クーデターを無かったことにはできない。ヘンリックの父や母、兄を、恩師を生き返らせることはできない。
でも、今はまだ取り返しのつくものがたくさん自分の手に残っている。
公都を失ったわけではない。
銀山を奪われたわけではない。
積み上げた財産も大半が残っている。
コンラッドやシャロンといった大切な臣下は一人も欠けていない。
アルシアナだって救出できた。
そして何より、まだ一人の市民も死んでいない。
クーデターで全てを失ったあの時より、何千倍もマシだ。
悔いることはいつでも、いくらでもできる。
ここで諦めればこの国の未来を絶望の漆黒で染めることになる。
帝国の民をも全員見捨てることにもなる。
まだ取り返せるかもしれないものがあるのに、勝ち筋が目の前に無いからと、ハナから諦めて現実から目を背けてしまう自分を、ヘンリックは死んでも許せそうになかった。
知恵を絞る前に、どうせ無理だと諦めてしまっていた。元より帝国の奪還だって、現実味がそれだけ薄い願望だったはずだ。この程度の逆境を撥ね返せずして、どうやって帝国をゲレオン・サミガレッドから取り戻そうというのだろうか。
「……死んだとは限らないんじゃなかったのか?」
ヘンリックの双眸に光が灯る。アルシアナはそれを見て口角を緩めた。
それと同時に、膝下までを覆っていた氷が一気に溶ける。
「揚げ足を取れるくらいにはなったのね」
「貴様が諦めるなと言ったんだろう。貴様の父親の生死だって遺体が見つかるまでははっきりとしない、ただそれだけだ」
「父上を見つける前に、まず勝たなくちゃいけないわね」
「ふん。汚名を更なる汚名で雪いででも勝ってやる。乾坤一擲の大勝負だ」
「元々汚名なんて偽りのものではありませんか」
ヘンリックの後方に控えていたシャロンが突然口を挟む。ヘンリックは露骨に眉を顰めた。余計な事を言うな、そう口を出そうとするものの、シャロンは間髪を容れずに続ける。
「いいですか、アルシアナ様。この方は素直じゃないんです。世界で一番、素直じゃないんです。口では不遜な態度を取っておられますが、実はアルシアナ様のことをよく気にしておられました」
「……そうなの?」
アルシアナは目を丸くしてヘンリックに問いかける。
「こいつの話は嘘八百だ。聞かなくていい」
「そもそも、ルドワール卿の処刑を進言したのは、財務長官が孤児院に行くはずの資金を着服したり、子供を売り飛ばしていたり、銀を王国に横流ししていたためで、なんの根拠もなく権力を濫用したわけではありません。労働者の待遇改善や孤児院の支援などもなされています。本当は心優しい御方なんです」
「……それが本当なら私、なんて勘違いを」
途端に顔面蒼白になる。シャロンもヘンリックの意思に反するつもりはなかったが、どうしてもこれ以上誤解を重ねさせ続けるのは我慢ならなかったのだ。
「それに、殿下は決してアルシアナ様を嫌っているわけではありませんよ」
「……本当?」
ヘンリックは視線を逸らし、先に進んでいってしまう。
「余計なことを言うな」
「お叱りなら後で受けます」
ヘンリックは呆れて溜息を吐く。ヘンリック自身の名誉を守るためにしたことだから、怒る気にもなれなかった。
そして一行は闇夜の中も気にせず進み、エルドリア城に無事辿り着く。ヘンリックはアルシアナから発破をかけられたことで吹っ切れ、今度は自分の身を差し出す覚悟で戦いに挑む堅固な決意を胸に宿していた。