モヤモヤさん
マイ箒を手に入れてから、私のお掃除生活はますます充実した。
はじめは、これがあればもう少し高いところに手が届く……ってくらいに思っていたのだけれど、これがとんでもない代物だった。
「もぁもぁしゃん、かっごー!」
モヤモヤさんに向かって軽い気持ちで箒を振り回すと、穂の軌道の先にあった汚れが消えた。
まるで画像編集ソフトで写真データに極太消しゴムをかけたみたいにあっさり、ごっそりと。
今まで手付かずだった天井の一部がピカピカになった。
「え、なんれ……?」
意味が分からないよ。
大口開けて呆然とするくらい吃驚した。
え?
これ、魔法の箒なの!?
それとも私が魔法を使ったの?
この世界に魔法があるのは知ってたけど、これが私の魔法なの?
広範囲お掃除魔法が使えるの?
私も、魔法使いなの!?
「もぁもぁしゃん、ない、ない! きーたった! どして?」
誰でもいいから何が起きたのか解説してほしかったのだけれど、片言しか発せられない私の疑問は通じなかった。
何とか伝えようとしたけれど、首を傾げられてしまう。
特にモヤモヤさんが伝わらない。でも、なんて言えばいいのかも分からない。仕方がないから箒で指したらやっぱり消えて、説明にならなかった。
モヤモヤさん汚れが気にならないのはもう仕方ないとしても、突然消えても不思議に思わないものなの? この世界の常識が分からない。
最終的に、箒で遊んで興奮していると思われたらしい。すっごい微笑ましく見守られてた。
認識と言葉の壁が分厚過ぎる……。
何が起こっているのか、理屈についてもっと成長してから調べるのは確定として、モヤモヤさん掃除がぐっと楽になったのは間違いない。やったね。
と喜んでいたら、メイド見習いのフランに怒られた。
「もー、違うでしょ! 箒はお掃除に使うの。振り回して遊ばないで!」
お姉さん気取りの彼女としては、私がお手伝いできるようにと箒を贈ったのに、箒で遊んでいるようにしか見えない私の行動が不満らしい。
だけど彼女のお母さんを含めたメイドさん達が求めているのはあくまでもお掃除ごっこで、お嬢様の私に掃除させるつもりはないと思う。
そもそも、フランを含めた私担当のメイドさん達のお仕事に掃除は含まれていない。お世話の一環としておしめの洗濯や私のベッドを整えるくらいは行うけれど、掃除専門のメイドさんは別にいる。彼女達は私が別の部屋で遊んでいる間に部屋中完璧に磨き上げてくれる。
元々、私が掃除する余地なんて残ってないんだよね。ただし、モヤモヤさんを除く。
ちなみにフランのお母さんであるメイド長は私の担当ではなく、フランの教育の為に一緒にいることが多いだけ。
今は別件で席を外しているから、フランの暴走を止める人がいない。
だからかな、私にも悪戯心が湧き出てしまった。
「でもぉ、おへや、きれーきれー、よ?」
「あ、うん……さっき別の人が掃除してたから……」
私に反論されると、フランの勢いはあっと言う間に萎んだ。感情が高ぶると抜け落ちてしまうみたいだけれど、多分、私との上下関係はしっかりと躾けられている。
「ここ、おそーじ、いる?」
「今日は、もう、終わってる……と、思う」
私に掃除を教えたいフランに、私の部屋の掃除は終わってるから既に掃除は必要ないと伝える。
うん、これで計画の第一段階は成功した。
計画はシンプルだ。次で成功可否は決する。
「だからぁ、おそーじ、まだのとこ、いこ?」
「うん!」
あっさり釣れた。
「おぶってあげる。行こ!」
「ねーちゃ、あーあと!」
お嬢様の私は掃除が完了していない場所に連れて行ってもらえない。
だから、フランを誘導して行きたいところへ運んでもらう計画を思いついた。よし、大成功。
「ふぁーんねーちゃ、あっち!」
「もー、仕方ないわね。特別よ」
こうなると誰にも止められない。呼ばれたメイド長がやって来るまで自由は約束されたよ!
この日から、私の行動範囲は大きく広がった。
勿論、私に歩いていく体力なんて無いので移動はメイドさん。主にフランが運んでくれる。
実のところ、初日以外はフランに内緒で掃除済みの部屋へ誘導されていたみたいだけれど。モヤモヤさん掃除が目的の私には関係ない。知らない振りをしてあげた。
私、気遣いのできる幼児だからね。
移動した先でお掃除ごっこしながら、こっそり箒を振るう。するとモヤモヤさんはみるみる消えてゆく。
気分はちょっと魔法少女だね。
ご機嫌で鼻歌まで口遊んじゃう。
「ふん、ふふん、ふふんふんふん……♪」
曲はコネク〇……あの作品、箒、出てこなかった。
これで屋敷中だって掃除できる!
それが起こったのは、私の誕生日から二週間くらい経った頃だった。
それまでの間に、私室、食堂、談話室、テラス、ガゼボ、それらに向かう廊下を含めた私の生活圏の掃除は、ほぼほぼ終わっていた。
その日、玄関ホールを掃除した私は、ル○ジュの伝言を口遊みながら戻ってきた。
まだまだ体力の無い私が掃除をした後は、お昼寝の時間と決まっている。
いつものように全身を拭いてもらって、寝間着になった私はベッドに入った。
元気に動いている間は気が付かなかったけど、横になった途端、溜まった疲労が私の意識をあっという間に刈り取ってしまう。周りに控えるフラン達メイドの見守りもまるで気にならない。
おやすみなさい。
ぐっすり眠っていつもの爽快な目覚め──は、この日、訪れなかった。
「ヒッ……!」
目を開けた瞬間に
黒い。
視界に黒しか映らない。
私を含めて一メートルほどの範囲が、黒く黒く染まっている。
見た事がない量のモヤモヤさんが、見た事のない密度で、そこいら中にべったり付着していた。
「ひぐっ……!!」
号泣した。
元アラサーの恥とか外聞とか、一切介入する余裕は無かった。
起きたらおむつがぐっしょりだった時でも、こんなに泣いた事はない。
おねむの私を見守りながらウトウトしていたらしいフランが吃驚して飛び起きて、一緒に泣き出してしまうくらいの爆泣きだった。
考えてみてほしい。
目が覚めてヘドロみたいな中に沈んでいたらって……そりゃ泣くでしょ。今世一番の大泣きだった。
当然大騒ぎになった。
メイド長がモヤモヤさんの中から私を抱え上げて助けてくれて、飛んできたお母さんが私を受け取って抱きしめてくれて、仕事中のお父さんもやって来たけど何もできずにオロオロして、何とかあやそうとしたメイドさんの一人がぬいぐるみを掲げて話しかけてくれて、他のメイドさんが私の箒を握らせてくれて……。
漸く私は少し落ち着いた。
「どうしたの? 怖い事があったの?」
優しく問いかけてくれるお母さんは涙目で、少し震えていた。
普段あまり泣かない私が泣き
親も経験を重ねて親らしくなるのだと、前世の記憶で知っている。でもって私は長子、こんな突発的な事態への心構えはまだまだ不足してたんじゃないかなって、後になって思えた。
とは言え、この時点の私にはまだまだ余裕が無かった。
何か分からないものにべったり埋まっていたんだよ。気持ち悪いし、訳分かんないし、正直まだ怖い。
「ぐす……、くろ、いぱい! べど、もぁもぁ、いぱい、やぁ!!」
私はぐずりながら、けれど必死でベッドを指す。
払えば消えるいつものモヤモヤさんとは訳が違う。
汚水をぶち撒けたみたいに厚みを持って広がって、全身にへばりついたこのモヤモヤ、害があるものじゃないと言ってもらわなければとても安心できなかった。
部屋にいた全員が私の示すベッドを見て、しかし、困った顔で、不可解そうな視線が、再び私に集中した。
あ。
疑問にはずっと思っていた。
あんなに汚れているのに、どうして?
きちんと掃除も洗濯もしてるのに、残った黒い汚れを誰も気にしていないのは何故だろうと。
やっと分かった。
見えて、ないんだ。
気にしなかったんじゃない。知らなかった。
もしかして、とは何度も考えて。
でも流石に有り得ないと、その都度切り捨ててきた。その可能性をここに至って否定できなくなった。
視線の先では、メイドさん達が枕をひっくり返し、お布団を持ち上げて、私が泣いた〝原因〟を捜してくれている。泣きながら訴えた私を信じようと懸命に動いてくれている。
お姉ちゃんとしての使命感なのか、ベッドに顔を擦り付けるように捜すフランの仕事着なんて真っ黒だった。
それが却って証明になった。
何より目立つ異常、真っ黒なモヤモヤ溜まりに、黒く染まったフランに、誰一人として目を向けない。
私だけがあれを見ている。
きっと、存在自体を誰も知らない。
私だけに見えるあれは一体何なのか。
誰も見えないし気にしないからって、放っておいて良いものか。
人に害をもたらすものではないのか。
何故私だけに見えるのか。
他にも見える人はいるのか。
誰も答えをくれない。
でも私だけが見えるあれを、無視して生活はできない。私は向き合う他ない。
つまり、今後はモヤモヤさんについて誰も頼れず、私だけで調べて一人で解明しなければならないって事になる。
周囲に相談するかどうかも、私の責任で選ばないといけない。
もっとも、今の私ではうまく説明もできないから、それはまだ先の話だね。
今できるとしたら、あのモヤモヤが何なのか、私なりに調べて情報を増やしておくくらいかな。
一方で、安全な距離の取り方も学ばなきゃだね。
これまでの私は、両親やメイドさん達が止めないなら大丈夫だろうと判断を頼り切りにしてきた。だけど、まさか、可視不可視に違いがあるなんて思わなかった。
これまでみたいに、軽い気持ちでモヤモヤさんを扱う訳にはいかないらしい。
心が強制冷却されて、嫌悪感も恐怖もどこかへ行ってしまった。
モヤモヤさんが見えていない以上、〝原因〟は決して見つからない。けれど説明もできないので、申し訳なく思いながら、作業を続けるメイドさん達を見つめていた。
私の為にと張り切っているみたいで、フランが特に熱心に捜してくれている。
そしたら早速、モヤモヤさんについて新発見があった。
フランの髪、腰の辺りまである二つのおさげがフルフル揺れて、モヤモヤ溜まりを払ってゆく。黒いヘドロが目に見えて減っている。
汚れているのは服だけで、フランのお肌も髪も綺麗なままだった。彼女が触れるとあっさり消える。消えた先が彼女の中なのは間違いない。
見えるのは私だけでも、扱うことは私以外もできるかもしれない!
これは大切な発見だね。
そう思った瞬間、私は既に叫んでいた。
「ふぁーんねーちゃ、おさげ、ほーき!」
ビシッと指差すと、フランの目が真ん丸に開いて、すぐに涙で一杯になった。
フランお姉ちゃんのおさげって私の箒みたいで凄い、と言いたかったのだけれども。
フランお姉ちゃんのおさげが箒みたいって、悪口にしか聞こえなかったよね。
ごめん、間違えた。
モヤモヤさんの事が説明できない以上、言い間違えなくても結果は同じだったかもだけど。
泣かせたい訳じゃなかったの! ホントにごめんなさい。
いつから脳と口の神経が直結されたの!? どうした私!
結局、私の大号泣騒ぎは、フランのおさげに気を取られて私の機嫌が直ったので大事にはせず、夢見が悪くて泣いてたって事になった。
お世話係として私と接する時間の長いメイドさん達は、その結論に納得しきれていない様子だったけれど、家長である父の決定は覆らない。
原因は見つからないけれど、最も怪しいお布団を総入れ替えする事を約束させて、一旦は引き下がった。
私も、モヤモヤさんで真っ黒になったお布団を交換してくれるのは嬉しい。
お父さんとしても、夢で全てが片付けられるとは思っていないらしく、当分の間は私の様子をより細かく報告するようにメイドさん達に指示していた。更にその日からしばらくはお父さんの部屋で、お母さんと三人で眠った。
私、お布団無かったしね。
私としては、事情を説明できないものの、身体的にも精神的にも問題は無いので大丈夫と伝えたい。だけどその術が無い。
片言で大丈夫と訴えられなくはないけれど、きっと信じてもらえない。
だから、しばらくは殊更に元気な姿を見せて、安心させてあげることにした。流石に一歳児の空元気は疑われないだろうから。
それはそれとして、私はモヤモヤさんと向き合わなくてはいけない。
何より優先度が高いのは、先日のモヤモヤ溜まりの原因究明と対策だと思う。
度々あんな惨劇が起こっていたら、私怖くて眠れない。
ただこれ、原因は割と明らかだったりする。
まず、自然発生の可能性は低い。
モヤモヤさん発生の原理は分かっていないけど、これまでなかった事態が突然起こったのなら、それなりの理由が付帯する筈。
お世話係は通常四~六人体制なのだけれど、私のお昼寝中、私に付くのは二人になる。私の就寝時間が不定期なので、私が寝ている間は最低人数のみを残して、他の人は仮眠をとったり、用事を済ませたりしているらしい。
あの日はベテランメイドのフレンダと見習いのフランが当番だった。加えてフランを教育中のメイド長テトラ、私を含めてあの場所にいたのは四人だけ。
私以外の三人はモヤモヤさんが見えていない。多少の付着はあっても、大量に運んで来る事もないだろうから、原因にはなり得ない。
で、モヤモヤ溜まりの中心には私がいた。
これ、どう考えても発生源、私だよね。
モヤモヤさんが私から染み出して、吹き溜まりを作った。で、起きた私がモヤモヤさんに浸かっていて泣き出した、と。
無自覚自作自演じゃない!? 穴を掘って埋まりたい!
だけどこの一年、同様の事は起きなかった。
でもって最近と以前で違う事はと言えば──これも明らかだよね。
誕生日に贈られた私の箒。
楽にモヤモヤさんが消せるからと楽しくなって、屋敷中を磨いて回った私。この数日で私の処理するモヤモヤさんの量が一気に増えた。
状況から考えて、触れる事で消えていると思っていたモヤモヤさんは、その実、私の中に蓄積していたらしい。
しかもダストボックスは私自身。何それ、凹む。
そう考えると、モヤモヤさんを吸い込み過ぎたせいで、私から溢れたのがあのモヤモヤ溜まりの正体って事になる。
え!? …………つまり、あれは私の排泄物?
と、いう事は、お漏らしで号泣して、屋敷中を騒がせた挙句、心配して原因を捜すメイドさん達が排泄物塗れになるのを黙って見てたの!?
誰か私を殺して……。
ともかく、原因は分かった。
細かく考えると死にたくなるから、今は対応策を考えよう。
単純に考えて、私の中でモヤモヤさんが溢れそうになっている訳だから、排出してしまえば二度と漏れる心配はない。
ただし、この方法、今は使えない。
成長と共に行動範囲が広がって元気に遊び回っていたけれど、急に世界が広がった事で実は精神的に負担が大きくて、密かに不安定になっていたんじゃないか。それが先日の騒動に繋がったのではないかとお母さんが心配して、現在外出自粛中なんだよね。
誤解だけれども、お掃除に夢中になり過ぎた私が悪い。
お掃除ごっこは勿論、お散歩にも連れて行ってもらえない。部屋を出るのは食事と入浴時のみとなっている。
仮に、部屋の隅に排泄物が堆く積み上げられた状況を想像してみてほしい。臭いは無くとも、何かと視界に入る訳だから、間違いなく病む。
食堂とお風呂も論外だよね。
それなら次策。漏れないように栓をするしかないかな。
ただこれ、言うは易いが、行うは難い。
口や鼻等々、分かりやすい身体の穴を塞げば済む話じゃない。
モヤモヤ溜まりに浸かっていた際、私は全身が真っ黒だった。汚れが集中していた特定の個所はなかったし、モヤモヤさんは服に染み込んで広がったりしない。
だから、汗のように全身から漏れ出てくる可能性が高い。
そうと分かれば、早速、自分の掌を観察してみた。
ぱっと見、何も見えない。
けれどそれで終わらせずに観察を続ける。目力込めて凝視する。
「──!! みーった!」
うっすらと、極
仮説は証明された。
それなら、後は塞ぐ方法を考えればいい。
無茶な理論展開だとも思うけれど、なんとなく、上手くいく予感もあった。
今は本当に僅かしか漏れていない。でも、先日は短時間のお昼寝中に、大量のモヤモヤさんが噴き出た事になる。寝ている時、つまり弛緩していると漏れやすい訳だね。
それなら、その逆もできる筈。
ヒントはさっき、漏れを見つけた時の行動。見えなかったものが、ジッと力を込めたら見えるようになった。
私はモヤモヤさんに干渉できる。
ぎゅっと、全身に力を入れる──まだ漏れている。
ぎゅっぎゅっと、体の中身を内側に押し込むイメージ──漏れている。
ぐっと、身体を固めるイメージ──漏れている。
さらに、全身を薄い膜で覆うイメージ──漏れて、……ない!
「やっちゃ!!」
「「お嬢様!?」」
成功した喜びで、思わず跳び上がったら、メイドさん達の悲鳴が上がった。
うん、考え事している間も彼女達はいたよ。お嬢様で幼子の私に、一人きりの時間なんてないからね。
で、今、五十センチくらい跳べてたよね。
赤ん坊が、おおよそ身長の半分以上の跳躍──そりゃ、悲鳴も上がるよね。
多分だけれど、これもモヤモヤさんのせい。
まだまだ分からない事で一杯です。
全身に力を込めつつ、ラバースーツを身に着けるイメージを持つ事で、モヤモヤさんの漏洩は防げるようになった。
寝ている間も持続できているかどうか分からないけれど、朝起きた際に、私の周りが汚れていなかったので、きっと大丈夫。
副作用なのか、なんだか力が漲ってるけれど。今のところ害はない。
とにかく、これで問題を一つ解決できた。
だけど、これはあくまでも現状維持でしかない。
モヤモヤさんを集めると、また溢れてしまう。
モヤモヤさん自体に害はないようだから、放っておけばいいのだけれど、私的にそれは無理。
黒い汚れが漂っているところで生活なんてできないよ。
つまり、どこかに廃棄するしかない。
排泄物を捨てる場所と考えて、一番に思い付いたのはトイレだった。
でも、モヤモヤさんは水で流れない。そうなると、トイレにモヤモヤさんが、ずっと残ってしまう。そんなトイレ、絶対に嫌。
そんな訳で、この案は早々に却下した。
それに、オムツ生活の私は、まだトイレに用事ないしね。
他は外ぐらいしか思いつかないんだけど、庭の中ではまだ抵抗が残る。なら敷地の外はというと、実は行ったことがない。
何しろ、うちの庭は滅茶苦茶広い。庭園があって、花畑があって、池があって、川が流れてる。私の移動範囲だとこれくらいだけれど、聞こえた話では、温室、農園、薬草園、厩舎、訓練場とかもあるらしい。
とてもじゃないけど、庭の外まで辿り着ける気がしない。
こっそり廃棄作戦、実行前に終了しました。
作戦第二案はって言うと、実はあんまり気が向かない。
その名も、フンコ〇ガシ作戦──どうしてそんな名前を考えた、私。
乙女的に無かった事にしたかった。
要するに、排出する際にぐっと丸めてこっそり捨ててしまおうという訳。
勿論、部屋の中に置く気はないよ。
モヤモヤと固形物では密度が違う。小さな団子でも体内のモヤモヤさん量はぐっと減るだろうし、ゴミ箱に捨てておけばメイドさんが片付けてくれる。モヤモヤさんが燃えるかどうかは知らないけれど、どうせ私にしか見えないんだから分別しなくても迷惑にならないよね。
排泄物をゴミ箱に捨てるのは乙女的にどうなんだって?
オムツ生活が日常の私に、そんな羞恥心残ってないよ。
実は、ラバースーツのイメージで漏洩が防止できた時点で、成功するだろうって確信が私の中にある。モヤモヤさんを私の中で動かす点で、共通しているからね。
理屈はさっぱり分からないけれど、コツを掴むとモヤモヤさんはとても成形しやすい。
右手を握ると、ぎゅっと力を込める。
体の中にあるものを、握った手に集中するイメージ。
集まったものを丸く固めるイメージ。
さらに、固まったものを外へ──できた!
漏洩防止の時よりずっと疲労が大きい。多分、イメージを重ねた分だけ疲労も増える。
赤ん坊の体力ではきっとこれ以上の重ね掛けは難しい。ギリギリだったけど、今回は間違いなく成功した。体内のモヤモヤさんがぐっと減った実感がある。
コロリと。
成功の証拠が掌から転がり落ちた。
「……なんれ?」
元は良く分からないモヤモヤで、溢れ出てきた時はまるでヘドロかタール。だから、黒い泥団子のようなものができると思っていた。次点で炭みたいな塊。
なのに実際に出てきたのは、ビー玉みたいな小さい透明の珠だった。
訳が分からない。
黒、どこ行った?
固めたらモヤモヤさんじゃなくなるなんて、誰が想像できた?
恐る恐る摘まみ上げる。
表面は磨き上げたようにつるつるで、内部で七色の光がキラキラ踊っている。
何を固めたのか考えなければ、素直に綺麗と思えるかもね。
ところで、今の私が一人になることは決してない。
だから、今も世話係の全員がここに揃ってる。さっきまで一人遊びする私を見守っていた視線が、私の右手に集中している。
正確には、この後こっそりゴミ箱に放り込むつもりだった珠に。
「わぁー、綺麗。レティ様、それなあに?」
全員が沈黙する中で、最初に動いたのはフランだった。一見綺麗なビー玉っぽい何かに、無邪気な興味を示している。
え!? って言うか、これ、見えるの? モヤモヤさんは見えないのに?
色なの? 色が黒じゃなかったら見えるの?
そもそも、私の中で何が起きたの!?
今世の私は体内で無機物を生成できるの?
パニックになる私だったけど、混乱しているのは私だけじゃなかった。
フランを除いた全員が、凍り付いたように動かない。
一足先に我に返ったメイド長は、お世話係の人達に決して部屋から出ないよう指示すると、大慌てで走って出ていった。
うん、赤ん坊がどこからともなく見覚えのないビー玉を取り出したら、当然両親に報告が必要だよね。
勿論大騒ぎになった。
残念ながら、周囲の会話には聞き覚えのない名詞がいくつか含まれていたので、私は事態を把握しきれなかった。
断片的に得られた情報から推測するに、私の作ったビー玉らしきものは、たいへん高価な代物らしい。……原料、モヤモヤさんだよ? そこら中にあるよ?
「レティ、これがどこにあったのか、教えてくれるかな?」
「……わかんない!」
私への質問は、全てこれで通した。
だって、そうとしか答えようがない。
実際、自分でも何が起こったのかよく分かっていなかったし、今の私の語彙では伝えきれない。
何より、排泄物を固めたら高価な何かになりました、なんて言えない。
私、金のうん〇が作れるんです!
なんて吹聴は決してしない。
乙女的に、絶対に
結局、箝口令が敷かれて、何もなかった事になった。
なんと、ビー玉もどきは、ウチみたいなお金持ちの家でも在ってはいけないくらいの代物で、然るべき先へ献上するらしい。
大事過ぎて、なおさら真実を明かせなくなったよ。
状況的に私が怪しまれているんだろうけど、分からない事が多過ぎて、自重はできそうにありません。
フンコロ──モヤモヤさんを丸めてこっそり捨ててしまおう作戦は失敗した。
何もないところから、宝石以上の何かを作り出す錬金術の真似事を続けていたら、珍獣として捕獲されかねない。
けれど、別の収穫もあった。
外へは出さずに、モヤモヤさんを体内に固めた状態で留めておけば、吸収量に余裕を作れる。
ただし、これは問題の先送りに過ぎない。
体内に圧縮した状態で限界を迎えてしまったら、きっと黒い噴水みたいな勢いで溢れ出る。そんな大道芸みたいな惨劇が起きる前に、排出方法を考えないといけない。
一応、成功しそうな案はある。
私の溢れそうな分を、誰かに押し付けてしまおう、というものだった。
多分、モヤモヤさんを吸収できるのは私だけじゃない。
大号泣騒ぎの時、フランのおさげはモヤモヤ溜まりの一部を払って消していたし、よくよく思い出してみると、お布団を調べていたメイドさんが触れた箇所に白く手形が残っていた。
そもそも、服は汚れていても、手や顔の素肌にモヤモヤさんが付着していた例はなかった。大号泣騒ぎでモヤモヤさん塗れになったメイドさん達も、肌は綺麗なままだった。
モヤモヤさんは割とどこにでも付着している。見えなくても、誰もが無自覚に吸収しているんだと思う。
だから、手を握った状態でならモヤモヤさんを移動させれる筈──なんだけど、気は進まない。
私の感覚としては汚物を押し付けるようなものだからね。
大号泣騒ぎのモヤモヤ塗れだって申し訳なかったのに、お世話になっているメイドさん達を巻き込むのは違うと思う。
おそらく無害だろうって気もしてきたけど、だからって抵抗はなくならない。
なので、別の物に移してみる事にした。
まず、手に取ったのは、おもちゃのお手玉。中に鈴が入っていて振ると音が出る。
人以外にモヤモヤさんが吸収されるところは見た事がない。でもあちこちに付着してるって事は、染み出たり入ったりしてると思うんだよね。
更に、固めたモヤモヤさんはビー玉っぽくなった。前世の物理法則はガン無視しているけれど、モヤモヤさんを圧縮すると物質になる。それなら、物質に干渉する事もできるんじゃないかな。
多少願望も入っているとは言え、試すだけならタダだよね。
おもちゃを持った右手に、ぐっと力を込める。
圧縮はある程度で控えた。固め過ぎると、移す前にビー玉になりそうなので。
右手に集めたモヤモヤさんをお手玉に押し込むイメージ。
……多分、うまくいった、と思う。
ただ、あっという間にモヤモヤさんが入らなくなった。
おもちゃが小さかったからかな?
あんまり体内のモヤモヤさんが減った気もしない。
こういう時、ラノベの定番、鑑定があったら便利なんだけどな。
お手玉が硬くなったりはしていない。見た目にも変化がないから実感が湧かない。
もう少し大きな物で試してみよう。
高速ハイハイで移動した先、クローゼットに両手をつけて、同じようにモヤモヤさんを押し込める。
あ、今度は少し減った実感がある。
おそらく、移す対象の大きさで、モヤモヤさんの許容量が決まる。
残念ながら、ビー玉作った時ほどごっそり減った感覚はないけれど、その代わり移す対象はいっぱいあるね。
チェストに、ベッド、テーブル、カーテン、ソファー、窓、壁や床に至るまで、早速部屋中に詰めて回った。
モヤモヤさん入り家具は、黒ずんだりしなかった。やっぱり、体の外で固めたモヤモヤさんには色がないみたい。
曇りガラスとかできなくて、ホッとした。
部屋のほとんどにモヤモヤさんを移して、私の体はすっかり軽くなった。
うん、満足。
翌日、予期していない嬉しい発見があった。
一度掃除しても、翌日にはうっすら浮き出るモヤモヤさんの付着が、今日に限ってほとんど見えない。
僅かにモヤモヤさんが残る場所と、今日は綺麗な場所、何が違うか考えて、モヤモヤさん移しの有無だと気が付いた。
押し込んだ方を観察してみると、私のラバースーツと同様に、モヤモヤさんの染み出しがない。中でモヤモヤさんが結晶化したのかな? 性質が変わったみたい。
モヤモヤさん汚れを吸い取り、それを周囲に押し込んで固める。それで綺麗な状態を保てる訳だ。
素晴らしい。
それなら是非、生活圏の全てに行き渡らせたい──と思ったけれど、モヤモヤさんは使い切ったばかりだった。
追加のモヤモヤさんが要る! 補給しなきゃ!
「ふぁーんねーちゃ、おそーじ、いこ!」
テンションの上がった私は、外出自粛中という事を忘れて叫んでいた。退屈していたフランも興味を示して立ち上がる。
でも、メイド長の冷たい視線がそれを止めた。
ビー玉生成の件で監視が強まっている今、