◆再戦の決意
損害はひどいものだった。今回の敗戦でおよそ三割の兵を失い、アレオンも生死不明という状況。とはいえコンラッドのおかげで、少なくとも今の時点ではエルドリア城に想定以上の兵が命を繋いだ状態で辿り着けていた。
ただ無理な撤退によって体力的・精神的な負担は重くのしかかっており、今すぐに王国軍を再び迎撃する余裕はない。
それは王国軍も同様であり、ここまでの行軍で疲労が蓄積していることもあって、オストアルデンヌに入った王国軍はしばらく休息を取るはずだ。
そうは言っても、猶予は数日程度だろう。その間にガタガタに崩れた指揮系統と、今後の方針を共有しなければならない。はっきり言って厳しい状況だ。
とはいえ、シャロンが傷を負った兵を治療してくれているおかげで、なんとか一定数は再戦に駆り出せそうだ。
それでも戦前とは比べものにならないくらいに絶望的な状況であることに変わりはない。だというのに、俺は自分でも意外なほど前向きになれていた。
「コンラッド、よくぞこれだけの兵を連れて帰ってきてくれた」
「すべて私兵隊の皆々の奮戦のおかげです」
私兵隊の獅子奮迅の働きにより、王国軍の先鋒を食い止めることができた。コンラッドが恐慌状態の将兵の撤退誘導に尽力してくれたことで、無傷で帰還できた兵が多くいる。もしコンラッドにアルシアナの救出を頼み、俺が撤退誘導を行っていたら、被害は嵩んでいただろう。
「流石は貴様が見出し、俺が認めた強戦士だ」
「しかし王国軍はすぐに追撃してくるでしょう。いかがなさいますか?」
「これからの戦いは少しのミスが命取りになる。ガタガタになった指揮系統を整えるのが最優先だ」
俺はまず、アレオンに代わって大公の代役を務めるセレスの許へと向かった。
エルドリア城の謁見の間。本来ならばアレオンが座っているはずの椅子に、セレスはいた。茫然自失といった様子ではないが、正常とは程遠い雰囲気だった。俺が足音を立てて近づいても、反応を示さない。
「セレス・アルバレン。そんなところで何をしている」
「……ああ、ヘンリック皇子」
声をかけてようやく、セレスはこちらに気づく。背中が丸まって老けて見え、生気を吸い取られたように焦点の定まらない目。その様子に、心が痛んだ。
「俺は敗れた。完膚なきまでにな。誹りはいくらでも受けるつもりだった。だというのになんだその気の抜け切った顔は」
分かっている。もし今回の戦争で敗れたという事実だけがあったのなら、セレスは折れてなどいなかった。主君であり、親友でもあり、アレオンが誰よりも信頼し、セレスが誰よりも忠誠を捧げていた男。そんな誰よりも近しい存在だったアレオンが行方知れずという事実。そしてアレオンの出陣を止められず、側で支えられなかったことへの無力感。
それらが今のセレスを形どっていた。
「誹り? なぜ私が皇子を責めなければならないのでしょう」
「俺の策が全て裏目に出た。強引に反乱分子の一掃を試みたこと、ルドワールに与した貴族を許したと言いながらあからさまに冷遇して反感を高めたこと、アクロン・ヴェルマーが怪しいと認識しておきながら、大公家の縁戚だからと接触を怠っていたこと。挙げればキリがない」
「皇子が悪いわけでは無いのです。皇子の策に危険があると分かっていて、放置してしまった私が悪い。いや、違いますな。これでは皇子に責任を転嫁しているも同然。私が余計なことを言って皇子の貫いてきたものを崩してしまったことが悪かった。私が口を挟まなければ、今よりはもっと状況は良かったはずなのです」
互いに後悔と自責の言葉を投げ合う。
「皇子は前を向いておられるようですな。私よりも随分若いというのに、本当にお強い」
「前を向かざるを得なかった、と言うのが正しいかもしれんな」
セレスは首を傾げて困惑の表情を浮かべる。
「公女は俺になんて言ったと思う? このまま諦めるなら俺を殺すと言い放ったんだ」
ハハ、とセレスが苦笑いを見せる。俺が脅されて狼狽する光景でも思い浮かべたのかもしれない。
「……俺も貴様と変わらん状態だったからな。全てを諦めて、その場で膝を突きたくもなった。だがあいつはそれを許さなかった」
「……父親を失った可能性が限りなく高いと知っていて?」
「まだ生きているという希望も捨てていないようだが、覚悟はしている様子だった。少なくとも今、公女は誰よりも明るく振る舞っている。傷を負った兵に、恐怖に震える貴族たちに声を掛けて励ましている。誰より塞ぎ込んでいてもおかしくない奴が、明るく振る舞っているんだ。空元気だと言えばそこまでだがな」
「本当にお強い。さすがはソルテリィシア家の血筋を引く公女殿下というべき精神力ですな」
「貴様もアレオンもその血を引いているはずだろうが」
血を引いているのなら、セレスやアレオンも同様に屈強な精神力を備えていると言えるはずだ。アレオンは信頼していたルドワールの裏切りにひどく心を乱し、反乱の鎮圧にも関わろうとしなかった。セレスも、こんな風に打ちひしがれているようでは、精神力に秀でているとはとても言い難い。
「おっと、知りませんでしたかな? ソルテリィシア家は代々、女性は武勇と精神力に秀でた戦士に成長するのです。初代大公のアレクシス様も女性でした」
「アレクシスが女だったことは知っていたが、そもそも王国貴族の当主は男子にしかなれなかったはずだろう」
女性であるアレクシスが当主になれた理由についてはヘンリックが調べても真相は不明だった。元来、ヴァラン王国の爵位継承は男子が最優先とされる。前当主に娘がいても三親等以内に男子がいれば、そちらが優先されるのだ。娘婿が当主になるには、出身の家の爵位が上回っていることが必要になる。大公家以上の爵位は王家しかなく、ヴァラン王国の王族が婿としてやってくる場合以外は、三親等以内の男子が最優先とされる。
王国との関係を考えても、大公家に婿入りする人間が当主になる可能性はほぼなかった。だからこそヴェルマーは自分の息子が次期大公になれると確信していたのだ。
「本来ならばそうなります。ただアレクシス様があまりに功績を立てすぎた。何せ、敗北必至の戦争で帝国を一方的に壊滅させ、王国の権威を押し留めたのですから。王国もその功績を認めて大公の地位を与え、アレクシス様は特例で当主の座に座ったのです。まあ、武芸ばかりに傾倒して政治はからっきしだったようですが」
セレスは苦笑いを浮かべる。
「王国はアレクシス様のことを『翠花の剣聖』と呼んでいたそうです。翠色の花飾りを胸に付けていたことから翠花、と」
「剣聖、か。公女もその系譜を継いでいるというわけか。納得ではあるな」
アルシアナは毎日剣の鍛錬を欠かさず行っており、遠目から見ていても光るものを感じてはいた。アルシアナがアレクシス同様に剣の才能を持っているというのなら、しっかりとした稽古をつければ大きく飛躍するかもしれない。
「アル様がその血を引いた女傑たる器にあるとしても、私にとってはまだ幼き少女も同然です。娘同然の存在でもある。そんなアル様が父の死に嘆き悲しむことなくそれほど気丈に振る舞っているとあらば、こんなところで途方に暮れている場合ではありませんな」
セレスの瞳にようやく光が灯る。
「あいにくと俺だけでこの体制を立て直すのは不可能だ。セレス・アルバレン、貴様の力を借りるぞ」
「王国を、必ずや打ち破りましょうぞ」
そもそも、完膚なきまでに敗れたことで一度信頼を失った俺が、もう一度策を押し通すには幾つも障害がある。兵たちの間にも、疑心暗鬼が広まっている。その障害を壊すには、セレスの力が必要だ。
◆
「皆の者、よくぞ無事帰ってきてくれた」
一様に沈痛な面持ちを浮かべる貴族たちに対して、セレスは忸怩たる心情を感じさせない落ち着いた声音で告げる。
俺は部屋の隅でおとなしく佇んでいた。この戦況において貴族たちをまとめ上げられるのは、セレス以外にいない。
「それぞれ思うこともあるだろう。大公閣下の行方も知れない。はっきり言って、状況は良くない」
婉曲に誤魔化すのではなく、かといって希望を持たせるような明るい口調でもなく、淡々とした言葉だった。しかしそこに絶望も焦りもなく、全員に一旦冷静な思考を取り戻してもらおうと語りかけるかのような、そんな口調だった。
セレスは全体を見渡しながら、沈黙を使う。下を向いていた貴族たちが徐々に顔を上げ、真っ直ぐな双眸に吸い込まれていった。
「まだ立ち上がる気力は残っているか? 更に過酷な戦いに挑む覚悟はあるか?」
「……」
誰一人として、口を開かない。無いとは口が裂けても言えないが、あるとも軽率には言えない。それが本心だった。
「ここで逃げようとも私は止めない。責めもしない」
ただでさえ劣勢の中、貴重な戦力を失うのは大打撃だ。それでも、セレスはそれを躊躇いなく告げた。その言葉を聞いてそそくさと出ていけるような雰囲気でもないが、逡巡する者はいる。そんな貴族たちを戦場に押し留める自信、それがセレスにはあるように見えた。
「我らは無様にも王国の掌の上で転がされた。それは認めねばならない。そして王国軍の方が遥かに経験豊富であろう。兵の練度も高い。それと比べれば我らなど赤子のようなものだ。王国軍を恐れるな、などとは口が裂けても言えない。事実、私でさえこれから待ち受ける苦難を想像しては、身体の芯が震え上がる」
己の恐怖を認め、肯定する。セレスの立場を考えれば安易に言えることではない。それは王国軍に対する恐怖を和らげる一手になった。
「一つ聞こう。この中で、先の戦いで王国に必ず勝てると思っていた者はどれだけいる?」
セレスの問いかけに、武闘派の数人が挙手する。だがそれだけだった。他のものは一様に視線を落とし、拳を握るばかりである。
「運が良ければ勝てるだろう、私とてその程度に考えていた。だがそれでは勝てないのだ。運だけで勝てるほど、戦というものは甘くない。運とは勝利を固く信じる者にこそ恵まれる。だが今の貴殿らは少なからず疑心暗鬼を抱いているはずだ。エクドールの発展に貢献してきたヴェルマー子爵家が王国と通じ、国を売ったのだから当然の話だろう。我らがこの戦いに勝つためには、まず味方を信じることが何より肝要だ。味方を信じられない戦場は、何よりも恐ろしい」
セレスは全体を見渡す。
「私が言いたいのはただ一つ、貴殿らには自分の守りたいもののために戦って欲しい。民と領地を守るため、家族を守るため、己の名誉を守るため。誰しもが守りたいものの一つや二つ持っているはずだ。それさえあれば、我らは同じ方向を向ける。身勝手でも一向に構わない。徹頭徹尾自分のためであろうと、それは立派な戦う理由だ。各々が自らの大切なものを守るために、共に怯懦を却け団結し、死力を尽くして戦おうではないか!」
貴族たちはそうだ、そうだ!と賛意を示しながら、その心に火を灯していく。
「王国や帝国に比べれば、確かに我らは弱兵なのかもしれない。だが弱兵が勝てないと誰が決めた? 敗北必至の逆境こそ、我らの真骨頂なのだ。それは今も昔も変わらない。皆でこの戦を戦い抜こうではないか!」
セレスが拳を突き上げると、それに呼応して力強い雄叫びが上がる。
「その意気だ! しばらくの間、この私が大公の代理としてこの国を率いる。異存のある者はいるか?」
いるはずもない。セレス以上に適任な人間は少なくともここには存在し得なかった。
「よし。ではヘンリック皇子!」
「はあ?」
俺は突然の指名に驚く。
「皆を鼓舞する一言をお願いします」
それは今のセレスの言葉で十分だっただろうが。そう文句を言いたくなったが、貴族たちもじっとこちらを見ていて拒否できる雰囲気ではなかった。
「こちらには敵にないものがある。セレス、それが何だか分かるか?」
「……逆境に立ち向かう精神力、ですかな」
「それが敵にもないとどうして言える。いいか、こちらには圧倒的な地の利がある。それを活かせば、弱者であっても強者を討ち果たせる。先の戦いでも最初は地の利を活かしたことで有利に戦えていたはずだ」
セレスが精神面で鼓舞したのだから、俺は戦略上の優位性を明示することにした。
「地の利……」
セレスの傍にいた貴族の一人が、納得したように頷く。
「俺たちは確かに負けた。だがそれはヴェルマーの離反によるものだ。もう轍を踏むつもりはない。次こそ、敵にここが我らの壇上であることを思い知らせてやる。弱兵である貴様らを勝たせてやる」
一度失敗したくせに尊大な態度だと、自分でも強く思う。だが、これがヘンリック・レトゥアールなのだ。数瞬を経たのち、懸念に反して貴族たちからワッと歓声が上がる。
俺は矢庭に気恥ずかしさを覚え、平静を装いつつも足早に元いた場所に戻る。すっかり士気を取り戻した軍議は、それからも長い時間続いた。
自室に戻ると、大きく息を吐く。少し肌寒さを覚え、身体が震えた。まだ昼間は温暖だが、最近は夜が深まると粉雪が降る日も散見されるようになってきている。
正直、胸中には良くない考えが巡って不快感に苛まれている。胃の中のものをぶちまけないのは、ヘンリックの気の強さを如実に表していると思う。この身体との付き合いはもう違和感のないほどまでには慣れた。
とはいえ、独り言であっても弱音を吐けないというのは、なかなかにしんどいものだ。口から出る言葉はいつも痩せ我慢か、弱音が吐けたとしても、他者を落としたり、人のせいにする言葉ばかり。
しんどいものは、しんどいのだ。
だってそうだろう? 前世でロクに社会に出られなかった人間が、一国の行方を左右する岐路に立たされている。誰かの大切な人を奪っておいて、まだこんな減らず口を叩ける口も嫌いだ。自分でも推し量れない巨大な重圧に、あまつさえ大口を叩く不自由な口。ストレスでどうにかなってしまいそうだ。
そんな思考に浸っている中、扉が三度叩かれる。コンラッドかと思い「ああ」と短く反応を示すと、意外な人物が姿を現した。
「あの、ヘンリック様。お話しがあるのだけど」
アルシアナの表情には疲労が滲み出ている。休息もとらず将兵のケアに努めてきたのだろうか。
無言で見つめる俺を見て気まずさを感じてか、落ち着きなく視線を彷徨わせている。正直俺も気まずい。
「突っ立っていないで何か言え。用があるから来たのだろう」
色々隙を見せてしまった以上、もはや邪険にしていても仕方がない。感情的な態度が思い起こされ、それを恥じてなのか自然と体温が上がるのを感じる。
「私は貴方のことを誤解していたわ」
「……」
そもそも俺が遠ざけていただけで、アルシアナに何の落ち度もない。むしろ自分を勘違いさせ、悪評を肯定していたのだから、叩かれても文句など言えないはずだ。むしろ謝るべきは俺だろう。キャラ崩壊を招くので絶対にできないだろうが。
「今も貴方と話していると、半信半疑な部分ばかりだわ。でも、シャロンの言っていたことが嘘だとも思えない」
「随分と仲良くなったようだな」
政略結婚がアルシアナの女性としての幸せを奪ってしまう、最初はそのことに気付けてすらいなかった。今だって棚に上げている状態だ。
だからシャロンにケアを頼んだ。ケア、というよりは、おそらく同年代の友人がいないであろうアルシアナと友人関係を築いてくれれば、少なくとも孤独を味わうことはないと思った。
アレオンが居なくなり、家族という存在を失くしてしまったアルシアナにとって、大きな支えになってくれるはずだ。
「あんな子がどうして貴方のような人に仕えているのか、最初は疑問だったの」
「それには同意するがな。全く酔狂としか思えん」
確かに、刺客の攻撃から庇ったというのはあると思う。それだって、元はと言えば俺のせいだ。ヘンリック・レトゥアールという人間がいるから、巻き込まれた。それで俺が死んでしまったというのなら、責任を感じる理由もまだわかる。だがそうではないのだから、そこまでして俺に尽くす理由はどこにあるのだろうか。
無論、シャロン以上に優秀な補佐役はいない。シャロンの助けが無ければ俺はとっくにパンクしてしまっていた。
「最初は弱みでも握られているんじゃないかとも思った。でもあの子は明確に否定してきたわ。理由は教えてくれなかったけれど」
弱みを握って、あまつさえ脅しの道具にしたことは胸にしまっておく。
「それがあって、貴方が本当はいい人なんじゃないかと思って気になった。でも私の目ではわからなかったわ」
そんな内心に気づくはずもなく、アルシアナはそんな的外れな言葉で述懐する。
「俺が『いい人』なはずないだろうが」
呆れたようにため息をつく。俺のどこを見ても、その要素は欠けている。
「確かにいい人ではないのかもしれない。でも少なくとも悪い人ではないんじゃないかって、そう思ったわ」
「ふん、意味のない仮定だな」
「いいえ、そうは思わない。よく私のことを気にかけていたとシャロンは言っていたわ。それだけじゃない。私はルドワール子爵親子の死が貴方のせいだと信じてしまった。私の知る子爵は本当にいい人だったから。だけど本当は邪悪な人だった。まさか孤児院の子供達を売り飛ばしていたとは思わなかった。私はまだまだ子供だったんだって、そう気付かされたわ。自分の主観だけに囚われて、勝手に決めつけていた」
事件の顛末を、シャロンがアルシアナには伝えたのだろう。
「人を見る目が絶望的に欠落しているようだな」
「否定はしないわ。これだけ悪い人に見える貴方が、逆に労働者の待遇改善や孤児院の支援に取り組んでいるなんてとても思えなかった。だからもっと人のことをしっかり見なくちゃ、知らなきゃって思ったの。表向きの人間性だけで決めつけないようにしよう、そう思った」
悪く見える人が必ずしも悪いわけではない、それは実際にあるのだろう。だがいい人そうに見える人が実際にいい人であるという件数の方が圧倒的に多いはずなのだ。
悪そうな人間を見て、実は悪くないんじゃないかと疑ってみる、それは相当な労力だ。俺も悪そうに見える人間は悪いと一瞬で断定してしまう。
だがそれを面倒くさがらずにできるのがアルシアナなのだ。素直に尊敬できる部分だと心から思う。
「……」
「傲岸不遜な振る舞いは、貴方自身を強く見せるために必要なのかもしれない。でもそれを続けていたらどこかで壊れてしまうと思うの。だから肩の力を抜いた方が良いわ」
「シャロンのようなことを言うな。余計なお世話だ」
俺がそう言って顔を背けると、アルシアナは何を思ったのか距離を詰めてくる。そして右手をギュッと握りしめた。それに連動するかのように、心臓を掴まれたような感覚に襲われる。
「たとえ政略結婚だったとしても私は貴方の婚約者よ。私は誰かのために何かをしたい、そんな漠然とした思いを抱いてきた。でも貴方のおかげでそれが空虚で、極めて価値の薄いものだと気づいたの。私が本当の意味で動けたことなんて一度もなかった。上辺だけに手を差し伸べて、やった気になっていた。だからこそ、実際に動いて成果を挙げる貴方が殊更眩しく見えたわ」
「勘違いしているようだが、俺は別に人のために動いているわけではない。あくまで自分の目的のために動いている。そのために必要なことであれば、身内を切り捨てることも厭わない。その冷徹さは貴様にとって許せないものだろう。違うか?」
俺が挙げた成果とやらは、自分のためにした行為に付随した副産物にすぎない。
「その目的はきっと、多くの人を助けることに繋がるはずだわ」
「それが貴様自身を切り捨てることになっても、か?」
「構わないわ」
曇りの無い目にあてられ、反射的に眉根が寄る。それだけ、俺のことを信じようとしているのだろうか。
無論、アルシアナを切り捨てるつもりなど毛頭無いし、そんなことをすれば俺の計画は足元から崩れて頓挫する。
あくまで俺の問いかけは、「覚悟が無いのならば出しゃばるな」と暗に伝えるつもりで放ったものだ。そんな意図を知ってか知らずか、アルシアナの瞳はひたすら透き通っていた。
「私はもう、皆に守られるだけの公女でいたくはない」
「それは自分の身くらい守れるようになってから言うんだな」
「そのための研鑽は惜しまないわ」
「意気込むのは結構なことだが、実を伴わければ意味は無い」
「ええ、だから貴方に教えてほしいの。剣術を」
「……俺は貴様に構っていられるほど暇ではない」
「なら私が貴方の仕事も手伝うわ。それで手が空いた時に、私に稽古をつけてほしいの。私が自分の身を守れるようになるのは、貴方にとっても良いことでしょう?」
「……」
確かに、今は必要以上に保護を試みている。そちらに割く精神的リソースも小さくは無い。ましてや先の戦いで囚われたばかりなのだ。とりあえず王国軍が撤退するまでは、更なる用心が必要だと思っていた。
「いいえ、それは建前ね。そう理由付けでもしないと、貴方は私を突っぱねると思ったの。私はどうしても貴方のそばで役に立ちたい。それが多くの人を助けることに繋がると思うから」
「……勝手にしろ。言っておくが、半端な仕事をしようものなら、すぐに摘み出す。稽古も十分な仕事をこなしてからの話だ。死にものぐるいでやることだな」
吸い込まれるような瞳孔にあてられてしまい、俺はため息を溢しながら受け入れる。だが妥協するつもりはない、と釘を刺して俺は話を切り上げた。
自分で自分を守れる力を追い求めるのは良いことだ。それに協力するのは吝かではない。強い覚悟を、今のやり取りから感じ取った。ただ、強くなった結果、危険を顧みず前線へ出たがるなんてことになるのは勘弁してもらいたいところだが。いずれにせよ、これはアルシアナにとっていい傾向なのだろう。
もっとも、これから待ち受ける戦いに勝たなければ、そんな未来もない。俺は改めて気を引き締めた。