魔族だ……。

 そして普通の魔族ではなく、若輩ながら魔王の副官へと上り詰めた人鬼族ワーオーガであった。

「むっ!」

 バルケーノは眉をひそめた。

 完璧と思っていた振り下ろしの影から、ヘーゼル色の瞳と目が合う。

 直後、甲高い音を立てて大槍が跳ね返された。

 バルケーノの体勢が崩れたのを、相手は見逃さない。

 ダッと地を蹴り、突きを放つ。バルケーノの胸にその切っ先が伸びていった。

「ちぃ!」

 バルケーノはまたも手綱を引く。

 飛竜は長い首を振り回し、主人に武器を突きつける不埒者を薙ぎ払う。その一撃に相手は、前進を中止し、三歩後退した。バルケーノは手綱をさばき、飛竜を後退させて距離を取る。

 たった数拍の剣戟であった。

 しかし、その濃厚な打ち合いに、ペイベロはただかたを呑み、主君の勝利を祈ることしかできない。

 一方、バルケーノはまた「かかっ!」と笑った。

「戦争を知らぬ頭でっかちな参謀タイプかと思っていたが……。かかっ! どうしてどうして……。将としても強いではないか、貴様」

「…………」

「また黙りか。先ほどあれほど饒舌に喋っておった癖に。まあ、良い……。我らは将なれば、語るは己の身体と得物のみ。それで十分だ」

「俺は将ではない。そして、その器でもない」

「ほう……。ならば、貴様は何者ぞ?」

「決まっている────軍師だ」

「かかっ! ますます気に食わん。あの男を思い出すわ。ヴァロウという名前といい……。まるで生き写しよ。だから、価値がある。ここで貴様を倒す価値がな」

 また先に仕掛けたのはバルケーノだった。

 義足となり、不自由な足の代用品となった飛竜をたくみに操る。その主人の手綱捌きに、飛竜もよく応じていた。地上すれすれまで降下すると、低空でヴァロウの方に突っ込んでくる。

 まるで猛牛──いや、巨大な岩が転がってくるようであった。

 いくらヴァロウでも、その突進をまともに受けるのはまずい。

「ヴァロウ様、お逃げください!」

 声を張り上げたペイベロの顔面が蒼白になっていた。

 だが、ヴァロウは動かない。剣を鞘に仕舞い、手を広げた。瞬間、ザッと土を噛むような音が響く。ヴァロウは押し込まれながらも、飛竜の突進を受け止めていた。

 その手の甲に刻まれた角の紋章が赤く光り輝く。

「すごい! 飛竜を止めてしまうなんて……」

 ペイベロは英雄譚のような非現実的な光景に息を呑んだ。

 バルケーノは将の器を測るようなことを言っていた。確かにヴァロウは猛将ではない。どちらかといえば、ザガスやベガラスクがそのタイプであろう。

 だが、その認識が一八〇度変わる。本来あり得ないことだが、ヴァロウは軍師でありながら、千の大軍とも戦える猛将でもあると、ペイベロは確信した。

「よく我が愛竜ツェバラクの突進を受け止めた。かわさなかった勇気も褒めてやろう」

 ヴァロウが躱さなかったのには、理由がある。

 仮に左右どちらかに逃げれば、今度はバルケーノの大槍の餌食になる。

『竜三槍』と言われるバルケーノの必殺の型の一つだ。

 この技を使い、バルケーノは地・空問わず驚異的な戦果を上げたのである。

 バルケーノは飛竜の頭の上から顔を出すと、大槍の切っ先をヴァロウへ向けた。

「だが、これでチェックメイトだぁ、化け物!!

「ああ……。お前がな……」

「むっ!!

 バルケーノはヴァロウに向けていた切っ先を返す。

 森の中から突如飛んできた矢を払った。

「ちっ! 兵を伏せておいたのか!!

 バルケーノは舌打ちする。

 ヴァロウはただ『竜三槍』を攻略するために、飛竜を受け止めたのではない。さらに言えば、バルケーノとただ漫然と長話をしていたわけでもなかった。

 兵を配置する時間を稼ぎ、バルケーノを地点に誘い込んだのである。

 そして、ヴァロウの攻勢は終わらない。

 瞬間、血しぶきが舞った。

 バルケーノの頬にも血が付着する。生暖かい血を浴びながらバルケーノは息を飲んだ。

 愛竜ツェバラクの首が飛んでいた。

 飛竜の皮は巨人族ギガントの皮膚を研究し、再現されたものだ。

 言うまでもなく硬いはずが、ヴァロウは一息で首を斬ってしまった。

 これにはバルケーノも「ぬうっ」とくぐもった声を上げる。

 自分の足とも言うべき愛竜の死を前にして、ほんの数瞬動きが止まった。

「放ちなさい!!

 森の奥から号令が聞こえたかと思えば、再び矢が飛んできた。

 メトラだ。森の茂みの向こう──赤い宝石のような瞳を妖しく光らせている。

 その周りで弓をつがえていたゴブリンの群れが、次弾を放つ。

「ぬぉおおおおおお!!

 バルケーノは槍を振るって、矢を払う。

 だが、振り上げた槍の下──腹に大きな隙ができた。

 それを見逃すほど、ヴァロウは甘くない。

「バルケーノ! たとえお前に将としてのがあろうとも、所詮お前は俺の手の平の器に過ぎない……!」

 ヴァロウの剣が真一文字に閃く。

 やられる!

 その時ばかりは如何な『竜王』バルケーノと言えど、覚悟を決めなければならなかった。

 死という言葉がよぎる。急にまぶたが重くなり、バルケーノは初めて恐怖によって目をつむる。

 だが、いつまで経っても刃は下りてこない。

 薄く目を開けた時、バルケーノは驚愕の光景を目にすることになる。

 こつぜんとヴァロウが消えていたのだ。

「ヴァロウ様!」

 魔族の女の声が聞こえる。その視線は遙か大空へと向けられていた。

 すると悠々と南の空を飛ぶ一匹の飛竜を見つける。その速度は凄まじく、すでに青い空の中で点になろうとしていた。

 メッツァーの飛竜ではない。自軍が助けにきたのでは、と思ったが、そうではなかった。

「あれは…………」

 見覚えのある飛竜を見て、バルケーノは目を細めた。

 魔族の女は飛竜に向かって何やら叫んでいる。どうやらあの飛竜にヴァロウが捕まったらしい。

 待望の敵を失ったバルケーノは軽く舌打ちする。だが、まだ戦いは終わっていなかった。

「おらああああああああああああ!!

 裂帛の気合いが横合いから聞こえる。

 殺気に気付いたバルケーノは、再び槍を握りしめると、奇襲を防いだ。

 鈍い金属音が響く。バルケーノが目にしたのは、大きな棍棒と闘争心を燃やした人鬼族ワーオーガの瞳だった。

「次はオレ様が相手だ、バルケーノ!」

「ザガス! 退却よ! ヴァロウ様を追いかけなきゃ!」

 魔族の女指揮官は金切り声で、ザガスという魔族に向かって叫ぶ。

 だが、ザガスは動かない。バルケーノを睨む目に、いささかの揺らぎも迷いもなかった。

「ほう……。まだこんなつわものが残っておったか!!

 バルケーノの口元が一瞬緩む。次の瞬間、歯を食いしばりザガスの棍棒を跳ね返した。

 老将とは思えぬ力に、珍しくザガスは顔を歪める。ととと、と体勢を崩したがすぐに構え直した。

「威勢のいいジジイだな。こりゃ楽しめそうだ」

「ふふ……。血がたぎっておるのぉ、ザガスとやら。わしの若い頃を思い出す」

「ふざけんな、老害……。昔語りなら、冥界の桟橋ででもやってな」

「ザガス!!

 ピシャリと女指揮官は言い放つが、ザガスにはまるで通じていなかった。

「行くなら行けよ、メトラ。オレ様はこの『竜王』様に興味がある────つっても、遅かったみてぇだがな」

「え?」

 騎馬の音がバルケーノの背後から聞こえた。鎧を着た騎兵たちが真っ直ぐこちらに向かってきている。それだけではない。地上に影が走ったかと思えば、甲高い動物の嘶き声が聞こえてきた。

 メトラは空を望む。すでに空には無数の飛竜が飛び回り、自分たちを包囲しようとしていた。

「まさか……メッツァーの竜騎士部隊!」

 空に現れた大部隊の壮観な姿に、メトラは息を飲み、横でザガスが嬉しそうに笑っていた。

 味方の到着にバルケーノが嬉々としているかといえば、そうではない。苦虫をかみつぶしたように、空を見上げていた。

「バルケーノぉぉぉおおおおおお!!

 そこに一気の騎馬が突っ込んでくる。

 分厚いよろいを着たじゅうそうへいが踊り出ると、バルケーノを背にしてザガスを睨んだ。

 フルフェイスの兜の奥の瞳はすでに血走り、匂い立つような殺気を漂わせている。

「なんだ、てめぇ……。雑魚は引っ込んでろ!」

おでの名前はヴァモット……。お前、魔族だな? 魔族は殺す……殺すころすコロす」

 ヴァモットという重装歩兵は、大金鎚を構え、口から泡を吹くぐらい「殺す」と連呼した。もはや殺気という領域を越えて、じゅに近いものを感じる。見ていたメトラが思わず身震いしたほどだ。

「やめぇい、ヴァモット!!

 怒声を発し、いさめたのはバルケーノ本人であった。

 空気を振るわすだいおんじょうに、ヴァモットから漂う怪奇な気配が吹き払われる。

「ヴァモットか。わしのめいなしに軍を動かしたのは……」

 バルケーノはヴァモットを睨み付ける。その眼光は鋭く、ヴァモットは慌てて首を振った。

「ちちちち、違う! おおおおおで、違う。れ、レドベンがやった」

「レドベンか……。チッ! 余計な真似を」

 そう言って、バルケーノはザガスと森に隠れている魔族軍を睨んだ。

「しまいじゃ」

「ああん? しまい? もう終わりってか?」

 ザガスは凄む。棍棒を振り回して挑発するが、バルケーノは乗らなかった。

「わしの望みは一騎打ちだ。大将同士のな。しかし白けた……。この場は退き、次なる戦さに備えるとしよう」

「逃げるってのかよ?」

「どうとでも取るがいい、血気盛んな人鬼族ワーオーガよ。それに先ほどの言葉を訂正しよう。しまいではない。これが始まりよぉ。大要塞同盟と魔族のおおいくさのな」

「はっ! めんどくせぇ野郎だ。オレ様と似てるだぁ? 冗談じゃねぇぜ」

 ザガスは得物を引っ込める。敵前で背中を向けると森の方へと戻っていった。

 そのまま先ほどの女性指揮官と、ヴァロウと一緒にいた商人とともに、飛竜にさらわれた主を追いかけ、南下を始める。

「い、いいのか、バルケーノ?」

 ヴァモットとバルケーノは従兄弟いとこ同士だ。年も近い。が、この時バルケーノは返事をしなかった。

 馬に跨がると、全軍を引き連れて、メッツァーへと戻っていく。そして一人呟いた。

「また生き残ったか。しかし、まあ……楽しみは残ったようだな」

 バルケーノの言葉は馬群の音にかき消される。

 その口元には笑みが浮かんでいた。



 ヴァロウがバルケーノに向かって、剣を振り上げた時だった。

 風を切る音が急速に近づいてきたかと思えば、次の瞬間腹部と腰に強いホールド感を感じる。

 身体が浮き、地面から離れていく。気が付けば、雲が近かった。

 ヴァロウは冷静に自分を掴んだものの正体を見極める。

 飛竜だ。大翼を羽ばたかせ、上昇し続けている。

 ヴァロウは剣で飛竜の足を切り落とそうとしたが、その前に声がかかった。

「ダメですよ。そんなことをしたら。この高さから落ちれば、いくら人鬼族ワーオーガが頑丈と言っても助からないでしょう」

 懐かしい声を聞いて、ヴァロウの眉宇が動く。

 騎乗者を確認すると、大きな黒目とかち合った。

「お久しぶりです、ヴァロウ師匠」

 懐かしい声を聞いて、ヴァロウは思わず挨拶を返しそうになる。

 騎乗者はヴァロウがよく知る人物だったのだ。

 ルミルラ・アノゥ・シュットガレン……。

 ヴァロウの最後の弟子だった。


 ルミルラは愛竜スライヤを近くの山に着地させる。

 飛竜の背から下りると、先に降りていたヴァロウに近づいた。最初は笑みを浮かべていたルミルラだったが、その顔はすぐにこわばることになる。

 ヴァロウが剣の切っ先をルミルラに向けていたからだ。

「どういうことでしょうか? ヴァロウ様。私を──ルミルラをお忘れになられたのですか?」

 ルミルラは胸に手を当てて確認するも、ヴァロウはただヘーゼル色の瞳を鋭く光らせるだけだった。その殺気は本物だ。後ろのスライヤが反応し、ぎゃあぎゃあと吠声を上げて威嚇している。

「ルミルラ・アノゥ・シュットガレンか……。随分と馴れ馴れしいな。初対面のはずだが……」

「そんなことはありません。私はあなたの弟子だったのですから」

「俺は知らない。誰かと勘違いしているのではないか?」

「そんなことはありません。ルロイゼンに続き、シュインツを攻略してみせた手際の良さ。テーランの重戦士部隊に対し、弾数が限られた魔導兵器を躊躇うことなく使用した大胆さ。それに──」

 ルミルラは刃を前にして微笑む。

「エスカリナ様から聞きましたよ。毎日紅茶ばかり飲んでるそうじゃないですか。……紅茶にじょうりゅうしゅを垂らして飲むなんて、古今東西あなたぐらいですよ、師よ」

 ルミルラは核心をついた探偵のように勝ち誇る。

 それでもヴァロウの頭が縦に振れることはない。剣先も依然としてルミルラを捉えたままだ。獲物を狙う肉食動物のように、ひたすら静かにそのヘーゼル色の瞳を光らせていた。

「そもそも私が来ることを知っていて、メッツァーに向かわれたのでしょう? 皆の前で正体を暴かれることを恐れたのでしょうが、逃げることもないでしょうに」

 ルミルラは決して退かない。ヴァロウが、自分の師であることを信じて疑わなかった。

 その師とおぼしき魔族は、頑なに己がかつて最強軍師とうたわれたヴァロウ・ゴズ・ヒューネルだと認めない。師弟ともに頑固であった。似たもの同士なのだろう、この二人は。

「さあ、ここにいるのは私たちだけです。存分にお話ししましょう、師よ」

「そんな話をするために、お前はバルケーノを討つ絶好の機会を俺から奪ったのか?」

「お忘れですか、師よ。バルケーノは我が父です。肉親を守るのは道理でしょ」

「ならば、魔族が人間を手にかけるのも道理であるはずだな」

 ヴァロウはルミルラの喉元にさらに剣を突きつけた。尖端が皮膚に触れ、小さく流血する。

 ルミルラの眉間に皺が寄る。目の前の魔族が、師ヴァロウであることに揺るぎのない自信を持っているものの、その本人は決して手を緩めない。本気でルミルラの首を落とすつもりでいるらしい。

 ルミルラはここに来て、初めて息を呑む。

 殺気にではない。ヴァロウが魔王の副官であろうとする覚悟を感じてのものだった。

「あなたも父と同じなのですね。私を戦場から遠ざけようとする。ヴァロウ様、私はもうすぐ三〇になります。あなたの元に弟子入りし、小間使いに毛が生えた程度の小娘ではないのですよ」

「…………」

「わかりました。魔族のヴァロウ。あなたに折り入って頼みがあります」

「……頼み?」

 すると、ヴァロウはあっさりと刃を引いた。

 今までの説得がなんだったのだろうかと思うぐらい素直にだ。

 まるでルミルラから何か頼みごとがあることを承知していたような動きだった。

〝お前もまた手の平の上だ……〟

 師の口癖が聞こえてくるようで、思わずルミルラはムッと頬を膨らました。


 一方、ヴァロウは鞘に剣を収め、近くの倒木に腰を下ろす。

 ルミルラも側に座ろうとしたものの、失敗に終わった。気の利いたエスコートはなく、代わりに剣の先が向けられると、ルミルラは口を尖らせる。

「師匠────」

 ヴァロウの眉がピクリと動く。

 顔は無表情だったが、かすかな殺気を感じて、ルミルラは慌てて言い換えた。

「ヴァロウ殿、頼みというのは、父バルケーノのことです」

「…………」

「どうか父の命だけはごようしゃいただけませんか?」

 ルミルラは膝を突くと、草場の地面に額を付けた。

 後ろで束ねた黒髪が前へと流れるのを見ながら、ヴァロウは口を開く。

「娘として、父親の命だけは取らないでほしいという懇願か? 随分と私情を挟んだ願いだな」

「そういうわけではありません。……いや、全くないわけではありませんが……。しかし、あなたにとってもメリットのある話です」

「俺たちにメリットだと?」

「あなたは大要塞同盟を攻略した後、人類軍の最前線の後背を突くおつもりなのでしょう?」

「…………」

 ヴァロウは今後の戦略のことを考えて、答えなかった。

 ルミルラは一度息を吐く。

「ですが、その前にあなたたちが対決しなければならない相手がいます」

「どこだ?」

「本国の軍です」

「……本国だと?」

「はい。すでに大要塞同盟の勢力圏付近に展開しています。こちらを刺激しないよう、かなり用意周到に隠されてはいますが……」

 ヴァロウは顎に手を置いた。

「やはり知らなかったようですね。どういう情報網を敷いているかは知りませんが、いくらあなたが優秀でも限界はあるでしょう」

「本国が軍備を整えていることは知っていた。だが、こうも早く動くとは思っていなかった。……なるほど。そういうことか」

 ヴァロウは頷き、得心した。

「この段階で本国が同盟の勢力圏にいて、何もしてこないということは、おそらく漁夫の利を狙っているのだろう。魔族と同盟を戦わせ、弱ったどちらかを討つ算段だな。仲間を見殺すほど、同盟と本国の関係はこじれているのか?」

「最初は仲が良かったと思います。ですが、同盟が力を持ち、独立の声も大きくなってきました。お互いが言うことを聞かないまま、関係は今や最悪です。そこに──」

「俺たちが現れたか。さぞ同盟側にはやくびょうがみに見えただろうな」

「それだけではありません。シュインツの元領主メフィタナ様が、脱税の容疑で中央に連行されました。私と父の許可なくです」

「決定的だな……」

「中央との対決は鮮明になりました。そこへ来て、反乱、そしてシュインツの占領です。父がどれほどお怒りであったか、想像できますか?」

「だから、バルケーノを討つな──か。つまり今争えば、本国の介入を許すことになる。そう言いたいのだな」

「まあ、それだけではありませんが……」

「まだあるのか?」

「今は言わないでおきます……」

 ルミルラははぐらかし、そして説明を続けた。

「もちろんタダとは申しません。見返りはきっちりと払わせていただきます」

「どんな見返りだ」

 ルミルラは正座姿勢のまま、後ろに束ねた髪を一度き、居住まいを整えた。

「ヴァルファルの譲渡。そして、私の首でいかがでしょうか?」

 さすがのヴァロウも、ルミルラの提案には驚いた。

 だが、それは一瞬のことで、すぐあの冷たい表情に戻る。

 ヘーゼル色の瞳で刺しても、ルミルラは態度も言葉も変えようとはしなかった。

「人間と戦うなと頼んでいるのです。それ相応の首というものが、必要でしょう。ただどうかこの首にかけて、ヴァルファルの領民の命だけはご容赦いただきたい。それが私の頼みです」

 改めてルミルラは頭を下げる。

 ヴァロウは最初から気付いていた。

 ルミルラが死を覚悟し、自分の前にやってきたことを……。

 自分が最強の軍師ヴァロウであろうとなかろうと、彼女には関係なかった。

 命をしてでも、ここにいるヴァロウという魔族に、自分の頼みを聞かせたかったのだろう。

 ヴァロウは思った。

(十五年か……)

 弟子入りしたばかりのルミルラは、ただのお嬢さまだった。

 確かに軍略の才能はあった。ぐんという仮想の盤面では、他の弟子に負けたところを見たことがなかったが、ただ勝っているところも見たことがなかった。

 常に守勢を保ち続け、敵兵が逃げるのを待つ。そんなことばかりしていたのだから、当然だ。

 一度、ヴァロウは何故そんなことをするのか、と尋ねたことがある。

 すると、彼女は軍儀の駒を持ち上げて答えた。

『こんなに綺麗な駒を捨てるわけにはいきません』

 その言葉の後、ヴァロウは何を言ったか覚えていない。

 ただルミルラは軍師に向いていないと思った。どんな戦場でも、自軍を切り捨てる時はやってくる。他の武将が反対しても、軍師だけは軍全体の命を守らなければならないのだ。

 ルミルラがやったのは、その真逆のことである。

 彼女は優しい。だが、戦場において、優しさこそがもっとも己を殺す敵であることを、この時のルミルラは知らなかったのである。

 ヴァロウが死んだ後、ルミルラがどういう人生を辿ったのかは知らない。しかし、人を殺すことを何より嫌がった少女が、戦場にでて、さらにはこうして自分の命を切り捨てようとしている。ただ英雄的な死を望むわけでも、自暴自棄になっている様子もない。

 明確な理を唱え、利益を計った上で、人の上に立つ者として己の首を差し出したのである。

「よかろう。ただし──」

「何でしょうか?」

「一番の問題はバルケーノだろう。ヤツを説得できるのか?」

 ルミルラは苦笑いを浮かべるが、最後には表情を引き締めた。

「それが一番の難問なんですけどね。……でも、必ずや説得してみせます。父は頑固ですが、私の話なら聞いてくれるはずです」

「わかった。お前の頼みとやらを聞いてやる」

「ありがとうございます、師匠! あ──!」

 ヴァロウはやれやれと首を振った後、口を開いた。

「一つ聞かせろ。何故、そこまでする? 今の大要塞同盟は──いや、人類はお前が命をかけるに値するほど、価値があるのか」

「随分と人側に立った意見をするのですね」

 ルミルラは目を細めて、ややわく的に笑う。そして空を望み、過去を振り返りながら口を開いた。

「昔、軍儀をしている時に師匠に言われたのです。何故引き分けばかりを狙うのか、と。私は駒が綺麗だからと答えると、師匠は汚れた駒ならば、お前は躊躇ためらいなく捨てることができるのか? と私に問いをかけました。その時の私はまだ未熟で、答えることができなかったのですが、今なら答えられると思います。聞いてくれますか?」


 そんなの無理です……。


「…………」

「駒が綺麗にできない限り、捨てることが最良なのでしょう。でも、無理ですよ。躊躇いなくなんて無理です。私は魔族でも、最強と言われた軍師でもない。単なる武家の娘です。他人の命をためらいなく捨てることなんてできません。だから、十五年ためらい続けて、ようやく私は自分の命を差し出すという選択に気付いたんですよ」

 この時のルミルラに往来している気持ちを、ヴァロウは知らない。

 師が炎に巻かれた時、ルミルラは少し頭がいいだけの無力な子供だった。その無念を抱えながら、己をけんさんし、師の最後となった質問の答えを探し続けた。そして十五年という月日を経て、今やっとその答えを見出すことができたのである。

「十五年か……。随分と時間がかかったものだな」

「それが凡人の領域なんですよ。あなたがおかしいだけです」

 ルミルラが笑う。それを見ながら、ヴァロウは少し息を吐いただけだった。

 すると、ヴァロウはルミルラに何かを手渡す。ルミルラはすぐに手の平にのせ、見つめた。

 それは透明な石だった。

「綺麗ですね。何ですか、これは?」

「それを今すぐ飲み込め。お前が我らを裏切らないか監視するものだと思えばいい」

「まだ私を信じてくれないんですか? そんなことをしなくても、裏切ったりしませんよ」

「念のためだ」

「はいはい」

 ルミルラは石を飲み込む。

 そして早速、待たせていたスライヤに跨がった。

「送っていきましょうか?」

「お前が魔族に八つ裂きにされたいならば、構わんが……」

「シュインツの方たちは、割と紳士的でしたよ。師匠とは違ってね」

「どうせエスカリナあたりに逃がしてもらったのだろう」

「バレましたか。彼女はなかなか見所がありますね。では──今度は、メッツァーの宮殿ブロワードでお目にかかりましょう。首を洗って待ってますよ」

「……そう祈る」

 スライヤが翼を羽ばたかせる。強い突風が巻き起こると同時に、広い夕空へと飛び立った。

 ルミルラは手を振るが、ヴァロウは振り返さなかった。

 竜頭が北を向く。

 西日を受けた飛竜は、黒い雨雲が見えるメッツァーへと羽ばたいていった。



 その夜……。

 メッツァー城塞都市は嵐に見舞われた。

 雷鳴が轟き、雨滴がガラス窓を打ちえる。

 稲光が宮殿ブロワードに差し込むと、絨毯に広がった赤い血を照らした。

 その傍らには遺体があった。

 無念そうに顔を歪め、黒髪を束ねていた布は弾けて黒い薔薇のように広がっている。

 黒い目に生気はない。

 かたりと物音を立てて、扉が閉まる。

 ギョロリとした大きな瞳は、最後まで娘に向けられることはなかった

「閣下……」

 バルケーノが部屋を出たところで、レドベンが立っていた。その顔面は真っ青だ。

 部屋の中にあるものについて多くを語らず、バルケーノはただ一言宣言した。

「戦さだ。準備をしろ」

 小心者の参謀は息を呑むのが精一杯だった。

どちらの敵でしょうか?」

「決まっておろう。我ら人類において、敵は一つしかおらん」


 根絶やしにせよ、同盟に巣くう悪魔どもを……。


「わ、わかりました。ところで、テラスにいる飛竜はどうしましょうか?」

「……殺せ。どうせ主は二度と戻ってこぬ」

 バルケーノは吐き捨てるように告げると、外套をなびかせて廊下を歩いて行く。

 そして、大要塞同盟主都市メッツァーとの戦いのぶたが切られるのだった。