ひとまず危機は去った。

 ヴァロウの予測では、しばらく本国軍は攻めてこない。

 そもそも彼らが本国と同盟領の境界線にいたのは、同盟軍が魔族に討たれた場合の保険という意味合いだった。そしてどさくさに紛れてメッツァーを占拠し、独立を企む同盟を瓦解させようと考えていたが、そのおもわくはヴァルファルの領主ルミルラに阻まれ、完全に空振りに終わってしまった。

 本国でも反戦の声が日増しに多くなっていることを、ヴァロウはペイベロから聞いて知っている。

 大義名分がなければ、リントリッド本国も軍を動かしにくい状況なのだ。同盟側としてもあの場で戦う訳にはいかなかった。もし、あそこで魔族軍と協力し、一戦まじえることになれば、本国軍の介入を許すことになってしまう。仮に二万の兵を打ち破っても、所詮きょくてきな勝利でしかなく、その後の本格侵攻を手助けしてしまうことになっただろう。

 しかし、ゆっくりしている時間はない。

 ヴァルファルと魔族軍が手を組んだと知られるのも時間の問題である。

 魔族と同盟領側が結託したと聞けば、反戦の声も止んでしまう。今度は、さらに大きな規模で同盟領に襲いかかってくるだろうと、ヴァロウは予測していた。

 が、一服するぐらいの時間はできたことは事実である。

 ヴァロウはこの間に亡くなった人間や、魔族たちを埋葬することに決めた。

 参列したメッツァー城塞都市の民たちも、ボッタッキオの軍に勝利した時には大きな歓声を上げて喜んでいたが、一転して暗く沈み、俯いていた。あちこちでえつが聞こえ、子供の泣き声が聞こえる。それは人間だけではなく、魔族たちも同じだった。

 特に魔狼族ワーグは集団意識が高く、魔族の中でも、取り分け仲間同士の結びつきが強い。それが理由かはわからないが、魔狼族ワーグは人間の遺体の埋葬を手伝っていた。仲間を失った者同士、シンパシィを感じたのか。遺体を運び、なきがらほうむるための穴まで掘って、人間の遺体を埋葬していく。ろうそくを立てて、死者をとむらった。

「仲間の穴を掘るついでだ。あと人間の亡骸の腐臭が鼻にくからな」

 発案した張本人であるベガラスクは、そっぽを向きながら吐き捨てた。

 人間まで弔うなど珍しいことだ。何かしら心情の変化があったことは確かだろう。

 死者を弔うことによって、魔族と人間の距離が縮んでいく。

 それはヴァロウすら予測できなかった──いがみ合う異種族の意外な交流だった。

 そして翌朝、その明るい声は朝日とともに現れる。

「みんなー! おまたせー!」

 エスカリナを先頭にしてルロイゼンからの補給部隊が、メッツァー城塞都市に到着したのだ。

 馬車の中には大量の食糧が積まれている。中身は海水ごと魔法で凍らせた大量の魚だった。

 内陸のメッツァーでは感じることのできないいその匂いに、メッツァーの民は驚く。たちまち補給部隊に人々が群がった。

「ルロイゼン城塞都市から来ました補給部隊です。わたしの名前はエスカリナ。ルロイゼン城塞都市の領主代行よ。よろしくー!」

 いつになくエスカリナの声は高く、わざとらしくも感じるが、逆にそれが良かった。

 暗いメッツァーの雰囲気に新風が流れ込み、やや元気すぎるエスカリナのテンションにまどいながらも、民の顔が少しずつやわらいでいく。

 ヴァロウやバルケーノ、ルミルラにはできない芸当だ。

 エスカリナのてんしんらんまんさと、人との距離を縮める力は一種の才能だった。

 戦場を経験し、同胞による略奪を経験した民たちとの距離を一瞬にして縮め、寄り添っていく。

 おかげで何故エスカリナが補給部隊にまた帯同しているのか、とがめる機会すらなくなってしまった。

「よし!」

 補給部隊の設営が終わり、エスカリナは腕をまくる。得意の焼き魚や煮魚を振る舞い始めた。

 焦げ臭かったメッツァーの街に、たちまちおいしい匂いが立ちこめる。あちこちで腹の音が鳴り始めると、そこでようやく民たちは自分たちが空腹であることを思い出した。

 あまりの悲しみと絶望に、お腹いっぱいでそれどころではなかったのだ。

 焼き魚の匂い、煮魚にかかった醤油の香ばしい香りが、彼らのお腹を強く刺激する。

「まだか、娘!」

「腹減った! 早く食わせろ!」

 早速やってきたのは、ベガラスクとザガスだ。

 即席のちゅうぼうに立つエスカリナを睨み付ける。

 大人の男でも震え上がりそうな殺気の前で、エスカリナは勇敢だった。

「ちょっと待って! あなたたちは後よ。先にメッツァーの人たちにあげるの」

「な! なんだと!」

「人間よりも、オレ様たちが後で食うのか!?

「その代わり、またレシピを覚えてきたわよ。新しい魚料理に、あなたたち興味がない?」

「新しい……」

「……魚料理だと」

 ベガラスクが尻尾を軽やかに振れば、ザガスも腕を組む。

 れんの瞳を光らせ、ベガラスクは口を開いた。

「それはう、美味いのだろうな?」

「当たり前よ! わたしが作るのよ」

「チッ! しゃーねー」

 魔族たちはきびすを返し、広場にどっかりと腰を下ろす。

 一方でエスカリナの魚料理は、メッツァーの民にも好評だった。

 メッツァーは内陸の都市である。魚料理が高級料理と言っても、ピンとこないものが多く、食べ方すらわからないものがほとんどだった。

 まだそれはいいのだが、エスカリナにとって心配の種は、魚が肉と比べて淡白であることだ。だが、その心配はゆうに終わる。老若男女問わず、皆が「おいしい」としたづつみを打っていた。

 空腹というのも多分にあるだろうが、それでも「おいしい」と言ってもらえて、エスカリナは逆に涙を浮かべる。

 もしルロイゼン城塞都市がメッツァー城塞都市のようになったら……。

 そう思うだけで、領主代行エスカリナの胸は締め付けられた。

「エスカリナ様……」

 話しかけてきたのは、補給部隊に帯同してくれたルロイゼンの料理人である。

 彼らがいなければ、一万人近くの人間に魚料理を振る舞うことはできなかっただろう。

「ご指示通り、骨と頭を抜いておきましたが、これをいかがなさるのですか?」

 いつもなら丸ごと焼いたり、煮立てたりしているのだが、今日はエスカリナの指示で、頭と骨を抜いておいた。理由は前回シュインツ城塞都市で煮魚を振る舞った時、不慣れなドワーフたちが魚の骨を喉に引っかけるということが続出したからである。

 その反省を生かし、今回は骨と頭を抜いたのだが、実はエスカリナには別の狙いがあった。

「ありがとう。これでまた新たな魚料理が作れそうだわ」

 エスカリナはルロイゼンから持ってきた古いレシピ本を開き、調理を始めた。

 まず魚の頭や骨に塩をかけ、しばらく放置する。その後にお湯をかけると、骨に残った身が、魔法のように白くなっていった。その様を見ていた子どもが、キャッキャッと歓声を上げて喜ぶ。子どもからすれば、まるでエスカリナは魔法使いにでも見えるのだろう。

「これが新しい料理なのかぁ?」

 ザガスが伸ばした手を、エスカリナはペシリとはたいて、迎撃する。

「何すんだよ、娘!」

「まだできてないの。これは生臭さを取るためよ。あと、あっちで待ってなさい。後で持っていってあげるから。子どもたちが怖がってるわよ」

 エスカリナは横を見ると、顔を青白くした子どもたちが、大きなザガスを見上げていた。

「チッ!」

 また舌打ちして、ザガスは去っていく。

「お姉ちゃん、怖くないの?」

「大丈夫。見た目はああだけど、意外と可愛いところがあるのよ、魔族って」

「魔族が」

「可愛いの?」

「そう。食べてるところとかものよ。まるで赤ちゃんみたいなんだから」

「「「へぇ~」」」

 子どもたちは去っていくザガスの背中を見つめる。

 一方、エスカリナはレシピを確認しながら慎重に料理を続けた。

 しばらくしてから魚の頭と骨をお湯から取りだす。水と少量の酒で満たした鍋の中に入れ、さらに根野菜や芋などの野菜、アルパヤが好きなショウガも投入する。

 そして、エスカリナが満を持して取りだしたのは、茶色いペースト状のものだった。

「お、おい! 娘! おおおおお前、我らに人間のはいせつぶつを食わせるつもりか!」

 遠目から見ていたベガラスクが近づいてきて、動揺する。戦場で敵を前にしても動じない第四師団の師団長がその尻尾をピンと逆立たせ、あわあわと揺らしていた。

 ベガラスクの言葉に、エスカリナは顔を赤くした。

「そそそそそんなわけないでしょ!! 変なこと言わないで! わたしまで食べにくくなるじゃない」

「で、ではそれはなんなんだ! どう見ても、う────」

「ダメ! それ以上言わないで! これはね、味噌って言うの!」

「……みそ?」

「魔族のおじさん、味噌を知らないんだ」

「知らないんだ」

「おいしいのに……」

「「「ねぇ~」」」

 味噌は内陸部ではよく使われる調味料である。豆をはっこうさせたもので、独特の風味と甘みを持ち、栄養価が高く、平民から貴族まで幅広く慣れ親しまれている。

 エスカリナはお湯の中に味噌を投入すると、ふわりと味噌の香りと磯の香りが同時に上ってきた。

「すごーい」

「変わった匂いだねぇ」

「あたし、はじめてぇ」

「これが海の匂いよ」

 エスカリナが説明すると、子どもたちは「海ぃ!」と甲高い声を上げる。お話の中でしか海を知らない内陸の子どもたちは、目を輝かせて喜んだ。

 少し煮立てて、エスカリナはようやく鍋を上げる。

「魚のあら汁のできあがりよ」

 エスカリナは得意満面の表情を浮かべる。

 器に盛られた色とりどりの野菜たち。神秘的に光る茶色のスープ。

 そして湯気とともにのぼってくる風味豊かな香り。

 ゴクリと大人たちが唾を飲めば、子どもたちも目を輝かせる。

 その横でベガラスクも、器をいろどる具材とその匂いに下顎を開けて固まっていた。

 人間も、魔族も関係なく、等しく器の前で見たこともない食べ物を見て驚いている。

「どうぞ召し上がれ」

 そっとエスカリナは手を差し出すのだが、宝石箱のような料理に子どもたちは戸惑うばかりだ。

 味噌汁の中から、未知の香りが漂ってくる。それが海の匂いだと聞いて、子どもたちは感心した様子だった。

 器を握ったまま戸惑っている者もいる。ベガラスクだ。

 人間たち同様に、何か恐れているようにも見える。ベガラスクにとっても、魚のあら汁は未知の料理である。しかも、味噌を知らないベガラスクにとって、勇気のいる料理だった。

 それでも、魔王の副官としてのきょうか、それともおいしそうな香りに耐えきれなかったのか。

 器を持ち上げ、まだ握りに不慣れなはしを構える。口を先端に近づけ、器用に汁を流し込みはじめた。

 ずずっ……と思いの外、つつましく、どこかふうな音を鳴らす。

「うまい!!

 ベガラスクの紅蓮の瞳がカッと開く。戦場の中ですら出さないような大声を上げると、メッツァー城塞都市の城壁と空気が震えた。

 焼き魚のガツンと来るシンプルな味とも、煮魚のこうらされた味とも違う。

 甘み、風味、塩気、そして旨み……。多様な味がベガラスクの口の中で混じり、広がっていく。

 味噌の味はベガラスクの予想を超えて独特ではあったが、一瞬にして気に入ってしまった。この風味と旨みは、ただ獣を食べているだけでは味わえない。優しく、攻撃的ではなく、ふわっとその残り香だけを置いて消えていく。そこに魚のあらで取った出汁の旨みと磯の風味が、絶妙なアクセントとなって、疲れた身体にしんとうしていった。

 出汁と味噌との相性は最高で、深い味わいとコクを提供し、味に層を作っている。

 幾重にも重なった味の多層構造は、堅牢にして鉄壁のドライゼル城を思わせた。

「むっ!」

 気が付けば、汁がなくなっていた。あとは野菜が瓦礫のように残っているだけである。

「もう! 汁だけじゃなくて、お野菜も食べるのよ。お残しは許しません!」

 エスカリナにしかられるが、心優しい娘は汁だけをもう一度ぎ足してくれた。

 折角なのでと、ベガラスクは野菜をつまむ。

「ぬほぉおぉ!!

 思わず変な声が出てしまった。身体ごと反応し、毛と尻尾がピンと逆立つ。

 食べたのは大根だ。少し芯が残っているが、シャキッとした食感がまた良い。さらに感心するべきは大根に染みこんだ味だろう。ふわりと磯の風味とともに、絶妙な塩気が口の中になだれ込んできた。魚の出汁と味噌がよく大根に染みており、ここでも味の多重構造でベガラスクを魅了してくる。

 他の野菜も同様だ。不思議なのは、これだけ色々な味を浴びても、決して素材の味が失われていないということだろう。

「どう? おいしい、ベガラスク?」

 エスカリナが上目遣いで尋ねる。ちょっと緊張した顔は審判の時を待っていた。

 ベガラスクはふと考えた。

 最大の謎は、この魚のあら汁ではない。こんな不思議な食べ物を、どうして弱っちい人間が作れるかである。魔族は強い。魔法技術においても、人間の上を行っている。しかし、千年かけたとしても魔族がこの料理を作れるとは思えない。

『利用しろ……』

 ふとヴァロウの言葉が、ベガラスクの脳裏をよぎる。

 負けん気の強いベガラスクにとって、人間の料理にここまでうち負かされるのは、とてもしゃくさわることだ。だがこれも一つの力だと捉え、利用するならば決して自分が弱いということにはならない。

 ベガラスクはそう解釈した。

「魔族のおっさん、うまいか?」

「うまいか?」

 恐れを知らない子どもたちがベガラスクの周りに群がってくる。

 あら汁の入った器を両手で抱えていた。すでに口をつけたらしく、唇には味噌のかすがついている。

「あ! ちょっ! こら!」

 エスカリナが慌てる。さすがに子どもとベガラスクを接触させるのはまずい。げきりんに触れれば、たちまち首の骨を折られてしまうだろう。ちゅうぼうから出て、エスカリナはベガラスクをいさめようとするが、魔王の副官は思いがけない言葉を放った。

「ふん。まあまあだな……」

 器をテーブルに置き、人と同じように手を合わせた。

 その所作だけでも驚くのに、最後には子どもの頭をポンと叩いて去って行く。

 その時のベガラスクの顔は、少しだけ優しげで、こう言ってはなんだが男前に見えた。

「……ふふん。わたしの目に狂いはなかったようね。そうよ。人間もそう。悪い人間がいれば、良い人間もいる。そして、魔族にだって良い魔族がいる。そういうことでしょ、ヴァロウ」

 そうエスカリナは、メッツァーのどこかにいる指揮官に話しかけるのだった。



「こんなところにいたのか」

 石を置いただけの粗末な墓の前で、ルミルラは手を合わせていた。

 振り返ると、師匠──ヴァロウが立っていた。激戦の後にもかかわらず、その表情には一片の疲労も見えず、特徴的なヘーゼルの瞳はいつも通り鋭かった。

「誰の墓だ?」

「自分が育てた竜の墓です。むくろはありませんけどね。父が焼却したのでしょう。だから、せめて墓を建てて弔ってやろうと……。スライヤには悪いことをしてしまいました」

 ルミルラは俯く。悲しげな弟子の頭をヴァロウは軽く撫でた。珍しく励ましてくれているらしい。

 そのヴァロウもまた手を合わせて、ルミルラの愛竜スライヤを弔った。

「バルケーノのしゅきゅうは、俺が預かっている。後で埋葬してやれ」

「良いのですか? 主要な敵将の首級は、魔王様に検分してもらうことになっているのでは?」

「それは人類社会の話だ。お前は魔族になったのだぞ。早く慣れろ」

「そうでした。とはいえ、師匠だってまだまだ人間臭いところが取れてませんよ」

 ルミルラは師匠をからかう。だが、すぐ真面目な顔になって、ヴァロウに質問した。

「父はどんな最期を遂げましたか?」

「バルケーノは最期まで『竜王』バルケーノであろうとした」

「そうですか……」

 ルミルラはそれ以上、父の最期を知ろうとは思わなかった。その人生がどうあれ、バルケーノはバルケーノであることを全うした。それだけを聞ければ、十分だったからだ。

 ただ静かにルミルラは父にもくとうを捧げる。涙が出てくるかと思ったが、そうではなかった。

 それは魔族になったことによるものなのか。それとも薄情な師の影響なのかはわからない。さらに言えば、『竜王』バルケーノという偉大な父から解き放たれたという感覚もあまりなかった。

 思いの外、自分の中に占めるバルケーノは、小さなものであったらしい。

 子供の頃、あれほど大きく見えたはずなのに、今は師が示してくれた気遣いの方がよっぽどルミルラの胸に響いた。

「どうした?」

「いえ。少しかんしょうひたって、その傷の浅さに驚いていたところです」

 ルミルラはちょう気味に笑う。すると、急に香ってきた匂いに反応した。

「いい匂いですね。なんですか、これは?」

「魚のあら汁から取った味噌汁だそうだ」

「味噌汁! 私の大好物ですよ」

 ルミルラはヴァロウとともに、領民たちが待つ野営地に戻る。

 そこではメッツァーの民、魔族、魔獣が等しく魚のあら汁をすすっていた。

 特に印象的なのが、メッツァーの民たちだ。あれほどの破壊と死を目にし、極限の緊張感の中で心身共に削られ、二度と立てないぐらい疲弊していたはずである。だが、ボロボロになるまですさんだ心が、一杯の器によって温められ、忘れていた笑顔とともに蘇っていく。

 人間が作った料理が種族の垣根を越え、どんな名演説よりも傷付いた者たちを奮い立たせていた。

「師匠の目的は、この光景を世界に作ることなのですね」

 ルミルラはヴァロウの側に立つ。

 自信満々の回答ではあったのだが、ヴァロウの評価は辛かった。

「違うな。俺の目的は、武力均衡だ。魔族と人類を分け、均衡状態を作り、戦争を止める」

「天下を二分するのですね。しかし、その後のことは……」

「その後のことは、お前とエスカリナに任せる。俺がやれることは、戦うことぐらいだからな」

「随分、無責任ですねぇ。…………でも、見たくなります」

 魔族と人類の融和──。それが生み出す永久とわの楽園……。戦争なき世界……。

 それはルミルラが十五年前、ヴァロウの口から聞いた理想の姿であった。

「ああ……。この世界はこんなにも美しい」

 その時、ルミルラの目にようやく涙が浮かんでいた。



 メッツァー城塞都市に夜のとばりが落ちる。

 昼間のけんそうが嘘のように静かな夜であった。

 城壁塔の中で仕事していたヴァロウは、ろうそくの明かりを頼りに仕事をしていた。屋根があるだけの急造の書斎だが、なかなかに快適だ。窓がない石壁で囲まれた空間は、程良く涼しかった。

 その城壁塔の中に机を持ち込み、ヴァロウは書類を精査していた。書類は壊れた宮殿から持ち出したものだ。破壊される前のメッツァー城塞都市の状況が書かれていた。

 ヴァロウはふと顔を上げる。椅子から立ち上がり、城壁塔のから外をうかがった。補給部隊の持ってきた天幕が、焼け野原のメッツァー城塞都市にいくつも設営されている。

 さすがに一〇〇〇〇人のメッツァーの領民をすべて収容することはできず、若い男たちは野宿しているが、温かなかがりと屋根の下で眠れたことは大きいらしい。昨日はあちこちでむせび泣く声が聞こえたが、今日はあまり聞こえず、久方ぶりに静かな夜を迎えていた。

 ヴァロウは一人ほっと息を吐く。

 時に非情になり、過激な発言も飛び出す軍師だが、家族や家、生活する基盤を失った民たちに対して、気をんでいた。戦乱の中にあって精神のケアは重要だ。ひとたび均衡を崩せば、狂人化し、人が人でなくなってしまう。

「今日は満月か……」

 地上に向けていた視線を徐々に上げたヴァロウは、夜の闇にぽっかりと穴が開いたように浮かぶ月を望んだ。青白い光が力強く大地を照らし、傷心の民を励まし続けている。

 ゴトッ……。

 不意に物音がして振り返ると、メトラが壁に手を突いて立っていた。

「メトラか、まだ休んでいなかったのか」

 見張りを除いて、全軍には休養を通達している。

 激戦続きだったのだ。少しでも身体を休めてもらうことが先決だった。

「まあ、いい。……ちょうど良かった。紅茶を入れてくれないか。あと、お前に頼みたいことがあって────」

「はあ……。はあ……。はあ……」

 メトラは返事をせず、代わりに聞こえてきたのは、荒い息だった。

「どうした、メトラ?」

 机の上のしょくだいを掲げ、メトラを照らす。

 寝間着をぐっしょりと汗で濡らし、メトラが何か請い願うようにヴァロウを見つめていた。

「……ヴァロウ、さま」

 頬を紅潮させ、ギュッと閉じたまたに己の手をわせている。

 切なそうなメトラの瞳を見て、ヴァロウはすべてを察した。

 今一度、狭間から空を見上げ、改めて満月を確認する。

「しまった!」

「ヴァ……ろ、ぅ……」

 とうとうメトラは崩れ落ちると、突如背中が震える。

 バッと一翼の翼が飛び出すと、黒い羽根が書斎に舞い落ちた。

「わかった、メトラ。すまないが、もう少し我慢してくれ」

 ヴァロウは机の上にあった書類や小物をすべて手で払いのけた。

 一旦書斎から出ると、たくさんの毛布を抱えて戻ってくる。

 それを机の上に引き、急造のベッドをこしらえた。

「メトラの綺麗な身体を汚すことになるからな。王宮のベッドと比べると硬いかもしれないが……」

 メトラは慌てて首を振る。

「い……いえ。お気遣いありがとうございます」

「さあ……」

 ヴァロウはメトラの手を取り、エスコートしようとした。

 だが、ヴァロウの手に触れた瞬間、メトラは逆に手を引く。自分の方に抱き寄せ、一気にヴァロウの唇を奪った。それだけに終わらない。舌を差し入れ、求めてくる。ヴァロウもただ受け止めるだけではない。メトラの申し出に戸惑うことなく優しく受け止め、舌先を絡める。官能的な感触に、熱く、意識がぼやけていった。

 理性が完全に切れる寸前、はたとメトラは動きを止める。

「す、すみません、ヴァロウ様」

「よい」

 いつも無表情なヴァロウが、一瞬笑みを見せる。優しい笑顔に、メトラは救われた。

 こわばった身体をかんさせると、ヴァロウに身をゆだねる。即席のベッドに美しい肢体を慎重に寝かせた。少し落ち着かせるようにヴァロウは、メトラの銀髪を撫でる。しかし、それでも満足できないメトラは、顔を上気させヴァロウに求めた。

 一時もらすことなく、今度はヴァロウからメトラの唇を奪う。

 今度はソフトに迫り、頭を撫でるようにメトラの唇をなぐさめた。

 けれど、それでも我慢ができなかったのか、メトラは逆に攻め立てる。

 一瞬遅れたヴァロウだったが、彼女のペースに付き合った。息が止まるほどの激しい唇の奪い合いが始まる。頭の中がとうぜんとし、舌を絡めるたびに多幸感が押し寄せてくる。一度唇を離して息をいでも、メトラは腰を浮かしてヴァロウを求めた。ヴァロウもまた彼女を優しく押さえ、安心させていく。

 そして、いつの間にか寝間着が冷たい石床に広がっていた。

 メトラの美しい肢体が、狭間から差し込んだ月光に照らされる。一糸まとわぬ白い身体は、青白くぼうと光って見えた。細い首、程よく浮き上がったこつ、隠した手が埋まるぐらいの大きな乳房。腰は優美な曲線を描き、でんはキュッと締まり、ゆるみがない。

 どんな芸術家でも表現できない。自然な美と、愛する者の姿があった。

「あの……。そんなに……見ないで…………くださ、い、ヴァロウ様」

「どうしてだ? ……綺麗だぞ、メトラ」

「は、はうぅ……」

 今さら手で身体を隠そうとするメトラに優しく微笑みかける。メトラはギュッと目をつむった。

 ヴァロウは城壁塔に結界を張る。これで入室は困難となり、中の様子は見られなくなる。さらに遮音の効果も付加されていた。

 毛布を畳んで作った枕の上に、改めてメトラの頭をそっと載せる。

 急造のベッドの上に彼女はあおけになり、服を脱いだヴァロウが上になった。

 その引き締まった肉体を見て、メトラは頬をさらに紅潮させていく。

「メトラ……」

「は、はい……。なんでしょうか、ヴァロウ様」

「愛している」

 たったその一言を聞いただけで、メトラの目に涙がにじむ。

 それをヴァロウは優しく拭った。

「良いか」

「……はい」

 ヴァロウはメトラをゆっくりと包んだ。



「お疲れ様、ベガラスク」

 月光に照らされたメッツァー城塞都市に、一際明るい声を聞き、城壁の上で見張り番をしていたベガラスクは振り返った。

 紅蓮の瞳を光らせかくしたが、声の主にはまるで通じていないらしい。

 警戒することなく、ベガラスクの横に立ったのは、エスカリナであった。

「師団長自ら見張り番なんて偉いわね」

「別に褒められるようなことはしていない。それに──」

 ベガラスクは夜空を見る。視線の先にあるのは、見事な満月であった。

「綺麗ね」

 エスカリナは目を細める。思えば、こうして満月をゆっくり眺めたのは久方ぶりのことだった。

 しばらく二人して空を見上げていると、エスカリナは質問する。

「そう言えば、魔族って満月だと強くなるんだっけ?」

「すべてではないがな」

「そうか。ベガラスクがこうしているのも、満月の光を浴びるためなのね」

「そうだ。太陽は生命力を、月は魔力を与えるからな」

「じゃあ、日光浴ならぬ月光浴っていうわけ」

「そんなところだ」

 ベガラスクは手を広げて、月の光を浴びる。どうやら見張りにやってきたというよりは、本当に月光浴を楽しむために、こうしてしょうに立っているようだ。

 また人間らしいところを発見し、エスカリナは心のメモに記した。

「ところでメトラさんを知らない? 天幕にはいなかったんだけど……」

「メトラ? さあ、知らん────ああ、そうか。今日は、満月だからな」

「どういうこと?」

「魔族には魔族の事情があるのだ」

「ふーん。……ねぇ、ベガラスク」

「なんだ、人間。うるさいぞ」

 ベガラスクは威嚇するが、またもや不発に終わる。エスカリナはあくまでマイペースな娘であった。

「ヴァロウとメトラさんって恋人同士なの?」

「オレがそんなことを知るはずがないだろ! いいから、お前はあっちへ行け! 気が散る……」

 しっしっと尻尾で追い払うと、エスカリナはたちまち口を尖らせた。

「むぅ……。いいじゃない。それぐらい話に付き合ってくれたって、ベガラスクのケチ!!

 エスカリナは城壁の下へと降りていくと、ベガラスクは頭を掻いた。

「なんなのだ、あの娘は……」

 やれやれと首を振り、ベガラスクは月光浴を続けるのだった。



 城壁塔の狭間から、朝日が差し込んでいた。

 肌寒い朝の空気に混じって、野鳥のさえずりが聞こえてくる。補給部隊による朝食の準備がすでに始まっているらしく、おいしそうな匂いが狭間の向こうから漂ってきた。

「落ち着いたか?」

 ヴァロウはカップを差し出す。珈琲ではなく、むろん紅茶である。

 白い湯気と共に、紅茶の香気が鼻を刺激すると、毛布を頭から被ったメトラは、差し出されたカップを手に取った。

 ホッと一息を吐いた後、飲むとさらに癒やされていく。

 ヴァロウの入れた紅茶は、寝具の上と同じく、優しく彼女を包んだ。

「ありがとうございます。ヴァロウ様。ようやく落ち着くことができました」

 ヴァロウはメトラの隣に座る。

 まだ自己嫌悪におちいっている恋人の細い肩をそっと抱いた。

「お前はそんな身体になってまで、俺を助けてくれた。いわば命の恩人だ。むしろ謝るのは俺の方だ」

「いえ! そんなことは……」

 上流貴族に謀殺された後、メトラは天使に転生することができたが、ヴァロウを生き返らせたとがめを受けて堕天──魔族となった。その際、彼女はサキュバスとしての性質を付与される。

 サキュバスとは、男の精をしぼり取る魔族の一種である。

 普段は半分流れる天使の血によって、その衝動を抑えているのだが、満月になるとどうしても抑制が効かなくなってしまうため、時々こうしてヴァロウに抱いてもらっていた。