その結果、奇襲の効果もあって圧倒的に優勢だったはずの戦況が、一気に停滞した。
俺が地に伏せた敵は、せいぜい両手で数えられる程度だ。だから実際に盛り返せているかといえばそうではない。大公国軍の同士討ちもあって、ヴェルマー子爵軍の被害は依然軽微だ。
だが、数人の兵が束になっても俺に傷一つ付けられない光景と、周囲に充満する血生臭さがヴェルマーの鼻腔を侵し、焦燥感を掻き立てたのだろう。
「て、撤退するぞ!」
ヴェルマーは正しく戦況を把握することすら放棄し、背中を向けてあっという間に遠ざかっていく。それを追うこともなく呆然と見つめていると、心の中に粟立つものを覚えた。己が身など潰えてもいい、そう覚悟して臨んだ一戦が、あっけなく終わりを告げたのだ。
いや、正確にはまだ終わっていないし、先制攻撃によってある程度手傷を加えられたとはいえ、ヴェルマー子爵の反乱により疑心暗鬼に陥っている大公国軍は、常に背後を気にしながら前方に向き合っており、散漫な様子だった。それを鑑みると、王国軍に与えた損害も小さいはずだ。アレオンの声はもはや聞こえず、その姿を視認することも叶わない。回復の見込みのない低調な士気で戦いを続けたところで、こちらの被害が増えていくだけだ。それが分かっているのに、脳が指令を停止して、歩き方すら思い出せなくなっている。
今やるべきことだって、組み立てようとするたびに根本から崩れていった。
手傷を負ったわけではないのに、この虚脱感はなんだろう。
「殿下! 大丈夫ですか!?」
そんな状態の俺に、聞き慣れた声がかかる。なぜオストアルデンヌで待機していたはずのシャロンがここにいるのだろうか。その声に十秒ほど遅れ、首を捻って声の方向へと顔を向ける。返り血に塗れた俺の身体を見て、シャロンはギョッとしていた。
それがヘンリックの血では無いと認識してシャロンは胸を撫で下ろすも、生気のない表情を見て口元をキュッと結ぶ。ヘンリックは声を出そうとしたが、それは喉元で詰まり、微かな空気だけが口から漏れ出た。
シャロンは一度小さく息を吐き、真っ直ぐな視線をヘンリックに送る。
「オストアルデンヌが占領されました」
シャロンの口から放たれた凶報は、ヘンリックの頭をさらなる混乱へと導いた。
「……そうか」
絞り出された言葉は、現実を受け入れるものではなく、自棄に支配された心が捻り出した反応であった。そんなおざなりな態度に構うことなく、シャロンは情報を重ねていく。
「ルドワール卿の反乱に味方していた貴族が、手勢を率いて突然やってきたのです。殿下が出発してすぐのことでした」
「……オストアルデンヌから本隊が出陣する機を待って、どこかに身を潜めていたというのか?」
ああ、そうか。戦が始まる前から、この戦いの結末は決まっていたのだ。王国軍の方ばかりに気が行って、背後や道中の警戒は甘くなっていた。もっと過敏に周囲の警戒を行っていれば、ルドワール派の貴族たちの存在に気づけたかもしれないのに。
俺はそうしてようやく、自戒の感情を取り戻す。今回、ヘンリックはルドワール子爵家に加担した者の参戦を認めなかった。ただでさえ勝ち筋の薄い戦いで、火種を抱えたくはなかったからだ。しかしこの戦いは挽回の好機でもあり、その機会を奪われた者たちがまんまとヴェルマーの口車に乗ってしまった。
「私は何とか逃げ果せましたが、アルシアナ様が人質に取られてしまい……」
「王国に引き渡し、帝国と大公国の繋がりを断つつもりか! だからあれほどエルドリアで大人しくしておけと言っていたんだ」
俺は事の重大さに気づき、強い口調でこの場にいないアルシアナを責める。
「私の力不足で、申し訳ございません」
シャロンは負傷兵の手当てを買って出て、ヘンリックもそれを了承した。
一方でアルシアナの同行については反対していたのだ。それでもアルシアナは公女として指を咥えて待っているのは耐えられないとアレオンに直談判する。どんな根拠があってかは知らないが、アルシアナは自分の身程度ならば守る術を持っているからと言い、アレオンも渋々とはいえ了承してしまったのだ。
だが結果的に囚われてしまった。反乱に加担した貴族は、アルシアナ一人ではどうしようもないほどの手勢を率いていた。
「今は公女の救出が最優先だ」
どうすればアルシアナを救い出せるだろうか。どうにか再起動した脳を酷使して考えを巡らせていると、コンラッドが複雑な面持ちで駆け寄ってくる。
「殿下、遅くなって申し訳ございません! ご無事で何よりにございます!」
「アレオンはどうだった?」
「それが姿は見当たらず……。しかし私兵隊が奮戦し、前線はなんとか食い止めております!」
「……くっ、これ以上の捜索は味方の損害を増やすだけになる。コンラッド、貴様には全軍を率いてエルドリアへの退却を命じる」
この道をそのまま進むとオストアルデンヌに辿り着くが、その手前にはエクドールの南部を通ってアルバレンへと真っ直ぐに伸びる街道があり、この街道は途中のセーラムでエルドリア方面にも分岐するため、そこに誘導できれば挟撃の危険もなく退却させることができる。戦の経験の浅い俺よりも、コンラッドの方がこの場を上手く切り抜けられると判断した。
「殿下はいかがされるのですか!?」
「俺はオストアルデンヌに向かう」
「はっ、お一人で行かれるのですか!?」
「ここで問答していれば更に被害が増える。今は黙って俺の指示に従え!」
「……はっ。しかしお一人では行かせられません。今動かせる兵をいくらかお連れください」
コンラッドは苦虫を噛み潰したような顔で受け入れる。
「シャロン、貴様は公女が囚われている場所に心当たりはあるか?」
「はい。目星はついています」
「場所を教えろ。公女を救出する」
「危険です。単身で救出なんて!」
「俺はあいつの婚約者だからこそ信望を得られたんだ。それがなければ俺はただの帝国皇子に過ぎない!」
なにより、このまま二人を失って逃げ帰ったら、どんな顔でセレスの前に立てばいいのか分からない。
「……分かりました。では私も同行させていただきます」
危険だからコンラッドと共にエルドリア城へ逃げろと告げたが、同行させなければ場所を教えるつもりはないとシャロンは譲らない。その頑固な態度に俺は仕方なく折れるしかなかった。
◆
ヘンリックは街の様子を丘から見下ろす。
街の中には視界に映る範囲でもかなりの人数がいた。とはいえ今は街を奪還するのが目的ではなく、アルシアナの救出が最優先だった。
「……うまくいったようだな」
そこでヘンリックは、連れてきた兵を街の反対側から襲撃させた。その喊声は目論見通り、衛兵の注意を引き、貴族たちと共に街の一方に集結させる。
その隙を見て、ヘンリックとシャロンは難なく敵地に忍び入った。
「アルシアナ様はあそこにいらっしゃるかと思います」
陽動に釣られて手薄になっており、廃屋の目の前には二人の兵士しかいない。
ヘンリックは死角から屋根に登ると、頭上から二人を瞬殺する。そうして古びた木扉を開くと、部屋の隅にアルシアナがいた。いつも気高い彼女が小さく丸まって、震えていた。
◆
私が監禁されている廃屋は、決して気温が低いわけではなかったが、薄暗くジメジメとした環境が鬱屈した感情を呼び起こした。そのせいか身体がひどく震えている。
突然何人もの兵に囲まれて拘束され、なんの説明もないままに放り込まれたのだ。困惑を飛び越え、強い恐怖と孤独感に浸る。それでも、仕方ないなという諦念もあった。無理を言って拠点の街まで同行させてもらったのに、結局足手まといになってしまった。自分の身くらい守れると思い込んでいたのが壮大な思い違いだった。
廃屋を見張っていた兵たちの話を盗み聞いていると、驚愕の事実に心が折れそうになった。ヴェルマー卿が反乱を起こしたということ。父上がもうこの世にいないかもしれないということ。これから自分はどうなるのかという不安に苛まれる。窓すらなく光が全く差さない空間は絶望を加速させた。それでも心の奥底には、確かな希望が燻っている。
「……はは」
そんな自分に対する、乾いた嘲笑が漏れた。
助けなど来るはずがないのに、勝手に期待して落胆はしたくない。思考を振り散らすように俯いていれば、気がつくと壁の隙間から僅かに差していたはずの薄光すらも視界から消失する。反射的に顔を上げた先には、あのヘンリック・レトゥアール皇子がいた。
「行くぞ」
腕を掴まれ、縮こまっていた身体が伸ばされる。普段の余裕綽々という態度からは想像もできないほどに、ヘンリック皇子の顔に焦燥が浮き出ている。掌は手汗が滲んでいて、一度滑った後掴み直した手には少し痛く感じるほどの握力がこもっていた。
「えっ……。ヘンリック……皇子?」
なぜ自分を助けにきたのか、それを問い質したい気持ちで一杯になったが、そんなことを聞けるような状況ではない。
「何を呆然としている。早くしろ」
ヘンリック皇子は苛ついた表情で勢いよく私の腕を掴んで駆け出す。その手は微かに震えを帯びていた。それは何かに恐怖しているかのような感じで、傲岸不遜ないつもの態度からはかけ離れている。
「あの、なぜここに……」
恐る恐る尋ねるが返答はない。下らない問答に付き合っている暇はない。そう言いたいのだと後ろ姿が語っていた。
自分の未熟さを眼前に叩きつけられたあの日を思い出す。結局、自分は口ばかりの公女にしか過ぎないのだと自覚させられた。私より余程、ヘンリック皇子の方がこの国の役に立っている。その事実に打ちひしがれそうになったし、口ばかりの自分には歩み寄る資格すら無いのだと思った。嫌われても仕方がないとすら思った。だというのに、なぜ戦場にいたはずのヘンリック皇子が、私を救うためにここまでやってきたのだろうか。
(助けに来てくれたのは、私が公女だから? それとも心から私のことを心配して?)
思わずそう尋ねたくなったが、すんでのところで踏みとどまる。これを尋ねたところで、余計な問いかけだと切り捨てられるだけだ。
代わりに、質問を一つ投げかけることにする。
「聞きたいことがあるの」
「なんだ。それは今話すべきことか?」
ヘンリック皇子は難色を示す。右手は未だ私の手首を強い力で掴んだままで、不安定な様子がありありと伝わってきた。
「なぜ私を助けたの?」
「貴様がいなければ俺の次期大公の地位が揺らぐからだ。それ以上の理由は無い」
予想通りの答えが返ってきた。しかしそれが事実でもあることは理解できる。
「ならどうしてそんなに怯えているの?」
「怯えてなど……」
否定しかけて、ヘンリック皇子は認めたように歯を食い縛っていた。そして付け足すように、声のトーンを落として、再び言葉を紡ごうとする。
「貴様の父は……」
そこまで言って、また途切れる。ここで父上がヘンリック皇子の口から出てくるとは思っていなかった。私に対して負い目を感じているのかもしれない。父上が亡くなった、それに現実感が無いというのもあるが、まだ生きているという希望を最後まで捨てたくなかった。それが自分の心を守るための必要な都合のいい思い込みだと自覚してはいる。
でも公女として、父上一人の安否不明に心を破壊され、絶望を受け入れ殻に閉じこもるわけにはいかないから。悔しいけれど、私一人の力でこの国を守るのは極めて難しい。ヘンリック皇子に立ち直ってもらわなければ、この先に未来は無い。だから私は、心を鬼にして真正面から向き合うことにした。
◆
「これからどうするつもり?」
「……」
ヘンリックは押し黙ったまま歩みを進める。心なしかペースが速くなったように感じ、アルシアナはヘンリックの手を振り解く。
「いつもの貴方ならここで強い言葉の一つや二つ言い放つはずよ。なのに黙るだなんて、貴方らしくもない」
「……完璧だと確信して講じた策が裏目に出たんだ。それを棚に上げて、横柄に振る舞えるほど肝は据わっていない」
自分の失策を認め、言葉として外に出した瞬間、制御してきたはずの感情が濁流となって身体中を巡る。口から漏れ出た言葉を反芻し、それが弱音であったことを自覚した。ヘンリックは気まずさからか、苦虫を噛み潰したような表情で視線を落とす。アルシアナの目には、それがひたすらに弱々しく映った。アルシアナとて、こんな姿を引き出したかったわけではない。徹底的に固く何重にも生成された仮面の下の顔を見たいという気持ちはあったが、それでもなお、いつもの気丈な姿を見せてほしい。そう思っているのも本心だった。
「俺が王国を動かしてしまった。セレスの懸念を鼻で笑い、開き直って自信過剰に振る舞うばかり。全てが自分の思い通りに進むと思い込んでいた。その浅慮が貴様の父をも殺したんだ。築き上げたものもこれで全て崩れる。最悪の結果だ。ああ、責めたければいくらでも責めればいい」
一度堰を切った感情のうねりはヘンリックですら抑えきれなかった。アルシアナの前で初めて、感情を偽ることなく吐露する。何もしない方が勝てる可能性は高かった、その後悔に打ちひしがれていた。
「いいえ、責めないわ。責めたら貴方は救われてしまうもの」
「……ッ」
図星だった。ヘンリックは誰かに責めて欲しかった。
そして自分が如何に愚かな人間なのか、突きつけて欲しかったのだ。そうすることで、仕方なかったのだと開き直れるから。
「まだ終わったわけではないわ。父上も死んだと限ったわけじゃない」
「死んだ、死んださ。あんな状況から生き残っているはずがない」
直後、ヘンリックの足が膝下まで予兆もなく凍りつく。
「……貴様、魔法を使えたのか」
「ええ。人前で使ったのは家族以外では初めてよ」
「一体これは何の真似だ?」
「今の貴方、いつもの貴方よりもっともっと嫌いだわ」
「とうの昔に振り切れてるだろうが」
「愚者の魂は凍らない。この国にはそんなことわざがあるわ」
「……それがどうした」
この国にもことわざなんてあるんだな、と愚にもつかない思考がヘンリックの頭を巡る。
「愚者は自分の行動や言動が少しずつ自分を追い詰めていることに気づかず孤立して、取り返しがつかなくなるという意味よ。このことわざは、遭難したとある登山者の末路に照らし合わせたものになっているわ」
冬に遭難したある登山者は、周囲の警告に耳を貸さず、単独で登山を続けた。手遅れになってからようやく引き返すも、遭難したことを終始人のせいするばかりで、肉体は当人の気付かぬ内に氷漬けになって死に至った。しかし生に執着した登山者の魂は、毎年その時期になると、新たに来た登山者の前に現れ、死域に引き摺り込もうとするのだと言われている。
身体が凍りついても魂は生き延び、今でも苦しみ続けているのだ。
「こんなところで諦めるなんて、愚者の所業以外の何物でも無いわ。もし貴方がここで諦めれば、永遠の苦しみに喘ぐことになる」
「……そうだな。これは己の愚かさへの代償なのだろう。俺はずっと苦しんできた。ずっと、ずっとだ。この苦しみは、貴様の言うとおり死してなお続くのだろう。だがもう、足掻こうというのが愚かなのかもしれんな」
アルシアナが発した言葉の意図を曲解し、ヘンリックは視線を落とす。その『ずっと』には、前世の生も含まれていた。前世では身体の弱さと闘い、今世では自らの境遇に抗おうとした。長い間苦しみと共にあったのだ。
(でもその全てが、望み通りには行かなかったじゃないか。自分の存在が最終的に国を滅ぼし、多くの人を苦しめる結果になった。その報いを受けるのなら仕方ないよな)
瞳に帯びた自虐の色が更に増したのを見て、アルシアナの歯が軋む。
「貴方がここで諦めるのなら、私は今、ここで貴方の全身を凍らせるわ!」
「それで貴様の気が済むならそうすればいい」
「気が済むとか、済まないとかそんな次元の話じゃないわ! 苦しみを受け入れるなんて、間違ってる。貴方の苦しみは、貴方だけのものではないの。貴方がここで諦めれば、きっと国民全員を深い絶望に落とし、長い苦しみに喘がせるものになる。違う!?」
「……ッ」
帝国の民を圧政から救う。ホルガーの遺言によって形作られた一つの決意は、意図せず口から溢れるほどに根を張っていた。そればかりを考えて動いた結果が、帝国の民を救えないばかりか、他国の民をも巻き込んで、苦しめようとしている。それはヘンリックにとって限りなく重いものだった。
「私たちはまだ負けたわけじゃない。だって全てを失ったわけではないのだから! 私の嫌いないつもの不敵さを見せて。父上の犠牲を無駄にしないで!」
瞳から無数の涙が流れ出す。迫真の叱責だった。
その言葉は、ヘンリックの心に雷鳴のような衝撃を与える。
――まだ負けたわけじゃない。だって全てを失ったわけではないのだから!
肉親を亡くしてもなお、そんなことを言い放てるアルシアナの心の強さに、ヘンリックは愕然とした。最も大切なものを失くしたと言ってもいい人間が、そう言っているのだから。