◆王国軍の侵攻
昼と夜の寒暖差が大きくなり、夏の終わりを徐々に実感しつつあった。八の月の下旬は時季を日本に照らし合わせればまだ真夏と言えるが、この国の夏は六の月の後半から八の月いっぱいであり、九の月に入ると徐々に気温が下がっていく。夏だけは北から吹き付ける寒気が森を抜けないため、比較的温暖な気候が保たれるのだ。体感の気温が二十℃前後の過ごしやすい気候である。
逆にレトゥアール帝国やヴァラン王国では、夏は暑い地域が多い。だから夏の過ごしやすさに限れば、他に勝るものはないかも知れない。
そんな中、王国に放っていた密偵から報告を受けた。王国が兵糧や革、鉄、矢羽などの戦時物資の購入を増やし、ロンベルク公爵領に運び込まれている。今回はどうやらロンベルク公爵軍が主力になるようだ。ロンベルク公爵領は王国北部に領土があり、地理的にエクドール地方に比較的近い。
「……こんな時季に攻め入ってくるというのか?」
俺は執務室で一人ごつ。冬の間に準備を進め、冬が終わりに近づく頃に侵攻する。俺が指揮官ならばそうするし、一番可能性が高いと思っていた。というのも、この国への侵攻というのは難度が高い。大陸一の豪雪地帯であり、冬の間に戦うのは過酷を極める。だから普通は夏の間に片付けたいと思うはずなのだ。
「いや、そうか」
俺はセレスの諫言を思い出す。事を大きくした弊害、セレスはそれを懸念していた。
可能な限り反乱を早期に鎮圧するため、見せしめとしてルドワール子爵親子を晒しあげず、また残った貴族の粛清を取りやめ謝罪を促したのは、セレスの懸念を勘案したからだった。
とはいえ人の口に戸が立てられない以上、いくら隠蔽しようとしても無理がある。王国にその情報が漏れるのを避ける手立てなどなかった。
つまり、大公国の内部に反乱の機運が巻き起こった事を察知されてしまったのだ。そしてその火種を残してしまった事も。俺は中途半端にセレスの言葉を受け入れて、これで良いのだろう? と鼻を明かした気になっていた。
不正に加担する可能性のある貴族たちを一網打尽にしようとしたのが、そもそもいけなかったのだ。一網打尽にするならば、甘さなんて見せずに無理にでも貫き通すべきだった。
事を焦った結果、王国を動かしてしまった。
つまりこの戦争は俺が引き起こしたも同然ということになる。
その事実が心に重くのしかかって、振り落とすように拳で鼻の頭を数度叩いた。
いや、王国がいずれ攻め入ってくることは確定事項だったはずだ。俺の一連の行動は、それを早めたに過ぎない。ならば王国の侵攻を退ければ全てが丸く収まる。俺は気を取り直して、アレオンの下へ急いだ。
「王国が戦の準備を進めているとは真で?」
アレオンは俺の報告に脂汗を浮かべて動揺を露わにしている。アレオンもこれから冬が始まるというこの時季に王国が動こうとしている、その事実がイマイチ信じきれていない様子だった。
「貴様は兵の召集を急げ」
「すぐに軍部に通達致しましょう。しかし如何にして王国の大軍を退けるか、私にはとても荷が重い」
そう、いくら王国軍が攻め入ってくると分かっていたところで、戦力差は比べるべくもないほどに歴然。戦力差で劣るこちらが勝つにはそれこそ乾坤一擲の策を弄する他ない。
「確実に勝つ手段などない。だが国を守る、この一点に絞れば十分可能性はある」
雪に覆われる日が一年の多くを占めるこの国で、冬の間も攻め続けるのはいくら精強な軍隊であろうと極めて困難だ。
「王国軍はきっと早期決着を狙ってくるだろう。少しでも長く戦線を押し留めること。それが撤退の二文字を突き付ける近道になる。だがそれを成すためには士気を十分に保つ必要がある」
「士気の維持は私にかかっている、そう言いたいのですな」
「貴様が軍をまとめろ。俺が軍を率いようとしたところで、愚かな貴族どもは団結を欠くだろうからな」
子爵院での出来事は、多くの貴族にとって衝撃であり、疑心暗鬼をもたらした。強引にも僭越にも映ったはずだ。
三日後の夕刻、宣戦布告の使者が王国からやってきて、文書のみ手渡してすぐに帰って行った。エルドリア城に子爵院の面々を緊急で召集し、今後の方針について意見が交わされることになった。
「して、文書にはなんと?」
軍の指揮官の一人が、緊張した面持ちで尋ねる。
「大公家は王国の庇護を受け、友好的な関係を約束されながら、度々反逆の姿勢を顕著にし、此度はあまつさえ帝国に与するなどという行動に出た。大公家と永劫の友好を誓っていた我ら王国にとって、これは許されざる行いである。よって、帝国の支配下から解放するために戦を行う、と」
白々しい文書だが、筋は通っている。大公国は元々属国の立場にあり、名目上王国から領土を下賜されたに過ぎないのだから。
「くっ、そもそも銀の採掘権の半分などという、我らを舐め腐り、尊厳を踏みにじるような要求をした王国が悪いのではないか!」
至る所から王国への非難が噴出する。大公国を滅ぼし、銀山資源を全て我が物にする狙いか。
いや、違うな。
大公国を滅ぼすなんて面倒なことは最初から考えていない。最初から銀山さえ手に入れば何でも良いのだ。アルバレンが帝国の侵攻に備えた防御力の高い城塞都市であることはよく知られている。つまり、アルバレンで籠城されれば、滅ぼすのは骨が折れる。だが銀山を奪えば、この国は一気に財政が悪化し、脅威にもならなくなる。王国はそう踏んだわけである。防御力の乏しいエルドリアならば、遅くとも雪が深まる前までには制圧できる、そんな余裕も透けていた。
「て、帝国から援軍を!」
そんな声も当然上がる。アレオンだけは援軍を見込めないと理解しているが、アレオンの立場を悪くするリスクを勘案し、他の誰も知らない事実になっている。
だからここでは、援軍が来ないという事実を突きつけるのではなく、そもそも援軍を呼んだらどうなるか、という方向に話をすり替えることにした。
「帝国の援軍を呼んでどうなる」
「はっ? それは如何なる意味で」
貴族の一人が俺の発言の真意を理解できず、しきりに目を瞬かせている。
「王国は体の良いことを並べ立てているが所詮は銀山が狙いだ。帝国もそれは同様。帝国軍を国に入れて王国の侵攻を防いでも、もし帝国軍がそのまま駐留し対価として銀山の全てを要求し、承諾するまで立ち退かないと言われればどうするつもりだ」
帝国も銀という資源がなければ決して同盟を組もうとはしなかっただろう。
それに帝国は元々ソルテリィシア家の活躍によって煮え湯を飲まされた過去がある。逆にそれが無ければ、現在世界の覇権を握っていたのは帝国だったと誰もが認めるところだ。
ソルテリィシア家の活躍がサミガレッド家を始めとする貴族たちの不満を高めたのだから、クーデターが起きた原因は大公家にあるとさえ言える。だからゲレオン・サミガレッドは帝位を得るきっかけをもたらした大公家に感謝すら抱いているかもしれない。
でもそんな心情は何の意味も持たない。援軍の要請があればそれに応えて大量の兵を送り、そのまま駐屯して実効支配してしまおうという魂胆を秘めているはずだ。
「ですが、帝国が皇族の婿まで送った国に対してそのような不利な条件を突きつけましょうか?」
この貴族の男はゲレオンが俺のことを少なからず好意的に見ているとでも思っているのだろうか。
「この好機をみすみす逃すはずがない。俺は帝国の連中の性質をよく理解している。それともこの俺が嘘偽りを述べていると?」
「い、いえっ! 決してそのようなつもりはなく」
「嘘だと思うなら帝国の援軍を要請すれば良い。その場合責任を取るのは誰になるか分かっているな?」
「ぐっ……」
なまじ権力を持つ者は『責任』という言葉に弱い。誰しもが責任など取りたくはないのだ。特に貴族にはそうした傾向が強い。もし失敗して権威を失うことは否が応でも防ぎたい。その言葉に怯んでか、不平を述べる者はいなかった。俺の剣幕に圧されたということもあるだろうが、目を逸らして大事な決定の責を負いたくないという意思がありありと表れている。
「ですが、帝国の援軍なしで王国の侵攻を退ける術などありませんぞ」
「身代が小さいから勝ち目がないなどと、誰がそんなことを決めた」
そもそもこの国には敵を引き入れて戦った歴史がない。王国の右腕として帝国との戦いに参陣してきた一方で、世代を経るごとに軍は弱体化していった。衰退の途において王国に優秀な人材も流出した。その結果、今では初代大公の政権下にあった精強な軍とは似ても似つかない練度の低さを露呈している。
「全軍でオストアルデンヌに向かう」
「しかし……あの街は敵を迎え撃つような場所ではございませんぞ」
オストアルデンヌは、東の国境から一番近い場所にある比較的大きな街で、砂糖液の製造所がある街でもあった。
製造所は人目につきにくい場所に建設したとはいえ、王国軍がオストアルデンヌを通過する可能性は十分高いため、この街は可能な限り堅守したいという思惑もある。どこから製造所の存在が漏れるか分からないので、その意図を察せられないように細心の注意を払いつつ、俺は冷静な口調で説明した。
「大きな兵力差を覆すには、開けた場所で戦うよりも、狭い場所で大軍の利が活きないよう立ち回ることが有効になってくる」
長年流通の要として活用されてきたエクドール街道の整備は行き届いているが、国境付近では道幅がかなり狭くなっている。兵数の利を活かしづらいその手前で戦う方が戦略も立てやすくなる。そこで――、
「野戦に挑む」
「野戦ですと!?」
この場にいる全員が驚嘆の声をあげて顔を見合わせる。王国が今回率いる軍は五千程度と目される。帝国の目がある以上、全軍で攻め入ってくるはずもない。
対して大公国は常備兵と徴収兵を集めても、全軍で一千五百程度にしかならない。
正面から愚直に戦うようなら、敗戦は免れない。
だから本来ならば、籠城して時間を稼ぐのが賢明なのだろうが、エルドリア城とて籠城に適しているわけではない。
四方を堅牢な壁に囲われているアルバレン城塞と違って、エルドリア城は周辺の街を守る城壁がない。籠城しようとすれば、街をそのまま失ってしまう可能性が高い。築き上げてきたものを全て敵の手に委ねることになる。
火を付けられて街全体が焼け落ちでもすれば、戦後復興に莫大な時間とコストがかかる。
もちろん、王国と手切れをした以上、侵攻に備えて街の外に堀を設け、街の東側を網羅するように迎撃用の砦をいくつも作った。
とはいえ、しばらくは王国が動かないと勝手に思い込んでいたから、俺が施したのは最低限の策でしかない。
「無論、正面から当たるつもりはない。この俺が王国軍を撃破する術を教える」
「お、おお。これは頼もしいですな!」
戦闘経験がほとんどない軍部の指揮官にとっては、少なくとも帝国で軍事に関する様々な知識や戦術を学んできた俺は頼もしく映ったらしい。
ただ、子爵含め多くの貴族たちは違う。一様に打って出ることへの忌避感を露わにしていた。
「打って出るなど正気の沙汰ではございませんぞ!」
反論しようと口を開きかけたところを、アレオンに制止される。その顔には並々ならぬ意志が宿っていた。
「このまま籠城し続けて、兵の質や士気が劣る我らが勝てると本当に自信を持って言えるのか?」
沈黙が流れる。単純な兵数差だけに限らず、質や士気も明らかに劣っているのだから、反論できる者は少ない。しかし、その中の一人が額に汗を滲ませながらも真っ直ぐな眼差しを向けてくる。
「ですが打って出ればそれこそいたずらに兵を失うだけになりましょう」
「愚直に正面から槍を突き合うのが戦争か? 答えは否だ。戦術を駆使し、敵を翻弄すれば盤面は幾らでも、如何様にでも覆すことができる。王国軍を退けさえすれば、我らの勝ちなのだ。それだけで、王国は我らを畏れることだろう。そのために私が恐怖をかなぐり捨て、自ら軍を率いようぞ!」
普段らしからぬ鬼気迫った様子に貴族達は息を呑む。数秒後にハッとしたように顔を見合わせ、動揺を露わにした。
「閣下自ら出陣を!? それでは万が一のことあったら取り返しがつきませんぞ!」
「大公自らが出ることに意味があるのだ。及び腰で城に籠っているだけの大公を誰が支えようと思うだろうか。民もそんな私のために耐え忍ぼうとは思わん。違うか!」
「……それは」
「私は守られてばかりの弱い大公のままいるつもりはない。アルバレン卿、エルドリア城の留守を頼む」
「……はっ」
セレスは渋々といった様子で歯噛みしながら返答する。
本来ならばセレスがこの軍を指揮するのが順当であるが、アレオンが大将として出兵することで貴族たちに覚悟を示すことができた。これを崩すわけにはいかないし、もしアレオンとセレスが揃って戦死するようなことがあれば、この国は一気に弱体化する。
空元気にも見えたが、少なくともこの場にいる貴族たちは想定よりも団結していた。俺はアレオンが無事帰還できるよう、策を弄して背中を押そうと静かに決意した。
◆
ヴァラン王国の王都・ザンブルグとエクドール=ソルテリィシア大公国の公都・エルドリアを繋ぐエクドール街道を、五千の大軍が進んでいた。
総勢五千を後方から指揮するのはグラハム・ロンベルクという高貴な将軍だった。
ヴァラン王国は三大公爵であるロンベルク、コルベ、ヴェリンガーの三家がとりわけ強い権勢を誇っている。現状の王国は国王の下にこの三者が権力を拮抗させることによって国家体制を維持していた。
つまり、皇帝が圧倒的な権力を持つ帝国とは違い、国王とは名ばかりで三大公爵の方がむしろ強いという状況なのだ。公爵家の力が無ければ政治が円滑に回らず、国の統治が揺らいでしまうため、王家は三大公爵の為すことに口を挟めない。
その状態が三大公爵の増長を招き、やがて大公国に対して法外な要求を行う。案の定アレオンは反発し、帝国と手を結ぶことを決めたわけだが――。
そんな同盟関係を、グラハムは強く警戒していた。
銀山を帝国に奪われることに加え、戦略的にエクドール方面からの帝国軍の侵攻が考えられるからだ。グラハムは婿入りを阻止しようと刺客を送ったが失敗し、その後もヘンリックを狙ったものの、満足に近づくことすらできなかった。コンラッドや私兵隊の面々が陰から警護していたからである。
グラハムにとって、これは大変な屈辱だった。それだけでなく、常に鎬を削り合う公爵家の間で、この度重なる失敗は発言力を下げる要因にもなりつつある。そういった風潮を払拭するために、今回、単独で出兵を志願したのだ。
無論、この戦いは誰が出陣しても容易に撃ち敗れる戦いだと見られている。だから、この戦いは損耗の少なさが何よりも大切だった。
「どうした? なぜ止まる」
グラハムは眉を顰めた。馬に乗った斥候が前方から駆けてくるのが視界に映る。グラハムの前で跪いた斥候は通りのいい声で報告を行った。
「ご報告いたします。どうやら前方に柵が無数に連なっている模様」
「柵? ふん、無駄な足掻きをするものだ。気にせず強引に突破しろ。柵など取るに足らん」
グラハムは一蹴する。当然、柵の奥に敵が潜んでいると確信している。それでも経験が極めて浅い大公国軍が設置した柵など、単なる悪足掻きでしかないと先入観を抱くのも無理はなかった。
「しょ、承知致しました!」
斥候は手綱を引いて再び戻っていく。そして先鋒が一番手前の柵に差し掛かったところで、突然声が響き渡る。
「弓隊、放てぇ!!」
幾重にも並んだ鉄条網の奥から、矢が放たれたのだ。目を見張ると、大公国軍の旗が揚々と風で揺れている。斥候は柵があるせいで、その奥に敵が潜んでいることを確認できていなかった。
王国側の弓兵は後方に控えていたが、道幅が狭い街道では隊列の基本である横陣の状態を作れなかった。結果、縦に伸びた縦陣になってしまっており、味方の射程が全く足りない。一方的な攻撃を甘んじて受けるばかりの状況に陥ってしまう。
柵は単なる柵ではなく、鋭利な棘が全体に生えており、生肌を掠めるだけで怪我を負う鉄条網のようなものだった。
弓の集中砲火を受けていれば、当然撤去に身が入りようもない。そのため、軍の最前列は柵の撤去に苦戦を強いられる。
「た、大公が先鋒を率いておりますぞ!!」
「なんだと!?」
総大将であり、一国の長であるという以上に、出征した経験のないアレオンが前線にいるという事実は、グラハムに強い困惑をもたらした。
グラハムの頭に、罠の可能性が浮かぶ。
「いや、これはまたとない好機だ。強引に突っ切るぞ!!」
罠だとしても、目の前のアレオンの首さえ取れば、当初の目的であったエルドリア奪取と銀山獲得へ一気に近づく。戦力的に明白な優位がある以上、怖気付く理由はどこにもなかった。
「ぐわぁぁぁぁぁ!!」
そう意気込んだところで、慟哭にも似た、苦痛に震える声が無数に響く。
「なぜ前に進まない。精強な王国軍が怖気付いているとでも言うのか? 柵など一気に壊してしまえ!」
幾重にも並んだ柵と柵の間には、鋭利な木の棒や針が植え込まれていた。それを踏み抜いた将兵が野太い呻き声を上げて苦しんでいたのだ。
アレオンの姿は、味方の士気を上げるのみならず、敵の視野を極端に狭くし、足元の注意を散漫にさせる作用をももたらしていた。
安直な突撃指令が迂闊だったと表情に悔恨を滲ませつつも、グラハムは強引にでも突破を図るしかないと判断し、追加の指示を控える。
だがしばらく待っても、先鋒の兵が次々に悲鳴を上げるばかりで一向に前に進まない。
大公国軍は加えて山の斜面から岩を転がしたり投石したりして、障害物の撤去を更に遅らせていたのだ。狭い道に兵が所狭しと並んでいるためにグラハム自身も身動きが取れず、手立てがない状況に陥っていた。
「くっ、小癪な」
グラハムは鮮やかに、軽微な損耗に留めて勝利しなくてはならない。時間が掛かれば掛かるほど被害は積み重なっていく。
グラハムが苛立ちを露わにしながらも戦況を見つめながら打開策を練っていると、突如として敵軍の後方から困惑に満ちた声が風に乗って耳を通り抜けた。
最初は何事かと思ったグラハムだったが、大公国軍に潜んでいた有力貴族が寝返ったと聞き、途端に口角が吊り上がった。
◆
「何が起こった! まさか王国の手によるものか!?」
真ん中後方の本陣にいたヘンリックは、すぐそばの左翼後方が騒然としていることに気づき、瞠目してコンラッドに尋ねる。
「いえ、ヴェルマー卿がいきなり攻撃を始めたと!」
アクロン・ヴェルマー。子爵の地位にあり、古くからエクドール州の盟主的立ち位置にあったヴェルマー家の当主だ。大公アレオンの姉が嫁いだ縁戚の家で、国内ではアルバレンに次ぐ第三の規模を誇る領地を抱える。
そんなヴェルマーが突然味方の兵を攻撃し始めたというのだ。
「おそらくは大公の地位を狙ってのものでしょう!」
「……と言うと?」
「ヴェルマー卿には三人の息子がおります。殿下が来る前は、その長男を大公家に迎え入れるのが既定路線だったと聞きます」
「……それに不満を持っていたわけか」
アレオンには娘しかおらず、アルバレン家も男子が二人いたが、一人が夭折したために大公家に入ればアルバレン家の後継者がいなくなる。
だがヘンリックが来て、そんな期待が易々と打ち砕かれた。あろうことか長年の宿敵である帝国から婿を迎え入れたのだ。ヴェルマーは当然、自分を蔑ろにされたと感じる。
王国の手先はそこに付け込み、ヴェルマーを唆した。大公国の子爵であるという自覚が変心を封じ込めていたが、今叛旗を翻せば大公の座のみならず、苦戦しているグラハムに恩も売れて、王国においての権力をある程度保持できるかもしれないと考えた。
「……くっ、誤算だったか」
その目論見を今更察する己の迂闊さをヘンリックは悔いるばかりだった。
◆
コンラッドが私兵隊に指示を出し、すぐさま臨戦態勢を整えようと試みるも、虚を衝かれた形となった大公国軍の指揮系統はもはや機能していなかった。ヴェルマー子爵軍の奇襲を受けた左翼後方の付近は完全に統制を失い、同士討ちすら起こる始末だった。
ヴェルマーのことを覇気のない不気味な男だと思っていたが、あの仮面の下には野心を秘めていた。大公家の縁戚なのだから、裏切る可能性は低いと思い込んでいた。
どうして俺は失念していたのだろうか。血縁関係が信用する理由にはならないことを。ルドワール子爵家も大公家の縁戚だし、ゲレオン・サミガレッドも帝室に連なる家系だった。
綿密に策を練っていたつもりだった。にも拘わらず、味方は阿鼻叫喚の地獄に晒され、その命を徐々に散らしている。己の甘さがこの状況を呼んだのだと突きつけられ、俺は腕が震えるのを抑えられなかった。
俺は戦を甘く見ていたのだ。「おそらく大丈夫だろう」という楽観的な思考で、戦略を組み立ててしまっていた。特に前線にアレオンを置いてしまったのは間違いだったと、今更思う。
アレオン自身が先鋒への配置を望んだのを、俺は拒めなかった。当然アレオンを矢面に立たせるつもりなどなく、あくまで着火剤としか思ってはいなかったし、経験のある将も前線に配置して、弓隊による先制攻撃が決まったら、後方へと退避するように告げていたのだ。
だが今は隊列が崩れ、退避用に設けていたはずの通路も塞がっている。アレオンを前線に留めたまま、先鋒は戦いを続けていた。
だからアレオンの命はもはや朽ちてしまっているのではないか、俺はそう解釈し、かつてないほどに肥大化した自責の念に支配される。
いや、今は自分を責めている場合じゃない。俺が原因で多くの将兵を現在進行形で死なせてしまっているのだ。その尻拭いは、俺がしなければならない。
――たとえ、この命を投げ捨てることになろうと。
俺は剣を握りしめて、混乱の震源地へと向かう。
「殿下!?」
コンラッドの喫驚が耳に届く。
「コンラッド、貴様は先鋒でアレオンを捜し、救出しろ。その上で可能な限り前線を押し留めろ!」
無茶な要求だと分かっている。だが、今はそんな無茶に応えてくれるという期待に縋るしかなかった。
「し、しかし殿下はいかがされるのですか!?」
「アクロンの蛮行を食い止める」
「危険ですぞ!」
「この戦場にいれば安全な場所などない。いいから行け!」
俺は返事を聞かずに再び駆け出す。
あれだけ豪語した挙句、この体たらくだ。責め立てられ、嘲笑われ、また国を追われるかもしれない。それならせめて、自分の命を賭してでも、一矢報いてやりたかった。
「おい、あれって帝国の皇子じゃないか?」
帝国貴族の特徴的な軍服に加え、帝室系譜の黒髪黒目は、今この瞬間初めて俺の姿を見た雑兵達にとっても、ヘンリック・レトゥアールと認識するのには十分な情報だった。
「そんな馬鹿な」
「見てみろよ。あれは絶対本物だって。あいつを殺っちまえば俺たちとんでもねえ武功を手にできるんじゃねえのか!?」
二人の雑兵の声が引き金となって、ヴェルマー子爵軍の全員が、一斉に俺の首を刈り取るべく動き出す。
もし仮にも帝国の皇子である俺の首がこの戦場で地に叩きつけられ、無様にも踏み躙られたとなれば、当然王国軍の士気も上がる。
それが大陸中に広まりでもすれば、ゲレオンはこれを恥と感じることだろう。
そもそも、ゲレオンが帝室の権力を完全に握り、旧帝室勢力の多くを排除した後でも俺を始末しなかったのは、俺が死ねばその権威に少なからず綻びが生じると理解しているからであり、旧帝室を完全に取り潰す危険性を認識しているのだ。
そうだろう? ゲレオン・サミガレッド。
お前にとっては俺が大公国で愚かな婿として大人しくしているのが一番理想だったはずだ。でもそうはならない。俺はここで死んだって、一向に構わないのだ。
たとえこんな無様な死に方でも、それがゲレオンへの復讐にはなる。そのためならば、命だって惜しくはない。
「簡単に死んでやるつもりはない。一人でも多く、あの世に葬ってやる」
槍先を前に突き出している複数の兵が、同時に俺の胴を目掛けて突進してくる。槍は小回りが利きにくい上、構え方を見ても低い練度が見え透けていた。
「何人来ようが、貴様ら程度の弱兵など取るに足らない!」
無論、全軍で襲い掛かられればひとたまりもない。しかしヴェルマー子爵軍とて、初陣に等しいのに変わりはなかった。一方的に敵を嬲っていたヴェルマー子爵軍の目が一斉に俺という餌に向き、それに釣られた兵たちが俺に引き寄せられる。