◆和平交渉
ヴァラン王国の敗報は瞬く間に大陸各地へ広がった。あまりにも鮮やかな勝利に、ある者は沸き立ち、ある者は喫驚し、またある者は嘲笑った。これを見て隙ありとレトゥアール帝国が攻め入ってくるのではないか、国民がそんな懸念に駆られるのも無理はなかった。
ただ、これを機に王国が崩壊に向かい、大陸全土が帝国のものとなれば、必然的に圧政に苦しむ者は多くなり、帝国奪還の宿志を果たせる可能性が大きく落ちる。
そうなることをヘンリックは何としても避けたいと思っていた。願わくば、王国とは良好な関係を築きあげたい。
そこですぐさま和睦の提案を行う。だが大公国側が歩み寄るのではなく、あくまでそちらが望むなら、というスタンスだった。大公国が勝者であるという事実は揺るがず、上級貴族が何人も捕虜になっている。王国がそんな状況を看過するはずもない。すぐに捕虜引き渡しを前提とした和睦交渉がエルドリア城で行われることとなった。
「お初にお目にかかります。特派大使のミレアナ・レイシェルと申します」
王国随一のエリート家系出身であり、平時は宰相の補佐官を務めていたミレアナが、極めて丁重な態度でセレスとヘンリックの二人に挨拶をする。
「アルバレン子爵家当主で大公代理のセレス・アルバレンと申す」
「ヘンリック・レトゥアールだ」
(この男がクーデターで唯一生き残った前皇帝の息子か。理知に富んだ瞳をしているな。一体どのような男なのか)
ミレアナはセレスよりもヘンリックの様子を意識的に観察していた。というのも、今回の戦いがヘンリックの戦術によるものだと、すでに王国内では知られつつあるからだ。
ただその一方で、ヘンリックの悪評も王国内ではよく知られる話である。本当はどのような人物なのか、その見極めもミレアナの使命の一つでもあった。
「アルバレン卿、ヘンリック皇子、この度は和平交渉のためお時間をいただき感謝致します。先の戦いで捕虜となった貴族の引き渡しに応じてくださるとお伺いしました」
「ええ。ロンベルク公爵の嫡男に、侯爵家当主一人とその子息、伯爵家当主が二人とその子息、その他多くの貴族が捕虜としてエルドリア城内の収容所に収容されております」
セレスが真剣な表情ながらも柔らかい口調で告げる。今回の戦いでは戦功を挙げさせる良い機会だと、子息の従軍が非常に多かった。その全員の引き渡しは、王国にとって絶対に実現させなければならなかった。
「そちらの引き渡しのため、王国は可能な限りそちらの要求を呑みましょう」
ミレアナはヘンリックがどのような条件を突きつけてくるのか、固唾を呑んで見据える。
「単刀直入に言おう。こちらが要求するのは、王国北部のブレスレン一帯とその東にあるクレイヴェル、それだけだ」
「なっ」
それだけ、とは言ったものの、ブレスレンは肥沃な土地であり、農業が盛んで王国の約一割の食糧を供給している。八百万の人口を誇る王国で一割もあれば、八十万人分の食糧が確保できることになる。三十万人程度の大公国にとっては過剰と言えるほどの土地だった。何より土の質がすこぶる良いため、良質な作物が採れることでも有名であり、土地柄から農業が育たないエクドール=ソルテリィシア大公国にとって、食糧自給率を一気に百%以上にまで押し上げられるほどの土地。
そしてクレイヴェルは大公国から国境を越えて最初の大きな都市であり、公都エルドリアと同等の規模だ。気候的にもエクドールよりも遥かに良く、商業的に潤っている。そんな街を失えば、王国にとっては小さくない打撃となる。
(クレイヴェルを拠点として、王国内における商業を拡大していこうというのか?)
商業で名を高めつつある大公国が、王国各都市にアクセスしやすいクレイヴェルという土地を得て商圏拡大を狙うというのなら、王国にとっては決して悪いことばかりではない。
「これでは不満か?」
ミレアナは絶句する。ヘンリックが「何かおかしいか?」と言いたげに眉を吊り上げている。
(こんな強気な要求をぬけぬけと……)
その時、ミレアナはセレスがほんの一瞬だけ眉を寄せたのを見逃さなかった。
(まさか、セレス・アルバレンはこの提案に噛んでいない……? この皇子、どこまで権力を握っているというのだ……?)
「いささか過剰な要求かと存じます。貴国はあくまで、領土を守り切ったに過ぎない。もう一度侵攻すれば、今度は間違いなく攻めとれるはずです」
王国にとって、和平自体にほとんど意味はなかった。大公国側に王国へ侵攻できるほどの兵力は無い。仮に和平が成立したとしても、帝国との協調姿勢が背景にある以上、大公国が帝国に和平の破棄を迫られて、王国に対する戦争を起こすことも十分考えられる。
だから本質的には、この和平交渉は王国にとって和平ではなく、捕縛された貴族を返してもらうためだけの交渉に過ぎなかった。
「ふっ、それが脅しになるとでも? 一度退けた軍勢を二度退けられないはずもない。そもそも、一度失敗した侵攻をもう一度するほどこの国に価値があると? 国内から不満が高まるかもしれない。そうでなくとも、今にでも帝国が攻め寄せてくるかもしれない時に、再出兵などできるはずないだろうが」
(くっ、やはりこちらの立場は理解しているか。想定以上に手強い相手だ)
ミレアナは歯噛みする。かといって、提示された条件を呑むわけにもいかない。捕虜の回収が最優先である以上、どのようにヘンリックから譲歩を引き出すか、額に滲む汗を拭いながら考え込む。
「そうそう、貴様は宰相の補佐をしているらしいな」
「え、ええ」
突然の話題転換にミレアナは眉根を寄せながら首を傾げる。
「その宰相は王家の復権を望んでいる。違うか?」
「どうしてそれを……!」
ミレアナはヘンリックの予想だにしない発言を受けて前のめりになる。ミレアナ自身はもとより、宰相とてその意思を外に漏らしたことは一度としてない。それを知る人間が王国内部の人間ならまだしも、帝国の元皇子となれば警戒もする。
「宰相は先代国王から寵愛を受けていたと聞いた。にも拘わらず、今は王家を蔑ろにして三大公爵と昵懇の間柄とも言われている。ワザとそう振る舞っているのではないか、そう推測しただけだ」
(くっ、カマを掛けたというのか?)
今の問答で、ヘンリックはミレアナの真意を確信した。これを下手に否定するのもわざとらしく、ミレアナは潔く認めるしかない。
「……それを知ってどうなさるおつもりですか? まさか三大公爵に流して宰相閣下を失脚に追い込むと?」
「ふん、そんなつまらないことをして何の意味がある。そもそも今回の侵攻は三大公爵が原因だろうが。奴らが増長するのを後押しする意味などどこにもない。公爵家の連中は随分とこちらを見下しているようだが、そんな状態ではこちらも困るのでな。奴らの権力を殺ぐ、それが目的だ」
「そちらの要求がそれに繋がると……?」
「ブレスレンはロンベルク公爵領だが、クレイヴェルはヴェリンガー公爵領だ。ヴェリンガー公爵は、間違いなくこれを拒絶する。しかも今回はロンベルク公爵単独での失敗だ。その尻拭いをさせられるのは耐えられないだろうな」
クレイヴェルはヴェリンガー公爵領内でも三番目の規模を誇り、そこを失うのは非常に痛い損失となるのは間違いない。
「……そうですね。その可能性は高いでしょう」
「だが一方でコルベ公爵家としては、政敵であるヴェリンガー公爵家の力を殺ぐことができる。自分の身を削ることなく和睦が成立するなら、これを受け入れるのは内心やぶさかではないだろうな」
「つまり、この和睦を成立させるための説得は、ヴェリンガー公爵だけで十分、ということですか?」
「説得? そんなものは必要ない。そもそもどんなに説得したところでヴェリンガー公爵が呑むことはない」
ヘンリックは鼻で笑う。
「なるほど。政敵の尻拭いをさせられるなど到底受け入れられないでしょう」
その上条件を突きつけてきたのが散々見下してきた元侯爵家のソルテリィシアとなれば、説得など全く意味をなさない。
「ブレスレンの代わりに食糧の十年間無償譲渡を盛り込んだ譲歩案を提示させてもらうが、クレイヴェルだけは外せない」
「つまり、ヴェリンガー卿だけが痛い目を見ることになる、と?」
「その通りだ。こちらは譲歩する余地を見せた。それでも突っぱねたら?」
ミレアナは生唾を飲み込み、口を真一文字に結びながらヘンリックの双眸を真っ直ぐ見据える。
「そもそもこの和睦条件を拒絶することは、すなわち捕虜を見捨てるも同然だ。譲歩した条件すらも突っぱね、ロンベルク公爵ですら切り捨てられた、そんな事実を前にして、他の貴族はどう動くと思う?」
「誰もが少なからずヴェリンガー卿に不信感を持つ、と?」
「そういうことだ。だから貴様が宰相の望みを叶えようというならば、国王にヴェリンガー公爵を追い詰めさせろ」
はっきり言って、ヘンリックの策略がうまく運ぶ確証はない。
ただ、ミレアナも現状に甘んじるつもりはなかった。リスクを取らなければ、王家の復権は叶わない。三大公爵の一角が崩れた今が、最大の好機かもしれない。ミレアナはゆっくりと顔を上げる。
「……分かりました。宰相閣下にはお伝えしておきましょう」
ミレアナは熟慮ののち王家復権への期待を胸に宿し、本国への帰還の途へつく。しかしその心中は複雑だった。
(あの皇子、どこまで事を見据えている?)
今回の会談をただ王国にどれだけ身を切らせるかを迫る和平交渉にするのではなく、今後の王国の行方、ひいては王家の復権に焦点を当てたものにしていた。最初はどう大公国側を折らせるかばかりを考えていた思考もいつのまにか霧散し、なかなか強かだと感心させられた。
これならば大公国は心強い味方になるかもしれないとすら思わされる。ミレアナは会談でそれだけの才覚を確かに感じ取った。横柄な態度は多少鼻につくものの、大公国内で信望を集めたのは決して偶然ではない。
(先帝の子という立場は帝国内であまりに厄介な存在だった。万が一にも皇子が国内で力を得て、反乱など画策できないよう、辺境に追いやったわけだ)
境遇からしても、帝国への復讐心があるのは明白で、それを果たすために動いているのではないか、ミレアナはそう感じた。
(それはつまり王国にとっては頼もしい味方になりうる人物だということだ。大公国の国力が上がれば、王家にとっても利があるということになる。今回の和睦、なんとしても通さねばならないな)
ミレアナはそう強い決意を胸に抱き、帰国を急いだ。
◆
ミレアナが去った後、俺は執務室で戦後処理に奔走していた。
「本当にうまくいくのでしょうか」
大使との面会を思い出してか、シャロンが不安そうな声を上げる。
「うまくいかなければそこまでの話だ。こちらはグラハムが遺した唯一の男子であるレグナルト・ロンベルクを捕虜にしている。呑まなければ、跡目争いが起こる」
「跡目争い?」
「伝統あるロンベルク公爵家を取り潰すとは思えない。その当主にはヴェリンガー、コルベ双方が息のかかった人間を送り込もうとする。内紛が起こるかもしれない。立ち回り次第では、王家が力を取り戻せる可能性も大いにある」
ただ、内紛は帝国にとって格好の隙になる。それは三大公爵とて理解しているだろうから、浅慮にも兵を起こすようなことはしないはずだ。
「殿下も王家の復権を望んでおられるのですか?」
「帝国を取り戻すためには、王国を味方に付けるのが不可欠だ」
ヘンリックの帝国奪還には、王国と足並みを揃える必要がある。大公国単体で帝国に太刀打ちすることなど夢のまた夢なのだ。
「王家の復権がその鍵になると?」
「そもそもヴァラン王家と大公家は元々仲が悪いわけではない。三大公爵が台頭したせいで関係が急速に悪化した。奴らは大公家を見下しているからな。王家が力を失ったままだと困るんだよ」
大公国は元々、「王国の右腕」として国を支えていた。初代大公アレクシスを中心に構成された強力な軍隊を背景に、暫くは平穏な関係が続くも、蜜月な関係も長くは続かなかった。戦ばかりに傾倒してきたアレクシスは失政を連発し、元々豊かとは程遠かったエクドールをさらに貧しくする。
銀山が見つかったのは僥倖だったが、アレオンの父は武芸・政治に一切の興味を持たず、奢侈で自らの力を大きく殺いだ。
右腕を失った王家は、ソルテリィシア家に爵位を凌駕されて不満をつのらせていた三大公爵によって立場を覆されることになるのだ。ただ王家が国の舵を失ってもなお、アレオンが大公の地位を世襲してから今に至るまで、国との関係悪化とは別に大公家と王家の関係自体は比較的良好であった。そのため、王家が本来の権威を取り戻しさえすれば、協調に関する懸念というものはかなり減ってくる。
現状の王国はロンベルク公爵家が当主を失った挙句次期当主の嫡男も捕虜の身になっていることで、その煽りを受ける形でヴェリンガー、コルベの両公爵も求心力を少しずつ失いつつある。王家にとってはこれ以上ない追い風と言えた。
「そうなると帝国の動きが気になりますね」
「好機と見て兵を挙げるか、静観を貫くか。ゲレオン・サミガレッドはああ見えて慎重な男だ。念入りに計画を立て、完璧な筋書きを作ってから実行に移す。そういう男だ」
ヘンリックが臍を噬み、シャロンは何も言えなかった。
ゲレオンはかつて。戦で大きな戦功を挙げながら、領地の加増を受けられなかったことに激怒した。帝国としても戦功を挙げたゲレオンには領地の加増を行いたかった。
ただこれ以上領地を与えてしまうと、帝室と諸侯の力関係に綻びが生じる恐れがあった。帝室も、帝政が揺らぐような情勢を作り出すわけにはいかなかったのだ。膨大な軍事費を注ぎ込み多大な犠牲を払ったにも拘わらず得られた土地は皆無であり、戦功に対する褒美は極めて乏しいものだった。帝室への不信感が募るのも当然の帰結である。
以後、サミガレッド家を筆頭に反帝室の動きが水面下で活発になる。ゲレオンは国内随一の武闘派でありながら、クーデターを鮮やかに成功させられるほどに狡猾な頭脳派でもあり、慕う人間も非常に多かった。
そうして、クーデターが勃発する。
クーデターは極めて念入りで、起きた時にはもう全てが手遅れな段階だった。味方だったはずの人間はあらゆる手段によって誰もがゲレオンの前に膝を突かされ、クーデター計画に加担した。そんな過去を思い出し、口の中が異様に渇く。一連のクーデターのことを思い出すと、いつもこうなってしまう。
ふとシャロンの方に目を見やると、瞬時に双眸が合った。
「殿下。殿下は私の想像し得ないほど多くのことを考えているのでしょう。でもあれほど人を寄せ付けなかった殿下が、こうして考えていることのほんのわずかでも、私に共有してくださるようになったことを喜ばしく思っています。私は殿下を裏切りません。だから私を、信じてくださいね」
「ふん。口でならなんとでも言える」
シャロンのことは誰よりも信用している。だが、まだ信頼と呼ぶには程遠い。それはヘンリックがまだ心を開いておらず奥底に怯えを持っているから。そして何より、あまりにも未熟なのだ。宮籐稔侍だけではなく、ヘンリックに受け入れさせなければ、真の意味での信頼とは言えない。信頼できるように、歩み寄っていきたい。そう強く思うのだった。
◆
俺が提示した和睦条件は、貴族全員が緊急招集された王国議会の場で協議された。
当然の如くヴェリンガー公爵は拒否し、大公国に譲歩を求めるよう突っぱねた。そこにミレアナが譲歩案を提示し、ヴェリンガー公爵は狙い通り言葉に詰まる。
それでも認められないと拒絶したところに、すかさずヴァラン王国国王ジークハルト・ヴァランが「ロンベルク公爵のみならず、他の多く貴族も見捨てるということか」と詰め寄ると、一気に風向きが変わったという。
そもそも三大公爵が大公国憎しで無茶な要求を強いた結果であると、更にジークハルトが畳み掛けると、議会は一転してヴェリンガー公爵やコルベ公爵を非難する風潮に変わった。
覚悟を決めたジークハルトの振る舞いも威厳のあるもので、ヴェリンガー公爵はたじろいだ。
宰相の働きかけにより国内ほとんどの貴族が集結した緊急議会の場において、この風向きの変化はあまりに大きい。議会の場を王家が支配する正常な体制が戻っていた。
主導権を再び取り戻そうとヴェリンガー公爵も躍起になるが、貴族たちの反応は薄く、もはや奪還は絶望的だった。
結局は譲歩案の受け入れが採決され、大公国がブレスレン一帯を得ることはできなかったが、クレイヴェル一帯は手に入り、俺はその統治者になった。今後は王国内への商業拠点として整備し、大公国全体の経済を更に活性化させていきたい。
加えて、国王直々の提案で対等な形での秘密同盟を締結することとなり、王国との関係が一気に改善することになる。
「お疲れ様でした。殿下」
「ああ」
執務室で雪吹雪が舞う外の様子を眺めていると、シャロンが労いの言葉を掛けてきた。戦後処理や和睦交渉などの一連の仕事が一段落してようやく一息つくことができたのだ。
「ミレアナ様も感謝しておりました。王家があるべき姿に戻り、国王や宰相も喜んでおられるとか」
個人的な礼として、金銭やら王国の宝物やらを受け取ったが、帝国の皇子である俺にあからさまな感謝を露わにするとは思わなかった。確かに俺の意図を国王が認識していなければ、和睦協議で鮮やかに主導権を取り戻すことは難しかったから、俺が王家の復権を望んで授けた策であるという意図を伝えないわけにはいかなかったわけだが。
今回の一件で、国王にはサミガレッド家への復讐心という俺の行動原理を汲み取ってもらえたはずだ。王家とはこれから協力体制を整えていきたいと思っているので、結果としては上々だろう。
「それよりも大恥をかいたヴェリンガー公爵やコルベ公爵の動向は注視すべきだろう。帝国がいずれかに接触する可能性だってある。これまでは曲がりなりにも王国はそれなりに団結していた。それが崩れたんだ。これからが本当の戦いになる。気を抜くなよ」
「もちろんです」
数日後にはクレイヴェルへ移る。やることは山積みだ。
だが、今くらいは気を抜いてもいいだろう。
俺は再び窓の外に目をやる。横殴りだった雪が、少しだけ弱まっているように見えた。
長年膠着状態だったヴァラン王国とレトゥアール帝国の戦争はそう遠くないうちに起こるだろう。
今はその充電期間だ。