◆セドリア川の決戦
「ヴェルマー卿、此度の助力はご苦労だったな。その英断がなければ我が軍は更に多くの兵を無駄に失うことになっていただろう」
「我らも長年の宿敵であった帝国と手を結ぶ大公家には辟易していましてなぁ、フフフ」
オストアルデンヌの領主居館で、ヴェルマーとグラハムは初めて向き合っていた。本来の領主は今回の戦いに参陣しており、居館には不在だった。
ヴェルマーの軽薄そうな微笑と不気味なオーラは、グラハムにとって気に食わないものだった。
グラハムは一応感謝を述べるものの、内心でははらわたが煮えくり返るほどの怒りを蓄えている。この戦いは勝利が確定している戦いであり、グラハム自身も「どのように勝つか」以外の考えは備えていなかった。
本来ならば圧倒的な武力と士気によって最小限の犠牲で勝利するつもりで、大公が表に出てきたのはむしろ僥倖だとほくそ笑んでいた。
ただ、結果は少なくない兵を失う結果になってしまっている。
その要因の一つは、あまりにも貧弱なヴェルマーの率いていた兵だ。ヴェルマーの加勢は確かに敵の陣形を崩し、明らかな動揺を生じさせた。大公国の反大公家勢力を味方に取り込むこともできた。
でもそれは、大公国が帝国に鞍替えした当初から侵攻を見据えて懐柔していたから、それを使わない手はなかったというだけである。グラハムが苛立っていたのは、その労力に見合っているとは言い難いと感じていたからだ。大公国の兵を弱兵だと罵りながらも、ヴェルマー子爵軍の弱兵ぶりはそんな中でもとりわけ目立っていたことを突きつけられ、グラハムは呆れ返った。
そもそも、用が済んだらヴェルマーのことは始末するつもりだった。だから、本来はこんな場所でグラハムが謙る必要などどこにもない。利用価値がまだあると思っていたから、こうして表面上は敬うような姿勢を見せていただけである。
一方で、ヴェルマーの立場は、もはや王国の援助なしには立ち行かない状況だった。次期大公に据える代わりに提示された条件も、かなりの譲歩が求められているものだった。
「しかし拘留した公女を逃すという失態を犯してしまいましてなぁ。誠に面目ない」
ヴェルマーに味方した貴族が捕縛していた公女が脱走していたのは、正直なところヴェルマーの軍勢があまりに弱兵だったという事実より、何百倍もグラハムを苛立たせていた。
公女アルシアナの身柄さえ確保すれば、大公家は簡単に崩壊するはずだったからだ。アレオンの生死も不明である現在、大公国の反抗心をへし折るにはまだ足りない。
大公が死に絶えた事実を証明できればまだ大公家に付いている貴族の心も動くだろうが、死体を発見することはついにできなかった。どこかに逃された可能性もあり、だからこそアルシアナの身柄確保は重要事項だった。
それを大したことのない失態と言わんばかりにヘラヘラと笑うヴェルマーをグラハムは思い切り怒鳴りつけたい気分に駆られるが、まずは邪魔な大公家を打倒することが最優先だと、固い克己心を腹に宿す。
「過ぎたことを悔いても仕方ない。アルバレンに籠った敗残兵を叩けばいいだけのこと」
グラハムは気の良さそうな笑みを浮かべてヴェルマーに告げる。本心とはかけ離れた所作を見せる様子に一切の異変を感じとることもなく、ヴェルマーはホッとした表情で胸を撫で下ろした。
ヘンリックの読み通り、グラハムはアルバレンの攻略に興味はない。あの場所こそ、王国にとっては無益な土地だからだ。その上、大陸随一の堅牢な城塞都市となれば、ますます狙う必要などない。もっとも、アルバレンの近郊にはホップが自生しているが、価値の大きさは現状大公国側しか知り得ない。
王国にとっては、銀山さえ手に入れば良いのだ。エルドリアのすぐ北側にある銀山を獲るためには公都を落とす必要がある。
「エルドリアの東には迎撃用の砦があると聞くが、他に罠などはあるのか?」
「そういったものは知りませんなぁ。全て帝国の皇子によって勝手に作られたもので。まったく、帝国の輩の横暴は困ったものですなぁ。フフフ」
やれやれと呆れたような仕草で答えるヴェルマーに、グラハムは内心で舌打ちする。
エクドールの貴族ならば知っていて当然のはずだと踏んでいたが、期待外れの結果に溜息を吐きそうになる。大公国内部の機密情報がヴェルマーからは全く出てこない。
それだけ軍事に無関心だったのだろう、と逆にヴェルマーに対して呆れ果てていた。
とはいえ、大勢が決した今、内部から突き崩していく必要もない。一大決戦で敗れてもなお大公家に与するような貴族に調略が通じる可能性は高くなく、王国軍の士気も低くない。エルドリア城も籠城向きの城ではなく、砦からの迎撃さえ撃ち破れば勝利は確実だった。
「兵を大きく減らして追い込まれた大公家が、再び打って出るような真似をするとは思えん。この国の冬は長い。雪が積もり始める前に戦を終わらせねばならん。ならば悠長に構えている暇はないな」
「我らは如何すれば?」
(ふん。仮にも大公家の後釜に収まらんとする人間が、ここでいとも簡単に全権をこちらに委ねるとはな。大公家がこれからも王国で強い存在感を持ち続けるためには、お前の手腕がモノを言うのだぞ。全く愚か極まりないが、こちらとしては好都合か)
グラハムは小さく鼻で笑いながら、傀儡としての適性だけは評価する。
「後方支援をしてもらおう。先の戦いでの消耗は貴殿が特に激しかったであろう」
本心から言えば、ヴェルマーに味方した貴族たちの兵を矢面に立たせて戦力を削り、エルドリア奪取後の大公国支配を楽にしたいところだが、先の戦いでの無様な姿を見てしまっては、戦況次第でかえって王国軍の士気を下げてしまいかねない。
「お気遣い痛み入りますなぁ」
ヴェルマー自身もあの戦いで相当な恐怖を味わったために、あからさまに胸を撫で下ろしている。
(くれぐれも余計なことをしてくれるなよ)
グラハムは胸中の濁りを誤魔化すように、瞑目しながら静かに深呼吸を繰り返し、出陣に向けて集中力を高めることに専念した。
◆
オストアルデンヌの失陥から三日後。王国軍が西進を開始したという報せが届く。
緊張が高まるエルドリア城の一室にこの局面においても王国軍に立ち向かうことを選んだ貴族たちが勢揃いしていた。選んだというのはやや語弊があるかもしれない。貴族としての面目が、逃げることを食い止めていた。
「アルバレン卿、やはり籠城ですか?」
「いや、籠城戦を選ぶべきではない。敵を公都まで引き込んでしまえば、市街戦は避けられない」
セレスがその発言を否定する。損害の大きさを度外視し、王国軍を退けるという一点のみに注力すれば、可能性はあるかもしれない。最初から戦闘を前提として成立した城ではないのだから、当然街が戦場になる。だがそれは文化と財産の喪失であり、復興にも多額の費用が必要になる。
「無論、無策なら惨敗は必定だ。だから俺が弱兵を勝たせるための策を授ける」
俺は補足するように告げる。その策、というものが余程気になるらしい。全員が固唾を呑んでこちらを見ている。
「唐突だが、セレス。この戦いの勝利条件はなんだ?」
「はっ? 王国軍を退けることでしょうか?」
「それは大前提だ。どうすれば王国軍が退くと思う?」
「全軍を壊滅させる、でしょうか」
「それは過程ではなく結果だ。士気の上下、補給の遮断、退路の封鎖。これらは戦線の維持に多大な影響を及ぼす。だが一番確実に敵を敗走させる方法は、敵大将の討ち死にだ」
「……なるほど」
王国軍大将のグラハム・ロンベルクは王国において傑出した権威を持っており、討ち取れれば王国にはたちまち激震が走る。
「だからこの策は、敵大将グラハム・ロンベルクを討ち取ること、その一点に専念したものだ。敵大将さえ討ち取れば、何万の大軍であろうと瓦解する」
「しかし敵大将の首を取るなど、そう易々と成せるものではございませんぞ」
「そのための策を今から授ける。一言一句聞き逃すな」
この場にいる全員が期待の帯びた視線を向けてくる。むず痒く感じるとともに重圧が押し寄せてくるが、それを悟らせぬよう振る舞うことについて、この身体は他の誰よりも上手かった。
◆
私は使用人という立場にあって、エルドリア城に帰還してから殿下に命じられた道具の調達に奔走していた。王国軍に敗れたという情報は、残念ながら街中に広がっている。殉職者の遺族が、遺体を前にして頽れているのを何度も見た。
いや、まだ遺体が帰ってきただけ良かったのかもしれない。大勢は遺体と対面すらできず、訃報を無機的に告げられるだけだったから。それを見て、胸が苦しくならないはずもない。殿下も気丈に振る舞ってはいるものの、少なからず胸を痛めていることだろう。
同時に、力になれなかった自分の無力さに打ちひしがれた。回復魔法は後方では役に立っても、前線で戦うことはできない。武芸の心得が全くないわけではないものの、戦場で殿下のお傍にいることが逆に足手まといになると理解はしている。だから後方支援に徹するつもりだった。
だけど、やっぱり私は戦場でも殿下の傍に控えていたい。
殿下はアルシアナ様の言葉で奮起し、この状況を打破しようとなさっている。私は明らかに弱っている殿下に対して、かける言葉が見つからなかった。だからこそ、今度こそ殿下の支えになりたい。一緒にいたからといって、何かできるというわけでもないけれど、後方で指を咥えて見ていることなんてできなかった。
アルシアナ様は前線には出られない。だから、私が出られないアルシアナ様の代わりにならないと。
そんな想いを胸に抱え、城下を足早に進んでいると、前から何十人もの男が出てきて、私の進路を塞いだ。年齢層は高めで、その手には使い古された槍や剣があり、木でできた手作りの盾を全員が手にしていた。
何事か、と思わず身構える。ただ敵意は一切感じなかったので、服の下に忍ばせている短剣には手をかけなかった。
「おいあんた、ヘンリック皇子のお付きの使用人だよな?」
「はい。シャロン・ボンゼルと申します」
足を揃え、お辞儀をする。帝国にいた時に叩き込まれた所作が余程珍しく映ったのか、呆然としていた。
「いやぁ、申し訳ねえ。あまりに綺麗で見とれてしまってな。しかもとんでもねえ別嬪ときた。ヘンリック皇子も隅に置けねえなぁ」
別嬪、と言われて悪い気はしない。殿下の隣にいても恥ずかしくないように、容姿については常に気を遣っている。それが認められた気がして、隣にいて殿下が少しでも誇らしく思ってもらえる気がして、少し嬉しかった。
「急に声掛けちまってすまねえな」
照れながら頭を掻く男性の後ろに目を向けると、見覚えのある顔が近づいてきた。
「貴方はあの時の」
コタツの作業所にいた下層街の長だった。
「おお、覚えてくれていたか」
「それで、私に何か用でしょうか?」
少なくとも殿下を害する人間ではないと確信が持てて、少しよそよそしかった振る舞いを改める。
「俺たちは有志で集まった男どもの集まりなんだがよ。王国軍が迫ってきたと聞いて、いてもたってもいられなくなってな。俺たちで公都を守りてえ、そう思ったんだ」
一般市民については、危険が及ぶ前にエルドリアを脱出せよと触れがあったはずで、事実慌ただしく出立の準備を進めている人も多い。
「でも皆さんは戦闘経験もロクに積んでいない、一般の方々ですよね? わざわざ王国軍に立ち向かおうなんて、あまりに危険です。その心意気は、殿下にお伝えしておきますから、早く逃げてください」
「お嬢ちゃんはどうするつもりなんだ?」
「もちろん、どんな結果になろうと殿下に最後まで付き従います」
私はそうしないといけないし、そうしたいのだ。
「お嬢ちゃんですら危険を承知で戦いに赴こうってんだ。お嬢ちゃんは俺たちから見りゃあまだまだ子供だ。そんな子供が残ってるんだから、俺たちみたいな大の男がそそくさ逃げるわけにゃいかんだろう。なあ?」
そう言って、後ろに列立する男たちに同意を求める。当然のように深く頷き、そして笑い合った。この人たちは、おそらく私でも簡単に倒せてしまうだろう。戦場が恐ろしいものだということも、頭では理解しているはず。それを全く表に出さず振る舞っている。とても勇気のある人たちだ。
「おっと、妻と子供ならもうアルバレンに避難させたぜ。それに俺たちの街を守ろうってやつは、ここにいる人間だけじゃない。まだまだたくさんいるんだぜ」
「だからって……!」
その気持ちだけで十分だと、私は突っぱねようとした。でも私の心を読んだのか、先頭に立っていた男は、懇願するように深く頭を下げる。
「頼む。皇子に会わせてくれ! どうしても戦いに参加してぇんだ! 俺たちゃヘンリック皇子に返しきれねえ程の恩があるんだ。それを返せぬまま、そそくさと逃げるなんてカッコ悪いだろう?」
ヘンリック皇子のため、その言葉を聞いて私は断ることができなかった。
殿下のやってきたことに救われた人が、こんなにもたくさんいる。殿下のために命を懸けてもいい、そう思える人がたくさんいる。その事実に胸が熱くなる。
要介護者の母親に付き添っていたために困窮していたが、家でもできる仕事を斡旋してもらい、生活を立て直せたという人。
鉱山労働者で体調を崩していたが、殿下の作った保障制度のおかげで家族の未来を守れた人。
殿下が助言を行ったおかげで、生活環境が劇的に改善したという、とある男爵家の領民。
様々な想いを抱えた人々が、殿下のために尽くそうというのだ。無下にするなんて、私にはできなかった。そんな彼らの熱意に圧せられ、代表の一人を殿下の許へ連れて行くと、返ってきた反応は意外なものだった。
「逃げろと言ったのに愚かな奴らだ。それは蛮勇であって、勇敢ではない。こき使われ、使い捨てられる覚悟をしておくことだ」
殿下は足手まといだと切り捨てることはしなかった。満更でも無さそうに見えるのは、私の気のせいだろうか。
「覚悟なら出来ているぜ」
「ならば貴様らを囮として使う。せいぜい役に立つことだ」
「で、殿下。流石に囮は荷が重いのでは?」
「ふん。戦えない人間を活かすなら、役回りなどそれぐらいしかない」
「……戦わせない、ということですか?」
戦えないなら戦えないなりに、役に立てることがある。殿下はそう言いたいのだろう。私も殿下の傍にいて、戦力として役立たない代わりに出来ることがあるはずだ。
「戦えるのなら前線で使うんだがな」
殿下は決して貶すようでも蔑むようでもなく、呆れるように呟く。けれどもそこに否定的な色は一切見当たらなかった。
◆
「ヘンリック皇子、私にできることはないかしら」
戦の準備を進める最中、アルシアナが俺にそう尋ねてきた。
「前回のように城を出てきたせいで敵に囚われる、なんてことにならないよう城に籠っていることだな。そもそも魔法が使えるというならいくらでも抜け出す手段はあっただろうが。なぜしなかった」
俺の足を凍らせて身動きを取れなくしたのだから、襲われた時に幾らでも対処する方法はあったはずだ。
「私の魔法は対象を認識しなければ発動できないの。いきなり襲われて、使う機を逃してしまったわ」
「油断しているからそうなるんだ」
「ええ、私が迂闊だった。反省しているわ」
やけに素直で、ハキハキと言葉を紡ぐ。
「自覚しているなら大人しくしておくことだ」
「ならせめて今この時だけでも、できることはない?」
「……」
無いことは、ない。というより、自分でやることも憚られ、恥を忍んでセレスに頼もうとしていたこと。それが兵たちの鼓舞による連携の強化だった。実は最初から、大公国軍の連携はとても取れているとはいえない状況であり、先の戦いでは兵たちがこちらの指示を迅速に遂行できなかったり、そもそも言うことを聞かない、といった問題が噴出していた。
その主因が騎士団である。国の伝承で崇められているリンドヴルムと呼ばれる龍。それが描かれた紋章を胸に携えた大公国騎士団の傲慢な態度が起因して、一触即発の空気を醸していた。大公国騎士団には漏れなく士爵という地位が授けられ、プライドが高いものばかりで構成されている。
先の戦いでは、アレオンが自ら出陣して気概を見せることで軍を団結に導けたつもりになっていた。しかしそれはあくまで「軍上層部」に対してという、限定的な影響でしかない。アレオンの人柄を知る人間は男爵以上の限られた者だけで、士爵以下の人間にとってアレオンが出るということはなんら特別なことではない。むしろ当然とすら言えた。
アレオンは生まれてこの方支配層に君臨してきた。下々の気持ちなど、酌んでいるようで実は殆ど理解できていない。娘であるアルシアナを下層街に近づかないよう配慮していることからも、潜在的な忌避感はあるはずだ。騎士団の連中が原因であるとも理解していなかった。むしろ兵たちの方に問題があると考えていたはずだ。だがヘンリック本人が生粋の皇族であったとしても、宮籐稔侍は違う。庶民的な思考を持ち、庶民の立場に立って物事を考えられる。だからこそ、俺は大公国軍の問題点を正しく理解できていた。
「今、軍の士気は著しく低い。なぜだかわかるか?」
「あれだけの敗北を喫した後だもの。勝ち目の薄い戦に挑む軍の士気が上がらないのも無理はないわ」
「それだけじゃない。逃げ場のない戦場、すぐそばで散っていく味方、鼻腔を突く血生臭い空気、膨れ上がった殺意の応酬、いつ死ぬかわからないという恐怖。そんなものを身をもって感じて、命辛々逃げ帰ってきたというのに、また野戦に駆り出される? 冗談じゃない。それが本心だ」
国を守ろうという意思、それだけじゃどうにもならない空気に触れてしまったのだ。
最悪、機能する寡兵だけを用いて戦うことも検討しているが、それは大きく勝率を押し下げることになる。だから、士気の向上は不可欠だ。
「……そんな将兵を、戦場に出ていない私がどうにかするなんて、至難の業ね」
でも、できないとは言わない。それがアルシアナの精神力を物語っていた。
「付いてこい」
俺は出陣を待つ兵たちと指揮官の士族たちをエルドリア城内の広場に集めるようコンラッドに告げる。いつでも出陣できるよう常時装備を整えている兵たちは、十分とかからずに集結した。俺は姿を現さず、広場を臨む部屋の窓から兵たちを見下ろす。
「今のこいつらを見てどう思う?」
俺は目の前の兵たちを指差して、アルシアナに問いかける。
「……隊列がバラバラだわ」
「それは大した問題じゃない。十分な訓練を受けていない徴集兵に寸分と違わない隊列を組めというのは酷だろう。むしろ声をかけてすぐに集まったんだ。いつでも出陣ができる準備が整っていると証明したも同然。褒められたっておかしくはない」
アルシアナは納得顔で小さく頷き、再び兵たちの方に目を向ける。
「……なんだか兵たちが指揮官の方を睨みつけているような」
「そうだ。相手は士族とはいえ仮にも貴族だ。そんな人間を前に、平民の徴集兵が反抗的な態度を示している」
「全く団結していない、ってこと?」
「団結していないどころじゃない。険悪だ。セレスのおかげで上層部はまとまったが、騎士団以下の連中はそうじゃない。なぜこうなっていると思う?」
「……兵たちが反感を抱くような原因を騎士団が作っているのね」
「その通りだ。権威を笠に着て身分の低い兵を見下している」
「こんな時にどうして……」
無駄にプライドが高いのだ。上層街には貴族が城下に置いている屋敷の他に、大公国騎士団の人員が居を構えている。いわゆる士爵の地位を得ている人間だ。高慢な騎士団の連中が一方的に身分の低い徴集兵を侮り、時に詰ったりもする。
下も意固地になっている。こんな奴らに従えるかと。騎士団もその無駄に高いプライドのせいで馴れ合う気などサラサラ無い。
「貴様にその気があるなら、奴らを説得しろ」
「……私に?」
「できることをやる、そう言っただろうが」
アルシアナは、突然任された重役に一瞬固まった。
「……分かったわ。私がなんとかしてみせる」
だがすぐに決意を改めたように拳を握る。広場に移動したアルシアナは、小さく息を吐いて、壇上に立った。
壇上を見つめる視線ははっきり言って総じて冷たかった。アルシアナはそんな異様な空気を前にしても、臆することなく、声を震わすこともなく、落ち着いた口調で語りかけていく。
「突然集めてごめんなさい。私は第一公女のアルシアナ・ラプトリカ・ラ・エクドール・ソルテリィシアよ」
公女としての威光が手伝ってか、敵意は全く窺えない。ただ、アルシアナの姿を見てどこか諦念的な空気が作られたのを感じた。騎士団の連中と仲良くしろ、とでも言いに来たのだろうと考えたはずだ。
兵たちに対して労いの言葉をかけ、励ましていたアルシアナも所詮は貴族の味方なのだと、兵たちが落胆を覚えているのが伝わってくる。
「ここにいる全員が、この軍の問題を理解していると思うわ。でも死地に足を踏み入れる貴方たちに、今この時だけは仲良くしてほしいだとか、頑張れだとか、そんな軽薄な言葉を言うつもりはないの」
その言葉に、この場にいる全員の目が真剣味を帯び、次の言葉を待つように視線を送った。
「まず、貴方たちに感謝させて欲しい。この国のために戦ってくれて、そしてこれからまた戦おうとしてくれて本当にありがとう」
ひたすらに真っ直ぐな感謝。それは敵意すら孕んでいた広場の劣悪な空気を、一時的に和らげた。
「貴方たちは強大な敵に一度立ち向かった。それがどれほど勇気のいることか、貴方たちは分かっていないわ。その勇気の尊さに、貴賎はないはずよ。今だけはそれを互いに認めて欲しい。国の存亡をかけた一大決戦を前にしても、今ここに立っている。その事実だけでも私は貴方たちが誰よりも精強だと思うの」
決して張り上げた声ではない。しかし強く、気持ちのこもった、ここにいる千余人の耳に確かに届く声だった。
戦力も練度も、精神力も、王国には遥かに及ばないだろう。それでも、ここに立っているということは、逃げずに立ち向かう勇気があるという証左だった。
「そんな貴方たちの強さを、私は信じてる。だから戦が終わるその時まで、ここに留まることにした。私は皆に、この命を預けるわ」
兵たちもアルシアナという存在の重要さを知らないわけではない。予めアルバレンに避難していれば、命を失うことはまず無いはずだ。それをしないと宣言したのは、軽い気持ちで前に立ったのではないのだと、兵たちに証明する言葉になった。
この戦いで敗れてエルドリアを失えば、その先に未来はない。経済の中心地であるエルドリアを失陥することは、再起が極めて困難になることを意味するのだ。だから勝利のみを信じて、兵たちに命を預ける。それが、アルシアナの決意だった。
「怖くは、ないのですか?」
沈黙の中、指揮官である士族の一人が、恐る恐る尋ねる。命の危機を進んで受け入れようとするばかりか、それに対する恐怖心を外に一切漏らしていない。そんな堂々とした立ち居振る舞いに、純粋な疑問を抱いたのだ。
「怖くなんてないわ。死ぬかもしれない、なんて思う弱気な自分を私は捨てたから」
「捨てた……?」
恐怖は捨てようとして捨てられるものではない。信じるだけで誤魔化せるものでもないのだ。ましてや、まだ年端も行かない少女がさも飄々とすら見える口ぶりで言い放ったとあって、その姿は明確に異彩を放っていた。
「そう振る舞えるくらいに、貴方たちの勝利を信じているということよ。でもね……」
そこまで言って、一旦呼吸を整える。
「私は欲張りだから、敵を追い返すだけじゃなくて、この国の誰もが未来に希望を抱けるような勝利を届けたい。だから叩きのめしましょう。二度とこの国に攻め入ろうと思わないくらいに」
アルシアナは打って変わって、好戦的な視線を振り撒く。それに呼応するかのように兵たちは口角を上げ、互いに顔を見合わせた。
「勝つしかないのなら、最良の勝ちを目指しましょう! 弱兵の誹りを受けるのは、今回で終わりよ。大陸最強は過去の栄光ではないのだと、力を合わせて大陸中に知らしめましょう!」
前向きな感情で形作られた鼓舞の言葉は、この場にいる全員の心に響いた。「オオォーー!!」と怒号のような声が上がる。それは反射的に耳を塞ぐほどの声量であった。
俺では騎士団員と徴集兵の対立関係を解消することなんて絶対にできなかった。セレスですら、難しかったかもしれない。
改めて、アルシアナという存在の大きさを再確認する。同時に、大公としての素質すらも感じさせるものだった。兵たちは初代大公・アレクシスの姿を想起したかもしれない。
もちろん、アルシアナの声かけだけで、騎士団と徴集兵の確執が直ちに解消されるわけではない。
だが今この時に限っては、全員が一つの方向を向いた。少なくともそれは確かだった。
◆
王国軍は五百の兵をオストアルデンヌに置き、四千の兵でエルドリアに迫りつつあった。
五百の兵を残したのはヴェルマーら大公国貴族の目付役のためでもあった。グラハムが国を裏切った人間を信用するはずもない。寝返りとはそういうものだ。ましてや、大公国には帝国という後ろ盾がある。帝国も大公国に対して対等などとは思っておらず、王国と同様に銀山に価値を見出している。だから帝国が大公国の力を殺ぐためにヴェルマーに王国へ寝返らせた振りをさせ、油断しきったところに奇襲させる腹積りだった、なんてことも十分にあり得る話だ。
王国軍の進軍が予想よりもだいぶ鈍重なのは、先の戦いで仕掛けられていた罠を警戒しているからである。
それ以上に、グラハムが懸念として抱いていたのは、エルドリアの東側を流れるセドリア川の存在である。エルドリアに辿り着くためには、急流で度々氾濫するこの川を渡る必要があった。
当然ながら川に架かる橋は大小問わず全てが王国軍の進軍に備えて撤去されており、当然の動きだと理解はしても、無駄な時間稼ぎだとグラハムは下唇を噛んだ。
「大公国軍はどう待ち構えている」
「どうやらエルドリア城近郊の砦に集結しているようです。詳しい兵数は定かではありませんが、少なくない規模かと」
グラハムは奇襲の可能性も考慮し、斥候に前方を窺わせていた。セレスの率いる軍がエルドリア城に最も近い砦に入り、王国軍の襲来を待ち構えていることがグラハムに共有される。
「そこにセレス・アルバレンの姿は?」
「ございました。おそらく本隊を率いているものかと思われます」
「やはり砦で迎撃するつもりか。野戦で敗戦したとなれば、当然の判断だな」
先の失策により消極的になっている。グラハムはそう確信した。同時に奇襲への警戒が微かに緩む。
「いかがなさいますか?」
「無論、このまま進んで川を渡り、砦を落とす。全軍、前へ進め!」
士気は低くない。緒戦に勝利したことで、最初は浮き立っていた将兵もだいぶ落ち着き、結束していた。
満を持して渡河を始める先鋒を、中陣にいるグラハムは冷静に見つめていた。斥候の報告通り流れは速いものの川床自体は深くなく、淡い安堵の息を漏らす。
(一人が渡りきるのにおよそ十分、といったところか)
焦って速く進んだことで足を掬われるのも馬鹿らしい。グラハムはそう考えてゆっくりと進むよう通達していた。
全体の半数が渡りきったのを見て、グラハムは渡河を始める。
しかし、川の中間あたりを過ぎた時、軍の前方と後方から喫驚が上がる。
「な、何事だ!」
目を向けると、部隊が分断された王国軍を大公国軍が襲っていた。
(奇襲、だと!? くっ、セレス・アルバレンが『本隊が砦で待ち構えている』と思い込ませるためのカモフラージュだったとでも言うのか!)
そんな策を考え、実行できる人間に、グラハムは一人しか心当たりが無かった。
「ヘンリック、レトゥアール……!」
舐めていたわけではない。だが、上手にあるとも思っていなかった。
(認めなければならんな。一度のみならず、二度もあの若造に嵌められたことを)
自分の甘さを呪いながら、声を張り上げて指示を送る。しかし、その声は虚しくもかき消された。
◆
主要な指揮官を中陣に固めていた王国軍は、前方と後方を奇襲されたことで統制を失っていた。
「ひ、卑怯だぞ!」
そんな罵声が何処からか響き渡る。
(卑怯? 寡兵で戦うのならば卑怯にでも戦うしかない。明瞭な敵意が奔流する戦場において、「正義」などどこにもないのだからな。あるのは薄汚れた人間が互いを斬り付け合う、最も正義に反したもの。ただそれだけだ)
ヘンリックは冷めた心であしらった。煩雑な戦場を見てもなお、平静を保つ。内心は吐き気すら催していたが、ヘンリックがそれを周囲に悟らせるはずもない。
耳朶を打つ怒号、槍が人の肉を突き破る生々しい音、そして鮮やかに舞う赤黒い鮮血。不意を衝けたことで、敵の方が圧倒的に被害は多く、優勢に事は進んでいるように見える。
それでも、焦りはつのる。
ヘンリックは上流を見つめながら、機を待っていた。
示し合わせていたとはいえ、川の上流から流した罠をグラハムにタイミング良く見舞うのは容易ではないのだ。
「大丈夫ですよ」
ヘンリックの不安な胸中を想像して、シャロンは耳元で囁く。ヘンリックはシャロンの志願を断りきれず、渋々同行を認めたのだ。
「ヘンリック様の策は、必ず成功します」
「成功してもらわないと困る」
しかし兵力差は如何ともし難く、やがて王国軍は互角から劣勢へと戦況を変えつつあった。劣勢に転じたら撤退するよう命じていたにも拘わらず、乱戦において冷静な判断力は持ち合わせておらず、撤退の機を逃してしまっていた。首筋の静脈が浮くのが分かり、動悸は時を刻むにつれ激しくなる。
だが次の瞬間、私兵隊の数人が乗った筏が姿を現す。ヘンリックは何とか間に合ったかと途端に胸を撫で下ろした。
◆
突然、上流から筏に乗った兵士が近づいてきて、グラハムは目を丸くする。最初から渡河中を襲うことが狙いだったのかと直感し、腰の剣を抜き身構える。筏に乗った兵から得体の知れない幾つもの玉が投げつけられ、グラハムは反射的にそれを叩き切った。
刹那、破裂した玉から大量の粉が舞う。
その粉は瞬く間にグラハムの顔を覆い、それが目、口、鼻に入り込んできた。満足に声すら出せず、グラハムは咽せる。目を洗浄するため川に潜り、視界の改善を試みるも、宙に舞っている粉のせいで周囲の視界は依然晴れず、粉を再び吸ったグラハムは再び咽せた。
「な、何だあれは!!」
身動きの取れないグラハムの耳を、雑兵の上げた声が劈く。上流から迫っていたのは、大量の火をまとった筏であった。渡河中の兵は一目散に逃げようと試みた。本来ならばグラハムを守るはずの側近も総じて貴族である。第一に保身が頭を過る中で、グラハムの身を案じる余裕など持ち合わせてはいなかった。
そうしてグラハムは、未だかつてない混乱に支配される。
視界が奪われたまま迫り来る得体の知れない何かから逃げることなど難しかった。
(くっ、無念だ。大公国如きに敗れるとは! ヘンリック・レトゥアールを甘く見ていた報いがこれか……)
グラハムは自虐の念と共に、死を覚悟する。だが死への恐怖以上に、グラハムは真っ先に戦場へ連れてきた息子の身を案じる。後方の安全な場所から大局を見て勉強するように言いつけていたため、生き延びる可能性はあるはずだと、微かな希望に縋った。
(レグナルト、後の事は任せたぞ)
最後にそう念じ、グラハムは激流と共に火の筏に呑み込まれていった。