第六話 愛いとしのヴィルヘルム様



 ザックの言葉を聞くと同時に、私はそのまま屋敷から飛び出しました。

 いても立ってもいられません。ヴィルヘルム様がそのような容体だと聞いて、じっと屋敷にいられるような性格ではないのです。ただ、ただ、今は──ヴィルヘルム様の、ご無事だけを祈って。

「お嬢様っ!」

「キャロル!」

 ナタリアとザックが後ろからそう制止してきますが、無視です。私の足を止めることはできません。

 ヴィルヘルム様の身の危機となれば、誰よりも早く向かうべきは私なのですから。

 どうか、どうか、ご無事で。

 お命だけは、助かりますように──。

「お嬢様! お待ちください!」

 後ろから、ナタリアのそんな声が聞こえます。

 私が飛び出せば、きっと後ろから付いてきてくれると思っていました。ですから、ちゃんと護衛を連れての外出です。何も問題はありません。

 王立病院は、王城の前にあるこの国で一番大きな病院です。王城は屋敷からやや遠いですが、それでも歩いていける範囲内です。

 馬車になど、乗っている暇はありません。

 一刻も早くヴィルヘルム様に会いたい──だから私は、走ります。

「はぁ、はぁ!」

 息が上がります。

 元々、それほど体力があるわけではありません。積み重なった疲労感に全身が支配されます。少し走っただけなのに、それでも心ばかり逸はやってしまって、疲労が倍になるような気持ちです。

 ですが、それでも。

 私は走ります。絶対に、止まりません。

「お嬢様ぁ!」

「う、うっ……!」

 息ができません。ヴィルヘルム様がこのまま身み罷まかってしまうのではないかと、そう想像すると、怖くて怖くてたまりません。

 どのようなお怪我を負われているのでしょう。

 どのようなご容体なのでしょう。

 お怪我をされたときに、私の講義は少しでも役に立ったのでしょうか。

 ヴィルヘルム様──!

「へぶっ!」

「お嬢様!」

 でも。

 私の体は、ちゃんと私の言うことを聞いてくれません。

 突然に走った足が、いきなり痙けい攣れんを起こしました。言うことを聞かない足がもつれて、そのまま盛大に顔から地面に突っ込みます。手で防御することすら間に合いませんでした。

 鼻の頭が痛いです。多分、赤くなっています。

 でも、私は、それでも。

 向かわねば、ならないのです──!

「う、うっ……!」

「お嬢様! 大丈夫ですか!」

「わた、しは……!」

「ご無理をなさらないでくださいお嬢様!」

「行、かねば……!」

 どうしましょう。

 痙攣を起こした足が、私を立たせてくれません。一刻も早く、ヴィルヘルム様に会いたいのに。

 心ばかりが焦って、それでも運動不足の体は私に逆らうのです。少しでも休めと、そう足が訴えかけてきているかのようです。

 痛くて、辛つらくて、悲しくて。

 涙が、溢あふれてきます。

「ヴィルヘルム様……!」

「お嬢様……」

 倒れている私の側で、ナタリアが座り込みます。

 傍はたから見れば、きっとみっともない姿を晒さらしていることでしょう。アンブラウス公爵家の息女は、このような市井の地べたで寝るような女なのだと噂されるかもしれません。

 ですが、そんなもの関係ありません。私はただ、ヴィルヘルム様の側に行きたいだけなのですから。

「お嬢様、失礼いたします」

「へ……?」

 痛みに、頭が朦もう朧ろうとすらしてきました。

 思考が逡しゆん巡じゆんして、混こん沌とんのように渦巻いています。私はこんなにも弱い。それを実感してしまいます。

 そんな私に、ナタリアは。

 私の首の後ろと、膝ひざの裏に手を入れました。

「どうぞ、この侍女をお使いください」

「ナタリア……?」

 ひょいっ、と。

 まるで軽い荷物を持ち上げるかのように、ごく自然に。

 ナタリアが、私を持ち上げました。

 お姫様抱っこです。九年前に、悪漢に襲われそうになった私を屋敷までヴィルヘルム様が運んでくださったので、人生で二度目ですね。攫さらわれた先でロバートに運ばれたのはノーカウントです。

 ナタリアは、そんな私に対して笑顔を向けて。

「急ぎます。落ちないように、摑まっていてください」

「え、ええ……」

「はっ!」

 だっ、とナタリアが駆け出しました。

 私を抱えているとは思えないほどの速度です。やはり、鍛えているからですね。

 私なんて、自分一人で走るだけでも辛いのに。

 ぐんぐんと景色が過ぎ去ってゆきます。だというのに、速度が全く落ちません。ナタリアの顔も、疲れは全く感じていないように思えます。

 そして──あっという間に、王立病院、その入り口へと到着しました。

 改めて、ナタリアの凄すごさが分かります。

「到着いたしました、お嬢様」

「ええ……」

「歩くことはできますか? お嬢様」

 ナタリアの手から下ろされて、地面に足をつけます。

 僅わずかに痛みが走りましたが、それでも歩けないほどではありません。駄目ですね、もっと体力をつけないと。

 講義で忙しくはありますが、ナタリアに鍛えてもらうようにしましょうか。

 何はともあれ、とにかくヴィルヘルム様のお姿を──。

 入り口から、病院の中へ入ります。

 すると──早速、見える位置にヴェクター副長がおられました。

「……キャロル嬢、か?」

「は、はい! ヴェクター副長……あ、あの!」

「……団長は、この中だ」

 ヴェクター副長が、機嫌が悪そうに腕を組んでいます。

 そして、少しだけ私を見た後、すぐに視線を目の前の扉へと向けました。

 分厚い、鉄の扉です。

 大きな病院ならば、必ず一つは存在する、生死の境にある患者を搬送するための部屋──集中治療室です。

 今すぐに、この扉の向こうに入って、ヴィルヘルム様に会いたい。

 そんな気持ちはあります。

 ですが、私も曲がりなりにも医学を学んだ身です。それが、いかに愚かなことであるか知っています。

 医療に従事する者以外、誰も入ってはいけない場所。

 ぞくりと、背筋が震えるのが分かります。

 ここに搬送されたということは──それだけ、重篤だということなのですから。

 無言で、ヴェクター副長の隣に座ります。

「……」

「……」

 何も、言葉を交わしません。

 私は、せめて扉の向こうのヴィルヘルム様に届くように、祈ることしかできないのです。顔を伏せて、目を瞑つぶって、ただただご無事でいてほしいと願うことしかできないのです。

 ふぅ、と小さく、ヴェクター副長が溜ため息いきを吐かれました。

「何故、団長が、こんなことに……!」

「……」

「団長が敵兵の槍やりに、肩を貫かれた。その際に応急処置はしたが……その後、凱がい旋せんの行軍中に意識を失われた。まるで、人が変わってしまったみたいに……仰のけ反るように痙攣を始めたのが、昨夜だ」

「……」

「俺には分からんが……医者は、今夜が峠だと言っていた。お前にならば、分かるのか。団長が……どうなったのか」

「……その、槍は」

 仰け反るような痙攣。

 その言葉には、覚えがあります。聞いたことがあります。宮医の先生に何度となく教えられた、最悪の病気。

「錆さびて、いましたか……?」

「あ、ああ……? どうなんだろうな。まぁ、貧乏国のリファール兵ならば、錆びた槍かもしれんが……」

「……」

 最悪です。

 医師が峠だと言うのも、分かります。この集中治療室に運ばれたのも、分かります。

 それは、発症すれば半分以上が死に至る病。

「破傷風……!」

「え……?」

 ただただ、ご無事でと、そう祈り、願います。

 でも。

 絶望で──心が、真っ暗になるようでした。


◇◇◇


 ヴェクター副長の隣で、ずっとずっとヴィルヘルム様を待ち続けます。

 どうか、どうか、身罷られることのないようにと。ヴィルヘルム様のご無事を確認するまで、絶対に屋敷には戻らないと決めました。

 じっと、じっと。

 昼になって、夜になっても、ずっと私はそこにいました。

「……お嬢様」

「……」

「お食事を、お持ちしました。せめて、これだけでも口にしてください」

 ナタリアが持ってきてくれたのは、パンと瓶の牛乳でした。

 急いで買ってきたのでしょう。紙袋の中に入れられたパンは、まだほのかに温かいです。

 ですが。

 なんだか、食べる気になれません。ヴィルヘルム様のお命が危ない今、胸がいっぱいで何も入りそうにないのです。

 小さく、首を振ります。

「……お嬢様、せめて、一口だけでも。朝食の後から何も召し上がっていないので」

「ですが……!」

「これでお嬢様までお倒れになったら、ヴィルヘルム様は悲しまれます。せめて、お食事だけでも摂とってください」

「……」

 ナタリアから、パンを受け取ります。

 一口だけ、齧かじります。ふっくらとしていて、ほんのり甘くて、美お味いしいです。

 でも。

 咀そ嚼しやくして、嚥えん下かする──その作業は、これほどまでに重労働だったでしょうか。

 一口だけ食べて、返しました。やっぱり、何も食べることができないのです。

「……」

「……」

 ナタリアもそれ以上は言ってくることなく、ただヴェクター副長と肩を並べて、そこに座り続けます。

 今夜が峠。

 今夜さえ乗り切ることができれば、ヴィルヘルム様が助かる可能性は高いのです。

 ただただ、じっと待ち続けます。

 この目の前の、まるで不動の存在であるかのように鎮座する扉が、開いてくれますようにと。


 どれほどの時間が流れたでしょう。

 少なくとも、外が暗くなって、明るくなるまで、まるで永えい劫ごうであるかのように感じました。一睡もすることなく、ただ動かない扉を見続けました。

 眠いという気持ちは、全くありません。むしろ、今眠れと言われても眠れないでしょう。

 隣のヴェクター副長も同じであるみたいで、目を瞑られていますが、寝ていないことは分かります。

「……」

「……」

 太陽が昇って、病院の中にも光が差してきました。それでも、扉は開きません。

 代わりに、入り口の扉の方が開きました。

「キャロル!」

「あ……」

 そこにいたのは、リリアでした。

 デボラさんを連れて、制服姿です。まだ学園の始業時間ではないのですが、恐らく様子を見にきてくれたのでしょう。

 だだっ、と私のもとに駆け寄ってきてくれます。

「屋敷に行ったら、昨日は帰らなかったって言うし……! 一体どうしたのよ!」

「……ヴィルヘルム様とお会いできるまで、私はここにいます」

「そんなに、絶望的なの……!?」

「……」

 ふるふると、首を横に振ります。

 亡くなられるなんて、考えません。そんなこと、想像もしません。ちゃんと、意識を取り戻されて、前みたいにお話をしてくださるヴィルヘルム様を、私は待っているのですから。

 ですから。

 ですから。

 早く──早く、出てきてくださいませ、ヴィルヘルム様。

「でも、一睡もしてないんじゃないの! キャロルが倒れちゃ駄目でしょ!」

「リリア……」

「ナタリアからも言ってあげてよ! いくら心配だからって、そんなことしてたらキャロルのことが心配なのよ!」

「……ごめんなさい」

 謝罪は、します。

 ですが、私はここにいます。絶対に、ヴィルヘルム様とお会いできるまでは、戻りません。

 私はただ、祈ることしか、願うことしかできない無力な女です。

 でも、ここで。

 せめてヴィルヘルム様に一番近い場所で、そのご無事を祈りたいのです。

「ああ、もう!」

「え……」

「デボラ! 今日は休むって学園に連絡しておいて! あたしもここにいるから!」

 どんっ、と私の隣に、リリアが座ってきました。

 とても不機嫌そうに。でも、心から私のことを心配してくれて。

 本当に、良い友人を持ったものです。

「せめて、あたしもここで祈るわよ! 勝手に死んだら、絶対に許さないんだから!」

「……せめて、病院ですから静かに」

「あ、そうね……」

 万の力を得たような気持ちです。

 一緒に祈ってくれるというだけで、これほどまでに救われるような気持ちになるとは思いませんでした。

 ヴィルヘルム様。

 あなたの無事を祈っているのは、私だけではないのです。

 ヴェクター副長も、リリアも、きっと騎士団の皆様も、ヴィルヘルム様のご無事を祈っています。

 ですから、どうか。

 生きて──。

「──っ!」

 ぎぃっ、と。

 ずっと、厚い壁のように私とヴィルヘルム様を隔てていた、重厚な扉が。

 ゆっくりと、開きました。

 中から現れたのは、マスクをした医師です。恐らく一睡もしていないのでしょう。目が赤いのが分かります。

 その口から紡がれるのは。

 絶望か、希望か──。

「峠は、越えました。ただ……」

 もしくは。

「意識が、回復する見込みは……ありません」

 その両方か。


◇◇◇


 窓を開けると、冷たい風が入ってきました。

 点滴を繫つながれたヴィルヘルム様のお体に、冷たい冬の風は応こたえるでしょう。空気の入れ換えをしておこうと思っていましたが、もう少し暖かくなってからにします。

「……もう、冬ですね」

 暖かな秋は終わりを告げ、もう冬になりました。なんだか、この間まで暑い暑いと思っていたと思うと不思議ですね。

 ふぅ、と小さく溜ため息いきを吐きます。

 病室に備えられた椅子に座りながら、本当なら私よりも遥はるかに高い位置にあるお顔を、拝見します。

 ヴィルヘルム様がこの病院に運ばれて一ひと月つき──まだ、一度も目を開かれていません。

 緊急の状態は脱したということでしたので、集中治療室から一般病棟に移ることができました。しかし、依然としてヴィルヘルム様の意識は戻られることなく、じっと寝てばかりなのです。

 面会時間が決まっているので、私は毎日朝から夕方までヴィルヘルム様の横にいます。お身体を拭ふかせていただいたり、床ずれを防ぐために体の向きを変えたりするだけです。最初は揺すったり、呼びかけたりしていましたが、何も反応をいただけないのです。

 いつか、いつか目を覚ましてくださると。

 そう、信じているのですが。

「……ヴィルヘルム様」

 私の言葉にも、ヴィルヘルム様は何の反応も見せません。

 ただ、点滴で栄養を与えられて、じっと眠っているばかりです。呼吸はされていますし、心臓も動いています。ただ、ただ、目を覚ましてくださらないだけなのです。

 私も、一生懸命に勉強したことを思い出しながら、接しています。

 ですが、破傷風はそもそもが致死率の非常に高い病です。まだちゃんとした治療法がない時代には、不治の病と呼ばれていたほどでした。

 奇跡的に一命を取り留めたヴィルヘルム様の意識が回復する方法──そんなもの、どのような本を読んでも教えてくれないのです。

「今日も、お身体を拭きますね」

 温かい湯を用意して、ヴィルヘルム様の身体を拭きます。眠ってばかりとはいえ、身体に垢あかが溜たまるのは当然なのです。湯浴みをするのが一番なのですが、意識の戻られていないヴィルヘルム様は入浴もできません。ですから、少しでも身体を拭いておく方が良いのです。

 鍛えられたお身体を拭くときには、いつも緊張してしまいます。

 太い腕を拭いているときには、この腕で抱きしめてほしいと。

 厚い胸板を拭いているときには、この胸の中に抱きとめてほしいと。

 硬い背中を拭いているときには、この背中に寄り添いたいと。

 お顔を拭いているときには、この目で私を見てほしいと。この唇で私に囁ささやいてほしいと。

 そう思いながら、しかし、ヴィルヘルム様は動かれません。

 毎日行っているうちに、手際も良くなりました。ちゃんとヴィルヘルム様のお身体を全部拭いて、湯を処分します。

「……ふぅ」

 そして、再び寝台の隣にある椅子へと座ります。

 終わりました。

 本当は、このような身体のケアを行うのは病院に勤めている人です。ですが、ヴィルヘルム様のお身体を拭かせていただきたいと、無理を言ってやらせてもらっています。

 少しでも、私にできることを。

 少しでも、ヴィルヘルム様の隣にいられるように。

「……」

 なのに。

 私の中の悪魔が、囁いてくるのです。


 このまま目覚めることがなければどうする。

 このまま静かに亡くなられたらどうする。

 私の行動は、全部無駄なのだと。

 私の想いは、届くことなどないのだと。

 ヴィルヘルム様は──もう、目覚めることはない。


 ふるふるっ、と首を振ります。

 そんな想像ばかりしてはいけません。きっとヴィルヘルム様は目覚められます。そして、私に声をかけてくださるのです。

 そうやって。

 私が信じずに──誰が、信じるのですか。

「ヴィルヘルム様……」

 でも。

 不安で、胸が押しつぶされそうです。

 私はこれほど弱い人間だったのですね。

 ヴィルヘルム様がいない──そんな未来を想像するだけで、心が闇に染まってゆくようです。

 ですから。

 早く、早く、起きてくださいませ。

 私が、絶望に染まってしまわないうちに。

「寂しい、ですよね……」

 日が経つにつれ、ヴィルヘルム様の病室は人の訪れが次第に消えてゆきました。最初の頃にはヴェクター副長や騎士団の幹部の方が来られていましたが、この一週間ほどは来ていません。

 姪めいであるアナスタシア団長は、二日に一度ほど来てくれます。ですが、アナスタシア様も六花騎士団の団長ですので、お忙しいらしくあまり長い時間おられないのです。

 ヴィルヘルム様の血縁だという方も、最初は来ていましたが最近はさっぱりです。

 朝から夜まで、私しかいない日ばかり──。

「ヴィル、ヘルム、様ぁ……」