「レティシア様! あ、あぶのうございます!」
「レティシア様、おやめください! 猫よりレティシア様の御身が大事です!」
「平気よ。騒いではダメ。あの子が怯えてしまうわ」
樹齢百年はありそうな桜の大木によじ登りながら、レティシアは下で騒ぐ人々に、静かにしててね、とお願いしたくて、桜色の唇に人差し指をかざす。
「レティシア様にお怪我でもさせましたら、私共はフェリス様にあわせる顔がございません!」
「怪我しないから大丈夫ー。フェリス様には内緒にしてねー?」
昼間から猫の為に木登りをする姫君が、フェリス様の御好みかどうかわからない。
わりと喜んで大笑いしてくれそうな気はするけど……。
「大丈夫よ。何もしないわ……きゃ……ドレス……」
桜の枝にひっかけて、ドレスが少し破れてしまった。
「うう……。フェリス様やみんなが用意してくれたドレスなのに、破れちゃった……ごめんなさい」
「レティシア様、ドレスなどお気になさらず! う、動かないで下さいね! いま、私がそこに参りますから……!」
「いや、女官方はそれこそ御自身のドレスが邪魔に、私共が参りますゆえ、姫、決して! 決して動かれますな!」
「ど、どうしよう……大騒ぎになってしまった……」
真っ白な猫ちゃんが動けなくて困ってたから、怪我してるのかな? と思って、様子を見ようとレティシアが大木に登りかけた時には、ちょうど一人読書してたから、誰もいなかったの……。
「みゃー?」
「ね、猫ちゃん……」
逆に、レティシアが助けに来た白い猫に、だいじょうぶ? なんか凄いことになってない? と心配するように見下ろされた。
だ、大失態……。
やはり、賢明なる姫としては、誰かに、あの猫を助けてあげて、うまく降りられないみたいなの、とお願いするべきだったんだ。
「あのね、私、自分で降りられるから」
んしょ、んしょ、とよじ登って、白猫を腕の中に抱っこする。
白猫は、下の人間どもの騒ぎに困ってるレティシアを哀れと思ったのか、大人しくレティシアに抱かれてくれた。
「いいえ、ダメです! 姫様はそこを動かないで! 誰か、上手に浮遊魔法のできる者を呼んできて」
「みな、レティシア様が落ちられてはいけないから、芝生にやわらかなクッションを敷き詰めましょう」
「ど、どうしよう、猫ちゃん……」
こんなにみんなを困らせてしまった。そ、そんなつもりでは……。
どうしよう、フェリス様、ごめんなさい。
フェリス宮の皆様をこんなに心配させてしまいました……。
今日のレティシアは、悪い子です……。
「……レティシア、どうしたの?」
しょんぼり。
でも早く降りて、皆を安心させてあげなきゃ、と思っていたら……。
「フェリス様……?」
桜の樹の上にフェリスが出現して、猫ごとレティシアを、ふんわり、腕に抱きしめる。
「にゃー!」
えええ? とレティシアの腕の中の白猫ちゃんも狼狽えている。
「フェリス様! よかった! フェリス様が御戻りに!」
「フェリス様、ああ、レティシア様、よかった!」
フェリス宮で働く人は善良というか、フェリス様に怒られることより、一番にレティシアの安全を喜んでいる。
これはたぶん、普段のフェリス様のお人柄もあるんだろうけど。
婚礼の旅立ち前のサリアでは不祥事が起こると、何とか隠そうとする人たちが多かった。
「レティシア、ここからの眺めは確かにいいけど、一人で登るのはちょっと危ないよ? 僕も誘ってくれないと」
「フェリス様。どーして……?」
「さっき、レティシア、僕の名を呼んだでしょ?」
「え? え? え?」
白い猫を抱えたまま、レティシアはきょときょとする。
呼んだ? かも?
フェリス様、ごめんなさい、大騒ぎになっちゃった、どうしようって、心の中で呼んだ。
呼んだけど、まさか、いますぐ来てくれるとは思ってなくて……。
「フェリス様、お、お仕事は……」
「大丈夫。今日の要件、ほぼ終わったし。急に執務室から消えて驚かせたかな? ぐらい」
「ご、ごめんなさい」
「問題ないよ。もっと早くレティシアのもとへ帰るつもりだったのに、遅くなっただけだから」
フェリス様は予想通りというか、レティシアを怒ったりなさらない。
「このコを助けるつもりだったの?」
「は、はい。みんなには見つからぬうちに、このコと一緒に、樹から降りるつもりだったのですが……」
「なるほど。僕のお嫁さんは見かけよりお転婆さんなんだね」
「や、山だしの小娘に呆れられましたか……?」
お可哀想なレティシア様、変人であろうとなかろうと、フローレンス大陸で一番豊かとまで言われるディアナの王弟殿下が、サリアの田舎の小娘など相手になさるはずもない……。
呪いの歌のように、サリアで聞かされた言葉が耳に蘇る。
本物のフェリス様は、こんなにお優しいのに。
私と猫を落とさないように柔らかく抱いて、樹の上で楽しそうに過ごす魔法使いの王子様。
「いや? レティシアのおかげで、久々に木登りできて、僕は楽しい」
そして、私のすることを、何でもおもしろがってくださる……。
「フェリス様も……ちっちゃいときは、木登りしました?」
「うん。登るというか、魔力で飛んで、ときどき樹の上で休んで、下界を眺めてた。森の奥だの、山の上だの、樹の上だのは……誰もいないから、楽だった」
「誰からも捕まえられないところへ……?」
いまも、背中に羽でも生えていそうなフェリス様。
「そう。僕が子供のときはそうやって好き放題しといて、レティシアがちょっとでも危ないとこにいくのは嫌なんだから、大人って勝手だよね」
「十七歳は、まだ大人じゃないです……」
「ホント? レティシアと一緒の枠にいれてくれる?」
「はい。私の旦那様は、まだ子供です。私をおいて、一人で大人にならないでくださいね」
大騒ぎを起こして、猫と一緒に助けにきてもらっといて、言えた義理ではないのだけれど。
でも、レティシアはフローレンス大陸生まれだけど、私は日本育ちでもあるので。
十七歳は、もう少しだけ、子供でいさせてあげたいの。
その頃、前世の私は事故で両親を失ったから、ひとりぼっちで大変になったけど、友達はみんなお父さんやお母さんに甘えていられる、子供でいさせてもらえる歳だったよ。
「僕を子供扱いする人は、きっと、……と、レティシアくらいだよ。貴重な姫君だ」
「いっしょに大人になりたいのです、フェリス様と」
一緒に育つ幼馴染みのように、なれたらいいなと。
私達は、何なら戦場で出逢った戦友のようなものなので。
「そうだね。僕も、そうしたい。これからは、僕の姫君と一緒に大人になりたい」
花の咲き乱れる春爛漫のディアナ王宮で、大人のような子供のような、美しい、ほんの少し寂しい瞳をした婚約者様にお逢いした。
世界中の何処にも味方はいなくなってしまったレティシアに、ディアナの竜の神様そっくりな王子様がとても優しくしてくれたので、久しぶりにお水をもらって生き返った花のような気持ちになった。
これからレティシアのたった一人の家族になるのだから、レティシアもフェリス様をうんと大事にして、甘やかしてあげたい。
おなじ時間を過ごして、一緒に大人になりたい。
「フェリス様ー! そんなところで御二人でお花見なさらないで、レティシア様とともに降りて来て下さい」
「絶景だよ? 御茶と御菓子もここに運ぼうかと」
「みゃー」
「ダメですよ、フェリス様はともかく、みんなが心配してますから、一度降りてきて、レティシア様の無事な御顔を見せてあげて下さい」
レイが、心配ないから、と地上で皆を諫めてくれている。
「あんな風に下界はうるさいんだよ、何事も。今度、レティシアと二人で行こうね。樹木の上でお茶してても怒られないとこに」
「行ってみたいです! でも、皆様にとっても心配かけたのは申し訳ないです……」
大反省。
すぐ降ろしてあげられると思ったんだけどなー。
最近、運動不足でなまくらになってるのかも。
「うちのお姫様が意外にお転婆さんで、僕は嬉しいよ。でも怪我しないでね。落ちそうになったら、僕を呼んで。何処にいても飛んでくるよ」
心の中でお呼びすれば、フェリス様に聞こえる?
便利!
あれ? 便利なのかな?
私、フェリス様に内緒ごととかできない?
「そんな顔しなくても大丈夫。僕が心の中を覗いてる訳じゃないから。レティシアが呼ばなければ聞こえないよ」
「……はい」
よかった。
ちょっと、安心。
フェリス様に内緒ごととかそんなにないんだけど、御菓子もうちょっと食べたかった……フェリス様ってホントに美形……とかぜんぶフェリス様に聞こえてたら恥ずかしいから。
「レーヴェみたいに覗き趣味じゃないから」
「レーヴェ様?」
「みゃーみゃー」
フェリス様に抱かれて、猫ごと、皆の待っている地上に降りていく。
レティシアの腕の中で猫ちゃんがちょっと不安がっている。
「レティシア様、御無事でよかったです!」
「ああ、レティシア様、よかった……!」
「ごめんなさい、サキ、みんな。危ないことするつもりじゃなかったの。次はちゃんと人を呼ぶね」
みんな本当にほっとした顔してるから、申し訳なくて。
ちゃんと謝る。
「いいえ、いいえ、レティシア様に、お怪我がなければよいのです……、ただ心配だっただけで……」
「フェリス様、申し訳ありません。フェリス様のお留守にお守りできず……!」
「フェリス様。筆頭女官の私の責任です。私が注意を怠りました」
皆がレティシアの無事を喜んで、フェリスに詫びようとしている。
レティシアは、深く、深く、反省……。
そうだよ、レティシアが落っこちて怪我でもしたら、みんなは悪くないのに、みんなのせいになっちゃうよ。
「問題ないよ。僕の留守中、レティシアが部屋から一歩も動かなかったら、それはそれで懸念事項だしね。……皆、心配かけたね。魔法が得意な者がいつも動けるとは限らないから、このクッションの山は賢いね。みんなで僕の小さな妃を守ろうとしてくれて、ありがとう」
レティシアがいつ落ちてもいいように、とありったけのクッションや柔らかいもので埋め尽くされかけた庭の芝生に愛を感じる。
フェリス様が優しい様子でいてくれるのも、本当に感謝。
これ、普通の貴族の家なら、お転婆したレティシアでなく、心配してたフェリス宮の方々が罰されてしまう。
「みゃあ……」
「猫は怖がってただけなのかな? 身体に問題ないか、医者を」
「みゃあみゃあ」
「ダメ、猫ちゃん。フェリス様の髪が乱れちゃう」
「……僕のレティシアを誘惑してはダメだよ」
「みゃ、みゃ、みゃう」
じゃれつかれたフェリス様が微笑して言い聞かせると、何故か猫ちゃんが、か、畏まりました、と言いたげにフェリス様に恐縮している。
「フェリス様、猫語も話せるんですか?」
「話せない。お願いしてただけ」
「……それにしては、猫ちゃん、怯え過ぎのような?」
レティシアが訝しむ。
「僕の顔が怖いからかな?」
「それはぜったい違うと思いますが……」
「みゃうう」
何故だかわからないけど、猫ちゃんも反省モード。
でも、猫ちゃん、ちょっと動きにくそうにしてたから、足とか不具合がないか、お医者様に診て貰えるのはよかった。
「フェリス様、降ろして下さって大丈夫です」
フェリス様的に私は軽いのかも知れないけど、そろそろ地面に降りたい。
「このままレティシアの部屋まで運ぶよ。レティシア、靴を履いてないよね」
「あ、靴」
靴はちょっと途中で落ちちゃったの……。
そりゃそんなの上から落ちてきたら、みんな心配しちゃうよね。
「靴が脱げちゃったってことは、靴のサイズを採寸しなおすべきかも知れないね。レティシア、ちょっと成長したのかも?」
「いえ、単に、木登り用の靴ではなかったのだと……」
可愛いお姫様のシューズにそんな用途は想定されてないと思うし。
「あ、フェリス様、頂いた美しいドレスがほつれてしまいました。ごめんなさい」
「レティシアに傷一つなくて何よりだよ」
私の婚約者様は、私に甘過ぎなのでは……。
「私がわるいことしたら叱って下さいね、フェリス様。フェリス宮では、フェリス様以外、私を叱れないので……」
フェリス様に物凄く甘やかされて、我儘姫に育たないよう、気を付けなくては……!!
「悪い事には思えない。人助けじゃなくて猫助け?」
「みゃあみゃあ」
「緊張しすぎたサキは休ませてあげて。……誰かあとで、レティシアの部屋に御茶と御菓子を。ドレスがほつれたようだから、着替えのドレスも」
「畏まりました、フェリス様。……レティシア様、本当に御無事でよかったです!」
「ありがとう。心配かけて本当にごめんなさい」
みんな、クッション片付けたり、きびきび働いている。うう、偉い。私の為にごめんなさい……。
「今日何してたの? ってレティシアに尋ねるのが、最近の僕の楽しみなんだけど、今日は……」
「ちゃんと午前中はお勉強もたくさんしたんですーっ。皆に御迷惑だけかけてた訳では……」
「レティシア暴れたら落ちるから」
ぎゅってフェリス様の腕で抱き締めてもらうと、やっぱりちょっと安心する。
桜の樹から落ちそう、と思っていた訳ではなくて、こんな大騒ぎになっちゃった、どうしよう、って困ってたから。
「ううう、おかえりなさい、フェリス様。とってもとってもお会いしたかったです」
「僕もだよ。僕の大事なお姫様。御無事で何より」
桜の花びらの零れる回廊で、フェリスは腕に抱いて運んでいるレティシアの額にキスをした。
春に訪れた可愛らしい花嫁を祝福するかのように、桜の花びらが優しい雨のごとく、フェリス宮全体に降り注いでいた。