回押す。
小さいサイズのペットボトルを、いの一番に手渡された。
「はい」
私、まだ何も言ってないんだけど。
「……ありがと」
釈然としないが、とりあえず受け取っておいた。一応、盗み聞きのお詫びらしいから。
真田はレバーを動かして小銭を回収している。丸まった背中を眺めながら、私はペットボトルの蓋を開けた。
思っていた以上に身体は熱を持っていたらしい。甘いのにすっきりとした冷たいジュースを、一度で半分近く飲んでしまう。
佐藤をまんなかにして、真田がベンチの右側に腰を下ろす。一服したところで、佐藤が口を開いた。
「で、愛川さんも真田くんも、レプリカ……自分にそっくりの分身が生みだせるんだよね?」
念を押すような問いかけに、私は頷いた。真田は躊躇いを見せながらも顎を引いてみせる。
真っ向からそんな指摘をされたのは初めてのことだった。もちろん真田も一緒だろう。
本人が自覚している以上に、みんな、自分のことに必死だ。自身の生活態度、学業成績、恋愛や友人関係に頓着しているだけ。いつだって自分の日常の延長線上に他人がいるだけなのだ。
でも佐藤は洞察力がある上に、特定のグループに属さず、俯瞰的に周囲の人間をよく見ている。だから私と真田に覚えた違和感を見逃さなかったのだろう。
それともうひとつ。常識的な人は、ちょっと不審に思ったくらいじゃ他人に何も言わない。
「そっか、分かった。それで二人とも、今から長話してもいい?」
私はポケットからスマホを出す。私の指に応じて、夜間用の暗い光が液晶画面に灯る。
午後九時二七分。就寝前の点呼がかかるまで、あと二十分以上ある。
ベンチに触れるお尻と背中が冷たい。ついでに足元も冷えてきた。
でも私は、佐藤の話を聞いてみたかった。
「いいよ」
真田も異論はないようで、黙って頷いている。
「ありがと」
佐藤は、ふぅーっと音を立てて息を吐く。
背もたれに預けた肩から、力が抜けていく。ジャージに包まれた足が、だらんと投げだされる。それは彼女が自分を落ち着かせるための、一種の儀式だったのかもしれない。
「お疲れ様会のときのこと、なんだけど。体育館でもりりん会長が消えちゃったのを見て……あたし、思いだしたの。あたしにも中学生の頃、もうひとりのあたしがいたなって」
私は怖々と問う。
「……それ……もしかして佐藤にも、レプリカがいるってこと?」
どこか諦めたような笑みを浮かべて、佐藤は首を横に振る。
「もういないよ」
その言葉の意味を、私は正確に捉えられない。
もういないとは、どういう意味だろう。ナオはいちど消しても、呼べば現れる。死んだってまた現れた。私と同じ服を着て、何事もなかったように。
「たとえばさ。仲のいい友達……Aちゃんが、クラスでいじめられてるとするじゃない」
佐藤は今、自分自身の過去を話している。それが分かったから、余計な口を挟まなかった。ただ、いっそ軽やかに弾む声音に耳を澄ませていた。
「あたしの中には、Aちゃんを助けたいあたしと、助けたくても助けられないあたしが同時に存在する。友達をかっこよく助けられたらそりゃあ素敵だけど、もしもそのせいであたしまでいじめられたり、孤立しちゃったら……なんて考えるのは、人間なら当たり前でしょ?」
学校という場所は、しばしば社会や国家に喩えられることがある。
限られた人間関係が構築される、特殊な空間。グループ以外の人間には排他的で、閉鎖的で、その中で起こっている出来事の多くは、外部に漏れることがない。
「あたしは、それが怖かった。でも、Aちゃんを助けたかった」
右手と左手の人さし指。見た目はほとんど同じ形をした二人の佐藤が、ぶつかり合いながら揺れ動く。
「そんなとき、もしも、Aちゃんを助けたいって体当たりの気持ちだけを、優先できたら。他のぜんぶをかなぐり捨てて、ただ友情のためだけに他のすべてを犠牲にできる……そんな強い自分がいてくれたなら」
血しぶきを上げながら両者はぶつかり続ける。右手はとうとう舞台から落ちていく。
そうしてその場に残ったのは、左手の人さし指。たったひとりの佐藤梢。
「そうして生まれたレプリカは、Aちゃんを庇って『いじめなんて良くないよ!』なんて……いじめっ子たちを諭すことができる、正義の佐藤梢になるわけだ」
正義。その響きの空虚さを皮肉るように、佐藤は唇を歪める。
「そうして役目を終えた正義の佐藤梢は、どこかに去っていきました。取り残された佐藤梢はいじめられはしませんでしたが、思った通り周りから爪弾きにされるようになり、まともに友達が作れず、中途半端にグループを渡り歩く佐藤梢になったのでした。ちゃんちゃん」
ハッピーエンドとはほど遠い苦い結末を、佐藤はあっさりと語り終える。
「……佐藤のレプリカは、どこに消えたの?」
私は思わず訊いていた。役目を果たしたことを誇るでもなく消えたもうひとりの佐藤は、今どうしているのか。
芝居がかった仕草で、佐藤がひょいと肩を竦める。あるいはただ寒かったのかもしれない。
「さぁね、あたしには分からない。ひとつだけ分かるのは……どんなに待っても、あたしのところには戻ってこなかったってこと」
戻ってこなかったレプリカ。
違う。そこじゃない。私は思考を引き締めるように頭を振り、唇を嚙む。
今の佐藤の話には、もっと重要なことがある。聞き逃してはいけないことがある。
「えー、っと。つまりレプリカは、理想の自分ってこと?」
言い淀みながら、真田が口を開く。
「どうだろ。それは、ちょっと違うんじゃないかな」
二人の会話を意識の片隅で聞きながら、私は、まだ、考えている。
「理想の自分よ、どこかから生まれてこーい! なんて唱えてそんなもの生みだせたら、ほとんど魔法使いじゃない? 現代に魔法使いが残ってるとしたら、それはそれでロマンだけどさ。ていうか雷とか撃ちたいし、炎とか水とか出したいけどさぁ」
「じゃあ佐藤は、レプリカについてどう考えてるんだ?」
「んー。理想に限りなく近い存在……みたいな?」
それはどう違うんだ、と真田が唸る。あはは、と佐藤が笑う。捉えどころのない笑みだった。
ベンチの片隅に放置していたコーン缶を、ずずっ、と今さらのように佐藤がすする。
望遠鏡のように傾けてそれを覗き込んだ佐藤は「よしっ」と満足げに言ってから、私にも中身を見せてきた。
出口のない空洞。そこに一粒も黄色いコーンは残っていなかった。それこそ魔法のように。
「助けてって呼んだら、どこからともなく来てくれるなんて、まるでヒーローみたいだよね。助けてアンパンマーン、ドラえもーん、みたいなさ」
冗談めかす佐藤は、でもふざけているわけじゃない。その目はどこまでも真剣だった。
「まだ時間あるね。せっかくだし、次は真田くんの話も聞かせてよ」
「俺の?」
「真田くんのっていうか、真田くんの話とレプリカの話、それと彼からもりりん会長の話とかも聞いてたりする? そのあたり、詳しく教えてもらえると助かるかな」
佐藤は何気なさを装っているが、その話題が、私に考えるヒントを与えるためなのは明らかだった。佐藤はおそらく、私が同じ答えに行き着くのを待っているのだ。
どくん、どくん、どくん。
私の左胸に収まっているだろう心臓は、ずっと騒ぎ続けている。
私と真田、それに佐藤のレプリカ。前会長のレプリカ。
どうして、レプリカは生まれたのか。
どうして、オリジナルとレプリカは違うのか。
姿形は同じなのに、中身が異なる理由。オリジナルにできないことを、レプリカが簡単にできてしまう、理由。
鈍く痛む頭をのろのろした速度でも回転させていれば、自ずと答えらしいものが見えてきた。
その結論に辿り着いたとき、私は足元ががらがらと音を立てて崩れ落ちていくような、そんな錯覚を起こしていた。
だとしたら、レプリカは。
レプリカは…………………………。
「……で、俺が知ってるのはこれくらいなんだけど」
訥々と話していた真田は、そんな言葉で締め括った。不安そうな真田に向かって、佐藤は何度も頷いてみせる。
「すごく興味深い話だったよ、ありがとね真田くん」
「それなら良かったけど」
「それとあたし、もうひとつ気になることがあってね」
すでに当事者ではないからか、彼女はそれこそ研究者のような顔をして切り込んでくる。
「できれば明日の班行動のときにでも、二人に試してもらえればと思うんだけど。理由はまたあとで話すからさ」
ぺらぺらと喋る佐藤に圧倒されている様子の真田と異なり、私はげんなりしていた。
もう勘弁してくれ、と言ってやりたい。これでは、私のちっぽけな目標が霞んでしまう。
でも、これは今までのツケなのかもしれない。レプリカを使ってきたツケ。レプリカと自分について、何も考えてこなかったツケ。
停滞していた時間を、佐藤がかき回す。私と真田は抗う術を持たない。私たちだって本当は、知りたいことだらけだったからだ。
だからこそ私は、きっと明日……今まで逃げてきたすべてと向き合わなければならない。
あの子と、向き合わなくてはならない。そんな予感だけを、胸に抱いていた。
「部屋だけは余ってるから、泊まっていって。隼くんも昨日から泊まってるのよ」
そんな多恵子さんの言葉に甘えて、私とアキくんは森家に泊まらせてもらうことになった。二泊三日の修学旅行は、期せずして続行となったのだ。
夕食では食卓のまんなかにホットプレートを出し、富士宮やきそば……ではなく、しぐれ焼きという料理をいただいた。
しぐれ焼きとは、一言でいうと、富士宮やきそばとお好み焼きを混ぜ合わせた料理だった。富士宮やきそばは地元では昔から食べられてきた郷土料理で、町おこしの一環としてそう命名されたらしい。静岡のB級グルメといえば、浜松餃子と並んで思い浮かべる人が多いだろう。
ふつうのやきそばとの違いは、専用の麵を使うことと、肉かすを入れること。だし粉を振りかけるところは、我らがしぞ~かおでんにも通ずるものがある。
もっちりとした、それでいて嚙み応えのある麵には濃いソースが利いていて、それをキャベツや肉かすと一緒に口に入れる。肉かすには旨みがたっぷりと詰まっていて、嚙めば嚙むほどじんわりと脂が染みだしてくる。
炭水化物と炭水化物による奇跡のコラボレーション。モダン焼きや広島焼きにも似ていて、いちばん違うのは名前である。
多恵子さんが作ってくれたふかし芋もおいしかった。畑で収穫された秋じゃがいもは、バターをたっぷり溶かして口に含むと、ほくほくと幸せの味がした。
私は遠慮も忘れて、おかわりまでしてしまった。牧場ではお昼のバイキングのあと、アイスやクレープまで食べていたのに、旅行中はどこからか無限の食欲が湧いてくるらしい。
五人での夕食のあと、私は先にお風呂を借りた。
順番に入浴を終えたところで、多恵子さんから声をかけられる。
「みんな、布団敷くの手伝ってくれる?」
「はーい」
テレビを観ていた私たちは居間から移動する。
寝室として貸してもらえたのは、居間の真横に当たる部屋だ。
襖で仕切られた二間続きの和室は、普段から客間として使うことが多いという。いいにおいのする畳の数を、心の中でひいふうみいと数えたところ、居間に近いほうが六畳、もうひとつが八畳なので、合わせて十四畳の広さだ。
雨戸を閉めた窓側では蚊やりが焚かれている。押し入れの上の段から私とアキくん、下の段から望月先輩が、きっちりと畳まれた布団や毛布を引っ張りだしていく。
「アキくん、そっち持って」
「おー」
「せーの、で出すからね。せーのっ」
両端を抱えるように持ち上げ、畳の上に広げているうちに、合宿みたいで楽しくなってくる。望月先輩は昨夜も敷いたからか、私たちより作業スピードが早かった。
少し遅れて私たちも、畳にひとつだけの布団を敷き終わり、寄り添い合うように二つの枕を配置することができた。これで作業は完了である。
……と思いたいのだが、何かがおかしい。
考えるまでもなく布団が足りていないのだ。私は勢いよく振り返って、押し入れを隅々まで確認する。
しかしそこに答えは隠されていなかった。寝ぼけたドラえもんもいない。
「押し入れ、空っぽだね」
「……そうだな」
もしかしてこれは、ひとつの布団で寝てね、ということなのだろうか。それとも布団が足りていません、と伝えに行っていいものなのだろうか……。
かちんこちんになって二人で直立していると、様子を見に来た多恵子さんが「あらあら」と頰に手を当てる。
「ごめんなさい、布団足りなかったのね。あっちの押し入れから持ってくるわ」
真っ赤になった私たちが、止めていた呼吸をなんとか復活させていると、一部始終を眺めていた望月先輩がにやにやしている。
「お前らさ、やっぱ付き合ってるよな。ばればれだぞ」
そんな小さな事件もありつつ、寝床の準備は整った。
六畳のほうに望月先輩が、八畳のほうに私とアキくんが布団を敷いた。まんなかで寝るのはアキくんである。
持参したチェックのパジャマ姿の私は、布団の上で正座をして二人を見やった。
アキくんは毎夜やっているという全身のストレッチをしている。右足を重点的にケアしているようだ。望月先輩は布団に仰向けに転がり、スマホをタップしていた。
いつ言いだそう、と私はそわそわする。髪は乾かした。歯磨きもした。もう準備は万端なのだが、声をかけるタイミングが摑めずにいる。
今か、それとも五秒後かと悩んでいると、望月先輩がさらりと言う。
「そろそろ寝るか」
「えええっ」
私は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
だってまだ、夜は始まったばかりなのに。狼狽える私に、望月先輩は眉宇を寄せている。
「なんだよ、大声出して」
こうなったら、もう躊躇っている場合じゃない。
私は天井に向かって腕をしっかりと伸ばして、願望を口にした。
「私、枕投げしたいです!」
だってこれは、私たちにとっての修学旅行。
修学旅行といえば枕投げだと、相場が決まっている。先生に怒られるまで枕を投げ合って、消灯のあとは、同じクラスの誰が気になるとか、誰が好きとか、そんな話をして盛り上がる。実は旅行中に誰々に告白するつもりだとか、内緒の話を披露したりもする。
小学校のキャンプ合宿や、中学校の修学旅行では、素直は我関せずさっさと寝ついてしまったようだ。
でも私は、やってみたい。青春のかたまりみたいなイベントに全力でチャレンジしてみたい。
風船みたいに息を弾ませる私を、望月先輩は気怠そうに見がてら、顎で枕を数えてみせる。
「枕投げも何も、枕、三つしかないんだが」
「座布団ならいくらでもあるよ」
そこにどこからか、鶴の一声。
寝転がる望月先輩のさらに向こう、居間に繫がる襖が開いたかと思えば、そこから大量の座布団が押しだされてきた。
座布団の山が喋ったことにびっくりしていると、ひょこっと上から豊さんが顔を出す。
「好きに暴れな」
にやりと笑った豊さんが襖を閉める。
家主さんからの、正式な許可である。私は口元を緩ませながら立ち上がった。
「許可ももらったことだし、さっそくやりまぶ!」
しかし、やりましょうと最後まで言うこともできなかった。
顔面に枕を喰らって、後頭部から布団に倒れる。手元の枕を投げつけてきたのは望月先輩だった。
問答無用の先制攻撃である。さすがに見かねてか、アキくんが苦言を呈している。
「望月先輩、今のは女子への攻撃じゃないでしょ」
「平気だろ、ただの枕だぞ」
先輩は半笑いで手首を回している。なんやかや、やる気になっていたらしい。
「枕つっても、小豆みたいなの入ってますよ。当たったらけっこう痛そうだけど」
二人が言い合うのを聞きながら、布団に沈んでいた私はむくっと身体を起こした。
「ほら、別に大丈夫だろ?」
ぺたんと足を開いて座り込んだまま、俯きがちに鼻のあたりに触れる。
「ん? 愛川、どうした?」
「……ごめんなさい。ティッシュありますか? 鼻血、出てきちゃったみたいで」
私が困ったような声で言うと、望月先輩は目に見えて狼狽えだした。慌てて手元のリュックを探ろうとしゃがみ込む。
「マジか。え、ちょ、ごめんすぐにティッシュ」
「隙あり!」
その瞬間、私は喰らったばかりの枕を拾い上げ、望月先輩に投げつけていた。
我ながら見事なクリーンヒット。全力の一撃は先輩の横顔に直撃する。
残念ながら昏倒させるには至らず、数秒遅れて枕がどさっと布団に落ちれば、頰を引きつらせたマジギレ直前の望月先輩と目が合う。
「お、まえ……やってくれたな」
「ついでにもう一発!」
アキくんが叩き込もうとした枕を、次はさすがの敏捷さで躱している。
「いいだろう、上等だ。全員ブッ倒す!」
勇ましく宣言した望月先輩が、山の頂点にある座布団をむんずと摑み上げる。
「おらあああ!」
その場でぐるぐると回転しながら放たれた一撃。ブーメランと化した座布団をアキくんはお腹で受け止めてすかさず投げ返すが、先輩の枕ガードで防御されてしまう。
「やりますね」
「三年を舐めるなよ。今まで何回枕投げてきたと思ってんだッ」
二人の激しい攻防が続く。それを尻目に私も座布団の山にそろそろと接近していた。
両手に座布団を装備し、死角から望月先輩に襲いかかる。
「こっちも忘れてもらっちゃ困りますっ」
「二刀流だと? くそっ」
しかし、私の手に座布団は大きすぎた。投げつけた座布団は望月先輩にもアキくんにも届かず、力なく畳の上に落ちる。丸腰になった背中に、誰かの放った枕を喰らう。
大乱闘だった。宙を飛び交う座布団、枕、アンド座布団、オア枕。しゃがんだ拍子に手に触れた何かをとりあえず投げ、飛んでくる何かを無我夢中で避ける。その繰り返しである。
ときにはいろんな組み合わせの二対一となったが、形だけの共闘など長くは成立しない。枕投げにおいて、信じられるのは自分だけなのだ。
こんな感じで、最終的に……枕投げ大会の勝敗はつかなかった。
畳の上には、枕と座布団が散乱していた。きれいに敷いたはずの布団も皺だらけになって、力尽きた三人はあちこちに転がって荒い息を吐いていた。
「すごい……身体、熱いっ」
畳に転がった私は、ぱたぱた、と両手を団扇にして顔をあおぐ。そんな頼りない風ではどうにもならないくらい、全身が火照っていた。
髪を結んでいるのに首の後ろが熱を持っていて、心臓だってうるさいくらいに騒いでいて、心地よいを思いきり通り越した疲労感に包まれている。
明日は、きっと筋肉痛になるだろう。そうなったら、嬉しい。
「枕投げって、こんなに楽しいんだ」
「満足した?」
アキくんからの問いかけに、心からの笑みを返す。
「うん。すっごく満足。最高だった」
「そりゃ良かったな。じゃ、片づけるぞ」
やれやれと言いたげな表情で、座布団を片づけていく望月先輩。いちばん燃えていたくせに、と私は唇を尖らせながら、あちこちに散らばる座布団を回収した。
本当はまだまだ遊び足りなかったけれど、時計の針は午後十時近い。
多恵子さんたちの寝室はここから離れているようだ。しかし平屋なのだし、遅くまで騒いでは迷惑だろうと、オレンジ色の小さな光だけを残して消灯することにした。
布団に横になり、形ばかりのおやすみなさいを言う。
……でも、まだぜんぜん眠くない。
枕投げの興奮冷めやらぬ身体はぽかぽかと活性化して、アドレナリンはどばどば出ていて、どこもかしこも臨戦態勢なのだ。
「望月先輩、ぜんぜん寝られそうにないです」
「……」
「先輩?」
私はいったん、口を動かすのをやめた。
耳を澄ますでもなく、ぐごご、といびきの音が聞こえてくる。望月先輩はけっこう激しく、いびきをかくタイプらしい。悪いと思いつつ、くすりと笑ってしまう。
「アキくんも、寝ちゃった?」
空気をわずかに揺らすだけの小さな声で呼べば、もぞもぞ、と布団のかたまりが動く。間もなく、こっちを見る二つの目と視線が合った。
それだけで嬉しくて高鳴ってしまう心臓を、たぶんアキくんは知らない。
「起きてる」
寝られないのは、彼も同じらしい。
消灯のあとに内緒話をするだなんて、いけないことをしているみたいだ。ルール違反の私は、ひそひそと声を潜めて問いかけた。
「ね。ね。そっち、行ってもいい?」
指先でちょいちょい、アキくんの布団を指し示してみる。

「だめ」
でも、共犯のはずのアキくんは頷いてくれなかった。迷う素振りさえない。
「手を出すつもりはないけど、俺も男だから。さすがにいろいろ……堪える自信なくなる」
ちらりと後ろを見るようにしたのは、望月先輩を気にしてのことだろう。
視線を戻したアキくんが、私を強い目で見据える。
「俺、ちゃんとナオのこと、大切にしたいから」
だからだめだ、とはっきりと断られる。
そんなアキくんを見つめて、私は本音を口にした。
「私は手、出してほしい」
潜めたはずの声が妙に大きく響いたように感じたのは、私の気のせいだったのかもしれない。
アキくんは呆然としていた。次の瞬間、裏切りに遭ったように頰を歪ませる。
「それ、本気で言ってる?」
「うん」
私は躊躇せずに肯定した。
「アキくんとね。手を繫いでたら、私も眠れるかなと思ったの」
それにはアキくんの協力が必要不可欠だ。
だから、ちゃんと手を出してくれないと困る。逆に言うと、手だけは貸してくれないと困る。他は大丈夫。
そんな願いを込めて見つめると、薄闇の中でも分かるくらいアキくんの頰が赤くなっていた。
「アキくん?」
なんだか様子がおかしい。熱でもあるのだろうか。
アキくんは手で顔を覆って「あー」とか「うわー」とか唸ったあと、指の間からぎろりと私を睨んできた。まったく迫力はなかった。
「絶対だめ」
「えっ、なんで?」
気がつけばアキくんは、頑固なアキくんに進化していた。
「だめったらだめ」
「ケチ!」
「何を言われようとだめ」
取りつく島もない。何がきっかけなのか、機嫌を損ねてしまったようだ。
とうとうアキくんは寝返りを打ち、向こうを向いてしまった。ちぇっ、と私は唇を尖らせる。
しかしこんな問答で諦めるつもりはない。かけ布団を胸元にごそごそ引き寄せながら、すん、と私は寂しげに鼻を鳴らしてみせた。
暗がりの中。アキくんの肩が、ぴくり、と動いたのが分かる。どこを向いていたって、機嫌の悪い振りをしていたって、私の一挙一動を気にしてくれている。
泣きだしそうな感じの声を作って、呼びかけてみる。
「ねぇ、本当にだめ?」
「…………」
返ってくるのは沈黙。だけど確実に響いている。もう一押し、の気配がする。
「アキくん」
これでもだめだったら、布団に潜り込んじゃおう。
そう思っていると、致し方なさそうに伸ばされてきたものがあった。
アキくんの左手だ。彼の骨張った手が、白く浮き上がるように見えている。喜色満面の私はごろりと寝返りを打って接近すると、その手をぎゅうと摑んだ。
勝手気ままに操る。私の頭をよしよしと撫でてもらって、頰に触ってもらったあとは、私も思いきって頰擦りをお返しする。
私が子猫だったら、喉だってごろごろ鳴っていたかもしれない。
指と手だけのアキくんも、私は好き。
「俺の手で遊ぶの、ヤメテクダサイ」
ようやくこっちを見てくれた棒読みのアキくんは、さらに顔を赤くしている。
どうやら、やりすぎてしまったようだ。反省した私は当初の目的を思いだして、やおらアキくんの左手と自分のそれを絡める形で握ろうとした。
「ここぞとばかりにイチャつくよな、お前ら」
口から心臓が出そうになった。
片側だけ閉じた襖から聞こえてきたのは、望月先輩の声である。
ぱっと手を離して、大慌てで布団に隠れる。今さら遅いと思い当たったところで、頭だけ出した。
「せ、先輩。もう寝たんじゃ」
「寝たふりだよ」
さすが演劇部だなんて感心している余裕は、私にはなかった。
二人きりだと錯覚したから、優しい彼氏に甘えて、困らせて、好き放題やっていたのだ。一部始終を先輩に目撃されていたとなると、根底からすべてが覆る。
「枕で頭叩けば記憶、奪えるかも」
羞恥心のあまり頰を火照らせながら、私はぼそりと呟いた。
「物騒なこと言ってないで、続きは?」
ほれほれ、と笑みを含んだ意地悪を言う先輩に、本気で枕を投げつけたい。
「しません。もう寝ます!」
「なら、恋バナでもするか。それも修学旅行の醍醐味だもんな」
そこで、私は返答に窮した。
枕投げの次は言わずもがな、恋バナをするものだ。そう相場が決まっているけれど、その話をしましょうと声高に言う気は起きなかった。
「僕に気ぃ遣ってんなら、余計なお世話だ。そこまでヤワじゃない」
私は横向きのまま、アキくん越しに先輩の姿を見た。
頭の後ろで手を組んだ望月先輩。開かれた目は、どこを見ているのだろう。ぼんやりとした光を灯す天井か。あるいは……。
「そんなわけ、ないですよね」
こんなこと、言うべきじゃないかもしれない。でも私は、気づかない振りをするのが下手だ。
「大好きな人がいなくなっちゃって……平気なわけ、ないです」
「お前に悟られるくらいじゃ、僕もまだまだだな」
望月先輩は苦笑する。薄闇が、その吐息に揺れる。
それは牧場では聞けずじまいだった、話の続きでもあった。
「寝ても覚めても……いや、最近はほとんど寝てないけど、ずっと森のこと考えてる。考えずにいられないんだ」
感情を押し殺したような静かな声は、夜の囁きに似ている。
「疑問だらけだから知りたかった、いろいろなことを。でもお通夜のとき、森のおばさんは話せるような状態じゃなくて……そのとき、おじさんから手紙をもらった。森が僕宛てに書いた手紙だって。寝たきりになる前の日に書いたものだと思う、って」
私は思いだす。ピンク色の封筒を握った望月先輩を、校内で見かけたことがあったのだ。
読む勇気がなかなか出なかった手紙を、先輩は持ち歩いていた。何度も悩んでから、ひとりきりの生徒会室で腹を据えて読んだそうだ。
すずみ先輩からの手紙には、包み隠さずすべてが書いてあった。幼い頃、ドッペルゲンガーを生んだこと。彼女は富士宮で祖父母と共に暮らしていること。絵が上手なこと。いつか紹介したいこと。
望月先輩は口にしなかったが、手紙の本題はそこではなかったはずだ。すずみ先輩がリョウ先輩に宛てたもう一通の手紙には、告白への返事をしたためたことが記されていた。
それには触れず、望月先輩は話を続ける。
「虫の知らせっていうやつだったのかもな。手紙の最後に富士宮の住所が書かれてたんだ。それを見て、すぐに行こうって決めた。今思い返すと、現実逃避したいだけだったかもしれないけど。学校も行きたくなかったし」
すずみ先輩の父親にだけ富士宮に向かう旨を打ち明けたところ、彼が両親に連絡を取ってくれた。
多恵子さんたちは、親族以外でお通夜に唯一呼ばれていた望月先輩やその家族のことを覚えていたという。話はスムーズに進み、彼は昨夜からこの家でお世話になっている。
今日牧場に来ていたのは、多恵子さんが観光しないかと提案してくれたからだそうだ。多恵子さんたちは外せない用事があったので、送り迎えだけを担当していた。
「ここに来て、だいたいのことは分かったつもりだ。僕と一緒に花火大会に行った森は森で、夏休み以降は森の振りをしたドッペルゲンガー……リョウだった。今思えば、もろもろ引っ掛かってはいたんだけど、僕も平常心じゃなかったというか。まぁ、今さら言い訳か」
苦々しそうな顔をする先輩の輪郭が、ぼやけていく。
「ごめんなさい、望月先輩」
こんなの、単なる自己満足かもしれない。自分が楽になりたいだけかもしれない。それでも私は謝らずにいられなかった。
「なんにも話さないで、ごめんなさい」
もしも私が、望月先輩に早い段階で伝えられていたら。
彼は自宅で療養するすずみ先輩に、会えていたのではないか。言葉は交わせずとも、冷えきる前の彼女の頰にそっと触れることだって、できたのではないか。
私が何も言わなかったのは、リョウ先輩の気持ちを優先したからだ。すずみ先輩のために必死に役目を果たそうとする彼女は、私自身を映す鏡のようでもあったから。
でもそれは、望月先輩の想いを蔑ろにしていい理由にはならない。
「謝るなよ。こっちは恨み言を吐くつもりなんてないんだから」
何も言えずにいると、望月先輩が小さく笑う。
「ていうか、やっぱりお前らはぜんぶ知ってたのか」
「……はい」
「僕、覚えてるよ、愛川の『新訳竹取物語』でのアドリブ」
望月先輩は諳んじてみせる。
このままじゃ、誰からも忘れられちゃうって分かってるくせに。誰の記憶にも残らないって知ってるくせに。物わかりがいい振りしないで。
舞台の上にあることも忘れて叫んだのと同じ言葉を、彼はよく通る声でなぞってみせる。
「あれな。けっこう、僕の胸にもずしんと来たよ。他の観客もそうだったと思う。演技の技量とか、そういうことじゃないんだ。切実な思いってのは胸のまんなかに届くものだから。……あとになって、愛川もリョウと同じなのかもって、そう気づいた。合ってるか?」
あのアドリブは、私だからこそ言えたこと。似た境遇にある私じゃなければ届かなかった言葉だと、自惚れではなく私は知っていた。
「……はい」
誤魔化さずに頷く。私は簡単に、ドッペルゲンガー……レプリカの仕組みについても、説明することにした。
望月先輩は興味深そうに話を聞いている。一通りの説明が終わったところで、アキくんが横たわったまま挙手した。
「ちなみに、どうして俺もレプリカだって気づいたんですか」
「そりゃ、仲良く修学旅行サボってるし。アキ、ナオ、って呼び合ってるし」
「じゃあ実際は、あんまり確信なかったんすね」
「お前マジ……細けぇことうるせぇな、アキ……」
アキくんを睨みつけた望月先輩は、しばらく沈黙してからぽつりと言う。
「ずっと謝りたかったよ。お前に」
「え?」
「五月頃、森が生徒会室に早瀬を呼びだしたことがある。後輩に暴力を振るったのは本当か、問い質すためだ」
私は息を吞む。
五月ということはリョウ先輩ではなく、すずみ先輩のほうだ。彼女は生徒会長として大きな責任感を持っている人だった。噂を耳にして、放っておけなかったのだろう。
「早瀬は他にも黒い噂がある奴だから、警戒して顧問の先生にも立ち会ってもらった。でも、あいつは何も認めなかった。むしろ覚えのないことで噂を流されてこっちも迷惑している、生徒会ならなんとかしろとまで言い張った」
「言うでしょうね、あの人なら」
アキくんが平然と返す。彼はきっと今、頭の中で真田くんの記憶に触れている。
「他の生徒に訊いてみても、だめだった。バスケ部の連中も、早瀬の報復が怖くてだんまりだ。……結局あいつはなんでか、急に学校来なくなったけど、僕らが何もできなかったのは変わらない」
起き上がろうとする望月先輩を、アキくんが制する。
「俺に謝られても、困ります。傷ついたのは秋也だから」
「……そうか。悪い」
「あと秋也本人に会っても、まだ何も言わないでください。早瀬先輩の名前を聞いたら、また学校に行けなくなるかもしれない。……先輩なら、分かってるでしょうけど」
「ああ。肝に銘ずる」
望月先輩が、硬い表情で頷く。
ずっと謝りたかった、と彼は言った。青陵祭の準備中など、今まで謝る機会は何度もあったはずだ。それでも何も言わずにいたのは、アキくんの様子を逐一確認して、この話題を口にしても大丈夫かどうか見計らっていたからだろう。
「なぁ。九月に、早瀬とバスケ対決したのはアキか?」
次に望月先輩は、あのときのことを口にする。
あの日の体育館には学年を問わず、多くの生徒が集まっていた。私はほとんど周囲に目を向ける余裕がなかったが、その中にはきっと望月先輩やリョウ先輩の姿もあったのだ。
望月先輩は申し訳なさや、やるせなさを感じながら、それでも目を離せなかったに違いない。私とは異なる思いを抱いて、試合の行方を見守っていたはずだ。
「そうです」
合点がいったように、望月先輩が大きく頷いた。
「そうだよな。あれはお前だからこそ、できたことだよな」
私は、ぱちりと目を瞬かせる。
「改めて思ったよ。僕はレプリカを生むことはないだろうって」
でも胸に泡のように浮かんだ問いかけは、その言葉によって搔き消されていた。
「どうして、そう言えるんですか?」
そんなに自信満々に言える根拠が、気になってしまう。
学校に行きたくないと言った望月先輩にも、レプリカが生まれるかもしれない。そんな危惧を、少なからず私は感じていたのに。
「僕が、僕だからだよ」
望月先輩はなんの衒いもなく、きっぱりと答えた。
そこでようやく、私は気づいた。望月先輩が布団に転がって見つめているのは、最初から天井ではなかった。
気詰まりのするそれを突き抜けて、その先にどこまでも広がる夜空を、彼は見上げていたのだ。まるで、役者が立つ舞台を心に描くように。
だから強がりではない笑みを浮かべて、言ってのける。
「僕は逃げない。森のことが好きな自分も、リョウと演劇やった自分だって、他の誰かと共有なんて絶対にしたくない。だって……今までの思い出も、辛いのも苦しいのも、逃げたくなるくらいキツいのもさ」
横になったまま、自身の胸板を、どんと望月先輩が叩く。その力強い音は、離れた私の心臓すら一緒に揺さぶったようだった。
「これは僕だけのものだ。他の誰かに、たとえ僕の分身が相手だろうと、譲ってたまるか」
私は、ゆっくりと息を吐く。
「……すごいですね、望月先輩は」
そして、強い。強くあろうとしているから、かっこいい人だ。
私もまた、目には見えない夜空を見上げる。どんなに分厚い雲が覆い隠していたとしても、空に月は浮かぶし、星は瞬いて歌ってみせる。
きっとこの先、望月先輩は役者として、体育館や市民文化会館より、もっと大きなステージに立つ。まぶしいほどの光に照らされて、所狭しと舞台を駆け回り、心動かされた人々の万雷の拍手を浴びるのだ。
それは、決して遠い未来ではない。そんな気がしてならなかった。
「まぁ、すごかないけどよ。ってわけで二月の如月公演にも参加することにした」
にやりと笑ってみせた先輩が、こちらを向いて一本指を立てる。
「役者は僕ひとり。一人芝居に挑戦してみたくてな。いつもの奴らも誘うつもりだけど、お前らも裏方手伝ってくれたら助かる。練習はちょっと顔見せるだけでもいいからさ。本番観に来るとかだけでも、歓迎する」
手伝いたい、という気持ちはある。でも安請け合いできない事情があった。
「私たち、もう学校行けるか分からないんです」
しばらくきょとんとしてから、望月先輩がぐしゃりと髪の毛をかいた。
「そっか。僕んちが大豪邸とかだったら、お前ら二人くらい養えるのに。……って、すまん。犬猫みたいな言い方は良くないな、無神経だった」
「大丈夫です。望月先輩が無神経なのは知ってますから」
「どういう意味だそれは」
睨まれるが、そのままの意味である。無神経含めての望月隼先輩なのだ。
そこで望月先輩がふわぁ、と大きな欠伸を漏らす。つられたのかアキくんも、口元に手を当てて欠伸を嚙み殺している。
「そういえばさ。レプリカっていうのは、お前らやリョウ以外にもいるのか?」
「さぁ」
アキくんが首を捻る。あまり期待していなかったようで、そっか、と望月先輩は軽い調子で続ける。
「ドッペルゲンガーの目撃情報って、世界的にけっこうあるじゃん。芥川龍之介とか、『帰ってきた人魚姫』とかさ。ああいうのもやっぱり、レプリカのことを言ってるのか気になって」
『帰ってきた人魚姫』は、現代のドッペルゲンガー伝説とされる実話である。
一九八五年、ドイツ北部で起きた水難事故。アロイジア・ヤーンという名の女性が意識不明の重体に陥り、病院に運ばれたのだが、彼女と瓜二つの女性が浜辺を歩いているのをアロイジアの恋人や友人が目撃した。
「そういえば夏休みに、テレビでアロイジアの特番やってたよな」
「え? そうなんですか?」
初耳だった。
私は今年の夏休みを、一日も経験していない。素直はUFO目撃情報については気になるようだが、『帰ってきた人魚姫』には興味がないので、特番に気づいたとしてチャンネルはそのままにしない。
「そこでアロイジアの姉が初めて取材に答えてた。アロイジア本人も存命らしい、そっちは出てこなかったけど」
「へぇ……」
「そこで姉が語った話が、印象に残ってるんだ。アロイジアは事故が起きる数日前から、死にたがっていた……って話なんだが」
「死にたがっていた?」
そう、と目元を擦りながら望月先輩が頷く。もうだいぶ眠そうだ。
「当時、アロイジアには恋人がいた。でもその男は他に好きな人ができて、アロイジアに別れ話を切りだしていたんだと。それが、アロイジアが死にたくなった理由だって……姉は考えていたらしい。病院で目を覚ましたあとは、さすがに事故の影響もあってか、もう死ぬ気なんて起こさなかったそうだが」
「……つまり、事故じゃなく自殺未遂だったと?」
アキくんが低い声で問いかける。
同じことを考えていた私は、戸惑いながらその先を考えていた。もしも海で溺れる直前のアロイジアが、追い詰められた末にレプリカを生んだとしたら……。
「アロイジアは、レプリカに……自分の背中を押してって頼んだの?」
お願い。私を海に突き落として。私を、助けて。
そんなことを、アロイジアは生んだばかりのレプリカに命じたのか。
全身から血の気が引いていく。私はごくりと唾を吞み、想像した。
いや、想像なんてできない。できるはずがない。私はいちど、あの海で死のうとしたのだ。闇よりもずっと暗い色を湛える海に、消えようとしたのだ。素直をあそこに突き落とすなんて、考えられないことだった。
でも、リョウ先輩が言っていた。私たちはオリジナルができないことを、当たり前のようにやれるのだと。そんなふうに歪んでいるのだと。
だったらアロイジアのレプリカも? それはさすがに、常軌を逸しているのではないか。突き落とせと言われたから大人しく従うだなんて、どう考えてもあり得ない。
あれ、と首を傾げる。
だとしたら、どうして私たちは、
「望月先輩」
「…………」
「望月先輩?」
浮かんだ考えの断片を確認したくて呼んでみても、返ってくるのは寝息だけだった。
先ほどの、わざとらしいほど大きないびきとは性質が違う。望月先輩に訪れた数日ぶりの睡眠だった。
起こしてしまったらかわいそうだと、私はそれきり口を噤む。
天井を見上げる。深閑とした闇だけが、天井付近を満たしていた。
外から虫の鳴く声が聞こえることもなく、かけ布団から出た頰や手の甲を撫でる空気が、突き刺すように冷たかった。
冷気の中にあって、私の意識は冴え冴えとしていた。
硬い枕の感触に身体がびっくりしていたのか、初めて会った人たちの家で横になっているからか。もしくは別の、胸をざわつかせる焦燥のせいかもしれなかった。
思索に沈む私の足を引っ張るように、誰かが、考えるなと叫んでいる。
それ以上、考えなくていい。鈍感であっていい。
そう告げるのは、素直の声なのか、それとも。
「……ナオ」
おもむろに、アキくんが私に向かって手を伸ばす。それを私はすぐに摑んだ。
握ってみれば、すぐに分かる。お互いの手が小刻みに震えていた。温度を分け合っても、震えは一向に治まらなかった。
すべてを寒さのせいにできたなら、どんなに良かっただろう。
私はアキくんの手を額のあたりまで引き寄せて、祈るように目を閉じる。
枕に押しつけたこめかみからは、どくどくと速すぎる鼓動が聞こえる。そんなところまで心臓が移動してしまったなら、空っぽになった胸には何を入れておけばいいだろう。
縋りつくように手を握る。暗闇にはアキくんだけがいる。ふたりぼっちの私たちが、いる。
「おやすみ」
向こうの布団から聞こえた声が、耳の中をたゆたう。
その優しげな残響に、消えないでと呼びかけながら、私は知らず嚙み締めていた唇を解く。
大切に、大切に、輪郭をなぞるようにして、同じ言葉を口にした。
「おやすみ、アキくん」
……ああ。
私はきっとこの瞬間を、いつまでも忘れない。いつまでも慈しみ、愛おしみ、大切に胸に抱いて、永遠にしていられる。たとえおばあちゃんになっても、なれなくても。
安心したようにアキくんが目を閉じるのを見守ってから、同じように薄闇に別れを告げた。
だけど知っている。目を閉じている間だって、終わりの足音は近づいている。どんなに身体を小さく丸めても、いずれ訪れる凍った季節から、逃れる術はない。