侯爵家のお屋敷には、何故だか一枚の鱗がご大層に飾ってある。

玄関から貴賓室へと続く途中、明らかに来訪者へ見せる目的なのだと分かる場所に、専用の台座を作って鎮座ちんざさせてある。時々お客さんが足を止めて見入っているのだと聞く。

それだけ特別な一品なのだと私にも理解できた。

鱗と言っても私の知っているそれとは大きさがまるで違う。何しろ、成人男性の掌くらいもある。

魚類、爬虫類、私の知っている生物のいずれにも該当しない。異世界なんだから知らない生物の存在は否定しないけど、ちょっと本体の大きさが想像できないレベルだね。

メイドさん達が掃除する時も、手袋を装着して丁寧に専用の箱へ移してから、台座を徹底的に磨き上げる。鱗自体の手入れには専門の業者を呼んでいるらしい。明らかに硬質でちょっとやそっとでは傷つきそうもないのに、壊れ物に触れるようにそっと扱う。

ただ命じられているから丁寧を心掛けると言うより、本心から貴重品であると理解している様子が窺えた。敬意を払っていると言っていい。

そして、私にとっても普通の代物じゃなかった。

ただし注目する意味合いはまるで異なる。できるなら何処かへ捨ててほしい。嫌悪しているとさえ言えた。

何故なら、あの鱗はモヤモヤさんを垂れ流す!

私の敵に他ならない。

私が鱗の存在を知る以前、まるで意味が分からなかった。

部屋に出入りする専属のメイドさん達が、多少モヤモヤさんを付着させて来るのは仕方ない。ラバースーツを常時イメージして漏洩を止めている私と違って、他の人は誰からもモヤモヤさんが染み出している。どうも生態に密接しているみたいだから止めようがない。

それに、私がモヤモヤさんを飽和させていない場所ならどこで付着しても不思議はない。多少の不快感はあっても呑み込むと決めていた。

でも、時々モヤモヤさんをべったり付着させたメイドさんがやってくる。私の不在中にそういった人がお掃除に来る事もあって、部屋中がモヤモヤさんでベタベタだった事もある。モヤモヤさんが私以外に見えないって判明するまでは、何の嫌がらせだろうと真剣に悩んでいたくらいだからね。

箒の一振りで綺麗にお掃除できるとは言え、気分が悪い事に違いはない。

原因が分からないから尚更不快だった。


で、ある日のお掃除で謎鱗の前を通りかかった。

衝撃だったよね。

お客さんと私が鉢合わせしないよう、これまであまり連れて行ってもらえなかった区画。そこにモヤモヤさんを吐き出す大本があるとは思わなかった。一帯が真っ黒で気持ちが悪い。

私がお掃除しているのに、知らないところで汚されていた気分。私の頑張りが端から無為にされていた。腹立たしいったらないよね。

ふぬー!!

私は即座に箒を突きつけた。

希少な鱗について説明してくれるフランの声も、今だけは耳に入らない。あれが何か、とか後で考えればいい。

どれだけモヤモヤさんが多かったとしても、私のひと振りでモヤモヤさんはサッと消える。前世で見てた掃除機の通販番組もびっくりの吸引力だよ。

ちなみに、この時点で私は対象が鱗だって漸く認識できた。

モヤモヤさんに塗れてて、黒い何かとしか思えなかったからね。

でも、安心できたのは本のひと時、鱗はすぐにモヤモヤさんを溢れさせ始めた。

蛇口でも壊れた?

モヤモヤさん埋没事件の私もあんな感じだったのかな。

どうも、先にモヤモヤさんを飽和させないと噴出が止まらないみたい。

「わー!! お嬢様、駄目です! 駄目です!!

モヤモヤさんの湧出を止める為に謎鱗に触れようとしたら、大慌てのフランに遮られ、ベネットに担がれてその場から引き剥がされた。そのままお父さんのところまで連行される。

なんで?


「あの鱗はこの家にとって、とても大切なものなんだ。ずっと昔に国王陛下から下賜かしされたものだから、侯爵家の責任できちんと管理しておかないといけない……と言ってもレティには難しいかな? 昔の王様から貰った大事なものだから、ずっと大切にしているんだよ」

「…………」

直後、報告を受けたお父さんから叱られた。

普段から忙しい人なのに、この件で時間を割くくらい優先度が高いみたい。

感情的になったり、頭ごなしに怒鳴られたりする事はないんだけど、諭すように切々とお説教が続く。三歳児の私でも理解できるように噛み砕いて説明してくれるものだから、分かんないって逃げる事も叶わない。

王様から託されたものだから、末永く保管しないといけない。それは分かる。

この世界の王権がどれほどのものかはまだ知らないけど、家宝に等しいものだってくらいは理解できた。貰った事自体がとっても名誉な事だったんだと思う。貰った以上は管理を徹底する責任が生まれる。

でも、お掃除しようとしただけなのに叱られるのは納得がいかない。

膨れっ面でお父さんのお小言を聞き流していた。そっぽを向いて視線も合わさない。

お父さんはお父さんで、私が珍しく聞き分けのない様子を見せるものだから、戸惑っているように見えた。

モヤモヤさんの事は上手く説明できないから仕方がないんだけどね。

骨格標本とかなら見映えもいいのに、鱗を一枚だけ飾っても様にならないと思う。モヤモヤさんが溢れる事を置いておいても、大きなだけの鱗でしかない。

と言うか、なんで鱗?

まさか、当時の王様の食べさしを押し付けられた?

それでも希少なくらいに珍しい動物だったの?

「あれに何かあったら、お父様はたくさんの人達に叱られるし、義務を果たせなかったと笑われてしまうんだ。レティのせいでお父様が怒られるのは嫌だろう?」

「……それは、うん」

「このお屋敷にレティより大切なものは多くない。他の何かを壊しても怒ったりしないから、あれには触らないようにしてくれるかい?」

「そんなに大事なら、何処かにきちんと仕舞っておいたら?」

理不尽なお説教に不満がくすぶっているので、そんな口答えをしてしまう。

同時に、私の視界に触れない場所へ持って行ってほしいのも本音だった。宝物庫とか興味ないから、そこがどれだけ汚れても気にならない。いっそ別棟とかならもっといいかもしれない。

「うーん、うちに来るお客様の中には、あれを見るのが目的の人もいるんだ。王様から贈られたのだと知ってもらう為にも、目に付く場所へ飾っておく必要があるんだよ」

なにそれ?

生活に不自由がないのはいいけど、そういうトコ、お貴族様って面倒だね。

「なら、ガラスの箱に入れよ?」

モヤモヤさんが外へ漏れないなら何とか我慢できるかもしれない。

「だけど、レティがあの鱗にもう触らないって約束してくれるなら、そんな手間は必要なくなるんだよ?」

「嫌っ! 私、あれキライ!」

「そもそもあれには許可した者以外が触れられないように、魔法が施してあった筈なのだけれど……、レティは手を伸ばせてしまったのだね? レティが盗むなんて考えていないにしても、他の誰かも触れてしまう可能性を考えるとガラスの箱を用意するのも止む無しなのかな……」

そうなの?

全く遮られる気配はなかったよ?

その魔法が一定の行動を妨害するものだとすると、あんまり常識が育っていない子供には効き目が弱いのかな。

(注:魔力量に差があり過ぎて無意識に撥ね除けてしまっただけです)

結局、お父さんはガラスケースの設置を約束してくれた。普段は聞き分けのいい私の、珍しい我儘に折れたらしい。

これでモヤモヤさんの垂れ流しは回避できる。

ガラスケースの中がモヤモヤさんで満たされてる不快くらいは私も呑み込もう。

とりあえず、機嫌を直して私は部屋に戻った。


これで一件落着──とは運ばなかった。

しばらくは平穏が続いた。

だからって生理的嫌悪が簡単に消える筈もない。ガラスケースの前を通る度、その方向を睨みつける毎日だった。モヤモヤさんが漏れてないか確認する意味もあったのだけど。

でも、完全密閉の容器って難しい。それ以前に、お父さんの目的は私の接触禁止と盗難防止。密閉じゃないからそこまでの容器は用意していない。

最終的に、ガラスケース内の内圧が上がってモヤモヤさんが染み出してきた。

しかもじっくり凝縮したせいで、液状で漏れ出てぽたぽた垂れる。

あそこまで密度が上がると私以外にも見えるのか、忙しそうに台座を拭くメイドさんを度々見かけるようになった。放っておくといつものモヤモヤさんみたいに周囲へ広がるんだけどね。

この状態を解決するにはモヤモヤさんを飽和させるしかないのに、今度はガラスの壁が邪魔になる。

困った私は新しい方法を考えた。

箒を振ってモヤモヤさんを収集できるなら、逆に放出ってできないかな?

単なる思い付きだけど、こういう閃きは意外と馬鹿にできない事を経験上で知っている。ラバースーツの時も、ぎゅっと押し込んでモヤモヤさんを飽和させた時も、ついでにビー玉作った時も、イメージが綺麗に嵌まると現実になった。

きっとここはそういう世界。

だから、きっと今回も上手くいく。

私は箒を鱗へ向けると、意識を集中させた。体内へ溜めたモヤモヤさんを排出する自分をイメージする。押し込んで飽和させるときに近いけど、放出口はぐっと絞った状態を想像する。

ガラスケースを割りたい訳じゃない。鱗を壊したら叱られるじゃ済まない。

だから、そっと手を伸ばす。

喩えるなら見えないマジックハンド、箒の先に延長する自分の手を頭の中で構築する。理屈は無茶苦茶だけど、きっとできると疑わない。

しばらく続けていると、鱗を握った手応えを得た。

間違いない!

私にも見えないものの、確かに触れていると実感できる。試しに見えない腕を揺すってみると、ガラスケースの中で鱗も僅かに揺れた。

うん、成功だね。私はまた一つ、モヤモヤさんの不思議操作を覚えた。

ここまでできたなら話は早い。

私は見えない腕を通して、一気にモヤモヤさんを鱗へ流し込む。何度も繰り返したモヤモヤさんを飽和させる感覚、鱗の中でモヤモヤさんをギュッと固める。その手応えも確かにあった。

よし! これで難題を解決できた。

ここを通る度、モヤモヤさん汚れに悩まされる事もない。

「相変わらずスカーレット様は魔黒龍ダークネスドラゴンの鱗が嫌いですね」

集中する余り、かたきを見るような目にでもなっていたのか、フランが呆れた様子で私を見ていた。

どうも、不用意に触ろうとした結果お父さんに叱られたせいで、嫌悪感をき出しにするようになったと思われているらしい。

と言うか、聞き捨てならない単語が混じってなかった?

「竜!? あれって竜の鱗なの?」

突然飛び出た異世界ワードにテンションが上がる。なるほど、あの大きさも竜って事なら頷ける。ホントに竜がいるなら見てみたい。

「あれ? 知らなかったんですか? 童話に出てくる魔黒龍ダークネスドラゴン、その討伐に貢献した証として貰ったものらしいですよ」

そう言えば、そんな童話を読んだ覚えがある。

あれって実話を基にしたものだったんだ。ドラゴンが出てきた時点で創作だと決めつけていた。だけど、よくよく考えてみたらここって異世界だった。

「まどーし様が竜を倒したお話だっけ?」

「そうです、そうです。〝地殻崩し〟様です」

大地を割って竜を落としたって内容だったから〝地殻崩し〟なのかな。その展開まで創作じゃないんだね。かなりの吃驚人間じゃない?

「竜を倒したのに勇者じゃないんだ?」

「魔導士様と呼ぶのが一般的ですね。魔王種を倒したので勇者様と呼んでも間違いではありませんけど」

「まおーしゅ?」

「はい。魔物を脅威度順に並べた分類で、危険種、壊滅種、災害種、その上です」

また知らない単語が出てきた。

と言うか、魔王って魔物の王様的な存在じゃなくて、手に負えない魔物的な位置付けなんだね。強さが王様クラスって感じかな。

鱗から湧き出てたみたいに本体もモヤモヤさんを盛大に撒き散らすなら、私にとっても恐ろしい存在かもしれない。実物を見てみたい気分が一気に低下した。

「そもそも、まどーしって何? すっごい魔法使いって解釈でいいの?」

「そうですね。その受け取り方で問題ありません。とってもとっても凄い魔法使い様です」

「凄いってどのくらい? お父さんの光の雨も凄かったよね?」

お掃除ついでにお父さんのカッコいいところが見えると外へ連れて行かれて、訓練してる筈の騎士達が逃げ惑っているところに立ち会った。あれは吃驚したよね。

小太りで優しいお父さん、魔法を使うと超人だった。

数年前には戦争があったらしいし、領地が危ないなら戦場に立つのもお貴族様の役目なんだとか。おっかないから、私はそんな事とは無縁で生きていきたいよね。前世日本人の私は荒事向きにできていない。

「ジェイド様も凄い魔法使いですけれど、魔導士様はもっと、もーっとです! 国中が震撼するくらいの偉業を成し遂げて初めて、王様に魔導士として迎えられます。だって、王国の歴史でたった十六人しかいないんですよ!」

それは素直に凄いと思う。

確かに大地を割れるなら、逃げ惑うじゃ済まないよね。阿鼻叫喚あびきょうかん様相ようそうが想像できる。実際、童話は竜を大地の裂け目に呑み込んで袋叩きにしたって内容だった。

でも同時に、そこまで生じる格差に不安を覚える。生まれ持った才能が人間性を考慮してくれるとは思えない。それで治安って保てるのかな。

「そんなに魔導士が強いなら、皆怖くないの?」

「大丈夫。神様から貰った才能を悪用しない、たまわった魔法は国の繁栄の為に捧げるって王様と国民の前で誓いを立てるんです。最初の王様はそう誓ってこの国を作りましたし、五代目の王様も国を大きく発展させました。他の人達も皆英雄なんですよ!」

熱く語るフランからは強い憧れが窺える。この世界の子供は正義のヒロインや綺麗なお姫様より、魔導士様を羨望するものなのかな。

でも私には、国にとって都合のいい魔法使いって聞こえた。

フランの憧れを壊そうとは思わないけど、不信は募る。だって全員が英雄って事は、人柄的に不適格だった魔法使いはいなかったって事? それは国に都合が良過ぎない? 強制的に戦場へ投入されて、結果として英雄に祭り上げられたって展開もあるのかも。

どちらにしても前世一般人だった私には縁遠い話だと思う。とは言え、前世の知識やモヤモヤさんが見える不思議な目も、為政者達がどう利用価値を見出すか分からない。

目立たないようにこっそり暮らしていくのが一番だね。