「こういうことだよ」

 くいっ、と。

 アンドリューさんが突然、私の顎あごを持ち上げました。

 長身のアンドリューさんが、かなり屈かがんでいるのでしょう。私に吐息がかかりそうなほどの距離にいます。

 これは。

 少しでも動けば──口付けのできるほどの、距離。

「ど、ど、どういう、こと……!」

「だからよォ、結局、お前ェは弱よえェ女だってことだ。俺がこうやって迫って、お前ェは逃げられるか? 逃げられねェだろ」

「……っ!」

 それは──アンドリューさんが男で、私が女だという、何よりの証明では。

 アンドリューさんが本気になれば、私など相手にもならないでしょう。ただの料理人だったロバートを相手にしてさえ、私には逃げることしかできなかったのです。あれも、ヴィルヘルム様がすぐに来てくださらなければ、貞操の危機に瀕ひんしていたでしょう。

 まして、アンドリューさんは騎士団の小隊長。

 それだけ戦闘訓練も積んでいるでしょうし、力も強いのです。私には、勝てる部分がどこにもありません。

 怖いです。

 ロバートの一件以来、少し男性恐怖症に陥った私でしたけど、どうにか治ってきたと思っていましたのに。

 こんな風に、男性としての力を前面に出されて、迫られると。

 それは──もう、怖いとしか言えません。

「ど、どういう、つもり、なのですか……!」

「お前ェ、まさか……分かってねェのか?」

「で、ですから……!」

「もォ、それ以上言うんじゃねェ。唇塞ふさいでやるからな」

 ひっ!

 アンドリューさんの顔が近付いてきます。

 嫌です。

 何故私にそのようなことをするのですか。

 だったら、私の方も。

 黙ってなんて──いられません!

「近付かないでください!」

「へェ。この状態でそう言ってくるのか」

「あなたは──私に、誓ったでしょう!」

「……」

 よく分かりませんが、いつだったかアンドリューさんは、私に『騎士の誓い』とやらをしたのです。

 文言はよく覚えていませんが、私に忠誠を尽くすと言っていました。ならば、私の言うことは聞いてくれるということです。

 つまり、命令を断ることはしないのです。

「『騎士の誓い』とやらは……それほど、軽いものなのですか!」

「ちッ……」

 良かったです、アンドリューさんが離れてゆきます。

 助かりました。『騎士の誓い』とやらを返品しなくて良かったです。

 ですが、まだ安心はできません。

 アンドリューさんが何を考えているのか──全く分からないのですから。

「お前めェ……」

「何ですか」

「……ふん。何でもねェよ」

「では、従ってくれるのですね」

「はッ、仕方ねェな」

 むしろ、そろそろ完全に離れてほしいです。本当に。

 このような姿を、誰かに見られては──。

「キャロル!」

「──っ!」

「アンドリュー! 貴様! 何をしておるかっ!」

 駐屯所から、走ってこられた──そんな、ヴィルヘルム様のお声がしました。

 ヴィルヘルム様の後ろで、ぜぇぜぇと息を切らしながら追っているのはメアリーです。途中から何も言っていなかったのは、ヴィルヘルム様に助けを求めていたのですね。

 そして、ヴィルヘルム様はアンドリューさんに迫られている私の、その手を取って。

 すぐに、抱きしめてくださいました。

「ヴィルヘルム様!」

 ヴィルヘルム様の力強い腕に、抱かれます。それだけで天にも昇る心地です。

 私の危機に、ヴィルヘルム様はいつだってこうして駆けつけてくださるのです。

 本当に──本当に、何と素敵な方なのでしょうか。

「キャロルよ、安心せよ。もう、此こ奴やつに手出しはさせぬ」

「ありがとうございます、ヴィルヘルム様」

「アンドリュー、貴様、何をしておった……!」

 ヴィルヘルム様が、アンドリューさんを睨にらみつけます。

 アンドリューさんは不ふ貞て腐くされたように、けっ、とヴィルヘルム様から目を逸そらしました。態度が悪いですよ。上司ですのに。

 ですが。

 そんなアンドリューさんが、怒りに満ちた眼まな差ざしで、ヴィルヘルム様を睨みつけました。

「ッたくよォ……団長、てめェに一つ聞きてェ」

「貴様っ! 儂わしに対してそのような言葉遣いを……!」

「あんたよォ……そいつのこと、本当に好きなのかよ」

 くいっ、とアンドリューさんが顎で示したのは。

 ヴィルヘルム様の腕の中に抱かれる──私でした。

「団長」

「アンドリュー、貴様、一体何を……!」

「昔っから、決着はこいつでつけんのが、騎士団の流儀だろォが」

 アンドリューさんは、その右手を包んでいる黒の革手袋──それを外して、ヴィルヘルム様の足元に投げました。

 この仕草は、私でも知っているものです。

 片方が手袋を投げつける──それは、決闘の申し出なのです。

「団長、あんたが中途半端な態度を取るってェなら、俺がこいつを貰もらう!」

「む……!」

 モノではないのですけど、私。

 というより、決闘の理由は私ですか?

 何故そうなっているのか、さっぱり分からないのですけど。

「アンドリュー……」

「受け取れ、団長。ここから先、あんたの部下でも何でもねェ」

「……良かろう」

「ヴィルヘルム様!」

「安心せよ、キャロル」

 ヴィルヘルム様がお体を屈めて、手袋を拾われました。

 アンドリューさんが示した決闘を、受諾する証あかしです。

 何故、そのようなことを──。

「条件ァ、俺が決めさせてもらうぜ」

「いいだろう。どのような条件でも構わぬ」

「明日、円形闘技場でだ。武器は自由、制限時間なし、どちらかの降参で終わりだ。負けた方は、二度と嬢ちゃんに近付かねェ……それでどうだ」

「承知した」

 え。え。え。

 私をさし置いて、話が進んでしまっています。何故そのようなお話になっているのですか。

 ヴィルヘルム様とアンドリューさんが決闘だなんて──!

「じゃァな、嬢ちゃん。明日を楽しみにしとけ。俺がぜってェ勝つからよ」

「ヴィルヘルム様、何故そのような……!」

「せめてこっち見ろよ!」

 私のために決闘だなんて、信じられません。

 しかも、その相手がアンドリューさんだなんて、もっと嫌です。アンドリューさんに個人的な感情があるわけではありませんが、以前に私が救った命なのです。

 そのような、意味もない決闘で失わせるわけにはいきません。国のための戦争であるならばまだしも、このような個人的な──。

「大丈夫だ、キャロル」

「し、しかし! 手袋は決闘の合図だと……! ヴィルヘルム様とアンドリューさんの、どちらかの命が失われるのは……!」

「ああ、なんだ。それを懸念していたのか。ならば尚なお更さら安心せよ」

「へ……?」

 ヴィルヘルム様が、大きな掌てのひらで私の頭を撫なでてくださいました。

 安心する、大きな掌です。ずっとずっと撫でていてほしいくらいです。

 ですが、どういうことなのでしょうか。

 ふふっ、とヴィルヘルム様が笑みを浮かべられました。

「アンドリューが投げてきたのは、右手の手袋だったろう?」

「え……ええ、そうです、けど……」

「真の命の奪い合いとなる決闘を挑む場合は、左手の手袋を投げるのだ。騎士団の中でも諍いさかいは時折あってな……そういうとき、どちらが強いかで決着をつけることがある。その場合の規則として、右手の手袋を用いることになっているのだ」

「ど、どういうことですか……?」

 混乱してきました。

 ええと、左手の手袋を投げるのが、命の奪い合いとなる決闘。でも、アンドリューさんが投げたのは右手の手袋です。

 つ、つまり……?

「模擬戦を挑む場合に使われるのが、右手の手袋だ」

「模擬、戦……?」

「ああ。木製の武器を用いて戦い、勝敗を決めるものだ。審判と時間制限を用いることもあるが、今回は時間無制限の審判なし……どちらかが降参するまでの戦いということになる」

「お、お命は……?」

「諍いで決闘を行い、貴重な騎士を減らすわけにはゆかぬ。ゆえに、互いに譲れぬことがあれば模擬戦で決着をつけるのが、現在の騎士団で行われている慣例だ」

 なるほど、分かりました。

 つまり、ヴィルヘルム様とアンドリューさんが真剣に戦うことには違いなくても、命が奪われるようなことはないのですね。それだけでも安心です。

「ある意味、最近ではちょっとした騎士団での娯楽になっているほどだな。アンドリューもそれを考えて、円形闘技場での決闘を申し出てきたのだろう。今日中に触れを出して、明日は観客を集めるつもりだ」

「そ、そうなのですか……?」

 いけません、まだ私混乱しています。

 ですが、そんな私に。

 ヴィルヘルム様は、微笑まれました。

「儂は必ず勝つ。安心せよ、キャロル」

 私のために、ヴィルヘルム様が明日、アンドリューさんと戦うということです。

 ですが、ヴィルヘルム様は不安そうな顔など、一つも見せません。

 きっと、勝利してくださる──そう、信じさせてくれる微笑みです。

「ヴィルヘルム様……わ、私は……」

「明日は、盛況になるだろうな。キャロルは、特等席で見ていてくれ。儂の勝利する姿を、な」

「は、はい……」

 何故か、私を巡って決闘が決まってしまいました。

 ヴィルヘルム様に何かあるのではなかろうかと、そう心配してしまいます。

 ヴィルヘルム様が、フレアキスタ王国最強の騎士団長、ヴィルヘルム・アイブリンガー様だということは、分かっています。

 ですけど。


 もしも負けたら──私はもう、二度とヴィルヘルム様に近付くことができないのですから。


◇◇◇


 午後からの講義は、集中できませんでした。

 普段よりも精彩を欠いていたせいで、講義中に五度も嚙かんでしまいました。今日は後ろでアレキサンダー大隊長が見てくださっていたのですが、私が嚙むたびに笑っていました。ほとんどの講義はアレキサンダー大隊長かガゼット大隊長が見てくださっているのです。恐らく、アレキサンダー大隊長はほぼ講義の内容を暗記しているのではないでしょうか。

「……では、以上で講義を終わります」

 心の中はいっぱいいっぱいですけど、どうにか終わりました。

 今日ほど疲れた講義は他にないと思います。全く集中することができませんでした。それも全部、明日のヴィルヘルム様とアンドリューさんとの決闘が気になってしまったからです。

 アンドリューさんはどれほど強いのでしょうか。

 ヴィルヘルム様はお年を召しておられますけれど、勝つことができるのでしょうか。

 不安で不安で堪たまりません。

 私の締めの言葉と共に、席を立った騎士の皆様が談笑しながら出て行きます。

「なぁ、明日のこと聞いたか?」

「明日?」

「久しぶりに決闘があるんだってよ」

「マジかよ。誰がやんだ?」

「団長とアンドリューらしいぜ」

「うわ、すげぇ!」

 ぴくぴく、と私の耳が動きます。

 早速噂になっているみたいです。ヴィルヘルム様の仰おつしやっていた通り、今日のうちに観客を集めるために噂を流しているということでしょうか。

 私も帰る支度をしながら、でもお話に耳を傾けてしまいます。

「アンドリュー、団長に勝てっかぁ?」

「あいつもあいつで、『旋風』とか二つ名があるくらいに強つえぇからな。あの若さで小隊長やってんだし、腕は確かだぜ」

「アンドリューの奴、態度が悪わりぃのに降格しねぇのって、あいつが別格に強いからって噂もあるしな」

「でも、団長も団長で超強いぜ。他国にも名が知れてるくらいだぞ」

「つっても、団長も年だしなぁ……」

 ううっ。

 不安が後から後から溢あふれてきます。

 本当に大丈夫なのでしょうか、ヴィルヘルム様。

 皆様のお話だと、アンドリューさんすごく強いみたいです。私に強さは分かりませんけれど、噂になるくらいなら本当に強いのだと思います。

 でも。

 でもでも。

 ヴィルヘルム様は、ちゃんと約束をしてくださいました──。

「あの、お嬢様……」

「……ええ、メアリー。帰りましょう」

「はい」

 いつまでも、ここにいても仕方ありませんね。

 ひとまず、ヴィルヘルム様にご挨あい拶さつをして、屋敷に戻りましょう。

 どうしましょう。

 今夜、眠ることができるでしょうか。

 沈んだ気持ちのままで会議室を出て、団長室に向かいます。

 普段は朝に護衛をしてくださった方が、帰りも同じく護衛をしてくださいます。ですが、今日に限ってはアンドリューさんに会いたくありません。

「失礼します、ヴィルヘルム様」

「お……もうそんな時間か。講義は終わったのか」

「はい、終わりました」

「では、送ろう」

「へ……?」

 ヴィルヘルム様が立ち上がって、外がい套とうを羽織られました。

 普段はお茶をいただいて、その間お話をして、護衛の方が来るまで待つのですけど。

 ふふっ、とヴィルヘルム様が微笑まれました。

「今日は、儂わしが帰り道の護衛をしよう」

「まぁ!」

「それとも、他の者の方が良いか?」

「そんな!」

 ヴィルヘルム様、そのお言葉は意地悪です。

 誰よりもヴィルヘルム様をお慕いしている私が、他の方が良いなどあるわけがありません。

 普段はお茶を飲んで少しお話をするくらいですが、今日は屋敷に着くまでご一緒できるのです。これほど嬉うれしいこと、他にありません。

「お仕事などは、大丈夫なのですか?」

「ああ。今日の仕事はもう終わらせている。事務官が気を遣ってくれたらしく、今日の仕事は少なかったのだ」

「そうなのですか?」

「明日は、決闘だからな」

 うっ。

 それを思い出すと、つい沈んでしまいます。


 ヴィルヘルム様と一緒に駐屯所を出て、やや肌寒くなってきた風を浴びながら一緒に歩きます。

 吐いた息が白くなるほどではありませんが、冬の到来が近いと分かりますね。私もそろそろ、少し厚めのものを着なければいけないかもしれないですね。

「あの、ヴィルヘルム様……明日は……」

「正午より、行われる予定となっておる。アンドリューが嬉しそうに宣伝しておった」

「そう、ですか……」

 変更はないようです。

 不安ですが、しかしヴィルヘルム様が決められたことです。私に口を出すことはできません。

 でも。

 できることなら、そのような危ないことは。

「キャロルには、専用の席を設けている。最前列で見てくれ」

「……はい」

「何を心配しているのだ、キャロル」

「だって……」

 だって、心配です。

 ヴィルヘルム様が国内でも最強と呼ばれる騎士団長であることは分かっています。それでも、万が一ということがあるかもしれません。

 それに。

 アンドリューさんは、私のことを貰もらうと、そう言いました。

 それに対して、ヴィルヘルム様は決闘に応じたのです。

 私に対して何の相談もなく、私を賞品とする戦いに。

「キャロルは、心配性だな」

「ですが……もしも、ヴィルヘルム様が負けてしまわれたら……」

「儂にとっても、良い機会だと思ったのだ」

「え……?」

 ヴィルヘルム様のお言葉に、思わず顔を上げます。

 そのお顔は精せい悍かんで、私と目を合わせずに、どこか遠くを見つめているように思えました。

 一体、どういうことなのでしょうか。

「アンドリューの奴も言うておったであろう。儂が、中途半端な態度でいると」

「そ、それは……」

「儂自身、それは感じているところだった。儂は今まで、真剣にキャロルと向き合っていなかったとな」

「そんな……!」

 ヴィルヘルム様は、いつだって私を助けてくれます。

 ロバートの凶行からも、レイフォード殿下の凶行からも、助けてくださったのはヴィルヘルム様なのです。

 それがどれほど、私にとって幸せなことだったでしょう。

 明日だって、アンドリューさんの一方的な言葉から、私を助けてくれるために──。

「キャロル」

「は、はい」

「いい女になったと、誇るがいい」

「へ……?」

 いい女──?

 私が、ですか?

 まだまだ、私は母上のようないい女には、程遠い人間です。

 すぐに泣いてしまいますし、すぐに不安になってしまいますし、今だって不安で堪りません。

 そんな私が、いい女になっただなんて。

「キャロルを奪とり合って、二人の男が決闘を行うのだ。いい女でなければ、そのようなことはない」

「そ、そんな……!」

「騎士団の面々の前で、儂は必ず勝つ。ゆえに……いや、違うな」

 ふむ、とヴィルヘルム様が白いお髭ひげを撫なでて、少しだけ首を傾げました。

 気がつけば、目の前にあるのはアンブラウス公爵家の屋敷です。いつの間にか到着していたみたいです。

 ふふっ、とヴィルヘルム様が微笑まれて。

「ここまでだな」

「は、はい……」

「明日は、儂も万全の状態で戦う。昼食は用意しなくてもいいぞ。動きが鈍るからな」

「はい。承知いたしました」

「くくっ」

 ヴィルヘルム様が、嬉しそうに笑います。

 私ばかり不安になっているみたいで、なんだか悔しいです。

 ですけど。

 何故か──そんな笑顔を見ると、安心するのです。

「キャロルよ」

「はい」

「明日は……必ず勝つ。その上で、惚ほれ直させてみせようではないか」

「まぁ!」

 そんな!

 もう心からお慕いしておりますのに、これ以上何を仰いますか!

「ではな、キャロル。明日を楽しみにしていてくれ」

「は、はい……!」

 ヴィルヘルム様の背中を、見送ります。

 ほわん、と頭が熱に浮かされるようです。どきどきと弾む鼓動が止まりません。

 ああ、ああ。

 私は、なんと罪深いのでしょうか。

「メアリー」

「は、はい! お嬢様!」

「私は……悪い女ですね」

「ど、どういうことですか!?」

 だって、だって。

 ヴィルヘルム様が明日、私のために戦ってくださる。

 私に惚れ直させるために、戦ってくださる。

 なんと身勝手な女なのでしょうか、私は。

 不安で、心配で、たまらないというのに。


 それが、嬉しいのです──。


◇◇◇


「おはようございます、お嬢様」

「おはよう、ナタリア」

 昨日、休みだったナタリアでしたが、今日は出勤です。いつも通りにきっちり、私が起きる時間に起こしに来てくれました。

 少し眠いです。昨夜ゆうべは、ヴィルヘルム様が今日決闘をされるということを寝る前にずっと考えてしまって、寝不足気味です。

 元々今日は私の講義はお休みですので、いつもならばヴィルヘルム様と昼食をご一緒してから帰っています。明日もお休みですので、明日はリリアが来るかもしれませんね。

 ですので、今日は特に何も用意しなくて良いのです。昼食は用意しなくても良いと言われましたので。

「お嬢様」

「どうしましたか、ナタリア」

「メアリーから、事の経緯は聞きました。ヴィルヘルム様が決闘をなさるとか」

「……ええ」

 正午から、と仰おつしやっていました。

 まだ朝早いので、時間はあります。今のうちに、今度の講義での資料を作っておいてもいいかもしれませんね。

 クリスにも、お弁当は用意しなくても良い旨は伝えてあります。

 しかし、ナタリアは呆あきれているように小さく溜ため息いきを吐きました。

「男というのは、いつの時代も馬鹿なものですね」

「……」

「女を賭かけて決闘だなんて、前時代的にも程があります。私がその場にいれば、アンドリューさんを殴って黙らせたのですけど……」

「でも、決まってしまったことですから」

「お嬢様がそれで良いのでしたら、私は何も申し上げません。ただ、アンドリューさんがもしも勝利したとしても、従う理由はありませんよ。彼らが勝手にお嬢様に近付かないだけであって、お嬢様の自由まで制限されることはありませんから」

 ナタリアの口調が、やや怒気を孕はらんでいます。

 確かに、アンドリューさんの身勝手に巻き込まれたようなものですからね。私が従う理由はどこにもありません。

 ただ、決闘の云うん々ぬんを持ち出されて、私のこれからの行動を制限されるかもしれません。その場合はどうすればいいのでしょう。

 少し不安になって、そう顎あごに手をやります。

 しかし、ナタリアは自信満々に胸を張りました。

「ご安心ください、お嬢様」

「え?」

「お嬢様の行く手を塞ふさぐ、全てを殲せん滅めつするのが私の仕事です。アンドリューさんが何を仰ろうと、正当性はどこにもありません。いざとなれば私が黙らせますので、ご安心ください」

「え、ええ……」

 何故でしょう。

 ナタリアが物もの凄すごくやる気です。背中に炎が見えるかのようです。

 しかし、ナタリアがそれだけ言ってくれるということは、私も安心していいかもしれません。

 そうですね。

 確かにアンドリューさんの条件は、「負けた方は、二度と嬢ちゃんに近付かねェ」でした。私から近付くことに制限は設けられていませんよね。

 そう考えると、なんとなく安心してきました。

 今日は一人の観客として、私のために戦ってくださるヴィルヘルム様の御勇姿を拝見しましょう。

 と、その前に。

「そういえば、ナタリア」

「はい」

「昨日はどうでしたか?」

 ちゃんと、ナタリアから昨日の報告を聞いておかないと。

 色々と細工はしましたけど、どうなったかは聞いていません。尾行でもしようかと思いましたけど、私も講義がありましたからね。

 ナタリアが、僅わずかに言いにくそうに眉まゆを寄せました。

「まぁ……歌劇を、見てきました」

「ええ、面白かったですか?」

「はい。ただ、内容が少々……」

「どういうことですか?」

「異国から来た使用人の女と、国に仕える騎士の恋物語でした。お嬢様の意図を心から感じます」

 おや、そんな内容なのでしたか。

 詳しくは確認していませんでした。クレアに全部お任せでしたからね。

 皮肉げに視線を送ってくるナタリアに、何も言えません。

「まぁ、面白かったですけどね。ただ……」

「ただ?」

「やはり、最後は泣きじゃくっておられました。確かに悲恋のお話ではありましたけれど、大の男があれほど泣くとは……」

「……」

 やっぱり、ザックはザックだったのですね。

 もっと恰かつ好こういいところを見せるべきだというのに。

「一人残して帰るのも忍びないですし、仕方なく泣き止むまで待って、一緒に甘味を食べて帰りました。甘味屋ではご馳ち走そうしてくださるとのことでしたので、遠慮なく食べてきました」

「ああ……そうですか」

 ザック、可哀想に。

 ナタリアは大の甘味好きなのです。三食全部が甘味でもきっと喜ぶくらいです。一度、私とも一緒に甘味屋に行ったのですが、一人で何皿も積み重ねていました。この細い体のどこに入っていくのか、人体の神秘を感じたほどです。きっとかなりの額が飛んだことでしょう。

 まぁ、歌劇のチケット代は私が出したので、そのあたりを考慮すればまだましでしょうか。

「ザックは、どうですか?」

「男性としては、少々頼りないですね。正面から戦えば、一瞬で片付けることができるでしょう。ただ、お優しい心は持っていらっしゃると思いますよ。そうでなければ、感情移入をしてあれほど泣くと思えませんから」

「そうですか。まぁ、これからに期待ですね」

「さて。私もいい年ですし、ザックさんは若いですからね。もっと良いい相手がいますよ」

 おやおや。

 なんとなく先程から感じていましたけど、ナタリアもそれほど悪くは思っていないようですね。私から特に何も言っていないのに、年齢の話を出してきましたし。

 年齢の話をしてくるということは、婚姻について想いを馳はせているということです。

 これからが楽しみですね。

「まぁ、良いです。昼まで資料作りを行います。その後、駐屯所へ向かいましょう」

「承知いたしました、お嬢様」

 さて。

 では、これ以上口出しをするのはやめておきましょう。私から何も言わなくても、勝手に進展しそうですし。

 それに。

 私とヴィルヘルム様よりも先に結ばれてしまっては困りますから。


◇◇◇


 昼になり、駐屯所へ到着しました。

 どきどきと、心臓が跳ねるのが分かります。こんな風に、ヴィルヘルム様が戦われるのを拝見するのは、今日が初めてです。他国でも伝説に謳うたわれ、お若い頃は『白びやつ虎こ』、現在は『白老』の異名を持つヴィルヘルム様が、どのように戦われるのかは分かりません。

 そして、騎士の皆様の間でも噂だった、アンドリューさんがどれほどの手て練だれであるのかも──。

「あ、キャロル!」

「こんにちは、クレア」

「来たら案内するように言われてるよ。ほら、あれでしょ? 決闘見に来たんでしょ?」

「え、ええ……」

「こっちこっち。ちゃんと、団長が一番いい席を取ってくれてるから」

 受付の業務はいいのか、クレアが立ち上がって私の手を引きます。

 ヴィルヘルム様は時折起こる決闘のことを、騎士団の中における娯楽だと仰っていました。クレアにとってもそれは同じで、早く見たかったのでしょうか。

 そんな風にクレアに手を引かれて暫しばらく歩いて、到着した先。

 それは、いつだったかヴィルヘルム様に案内をされて、集団戦の訓練を拝見した──円形闘技場でした。

 わいわいと騒ぐ皆様の間を抜けて、クレアがどんどん先に進んでいきます。

「はい、ここ!」

「わ……本当に、良い席ですね」

「うん。ちゃんと、団長が一番いい席を用意するようにって言ってたからね」

 最前列です。それも、他の騎士の皆様が座っておられる石造りの段と違って、ちゃんと椅子が置かれています。

 確かにここならば、闘技場全体を一望できます。集団で戦っても問題ないくらい広い闘技場が、です。

「えっへっへー」

「どうしましたか、クレア」

「キャロルを案内するってことで、私も特等席を貰もらったんだよね。キャロルの隣。ああ、向こうの隣はナタリアさんね」

「ではお嬢様、隣を失礼いたします」

 ずっと後ろに控えていたナタリアが、私の隣に座ります。

 どきどきと、心臓の跳ねる音がうるさいくらいに響きます。周りの喧けん騒そうよりも、私の心臓の音の方が大きいのではないでしょうか。

 これから──ここで、ヴィルヘルム様が、戦われる。

「今朝ね、団長に会ったの」

「そうなのですか?」

「うん。私、受付だから朝に大抵の人には会うんだよね。で、まぁ挨あい拶さつとか一言二言話したりとかするの。団長、今朝は気合入ってたよー」

「まぁ……」

「絶対に勝つ、って言ってたよ。勝って、ちゃんとキャロルに会いに行くって」

 ありがたくて、嬉うれしいお言葉です。

 私なんかには勿もつ体たい無いとさえ思えます。

 ヴィルヘルム様。

 どうか──どうか、ご無事で。

「あ、出てきた!」

 はっ!

 闘技場を見ます。

 南からヴィルヘルム様が、北からアンドリューさんが出てきました。

 アンドリューさんは木剣を二つ、ヴィルヘルム様は木製の薙なぎ刀なたを持っておられます。二人とも恐らく模擬戦用の装備なのであろう、革鎧よろいを装着されています。

 わぁぁぁぁぁっ、と喧騒が一際大きくなりました。

 お二人が何かお話をされているようですけど、全然聞こえません。

 きっと、誰にも聞こえていないのでしょう。

 ですけど、せめて。

 私の声だけでも、届けば──。

「ヴィルヘルム様ぁぁぁぁーっ!」

 精一杯の声で、少しでもヴィルヘルム様に届けばと、そう願いを込めて。

 叫びます。

「絶対に、勝ってくださいませぇーっ!」

 せめて。

 私の声が届いたら、良いのですけど。


◇◇◇


 ヴィルヘルム・アイブリンガーはゆっくりと闘技場に歩を進めた。

 目の前にいるのは、部下のアンドリューだ。騎士団長であるヴィルヘルムも何度か噂で聞いたことがあるほどに、アンドリューの武は素晴らしいという。まるで己の腕の延長であるかのように、双剣を扱うのだと。

 若い頃から戦場を駆け続け、六十二まで至ったこの身が、まだどれほど動けるか──それが不安でもあり、楽しみでもある。

「よく逃げずに来たなァ、団長」

「当然だろう。勝てる勝負を誰が投げ出すものか」

「けッ。吠ほえ面かかせてやらァ」

「これ以上、言葉はいるまい。来るがいい、アンドリュー」

 騎士団において、己の意見を通すために行われる決闘。

 決闘とはいえ、そのような些さ事じで貴重な騎士の命を失わせるわけにはいかない。それゆえに、騎士団における私闘は模擬戦として行われるのが伝統なのだ。

 ヴィルヘルムも血気盛んだった若い頃には、何度か同僚と剣を合わせたことがある。

 もう、この場に立つことなどないと。

 そう思っていたのだけれど。

「団長、一つ聞きてェ」

「ああ」

「団長はよォ、あいつを妻として迎えるつもりがあんのか?」

 アンドリューの言葉に。

 ふっ、とヴィルヘルムは微笑みを返す。

 あいつ──キャロルを、妻として迎える覚悟。

 そんなもの、既に決まっているのだから。

 どんなに頑張っても、どれほど長生きをしても、ヴィルヘルムはキャロルよりも先に死ぬ。それは間違いない事実だ。

 そのとき──冥めい土どで待ってくれている親友に、殴られる覚悟すらも、決めた。

「当然だ」

「だったら、構わねェ。全力で行くぜェ!」

 アンドリューが双剣を構えて。