◆王国軍の侵攻



 昼と夜の寒暖差が大きくなり、夏の終わりをじよじよに実感しつつあった。八の月ルナーサじゆんは時季を日本に照らし合わせればまだ真夏と言えるが、この国の夏は六の月ミヘイムの後半から八の月ルナーサいっぱいであり、九の月ミーフオに入ると徐々に気温が下がっていく。夏だけは北からき付ける寒気が森をけないため、かくてき温暖な気候が保たれるのだ。体感の気温が二十℃前後の過ごしやすい気候である。

 逆にレトゥアール帝国やヴァラン王国では、夏は暑い地域が多い。だから夏の過ごしやすさに限れば、他に勝るものはないかも知れない。

 そんな中、王国に放っていたみつていから報告を受けた。王国がひようろうかわ、鉄、矢羽などの戦時物資のこうにゆうを増やし、ロンベルクこうしやく領にはこび込まれている。今回はどうやらロンベルク公爵軍が主力になるようだ。ロンベルク公爵領は王国北部に領土があり、地理的にエクドール地方に比較的近い。

「……こんな時季にめ入ってくるというのか?」

 俺はしつしつで一人ごつ。冬の間に準備を進め、冬が終わりに近づくころに侵攻する。俺が指揮官ならばそうするし、一番可能性が高いと思っていた。というのも、この国への侵攻というのは難度が高い。大陸一のごうせつ地帯であり、冬の間に戦うのはこくきわめる。だからつうは夏の間に片付けたいと思うはずなのだ。

「いや、そうか」

 俺はセレスの諫言を思い出す。事を大きくした弊害、セレスはそれをねんしていた。

 可能な限り反乱を早期にちんあつするため、見せしめとしてルドワール子爵親子をさらしあげず、また残った貴族のしゆくせいを取りやめ謝罪をうながしたのは、セレスの懸念をかんあんしたからだった。

 とはいえ人の口に戸が立てられない以上、いくらいんぺいしようとしても無理がある。王国にその情報が漏れるのをける手立てなどなかった。

 つまり、大公国の内部に反乱の機運が巻き起こった事を察知されてしまったのだ。そしてその火種を残してしまった事も。俺はちゆうはんにセレスの言葉を受け入れて、これで良いのだろう? と鼻を明かした気になっていた。

 不正に加担する可能性のある貴族たちを一網打尽にしようとしたのが、そもそもいけなかったのだ。一網打尽にするならば、あまさなんて見せずに無理にでもつらぬき通すべきだった。

 事をあせった結果、王国を動かしてしまった。

 つまりこの戦争は俺が引き起こしたも同然ということになる。

 その事実が心に重くのしかかって、振り落とすように拳で鼻の頭を数度たたいた。

 いや、王国がいずれ攻め入ってくることは確定こうだったはずだ。俺の一連の行動は、それを早めたに過ぎない。ならば王国の侵攻を退ければ全てが丸く収まる。俺は気を取り直して、アレオンの下へ急いだ。

「王国が戦の準備を進めているとはまことで?」

 アレオンは俺の報告にあぶらあせかべてどうようあらわにしている。アレオンもこれから冬が始まるというこの時季に王国が動こうとしている、その事実がイマイチ信じきれていない様子だった。

「貴様は兵のしようしゆうを急げ」

「すぐに軍部に通達いたしましょう。しかしにして王国の大軍を退けるか、私にはとても荷が重い」

 そう、いくら王国軍が攻め入ってくると分かっていたところで、戦力差は比べるべくもないほどに歴然。戦力差でおとるこちらが勝つにはそれこそけんこんいつてきの策をろうする他ない。

「確実に勝つ手段などない。だが国を守る、この一点にしぼれば十分可能性はある」

 雪におおわれる日が一年の多くをめるこの国で、冬の間も攻め続けるのはいくら精強な軍隊であろうと極めて困難だ。

「王国軍はきっと早期決着を狙ってくるだろう。少しでも長く戦線をとどめること。それがてつ退たいの二文字を突き付ける近道になる。だがそれを成すためには士気を十分に保つ必要がある」

「士気のは私にかかっている、そう言いたいのですな」

「貴様が軍をまとめろ。俺が軍を率いようとしたところで、愚かな貴族どもは団結を欠くだろうからな」

 子爵院での出来事は、多くの貴族にとってしようげきであり、しんあんをもたらした。ごういんにもせんえつにも映ったはずだ。

 三日後の夕刻、宣戦布告の使者が王国からやってきて、文書のみわたしてすぐに帰って行った。エルドリア城に子爵院の面々をきんきゆうで召集し、今後の方針について意見がわされることになった。

「して、文書にはなんと?」

 軍の指揮官の一人が、きんちようした面持ちで尋ねる。

「大公家は王国のを受け、友好的な関係を約束されながら、たびたび反逆の姿勢を顕著にし、たびはあまつさえ帝国にくみするなどという行動に出た。大公家とえいごうの友好をちかっていた我ら王国にとって、これは許されざる行いである。よって、帝国の支配下から解放するために戦を行う、と」

 白々しい文書だが、筋は通っている。大公国は元々属国の立場にあり、名目上王国から領土をされたに過ぎないのだから。

「くっ、そもそも銀のさいくつけんの半分などという、我らをくさり、尊厳をみにじるような要求をした王国が悪いのではないか!」

 至る所から王国への非難がふんしゆつする。大公国をほろぼし、銀山資源を全てが物にする狙いか。

 いや、違うな。

 大公国を滅ぼすなんてめんどうなことは最初から考えていない。最初から銀山さえ手に入れば何でも良いのだ。アルバレンが帝国の侵攻に備えたぼうぎよりよくの高いじようさい都市であることはよく知られている。つまり、アルバレンでろうじようされれば、滅ぼすのは骨が折れる。だが銀山をうばえば、この国は一気に財政が悪化し、きようにもならなくなる。王国はそう踏んだわけである。防御力のとぼしいエルドリアならば、遅くとも雪が深まる前までには制圧できる、そんな余裕もけていた。

「て、帝国からえんぐんを!」

 そんな声も当然上がる。アレオンだけは援軍をめないと理解しているが、アレオンの立場を悪くするリスクを勘案し、他のだれも知らない事実になっている。

 だからここでは、援軍が来ないという事実をきつけるのではなく、そもそも援軍を呼んだらどうなるか、という方向に話をすりえることにした。

「帝国の援軍を呼んでどうなる」

「はっ? それは如何なる意味で」

 貴族の一人が俺の発言の真意を理解できず、しきりに目をまばたかせている。

「王国はていの良いことを並べ立てているがしよせんは銀山が狙いだ。帝国もそれは同様。帝国軍を国に入れて王国の侵攻を防いでも、もし帝国軍がそのままちゆうりゆうし対価として銀山の全てを要求し、しようだくするまで立ち退かないと言われればどうするつもりだ」

 帝国も銀という資源がなければ決して同盟を組もうとはしなかっただろう。

 それに帝国は元々ソルテリィシア家のかつやくによってを飲まされた過去がある。逆にそれが無ければ、現在世界のけんを握っていたのは帝国だったと誰もが認めるところだ。

 ソルテリィシア家の活躍がサミガレッド家を始めとする貴族たちの不満を高めたのだから、クーデターが起きた原因は大公家にあるとさえ言える。だからゲレオン・サミガレッドはていを得るきっかけをもたらした大公家に感謝すら抱いているかもしれない。

 でもそんな心情は何の意味も持たない。援軍のようせいがあればそれに応えて大量の兵を送り、そのままちゆうとんして実効支配してしまおうというこんたんめているはずだ。

「ですが、帝国が皇族の婿まで送った国に対してそのような不利な条件を突きつけましょうか?」

 この貴族の男はゲレオンがおれのことを少なからず好意的に見ているとでも思っているのだろうか。

「この好機をみすみすのがすはずがない。俺は帝国の連中の性質をよく理解している。それともこの俺がうそいつわりを述べていると?」

「い、いえっ! 決してそのようなつもりはなく」

「嘘だと思うなら帝国の援軍を要請すれば良い。その場合責任を取るのは誰になるか分かっているな?」

「ぐっ……」

 なまじ権力を持つ者は『責任』という言葉に弱い。誰しもが責任など取りたくはないのだ。特に貴族にはそうしたけいこうが強い。もし失敗してけんを失うことはいやおうでも防ぎたい。その言葉に怯んでか、不平を述べる者はいなかった。俺のけんまくされたということもあるだろうが、目を逸らして大事な決定の責を負いたくないという意思がありありと表れている。

「ですが、帝国の援軍なしで王国の侵攻を退けるすべなどありませんぞ」

「身代が小さいから勝ち目がないなどと、誰がそんなことを決めた」

 そもそもこの国には敵を引き入れて戦った歴史がない。王国のみぎうでとして帝国との戦いにさんじんしてきた一方で、世代を経るごとに軍は弱体化していった。すい退たいにおいて王国にゆうしゆうな人材も流出した。その結果、今では初代大公の政権下にあった精強な軍とは似ても似つかない練度の低さをていしている。

「全軍でオストアルデンヌに向かう」

「しかし……あの街は敵をむかつような場所ではございませんぞ」

 オストアルデンヌは、東の国境から一番近い場所にある比較的大きな街で、砂糖液の製造所がある街でもあった。

 製造所は人目につきにくい場所に建設したとはいえ、王国軍がオストアルデンヌを通過する可能性は十分高いため、この街は可能な限りけんしゆしたいというおもわくもある。どこから製造所の存在が漏れるか分からないので、その意図を察せられないように細心の注意をはらいつつ、俺は冷静な口調で説明した。

「大きな兵力差をくつがえすには、開けた場所で戦うよりも、せまい場所で大軍の利がきないよう立ち回ることが有効になってくる」

 長年流通の要として活用されてきたエクドール街道の整備は行き届いているが、国境付近ではみちはばがかなり狭くなっている。兵数の利を活かしづらいその手前で戦う方が戦略も立てやすくなる。そこで――、

「野戦にいどむ」

「野戦ですと!?

 この場にいる全員がきようたんの声をあげて顔を見合わせる。王国が今回率いる軍は五千程度と目される。帝国の目がある以上、全軍で攻め入ってくるはずもない。

 対して大公国は常備兵とちようしゆう兵を集めても、全軍で一千五百程度にしかならない。

 正面からちよくに戦うようなら、敗戦はまぬがれない。

 だから本来ならば、籠城して時間をかせぐのが賢明なのだろうが、エルドリア城とて籠城に適しているわけではない。

 四方をけんろうかべに囲われているアルバレン城塞と違って、エルドリア城は周辺の街を守るじようへきがない。籠城しようとすれば、街をそのまま失ってしまう可能性が高い。築き上げてきたものを全て敵の手に委ねることになる。

 火を付けられて街全体が焼け落ちでもすれば、戦後復興にばくだいな時間とコストがかかる。

 もちろん、王国と手切れをした以上、侵攻に備えて街の外にほりを設け、街の東側をもうするようにげいげき用のとりでをいくつも作った。

 とはいえ、しばらくは王国が動かないと勝手に思いんでいたから、俺がほどこしたのは最低限の策でしかない。

「無論、正面から当たるつもりはない。この俺が王国軍をげきする術を教える」

「お、おお。これは頼もしいですな!」

 せんとう経験がほとんどない軍部の指揮官にとっては、少なくとも帝国で軍事に関する様々な知識や戦術を学んできた俺は頼もしく映ったらしい。

 ただ、しやくふくめ多くの貴族たちは違う。一様に打って出ることへの感を露わにしていた。

「打って出るなど正気のではございませんぞ!」

 反論しようと口を開きかけたところを、アレオンに制止される。その顔には並々ならぬ意志が宿っていた。

「このまま籠城し続けて、兵の質や士気が劣る我らが勝てると本当に自信を持って言えるのか?」

 ちんもくが流れる。単純な兵数差だけに限らず、質や士気も明らかに劣っているのだから、反論できる者は少ない。しかし、その中の一人が額にあせにじませながらもぐなまなしを向けてくる。

「ですが打って出ればそれこそいたずらに兵を失うだけになりましょう」

「愚直に正面からやりを突き合うのが戦争か? 答えはいなだ。戦術を使し、敵をほんろうすればばんめんは幾らでも、ようにでも覆すことができる。王国軍を退けさえすれば、我らの勝ちなのだ。それだけで、王国は我らをおそれることだろう。そのために私がきようをかなぐり捨て、自ら軍を率いようぞ!」

 普段らしからぬせまった様子に貴族達は息をむ。数秒後にハッとしたように顔を見合わせ、動揺を露わにした。

「閣下自らしゆつじん!? それでは万が一のことあったら取り返しがつきませんぞ!」

「大公自らが出ることに意味があるのだ。およごしで城にこもっているだけの大公を誰が支えようと思うだろうか。民もそんな私のためにしのぼうとは思わん。違うか!」

「……それは」

「私は守られてばかりの弱い大公のままいるつもりはない。アルバレンきよう、エルドリア城の留守を頼む」

「……はっ」

 セレスはしぶしぶといった様子でみしながら返答する。

 本来ならばセレスがこの軍を指揮するのが順当であるが、アレオンが大将として出兵することで貴族たちにかくを示すことができた。これをくずすわけにはいかないし、もしアレオンとセレスがそろって戦死するようなことがあれば、この国は一気に弱体化する。

 空元気にも見えたが、少なくともこの場にいる貴族たちは想定よりも団結していた。俺はアレオンが無事かんできるよう、策を弄して背中を押そうと静かに決意した。



 ヴァラン王国の王都・ザンブルグとエクドール=ソルテリィシア大公国の公都・エルドリアをつなぐエクドール街道を、五千の大軍が進んでいた。

 総勢五千を後方から指揮するのはグラハム・ロンベルクという高貴な将軍だった。

 ヴァラン王国は三大公爵であるロンベルク、コルベ、ヴェリンガーの三家がとりわけ強い権勢を誇っている。現状の王国は国王の下にこの三者が権力をきつこうさせることによって国家体制を維持していた。

 つまり、こうていあつとうてきな権力を持つ帝国とは違い、国王とは名ばかりで三大公爵の方がむしろ強いというじようきようなのだ。公爵家の力が無ければ政治がえんかつに回らず、国の統治がらいでしまうため、王家は三大公爵のすことに口をはさめない。

 その状態が三大公爵の増長を招き、やがて大公国に対して法外な要求を行う。案の定アレオンは反発し、帝国と手を結ぶことを決めたわけだが――。

 そんな同盟関係を、グラハムは強くけいかいしていた。

 銀山を帝国に奪われることに加え、戦略的にエクドール方面からの帝国軍の侵攻が考えられるからだ。グラハムは婿むこりをしようとかくを送ったが失敗し、その後もヘンリックをねらったものの、満足に近づくことすらできなかった。コンラッドや私兵隊の面々がかげから警護していたからである。

 グラハムにとって、これは大変なくつじよくだった。それだけでなく、常にしのぎけずり合う公爵家の間で、この度重なる失敗は発言力を下げる要因にもなりつつある。そういった風潮をふつしよくするために、今回、単独で出兵を志願したのだ。

 無論、この戦いは誰が出陣しても容易に撃ち敗れる戦いだと見られている。だから、この戦いはそんもうの少なさが何よりも大切だった。

「どうした? なぜ止まる」

 グラハムはまゆひそめた。馬に乗ったせつこうが前方からけてくるのが視界に映る。グラハムの前でひざまずいた斥候は通りのいい声で報告を行った。

「ご報告いたします。どうやら前方にさくが無数に連なっている模様」

「柵? ふん、きをするものだ。気にせず強引にとつしろ。柵など取るに足らん」

 グラハムはいつしゆうする。当然、柵のおくに敵がひそんでいると確信している。それでも経験が極めて浅い大公国軍が設置した柵など、単なるわるきでしかないと先入観をいだくのも無理はなかった。

「しょ、承知いたしました!」

 斥候はづなを引いて再びもどっていく。そしてせんぽうが一番手前の柵に差しかったところで、とつぜん声がひびわたる。

「弓隊、放てぇ!!

 いくにも並んだてつじようもうの奥から、矢が放たれたのだ。目を見張ると、大公国軍の旗がようようと風で揺れている。斥候は柵があるせいで、その奥に敵が潜んでいることをかくにんできていなかった。

 王国側の弓兵は後方にひかえていたが、道幅が狭い街道では隊列の基本であるおうじんの状態を作れなかった。結果、縦に伸びたじゆうじんになってしまっており、味方の射程が全く足りない。一方的なこうげきを甘んじて受けるばかりの状況におちいってしまう。

 柵は単なる柵ではなく、えいな棘が全体に生えており、なまはだかすめるだけでを負う鉄条網のようなものだった。

 弓の集中ほうを受けていれば、当然てつきよに身が入りようもない。そのため、軍の最前列は柵の撤去に苦戦をいられる。

「た、大公が先鋒を率いておりますぞ!!

「なんだと!?

 総大将であり、一国の長であるという以上に、しゆつせいした経験のないアレオンが前線にいるという事実は、グラハムに強い困惑をもたらした。

 グラハムの頭に、わなの可能性が浮かぶ。

「いや、これはまたとない好機だ。強引に突っ切るぞ!!

 罠だとしても、目の前のアレオンの首さえ取れば、当初の目的であったエルドリアだつしゆと銀山かくとくへ一気に近づく。戦力的に明白な優位がある以上、おじく理由はどこにもなかった。

「ぐわぁぁぁぁぁ!!

 そうんだところで、どうこくにも似た、苦痛にふるえる声が無数に響く。

「なぜ前に進まない。精強な王国軍が怖気付いているとでも言うのか? 柵など一気にこわしてしまえ!」

 幾重にも並んだ柵と柵の間には、鋭利な木の棒や針がえ込まれていた。それを踏み抜いた将兵が野太いうめき声を上げて苦しんでいたのだ。

 アレオンの姿は、味方の士気を上げるのみならず、敵の視野をきよくたんに狭くし、足元の注意をさんまんにさせる作用をももたらしていた。

 安直なとつげき指令が迂闊だったと表情にかいこんを滲ませつつも、グラハムは強引にでも突破をはかるしかないと判断し、追加の指示を控える。

 だがしばらく待っても、先鋒の兵が次々に悲鳴を上げるばかりで一向に前に進まない。

 大公国軍は加えて山のしやめんから岩を転がしたり投石したりして、障害物の撤去をさらおくらせていたのだ。狭い道に兵がところせましと並んでいるためにグラハム自身も身動きが取れず、手立てがない状況に陥っていた。

「くっ、しやくな」

 グラハムはあざやかに、けいな損耗に留めて勝利しなくてはならない。時間が掛かれば掛かるほどがいは積み重なっていく。

 グラハムがいらちを露わにしながらもせんきようを見つめながら打開策を練っていると、とつじよとして敵軍の後方から困惑に満ちた声が風に乗って耳を通り抜けた。

 最初は何事かと思ったグラハムだったが、大公国軍に潜んでいた有力貴族ががえったと聞き、たんに口角がり上がった。



「何が起こった! まさか王国の手によるものか!?

 真ん中後方のほんじんにいたヘンリックは、すぐそばのよく後方がそうぜんとしていることに気づき、どうもくしてコンラッドにたずねる。

「いえ、ヴェルマー卿がいきなり攻撃を始めたと!」

 アクロン・ヴェルマー。しやくの地位にあり、古くからエクドール州の盟主的立ち位置にあったヴェルマー家の当主だ。大公アレオンの姉がとついだえんせきの家で、国内ではアルバレンに次ぐ第三の規模を誇る領地をかかえる。

 そんなヴェルマーが突然味方の兵を攻撃し始めたというのだ。

「おそらくは大公の地位を狙ってのものでしょう!」

「……と言うと?」

「ヴェルマー卿には三人のむすがおります。殿下が来る前は、その長男を大公家に迎え入れるのがてい路線だったと聞きます」

「……それに不満を持っていたわけか」

 アレオンにはむすめしかおらず、アルバレン家も男子が二人いたが、一人がようせつしたために大公家に入ればアルバレン家のこうけいしやがいなくなる。

 だがヘンリックが来て、そんな期待がやすやすと打ちくだかれた。あろうことか長年の宿敵であるていこくから婿むこを迎え入れたのだ。ヴェルマーは当然、自分をないがしろにされたと感じる。

 王国の手先はそこに付け込み、ヴェルマーをそそのかした。大公国の子爵であるという自覚が変心をふうじ込めていたが、今はんひるがえせば大公の座のみならず、苦戦しているグラハムに恩も売れて、王国においての権力をある程度保持できるかもしれないと考えた。

「……くっ、誤算だったか」

 そのもくいまさら察するおのれの迂闊さをヘンリックはいるばかりだった。



 コンラッドが私兵隊に指示を出し、すぐさま臨戦態勢を整えようと試みるも、きよかれた形となった大公国軍の指揮系統はもはや機能していなかった。ヴェルマー子爵軍のしゆうを受けた左翼後方の付近は完全に統制を失い、どうちすら起こる始末だった。

 ヴェルマーのことをのない不気味な男だと思っていたが、あの仮面の下には野心を秘めていた。大公家の縁戚なのだから、裏切る可能性は低いと思い込んでいた。

 どうして俺は失念していたのだろうか。けつえん関係が信用する理由にはならないことを。ルドワール子爵家も大公家の縁戚だし、ゲレオン・サミガレッドもていしつに連なる家系だった。

 綿密に策を練っていたつもりだった。にも拘わらず、味方はきようかんごくに晒され、その命を徐々に散らしている。己の甘さがこの状況を呼んだのだと突きつけられ、俺はうでが震えるのをおさえられなかった。

 俺は戦を甘く見ていたのだ。「おそらくだいじようだろう」という楽観的な思考で、戦略を組み立ててしまっていた。特に前線にアレオンを置いてしまったのはちがいだったと、今更思う。

 アレオン自身が先鋒への配置を望んだのを、俺はこばめなかった。当然アレオンをやおもてに立たせるつもりなどなく、あくまでちやつざいとしか思ってはいなかったし、経験のある将も前線に配置して、弓隊による先制攻撃が決まったら、後方へと退たいするように告げていたのだ。

 だが今は隊列が崩れ、退避用に設けていたはずの通路もふさがっている。アレオンを前線に留めたまま、先鋒は戦いを続けていた。

 だからアレオンの命はもはやちてしまっているのではないか、俺はそうかいしやくし、かつてないほどに肥大化した自責の念に支配される。

 いや、今は自分を責めている場合じゃない。俺が原因で多くの将兵を現在進行形で死なせてしまっているのだ。そのしりぬぐいは、俺がしなければならない。

――たとえ、この命を投げ捨てることになろうと。

 俺はけんにぎりしめて、混乱のしんげんへと向かう。

「殿下!?

 コンラッドのきつきようが耳に届く。

「コンラッド、貴様は先鋒でアレオンをさがし、救出しろ。その上で可能な限り前線を押し留めろ!」

 ちやな要求だと分かっている。だが、今はそんな無茶に応えてくれるという期待にすがるしかなかった。

「し、しかし殿でんはいかがされるのですか!?

「アクロンのばんこうを食い止める」

「危険ですぞ!」

「この戦場にいれば安全な場所などない。いいから行け!」

 俺は返事を聞かずに再び駆け出す。

 あれだけごうした挙句、このていたらくだ。責め立てられ、あざわらわれ、また国を追われるかもしれない。それならせめて、自分の命をしてでも、いつむくいてやりたかった。

「おい、あれって帝国の皇子じゃないか?」

 帝国貴族のとくちようてきな軍服に加え、ていしつけいくろかみ黒目は、今このしゆんかん初めて俺の姿を見た雑兵たちにとっても、ヘンリック・レトゥアールとにんしきするのには十分な情報だった。

「そんな馬鹿な」

「見てみろよ。あれは絶対本物だって。あいつをっちまえば俺たちとんでもねえ武功を手にできるんじゃねえのか!?

 二人の雑兵の声が引き金となって、ヴェルマー子爵軍の全員が、いつせいに俺の首をり取るべく動き出す。

 もし仮にも帝国の皇子である俺の首がこの戦場で地にたたきつけられ、無様にも踏みにじられたとなれば、当然王国軍の士気も上がる。

 それが大陸中に広まりでもすれば、ゲレオンはこれをはじと感じることだろう。

 そもそも、ゲレオンが帝室の権力を完全に握り、旧帝室勢力の多くをはいじよした後でも俺を始末しなかったのは、俺が死ねばその権威に少なからずほころびが生じると理解しているからであり、旧帝室を完全に取りつぶす危険性を認識しているのだ。

 そうだろう? ゲレオン・サミガレッド。

 お前にとっては俺が大公国でおろかな婿として大人しくしているのが一番理想だったはずだ。でもそうはならない。俺はここで死んだって、一向に構わないのだ。

 たとえこんな無様な死に方でも、それがゲレオンへのふくしゆうにはなる。そのためならば、命だってしくはない。

「簡単に死んでやるつもりはない。一人でも多く、あの世にほうむってやる」

 槍先を前に突き出している複数の兵が、同時に俺のどうけてとつしんしてくる。槍は小回りがきにくい上、構え方を見ても低い練度が見え透けていた。

「何人来ようが、貴様ら程度の弱兵など取るに足らない!」

 無論、全軍でおそい掛かられればひとたまりもない。しかしヴェルマー子爵軍とて、ういじんに等しいのに変わりはなかった。一方的に敵をなぶっていたヴェルマー子爵軍の目が一斉に俺というえさに向き、それにられた兵たちが俺に引き寄せられる。