修学旅行一日目。
重要文化財にも指定されている、伏見稲荷大社の楼門前。一組の担任と生徒は全員整列し、集合写真を撮っていた。
「みんな、いちたすいちはー?」
七月の遠足でも見かけた陽気そうな男性が、一眼レフを取りつけた三脚越しに言う。古すぎー、と生徒に笑われるのにも慣れた様子で、連続でシャッターを切っている。彼が撮影した写真の多くは、卒業アルバムに収められるのだろう。
最高気温は十四度。最低気温は四度。昼間でもひんやりとした冷気が、首筋を撫でていく。
写真チェックの合間の数秒、私は立派な楼門を見上げて小さな息を吐いた。
むしろ京都では、立派でない神社仏閣のほうが珍しいのだろうと思うけど、お稲荷さんの総本宮・伏見稲荷大社はその中でも特に大きく立派な神社だ。清水寺や金閣寺に並ぶメジャーどころである。
参拝者数では圧倒的一位に輝いているという情報通りに、参道には人がごった返していた。見たところ、参拝客の六割近くは外国人であるようだ。かろうじて英語だと分かる響き以外にも、聞いたことのない言語が頭上を飛び交っていた。理解が追いつかないタイプの方言も交ざっていると、それこそすべてが異国のもののように聞こえてくる。
交通事情や管理の都合によるものか、一日目の見学コースは三つに分けられていた。
二年一組と二組のバスは、伏見稲荷大社、清水寺、金閣寺、銀閣寺、三十三間堂という順番で巡っていく。三組と四組、五組もそれぞれ別のコースを巡り、見学先の神社は一部しか被らないようになっている。
旅行中は分刻みのスケジュールが定められている。バスを降りて、三十分から五十分ほど見学したら、バスに引き返して次の場所へと連れていかれる。その繰り返しだというのが、修学旅行委員が作成したしおりを一通り読めば、自ずと分かるようになっている。
修学旅行なんて、どこもこんなものなのだろう。何もかもが事前に決められているのは、何かを決めるのを面倒に思う人間にとっては気楽だ。
写真撮影が終わり、三々五々歩く生徒には、華やいだ空気があった。まだ京都に着き、見学が始まって間もないからだ。
これが銀閣寺あたりになれば、隠しきれない疲労の色が見え始める。バスの中で寝てしまう生徒だっているだろう。かく言う私も、その一員になる自信があった。ただでさえ早起きで疲れているし、歩くのだって好きじゃない。
旅行の本番は明日からだ、という意識が強いのは、明日は班別の行動、明後日は完全自由行動が許されているからだ。
私たちの班のテーマはというと、特に難航せず『百人一首』に決まった。このテーマなら嵐山にさえ行っておけばどうにかなる、と佐藤が言い張ったのだ。
実のところ好きなアニメの聖地巡礼を目論んでいるらしく、「嵯峨嵐山は絶対に外せないし、一日目は清水寺にも行けるから最高!」とはしゃいでいた。吉井もまた、嵐山はコナン映画の聖地だからとあっさり説得されていた。
私と真田は、あまり主張の強い意見を言わなかった。真田は周囲に遠慮しているようだったが、私は単にそういうこだわりが薄いので、好きな人に任せておけばいいと思ったのだ。
歴史や古い町並みを、それなりに素敵だとは感じても、強い興味があるわけではない。しおりに書かれた修学旅行のテーマには、古都の歴史や文化に直接触れ、日本人としての教養を育ててうんぬんかんぬん……という文言が記載されていたが、私なんかより周りを歩く外国人のほうが、よっぽど日本人の雅で繊細な心というやつを解していることだろう。
一日目はクラスさえ同じであれば、好きな相手と回っていいことになっているが、私たちはなんとなく同じ班の四人で固まっていた。
幅のある石砂利の道を、横一列に広がって歩く。重要文化財に指定されている本殿を眺めながら、右隣を歩く佐藤がこれ見よがしに溜め息を吐いた。
「一クラスにひとりはいるよね、集合写真撮るとき寝っ転がってピースする奴」
「委員長、もしかして羨ましかったん? 次は一緒にやろうぜ」
「だが断る!」
言うまでもなく、寝転がったのは目立ちたがり屋の吉井である。そういうおちゃらけた行動が、教師にもクラスメイトにも笑って許されるというのは、彼ならではの特権だろう。
真田はといえば、楼門や本殿など、各所に設置されたQRコードを見つけるたびこまめに読み込んでいる。覗き込んだところ、観光音声ガイドが聞けるらしい。
「今聞いてみないの?」
「バスで聞こうと思って。感想文書くのに役立ちそうだから」
「うげ! いやなこと思いださせんなよ」
舌を出す吉井に、真田はスマホを仕舞いながら気安く言い返す。
「いいのか、そんな態度で。あとで泣きついてきても知らないからな」
「真田せんぱぁい、冷たいこと言わないで助けてくださぁい」
吉井が後ろに回り込み、真田の肩を揉む。班で調べ物を進めるうちに、この二人の距離感も自然なものになっていた。
ふざけたことを話して歩いているうちに、前方に目にも鮮やかな朱色の鳥居が見えてきた。ひとつではない。いくつもいくつも奥に連なる幻想的な鳥居だ。
その鳥居に被さるようにして、真っ赤に色づいた紅葉が揺れている。参道でもちょくちょく見かけていたけれど、鳥居の間から差し込む日の光に照らされた紅色は、まばゆいほどに艶やかだった。
「うわ、すげー」
吉井が惚けたように大口を開けている。まったく同じ顔をしているのに気がついて、私は慌てて唇を引き結んだ。
「記念撮影しましょ、記念撮影!」
意気込んでスマホを構える佐藤に応えるように、あちらこちらからシャッター音がする。記念撮影だらけの中、私たちは稲荷大神と書かれた扁額と枝ぶりのいい紅葉が一緒に写るように、しゃがみ込んでポーズを取った。
佐藤が構えるスマホの中から、中途半端に顔を寄せる四人が見返してくる。男子二人が仲良しだからって、他の関係性までオセロみたいに同じ色に染まるわけではない。
少なくとも私はそうだ。白でも黒でもないから、みんなを戸惑わせている。
喧噪に対抗するように、吉井が声を張る。
「顎下ハートしようぜ」
「なんだそれ」
「もうっ、ピースでいいでしょピースで。後ろ詰まってるんだから」
結局どっち、と思いながら、とりあえずハートを作っておく。
なんとか撮れた一枚の写真は、右上の吉井と左下の私が顎ハートで、しかも吉井は変顔で、左上の真田と右下の佐藤はピースをしていた。真田は証明写真と勘違いしたような無表情だし、ちぐはぐで、ひどい写真だった。
ついでに横や後ろに知らない人がいっぱい写っていた。隅っこでは金髪の小学生くらいの男の子が、満面の笑みでピースしている。誰だよ、と吉井がげらげら笑う。こいつは大しておもしろくなくても、大口を開けて愉快そうに笑う。
後ろがさらに混んできているので、私たちは会話もそこそこに歩きだした。私に見えるのは佐藤の背中、その前を歩く知らないカップルの背中くらい。
この先に何が待っているのか、私は知らない。
「千本鳥居って、なんか神秘的でいいよね」
佐藤の丸い後頭部で、日差しがたわむように揺れている。話しかけられたのか独り言なのか、判別がつかなかったので返事はせずに、私は小さく頷いた。
いくつもいくつも。道の先に続く鳥居は、本当に千本もあるのだろうか。どこまでも続いているのだろうか。ネットで検索して、終わりがあるというのは事前に知っていても、知らないまま引き返したいような気持ちに駆られてしまう。
「あー、分かるわ」
少し遅れて、後ろの吉井がしたり顔で頷く。
「なんつうか、ポッキー的な」
「……ん? ポッキー?」
歩みを止めないまま、佐藤が振り返る。急に出てきた単語の意味がよく分からないようだ。
「いやー、ずっと見てると鳥居がさ、逆ポッキーに見えてくるなと思って。チョコ少なくて持ち手長すぎるポッキーに似てね?」
鳥居の合間を縫うようにして、冷たい風が吹く。
「……すごいセンスだな」
「千本鳥居捕まえてポッキー呼ばわりとか、吉井マジ吉井」
逆に感心したように、まじまじと吉井を見つめる真田と佐藤。そんな二人の反応を受けて、吉井はわざとらしく目を潤ませた。
「何よ二人してっ、おれのことばかにしてぇ」
「ばかにしてるっていうか、ばかだと思ってるけど」
「あーそれルール違反! もう悪口の領域入ってますからー!」
激しく言い合いながらも、全員足は止めない。
会話を聞き流しながら鳥居を眺めていて、私ははっとした。鳥居がだんだん、地面に生えた巨大なポッキーの群れに見えてきてしまったのだ。
しかもただのポッキーじゃない。逆ポッキー。持ち手が長すぎて、チョコがほとんどかかっていない、すごく損した気持ちになる逆ポッキー……。
「ふっ」
漏れてしまった吐息。
私はとっさに、それを軽い咳払いで誤魔化そうとする。
「……あれ? 愛川さん、今笑った?」
吉井は目敏い。というか、耳聡い。思わず噴きだしてしまったのを、しっかりと聞き取ったようだ。
正面に回って顔を覗き込んでこようとする吉井から、私は顔を背ける。ここで認めたら旅行中しつこくからかわれそうで、想像するだけでむかついてきたのだ。
「笑ってない」
「いやいやいや笑ってたって。絶対笑ってたっしょ?」
「だから、笑ってないってば」
絶対に認めてやるもんか。断固とした強い気持ちで否定しているのに、吉井の顔を見ていると力が抜けてきて、なんだかまた笑えてきてしまう。
言うに事欠いて、逆ポッキーって。貴重な文化遺産相手に本当に、無礼千万だ。
「愛川さんが……笑った! 愛川さんが笑った!」
「クララが立ったみたいに言うな」
私は思いっきり吉井の向こう脛を蹴った。
「いってー!」と大袈裟に飛び跳ねて痛がる吉井の姿に、真田や佐藤も笑う。私もまた、悟られない程度に口のはしっこを緩めた。
まだまだ、修学旅行は始まったばかりだ。
「まかいだー!」
貸し切り状態だったバスを降りるなり、両手を広げて私は叫んだ。
富士宮駅を出発して二十五分。私たちは、待ちに待った魔界……ではなく、まかいの牧場に到着していた。
富士山の麓である朝霧高原は寒いくらいだったが、空気がよく澄んでいる。額に風を受けながらめいっぱい息を吸うと、肺が丸ごと洗われたようで気分がいい。
まずは誘惑だらけの入り口を抜けて、券売機で二人分のチケットを買う。
広大な敷地を誇るまかいの牧場は、入場ゲートを越えてすぐのところに広場があった。芝生を子どもたちが走り回るのを見ていると、私も一緒に駆けてみたくなった。
左側にはいくつか建物が見える。私たちは、とりあえず右に向かって場内を歩いてみることにした。そちらのほうがより人が集まっているし、動物の気配を濃厚に感じるのだ。
勘は正しかったようで、さっそく前方に小さな小屋が見えてきた。
三角屋根の小屋の横には、三匹のヤギが繫がれている。
「ヤギだー!」
私はヤギを怖がらせないよう、体勢を低くしてそろそろと近づいていく。
「さっきからテンション高いな」
「修学旅行ですから!」
堂々と答えてから、ちょっと恥ずかしくなってきたので音量を調整する。
「ヤギだー……」
直毛で筋肉質。身体の大きさがそれぞれ異なる三匹のヤギたちは、私にまったく興味を示さず、こちらにお尻を向けてしゃがんでいる。ぴんと立った尻尾がかわいい。
ヤギって、めぇーって鳴くんだっけ。それは羊?
「へぇ、おさんぽヤギだって」
アキくんの視線の先を確かめると、目の前の小屋でおさんぽヤギなるイベントの受付がやっているらしい。
エサつき、二十分三百円。ちょうど十一時を過ぎたところなので、受付時間に当たるようだ。
「やってみる?」
犬の散歩もほとんどしたことがない私は、その誘いに飛びついた。
「やる!」
さっそく受付のお兄さんに話しかけて、半分ずつ料金を支払う。
「では、お好きなヤギを選んでください」
小屋の前に繫がれているのが、おさんぽヤギのメンバーのようだ。
他のヤギは仕事で出払っている最中らしい。相変わらずお尻しか見えないなと思っていると、おもむろに一匹が立ち上がってこちらを見る。
ぱちり、と目が合った。見るからに身体の大きな、真っ白いヤギだった。
にやりと笑っているような目と、貫禄のある長い顎ひげを見つめる。その瞬間、私の脳裏に閃いたのは絵本『三びきのやぎのがらがらどん』だった。
ところが そのとき、もう やってきたのが おおきいやぎの がらがらどん。
がたん、ごとん、がたん、ごとん、
がたん、ごとん、がたん、ごとん と、はしが なりました。
あんまり やぎが おもいので、はしが きしんだり うなったりしたのです。*1
谷に住むトロルと出会してしまう、身体の大きさが違う三匹のヤギ。全員同じ名前のがらがらどん。トロルをこっぱみじんにして倒してしまう、おおきいヤギのがらがらどん……。
「そのヤギ?」
見つめ合う私とヤギの思いを、アキくんは察してくれたようだった。
「うん!」
小屋からスタッフのお兄さんが出てくる。
「本当に、この子……コユキちゃんでいいですか?」
「はい」
もう私は、この雌らしいヤギ……コユキちゃんに運命を感じていた。見た目は厳つくて迫力があるけれど、名前だってアルプスっぽくて素敵だ。
決意を固めた私に対し、お兄さんは厳しい顔つきになっている。
「本当にいいんですね?」
「は、はい」
こんなに入念に確認されるものなのだろうか。気圧されながらも首肯すれば、お兄さんが「分かりました」と頷きがてら問いかけてくる。
「お二人は、おさんぽヤギは初めてですか?」
私たちは首を縦に動かす。
「ではまず、勘違いを捨て去ってもらいます」
……え?
「お二人が、ヤギを散歩してあげるんじゃありません。ヤギにお散歩されるんです」
なんだか、とんでもないところに来てしまったような。
「詳しいルールを説明します」
お兄さんは慣れた様子で、おさんぽヤギのやり方について説明してくれた。説明のあとは、まずアキくんがお散歩セットを受け取り、私がコユキちゃんのリードを摑む。
両手は絶対にリードから離さないように、と指導を受けた。しかしヤギを無理やり引っ張ってはいけない。行き先を誘導したいときは、鼻の先にエサのペレットを投げるようにする……。私はお散歩のルールを何度も心の中で復唱した。
「二十分後には小屋の前に戻ってきてくださいね。それでは、行ってらっしゃい」
「行ってきま」
手を振るお兄さんに、私は挨拶を言い終えることもできなかった。
その瞬間、身体がぐっと前のめりになっていたからだ。
「わ、っわ」
ぐいぐいと引っ張るコユキちゃんに、よろめきながらついていく。
さっそく花畑のほうに入りそうになり、慌ててアキくんが別の方向にペレットを一粒投げる。コユキちゃんはそれを一口で飲み込むなり、再びあらぬ方向へと進もうとする。
私は早くも恐慌状態に陥っていた。
「アキくんヘルプ! 交代!」
「まだ二分も経ってないけど」
「そんなぁっ」
行きと帰りで十分ずつ割り振って役割を交代しよう、と提案したのは私である。まだ何も知らなかった頃の、吞気で平和ぼけした私である。
お兄さんの発言の意図がよく分かった。本当にいいのかと、すごみのある表情で再三確認された意味も。
私が選んだコユキちゃんは、ものすごい暴君だったのだ。
とにかく馬力、もといヤギ力がすごすぎる。別の方向にぐんっと首を動かす一動作だけで、私は簡単に引きずられてしまう。
ヤギ界隈の中でも、一際名の通った女王様のような存在に違いない。道ばたに落ちている葉っぱを目にも止まらぬスピードでもしゃっと頰張るコユキちゃんを、おさんぽヤギに参加していない柵越しのヤギたちが興味深げに見つめる。コユキちゃんが近づくだけで、他のお散歩中のヤギたちは道を譲っている。
まさに縦横無尽。豪放磊落。
「でも、かわいいー!」
引っ張られつつ、私は叫んだ。
気ままで、我が儘で、好き勝手やるけれど、そんなコユキちゃんはとってもかわいかった。
長いひげに覆われた顎を、わしゃっと撫でてあげたい。ムキムキの身体もちょっと触ってみたい。しかしそんな隙は見せず、ただひたすらコユキちゃんは我が道を行くのである。
「あっ、アキくん、うんち出てるよ。うんちうんち!」
「それは語弊がある!」
慌ててアキくんが、ぽろぽろ道に落ちていくうんちを掃除していく。ヤギたちは所構わずうんちをするので、渡された箒とちり取りで適宜片づけなければいけないのだ。これもおさんぽヤギの大事なルールである。
「アキくん大変! あと十分しかない!」
「戻ろう!」
私たちは役目を交代した。来た道を引き返すようにコユキちゃんを誘導する。コユキちゃんの眼前にペレットを見せてから、私は勢いよくそれを前方に投げつけた。
力みすぎたのか、ペレットはあらぬ方向に飛んでいき、コユキちゃんは見向きもしない。
「ナオ、下手すぎ!」
「ごめん!」
「ナオ、うんちしてる!」
「語弊があるから!」
笑ったり叫んだりしながら小屋の前に戻ってきたときには、私たちはぐったりと疲れきっていた。
まかいの牧場の洗礼だった。動物は決して、人間の思い通りになんかならないのだ。いつだって自由気ままに生きているのである。
「でも、おもしろかったねぇ」
「うん。だいぶおもしろかった」
ひたすら圧倒されたが、楽しかったのも本当だった。
次なる獲物を見定めているのか、鼻息荒いコユキちゃんに手を振って別れる。
「次、どうするか」
「うーん」
他の動物も気になるが、いったんおいしいものを食べて体力回復に努めたい気がする。
入り口付近で見かけた案内板の前に戻った私は、目を輝かせた。
「バター作りやってみよう!」
所要時間は二十分。牧場の新鮮な素材を使って作るバターは、きっと格別のおいしさだろう。他にもクッキー作りやソーセージ作り、動物とのふれあいイベントでも気になるものが目白押しだったが、直近で開催されるのはバター作りだけである。
最初に左手に見えたカフェが、受付場所となるらしい。ひとり五百円を支払い、参加者用のプレートを受け取ると、すぐ隣にある食の体験工房へと移動する。
東屋の前では、バター作りを担当するスタッフのお姉さんが待っていた。
そこでプレートを渡して、いざ東屋へ。
開放的な東屋にはたくさんのテーブルと椅子が設置されていて、それぞれのテーブルに、蓋が閉まるタイプのプラスチックの容器、市販のクラッカーの小袋、それに使い捨てのアイスクリームスプーンが置いてあった。容器には、牛乳と思しき乳白色の液体が入れられている。
今回のバター作りには、私たちを含めて十組以上が参加するようだ。大学生くらいのグループや家族連れのグループで、東屋は明るく賑わっている。
十一時になると、先ほどのお姉さんがやって来た。簡単な自己紹介を終えてから、参加者を明るい表情で見回す。
「みんな、さっそくだけど牛乳ってどうやってできるか知ってるかな? 分かる子は手を挙げてみて!」
「気づいたらぁ、かってに紙パックにはいってるー!」
手を挙げるでもなく、参加者の男の子がふざけて叫ぶ。くすくすと笑い声が上がる。
お姉さんは微笑ましげに、両手でバツを作ってみせた。
「ブッブー、外れです。空っぽの紙パックからは、なんにも生まれてきません!」
図を用いながら説明してくれる。母牛は仔牛のために大量の血液を消費して、栄養がいっぱい入ったお乳を出す。それを人間はいただいている。生き物に感謝の気持ちを持って、普段の食事を味わってほしい。
「この容器の中にも、牧場の自家製生乳と動物性の生クリームが入っています」
合図と同時、参加者は全員が容器を振りたくってのバター作りに挑戦する。
お姉さんによると、牛乳の中にある乳脂肪の薄い膜が破れて集まると、固まってバターになるのだという。この脂肪の膜を破るために、とにかく容器を振るのである。
私もまた周囲と同じように、片手に持った容器をぶんぶん振る。右手が疲れてきたら左手に持ち替えて、懸命に振り続ける。
しかしなかなか変化はなく、我慢のときが続く。
本当にいつか固まるのだろうか。半信半疑になっている私の耳が、そこで異音を拾う。
「アキくんの容器、なんか……」
「音が変わってきたな」
アキくんの容器の中からは、もたついているような音がしている。明らかに、私のとは違う種類の音だ。
テーブルを見て回っているお姉さんが、立ち止まって軽く拍手をする。
「彼氏さん、早いですね。ホイップ状態になってきたので、あともう少しです」
「どうも」
褒められたアキくんが、小さく頭を下げる。
祈るように見上げれば、お姉さんと目が合った。にっこりと微笑まれる。
「彼女さんは、もうちょっとがんばっちゃいましょう!」
そんな。とっくにがんばっているのに。
私は絶望的な気持ちになりながらも、諦めずに腕を振り続ける。
そうだ。容器に入っているものは全員同じなのだ。私だけ意地悪されて実は水だった、なんてことはない。振り続ければ、私も同じ音が聞けるはず……。
そんな私を追い詰めるように、各所から聞こえてくる音が変化しつつあった。幼稚園生くらいの子たちもはしゃいでいる。完全に置き去りにされている私である。
焦りに突き動かされた私は、密かにSOSを出すことにした。
「アキくん助けて!」
「ん?」
首を傾げるアキくん。彼の容器はまた音が変わり、ぱしゃぱしゃと跳ねるような音が聞こえる。私も一刻も早くそこに辿り着きたい。
「こんなに振ってるのに、ぜんぜん音が変わらないの!」
すでに二の腕はぱんぱんになっている。おさんぽヤギの影響もあるかもしれない。
「今スタッフさんあっち行っちゃったし、誰も見てないから」
私はそう持ちかけて、そぅっと容器を差しだそうとした。体力が有り余り、しかも片手が空いているアキくんに、私の分もお任せするという画期的な作戦である。
しかしアキくんは、悪だくみに加担しそうもない真面目くさった顔を作っている。
「ズルはだめだろ。バター作りは、自分の力だけで成し遂げてこそ意味がある」
紛うことなき正論であった。
「イチャイチャしているカップルさんは置いておいて、私がオーケーサインを出した方はカップを開けてもらって大丈夫です。クラッカーにバターをつけて食べてみてください」
明るい笑い声が起こる。私は恥ずかしくて真っ赤になってしまった。
そんな艱難辛苦を乗り越えて、私もまた、数分遅れでオーケーサインをもらっていた。あちこちからひっきりなしに上がる「おいしい」「最高」などの歓声や、アキくんの「うまっ。やばっ」などの感想を聞いているうちに、ますますやる気に火がついたのだ。
容器の蓋を開けると、中には固形物になりかけた感じのバターが待ち受けていた。
「わ、意外とどろってしてる」
どきどきしながら、優しい黄色のフレッシュバターをアイススプーンで掬い、クラッカーにつけてみる。いただきますを唱えてから、口の中に運んでみた。
「んんん!」
私は眉根をぎゅっと寄せて悶えた。
おいしすぎて言葉にならないとは、このことをいうのか。二の腕をたくさん働かせたからという理由も、その味わいにはきっと含まれている。私はうっとりしながら、とっておきのバターをつけたクラッカーを平らげた。
容器の底に溜まった栄養たっぷりというバターミルクもいただく。普段飲む牛乳よりもさっぱりとしていて、こちらもとってもおいしい。
こうして、楽しい体験の時間はあっという間に終わってしまった。幸せそうな笑みを浮かべて、他の参加者が去っていく。私たちは最後に残ってしまった。
そう思っていたが、背後から足音がする。まだ残っていた人がいたらしい。
「お前ら、何やってんだこんなとこで」
ぶっきらぼうな声は、聞き覚えのあるものだった。
そんなまさか、と思いながら振り返った先に、思った通りの人の姿があった。
「……望月先輩?」
私服姿の望月先輩は、空になった容器を手に訝しげにしている。どうやら彼も同じ回のバター作りに参加していたらしい。

でもどうして、ここにいるのだろう。
ぽかんとする私の傍ら、ごみを片づけたアキくんが答える。
「バター作りしてました」
「そうじゃなくて、二年は修学旅行中だろ」
「行き先、富士宮だったんです」
「県内に修学旅行とか聞いたことねぇよ。僕らと同じ京都だろ」
望月先輩はじっとりとした目つきになりつつ、私とアキくんの間の席に腰かける。
「先輩こそ、こんなとこで何やってんすか。サボり?」
あるいは三年生も何かの研修中かも、と私は思ったが、望月先輩は、「まぁな」と呆気なく頷く。
「僕はもう大学の合格通知もらってるし」
「……えっ」
初耳だった私とアキくんは啞然とする。
「そうなんですか? いつの間に?」
「いつの間にっていうか、お前らと知り合う前に決まってたから」
さらに初耳だった。
「ど、どこの大学ですか?」
先輩が口にしたのは、静岡県民なら誰でも知っているような県内の私立大学の名前である。
情報量が多くてついていけない。私はすっかり混乱していたが、同じく戸惑いながらもアキくんは立ち上がり、きちんと頭を下げていた。
「遅くなりましたが、おめでとうございます」
それに倣い、私も立ち上がって「おめでとうございます」を復唱する。
「おう。サンキュ」
「でも早く教えてくれたら良かったのに」
これに望月先輩は苦笑する。
「進学校ほどじゃないけど、受験生ってそれなりにぴりぴりしてるもんだぞ。自分は進路確定してるからって余裕ぶるやつ、むかつくだろ。だから、あんまりおおっぴらには話してない」
私は三年生じゃないけれど、それはなんとなく分かる気がする。今後筆記試験や企業の面接が控えている生徒は、進路が確定した他人の話を耳にするのも辛いだろう。
「ところで、どうして先輩は富士宮に?」
堂々とサボっているのは分かったが、だからといってサボり先にわざわざ富士宮を選んだなら、そこには何か理由があるはずだった。
先輩が、テーブルに肘をつく。何かを思案するように、その視線を天井に向けている。
「今、ばあちゃんちのとこ泊まってるんだ」
「望月先輩のおばあちゃんですか?」
「違う。リョウの」
当然のように望月先輩が答えたので、私はしばらく反応を返せなかった。
……どうしてリョウ先輩の名前が、望月先輩の口から出てくるのだろう。
しかも、リョウ先輩のおばあさんの家にいる? 望月先輩は沈黙する私とアキくんを交互に見やると、こう問うてきた。
「で、サボり二人組。お前らもドッペルゲンガーなの?」