メッツァー軍敗北。

 その同時刻、リントリッドから派遣されてきた本国軍は、大要塞同盟と本国の境付近に展開していたままだった。近くの村を接収し、大要塞同盟の動きを静観していたリントリッド軍総司令官ダレマイル・ゼノ・チューザーは、借り受けた村長宅で目を覚ます。

 わざわざ本国から持ってきた天蓋付きのベッドの上でひと伸びをした後、軽くあごを撫でた。

 やや髭の伸びが気になったダレマイルは、ベッドから出ようと手を突く。

 すると、妙に柔らかい感触があった。女の乳房だ。

「おやおや……」

 ダレマイルは手を離し、汚らわしいとばかりにプラプラと手を振る。

 女の肌は人の体温とは思えないほど冷たく、乳首は鋭く突起したまま硬くなっていた。

 口から泡を吹き、女は苦悶の表情を浮かべている。

「少々やり過ぎましたか」

 カリカリと岩のようにゴツゴツとした頭を撫でて、薄暗い笑みを浮かべる。

 ベッドから出て、椅子にかけられたガウンをまとい、机の上に残っていた水に、白い粉を混ぜて飲んだ。

 次に何事もなかったかのように爪の手入れを始める。死体が横に転がったままだと言うのに、ダレマイルからは鼻唄がれていた。

 すると、慌ただしい靴音が部屋の外から聞こえる。

 バンと扉を開けると、ライトメイルを装備した騎士が現れた。

「ダレマイル様、報告します!!

 大声が響き渡ると、ダレマイルは思わず爪ぎを落としてしまった。

「チェッカー……。そんな大きな声でなくとも聞こえます。ここは宮廷の私室ではないのですよ」

「し、失礼しまし────うっ!」

 チェッカーという騎士は、思わず鼻と口を腕で覆い隠す。

 薄く漂ってきた香の煙を見て、反射的に目を細めた。

 次に首を伸ばして後ろのベッドを見つめる。その視線にダレマイルが気付いた。

「失礼……。あなたはこの匂いが嫌いでしたね」

 ダレマイルは手を伸ばし、魔法によって香の周りの空気を操作する。

 香は消えたが、異様な匂いは壁や天井、あるいは家具に染み付き、チェッカーの鼻を刺激し続けた。

「お心遣いありがとうございます」

「それよりも何か火急の知らせがあったのではないですか?」

 ダレマイルはチリンと鈴を鳴らすと、メイド服を着た御側付きの女が二名入ってくる。

 失礼します、とテキパキとダレマイルの顔りの準備を始めた。一人が石鹸水の張った器を持ち、もう一人がダレマイルの髭を剃り始める。その動きに淀みはなく、そして女の目には生気らしいものはない。撥条ぜんまい仕掛けの人形のように、淡々とダレマイルの髭を剃った。

「ボッタッキオ将軍の部隊が消えました。早朝に兵を率いて、進発したのを他の兵が──」

「どこにですか?」

「…………おそらくメッツァーかと」

 チェッカーは神妙な顔で答えた。

 顔剃りを終えたダレマイルは、剃り残しがないか確認する。

 ツルツルの肌の感触に満足した様子で微笑んだ。

「それは……。困りましたね。大要塞同盟への進軍は、本国の了解があってからだと言うのに……」

「ですが、気持ちはわかります」

「ほう……」

「あ。いえ……。軍規に違反しているのはとがめられる行為です。ですが、今メッツァーの主力軍は、パルマ高原にて魔族軍と戦っています。メッツァーを占拠するなら、今をおいて他にないでしょう」

「確かにそうですね」

「本国の判断を仰いでいては出遅れてしまいます。本国軍の総司令官はダレマイル様です。それを────あっ。失礼しました。一番じくたる思いでいるのは、ダレマイル様なのに……」

「くくく……。いいですよ。私はおかざりの司令官ですから」

「そんなことはありません!」

 チェッカーは思わず声を荒らげてしまうと、その大きさに自身が一番驚いていた。かいするように咳払いをし、「失礼しました」と頬を染める。まるで新兵のようだ。

「チェッカーの気持ちはわかりました。ですが、今メッツァーを攻めてはいけません」

「それは────」

「直にわかりますよ。全軍に徹底してください。何があろうと動くなと。いいですね」

「かしこまりました」

 チェッカーは敬礼すると、家の外がにわかに騒がしくなってきた。

 まるでカラス、猫、犬が同時に餌を取り合っているような声が聞こえる。

「そろそろ時間のようですね」

 ダレマイルは立ち上がる。側付きのものに手伝ってもらいながら、真っ黒なローブに着替えた。大きな頭に載せたつば広の帽子もまた黒である。まるで葬儀屋のようであった。

「さて、今日も行きましょう。迷える子羊を救わねば……」

「よろしくお願いします」

 チェッカーを先頭にして、家の玄関を開けた。途端、声が爆弾のように弾ける。

「ダレマイル様だ!」

「おお! ダレマイル様!!

「ダレマイル様、お慈悲を!」

「どうか! 我らに導きの言葉を……」

 人間たちが玄関に殺到していた。

 全員村の人間である。まるで獣のように声を上げ、ダレマイルを賛美し、あるいは慈悲をう。

 カッと見開かれた瞳には、くろしょうぞくと言っても差し支えない大男が映っていた。

 丸く赤黒い瞳。四角いりんかく。蛇のような大きな口。胸板は厚く、肩幅も広い。

 まるでゴーレムのような男であった。

 そんなダレマイルに、村人は手を伸ばし、恵みを望んだ。

 猛獣の魂でも取りいたような村人を見て、ダレマイルは満足そうに微笑む。その背中にまるで後光が差したかのように雰囲気が一変した。

 村人たちのボルテージは最高潮に達し、慈悲を! 慈悲を! と連呼する。

「仕方ないですね。ちゃんと私の話を聞くことができますか?」

「はい!」

「もちろんです!」

「どうか!」

「福音を!」

 さらに声が大きくなる。興奮しすぎて、倒れ、そのまま息を引き取る者すら現れた。

 周りで見ていた兵士が、倒れた人間を回収していく一方、仲間が倒れても、興奮した村人たちは目もくれない。むしろあしにして、さらにダレマイルに向かって手を伸ばした。

「あなたたちも好きですね。わかりました。では、ご褒美を上げましょう」

 ダレマイルは手を掲げる。その瞬間、村人たちは手で器を作った。あるいはおけざるを掲げ、前の人間を押し倒すようにダレマイルに殺到する。

 突然、ダレマイルが掲げた手から白い粉が落ちる。サラサラと音を立てて、村人に降りかかった。

「「「「ぎゃああああああああ!!」」」」

 悲鳴が上がった。村人たちが必死にその白い粉を掴み取ろうとする。その粉が人の髪にかかればむしり取り、服にかかれば着物ごと剥いだ。地面に落ちている白い石を、粉だと思って必死に舐めている者もいる。

 チェッカーはただじっと無感情な瞳で見つめていた。

 周りで見ていた兵士たちですら、しゅうたいをさらす村人を見て、笑うことを忘れる。

 もはや人ではなく、ただのケダモノだった。地獄のですら、もっと上品であろう。

 その中でダレマイルは分厚い本を開く。何か聖典めいたものなのかといえば、違う。

 それは自伝である。ダレマイルが如何いかにして生まれ、育ち、今の地位にいるか。そして自分が如何に素晴らしい存在であるか。正気であれば、聞く者が恥ずかしく思うぐらい誇張された内容を、ダレマイルは静かに読み上げ始めた。

「『六章 我が母』……」

 するとダレマイルが被っていたつば広の帽子が、周りではしゃぎ回る村人の手に当たり、空へと飛んでいく。しかしダレマイルは自分の禿とくとうあらわになってもしっせきすることはなく、静かにろうろうと自伝を読み上げ続けた。それでも騒ぎは収まらない。誰一人聞いてすらいなかった。

 皆がその白い粉に夢中になっている。運良く口にできたものは、強い多幸感を感じ、表情を歪ませた。だが、それは刹那の快楽だ。狂人と化した村人たちは、さらに白い粉を求め、地べたをいずり回る。