風情のある三年坂の石畳を、私たちは歩いていた。
伏見稲荷大社の次は、清水寺の見学である。吉井は他の友人と地主神社を参拝するらしく、途中でいったん別れていた。
恋占いの石を試そうと誘われたが、私は首を横に振った。恋愛にはあまり興味がないし、それに石に関わる占いは、先の伏見稲荷大社で試したばかりだったのだ。
千本鳥居を抜けた先に奥社奉拝所がある。その右奥にあるのが、おもかる石である。
二本の石灯籠。その前で願い事を祈念し、灯籠の頭である石を持ち上げる。予想よりも石が軽ければ願い事が叶い、重ければさらなる努力が必要になる。
それならば現在の私には、明確な目標がある。そのことを一心に考えながら挑戦してみたわけだが、硬く冷たい石はとんでもない重量だった。
あんなに重い石を、軽いと感じるはずがない。それともあそこまで重く感じたのは、私ひとりだけなのだろうか。その証左のように、他の三人はそれぞれ苦労しながらも石を持ち上げてみせていた。もう石はこりごりだ、と私は心から思った。
有名な清水の舞台は、紅葉の見頃時期というのが影響してか、やはり参拝客でひしめき合っていた。
人混みを見に来たような気分に陥って辟易したが、テレビやドラマで見る場所を目にすればさすがに気分が高揚する。佐藤も興奮したのか、写真を何枚も撮っていた。
本堂を通ったあとは、土産物を見るために行きと異なる三年坂を下っていく。ここが最もお店が多いと佐藤から聞いていた通り、かわいい小物やちりめん細工、陶磁器、よく分からない雑然とした商品が並ぶお店など、いろんな商店が軒を連ねていて見飽きることがない。
「あ、いたいた!」
生八ツ橋を見比べていると、人いきれを搔いくぐり、大きく手を振りながら吉井が近づいてきた。その顔を見る限り、恋占いの結果はいいものだったのかもしれない。
そう思ったが、吉井が口にしたのはまったく別の話題だった。
「三人とも、見て見てこれ。そこの店で買っちった!」
へへへと上機嫌そうに笑いながら、駆けつけた吉井が後ろ手に隠していたものを見せてくる。
木刀だった。
どの角度から見ても木刀だった。
「吉井……」
班の全員がなんともいえない顔で、吉井を見つめる。
どうして修学旅行中の男子というのは、とりあえず木刀を手に取ってしまうのだろうか。貴重なお小遣いを、今後おそらく使う機会の滅多にない木刀に捧げてしまうのだろうか。
「え、なになに? これどういう空気?」
見回す吉井に、佐藤が言う。
「……まぁ、あたしも小学校の修学旅行で買ったけど」
彼女も同類だったらしい。
「マジか! やるな、剣道部!」
見よう見まねで木刀を腰に差した吉井が、それを素早く引き抜く。
「うおおおお、喰らえ委員長! 壱の秘剣・焰霊!」
これに対し、佐藤はリュックに挿していた日傘をジャキンッと音を立てて抜く。どうやら剣に見立てているらしい。
「ふっ。素人相手に振る剣はない! 龍槌閃・惨!」
「噓つけ殺す気じゃねぇか!」
何かのアニメの真似事なのか、小芝居する二人についていけずにいると、真田が話しかけてきた。
「愛川は? なんか買う?」
「荷物になるし、まだいいかなって。明後日まとめて買う」
「そっか。俺も目星だけつけとくかな」
両親へのお土産は必須として、離れたところに住む祖父母には今度でいいかと思うけれど、修学旅行で使う用のお小遣いを母経由でもらっている。機嫌を取るためにも、何か買っていったほうが良さそうだ。
真田は、色とりどりの箸置きをためつすがめつ眺めている。
「変なこと、言うんだけどさ」
「なに?」
別の商品棚を見ながら、私は軽く聞き返す。
「俺、もう、終わったものだと思ってたんだ」
「終わったって、なにが?」
「俺の人生」
私は、すべての音が自分から遠ざかっていったような気がした。
おそるおそる視線を向けると、真田はこちらを見ていなかった。
「今になって考えると、早……瀬先輩に復讐して、それで自分がどうするつもりだったのかも分からなくて。ばかだよな」
真田が苦笑する。わざとらしく揺れる肩が、痛々しい。
胸の中が、空洞みたいになっちゃったんだ。ナオからの又聞きだが、アキはそんなふうに真田のことを評していたらしい。
真田は今も空っぽのままなんだ。私はふと、そう感じる。
「アキが早瀬先輩と対決して勝った、って聞いたときも、遠い世界の出来事みたいだった。嬉しくもなんともなくて、俺には関係のない話だって感じた。学校に行く気も、起きないままだった」
吉井のものらしい大きな笑い声が、真田の独白の語尾を搔き消す。店の外と、内側に佇む私たちは、遠く断絶されているみたいだった。
「俺はこのまま、折りたたまれた紙みたいにさ。部屋の隅っこで小さく、小さくなっていって……最後は誰にも気づかれずに消えていくのかなって、そう思ってたんだ」
私は耐えられず、問うていた。
「学校来たこと、後悔してる?」
「してないよ」
振り返った真田が、白い歯を見せて少年のように笑う。
「噓じゃない。来て良かったよ。学校にも、修学旅行にも」
目が合って、ようやく気がつく。真田は旅行前に髪を切ったらしい。少しだけ短くなった前髪の下で微笑む表情には、暗い陰が感じられなかった。
私に気を遣って無理をしているのか、本心からの言葉なのか。判別がつかないまま、私は口を開いた。
「あるよ。きっと、楽しいこと」
無責任なことを言い張る胸にわずかな痛みを感じながら、続ける。
「もっと、たくさん……あるんだと思うよ」
真田は、勘づいてしまっただろうか。この囁きが真田ではなく、彼よりずっと空っぽの私自身に向けられたものであると。
ゆっくりと頷いた真田からは、幻のように笑みの形が消えていた。
「そうだよな、俺たちには」
そこで真田は口を閉ざす。彼が続けようとした言葉を、私は察していた。
「……てか京都のお土産物って、何が有名なんだろ」
私は話題を変えようと、そんなことを改まって言ってみる。
唐突すぎたのか真田は一瞬きょとんとしたが、すぐに調子を合わせてくれた。
「うーん。置物とか、扇子とか?」
しかしインテリアや普段使いの品は、個人の趣味に合わなければ悲惨である。消え物のほうがいいかと思うのは、私が面倒くさがりのせいかもしれないが。
りっちゃんだったら、なんでもおもしろがりそうだし、喜んでくれそうだけど。ひとつ年下の友人の笑顔が浮かび、私の口元が緩む。
小学生の頃のりっちゃんは、やたらと勾玉を集めて部屋にも飾っていたが、今も収集癖があるのだろうか。きれいな勾玉を見つけてお土産に渡したら、喜んでくれるかもしれない。
「お菓子だったら、やっぱり生八ツ橋? あと抹茶使ってるやつとか……」
真田はまだ真剣に考えているようだった。
「そういえば京都の有名な料理とかも、俺よく分からないかも」
「あー」
確かに、と頷く。
「でも湯豆腐とか湯葉は、けっこう有名なんじゃないの」
「そうだな。あと、おばんざいとか」
「おばんざいってなに?」
「なんかこう、いろんな種類のおかずが楽しめる感じの」
「バイキングってこと?」
えっ、と真田が狼狽える。
「バイキング、なのか? あれは……」
軽い質問のつもりだったのに、また真田はひとりで悩み始めてしまった。
会話を聞きとがめたのか、単に果たし合いに敗北して暇になったのか、店の外にいた吉井が近づいてくる。
「富士山しかない静岡県民の分際で京都アンチするな。府民に扇子で刺されるぞ」
何かを頰張る彼の片手には、包み紙が握られている。
「なにそれ。コロッケ?」
「旅行中の学生の胃袋、無限大だから!」
意味は分からないが、言いたいことは分からないでもない。
「うー、やばい。吉井のせいで太りそう」
戻ってきた佐藤もコロッケをかじっている。どうやら吉井に感化されたらしい。
食欲をそそる揚げ物の香りが鼻先に漂う。お昼前にひどい誘惑だ。でも今コロッケを食べたら、私はこのあとバスで食べる予定のお弁当が入らなくなってしまう。長い付き合いだから、自分の胃袋の容量は把握している。
「ああもう、帰ったらダイエットがんばらないと。来月、球技大会だもんね」
そういえばそんな行事もあった気がする、と私は思いだす。
記憶はぼんやりしている。その理由は明瞭だ。昨年の私は、球技大会に参加していない。
でも、愛川素直は参加したことになっている。種目はバレーボールだったはずだ。それなりに活躍したようで、他クラスの友達が話題にしていた。
「今年はなんの競技なの?」
私が話題を掘り下げたのが意外だったらしい。佐藤は目を見開きながらも、説明してくれる。
「男子はサッカーとバスケ、女子はソフトとドッジだよ」
私は頭の中で吟味する。ソフトはぜったい無理だ。となると消去法で、選択肢はドッジボールしかない。
「真田はやっぱバスケ?」
そんなことを考えていたとき、吉井の声が聞こえてはっとした。
吟味なんてしている場合じゃなかった。男子の競技がバスケだと聞いた時点で、いの一番に真田のことを気にするべきだったのだ。
はらはらする私に構わず、腕を組んだ真田は首を傾げている。
「どうするかな。まだ具体的に考えてないけど」
真田だって球技大会の競技について、詳しく知らなかったはずだ。急に言われても、考えをまとめるには至らなかったようだった。
「そっか。まぁ、おれもまだ決めてないしな」
吉井も深掘りする気はなかったようで、球技大会の話題が流れる。私は人知れずほっとした。
コロッケを食べ終えた吉井は、くしゃくしゃに丸めた包み紙をくずかごに捨てる。てらてらと油で光る唇を笑みの形にして、何を言いだすかと思えば、である。
「愛川さん、とついでに委員長。明日さぁ、着物レンタルしない?」
「しない」
「ふつうにいや。寒いし。てかついでってなんだ。それとあんたが見たいのはメイド服でしょ」
佐藤からの怒濤のツッコミだったが、吉井は狼狽えない。
「メイド服と着物の良さはまた別だぞ。じゃあいいやー、おれと真田で着ますから」
「え? 俺?」
巻き添えを食らい、真田が戸惑っている。吉井はお構いなしに真田と肩を組んだ。
「いいじゃん、一生に一度の素敵な思い出になるって。せっかくだし着物だけじゃなくて髪もいじってほしいよな。この髪をな、この髪をな、カツラにしようと思うたのじゃ! つって」
「なんだっけ、それ」
「『羅生門』に出てくる老婆の台詞!」
ああ、それだと思いだす。授業で学んだ記憶があった。
「正しくはこの髪を抜いてな、だけどね。カツラじゃなくて鬘だし」
「あのな、あのな、細かいことは気にするなと思うたのじゃ」
佐藤から訂正されても、吉井は気に留めていない。
それからふと思いついたように、きょろきょろと辺りを見回すような仕草をする。
「そういえば羅生門ってこのへんにあるの? あれ京都が舞台じゃなかった? 見に行けそうだったら生で見てみたいかも」
「今は残ってないわよ。今でいう、京都市の千本通あたりにあったらしくて、羅生門跡っていうのがあるだけ」
「千本通? 京都の人、どんだけ千本好きなん?」
「あの、吉井。そろそろ離してくれ……」
無理やり肩を組まれたままの真田が訴えている。
そんな男子二人を、私は半目で見てしまった。
「なんかこの班、すっごくしょうもない」
「だね。なんてったって」佐藤が言葉を切って、顔を近づけてくる。「逆ポッキーだからね」
「……ふっ」
今ここで蒸し返されるとは予想していなくて、私はしゃっくりするみたいに笑ってしまった。
してやったり、と佐藤がほくそ笑むのに吉井が絡み、真田は楽しそうに眉尻を下げている。
私はそんな班の面々をさりげなく見回す。
他の三人がどう思っているのかは、分からないけれど……この四人でいるのは、居心地がよかった。
お前らもドッペルゲンガーなの?
そう問うてきた望月先輩は、私たちが何か言葉を返す前に続けて言った。
「で、今日中に静岡戻るのか?」
富士宮ももちろん県内だけれど、この場合は静岡市のことを指す。もっと狭い意味では、静岡駅近辺のみを静岡、と呼ぶ人が多い。
どこかしらに宿泊予定ではあるが、まだ宿が決まっていないことを伝えると、望月先輩は呆れた顔をしつつ「それなら、午後四時に駐車場前で集合な」と言い残して去っていった。
「集合……って、どういう意味かな?」
「さぁ」
説明不足すぎるが、おそらくは問いかけの件について時間を設けて話したい、ということだろう。無視すると後が怖いので、私たちは望月先輩の言葉を気に留めておくことにした。
狐につままれたような気持ちになりながら、私とアキくんは農場レストランでバイキングを楽しみ、放牧された大量の羊と戯れて、牛の乳搾りを体験して、りっちゃんへのお土産にチーズケーキを買ったりした。
実は場内を回っていたとき、うさぎやモルモットにごはんをあげる望月先輩を見かけていた。バター作りのときも感じた通り、先輩は先輩で牧場を満喫しているようだ。
それは何よりだが、背中から話しかけるなオーラを感じたので、そのたびにさりげなく一定の距離を取っていた。君子、危うきに近寄らずというやつだ。
しかし先輩が乗馬体験にチャレンジする姿を、アキくんは木陰からこっそり動画撮影していた。危うきに近寄っていくアキくんである。
そうして時計は回り、午後四時。駐車場に向かってみると、牧場の看板付近に待ち構えるようにして望月先輩が立っていた。
私はごくりと唾を吞み込む。伝えるべきことは決まっていた。牧場を巡りながら、アキくんとも話したことだった。
事ここに至って、隠し立てする意味はない。
「望月先輩、あの」
「待て、愛川」
しかし話しかけようとした私を、望月先輩が片手で制する。
ここで話の続きをするつもりではなかったのか。訝しく思っていると、颯爽と駐車場に入ってきたのは白の自動車だった。
助手席のフロントガラスが開き、そこから花柄のカーディガンをまとったおばあさんが顔を見せる。
「お待たせ、隼ちゃん」
「ううん、ぜんぜん待ってねえよ」
きれいに染めた白髪に、つぶらな目。おっとりとした顔立ち。微笑みかけられると、こちらもつられて表情筋が緩んでしまうような、そんな朗らかな安心感がある女性だった。
先ほどの望月先輩の話を踏まえると、もしかしてこの人が、リョウ先輩の育ての親なのだろうか。
望月先輩を笑顔で見てから、彼女は後ろに立つ私たちを同じ表情で見つめた。
「その子たちは?」
「こいつら、僕とリョウの後輩。ほら、昨日話した演劇の」
「あ! 翁と媼? それとも阿倍の右大臣さま?」
「阿倍の右大臣はいないけど。こいつらまだ宿が決まってないらしくてさ」
「あれま。じゃ、うちに泊まりにいらっしゃいな」
私はそこで我に返る。
トントン拍子で話は進んで、気がつけば今晩の宿が決まっている。ありがたい提案ではあったが、急に押しかけては迷惑以外の何物でもないだろう。
それに、リョウ先輩の両親とどう接すればいいのか。戸惑った私は、控えめに断ろうとする。
「あの、でも」
「いいのよ、遠慮しないで。狭いけどみんな後ろに乗っちゃって」
困って隣を見ると、物怖じしないアキくんはとっくに覚悟を決めたようで、社会人のように丁寧にお辞儀していた。
「ご厚意に甘えて、お邪魔します」
頭を上げたアキくんは、私にだけ聞こえる声で囁く。
「行ってみよう、ナオ」
アキくんがそう言うなら、無理に断る理由は私に残っていなかった。
望月先輩に続いて後部座席に乗り込むと、運転席には仏頂面のおじいさんの姿があった。
ネイビーのポロシャツに、首には白いタオルを巻いている。バックミラー越しに会釈をしたが、鋭い眼差しはちらりと私を一瞥したきりだった。
ほとんど物を置いていない車の中で、簡単な自己紹介をする。といってもおじいさん……豊さんの名前を教えてくれたのは隣の多恵子さんだったので、一度も豊さんの声は聞けなかったが。
和やかな雰囲気の多恵子さんと、対照的に厳つい顔つきの豊さん。顔や手がよく日焼けした夫婦は、六十代前半くらいだと思われた。
嗅ぎ慣れない香りのする車の中は、ちょっと不安になる。落ち着かずお尻の位置を何度も直す私に、アキくんは気がついたのか、リュックに隠れるようにして手を握ってくれた。
望月先輩は、『新訳竹取物語』について二人に話していたようだった。それ以上に打ち解けた雰囲気があり、車内ではほとんど望月先輩と多恵子さんが話していた。私は握った手の温度を感じながら、ときどき相槌を打つに留め、ガラス越しに外の景色を眺めていた。
ミルクランドなる別の牧場や、夕日に包まれる草原に放牧された牛たち。遠くには赤く染まった山並みと、見渡す限りの田畑。富士宮も、まだまだ知らない場所だらけだ。
十五分ほど走り続けたところで、細い脇道に入っていった。
平屋の一戸建ての横に、二台用のガレージがある。空いた左側に車は止められた。木造のガレージには軽トラと、なんて呼ぶのか分からない機械や用具が壁に立てかけられていた。
お礼を言い、アキくんから順に車を降りていく。ガレージを出ると、正面には畑が広がっていた。
その景色を、確かめるように私は見つめる。
「ここは……」

夕日に照らされる畑はきれいに土寄せされていて、ふさふさとした緑の葉が踊るように風に揺れている。しかしそれはどう見ても、リョウ先輩の絵に描かれていた野菜ではない……。
「とうもろこしは、七月に獲ったからね。あれは秋植えのじゃがいもと大根」
立ち止まっていると、後ろから豊さんが教えてくれる。
「趣味でやってる、一反の畑だもん。リョウの絵は、ちょっと盛ってるね」
振り返った私に、豊さんがにっこりと笑う。
その笑みを目にした瞬間、私の胸を実感が満たしていった。
間違いない。この二人が絵に描かれていた、リョウ先輩の育ての親だ。強引で、ちょっぴり気難しくて、誰よりも優しすぎた先輩を育てたのは、多恵子さんと豊さんなのだ。
近くに川が流れているのか、さやさやとした水音が絶え間なく聞こえてくる。私はその音に耳を傾けながら、平らな土を足裏で嚙み締めるように踏みしめた。
出迎えたのは、森と掲げられた表札である。
古き良き日本家屋、というのだろうか。素直のお母さんの実家によく似た佇まいだからか、私はどこか懐かしい気持ちになっていた。
引き戸を開け、土間を上がった多恵子さんが明かりをつける。玄関の日焼けした壁には、リョウ先輩が美術の授業で描いた水彩画が画鋲で留められていた。
私の視線に気がついた多恵子さんが教えてくれる。
「お通夜のとき、学校の先生が届けてくれてね。息子夫婦を介して受け取ったのよ」
「……そうだったんですね」
その一枚だけではない。廊下にも、所狭しとリョウ先輩の絵が貼られていた。
豊かな自然を描いたものが多く、冬の日の富士山、幻想的な滝、そこらの道ばたを切り取ったような何気ない絵が、色鉛筆や水彩絵具を使って色鮮やかに描かれている。
草を食む牛や昼寝する羊は、牧場に画用紙やキャンバスを持ち込んで描いたものかもしれない。今よりも拙いタッチの絵すべてに、幼い頃のリョウ先輩が息づいている。
そのうちの何枚かに、糊で貼りつけた小さな紙が吊るされている。学校名や名前だけではなく、鈍く光る金色や銀色のシールと共に、なんらかの賞を受賞した旨が記されていた。無造作に額にも入れられていない、それらの絵は、この家の一部となって溶け込んでいた。
あちこちで、リョウ先輩が微笑んでいた。
生活感と呼ぶよりずっと濃厚に、息を吸うのも辛くなるほどに、リョウ先輩だらけだった。
玄関がもういちど開いたなら、今すぐ彼女が帰ってきそうな気配が家の中に満ちていた。あるいは廊下の角を曲がれば、音を立てて襖が開いて、ひょっこりと魅力的な笑顔が覗くような気がした。ひとつだけ不思議なのは廊下を歩く私たちがみんな、二度とリョウ先輩に会えないのを知っているということだった。
「油絵は、ないんですね」
ぽつっと、アキくんが呟く。そういえばとしか私は思わなかったけれど、多恵子さんは聞き漏らさなかった。
「リョウちゃんに言ってみたことがあるわ。必要な道具があれば買ってあげるから、描いてみたらどうって」
「リョウ先輩は、なんて?」
「いつ今の生活が終わるか分からないから……時間のかかる油絵はね、やらないんですって」
私もアキくんも、言葉を失う。多恵子さんは、一度も振り返らなかった。
淡い色彩が宿る壁の横を通って、多恵子さんが先導する。
ぎし、ぎし、と廊下が軋んだ音を立てる。修学旅行の三日目は、確か二条城を見学する予定だったはずだ。私は素直の足裏で鳴るだろう、うぐいす張りの廊下を思った。
通された居間は食卓と繫がっている。どちらも物が多く雑然としているが、温かな生活感が漂う洋間だった。
居間の中央、硝子製のテーブルにはリモコン立てが置かれている。座椅子が二つ並ぶ絨毯には、野原を陽気に駆ける野兎が描かれていた。
テレビの真上には日めくりタイプのカレンダーが飾られている。そして窓側の壁に寄せて、小さな仏壇があった。何気なく視線をやっただけなら、かわいらしい木箱でしかないそれを、私の目ははっきりと仏壇として捉えていた。
小さな花瓶に、赤とピンクのかわいらしいコスモスが生けられている。香炉に入れられた灰には、燃えた線香のはしっこが覗いていた。
仏壇に写真立てはない。私は、それに少しだけほっとした。今リョウ先輩の顔を見たら、初対面の人の家なのも忘れて、涙が我慢できなくなってしまうと思ったのだ。
「良かったら、手を合わせてくれる?」
多恵子さんに柔らかく促され、私はゆっくりと頷いた。望月先輩と豊さんは他の部屋に行ったのか、姿がなかった。
私は座布団に正座する。マッチを擦り、火立ての蠟燭に火をつける。
りん棒でおりんをそっと叩き、透き通った音の余韻が止んでも、しばらく手を合わせたままでいた。
交代したアキくんも同じように、骨壺のない仏壇に祈っている。甘さを含む白檀の香りを振りまきながら、線香の煙は緩やかに天井まで上っていく。そこから先には、一向に進めないまま。
「本当は、畑の傍に作ってあげたかったんだけどね……」
多恵子さんが口を噤む。
納骨をしていなければ、庭にお墓を作ることは禁じられていない。しかし、おそらくは近所の目を気にして、そういうわけにいかなかったのだろう。その無念さがひしひしと感じられた。
「こんなおばあちゃんが、何言ってるんだって思うかもしれないけど……わたしたちね。リョウちゃんを、実の娘みたいに思ってたの」
仏壇の近くに佇む多恵子さんの声が、煙を揺らすこともなく静かに響く。
「うちは男の子ひとりだったから、本当に女の子がかわいくて仕方なくてね。でもリョウちゃんはこの家に来たときから、ぜんぜん我が儘を言わない子で……いつもわたしたちの前じゃ、申し訳なさそうにしてたの。小さな女の子が、肩身狭そうにしてね。正直見てられなかった。わたしも、すずみちゃんと同じ顔の子に、どうしてあげていいか分からなくて」
沈痛そうに眉を寄せる多恵子さんの顔に、ほのかな笑みが浮かぶ。
「そんなとき豊さんがね、リョウちゃんのちいちゃな手に種を握らせたの。ミニトマトの種。苗からじゃないと育てるの大変なんだけど、リョウちゃんは一生懸命育て始めた。最初はプランターで、生長してきたところで畑に植え替えて。今日はどれくらい水をあげたらいいの、肥料はどれくらいがいいの、台風の日はどうしたらいいの、食べ頃はいつ、って。よく話したり、笑うようになったのよ。リョウちゃんって名前をあげたのも、その頃だったわねぇ……頰を真っ赤にして喜んでくれてね、わたしの名前だ、わたしだけの名前だ、って」
そうして少しずつ家族になっていったのだと、多恵子さんが目を細める。
私はその言葉を、相槌も打てず無言で聞いていた。
「リョウちゃん、絵を描くの上手でしょう。自治体に相談して小学校に通えるようになってからも、いっつも素敵な絵を描いて、よく先生に褒められてた。でもある日、暗くなっても帰ってこないことがあって、近所の人にも手伝ってもらって、みんなで捜し回って……そしたら、少し先の田んぼのところにいるのが見つかったの。田んぼに蛍が飛んでたからスケッチしてた、すごくきれいでね、なんて嬉しそうに言うから、あんまりかわいくて、わたしも豊さんもね。怒るに、怒れなくて……」
笑い皺をなぞるように、涙が伝っていく。多恵子さんはポケットから取りだしたハンカチをすぐ頰に当てたけれど、吸い込みきれなかった涙は、幾筋も彼女の頰を流れていった。二人の孫娘を亡くしてしまった多恵子さんの悲しさが、苦しみが、流れていった。
「リョウちゃんごめんね。湿っぽいのは、いやよねぇ。リョウちゃんも、すずみちゃんだって、悲しくなっちゃうねぇ」
リョウ先輩だったら、なんて言うのだろう。
多恵子さんを泣かせている私を怒るかもしれない。ちょっとナオちゃん、わたしのお母さんを泣かせないでよ、と呆れた目を向けてくるのかもしれない。
どうか、そんな目で私を見てほしかった。
「会いたいねぇ、リョウちゃん。すずみちゃん。もういちどでいいから、会いたいねぇ」
切なる呼び声を耳にしたとたん、私もまた、声を上げずに泣いていた。
多恵子さんがそんな私を抱き寄せて、頭をぽんぽんと軽く撫でてくれる。
彼女と豊さんがまとう香り。車の中や家の中でも感じた、土と日なたの香り。温かな、香り。
同じものを、きっとリョウ先輩も宿していた。彼女はこの香りに抱かれて呼吸していたのだ。森すずみを演じる彼女からは、とっくに違う香りがしていたけれど。
リョウ先輩。そう心の中で呼びかけても返事はない。声に託しても同じことだ。彼女はあの日、体育館で消えてしまった。
それでも、どこにもいないわけじゃなかった。誰からも忘れ去られたわけじゃなかった。
リョウ先輩。ようやく、お家に帰ってこられたんですね。
私は眠る彼女に向かって、そっと呼びかけた。