分かっているのです。

 誰もが、もう諦あきらめてしまっているのです。ヴィルヘルム様はもう目覚められないと。

 でも、それを分かっていても。

 私には、諦めることができないのです。

 いつか、必ず奇跡は起きてくれる。

 そう、ずっと、ずっと、信じるしかないのです。

 ですが。

 涙が、次から次へと溢あふれてきました。

「うっ……えぐっ……」

 ヴィルヘルム様の手を握りながら、しかし涙が止まってくれません。

 この病室で、何度泣いたことでしょう。不安に胸が塗り潰つぶされて、何度となく涙を零こぼしました。

 ヴィルヘルム様。

 ヴィルヘルム様。

 どうか、どうか。

 神様でも天使様でも、誰でもいいですから。

 どうか、ヴィルヘルム様を助けてくださいませ──。

「……え?」

 ぴくりと。

 そう、ただの一瞬ですが。

 ヴィルヘルム様の──手が、動いた気が、しました。

 思わず、目を見開きます。今までずっと手を握っていましたが、このように動いたのは初めてです。

 ぽとりと。

 私の涙の一粒が──ヴィルヘルム様の、手の甲に、落ちました。

「……キャロル?」

 ゆっくりと。

 ヴィルヘルム様が、そのじっと閉じられてばかりだった瞳ひとみを開かれて。

 ヴィルヘルム様が、そのじっと閉じられてばかりだった唇を開かれて。

 そうやって。

 私の名前を──呼んでくれました。

「ヴィルヘルム様ぁっ!」

「うぐっ……こ、ここは、一体……?」

 神様か天使様か、あるいは他の誰かなのかは分かりません。

 ただ、私の祈りは。私の願いは。

 今このように──届いてくれたのです。


◇◇◇


 ヴィルヘルム様の胸にしがみついて、わんわん泣いてしまいました。

 永遠に目覚められない──そんな絶望に支配されていたのです。心から嬉うれしくて、涙が止まってくれませんでした。

 ヴィルヘルム様はそんな私に戸惑われながら、しかし自身の腕に繫がれた点滴や病室の様子から、察してくださったようです。

 どれほど、その胸にしがみついていたでしょう。

 ヴィルヘルム様が意識を取り戻した──それを知って、心から安あん堵どして。

 ようやく、涙が止まってくれました。

「ヴィルヘルム様……良かった……良かったです……!」

「うむ……心配をかけたようだな、キャロル」

「ええ、心配しました。心から、心配しました。もう、目覚めてくださらないのではないかと……」

「すまんな……」

 はぁ、と小さくヴィルヘルム様が嘆息なさいました。

 恐らく、まだ四肢はまともに動かすことができないでしょう。一月も昏こん睡すい状態にあったために、体は拘縮しているはずです。私が胸にしがみついてわんわん泣いている間も、じっと動かれないままでした。

 視線だけでヴィルヘルム様は周囲を確認されて、それから私を見ました。

「その……儂わしは、どうなっていたのだ?」

「一月前に、こちらの病院に搬送されました。意識不明の重体で、どうにか命は助かったのですが……それからは、ずっと目覚めることなく」

「……そうだったのか」

「ヴィルヘルム様は、覚えておられないのですか?」

「凱がい旋せんの行軍を行っていたあたりから、記憶がない。ようやくキャロルに戦勝を報告できると、そう思っていたのだが……気がついたら、ここにいた」

「そうだったのですか……」

 確かに、破傷風の発作は唐突に発生するので、記憶が混濁するのかもしれません。

 ですが、本当に良かったです。

 こんな風に言葉を交わせることが、何より嬉しいのですから。

 その瞳には、私が映っています。

 その唇は、私のために言葉を紡いでくれます。

 ただ、それだけで。

 私は幸せです──。

「死ぬような傷は、受けていなかったはずだがな……」

「肩を、槍やりで貫かれたと……」

「まぁ、確かにされたが……あの程度の傷で、どうなるというものでも……」

「槍を突かれて、すぐに槍を抜いて処置をしましたか? 水で洗い流しましたか? 消毒をしましたか?」

「……いや、すまん」

 むくれます。

 私に医学、衛生学の重要性を説いてほしいと言ってくださったのは、ヴィルヘルム様です。ですのに、ご自分のことになるとそれほど無む頓とん着ちやくになるだなんて。

 ヴィルヘルム様がちゃんと適切な処置をなさっていれば、こんな風に倒れることはなかったかもしれないのですから。

「破傷風、でした」

「なんと……!」

「恐らく、槍が錆さびていたのだと思います。錆びたものに宿る雑菌により感染すると言われていますから」

「……儂は、随分と強運らしい」

 ヴィルヘルム様が、そう大きく溜ため息いきを吐かれます。

 当然です。破傷風は、それだけ恐ろしい病なのです。一度発症してしまえば、致死率は半分以上にもなるのですから。

 そんな病に罹かかりながら、このように目を覚ましてくださったこと──これは、奇跡と言ってもいいです。

「……キャロル、だけか?」

「はい」

「ナタリア嬢は……付き添っておらぬのか?」

「……一人にしてほしいと、そう言っています。私がここにいる間は、病院の前で待ってくれています」

 本当のことです。

 ヴィルヘルム様のお身体を拭ふいたり、体の向きを変えたりするだけですから、何の危険もありません。それに、ヴィルヘルム様の前で泣き続ける私を見ると、ナタリアも心配しますから。

 ですから、一人にしてほしいと。

 そう言うとナタリアは寂しそうに承諾してくれて、それからは病院の前で待ってくれるようになりました。

「騎士団の皆様は、ここのところ一週間ほど来られていません。アナスタシア団長は、昨日いらっしゃいました」

「ふむ……そうか」

 ヴィルヘルム様が、目を細めて私を見ます。

 慈愛に満ちた、私の大好きなヴィルヘルム様の眼まな差ざし。

 再びその眼差しで見つめられること──それが、これほど幸せなことだなんて。

「キャロル」

「はい、ヴィルヘルム様」

 ヴィルヘルム様が、そう私の名を呼ばれます。

 少し低い、私の大好きなヴィルヘルム様の声音。

 再びそのお声を聞くことができる──それが、これほど幸せなことだなんて。

「毎日、来てくれていたのだな」

「はい」

「毎日、信じてくれていたのだな」

「はい」

「ありがとう。きっと、儂に奇跡をもたらしてくれたのは、キャロルなのだろう」

「そんな……」

 買いかぶりです、ヴィルヘルム様。

 私はただ、無力にも祈ることしか、願うことしかできなかったのですから。

 ヴィルヘルム様は、少し照れたように微笑んで。

「キャロル」

「はい、ヴィルヘルム様」

「少しばかり、待たせてしまった……これからも、しばらく待たせることになる、のだが……」

「は、はい……」

「動けるようになったら、そのときには、儂と結婚式を挙げよう」

「まぁ……!」

 どうしましょう。

 私も照れてしまいます。

 ずっとずっと待っていたのですから。

「まぁ……自分の体は、自分がよく分かる。しばらくは、立つこともできるまい。腕すら動いてくれぬ」

「一ひと月つきも、ずっと眠られていましたから……」

「ここからは、しばらくリハビリだな。どうにかして、せめて二本の足で歩けるようにならねば」

「はい、全力でお手伝いいたします」

「頼む……しばらくかかるだろうがな」

「大丈夫です、ヴィルヘルム様。キャロルは、待ちます」

「すまぬ」

 一月、お待ちいたしました。

 これから何ヶ月、待つことになるのかは分かりません。

 ですが、ヴィルヘルム様。

 待つことなど、何の苦痛でもありません。


 私は、ヴィルヘルム様の妻になる日を、十年も待ったのですから──。


◇◇◇


「ぐ……うぐっ……」

「ヴィルヘルム様! もう少しです!」

 意識を戻されたヴィルヘルム様の回復は、それから見違えるようでした。

 一月も昏睡状態にあって、全身の筋力はことごとく低下しています。それを分かって、医師より与えられたリハビリのメニューを毎日こなしているのです。

 やっと、平行棒を握って歩くことができるほどに回復しました。最初は寝台から起き上がることもできなかったのに、大きな進歩です。

 足取りは遅くとも、間違いなくその両の足で床を踏みしめて、歩かれているのです。

 汗を流しながら、ようやく私のいる場所に──ゴールへと到着なさいました。

「ふ、うっ……」

「お疲れ様です、ヴィルヘルム様」

「ああ……」

 用意した車椅子に座って、ヴィルヘルム様が額の汗を拭かれました。

 私にしてみれば短い距離でも、リハビリ中のヴィルヘルム様にしてみれば過酷なまでに長い距離なのだそうです。ですが、頑張ってメニューをこなせば、以前のように歩くことができるようになると医師は言っていました。

 私も、ちゃんと応援しないと。

「あと、もう一度だな。気合を入れねば」

「ご無理を、なさってください。ヴィルヘルム様」

「ふふっ。変わった言い回しだな」

「簡単にできる運動を長く続けるよりも、無理をしてでも負荷の高い運動をした方が、より体に良い効果があると聞きます。普段ならば、ご無理をしてほしくはないのですが……」

「儂もそれは分かっておるとも」

 よしっ、とヴィルヘルム様が再び、平行棒を握って立ち上がられました。

 やはり元騎士団長ということで、お年を召してはいますが鍛えられていたことが幸いしたみたいです。本来、これほどのお年の方が昏睡をしてしまうと、そのまま寝たきりになってしまうことが多いのです。

 ですが、ヴィルヘルム様には元々鍛えていたという下地がありました。ですから、このように負荷の高い運動でも行えますし、筋力の衰えも少なかったのでしょう。

 私は逆側に、ヴィルヘルム様の車椅子を運びます。

 最初は、いつお休みになってもいいように車椅子を持って後ろからついていっていました。ですが、ヴィルヘルム様に言われてこのようにゴール地点で待つようにしたのです。

 ヴィルヘルム様が、ゆっくりゆっくり一歩ずつ踏みしめてきます。

 いつお倒れになるかと思うと、不安でたまりません。

 ですが。

 私はちゃんと、信じて待っていなければいけないのです。

「ヴィルヘルム様、今日は調子がいいです! いつもより速いです!」

「う、む……ぐぐっ……」

 ですから。

 私にできることは、応援することだけです。

 ヴィルヘルム様のお身体は、ヴィルヘルム様にしか治すことができないのですから。

 私は、精一杯隣で支えるだけなのです。

 ヴィルヘルム様がその腕にしっかりと力を込めて、平行棒を握りしめて歩かれます。表情は真剣で、歯を嚙かみ締めながら、息を荒らげながら、ゆっくりと。

 そして──お倒れになるかのように、車椅子に座られます。

「ふぅ……はぁ、はぁ……」

「お疲れ様です、ヴィルヘルム様。今日のメニューは、これで終わりですね」

「……そうだな。あとはせいぜい、部屋で軽い鍛練をするくらいか」

「はい。次の方が使われる時間ですし」

「ああ。では、戻ろう」

 ヴィルヘルム様の車椅子を押して、リハビリ室を後にします。

 毎日、使える時間は決まっているのです。王立病院は盛況ですから、時間を決めて使用者を限定しないと誰かが延々と使い続けるそうです。

 ですから、あとは面会時間の終わりまで、ヴィルヘルム様とお話をしているのですが。

 廊下を歩いていると、暖かな日差しが降り注いでいるのが分かりました。

「良いお天気ですね」

「そうだな」

「どうでしょうか、ヴィルヘルム様。少し、お散歩でもしませんか?」

「ああ……そうだな。すまんが、押してくれるか?」

「はい、ヴィルヘルム様」

 うふふ、と微笑みながらヴィルヘルム様の車椅子を押して、中庭に向かいます。

 王立病院の中庭は、ベンチが備え付けてある憩いの場です。天気のいい日は、他にも入院されている患者たちが集まったりもしています。今日もちらほらと、日光浴をしている人たちが見えました。

 緩やかに吹く風に髪を揺らしながら、ゆっくりとお散歩をします。

「……気持ちがいいな」

「はい。風が心地好よいですね」

 暖かな太陽と、涼やかな風が丁度いいです。このくらいの気候なら、ヴィルヘルム様のお身体にも毒にはなりませんね。

 ベンチの近くにヴィルヘルム様の車椅子を止め、私もベンチに座ります。

 中庭の中央にある大樹を見ながら、二人で。

「はぁ……しかし、みっともないな」

「へ?」

「自分の足で歩けぬことが、これほど辛つらいとは……医者は、以前のように歩くことはできると言っていたが、もう戦場に戻ることはできんな」

「……ヴィルヘルム様」

「引退を決めていたことが幸いした。ヴェクターも幸いにして、きっちりと騎士団を回せているようだからな」

 ふふっ、とヴィルヘルム様が微笑まれます。

 そして、大きな掌てのひらで私の頭を撫なでてくださいました。

「しかし……毎日毎日、すまんな。それほど、無理をして来てくれなくても良いのだぞ」

「私が、来たいから来ているのです。無理はしていません」

「そう言ってくれるのはありがたいが……いや、今更か」

 その通りです、ヴィルヘルム様。

 私はヴィルヘルム様が退院をなさるまで、雨が降ろうと雪が降ろうと絶対に来ます。

 今までずっと、過ごしてこられなかった期間を。

 せめて今だけでも、お支えすることが私の幸せなのですから。

「儂わしは、騎士団の面々に怒られるかもしれんな」

「何故ですか?」

「キャロルの講義は、好評だったのだ。それこそ、若い騎士の中には、キャロルの姿を見たいがために立ち見をしていた者もいるくらいにな」

「まぁ……」

 なるほど、何度も何度も来ていた方は、下心があったのですね。

 残念ながら、私はヴィルヘルム様一筋ですけど。

 そのように持ち上げられるほど、容姿端麗ではないと思うのですが。少なくとも顔だけなら、リリアの方が可愛いですし。胸に関しては一緒くらいです。絶対に一緒くらいです。絶対に負けは認めません。

「騎士団の皆様は、あまり女性と接する機会がないでしょうし、物珍しいのでしょう」

「……それだけが理由ではないが、な」

「え?」

「キャロルはもう少し、自分の魅力を分かるべきだな」

 ははっ、とヴィルヘルム様が苦笑されました。

 よく分かりません。私自身が多少若い女ですから、珍しいだけだと思いますのに。

「さて……風が冷たくなってきたな。そろそろ戻るか」

「はい、ヴィルヘルム様」

 確かに、日差しは暖かいですが、風はやっぱり冷たいですね。このままだと冷えてしまいます。

 そろそろ病室に戻りましょう。

 ヴィルヘルム様の車椅子を押して、病室に向かいます。あとは、暗くなるまでお話をするだけです。その間、ヴィルヘルム様は少しでも早く回復するために、腕の運動をなさるのですけど。

「あー……キャロル」

「はい、ヴィルヘルム様」

「その……まぁ、寄ってほしいのだが」

「あ、はい」

 言いにくそうにヴィルヘルム様が仰いますが、勿もち論ろん私にはそれが何か分かっています。

 人間である限り、生理現象は必ずあるのですから、こうやって折角起きているときなので、ついでに行っておこうというお気持ちはちゃんと分かります。

 勿論そこは。

 トイレです。

「そ、その……儂も、大分回復したからな、そろそろ自分で……」

「いえ。片手だけでの立位はまだ不安定です。お手伝いいたします」

「くぅ……こ、これだけは、まだ受け入れることができぬ……」

 私は医学を嗜たしなんだ者として、何も抵抗なんてありません。

 元より、私とヴィルヘルム様の年の差は、四十六。

 これからどのような未来を、二人で歩んでいくかは分かりませんが。

「大丈夫です。ヴィルヘルム様」

「む、む……?」

「私は、将来的には喜んでヴィルヘルム様の介護を行わせていただきます」

「……そのような未来が、来ないことを願おう」


◇◇◇


 時間の流れは、随分と速いものです。

 私も気付いたら、誕生日を過ぎて十七歳になっていました。そんな誕生日でさえ、ヴィルヘルム様の病室にいたので全く気付いていなかったのですけど。帰ったら屋敷でお祝いをされて、初めて気付きました。

 そして。

 今日は──私とヴィルヘルム様の、結婚式です。

「よく似合っているな、キャロル」

「ありがとうございます、ヴィルヘルム様」

 真っ白のウェディングドレスに身を包んだ私と、黒のタキシードに身を包んだヴィルヘルム様。

 ヴィルヘルム様はまだ車椅子に座られているままですが、それでもきっちりとお召し物を整えておられる姿は、凛り々りしくて恰かつ好こういいです。

 ヴィルヘルム様が退院なさってからすぐに、結婚式の日取りを決めました。そして、せめて花道は歩く、とヴィルヘルム様は一生懸命にリハビリをなさったのです。

 そして、そんなリハビリをずっとお支えしてきて、もう半分くらいヴィルヘルム様のお屋敷に住んでいる私です。泊まることは許してくださいませんが、それでも朝一番から夜までずっとヴィルヘルム様と一緒です。

 騎士団の皆様と友人と、両家の親族だけを呼んだ、元騎士団長と公爵令嬢の結婚式だとは思えないほどに小さな式。

 それが、もう間もなく始まろうとしています。

「キャロル」

「はい、ヴィルヘルム様」

「儂は……幸せ者だ。キャロルのような妻を貰もらうことができたことを、嬉うれしく思う」

「私こそ、心から幸せです。ヴィルヘルム様の妻になれたこと、誇りに思います」

「そのように、思われるような人間ではないのだがな……」

 ヴィルヘルム様は苦笑されますが、私の心からの願いであったことは変わりません。

 色々と、私とヴィルヘルム様の仲を阻むものがたくさんありました。

 思い返すと長いようで、とても短い日々でした。このように嫁ぐ日が来ることを夢見ながら、絶望した日々も泣いた日々もあります。そして、その全てが私の糧になってくれているはずです。

「キャロル! そろそろ入場の時間よ!」

「あ、ありがとうございます。リリア」

 カーテンの向こうから、リリアが顔を覗のぞかせてそう言ってきました。

 今日の結婚式で、司会を任せているのです。何にも手を抜かないリリアは、ちゃんとしたタイムスケジュールを作って管理してくれているのです。

 さぁ。

 このカーテンの向こうが、結婚式場です。皆様が歓談されているのが聞こえます。

 カーテンの前に、ヴィルヘルム様と二人で並びます。

 あとは──この花道を、ヴィルヘルム様が歩いてくださることだけ。

「新郎新婦の入場です! 大きな拍手でお迎えください!」

 リリアの声が聞こえます。

 しん、と喧けん騒そうが止んで。

 ゆっくりと、私たちの前にあるカーテンが、開きました。

「……」

「……」

 ヴィルヘルム様が。

 ゆっくりと、立ち上がられます。

 リハビリでは、歩くことができていました。このくらいの距離ならば、転倒することなく歩くことができるはずです。

 ですが。

 いつお休みになっても大丈夫なようにとの車椅子を、私は一緒に持っていません。

 不安ですが、それでも。

 ヴィルヘルム様が、私に手を差し出されました。

「行こう、キャロル」

「はい!」

 真紅の絨じゆう毯たんが敷かれた、結婚式場の花道。

 新郎に手を引かれ、新婦が半歩後ろを歩きながら入場するのが慣例とされています。

 そんな花道を、ゆっくりとヴィルヘルム様と共に歩きます。

 ヴィルヘルム様の足取りは──ゆっくりですが、確かです。平行棒を握りながら、倒れそうだった面影はもうありません。

 ちゃんと──ご自分の足で、歩けるようになったのです。

「おめでとう! 団長!」

「キャロル嬢! 良かったなぁ!」

「団長が、ちゃんと歩いてる……!」

「良かった、良かったぁ……!」

 皆様の声に、そう励まされながら歩きます。

 本当に、心から私たちの幸せを、願ってくださる皆様に、感謝しかありません。

 ぱちぱちと拍手が鳴り響く中で、私たちが向かった先は──神父様の前。

 結婚をする夫婦は、ここで愛を誓うのです。

 拍手が止み──静寂が訪れました。

「新郎、ヴィルヘルム」

「はい」

「汝なんじ、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓うか」

「誓います」

 まずは、ヴィルヘルム様がそう誓いの言葉を告つげます。

 そして、次は私です。

「新婦、キャロル」

「はい」

「汝、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓うか」

「誓いましゅ」

 あ。

 嚙かんでしまいました。

 くすくすと、少しだけ笑い声が聞こえてきました。どうして私は、こういつもいつも大事なときに限って嚙んでしまうのでしょう。

 かーっ、と顔に熱が走ります。恥ずかしいです。

「……よろしい。では、神の御前で誓いの口付けを」

 神父様は、ちゃんとスルーしてくれました。ありがとうございます。

 そして、横に並んでいた私とヴィルヘルム様は、互いに顔を見合わせます。

 誓いの言葉からの、誓いの口付け。

 それが、結婚式の流れなのですから。

「キャロル」

「ヴィルヘルム様……」

 皆様の目の前で口付けをするなんて、はしたないことだと思います。

 ですが、これは結婚式として決まっていることですから。

 ですから。