ぴんと伸ばした親指のさきに、冬の始まりが宿っている。
つついて弾けば、白く凍てつくような冷気が漏れだして、あっという間に真冬の季節が訪れる。天井には氷柱のシャンデリア、床は一面のスケート会場。ベッドは寒々しい氷の棺に成り果てて、徹夜の吸血鬼さえ近づくのを厭うほどだ。
雪の結晶が降り注ぐのを見上げながら吐く息は白く、手足はかじかむばかりで、私はぶるぶると身体を震わせている。頭や肩に積もる雪を払うのすら億劫だから、このまま雪だるまになれたら具合がいい。庭の倉庫で眠っている赤いバケツを被ってしまえば、どんな角度から見ても立派な雪像ができあがるだろう。
……そんな冬のフェアリーテイルが立ち寄ることはなく、生身の私はじめじめとした生ぬるい部屋の隅っこで、壁に背をもたせかけて座っていた。
伸ばした両足は素足だった。今朝、素直が靴下を穿く前に私を呼んだからだ。そうじゃなければ、靴下を穿いていただろう。
温暖な気候に恵まれた静岡といえども、十一月となると冷え込んでくる。今日は昨晩からの雨のせいか特別肌寒い。しかし明日はきっと晴れるのだろうし、どんなに寒くなったって、静岡県中部に雪が降ることは滅多にない。
窓の外からは、ざぁざぁざぁと、雨の音だけが絶えず飛び込んでくる。
お天気アプリも、天気予報も見ていないから、午後は晴れ間が覗くのか、それとも土砂降りになるのか、雷が鳴るのか、私は知らない。
なんにも知らなくても、部屋にいるだけなら困らない。空から隕石が落ちてきて屋根が崩れ去らない限り、冷たい雨粒にこの身を打たれることはないのだ。
愛川素直のレプリカ。便利な身代わり。
私に与えられたふつうの高校生のような日々は、呆気なく終焉を迎えた。
宣言通り、五日前……十一月五日の金曜日から、素直は再び学校に登校するようになった。
いつもと違うことは、ひとつだけある。素直は学校に行っている間も、私を呼ぶようになったのだ。
土日は両親と鉢合わせになる可能性があるので、今までと同じく私は呼ばれない。けれど平日の朝から夕方までは、なぜか地上に留まることになった。
家を守る番犬のように。もしくは木彫りの熊のように。あるいは、自由のないかごの中の鳥のように。
その間、素直が私に何かを命じることはない。行ってきますを言う制服姿の素直を、同じ格好をした私は、黙って見送る。それだけだった。
数分か数十分、それとももっと前、地上からは雨音に紛れてスタンドを蹴る音がした。クリーム色のレインコートを着込んだ背中は、もはや素直本人かどうかも私の目には分からなかったが、その人物はターコイズブルーの自転車に跨がり、あっという間に遠ざかっていった。
一部始終を窓から眺めれば、それで私のつまらない役割は、今日も終わりを迎えてしまった。
私はお腹が空いたらたまに一階に下りて、お湯を沸かしたり、鍋を火にかけたり、レンジでチンしたりする。味ばかりが濃いラーメンや焼きそばやパスタをもぞもぞと食べたりする。
今日は冷凍うどんにした。チンして、お湯で割っためんつゆをかけたら、あとはすするだけ。
リビング兼ダイニングでは洗濯物が部屋干しされていて、鼻先に生乾きのにおいがまとわりついてきた。シンプルすぎるうどんの味は、そのせいでよく分からなくなった。
壁の時計を見ると、午後三時を過ぎたところだった。学校では六限の真っ最中だ。
食事を終えた私は二階に戻って、また壁際に寄りかかってぼんやりとする。
これは、素直が私に課した拷問ではないか、とすら思う。
地団駄を踏んで悔しがれ。自分はレプリカなんだと思い知れ。痛感しろ。
これは素直からの、そんなメッセージなのか。それとも別の意図があるのか、私には分からない。正しくは、考える気力がない。
彼女が消えたあの日から、ずっと。
「リョウ先輩」
虚空に呼びかけてみても、返事はない。
五日前、前生徒会長である森すずみ先輩とのお別れ会が、体育館で開かれた。私は素直の記憶を通して、それを知っている。
たくさんの人が彼女の死を悼み、早すぎる別れを嘆いた。
抱き合って泣きだす友人たち。彼女たちが懸命に押し殺そうとする嗚咽が、洟をすする音が、涙に濡れる呼び声が、素直の鼓膜を雨粒のように連続して叩いていた。全校生徒分の湿ったメッセージカードが、白い箱に納められていった。
すずみ。もりりん。森。森会長。もりりん先輩。と、ひとつひとつ音の違う雨音は、どれもそれぞれの悲しみを抱いて体育館中に響いていたけれど、その中にリョウ先輩の名前はひとつもなかった。
すずみ先輩のレプリカであるリョウ先輩のことを、多くの人は知らないままでいる。今までも、これからも。青陵祭のステージで、あんなにも美しく輝いていた人のことなのに。
目頭が熱くなる。絨毯に横になる私の頰を、鼻を、一筋の涙が流れていった。
頰とこめかみの間を伝っていった水滴が、耳の穴や、もともと湿っぽい髪の中に混じっていく。反射的に背筋がぶるりと震えても、手を動かして拭うのが面倒でそのままにしておいた。
掠れた声音が、歯の間から漏れ出る。
「リョウ先輩。私、学校行けなくなっちゃいました」
たぶん、もう二度と、行けない。
私はこの一か月間、夢を見ていたんじゃないだろうか。学校に通い続けて、青陵祭の準備に励む夢。たくさんの人と知り合い、笑い合う夢。
りっちゃんと再会したこと。アキくんと出会ったこと。望月先輩たちと演劇をやったこと。下界から閉ざされ、牢獄と化した四角い箱の中では、私が大事にしてきたすべてが泡沫の夢と消えていく。
分厚い絨毯の上で、膝を引き寄せて丸くなる。お母さんのお腹の中にいたことなんてないのに、生まれる前の赤ん坊に戻りたがるみたいに。
スカートに変な皺がついたところで、構うものかと思う。私がどんなに制服を汚しても、素直が困ることはない。私が消えてしまえば、着ていた制服だって一緒に消えるのだ。
私は、シャトルランを走らなくていい。
私は、難しいテストを受けなくていい。
もう私は、何もしなくて良くて。
そしてリョウ先輩のいない学校に行かなくていいんだと、心のどこかで安堵を覚えてもいる。
相反する自分を感じながら、今日も硬い床で目を閉じる。その弾みに瞳の中から追いだされた涙が溢れ、勢いよく流れていった。
雨は、いつまでも降り続けている。
素直が学校に行きたくない気持ちに、私は初めて、触れたような気がした。
私は、保健室で眠ったことがない。
身体測定とか、体育の授業でちょっと膝をすりむいたときなんかに寄ることはあるけれど、保健室のベッドを借りたことは一度もなかった。
私は、というより、だいたいの人はそうかもしれない。でも、私が保健室を利用しないのは自室があったからだ。頭が痛い日も、お腹が痛い日も……私は家から一歩も出ないで、慣れ親しんだベッドで横になることができた。
だからといって私の場合、他の生徒のように学校を休んだことにはならない。
私には、便利な身代わりがいる。体調や気分が優れなくても、代わりに学校に行ってくれる私。いつだって言うことを聞いてくれる、私。
だから保健室を必要としなかった。これは、それだけの単純な話だった。
ドアをノックしても、室中から返事はない。しかし目当ての人物が登校しているのは知っているので、遠慮なく踏み込むことにした。
昨夜から降り続ける雨のせいで湿った廊下を、上靴のつま先で蹴って入室する。とたんに、ほのかな消毒液のにおいを鼻先に感じた。
保健室の先生は朝の会議でも長引いているのか、留守にしているらしい。私は構わず、三つ並んだベッドの奥、窓際のベッドへと歩み寄った。
「真田」
確信をもって呼べば、唯一閉められた白いカーテンの向こうで、ぼんやりとしたシルエットが震える。ぴったりと隙間なく閉めきられているのが、本人の心情を窺わせる。
誰も近づくな。構うな。そんな拒絶の意思が。
「真田、いるんでしょ?」
遠慮がちに開いていくカーテンの先を、私は見つめていた。私だってそれなりの緊張はしていたが、おくびにも出さなかったのは、相手のほうが心をざわつかせていると知っていたからだ。
五月ぶりに顔を見る。白いYシャツ姿の真田秋也は、上半身をベッドから起こしていた。
真田は、心細そうだった。彼にも私と同じように、自室という逃げ場所があったのだ。そこから出てきた青白い顔はどこか後ろめたそうで、居心地悪そうにも見えた。
「愛川……、おはよう」
大して仲のいい相手でもないのに、前髪の隙間から私を見た真田は、安堵したように肩の力をわずかに抜いた。
真っ黒い短髪と、同じ色の瞳。太い眉毛や広い肩幅は男らしいのに、小さなベッドからはみ出さないよう窮屈そうに身体を縮めているような、そんな印象があった。
味気ないパイプ椅子を引き寄せて、腰を下ろす。真田はぼんやりと、そんな私の動作を見つめている。
ベッド脇のスツールには、きっちり畳まれた学ランとリュックが並んでいる。私はそれを見るとはなしに見ながら、湿り気を帯びた髪の毛を耳にかけた。
「久しぶり。っていうのも変か」
「……そうだな。何度か電話もしてたし」
うっすらと真田が微笑む。
バスケ部のエースとして活躍していた頃より、ずっと静かな笑みだった。もしここが教室であったなら、賑やかな笑いと喧噪の渦に巻き込まれて足元に転がっていってしまうような、力のない笑みでもあった。
「今、クラスは修学旅行の班決めしてるとこ」
「そっか」
会話は弾まない。視線もほとんど合わない。電話のようには、お互いうまく喋れていない。
私たちは、ぽつぽつと、窓を濡らす雨粒よりもまばらな会話を続ける。
「久々に顔見せたら、親に心配されたよ。顔色悪いって。今日は学校休んだほうがいいんじゃないのか、って」
「そもそも、昨日まで休んでたのにね」
真田は自室に引きこもっていた。家族の前にしょっちゅう姿を見せ、休まず登校していたのは彼のレプリカのほうだ。
軽口を叩いてから、しまったと思ったのは、デリケートな領域に踏み込んだ感触があったからだ。焦って顔色を確認するが、真田は無理しているという感じでもなく、変わらず笑みを浮かべていた。
「うん。なんかおかしくて、ちょっと笑えた。……青陵祭、大変だったって?」
「アキ、から訊いたの?」
「それもだし、バスケ部の友達からも」
そうなんだ、と私は舌の上で言葉を転がした。
青陵祭二日目の、お疲れ様会。
私は、その場にいたわけじゃない。ナオからも詳しく聞いていない。それがどんなものだったのかは人づてに知るだけだったが、話に聞くだけでも、一連の出来事が全校生徒に与えた衝撃や困惑は途方もなく大きいものだったのだろうと、容易く想像がついた。
人間ひとりの消失。そして、死。
同じ学校に通っている生徒が死ぬ、というのは、言うまでもなく衝撃的なことだ。故人と身近で、友人だったなら、余計にそうだろう。
森すずみは生徒会長を務めていたため、一般生徒に比べれば知られた存在だった。他校でも話題になるほど優れた手腕を持つ、目立つ会長だった……というわけではないが、気立てが良く、学校の成績は優秀で、本人も目立つ容姿の華やかな美人。その三拍子が揃えば、周りに慕われるのは必然といえる。
彼女は体育館での挨拶の最中、着ていた制服や上靴だけを残して忽然と姿を消した。衆人環視の中、ひとりの人間だけがどこへともなく消えてしまったのだ。
そして二日間の代休と祝日を経た、十一月四日。彼女の死が全校生徒に伝えられた。
どうやら私は、他の生徒に比べて前会長に近しい二年生だと認識されていたようだ。気を落とさないでというようなことを教師から言われたり、クラスメイトから声をかけられたりした。曖昧に頷く私の反応を、彼らは悲しみを懸命に堪えているものと受け取ったようだった。
でも、そうじゃない。私は知らなかった。
前会長のこと。おそらく彼女に代わって学校に行っていたレプリカのこと。オリジナルが死ねば、レプリカも消えること。そんなレプリカの先輩と、ナオが深い関わりを持っていたこと。
ナオが文芸部存続のために、演劇部と合同で劇をやることは知っていた。青陵祭の一日目には、掲示板に貼られたポスターを見かけてもいたし、訪ねた文芸部では、りっちゃんからも大まかな話を聞いていた。
今になって思い返せば、学内に撒かれたビラについて、ナオが不安げに口にしたことがあった。あのとき、私は少しも気に留めていなかった。それよりも優先すべきことがあったからだ。
そんな私の無関心が、新たなレプリカのことを打ち明ける気をなくさせたのだろうと、うっすらと想像はついた。
でも事前に事情を知っていたからといって、果たして私は、何か変わっていたのだろうか。
近しい人との突然の別れに傷ついたナオに、寄り添えていただろうか。泣き腫らした目で帰ってきたナオを、慰めてあげられただろうか。どんなに想像してみても、そんな気遣いができる自分の姿は、目蓋の裏でさえ思い描くことができなかった。
今朝、学校側は、延期していた青陵祭の表彰について中止するとだけ発表した。この空気の中、最優秀賞のクラスを発表して、壇上でご褒美のくじを引かせたとして、誰も心からの笑顔になることはない。そう教師たちが結論を出したのは明白だった。
例年のように派手に行う打ち上げも、記念撮影もなく、今年の青陵祭は終わっていった。すべての喜びが吹き飛ぶだけの衝撃と悲しみが、病のように蔓延したまま。
その影響は、お別れ会から五日が経った今も色濃く校舎全体に漂っている。でも私はそれを感じる一方、青ざめた校舎をどこか冷めた目で眺める自分にも気がついていた。
おそらく、長くは続かない。
来週から、二年生は二泊三日の修学旅行に旅立つのだ。言わずもがな、高校生活を代表する大きなイベントである。亡くなったのは三年生であり、当事者意識が希薄な二年生はいつまでも引きずる理由が、薄い。
修学旅行を経れば、二年生の中のわだかまりのようなものは完全に去っていく。少し遅れて一年生が、そして三年生も、ひとりの生徒の死を完全に過去のものとしていくだろう。
きっと、それを薄情だと言う人がいる。不義理だと罵る人も。
でも辛いことを忘れていくのは何も、悪いことじゃない。悪じゃない。
私が考えを巡らせる間も、真田はずっと黙ったままだった。俯きがちになり、唇を引き結んでいる。何かをじっと耐えるような、そんな顔をしている。
気になって、私は声をかけた。
「大丈夫?」
安直な第一声。これだから私はだめなんだな、と他人事のように思った。
息が詰まって、続く言葉が出なくなる。そんな私の変化に気がつくことなく、真田が答えた。
「まだ、ちょっと」
緊張してて、と掠れた声で真田は言う。
ちょっとどころではなさそうだ、と私は思う。だが、真っ向から指摘しては単なるいやがらせだろう。
真田秋也は、最後に見かけた五月よりずっと、弱々しい人間になっていた。
しばらく人前に出なかった人間というのは、こんなにも自信を失って、畏縮するものなのだ。
こうしてひとりで保健室にやって来ただけでも、相当のがんばりが必要だったはずだ。労りの言葉を投げようとして、私はやはり、中途半端に唇の動きを止めた。
人を励ますのも、私には向いていない。たぶん余計に真田は気負ってしまうか、不快な思いをするだろう。それなら、何も言わないほうがマシだった。
黙っていると、室内の沈黙を突き破るような勢いで保健室のドアが開いた。
「おっす! おら吉井!」
確認するまでもなく、大声でふざけた名乗りを上げた人物は吉井だった。
同じクラスのお調子者だ。とにかく底抜けに明るく、裏表がない性格をしているからか、男女とも友人が多く、他のクラスの生徒ともよく話している。分かりやすくいえば、バレンタインに大量のチョコレートをもらって大はしゃぎするが、そのすべてが義理。そんなタイプの男子である。
私たちと目が合うなり、吉井は口笛を吹く。無駄にうまいのが癪だった。
「やっぱ真田ここにいんじゃん。おれの勘、大当たりだわ」
「ちょっと。ノックくらいしてよ」
ベッドの上で真田が身を竦ませているので代わりに注意すると、ずかずか入室してきた吉井が目をしばたたかせた。
「なになに。今日の愛川さん、ご機嫌斜めじゃん。おばけ屋敷ではかわいい声出してたのに」
「は? 気持ち悪」
「くぅっ。この切れ味、まさに愛川さんって感じだわー」
くねくねしながら二の腕を擦る仕草を見せつけられ、私は辟易した気持ちにさせられる。
教室内では前後の席だが、吉井と話したことはほとんどない。交わした言葉より、回されたプリントの数のほうが多いくらいだ。
もともとはナオも同じだったはずだ。教室では普段の私と同じように、あまり積極的に喋らないでと指示してある。
しかし青陵祭準備期間ともなると、そういうわけにはいかなかったらしい。吉井とそこそこ親しくなったのは聞いていたが、こういうときはいつも困ってしまう。
彼らの目に、ナオじゃない私はどんなふうに映っているのだろう。
それを私は、絶対に知りたくなかった。
うざったく絡んできた吉井が、ふいに私から視線を外す。彼は私の後ろ側ではなく、わざわざ窓側からカーテンを捲り上げて侵入すると、真田が座るベッドに頭から飛び込んだ。
「ダーイブ! おおっ、保健室のベッドってけっこう気持ちいいのな」
それまでぽかんとしていた真田が、急に接近されて目に見えて動揺していた。
雨の日に捨てられた子猫のように、かわいそうなくらい怯えている。吉井の態度に戸惑っている。その震えは、厚いかけ布団越しでは吉井まで伝わらなかっただろうが。
「そうそう、真田。ちょっといい?」
「えっ」
呼びかけられた真田の目が、縋りつくように私のことを見る。助け船を出したほうがいいだろうかと一瞬悩んで、やめた。
「真田さぁ。お前さぁ」
「え、なに……」
どうして保健室に登校しているのか。教室に来ないのか。そう責められることを、何よりも真田はおそれている。
吉井はちらりと私を一瞥し、笑いながら囁いた。
「まさかとは思うけど、保健室で愛川さんとエロいこと……してないよな!」
それは囁き声ではあったが、目の前にいるのだから、当然私の耳にも届いていた。
怒る気も起きない、幼稚さを極めたからかいである。呆れた私は溜め息を吐いた。面食らっている真田の肩を、起き上がった吉井はふざけて肘でつついている。
「だってお前と愛川さん、マジでいい感じっぽいじゃーん。親友の目を騙そうたってそうはいかないからな!」
うざ絡みしていた吉井が、そこで何かに気がついたような顔をした。
「それともマジで今日、体調悪いん? だとしたらおれ、めっちゃ迷惑じゃね? お詫びにこのまま添い寝する? しちゃいます?」
馴れ馴れしい吉井の態度を前に、しばらく真田は黙り込んでいた。
俯きがちの表情が、見る見るうちに合点がいったそれに変わっていく。私は目を細めた。ようやく真田も気がついたらしかった。
確かに真田秋也は、ずっと家に引きこもっていた。
だが、周囲にとっては違う。骨折した五月から入院していた秋也は、退院後、何事もなかったように六月中旬から学校に復帰している。自身にひどい傷を負わせた先輩すら、バスケの直接対決で圧倒的な実力を見せつけて黙らせた。そういう認識が、当たり前なのだ。
それに気がついてしまえば、事は簡単に運ぶ。
真田は周囲の目に怯えることなく、当たり前のように振る舞えばいいのだ。最初から、誰も奇異の視線なんか向けたりしていないのだから。
「……うるせぇよ。お前の添い寝とか、誰が喜ぶんだ」
真田は顔を顰めて、自然な感じで吉井に返す。語尾がわずかに震えていたが、吉井は気がつかなかったようで、にやりと笑う。
「おーおー。調子出てきたじゃん。やっぱサボりだったか」
そこで、がらり、とまたドアが開く。
「失礼しまーす」
誰かと思えば、次に現れたのは佐藤梢だった。二年一組のクラス委員長だ。
肩までの髪を涼しげになびかせて入室してきた彼女は、クラスメイトが揃っているのを見て小首を傾げる。
「声が聞こえてアレ? って思ったんだけど、やっぱり真田くんもここにいたんだ。二人してどうしたの?」
「委員長ひでぇ。愛川さんのことも計算に入れろよ」
「ああ、吉井もいたんだ」
「あっ、違った。見えてないのは、おれね……」
吉井が濡れていない目元を芝居がかった仕草で拭う。
私は佐藤に向かって眉を寄せた。
「そっちこそどうしたの」
「修学旅行の班決めって、男子はともかく女子は死ぬほど揉めるからね。あの独特の空気に耐えられなくて脱出してきちゃった」
佐藤はぺろっと舌を出す。
「ていうか愛川さんもお仲間なのかと。だからここに来てみたんだけど」
私は気まずくなって目を逸らす。ロングホームルーム中、班決めの話し合いが始まる段になって、私は体調不良を理由に教室を出てきた。保健室登校している真田に会うためだったが、周りからはそんなふうに見えていたのだろう。
「確かに女子は難航してたな。でもいいのかよ委員長、まとめ役だろ」
「まぁ、班はほとんど決まったし? 実際、このあとの部屋決めのほうが壮絶だからね。友達同士でも事前に取り決めとかあるじゃない。こことここで組もうね、あの子に話しかけられても曖昧に笑って濁しておいてね、その場で返事しないでね、み・た・い・な」
「うへぇ、怖っ」
首を左右に振りながら猫なで声で演じる佐藤に、吉井が身震いする。
「うちのクラス、まだマシなほうだけどねー」
マシなのは、クラスを仕切る立場にある佐藤があっけらかんとしているからだ。と思ったが、私は口には出さなかった。気をつけていても、いやみな口調だと受け取られることがあるのだ。
窓際に立つ吉井が、顎に手を当てる。
「ふぅん。つまり真田も、愛川さんも、委員長も、まだ班が決まってないんだな?」
名指しで確認されるとむかつくが、否定できない。純然たる事実だからだ。
「ていうかあんたもでしょ、吉井」
佐藤に指摘された吉井は、「まぁな」となんでもないように頷く。
それを意外に思っていると、吉井が全員の顔を見回して唐突に言いだす。
「つかさ。これも何かの縁、みたいな? せっかくだし、この四人で班作らねぇ?」
思いがけない提案に、私は瞬きを三回繰り返す。

また吉井がばかなことを、と思いかけたが、その内容自体は悪いものではない。必ず男女混合で四~五人の班を作るというルールなので、偶然ながら人数的にもちょうどいい。
真田には話していなかったが、できれば彼とは同じ班になるつもりだった。今日、学校に来るようにと彼の背中を押したのは私なのだ。
同じ文芸部所属ということになっているから、別に不自然でもないだろう。否定的な意見が出る前に、私は吉井の案に乗っかることにした。
「私は、別にいいけど」
「えっ。マジ?」
自分で言いだしたくせに、吉井は驚いているようだった。
「あたしもいいよ。ていうか賛成、この四人で組もうよ。吉井は余計だけど」
「なんだと。このおれが余計とは聞き捨てなりませんな」
「真田くんは?」
聞き捨てた佐藤に確認されて、じゃあ、まぁ、と流された真田が頷く。これで決まりだった。
「真田くん、二限は出られそう? 今週中に、班別コースのテーマ決めなきゃだからね」
「テーマって?」
「ほら、あれよ。工芸品とか、日本庭園とか、日本画とか抹茶菓子とか。班ごとに調べたいテーマを決めて、それに沿って二日目の見学場所を決めるって建前があるから」
面倒見のいい佐藤が、真田に向かって指折り教えている。
旅程の一日目はクラス単位での行動、二日目は班ごとテーマ別に行動、三日目は自由行動の日と定められている。
「建前って言っちゃってますぜ委員長」
「だって本当のことだし。行きたいとこに合わせてテーマ設定しましょ。帰ってきてから班発表もあるから、適当にやりすぎるとあとが怖いけどね」
二人が、そんな話をしながら廊下に出ていく。
そのあとに続こうとした私の耳が、ベッドを出ようとする真田の呟きを拾った。
「……あいつのおかげだ」
「あいつって?」
振り返って問いかけると、学ランの袖に腕を通しながら、身体に似合わない小さな声で真田が答えた。
「二世。アキ。……俺の、レプリカ」
こちらを見ないまま、彼はぼそぼそと続ける。
「この目で見たわけじゃないから半信半疑だったんだけど。俺の代わりにちゃんと学校通ってくれてたんだって、そう思って」
それを言うなら、私も一緒だった。佐藤や吉井と仲良くなったのは私じゃなくて、ナオだ。私も真田も、レプリカの努力に乗っかるような形でここにいるのは、同じ。
真田がそこで顔を上げる。まっすぐに見つめられたので、驚いてこちらから目を逸らしてしまった。
「それともちろん、引っ張りだしてくれた愛川にも感謝してる。ありがとう」
「私、何もしてないから」
唇を尖らせて言い返す。実際に、お礼を言われるようなことなんて何もしていない。
真田も私と同じく、レプリカを生みだした。レプリカについて話せる相手なんて今までひとりもいなかったから、私は家にいるとき、ときどき真田と電話で話すようになった。男子とそんなふうに個人的に親しくするのは初めてだったけれど、その時間は悪くはなかった。
修学旅行前というこの微妙な時期に、学校に来るようにと伝えたのは、今が微妙な時期だったからこそだ。青陵祭が終われば、二年生は修学旅行に向けてますます浮つく。普段通りの学校に登校してくるよりも、むしろハードルが低いんじゃないかと思った。
そんな私の目論見は、前会長が亡くなったことで、思いがけない形で外れることとなった。たぶん吉井や佐藤が教室を抜けだしてきたのにも、少なからずその影響がある。二人は教室で何事もなかったように騒いでいるのが、辛かったのかもしれない。
そこまで考えて、吉井はそんなに繊細じゃないか、と思い直す。最近お気に入りの真田が教室にいないから、暇つぶしで捜しに来ただけだろう。
真田が立ち上がり、リュックの太い紐を肩にかける。右足にはまだ少し違和感があるようだが、歩きだす様子を見るに引きずってはいない。この一か月は人の多い時間帯を避けて、自宅の近くをリハビリがてら散歩していたらしいから、その成果が出ているようだ。
真田が頰をかく。頭を下げているような、俯いているような、微妙な角度で首を動かす。
「でも、ありがと」
それ以上言い返すのも野暮に思えて、私は緩く頷いた。
真田には、私の目的について何も話していない。見方によっては、私は彼を利用しているともいえる。それなのにお礼を言ってくるあたり、こいつはどうにもお人好しすぎる。
そういう奴だから、自尊心ばかりが肥大した早瀬先輩にひどい目に遭わされたのかもしれない。ふと、そんなことを思った。
辛いことは忘れてしまえばいい。忘れていくのは何も、悪いことじゃない。
でも本当に辛いことこそ、完璧に忘れるのは難しい。きっとこれからも、真田は早瀬先輩の記憶に苛まれ、何かの拍子に思いだしては苦しむことになる。
だから本当に、お礼を言われるようなことなんて、ひとつもできていないのに。
「あと修学旅行もよろしく。同じ班同士」
「……うん」
開けっぱなしのドアから出た私は、振り返らずに頷いた。
修学旅行は来週に迫っている。でも、私にとって重要なのは直前の……。
一限の終わりを告げるチャイムが鳴る。気持ちが昂ぶったせいなのか、廊下を踏みしめる足先に無駄な力がこもった。
十一月十二日の金曜日。
その日も、私は無言のまま素直を送りだした。
見上げる私の気分などお構いなしに、空はからりと晴れていた。離れていく素直を窓越しに見送り、振り返ると、勉強机の上にぽつんと国語の教科書が置き去りになっていた。
「……あ」
時間割を、頭の中に思い描く。たぶん今日も国語の授業があるはずだった。
寂しげな教科書をとりあえず手に取って、ドアに駆け寄ってみるものの、今さら追いかけても無謀である。素直がどんなにのんびりペダルを回していたって、私の脚力では追いつけないし、そもそも私たちは一緒にいるところを誰かに見られてはいけないのだ。
早々に諦めた私は、行儀悪く絨毯にうつ伏せになるなり教科書をぺらりとめくった。窓明かりだけで、手元はじゅうぶん照らされている。
素直の記憶を辿る。次の授業から取り扱うのは『山月記』のようだ。
『山月記』は中島敦による短編小説で、唐の時代の中国をモデルにしている。詩人になりたい夢が叶わず、虎になってしまった李徴が、友人の袁傪に再会し、我が身に起こった出来事を語っていくお話だ。
初めて読んだとき、私も気がついたら虎になっていたらどうしよう、というおそろしさと興奮が、同時に胸を襲ったのを覚えている。でも私が虎に変身する日が来るのなら、その前に素直もまた虎になっているはずだと思えば、恐怖は和らいでいったのだった。
そんなことを思い返しながら、袁傪に語りかける李徴の言葉に目を落とす。あっという間に『山月記』を読み終わったあとは、他の物語に手を伸ばして冒険する。
授業では飛ばされてしまうページにも、こうして気ままに立ち寄る時間が好きだった。
国語の教科書には、数多くの小説や詩、短歌や俳句、批評などが掲載されている。お行儀良く整列している物語の切れ端は、ひとたびページを開いたなら、びっくり箱みたいに私を誘って、ここにおいでと呼んでくれる。
初めて読む詩を指でなぞれば、感嘆の吐息をつかずにいられないような、美しく鮮やかな言葉や表現が躍る。ページを開けば、いつだって、どこにいたって、私はその景色や音の聞こえる場所へと、連れていってもらえる……。
そのとき、ぴんぽーん、と間延びした音が響いた。
夢中になって教科書を読み耽っていた私は、はっとして顔を上げる。
誰だろう。わざわざドアチャイムを鳴らすということは、お母さんが帰ってきたわけではない。宅配便か回覧板かもと思い、とりあえず起き上がって部屋を出た。
ぱたぱたと、慌てて階段を下りていく。だけど最後の一段に足をかけたところで気がついた。
平日のこの時間、素直の家には誰もいないのが常だ。両親とも通販をお願いするときは土日か、あるいは平日の夕方以降に受け取り時間を指定する。近所のおばさんも、午前中に訪ねてきても二度手間になるだけだと知っている。
どこかの業者かと思いながら廊下を早足で進み、玄関の前に立つ。
さすがに、すぐに鍵を開けるほど不用心ではない。私はおそるおそる、玄関ドアの向こうに呼びかけた。
「どちらさまですか」
「俺」
返ってきたのは、たった二文字。でもその声を私が聞き間違えることはない。
ふと思いつく。秘密の合言葉のように、朗々と呼びかけてみた。
「その声は、わが友、李徴子ではないか?」
もしもドアの向こうの人が、中島敦が大好きなだけの赤の他人であったなら、私の機転は意味を成さない。
でも彼ならば、軽く諳んじてみせるだろう。後ろの席の彼が私と同じように、授業の最中にこっそり他のページを読み耽っているのを知っている。
「いかにも自分は隴西の李徴である」
私はドアを開けた。
そこには思った通り隴西の李徴ではなく、焼津のアキくんが立っていた。
冬制服の彼が背負う、窓越しではない日光が驚くほどまぶしくて、私は目を眇めた。目の奥が強い痛みを訴えるものだから、ぺしゃんこになるまで顔を顰めていたというほうが正確かもしれない。
「アキくん? 学校は?」
「秋也が行ってるから、俺は留守番。今後については、まだ分からなくて」
数日ぶりに会ったアキくんは、淡々とした口調で続ける。
「愛川からも連絡あった。これからは自分が学校行くって決めてるから、ナオは家にいるって。それで、ここまで来てみた」
「……そうなんだ」
素直と真田くんが、学校に行っている。修学旅行に向けて同じ班にもなっている。
素直の記憶を通して知っていたはずのことだったが、改めてアキくんの口から聞くと、少しだけ上向いていた気持ちがみるみるうちに萎んでいく。
素直は夏頃から、真田くんと電話でのやり取りを続けていた。青陵祭が終わったら学校に来てみないかと説得していたことも知っている。
部屋から漏れ聞こえた笑い声が胸に甦った。電話先では真田くんもまた、素直と同じように楽しそうに笑っていた。
私だけではない。これからアキくんも、学校に行くことはないのかもしれない。
いや、それどころではなく、私たちはもう……。
「ナオ先輩。石田街道の律子も忘れないでくださいよ」
「……りっちゃん」
アキくんの後ろからひょっこりと姿を現したのは、りっちゃんだった。
「チャオです、ナオ先輩。用宗にも愛川家にも来るの久しぶりすぎて、なんかすっごく懐かしいです!」
明るい声は普段通りのものだった。私のために、そうしてくれているのが分かった。笑みを返そうとしたのに、うまく形作れないまま私は問うた。
「二人してどうしたの? アキくんはともかく……りっちゃんは今日、学校だよね?」
問いかけに答えず、用件を切りだしたのはアキくんだった。
「ナオ、温泉行こう」
まったく話が見えてこなくて、私はドアに触れたまま目をぱちくりとさせる。
「温泉?」
なんで急に、温泉?
「そう。寒いし」
「今日、寒いですよねぇ」
アキくんとりっちゃんは大袈裟に肩を震わせてみせる。空は澄んでいるし、過ごしやすい気温という感じで、そんなに寒くないのだが。
「うーん」
私は温泉に行ったことがない。でも明るい気分にはなれそうもなくて、言い淀んだときだった。
「せっかくですし行きましょうよ、着替えの準備手伝いますから!」
「ちょ、りっちゃん」
ものすごく強引なりっちゃんに背中を押され、私は家の中に戻される。
「わ、お家の中もそんなに変わってないですね。記憶中枢がガンガン刺激される!」
りっちゃんは楽しそうに玄関や廊下を見回している。
彼女がよく遊びに来ていた頃から、家の中はそこまで変化がない。せいぜいトイレをリフォームしたくらいで、りっちゃんにとっては勝手知ったる他人の家である。
私は平たい背中を押されるまま、彼女と共に脱衣所前へと向かう。
素直はいつも、お気に入りの服については自室に仕舞っているけれど、家で着るような服やパジャマは脱衣所前のクローゼットに入れている。下着についても同様だ。
りっちゃんは、キャラ物のプリントTシャツとデニムのショートパンツを見繕っている。温泉上がりは熱くなると想定してのことだろう。
私はおずおずと下着を手に取った。素直がそろそろ寿命かと睨み、捨てようとしているやつ。
「でも素直の服と下着、勝手に借りたら怒られちゃうと思うんだ」
怒られたくないな、というニュアンスを多分に含めてみても、りっちゃんには通用しない。
「そのときは自分も一緒に怒られますから」
怒りませんよ、大丈夫ですよ、とは軽く言わないあたり、素直への造詣が深いりっちゃんである。
スパバッグに着替えとタオルをまとめて、玄関に引き返す。アキくんは塗装の剝がれたフェンスに背をもたせかけて、私たちのことを待っていた。
「よし、行くか」
「出発ですね!」
私は引き続き迷いながら、がちゃがちゃと玄関の鍵をかけた。そうして施錠が完了するなり、右腕をアキくん、左腕をりっちゃんに取られてしまう。
思考が一時中断される。
「……ん? なに?」
「逃げるかもしれないので」
きりりとした顔でりっちゃんが答える。微妙に否定できないので、私は押し黙った。
そのまま家の前の道路に出て、真っ赤に塗り直されたポストの前を通り過ぎる。
秋晴れの空に見守られながら、慣れ親しんだ道を三人で横並びになり、てくてくと歩いていく。車が通りかかるときも二人は頑なに腕を離そうとしないので、道と平行になって避ける。
なんだか小学生みたい。それで私は、警察官に容赦なく連行される犯人のようでもあって、もうちょっと広がったら、組み体操の扇にもなれそうだった。
前に何があったか覚えていない空き地では、三匹の猫が気持ち良さそうに転がって日向ぼっこしている。用宗は港町だからか、そこら中に野良猫がいるのだ。
ぴちちとかわいらしく鳴き交わす雀が、電線の上を優雅にお散歩する。道路沿いの無人販売所では、葉がぎっしり詰まった白菜が一玉だけ残っていて、二百円で販売されていた。
のどかな午前だった。杖をついたおじいさんに、三人それぞれのタイミングで会釈を返す。その拍子に、私は握っていた手に力を込めてしまった。
人肌に触れるのも、意味のある言葉を誰かと交わすのも、本当に久しぶりのことに思えた。ここ数日の私は、壁か絨毯かドアか、麵類にしか触れていなかったのだ。
「温泉って、どこの温泉?」
ようやく私には、根本的な質問を口にする余裕ができていた。
駅とは逆方向に進んでいるから、電車やバスには乗らないみたい。そう思って見上げれば、アキくんが視線を向けてくる。
「用宗みなと温泉。行ったことある?」
私は首を横に振る。数年前に近所に温泉施設ができたのは知っていたが、今まで使ってみたことはなかった。
「お風呂が壊れたら行ってみようねって、前に素直とお母さんが話してたけど」
残念ながらというべきか、家のお風呂は一度も壊れていない。歩いていける距離なのに、家族の誰も行ったことがないのだった。
「アキくんは?」
「焼津市民なら、黙って黒潮温泉だから。今は焼津温泉だけど」
どうやら初めてということらしい。
「りっちゃんは?」
「お風呂が壊れたら行ってみようかなと思ってました」
どの家のお風呂も丈夫で、とっても偉い。
道をまっすぐ歩いて住宅街を通り抜ければ、用宗港に突き当たる。右に曲がると、海や魚のにおいが風に乗って港方面から流れてきた。
「あ、見えてきましたね」
用宗港の敷地内にある、黒い外壁の建物が私たちを待ち構えている。屋根の下に沿って、温泉を思わせるマークが描かれた小さなのぼりがいくつも風になびいていた。
「この建物って、昔はマグロの加工場だったらしいですよ。マグロの幽霊が出るかもしれないですね」
「マグロの幽霊ってどんなだよ」
「そういえば、音に聞く幽霊はほぼ人の形してますよね。なんでだろう」
んむむ、と不思議そうに唸るりっちゃんの声を聞きながら、駐車場に目をやる。平日の午前中という時間帯だが、ほとんど埋まっているようだった。
回り込んで、温泉施設の玄関口に辿り着いたときである。組んでいた腕を、存外あっさりとりっちゃんが離した。
「幽霊の謎はじっくり考えるとして、自分は今から学校行ってきます。ナオ先輩の顔を見る目的は達成しましたしね」
「えっ」
予想外の言葉に、私は目を丸くした。
「りっちゃんは温泉行かないの?」
てへ、とりっちゃんが後頭部をかく。
「自分、困ったことに微妙なところで真面目な生徒なもんで。親もどうした何があったグレたのか律子よーって心配しますしね。今から電車とバス使えば、二限……は無謀ですけど、三限には間に合いそうですし」
不真面目代表の私とアキくんは、揃って沈黙してしまう。
それでは本当にりっちゃんは、私の顔を見るためにわざわざ登校前に立ち寄ってくれたのだ。授業をサボったのだって、初めての経験だろう。とたんに申し訳なさが込み上げてきて、私は彼女の手を強く握った。
「りっちゃん、ごめん」
「勝手に突撃してきた後輩に謝らないでください。こういうのも新鮮で乙なものですよ」
ふざけたように笑うりっちゃんだったが、その顔つきが私を案ずるものになる。
「ナオ先輩、思ってたより顔色悪いです。温泉で、ちゃんと身体温めてください」
乾いている頰に、ぺたぺたとりっちゃんが触れてくる。小さな手のひらの感触が心地いい。
「うん。りっちゃんの分も浸かってくる」
「その意気です」
少し笑ったりっちゃんが、眼鏡のレンズ越しにじぃっと私の目を見る。
「それと前に伝えたこと、冗談じゃないですよ。どこにも行くとこないなら自分に言ってください。黙っていなくなったりは、もう絶対だめですからね」
本気で言ってくれていると分かるから、申し訳なさが募った。
夏の海ではまだ見えていなかった現実が、私の眼前に迫りつつあった。聡いりっちゃんも、ひしひしと感じ取っているはずだ。
あのときと変わらない言葉をくれるのは、勇気の要ることだったろう。それなのにりっちゃんには少しの躊躇いもなかった。友人として、いつだって私のことを心配してくれている。
「……ありがとう、りっちゃん」
そんな彼女に今の私が返せるのは、お礼の言葉だけだった。でもりっちゃんはにっこりと笑って、はい、と頷いてくれた。
「ではまた! 温泉の感想も教えてくださいね!」
うん、ばいばい、と手を振って別れる。りっちゃんは早足で駅のほうに向かっていく。
私とアキくんは、いよいよ温泉に突入だ。
外観からして真新しい用宗みなと温泉は、内部もきれいで清潔だった。
脱いだ靴は靴箱に預けて、鍵をかける。私が五十二番、アキくんが右隣の六十番。
入浴券は、二台並んだ押しボタン式の券売機で購入するらしい。
今日は平日料金だ。会員じゃなくて、小学生でもない私たちは一般の九百円。ピンク色のお財布から取りだした千円札を、腹ぺこの券売機にぶいーんと食べてもらった。
私の全財産は、これで十八万八千二百四十円になった。最近は十九万円に戻りたい私と、それを阻止する私の欲望とがデッドヒートを繰り広げている。仁義なき戦いは続いていた。
券を手にフロントに向かうと、制服代わりだろう赤いTシャツを着たスタッフのお姉さんから、カウンター越しに訝しげな目を向けられる。その理由を考えて、はっとした。
そういえば私もアキくんも制服を着ている。それで、今は平日の午前中なのである。どうして学生が、と不審がられるのは当たり前のことだった。
「え、ええと」
黙っていたら変に思われてしまう。私は何かしらのそれっぽい理屈を捻りだそうとした。しかしこういうときに限って、なかなか何も出てこない。
困っていると、隣のアキくんがさらりと言う。
「今日、創立記念日で学校休みなんです」
えっ。
お姉さんは小さく顎を引いてから、リストバンド式のロッカーキーを持ってきてくれた。特に言及する気はないようだった。
お土産コーナーや食堂を横目に、温泉に続く藤色ののれんを通り抜ける。
廊下には額に入れられたモノクロ写真が飾ってあった。海水浴客で賑わう用宗海岸や、用宗の町全体を写したパノラマ写真は、いつ頃撮影されたものなのだろう。
それらを眺めながら、物知りな彼氏に話しかける。
「今日、スルセイって創立記念日だったんだ」
「たぶん違うと思うけど」
ええっ。
どうやらアキくんは、素面で噓を吐いてみせたらしい。その豪胆さに私は畏れ入った。
写真を見終わったあとには、赤と青の湯のれんが待ち構えている。
「上がったら、さっきのラウンジで合流しよう」
「うん、またあとで」
私は左、アキくんは右に分かれる。
脱衣所に人の姿はなかったが、温泉からはお湯の流れる音がしていた。
ロッカーキーは、ロッカーの番号と対応している。自分の番号を見つけて荷物を預けた私は、スカートに手をかけたところでとんでもないことに気がついた。
「……わぁ」
制服のスカートは皺くちゃだった。よく見ると腰のあたりに埃までついている。
脱衣所の鏡を覗いたところで、さらなる衝撃を受けた。絨毯でごろごろしていたせいか、髪の毛がぼさぼさになっていたのだ。
アキくんとりっちゃんが心配そうな顔をしていた理由が、よく分かった。見るも無残な有り様の私が出てきて、二人ともさぞ面食らったことだろう。
羞恥のあまり顔を赤くしながら服を脱ぎ、白いタオルだけ手にして浴場に向かう。
どきどきしながら見回す浴場内にも、落ち着いた雰囲気が流れていた。天井、それに壁の上半分が白く、下半分が黒のモノトーン。壁に取りつけられたライトは、柔らかなオレンジ色の光を灯らせている。
屋内には水風呂を含めた三つの浴槽と、サウナがあるようだ。まんなかの炭酸風呂が人気なのか、特に人が集まっている。露天風呂もある。
ふむふむと見回しながら、足先からかけ湯をする。身体の汚れを落とすだけではなく、かけ湯には身体をお湯に慣らすという意味もあるらしい。
洗い場で髪と身体をしっかり洗い、長い髪の毛をタオルでまとめてから、私はすっくと立ち上がった。
やっぱり露天風呂。最初は露天風呂。兎にも角にも、露天風呂!
心に決めて屋外に向かうが、テレビで見るような露天風呂と異なり、開放感はあまりなかった。空のほとんどは屋根に覆われていて、木材の壁も設えられているので、そんなに景色が見えないのだ。
それよりも気になるのは、一角を占める富士見小屋なる小屋の存在だった。露天風呂の三分の一ほどを使って設置されていて、そこからなら富士山が見えるらしい。
檜の芳香に鼻先をくすぐられた私は、お湯の中をすいすい移動して入り口から小屋に入ってみた。
薄暗い小屋の中は、どこか秘密基地めいていて心が弾む。小屋からは港や海が一望できるのと、よく晴れているおかげで、白い帽子を被っておしゃれする富士山が遠くに見えていた。
目を細めて富士山を見つめながら、岩肌に肘をつく。熱すぎないお湯が心地いい。
考えてみると、ここは山奥の秘境とかではなく港に面した温泉である。屋根や囲いがなければ、裸で入浴するところが公衆の面前に晒されてしまう。覗き対策は必須だったのだ。
しかし、これではどちらかというと、私が港をこっそり覗き見しているようだった。そう思うとちょっとおかしくて、笑ってしまう。
このまま小屋に住んじゃおうかと思ったところで、数人の話し声が聞こえてくる。私は数秒前の夢想を忘れて、いそいそと小屋を這い出た。せっかくの景色を、独り占めしてはもったいない。
そのあとは屋内を巡って楽しんだ。最終的に炭酸風呂に落ち着いた私は、数えきれないほどの泡に抱きしめられた手足を伸ばす。
「……あったかい」
うーん、と大きく伸びをすれば、一斉に泡の群れが逃げだした。お湯がちゃぷちゃぷして、炭酸がぱちぱちして、口元はのびのびと緩んでいく。
「温泉って、すごい」
ほぅ、と肺に溜まった温かい息を吐く。そこで私は何気なく時計を見た。
十二時十分前だった。
視線を逸らそうとしたところで、いやいやいや……と思い直す。
二限は始まっているけれど、三限には間に合いそう。確か、りっちゃんはそんなふうに言っていた。二限は十時からで、三限は十一時からだ。
すると私はひょっとして、のんびり二時間近くお湯に浸かっていたのではないだろうか。
アキくんと合流地点は約束したものの、何分後に集合するか決めていない。男女分かれての待ち合わせ、に慣れていないがゆえの初歩的なミスだった。
アキくんは温泉から上がっただろうか。今も浸かっているだろうか。
考えてみる。お風呂の時間というのは、総じて女子が長く、男子が短いイメージがある。お父さんは烏の行水だし、お母さんは長湯して、二時間くらい浴室から出てこないときもある。素直がたまに気がついて呼びに行くと、お風呂の中で寝息を立てているのだ。
私は一分で結論に達した。待たせてしまっては悪い。びびびびび、と発射される遠赤外線サウナで全身を焼かれたい気持ちもあったけれど、そろそろ上がらなければ。
ざばざばとお湯をかき分けて、私は浴場から上がった。
身体を軽く拭いてから脱衣所に入ると、鏡の前では、大学生くらいの二人の女性が椅子に腰かけて話し込んでいた。海岸沿いの商業施設ハットパークの、どの店でお昼を食べるかを話し合いながら、ビューラーで睫毛を持ち上げている。
湯上がりの火照った身体にシャツを被せていると、ころりと何かが落ちてきた。水色のシュシュだった。
私が入れた覚えはないので、りっちゃんが入れてくれたのだろう。彼女らしい、粋な演出だった。
私は髪をドライヤーで乾かしてから、シュシュで緩めに髪を結ぶ。
よく磨かれた鏡からこっちを見返してくるのは、ハーフアップの私。いつも通りの、ちょっとだけ久しぶりの、私。
何度も角度を調節して、よし、と頷くと、私は重くなったバッグを手に脱衣所を出た。
ラウンジをきょろきょろと見回すが、アキくんの姿はなかった。食堂や、お土産コーナーにもいない。
意外にも私のほうが早かったようだ。待たせなかったことにほっとしていると、背後からぱたぱたと慌ただしい足音がした。
のれんをくぐって現れたのはアキくんだ。ブラウンのシャツに、黒のパンツを合わせている。
「ごめんっ。なんかサウナで、地元民のおじさんに気に入られちゃって」
アキくんのことだから、なかなか話を遮れずに困っていたのだろう。その図を想像するとおもしろかった。
「大丈夫、私もさっき出てきたとこだから」
そっか、と胸を撫で下ろすアキくんだったが、焦ったあまりちゃんと髪を乾かしていないようだ。短髪だからといって、手を抜いたら風邪を引いてしまうかもしれないのに。
私は使っていないフェイスタオルをバッグから取りだした。
「アキくん、水滴落ちちゃってるよ」
背伸びをして、髪の毛を拭いてあげようとする。気がついたアキくんが恥ずかしそうに払いのけようとした。
「いいよ、自分でやるから」
「いいから大人しくしてて」
ぴしゃりと言い返せば、八の字眉のアキくんが見つめてくる。その瞬間、私の心臓あたりから異音がした。
「……ナオ? どうした?」
たちまち硬直した私を、アキくんが不思議そうに見やる。その短い髪が艶々と濡れている様子が、ますます私をときめかせる。
いつもと違うのは一点だけ。
髪が濡れているだけなのに。ただ、髪が濡れているだけなのに!
そう自分に繰り返し言い聞かせても、濡れた髪をしたアキくんは幼げで、なんだか特別、無防備な感じがする。家族くらいしか見られない、貴重でありがたい感じがする。

でも、そんなこと本人に向かって言えない。悶々とするのを誤魔化そうと、私はアキくんの頭皮やら髪やら首やらを力任せに拭きまくった。
「ちょっ、痛いって」
文句を言うアキくんが、耐えかねたように私の両手を上から摑む。大きな手は温かくて、全身から私と同じ香りの湯気が立ち上っているようだった。
目が合うと、アキくんが顔をくしゃりとさせる。
「なんか、一緒に住んでるみてぇ」
「えっ、そう?」
どきりとする私に、彼が悪びれなく言う。
「今のナオ、お母さんっぽくて」
「……所帯じみてるってこと?」
私はむくれた。
なんだか、期待していたのと違う。へそを曲げたのに気がついたアキくんが、ぎこちなく話題を変える。
「そうだ、お昼時だけどお腹空いた?」
やれやれと思いつつ、私は乗ってあげることにした。
「ちょっとだけ」
なぜかというと、空腹だったからである。
ここ数日の、お腹が鳴ったから致し方なく何かを胃に入れる、という感覚とはまったく違う。私は明らかに元気になってきている。温泉で身体が温まったおかげで。りっちゃんとアキくんのおかげで。
館内の食堂はかなり混雑していたので、お昼は別のお店で食べることにする。
建物から出ると、入り口前の石垣に目がいった。先ほどは目に入らなかった、聳え立つような石垣の上に掲げられた看板には、アオサギの巣がありますとあった。
看板に描かれたお母さんサギと雛サギの絵がかわいい。先ほど覗いた食堂の名前がアオサギ食堂だったのも、この巣の影響だろうか。
巣の様子をちょっとでも見てみたくて、その場でぴょんとジャンプしてみるが、背の高い雑草が生えているくらいで巣らしいものは見当たらなかった。
「どうした?」
「あの奥にアオサギの巣っ、あるんだって」
「へぇ」
「アキくん、見えるっ?」
背の高いアキくんならばあるいは、と思って跳ねながら訊いてみる。
アキくんは背伸びをして、手で庇を作っている。
「ぜんぜん見えない。回り込んで見てみる?」
「うんっ」
石垣の上は、第三駐車場になっているようだ。アオサギの親子がびっくりするかもしれないので、遠目に駐車場を見てみる。
「巣、どれだろう」
「どれだろうな」
それっぽいのがまったく見当たらない。
そんなことをしている間に、ぐぅとお腹の鳴る音がした。私は気遣わしげな表情を形作った。
「アキくん、お腹空いちゃったよね。アオサギはまた今度見つけようか」
「俺の腹は鳴ってないけどな」
聞こえない振りをして、先んじて歩きだす。
駐車場を抜けたところでアキくんが訊いてきた。
「どこでごはん食べる?」
「どうしよっか。このあたり、お店たくさんできたんだよね」
お店が増えて、人が増えて、用宗はまだまだ発展途上という感じ。素直は海岸沿いのお店でジェラートを食べたり、お団子やハンバーガーを食べたりしたみたい。
「みなと横丁は? 前からちょっと気になってて」
みなと横丁というのは、用宗港の目前にあるグルメスポットだ。数年前はかなりレトロな外観の横丁だったのだが、リノベーションされ、おしゃれで活気ある場所に生まれ変わっている。歩いてすぐというか、もう目と鼻の先に見えている。
「行ってみたい。なに食べる?」
「俺は、魚の気分かな」
おお、と私はわざとらしく感嘆の吐息をこぼす。
「さすが焼津っ子だ」
「ていうか、温泉入ってるとき魚のにおいがして」
「それ、私も思った!」
炭酸風呂に浸かっているとき、開けっぱなしの大窓から風が流れ込んできた。ほんの一瞬、鼻先をくすぐった風は明らかに魚の顔をしていた。
あれはもしかすると、温泉客に海鮮を食べさせようという偉い人の陰謀なのかもしれない。そんなことを真剣に話し合いながら、私たちはみなと横丁一階入り口にある、次郎丸という海鮮のお店でお昼にすることにした。
硝子張りの店内は満席だが、ちょうど会計中のお客さんがいる。外で待つ間、眺めてみた横丁内は噂通りのスタイリッシュな空間だった。ひとつだけぶら下がる赤い提灯が、なんだかかわいい。
通されたのは窓際のカウンター席だ。港の景色が見えて、ちょっとお得な感じがする。
「どれ食べる? 今日は俺、奢るから」
秋也の金だけど、とアキくんが冗談めかす。
「それじゃあ遠慮なく、お願いします」
私は大人しく甘えることにして、二人のまんなかでメニュー表を開いた。
「たくさんあるね」
どんぶりがたくさん。握り寿司や、しらすのピザまである。どれにしたものかと悩ましい。
用宗は日本有数のしらす名産地というのもあってか、家でもしらすはよく食卓に出る。素直は生しらすより、釜揚げしらすが好きらしい。熱々の白米の上にしらすを盛り、刻みネギを載せて食べているのを知っている。
しらすのことを考えていたら、無性に食べたくなってきた。夕ご飯をほとんど食べたことがない私は、あんまりしらすに出会ったことがないのだ。
「私、ハーフ&ハーフ丼がいいな」
選んだのは、生しらすと釜揚げしらすが半分ずつの、しらす尽くしのどんぶりだ。
「さすが用宗っ子」
「アキくんは?」
「俺は海鮮丼ってやつ」
アキくんがメニューのいちばん上を指さす。生しらす、釜揚げしらす、それに中トロと桜えびまでどどんと載った、豪華などんぶりである。
注文から三分もしないうちに、まずお通しが運ばれてきた。里芋と豚肉の煮物は、舌の上で蕩けるみたい。味わっているうちに、どんぶりと味噌汁が運ばれてきた。
アキくんの海鮮丼は本当に色彩豊かだけれど、黄色い玉子焼きと緑の刻みネギが彩るハーフ&ハーフ丼だって負けていない。
生しらすも釜揚げしらすも、窓越しに降り注ぐ燦々とした日光を浴びて、きらきらと美しく煌めいている。
私は小皿に醬油を出して、ちょんちょんとつけてから、つやつやの生しらすを頰張ってみる。食感はぷりぷりとしていて、舌触りがいい。
「おいしい」
頭に新鮮ってつく味を、口の中で堪能する。
次はたっぷりのネギと一緒に、生しらすを頰張ったり、釜揚げしらすに浮気したり、最終的に生と釜揚げを一緒に口の中に入れてみたり、もうやりたい放題だ。
特に気に入ったのがわさび醬油だった。醬油にわさびを溶かして、生しらすにちょんっとつけると、びっくりするくらい味わい深くなる。生しらすが持つほのかな苦みが、わさびのぴりっとする辛みに溶けていくのだ。
生姜もいいけれど、わさびがいっとう好き。調子に乗って入れすぎたら、鼻の奥がつーんとして、ちょっと涙まで出てきてしまった。
温かで優しい味のお味噌汁で涙腺を宥めていると、アキくんが呟いた。
「ナオは偉いよな」
なにが、とわさびで潤んだ視線だけで問う。アキくんはこちらを見ずに、光り輝くような赤身にわさびをつけている。
「ちゃんと貯金貯めてて、偉いなって」
「私、お母さんからお小遣いもらってるだけだよ」
「でも、ちゃんと自分で働いて、それで得た収入だろ。秋也の脛かじってる俺より偉い」
いつもよりアキくんは、真田くんのことを口に出したがる。普段は自分から話題に出さず、なんにも気にしていないように振る舞うのに。
その変化の理由を、私は知っていた。頭の中で休むことなく考えているからだ。真田秋也くんのことを。急に学校に通いだした、自分のオリジナルのことを。
聞かなくたって分かる。だって、私も同じだから。
「偉くないよ、私」
そう答えたのをきっかけに、言葉は次々と溢れだした。
「ちっとも偉くない。ぜんぜん前、向けてなくて、素直が学校行ってるのに……お祝いだってできない」
「俺もそうだよ」
アキくんは、強い実感のこもった声で頷いた。
湯吞みのお茶を、ほとんど同じタイミングで飲む。何かの言葉を探したいとき、透明なお茶の中に答えを探してしまうことがある。あるいは、お茶と一緒に吞み込みたくなるときがある。
店内は人の話し声で賑わっているのに、私たちだけ、違う場所にいるみたいだった。
「俺、高校卒業したら働きに出ようかな」
温かい湯吞みを手にしたまま、私はぽかんとした。彼が急に何を言いだしたのか分からなかった。
「ナオは頭いいから、大学受ける?」
「受けないよ、私」
受けないじゃなくて、本当は受けられない。レプリカでも受け入れてくれる大学なんて、日本中を探しても見つからない。海外だって、どだい無理な話だ。
「ナオが大学行くなら、俺も同じとこ行く」
アキくんは与太話をやめない。嚙み締めた歯の奥で、引っ掛かったネギがしゃりっと鳴る。
「そんな理由で将来設計決めちゃ、だめだよ」
「彼女と同じ大学、って誠実な理由だと思うけどなぁ」
「……レプリカは、大学行けないよ」
言ってしまった私にも、アキくんは表情を変えなかった。
「そうとは限らない。リョウ先輩だって、小中通ってたんだし」
小中と高校と、それに大学は違う。
よく知らないけれど、たぶんぜんぜん違うよって言おうと思った。言えなかった。言いたくなかった。
だって私も、アキくんと話していたかった。明日の、もっと先の、尻尾すら摑めない未来の話を、飽きるまでしていたかった。
「どこの大学、受けようか」
ようやく乗った私に、アキくんが軽やかに笑う。
「やっぱ東大?」
「記念受験で?」
「受けるからには本気でやろうぜ」
そうは言っても、本気で目指すには遅すぎる気がする。
でも、そんなことないのかも。私たちはまだ十六歳とか、十七歳とかだったりする。どんぶりから見返してくるしらすより、ぴちぴちだったりする。五十の手習いということわざがあるように、遅いなんて口にするのは、それこそ早いのかもしれない。
そんなふうに思い込んでも、罰は当たらないのかもしれない。
「滑り止めはどこにする? 静岡県内?」
「夢がないな」
「理想論ばっかりじゃ、失敗したとき困るからね」
「それは言えてる。ナオはやっぱり文系学科がいい?」
「楽しそうだよね、文学について改めて学ぶって。なんか、本当に」
ありもしない未来の話をするたび、私の胸はつぶれそうになる。
一か月後。一年後、三年後、十年後。私はそのとき、何を思っているだろう。
私はまだ、何かを思う私でいられるだろうか。彼の隣にいられるだろうか。
「ごちそうさまでした」
声と両手を合わせて、米粒ひとつ残さず空になったどんぶりに唱える。
会計を済ませて、私たちはお店を出た。宣言通りアキくんの奢りだ。ちょっと照れくさくて、嬉しかった。
「ねぇ。海、見に行ってもいい?」
「うん」
再び温泉施設の前を通って、海岸の方角へと向かう。諦め悪く第三駐車場を振り返ってみたが、やっぱりアオサギの巣は見つけられなかった。
防潮林の手前を横切れば、今までほとんど遮られていた青い空と海が私たちを迎えた。
軽く助走をつけて、私は堤防に上る。アキくんは堤防の壁面を片足で摑み、あっさりと上ってしまった。
アキくんが体勢を整えるときには、私は堤防の上を焼津方面に向かって歩きだしている。最初はちょっとふらついたけれど、両手を広げてしっかりバランスを取るようにする。
いち、に、いち、に。
全長一・五キロメートルに及ぶ海岸線を、はしっこからはしっこまで。
「ナオ、危ないって」
小学生の頃の素直とりっちゃんが、度胸試しをしようと手を繫いで落ちていった堤防。でも私は、落ちるつもりなんてなかった。
「へーきだよ」
アキくんはどこか呆れたようだったが、それ以上のお小言は引っ込めて後ろをついてきてくれた。
遠くには急崖の大崩海岸が見えていた。堤防から眺める青空には、サランラップより薄い巻き雲が広がっている。海は濃紺に近い色をしていて、砕ける波ばかりが白かった。
私が閉じこもっている間にも、季節は冬に向かっているのだ。どんどん太陽は腰が低くなって、日は短くなっていって、気がついたときには、大地はとっくに冬の懐に抱かれているのだろう。
本格的な冬が到来したら、手袋を着けたかった。白い息を吐きたかった。気まぐれな風花に触れたかった。ピザまんが食べたかった。肉まんでも良かった。
夢見る私の足元を掬うように、ぴゅんっと海からの強い風が吹いた。
「わっ」
予期していないタイミングで横風を喰らった足が、たたらを踏む。
「危ないッ」
落ちそうになる私に、アキくんがとっさに手を伸ばす。
彼の腕が、私を抱き寄せた。そこにまた強風が襲いかかってくる。
「うわっ、わっ、わっ」
抱き合ったまま、どうにかその場に留まろうと私たちは声と動きを合わせて奮闘したが、人形のようにその場でくるくるくるくる、二度の回転を経たところで、努力は水泡に帰した。
あまりに呆気なく、四本の足が地面から離れていた。
一瞬の浮遊感があった。全身に配置されている内臓が、ふわっ、とあらぬ方向に浮く。さぁっ、と音を立てて血の気が引いたときには、視界が反転していた。
顔のあたりに小さな衝撃。腕に当たるのは、砂の感触だろうか。
やがて世界には、音が戻ってくる。潮騒。車のエンジン音。私のじゃない息遣い。ぴーるーぴるるるーという甲高い鳴き声は、アオサギじゃなくてトンビ。
……反射的にきつく閉じていた目を、私はのろのろと開ける。
目蓋が、鼻と口が、アキくんの胸板にくっついていた。私たちは抱き合ったまま、二人で砂浜へと落っこちたのだった。
噓みたいに、触れ合うお互いの身体が熱い。遠目に見れば、ちかちかと真っ赤に点滅していたかもしれない。
アキくんは私より早く状況を理解していたようだったけど、起き上がることも、私の背に回した手を離すこともしなかった。その理由は、震える全身の感触からして明らかだった。
「心臓、死にそう」
いかにも大袈裟な喩えだったけれど、一緒に落ちた私にはその意味がよく吞み込めていた。私の心臓も一秒前まで死にかけていた。今さらになって血液はどくどくと強く巡って、すべての臓器はお祭り騒ぎをしていた。冷や汗が噴き出てきて、止まらなかった。
素直とりっちゃんは、どうしてこの高さから笑って跳ぶことができたのだろう。小学生だから、だろうか。それとも親友と一緒だから、怖いものなんてなかったのだろうか。
「ごめん」
「わざとじゃないよな?」
彼の腕に抱かれたまま、私は首を横に振った。顔色は見えなかっただろうが、擦れる髪の感触で伝わったはずだ。
「だよな」
アキくんは、ほっとしたようだった。念のための確認だったのだろう。前科ありだから、不安にさせるのも当然だ。
慰めるように背中を叩く大きな手が温かくて、優しかった。とんとん、とんとんとん。一定のリズムは、赤ちゃんをあやすようでもあった。
この海で、壊れるように泣いた日は今も鮮明だった。まだあれから一週間しか経っていない。あるいは、一週間も経ってしまった。
「アキくん、私ね」
アキくんの短い髪から、私と同じにおいがしていた。目にしみるようなミントのシャンプー。
「寂しい」
口にすると、それは、ひとつの実感として押し寄せてきた。
「リョウ先輩がいなくて、寂しい。学校に行けなくて寂しい。素直が何を考えてるか分からなくて、寂しい」
寂しいは、怖いとよく似ていた。リョウ先輩がいなくて怖い。学校に行けなくて怖い。素直が何を考えているか分からなくて、怖い。
素直とは違う。私には、怖いものだらけだ。
「私、情けないよね」
「情けなくない。俺も一緒だから」
鼻声で呟く私に、アキくんがそう言う。
「俺も寂しいから。寂しくて、怖いんだよ」
そうだよね、と私はゆっくり頷いた。苦しんでいるのは、やるせないのは、私だけじゃない。リョウ先輩と過ごした日々は思い出と呼ぶには早すぎて、鮮明だった。
それでもアキくんとりっちゃんはなんとか前を向いて、一歩も動けずにいた私を日の当たるほうに引っ張ってくれたのだ。
目蓋の裏で、体育館のステージを思った。泣きながら微笑むリョウ先輩を思った。見つけたばかりの彼女には、もう、思い出の中でしか会えない。
そして消えていく彼女の姿に、私たちは、自分自身を重ねていたのだ。
「あんなふうに自分がいなくなるの、俺、いやだ。怖い」
私を抱く手に力がこもる。離れたくないのだと、訴えるように。
素直と真田くんには、どんなに想像を巡らせたって理解できないだろう。どれだけ私たちが怯えているのか。怖くて怖くて仕方ないのか。
堤防の上よりも、海の中よりも、ずっと不安定に揺れ続けるレプリカ。気まぐれなたった一言で塗り替えられてしまう現実は、わけがわからないくらい、怖いんだって。
「怖いね」
「うん。怖い」
言霊には力が宿る。言葉にしてしまうと取り返しがつかないことだってある。でも人は、恐怖を分け合わなければ生きていけない。
私はアキくんの胸板に、強く頭を押しつけた。怖いね、怖いよ。私たちはそうやって痛みを分け合った。溢れ出そうな苦痛を半分こにしながら、二人で積み上げた言葉の塔が壊れないよう、震えを押し殺していた。
ふと頭上から、ひゅう、と笛のような鋭い響きが聞こえた。
ぴくりっ、とアキくんの肩が動く。私も驚いて振り仰げば、通りかかった見知らぬおじさんが口笛を鳴らしていたのだった。
「青春だね、若者!」
親指を立てられる。
はい、青春です、と答えるには、私たちには人生経験というのが圧倒的に不足していた。
ご機嫌そうに去っていくおじさんを無言で見送る私の耳に、アキくんの小さな声が届いた。
「あれ、サウナのおじさんだ」
「えっ、うそ」
「サウナで一緒に『ヒルナンデス!』観た。おじさん、台湾カステラ食べてみたいらしい」
ものすごくどうでも良かった。
「……っふ、ふふ。あはは」
耐えきれず、私は噴きだしてしまった。ぽすぽす、同じく笑うアキくんの胸板を叩く。
何それ。台湾カステラって。
ひとしきり笑って、涙がにじむ目尻を拭ってから、ようやく起き上がる。お互いの惨状をまじまじと確かめて、また笑っちゃう。
「せっかく温泉入ったのに、砂だらけだね」
「だな」
おかしかった。これじゃあ温泉に浸かった意味がない。
でも、無意味なんかじゃない。温泉と海鮮丼に温められた身体の芯はぽかぽかしていて、汗までかいちゃうくらいだった。どんなに寒い日がやって来ても、この膜がある限り、私が凍えることはないと思えるくらいに。
服や肌についた砂をぱっぱと払ってから、アキくんが伸びをする。
「いいこと思いついた」
「うん?」
「俺たちも二人で修学旅行、するか」
私は目を輝かせた。
十一月十七日からは、二年生の修学旅行が始まる。
行き先は京都。素直と真田くんが行くなら、私たちは行けない行事だ。そこで思考を停止していたのに、アキくんはすごい。どうしてそんなに素敵なことを、思いついちゃうんだろう。
「二泊三日のお泊まり旅行?」
嬉しさに弾む声で、大切なことを確認する。十七日から十九日が、修学旅行の日程だから。
頷いてくれると思ったアキくんは、中途半端なところで動きを止めてしまう。
右手の指が、頰をかく。それが困ったときの癖だと、ずいぶん前から私は知っている。
「そこまでは考えてなかった。……泊まりはさすがにやめよう」
「どうして? 私、行きたい!」
意気込んで答えて、ちょっと恥ずかしくなる。
「アキくんと行きたいよ、お泊まり旅行。……だめなの?」
もじもじしながら言い直す。不安になった私は、上目遣いでアキくんを見上げた。
とっておきの提案に、浮かれているのは私だけだろうか。
でも修学旅行と銘打つなら、日帰りじゃあ物足りない。どうせならやっぱりお泊まりして、時間を気にせずに、めいっぱい楽しみたい。
「だめ、じゃない、けど」
言い淀むアキくんに、私は前のめりになって攻め込む。
「じゃあ、いい?」
「……まぁ」
やった。
その場でジャンプしそうになるのをどうにか堪えて、提案する。
「それなら私、行きたいとこあるんだ」
「どこ? ハワイ?」
今日のアキくんは、たくさん冗談を言う。でも私が行きたいところは、海外でも沖縄でも北海道でもなくて、まして京都でもない。
たったひとつだった。
「魔界の牧場」