暫しばし待ちます。

 この時間は利用者が少ないので、必然的に本数も少ないのです。

 駅の椅子に、ヴィルヘルム様と並んで腰掛けます。ナタリアは私の後ろで直立したままでした。座ってもいいのに。

「そういえば、キャロルの講義の評判はとても良いらしいな」

「以前、クレアにもそう言われましたが……それほどなのでしょうか?」

「ああ。一度受けた者から、もう一度受けたい、という申請が幾つも出ている。そやつらは、非番の日に傍聴しているらしいがな。特に先日、訓練中に額を割る大怪我をした者がいたのだ」

「まぁ!」

 それは大変です。

 頭を打っていた場合、傷は小さくとも出血がすごいことになります。それに、頭を打った場合ですとその影響が後から出てくることもあるので、観察が必要なのです。

 そのような大怪我をするほど、激しい訓練をなさっていることは知っていますけれど、やはり聞くと落ち込んでしまいます。

 騎士団の皆様はそのように一生懸命頑張られているのに、私は何をのうのうとしているのか、と。

「だが、そのときにキャロルの講義を受けた者が、素早く三さん角かく巾きんを巻いたそうだ。そのために出血もすぐに止まり、即席の担架を作って運び、医務室に寝かせたらしい。数日後には訓練に復帰できるほどになった」

「そうでしたか。良かったです」

「良かったのはこちらだ。もしもキャロルの講義がなければ、それほど素早い対応はできなかっただろう。その際に六花騎士団のアナスタシア団長も見学をしていてな。こちらでの講義が一段落ついたら、六花でも講義をして欲しい、という要望もあった。実際にその現場にいた者の中でも、再講義の要請が多かった。本当にありがとう」

「いえ、そ、そんな……」

 一生懸命講義は重ねてきましたが、それがこのように評価していただけることに繫つながる、となると嬉しくなってきます。

 思わず、ちょっと緩みそうなほっぺを止められません。

「おっと、来たな」

「はい」

 丁度そこで、乗合馬車が到着しました。中はがらがらです。良かったです。

 これなら座れますね。

「さ、座ってくれ」

「はい。ヴィルヘルム様も」

 二つ並んだ席の、窓側に私が、通路側にヴィルヘルム様が座られます。ナタリアは私の後ろに座りました。ヴィルヘルム様はお体が大きいので、ちょっと狭いです。

 ですが、ヴィルヘルム様とくっついています。触れています。顔に熱が走るのを止められません。

 触れている肌の向こうへ、私の胸のどきどきが響いてはいませんでしょうか。

「さて……南公園までだから、四つは駅を越えねばならんか」

 ヴィルヘルム様がそう何気無く仰いますが、私は何も言えません。どきどきが激しくて、声が出てくれません。

 この時間がずっと続けばいいのに、と思ってしまいます。

 馬車が揺れて、ゆっくりと出発します。そんな揺れに身を任せて、流れる景色を見ながら過ごします。

 公共交通機関である乗合馬車の中で、あまり喋しやべってはいけないのです。周りの迷惑になってもいけませんし。

 ですので、のんびりと景色を見ながら、駅を越えてゆきます。

 無言で過ごしながら四つの駅を越えて、目的の場所へ到着しました。

 王都の南の方には初めて来ました。王宮とは正反対の方向なので、あまり来ることがなかったのです。

 ヴィルヘルム様と共に降ります。

「ふぅ……速いには速いが、さすがに窮屈だな」

「そう、ですね……」

 私としてはずっとヴィルヘルム様とくっついていられたので、大満足なのですけど。

 ですがヴィルヘルム様は少しお疲れのようで、首をぽきぽきと鳴らされました。そんな仕草も男らしいです。

「はっ!」

 そこで気付きます。

 私とヴィルヘルム様は、今日は非番です。私は非常勤ですが、一応休日という扱いです。明日はまた講義がありますが、半日です。

 そしてヴィルヘルム様は、明日からも通常勤務です。つまり、今日は貴重な休日ということで、お体を休めていただかねばならないのです。

 だというのに、私とのお出かけで疲れさせるわけにはいきません。

 ヴィルヘルム様には、明日も万全の体調でお仕事に臨んでもらわなければ。

「も、申し訳ありません! ヴィルヘルム様!」

「む……ど、どうした?」

「キャロルが、浅はかでございました……そこまで、考えが至らず……」

「いや、何を……?」

「ナタリア」

 そこで、後ろに控えるナタリアに声をかけます。

 こうなっては、何があろうともヴィルヘルム様には休んでいただかねばなりません。私とのお出かけで疲れたからといって、明日からのヴィルヘルム様のお仕事が楽になるわけではないのです。

 ならば私にできることは一つ。

 ヴィルヘルム様の体のご負担を、なるべく減らすことだけです。

「はい、お嬢様」

「今から南公園に向かいます。その間に、馬車を手配してください」

「承知いたしました」

「きゃ、キャロル? どうした?」

「ヴィルヘルム様のお体の負担にならないよう、最高級のものを用意してください。お金に糸目はつけません」

「承知いたしました、お嬢様」

「待て待て待て!」

 最高級の馬車なら、揺れも少ないですし椅子もふかふかです。それならば、ヴィルヘルム様のお体にも負担にならないでしょう。

 一日借りれば、私のお給料が一ひと月つき分なくなります。ですが大丈夫です。いざとなれば父上にお小遣いを貰もらいます。アンブラウス公爵家は裕福なのです。

「キャロル、いきなり何を……?」

「いえ……ヴィルヘルム様、お疲れのお体だというのに、気遣いが足りませんでした。このような私をお許しください」

「いや、そうではなく……」

「ナタリアは御者を。ヴィルヘルム様に見合った馬を用意してください」

「承知いたしました」

「話を聞いてくれんだろうか!?」

 まぁ。

 大丈夫です、ヴィルヘルム様。

 私はできる女です。ちゃんと殿方の負担にならないように振舞うことはできます。

「あー……ええと、キャロル」

「はい」

「馬車は手配しなくともよい。そのような無駄遣いをするべきでは……」

「いえっ! ヴィルヘルム様のお体のためです! 決して無駄ではありません!」

「い、いや、だからな……」

 ヴィルヘルム様が少しお悩みになっています。

 さすがに最高級を用意する、と言ったのがまずかったのでしょうか。ですが、安物ですと乗合馬車と変わりませんし……悩みどころですね。

「キャロル、そうではなく、だな……」

「何でしょうか……?」

「今日は、その……儂わしから誘ったのだ。そのようにキャロルに用意してもらうというのは、その……」

 まぁ!

 なるほど、そういうことでしたか。

 大丈夫ですヴィルヘルム様、キャロルはできる女です。ヴィルヘルム様がどのようにお悩みであるのか理解できました。

 母上からも、「半歩後ろを歩きなさい」と言われました。私がそのように、あまり前に出てはいけないのでしょう。

「申し訳ありませんでした、ヴィルヘルム様」

「ええと……?」

「ナタリア、馬車は手配しなくとも結構です。ヴィルヘルム様にお任せしましょう」

「承知いたしました」

「あ、ああ……まぁ、いいか……」

 ちゃんと私は理解しました。

 確かに私が馬車を手配してはいけませんよね。

 それほど、ご自分で私をエスコートしてくださる気持ちを、キャロルは嬉うれしく思います、ヴィルヘルム様。


◇◇◇


 まず公園に入る前に、ヴィルヘルム様とお食事をすることにしました。

 ヴィルヘルム様もこのあたりは詳しくないようで、ひとまず近場にあった、お洒落しやれそうなカフェに入ります。カフェでも軽食は出していますし、このくらいの時間ならランチもやっていることでしょう。

 お店に入って、店員さんに案内をされて席に座ります。外の景色が見える席です。

 ですが、周囲が少し騒がしいです。やはり週末の休日ですし、南公園の花は割と有名なので、観光客が多いのでしょうか。

「さて……何を食べようか」

「色々ありますね」

 ヴィルヘルム様と一緒に、メニューを見ながら悩みます。

 ちなみに、ナタリアは少し離れた席に一人で座っています。何かあれば、すぐに私を守れる位置にはいてくれるのです。

 ヴィルヘルム様とご一緒している限り、私に危険なんてなさそうですけど。

 色々とメニューがあるので、少し悩んでしまいますね。サンドイッチが美お味いしそうですけど、それだけではお腹が空いてしまいますし。

 やはりランチセットを頼んだ方がいいのでしょうか。

 そんな風に私が悩んでいる間に、ナタリアが店員さんを呼んで注文をしていました。

 既に決まったようです。何を注文しているのかまでは聞こえませんけど。

「ヴィルヘルム様は、何になさいますか?」

「そうだな……儂は詳しく分からんし、日替わりのAランチにでもしておくか」

「では、私はBランチにします」

「儂に気を遣わなくても良いのだぞ? もっと高いものを頼んでもいいぞ、キャロル」

 私が安い日替わりランチにするからか、そうヴィルヘルム様が仰おつしやってくれます。

 でも、別にそれほどこだわりがあるわけではないのですが。

 ただ、強いて言えば一つ、やりたいことはあります。ですから、私はBランチにするのです。

「いえ、大丈夫です。元々、あまり食べる方ではありませんので」

「……そうか。まぁいい。では店員、注文を」

「はーい」

 ヴィルヘルム様の言葉にやって来た店員さんに、注文をします。

 ヴィルヘルム様は日替わりのAランチ、私はBランチです。Aはハンバーグで、Bはクロケットです。ヴィルヘルム様と同じようなメニューで、別の食べ物です。一番の理想ですね。

 ナタリアを見ると、既に注文した品が来ていたようで、食べていました。

 レアチーズケーキです。

 ……何故いきなり甘味を食べているのでしょうか。

「このように、キャロルと共に外食をする、というのが不思議に思えるな……いつも、昼食を用意してもらってすまぬ」

「いえ、そんな。ヴィルヘルム様がそのように仰る必要はありません。キャロルが勝手にやっていることでございます」

「だが、助かっていることは事実だ。それに美う味まい。キャロルの料理の腕も、最近は上がっているしな」

「そう仰っていただけて、嬉しいです」

 これからも頑張りましょう。クリスの指導を受けながら、ヴィルヘルム様に満足いただける料理を作るのです。

 そして、遠からずヴィルヘルム様にお嫁に貰っていただければ、その後はヴィルヘルム様のお食事を三食作らせていただくのです。料理人なんて雇いません。私の愛のこもった料理を食べてもらうことが、目標なのです。

 そのためにも、今からレパートリーを増やさなければいけませんね。

 日々勉強です。

 ナタリアは二皿目のガトーショコラを食べていました。

 何故それほど甘いものばかり食べるのでしょうか。

「お待たせいたしました、AランチとBランチです」

「うむ」

「はい」

 店員さんの持ってきたプレートが、テーブルの上に置かれます。

 内容はシンプルで、パンにサラダ、それとメインのおかずと付け合わせの焼き野菜だけです。

 私には十分な量なのですが、これだけだとヴィルヘルム様には足りないかもしれませんね。

「さぁキャロル、食べてくれ」

「はい、ヴィルヘルム様」

 焼き野菜からまず食べます。

 味付けはやや薄めです。素材の味を活いかしている、というタイプですね。

 美味しいです。クリスの料理には敵かないませんけど、割と安いお値段なのに十分満足できそうですね。

 ナタリアは三皿目のミルクレープを食べていました。

 もしかして甘味以外は食べないつもりでしょうか。

「美味いな」

「はい。クロケットも美味しいです」

「そちらも美味そうだな。一口貰ってもよいか?」

「は、はい」

 これはチャンスです。一世一代の大チャンスです。

 むしろ、その一言を引き出すためだけに、私は別の食べ物を頼んだのです。

 クロケットを切り分けて、フォークに刺します。

 それを、ヴィルヘルム様に突き出して。

「どうぞ。あーんしてください」

「……え?」

「ささ、美味しいですから、どうぞ」

「……い、いや」

「どうぞ」

「……」

 そう。

 私がヴィルヘルム様に、あーんして食べさせるという、最高の時間です。

 ヴィルヘルム様は少し戸惑っておられます。周囲をきょろきょろと見ています。割と混んでいるので、近くにも当然お客さんがいます。

 ナタリアは四皿目のショートケーキを頰張っています。

 こちらをもう見ていないですね。

「きゃ、キャロル、それは……」

「ヴィルヘルム様、一口で構いませんので、召し上がってくださいませ」

「お、置いてくれれば……」

「そんな。折角の機会ですし」

「……」

 ヴィルヘルム様がそう仰いますが、私も譲りません。

 ずっと突き出しているので、ちょっと腕がぷるぷるしてきました。

 早くお口を開けてくださいませ。

「……」

「……」

「……」

「……」

「…………………………あーん」

「はい、どうぞ」

 根負けしたヴィルヘルム様が、お口を開けられましたのでクロケットを入れます。

 そして、すぐに口を閉じて頰張りました。お顔が真っ赤です。

 大丈夫ですヴィルヘルム様。

 私も今、真っ赤になっていますから。

「くっ……思っていた以上に、恥ずかしい……」

「ヴィルヘルム様」

「ど、どうした……」

「キャロルも、ヴィルヘルム様のハンバーグを一口食べてみたく思います」

「……」

 そう、これは二重のチャンスなのです。

 私がヴィルヘルム様に食べさせる、そして私がヴィルヘルム様に食べさせていただく、という二つが同時にこなせるのです。

 さぁ、ヴィルヘルム様。

 いつでもどうぞ。

「あーん」

「……」

「……」

「……」

 ヴィルヘルム様がハンバーグを切って、それからフォークに突き刺しました。

 それをやはり、目だけで周囲を確認してから、急いで私の口へと運びます。

 私の口の中にハンバーグが入りました。

 ヴィルヘルム様が、さっ、とフォークを引きます。

 ハンバーグ美味しいです。

 ヴィルヘルム様が食べさせてくれたからもっと美味しいです!

「ああっ……もう……」

「ハンバーグも美味しいですね」

「そうだな……儂わしにはクロケットの味が分からなかった」

「まぁ。それではもう一口」

「もういい!」

 拒まれました。残念です。

 ですが、ヴィルヘルム様にあーんすることができた、という思い出はできました。最高です。

 照れながら残りの食事を食べて、それからお店を出ることにしました。

 お会計はヴィルヘルム様にお任せです。

 今日はごちそうしてくれる、と仰っていましたし。

 ああ、そうだ。

「ナタリア」

「……はい?」

 都合八皿目のレアチーズケーキを食べるナタリアに声をかけます。

 何故一皿目に戻ったのでしょう。

「食べたケーキの金額は、経費として認めませんので」

「そんなっ!?」

 何故でしょう。

 ナタリアだけは大丈夫だと思っていましたけど、こちらもこちらで問題があるようです。


◇◇◇


 南公園に入り、ヴィルヘルム様と散策をします。

 様々な花が色とりどりに咲き乱れている南公園は、カップルの多い場所としても知られています。私とヴィルヘルム様以外にも、数組の男女が散策をしていました。

 色々と花を見ながら、歩きます。

「色々と咲いているな」

「はい。素敵です」

「さすがに、入園料を取るだけのものではある。素晴らしい」

「そうですね」

 南公園は、一応有料で入るのです。受付でヴィルヘルム様が、私の分も入園料を支払ってくださいました。

 申し訳ないとは思ったのですが、今日に限っては出させてほしい、とヴィルヘルム様が仰いましたので、お言葉に甘えます。

 私はこうやって、ヴィルヘルム様と一緒にいるだけで幸せなのですけど。

 ですが、どうしてもヴィルヘルム様とこうしてご一緒している、と思うと緊張してしまいます。

 何を言っていいか分かりません。

 花を見ながらも、ちらちらとヴィルヘルム様の横顔を見てしまいますし。

「キャロルは、花には詳しいのか?」

「詳しい、というほどではありませんが……」

「やはり女の子だということか。儂など、花の名前など全く知らんからな……例えば、あれは何の花だ?」

「ええと……あれは、桔き梗きようです」

 見たことのある紫の花の名前を、そう答えます。

 小ぶりな花びらが可愛らしい花ですね。

「ほう、そうなのか」

「根を細かく切って日干しにすれば生薬になります。喉のどの痛みなどに効果がありますよ」

「……そう、なのか?」

 あ。

 思わず、薬学で習ったことをそのまま言ってしまいました。

 割とこういう植物には薬になるものが多く、煎せんじて飲むことで病に効くものがあるのです。私も全てを知っているわけではないのですが、有名なところはちゃんと押さえています。

 傷によく効く薬草については、一応講義でも教えていますし。

「やはりキャロルはよく知っているな……伊だ達てに医学を学んでいない、ということか」

「今は、医学を学んでいて良かったと思っています。そうでなければ、こうしてヴィルヘルム様とご一緒することもできませんでしたし」

「……そうか。本来は、正妃としての教育の一環だったな」

「はい。まぁ、今更ですけど」

 レイフォード殿下がああなってしまった以上、もう私が正妃になる必要などどこにもありませんし。

 こうしてヴィルヘルム様とご一緒できていますし、これ以上の幸せはありません。

 そして、正妃としての教育の一環として教わった医学薬学の知識がなければ、私は騎士団の臨時講師になることができませんでした。それ以前に、衛生騎士としての試験を受けることもできず、ヴィルヘルム様との関わりがなくなってしまうところでした。

 そういう点だけは、一応感謝ですね。

 暫しばらく、そのように花を見ながらヴィルヘルム様と南公園の中を散策します。

 やはり有料であるからか、あまり人はいません。それなりにはいますけど、ヴィルヘルム様とはぐれることはないでしょう。

 手を繫つないでいる男女がいます。

 私も、ヴィルヘルム様と手を繫ぎたいのですけど。

「……計算違いです」

「む? キャロル、どうかしたか?」

「いえ、何でもありません。ヴィルヘルム様」

 ついつい口が滑ってしまいました。

 予定では、『人が多くてはぐれてしまうから手を繫がせてくださいませ』という流れで手を繫ぎたいと思っていました。きっと今の時期、南公園は人が多いだろう、と思っていたのです。

 ですが、思った以上に通路は広く、そして客はまばらにしかいないため、全くその心配がないのです。

 どういう理由で手を繫ぐ方向に持っていきましょう。

 と、そのように思考が逸それながら、しかし色とりどりの花を眺めつつヴィルヘルム様と並んで歩きます。

 時々ヴィルヘルム様の指した花に、私が注釈を入れる形です。

 ですが不思議なことに、私が「根は食用になります」と注釈を挟んだものについては、手帳に記しておりました。食事関係がそれほど困窮しているのでしょうか。

 もしも花の根を食べなければならないような生活でしたら、我が家にいつでも来られて構いませんのに。

「少し休憩しよう。歩きっぱなしだからな」

「はい」

 ヴィルヘルム様がそう仰おつしやって、少し広くなっている空間に設置されているベンチへと並んで座ります。

 どうやら憩いの場らしく、同じようにベンチが幾つも並べられています。やはりカップルが多いですね。

 中には、人目も憚はばからずにいちゃいちゃしている方もいます。なんて羨うらやましいのでしょう。私もいちゃいちゃしたいです。

 もっとくっついたり、べたべたしたり、そういうのをやりたいです。

 ちらりと隣を窺うかがいます。

 ヴィルヘルム様はふぅ、と大きく息を吐かれながら、セーターの胸元をぱたぱたと扇あおいでいました。

 肌寒くなってきた季節とはいえ、歩いてばかりだったので、少し暑いみたいです。私は丁度いいのですけど。

 それよりも、私にとって大切なのはこれからどのようにヴィルヘルム様といちゃいちゃするかです。

 とりあえず。

 ちょびっとだけ近付いてみます。

「……」

「ふぅ……しかし、暑いな。キャロルよ、喉は渇かないか?」

「はひっ!」

「……何をそれほど驚く?」

 ちょびっと近付こうとしたその瞬間に話しかけられて、思わずびくっとしてしまいました。

 そのせいでちょっとタイミングを失ってしまいました。どうしましょう。

 どう考えても不自然な返事をしてしまいました。

「な、何でもありません、ヴィルヘルム様」

「……そうか?」

「では、その……ええと、何か飲み物でも……」

「おお、そうだな。では出店もあることだし、何か買ってくるとしよう。何か欲しいものはあるか?」

「で、では、甘いものを……」

「分かった。少し待っておれ」

 ヴィルヘルム様が立ち上がって、そのまま飲み物を買いに向かわれました。

 どうしましょう。

 ヴィルヘルム様がお戻りになるのを待ってから、それからくっついてみましょう。大丈夫です。一度だけのトライで諦あきらめてはいけないのです。

 しかし、良いお天気です。

 ヴィルヘルム様とお出かけするのに、このように晴天であって嬉うれしいですね。

 どうやら出店も少し混んでいるみたいで、ヴィルヘルム様は列の一番後ろに並ばれています。私も並ぶのをご一緒した方がいいのでしょうか。

 ですが、ヴィルヘルム様は「待っておれ」と仰いました。

 お言葉には従って、待つ方がいいですね。

 すると、恐らく客の一人であろう男性が、そのように並ぶヴィルヘルム様に近付きました。

 良かったです、男性です。これが女性なら思わず私も走り出すところですけど。

 どうやら知り合いらしく、ヴィルヘルム様とお話をされています。もしかすると、騎士団の関係者なのでしょうか。

 そしてヴィルヘルム様は飲み物を買われて、二つを手に持って戻られました。

 ……その男性と一緒に。

「すまんな、キャロル。待たせた」

「い、いえ……あの……?」

「ああ、すまなかった。紹介しよう。宮廷に勤めており、騎士団関係の事務をしてくれているエドワードだ」

「はじめまして、エドワードと申します」

 私よりも幾つか年上くらいだろう、と思える若い男性です。

 ヴィルヘルム様から飲み物を受け取って、私も頭を下げます。

「はじめまして、キャロルと申します」

「いやー、知りませんでしたよ、ヴィルヘルムさん」

「む……?」

 うりうり、とエドワードさんがヴィルヘルム様を肘ひじでこづきます。

 何を知らなかったのでしょう。

 はっ。

 なるほど、私という婚約者がいる、ということを知らなかった、ということですね。

 ここはちゃんと、私としてもアピールしておかねばいけませんね。

 ちゃんとご挨あい拶さつを──。

「こんなに可愛らしいお孫さんがいらしたんですね」

 はい。

 敵として認定いたします。

 違います。

 本気で違います。

 ヴィルヘルム様には孫どころか子供もいらっしゃいません。その状態で、どうすれば孫ができるというのですか。

 だというのに、そのように勘違いをされてしまうのは、私とヴィルヘルム様に大きな年齢の開きがあるからでしょう。それは勿もち論ろん理解しております。一般的にはあまり受け入れにくい年齢差だということも分かっています。

 でも、私とヴィルヘルム様の婚約はガリウス・エル・フレアキスタ国王陛下より認められております。国の頂点たる国王様が認めておられるのです。

 つまり公式的に、私はヴィルヘルム様の婚約者だと名乗ることができるのです。

 これ以上ない後ろ盾が、そこにあるのですから。

 ですが。

「まぁ、そのようなものだ」

「──っ!」

 ですが。

 ですが!

 ですが!!

 何故、否定をなさらないのですか、ヴィルヘルム様──!

「そうですか。可愛らしいお孫さんですね。おいくつですか?」

「今は……十六だったかな、キャロル」

「……」

 答えられません。

 あまりの衝撃に言葉が出てきません。

 多分今、私の目の中には光が灯ともっておりません。

「おやおや……緊張しているのかな? まぁいいです。ヴィルヘルムさんは、今日はお休みですか?」

「ああ、今日は非番だ」

「ついに明後日あさつてですね。ご武運をお祈りいたします」

「全力を尽くそう。国より預かった命を、徒いたずらに散らせはしない」

「はい。よろしくお願いしますね」

 よく分からない話をされていますが、それより大切なのは私が孫だと認識されていることです。

 否定をしたいのですが、何と言っていいか分かりません。

 ヴィルヘルム様を見やると、片目を瞑つぶられました。とりあえず今は許せ、という合図でしょうか。

 何故ですか。

 何故そうなるのですか。

 最も早はや、私のことを訂正するつもりはないと考えてよろしいのですね、ヴィルヘルム様。

「おっと、それじゃ、僕はこのあたりで」

「ああ、ではまた」

「はい」

 そう言って、エドワードさんが背を向けて去ってゆきます。

 その背中を、ヴィルヘルム様と並んで無言で見送ります。

 無言です。

 見送っている間、私とヴィルヘルム様に会話の一つもありません。

 何故か。

 それは私が怒っているからです。

「…………ヴィルヘルム様」

「すまん。本当にすまん。どれほど責めてくれても構わない」

 名前を呼んだだけだというのに、即座にヴィルヘルム様はそう謝られました。

 先手を取られてしまいました。これから責めるつもりでしたのに。

「……むーっ」

「まぁ、そうむくれるでない、キャロル」

 はぁ、と小さくヴィルヘルム様が溜ため息いきを吐かれます。

 私のほっぺは物もの凄すごく膨らんでいます。多分、今カエルくらい膨らんでいます。そのくらい許せないことを言われたのです。

 あのように勘違いをされるのでしたら、それを正すのはヴィルヘルム様のお役目ではありませんか。

 だというのに。

「ですが、ヴィルヘルム様……!」

「あの場では、ああ言うしかなかったのだ……許せ。儂わしにも事情がある」

 私のことを、エドワードさんはヴィルヘルム様の孫だと言われました。だというのに否定をなさらなかったヴィルヘルム様に、私は怒っているのです。

 思わず言葉を失ってしまいました。

 エドワードさんに婚約者だと紹介していただけるとばかり思っていましたのに。ヴィルヘルム様も、私を婚約者として受け入れてくれているとばかり思っておりましたのに。

 確かに私は、ヴィルヘルム様の婚約者だと名乗るには若すぎると思います。

 私の両親も父と母で十ほど年齢が離れていますが、それでも珍しいのです。四十六もの年齢の開きがある夫婦、というのは未いまだかつて見たことがありません。だからこそ、ヴィルヘルム様も私を婚約者として紹介することを躊躇ためらったのでしょう。

 理解はできます。ヴィルヘルム様のお立場があることもちゃんと納得しています。

 ですが、それを心から受け入れることができるか、というのは別問題です。

「むーっ!」

「いや、本当に、儂が悪かった……その……」

「では……!」

 ヴィルヘルム様が何度も謝罪をされますけど、私の熱は引きません。

 大体、私を婚約者だと紹介できない理由について、ちゃんと教えてもらっておりません。そのあたりをちゃんと説明してくださらないと、私は納得できないのです。

 物分かりの悪い女だということは分かっています。

 ですが、まるでヴィルヘルム様に拒絶されたように──そう、感じてしまうのです。

「何故、私を、婚約者だと……」

「……それは、理由があってな」

「どのような理由なのですか」

 年齢がー、とか、不釣り合いでー、とか言わせません。

 そのあたりはもう、全てヴィルヘルム様は受け入れてくださっていると思っています。

 私のことをちゃんと、その、愛してくれているのだと、そう思っています。考えるとちょっと恥ずかしいです。

 ですが。

 ヴィルヘルム様は、大きく大きく。

 深く深く、溜息を吐かれました。

「まぁ、ちゃんと……言おうとは思っていた」

「え?」

「なかなか言う機会がなかったのだが……以前、儂が言ったことを覚えておるか? 儂は騎士団長であり、この国の平和を守らねばならぬ立場にある。そして、戦場に出ることもある。儂が戦場で死ねば、残された家族は泣くだろう、と」

「え……ええ、はい」

 確か、以前そのようなことを言われた気はします。

 詳しく一言一句覚えているわけではありませんが、そんな感じで言われたことは覚えています。だからこそ、妻など持つ必要はない、とそう考えていたのだと仰おつしやいました。

 自分の死に、泣く者など必要ないと、そう考えておられる、と。

「だが、儂ももういい年だ。そろそろ、騎士団を引退しようと思っておる」

「そうなのですか!?」

「ああ。既にヴェクターや幹部連中には話してある。いつまでも、このような老骨が団長をしていては後進が育たぬ。次の騎士団長はヴェクターに任せ、ザックも次代の幹部候補として扱う予定だ」

「まぁ……!」

 ザックが幹部候補、というのは全く理解できませんけど。

 ですが、そのようにヴィルヘルム様がご引退されるのであれば、戦場へ出ることによる危険はなくなる、ということですね。

 そして引退をされるということは、ずっとお屋敷にいらっしゃる、ということです。

 つまり一日中いちゃいちゃできるということですね!

「だが」

 ですが。

 そこで、ヴィルヘルム様は、真剣な表情で、私と目を合わせました。

「現在の、国外の状況を知っているか?」

「いえ、詳しくは……」

「帝国と三国連合との国境に、帝国の要請を受けてガルランド王国が兵を発した。かの国でも最強と名高い、『紅べに獅じ子し』ゴトフリート・レオンハルト将軍が指揮を執り、一万の兵を派遣したのだと聞く。そして、同じくフレアキスタにも兵を派遣するよう要請があった……フレアキスタは帝国に臣従している身である以上、要請があれば兵を供出せねばならぬ。そして、国外へ派遣をするにあたり、それなりに諸外国へと名の通っている将軍が率いる必要がある」

「そ、それ、は……」

 目の前が、真っ暗になるようでした。

 私には、詳しいことは分かりません。ただ、諸外国との関係については、リリアも言っていました。

 ただ──そこで、全てが繫つながりました。

 何かがおかしいと、そう違和感を覚えていた全てが。

 繫がった、のです。

 突然、このようにヴィルヘルム様にお誘いいただいたこと。

 ヴェクター副長と、随分と真剣にお話をされていたこと。

 お出かけをすると言って、随分と父上が焦っていたこと。

 リリアが、全てを分かっているかのように頷うなずいていたこと。

 それは──。

「フレアキスタから帝国へ援軍を出すにあたり、率いるのはこの儂──ヴィルヘルム・アイブリンガーの他におらぬ」

「そんなっ……!」

「既に準備はほぼ完了しており、明後日の日中に出立する。そこから儂は、戦争に参加することとなるのだ」

「ヴィル、ヘルム、様っ……!」

 涙が、ぽろぽろと溢あふれてきます。

 戦場に出られるということは、少なくとも戦争が終わるまで、ヴィルヘルム様は帰って来られないということです。

 いえ。

 もっと、もっと、最悪の事態を想定するならば。

 ヴィルヘルム様が、その戦場で、命を落とすかもしれない──!

 ぱりん、と。

 きっと、空耳だとは思いますけど。

 日常の──壊れる音が、聞こえました。


◇◇◇


 帰り道を、ヴィルヘルム様と並んで歩きます。

 ヴィルヘルム様から驚きよう愕がくの事実を伝えられてから、何を言っていいのか分かりません。どうして、そのように大事なことを、今まで私に言ってくれなかったのでしょうか。

 そして、そんな私の気持ちを分かってか、ヴィルヘルム様からも何も言われません。

 ただナタリアを後ろに、二人で並んで無言で帰るだけです。

「……」

「……」

 私は、ヴィルヘルム様に何とお伝えするのが正しいのでしょうか。

 行かないでください、と泣きながら縋すがり付くのが正しいのでしょうか。

 今まで、毎日のようにお弁当を届けて、お昼をご一緒していました。ですが、戦場に行かれる、となればヴィルヘルム様は帰ってこられません。

 ずっと、ヴィルヘルム様がお戻りになるまで、会えない日々が続くのです。

「……さて」

「……」

「それではキャロル、今日は楽しかった。ありがとう」

 気付いたら、屋敷の前に到着していました。

 ヴィルヘルム様がそのように微笑まれるのに、私は顔を伏せることしかできません。

 明後日あさつてに、ヴィルヘルム様は出立されます。それはもう、決まっていることなのです。

 私がどれほど泣き喚わめいたところで、ヴィルヘルム様がお残りになることはありません。それは分かっています。

 分かっているから、何も言えないのです。

 私だって、楽しかったです。

 ヴィルヘルム様とご一緒できる、外でのお食事。

 ヴィルヘルム様と並んで回れる、南公園の花畑。

 これ以上ないほどに、至福の時でした。生まれて今まで、一番楽しかった一日でした。

 ヴィルヘルム様とご一緒できるだけで、私はそれだけで楽しいのです。

 そんなヴィルヘルム様が遠くに行かれると思うと、涙が止まってくれません──。

「ヴィル、ヘルム、様……!」

「泣くな、キャロル。儂はただ、戦争に向かうだけだ」

「ですがっ……!」

 会えない日々は辛つらいです。それがいつまでかも分からない日々を、待ち続けるのは辛いです。

 何より、ヴィルヘルム様が生きて戻られる保証なんてありません。

 ヴィルヘルム様に、はしたなくも抱きつきます。

 今離れてしまうと──永遠に会えなくなるような、そんな気がして。

「……う、うぅっ!」

「このような老骨を、それほど慕ってくれること、嬉うれしく思う」

「行かないで、行かないでくださいませっ……! ヴィルヘルム様っ……!」

「それは、できない相談だ。儂は騎士団長であり、いざとなれば国防のために戦わねばならぬ。そして、そのために日々己を鍛え、兵を鍛えておるのだ。それが分からぬキャロルではあるまい」

「うぅっ……!」

 分かるのです。

 それが分かるから、余計に辛いのです。

 ヴィルヘルム様はフレアキスタ王国における最強の騎士団長です。国外に名も通っておられます。

 帝国との関係を維持するために、ヴィルヘルム様が出立しなければならない、という外交上の理由も分かるのです。

 でも。

 でも。

 理解はできても、納得なんてできません。

「キャロル、あまり困らせないでくれ」

「ですがっ……!」

「確かに、可能性はゼロではない。もしかすると、儂わしも戦場に散るかもしれぬ。だが、儂もまた軍人の本懐として、戦場で散る覚悟は決めておる」

「……っ!」

 嫌です。

 ヴィルヘルム様のいないこれからの人生なんて、考えられません。

 私がいくらわがままを言っても、変わらないということも分かっています。

 それでも、ヴィルヘルム様の優しさに縋りたい。

 なんて、弱い女なのでしょう。

 母上から「いい女になりなさい」と何度も言われながら、それで尚なおこの体たらくだなんて。

 だったら、私はどうすればいいのでしょう。

「分かってくれるか?」

「……」

「……そうか」

 首を横に振ります。

 納得なんてしたくありません。離れたくありません。

 元々、分かっていたことではあります。戦争が起これば、ヴィルヘルム様は出陣しなければならない、ということは理解していたのです。

 ですが。

 ヴィルヘルム様が戦場に向かわれるという、それだけでもう心が張り裂けそうなのです。

 ヴィルヘルム様が死ぬかもしれないという、それを考えるだけで胸が潰つぶれそうなのです。

 だからこそ、戦争は嫌だと何度も思っていたのです。

 今だって嫌です。ヴィルヘルム様を私から奪おうとする帝国に、恨みすら湧いてきます。

「ヴィルヘルム、様……」

「どうした」

「私が、父上に、頼みます。帝国と、アンブラウス公爵家は、懇意にして、います。援軍の派遣を、断れるように……」

「それはならぬ」

 びくっ、とヴィルヘルム様からの短い拒否に、体を震わせます。

 分かっています。これも私のわがままに過ぎません。私のわがままだけで、国防に関わることを動かせるとは思いません。

 ですが。

 ですが、少しでも、可能性があるなら──。

「キャロルよ、その気持ちは嬉しく思う。だが、それはしてはならぬ悪手だ」

「ですが……!」

「帝国からの援軍要請を断り、そのせいで関係が悪くなれば、それを大義名分として帝国が戦争を仕掛けてくる可能性もある。そうなれば、この国が戦場になるかもしれぬ。儂は、この国を戦場にしたくはない。そのために出陣するのだ」

「……」

 外交関係は、私にはよく分かりません。

 ですけど、ヴィルヘルム様の仰おつしやることは分かります。

 ならば。

 ならば、私にできることは。

「……ヴィルヘルム様」

「うむ」

「どうか……少しだけ……時間を、ください」

「ああ」

 涙は止まりそうにありません。

 ですが、止めます。必死に止めます。

 私は弱い女としてヴィルヘルム様を見送るわけにはいきません。

 強い女として、いい女として、ヴィルヘルム様の出立をお見送りすることこそ、妻としての本分でしょう。

 少しだけヴィルヘルム様に顔をくっつけて、抱きしめます。

 ヴィルヘルム様の服が私の涙で汚れてしまうことは、非常に申し訳なく思いますけど。

 大きく深呼吸です。

 大丈夫です。

 涙は──止めました。

「ヴィルヘルム様」

「うむ」

 顔を見上げます。

 きっと私の目は真っ赤ですけど、しっかりと見据えます。

 ちゃんと笑えるかは、分かりません。でも、歯を食いしばります。

 ヴィルヘルム様が戦場で思い出してくれる私の顔は。

 笑顔でなければならないのですから。

「どうか、ご武運をお祈りいたします」

「ああ」

「キャロルは、お帰りをお待ちしております。いつまでも、いつまでも、お待ちしております……!」

「ああ……必ず、帰ってくる」

 ヴィルヘルム様が、そのように言われました。

 そしてヴィルヘルム様は、私との約束を破ったことは一度もありません。

 だからこれは、約束。

 絶対に帰ってきてくれる、と信じます。

 この約束があれば──私は、待てます。

「キャロル」

「はい……」

「一つ、言っていなかったことがある」

「何、でしょうか……」

 私はきっと、部屋に戻って泣くでしょう。

 ですが、ヴィルヘルム様の前では、これ以上弱い私を見せません。

 でも。

 でもでもでも。

「愛している」

「……っ!」

「儂が戦争から戻ってきたその時……結婚しよう」

 別の意味で。

 不安でもなく、悲しさでもなく、絶望でも悲ひ愴そうでもなく。

 嬉しさで、涙が溢あふれそうです──!

「では、キャロル。またな」

「は、ははは、は、はい……」

 ヴィルヘルム様の仰った言葉に、あまりに驚きすぎてそう、思わず口ごもってしまいました。

 私にしてみれば物もの凄すごい大事件が起こったようなものなのですけど、何故それほどに落ち着かれているのですか、ヴィルヘルム様。

 背を向け、去っていかれるヴィルヘルム様の背中を、ただ見つめることしかできません。

 そして角を曲がり、ヴィルヘルム様の背中が見えなくなったところで、へたり、と腰が抜けました。

 これは、夢ではないのでしょうか。

「お、お嬢様……?」

「ナタリア……」

「は、はい?」

「私をぶってくれませんか……?」

「何故ですかお嬢様!」

 意味が分からない、とばかりにナタリアがそう叫びます。

 ですけど、夢ではない、ということを確認したいだけです。自分で頰を抓つねりますが、舞い上がっている気持ちのせいで全く痛くありません。

 夢では、本当に、夢ではないのでしょうか。

 ヴィルヘルム様の口から、私のことを、あ、あああ、愛している──!

「……」

 立ち上がります。

 ふらふらと、そのまま屋敷の玄関を抜けます。リチャードとメアリーが玄関で何か言っていたようですが、ふわふわと浮いたような気持ちのままで、何も聞こえませんでした。

 そして、そのまま自分の部屋に向かいます。階段を上り、廊下を抜けて、扉をくぐりながらも、ずっと私の心はふわふわと舞い上がっているような気持ちでした。

 そして、ようやく辿たどり着いた自分の部屋。

 そのベッドに、思い切り頭から突っ込みます。

「あ、あの、お嬢様」

「……何、ですか?」

「もうそろそろ、夕食のお時間なのですが……」

「いらない、と伝えてください……」

 こんな状態で、夕食なんて喉のどを通るはずがありません。

 あまりにも衝撃的すぎて、なんだか受け止めきれないのです。色々なことがありすぎて、完全に頭が混乱しています。

 ずっとずっと、ヴィルヘルム様をお慕いしております、と何度も何度も申し上げました。

 夜会で告げた後、意味が分からない、とばかりに目を丸くされたヴィルヘルム様。

 駐屯所で、私からのそのような求婚を断ろうとしながら、しかし私の危機には抱きしめてくださったヴィルヘルム様。

 私の持って行ったお弁当を、美お味いしそうに食べてくださったヴィルヘルム様。

 ロバートの魔の手から助けてくださり、私をおぶって帰ってくださったヴィルヘルム様。

「ああ……」

 騎士団での臨時講師を勧めてくださったヴィルヘルム様。

 殿下が我が家にやって来たとき、お忙しい身であるというのに駆けつけてくださったヴィルヘルム様。

 今日、一緒に外食をするときに、私にあーんをしてくださったヴィルヘルム様。

 そして──私に愛していると、そう告げてくれたヴィルヘルム様。

 色々な角度で、色々な場面で、色々なヴィルヘルム様が、私の頭の中を駆け巡ります。

 ですが。

 ヴィルヘルム様は、戦争に行かれるのです。

 どのような戦況であるのか、私には分かりません。どれほど厳しいものであるのか、私には知り得ません。

 もしかすると、儂も戦場に散るかもしれぬ、と仰っていました。

 ですが。

 ですがですがですが。

 ヴィルヘルム様は、戦争から戻ってきたその時……結婚しようと──そう、仰ってくれたのです。

 私を、婚約者だと認めてくださったのです。

 私と、共に生きる覚悟を決めてくださったのです。

 これほどに、嬉うれしいことが他にあるでしょうか。

「お、お嬢様……」

「ナタリア、今日はもう、いいです……一人に、してください……」

「で、ですが……」

 次から次へと、涙が溢れてきます。それは、ヴィルヘルム様が戦争に行って命を落とすかもしれないという不安でも悲しさでも、絶望でも悲愴でもありません。

 ヴィルヘルム様が受け入れてくださったという、何よりの喜びです。

 だから私は。

 シーツを涙で濡ぬらしながらも、枕を涙で染めながらも、それでも口元がにやにやするのを止められません。

 胸がいっぱい、とはまさにこのことを言うのでしょうか。

「はっ!」

 ですが、そこで気付きました。

 必死に顔を上げます。目を見開きます。

 私は、大事なことを忘れています。

 ヴィルヘルム様は私に、愛しているとそう仰ってくださいました。戦争から戻ってきたその時……結婚しようと、そうプロポーズをしてくださいました。

 それに対して私が行えたことは、ただ驚きすぎて何も言えなかっただけです。

 いけません。

 このままではいけません。

 淑女として、ちゃんと愛の告白を受け止め、その上で私も愛を告げるべきなのです。

 だというのに、何をぼうっとしているのですか、キャロル・アンブラウス!

「ナタリア!」

「は、はい?」

「すぐに出ます! 供をしてください!」

「へ? え、な、何が……?」

 走ります。

 扉を思い切り開いて、それから廊下を走ります。後ろから「お嬢様ーっ!」とナタリアの呼ぶ声が聞こえました。でも大丈夫です。私は足が遅いですし、ナタリアならちゃんと後からついて来られます。

 今はただ、私もちゃんとお返事を、お返事をしなければ──!

「キャロル、何をそのように……」

「少しお出かけしてきます、母上!」

「夕食に……」

 母上の横を抜けて、さらに走ります。今は夕食よりも大切なことがあるのです。

 廊下をひたすらに走り、階段を急いで下ります。

「はうっ!?」

 足を踏み外して、思い切りお尻しりから落ちました。

 お尻を打ちながら階段を下り──落ちます。お尻がじんじんします。でも素早く下りることができました。結果オーライです。

 そのままお尻の痛みに耐えながら、玄関の扉を抜けて外へ出ます。

「何をしているのだキャロル!」

「父上! 出かけてきます!」

「一体どうしたのだ!」

 父上の言葉も無視します。

 私には何より優先すべきことがあるのです。ヴィルヘルム様がお帰りになる前に、追いつかねばならないのです。

 玄関から外門を抜けて、通りをさらに走ります。

 走りにくいスカートの裾すそは持ち上げます。足を出してはしたないことは分かっています。

 出来ることならば、走りにくい靴も脱いでしまいたいくらいです。

「お嬢様ーっ!」

 ナタリアの声が近くに聞こえます。

 ちゃんと追いかけてきてくれているのですね。これで大丈夫です。

 さぁ、あとはヴィルヘルム様がどちらに向かわれたのかをちゃんと確認します。

 向こうの通りを曲がったことは確認しています。ということは、今から駐屯所に向かうのでしょうか。

 でしたら、そこに至るまでが勝負です。

「はうっ!」

 思い切り足がもつれて、転んでしまいました。

 顔から地面に落ちます。痛いです。鼻を打ちました。

 鼻血など出ていないでしょうか。それよりも、顔に土がついてしまいました。でも、拭ふき取っている余裕はありません。

 膝ひざを擦りむいてしまったのか、少し痛みます。でも関係ありません。

 私は──走ります。

「お嬢様、どうされたのですか!」

「ヴィルヘルム様に、追いつく、のです……!」

「何故!?」

 ナタリアの疑問を華麗にスルーして、ひたすらに走ります。

 このまま、ちゃんと追いつくことができるだろうか、という懸念はあります。でも、私には走ることしかできないのです。

 通りを走り抜け、そして何だ、と奇妙な視線を投げてくる人波を抜けて。

 ようやく──その背中を、見つけました。

「ヴィルヘルム様ぁっ!」

「む……?」

 私の声に、肩がぴくりと動いて、それからヴィルヘルム様が振り向かれます。

 変わらぬ精せい悍かんなお顔立ちながら、疑問を浮かべています。

 これほどはしたない格好で、顔に土がついた女など、ヴィルヘルム様はお嫌いかもしれません。

 ですけど。

 今を逃して──もう、機会はないのかもしれないのです。

「ど、どうしたのだ、キャロル」

「ヴィルヘルム、様っ……!」

「う、うむ……?」

 戸惑いを浮かべるヴィルヘルム様に近付いて、そのお手を取ります。

 泥だらけの顔で、泥だらけの服で、必死に荒い息を抑えながら、ヴィルヘルム様をしっかりと見据えて。

「わ、たし、も、っ!」

「お、おう……?」

「私もっ! ヴィルヘルム様のことを、愛しておりますっ!」

 ヴィルヘルム様の服を、また汚してしまいます。今度は涙ではなく、泥で。

 でも、しっかりと、そのお腰に抱きついて。

 私も、私の想いを、しっかりとぶつけるのです。

「どうかっ! キャロルをっ! お嫁にしてくださいませっ!」

 泥だらけの顔で、泥だらけの服で、汗だくで傷だらけで。

 でも、ちゃんと、想いをそう告げて。

「ああ」

 ヴィルヘルム様がそう頷うなずかれて、私の頭を、撫なでてくださいました──。