◆反乱貴族の成敗
数日後、俺はアレオンと改めて顔を合わせていた。ルドワール財務長官の不祥事が発覚したことで、エルドリア城には混乱が巻き起こる。アレオンはその対応に追われており、ここ数日は息つく暇すらなかったようだ。
「奴を排除するには、あのやり方が最適だった。他の貴族の目が無ければ、邪魔だから消した、そんな風に捉えられて当然だ。貴様に話して、更迭を進言したところで、貴様も俺に疑念を抱くし、貴族たちにとって良くは映らない」
俺は事前になんの相談もせず、子爵院で爆弾を投下してしまったことについて弁明する。可能な限り事を露見させないため、事前の情報共有は必要最低限に留めていたのだ。
「……議会でのことを責めるつもりなどありません。むしろこの国に巣くう膿を取り除けたこと、大公としては安堵すべきなのでしょうな」
「貴様はそうやって割り切れるタマでも無いだろうが」
アレオンがルドワールに対して向けていた信頼とは並大抵のものではなかったはずだ。演技力に騙されていたアレオンからしたら、簡単に受け入れられるような事実でもない。
だが、俺が重い処罰をアレオンに促した時にルドワールが向けた瞳は鈍色に澱んで温度を失し、明白な憎悪と軽蔑を孕んでいた。あの目を見て、アレオンも本質を理解したことだろう。ただ実際、性格や思想を抜きにすれば、有能な男であるのは間違いない。国にとって痛手であることには異論を挟む余地もなかった。
「これほどの不正を看過しては大公国のために骨を砕いて働いてくれた者たちに示しがつかない。これは私がせねばなりませんでした」
「息子のリブレスタ・ルドワールは怒り心頭で、味方を募り徹底的にやり合う姿勢のようだな」
ルドワールの処断は俺がそうなるよう誘導したようなものだ。本来余所者に過ぎない俺があの場でそれを告げると角が立つから、アレオンに体良くなすりつけた。
「……味方をしたからといって、不正に手を染めた証拠などない。気が重いものです」
「奴の不正は広範囲に及び、組織的なものだ。この機会を逃せば、永遠に不穏分子は取り除けないぞ」
「頭ではわかっております。でも私の徳望が足りないために離れていったのかもしれない。弱みを握られているのかもしれない。そんな者たちと刃を交えるなど、どうしても受け入れられないのです」
「そんなことを言っていてはキリがない。ここで敵対する人間が、本当に国のことを思っていると言えるのか? 不正に手を染めた貴族に味方する時点で、とうに一線を越えている」
「……おっしゃる通りですな」
「そもそも貴様の心情に拘わらず、俺はリブレスタと味方した貴族を許すつもりはない。どう始末するかは俺に任せてもらう。どんな結末になろうと、喚かないことだな」
「……承知しました。こうなってしまったのも、全て私が至らぬからです。甘んじて受け入れましょう」
アレオンは苦しそうに口元を歪めており、俺まで心が磨り減った。俺だって心にヘンリックの魂が介在していなければ、きっと折れて放棄していたかもしれない。この程度比にもならないほどの堪え難きを忍んできたヘンリックだからこそ、冷徹に振る舞い続けられるのだろう。
ヘンリックも同様だが、アレオンには戦争の経験がない。長らく王国の属国として平和に保ってきたのが理由だ。アレオンが正式に家督を継いでからは王国と帝国が大戦を行うことはなく、大体が小競り合いで留まっている。大公家がわざわざ出兵する必要も無かったのだ。怖気付いてはいないつもりだったが、それでも身体の至る所が痙攣して、微かな拒絶反応が表出していた。
「閣下、ご気分が優れませんかな?」
気まずい沈黙を破って部屋に入ってきたのは、セレス・アルバレン。名実共に国のナンバー二であるアルバレン子爵家の当主だった。
「すまないな、私が弱いばかりに」
「閣下の弱い部分を助くのが我らの役目ですからな」
「……お主は私を裏切ったりしないな?」
本来なら絶対に口から飛び出ないはずの言葉。幼少から長い間を共に過ごしてきた仲であり、アレオンにとってセレス以上に信頼する存在は居ないのだから。
「心外ですな。私は常にこの国のため、閣下のため、それだけを思い信念を貫く所存にございます」
流石のセレスも、ムッとした様子を見せる。それを見て、アレオンの顔がしまったと言わんばかりに歪んだ。
「そうか。いや、疑っているわけではないのだ。どうにも不安になってな」
完全に疑心暗鬼になっている。アレオンがルドワールにかなりの信頼を向けていたことは議会での様子を見ても分かっていた。セレスもアレオンの心中を理解してだろう。精一杯慮るような表情で、優しい言葉を掛ける。
「あれだけ重用していたルドワール卿が閣下を裏切ったのですから、そうなるのも仕方ないでしょう。しかしこの反乱は止めねばなりません。ヘンリック皇子が閣下の名代に?」
アレオンの様子を見る限り、とても反乱鎮圧に繰り出す様子でもない。それを瞬時に理解して、セレスは俺に視線を向けた。
「誰の助太刀も必要ない。俺一人で全てを片付ける」
「皇子がお一人で……?」
「まあ黙って見ていることだな。それで全てがうまくいく」
「……ではお言葉に甘え、その勇姿を見せていただくことにしましょう。私も皇子に随行いたします」
目付役、といったところか。セレスも俺を完全に信頼したわけではないのだろう。
「構わないが、流れ矢を喰らわぬよう注意しておくことだな」
俺は不敵に告げるが、セレスの表情が変わることはなかった。
◆
俺は敵対を表明した貴族がおおかた出揃ったのを確認し、手勢のみで城を出立した。これにはセレスも驚いていた。いくらか大公家から兵を借りるか、味方を募るとでもと思っていたのだろう。
「ここからどのようにして城を落とすと?」
セレスは夜にも拘わらず城に沢山の守備兵が在番しているのを見て疑問を呈する。リブレスタも暗愚では無い。寝首を掻かれる危険性も考慮し、昼夜問わず城の警備を強化していた。
「ここから入る」
ルドワール城から体感で五キロ以上離れた場所。小さな森の中に、入り口はある。
「ここ? どこにも入り口など見当たりませんぞ」
セレスは怪訝そうに辺りを見渡す。
「どうやら何重にも隠されているらしい」
赤い塗料で小さく目印が施された四つの木に囲まれていた。木の板によって入り口は塞がれており、草や落ち葉によってうまく隠されていた。それを退かすと、人一人がようやく通れるくらいの入り口が見つかる。
これ、コンラッドは通れないんじゃないか?
そう思ったが、甲冑を脱ぐことでなんとかギリギリ通ることができた。
「いやはや、こんなところに脱出通路があるとは。よくご存じでしたな」
「クレンテ・ローガンの娘は普段からこの城に詰めていたようだ。だから緊急時に備え、城からの避難通路を教えられていたらしい」
俺は私兵隊を先に行かせ、リブレスタの身柄を捕縛するよう指示する。この通路は食堂の絵画裏と当主の居室にある鏡につながっており、いずれも隠し扉になっているらしい。
ランタンを持ちながら、ゆっくりと隠し通路を進んでいく。しばらく歩くと、前方から私兵隊の一人が報告にやってきた。
「ご報告致します。少々手間取りましたが、リブレスタ・ルドワールの捕縛に成功しました」
「すぐに奴がいる場所まで案内しろ」
いやいや、だいぶ早かったと思うが。俺は驚きをおくびにも出さず当然と言わんばかりの反応を示す。
「はっ」
現場では凄惨な光景が広がっていた。六名ほどの側近と思しき死体が転がっていて、赤黒い液体が絨毯で敷き詰められた床を染め上げている。
リブレスタは鏡が少し動いた事で危機をすぐに察知し、近くにいる者をすかさず呼んだという。不器用なコンラッドは出口を塞いでいる鏡を外すのに苦戦し、ガタガタと音を立ててしまったらしい。その僅かな隙がリブレスタに猶予を与え、それを「手間取った」と表現していたようだ。
「お前がヘンリック・レトゥアールか……! なぜここに辿り着けた。守備兵も多く配置していたはずだぞ」
俺は報告を受けた後、堂々とリブレスタの居城へと踏み入り、居室で捕縛されたリブレスタと対面する。歳は俺とそう変わらない。動揺も窺えたが、それよりも好戦的な視線が色濃かった。この期に及んで、よくそんな目をできるものだ。
「当然だ。避難通路からここまでやってきたのだからな」
「避難通路……? お前、まさか!」
「あの男爵の娘がこちらにいるのを忘れていたようだな」
「くっ、クレンテめ……。忌ま忌ましいことこの上ない」
「気付いたところでもう手遅れだ」
こいつは愚かにも国中を巻き込む不正に関与し、あまつさえ反乱を起こした。
脳裏に焼きついたあの日の記憶。俺は反乱によって帝国を、家族を、恩師を、全て奪われた。そこから始まった、無限にも思える忍従の日々。
その光景が鮮明に脳裏を過り、際限のない怒りに打ち震える。
俺はこの男を、不正や反乱に与した人間を許しはしない。誰に咎められようと、どれだけ残忍だと忌避されようと、俺には関係ない。帝国の奪還、それこそが俺の宿命であり、甘えなど持てば自らの首を絞めるだけなのだから。
俺は佩いていた剣を抜き剣先を反乱の首謀者の喉元に突きつける。
「ヒッ……。こ、こんな事をして許されると思っているのか!」
「許す許さないを決める人間がどこにいる?」
何か喚いているが、俺の心に響く言葉は何一つない。剣先を首の皮に這わせてみれば、赤黒い血がドロリと滴り落ちた。
「ぼ、僕を殺せば、王国が黙ってはいないはずだ!」
「貴様程度の人間が殺されたところで、王国が動くはずもない。そもそも王国と繋がっていた時点で貴様は極刑に処されるべき人間だ」
どうして俺の心はこれほどまでに煮えたぎっているのだろう。
いや、自分でも理解はしている。身内の裏切りを誰よりも恐れているからだ。
子爵院でルドワールの不正を暴いた時は、他の貴族たちにどう信じさせるか、そればかりで頭が一杯だったこともあって、平静を貫けていた。
だが反乱が実際に起こって、そうもいられなくなった。サミガレッド家によって帝国を簒奪された俺にとって、当時の記憶を鮮明に呼び起こすには十分な出来事だった。同時に忍従の日々が蘇る。リブレスタと帝位簒奪を実行した生涯の仇を重ね合わせるようにして、曇りない復讐心を向けた。
正直、リブレスタにとってはとばっちりもいいところだろう。辛うじて冷静な思考が頭の隅に残っていたからそう思えていたし、激情のままにその首を刎ねる事も堪えられていた。
とはいえ復讐に動かされる意思が根幹にあるのは確かで、心の奥底にこびりついて完全に除去するのは不可能だ。だから俺がその意思を崩すことは絶対にない。
「死ぬ前に言い残すことは?」
「お前は……ッ! 僕を殺したことを一生後悔することになる!」
リブレスタが最期に紡いだ言葉は、俺の意思を介するまでもなく、剣を一閃するのに十分なものだった。
首から頭部がずり落ちる。鈍い音を響かせて床に落ちたそれの断面が目に入り、忌避感と嫌悪感を覚えた。血濡れた剣を振り払うと、その側面に自分の顔が映る。返り血を浴びた頬は目尻から流れた涙と結合して汚れていた。
これでいい。これが今の最善手だ。誰にも非難される謂れなどない。
そう自分に言い聞かせながら、俺はその場を後にした。
◆
俺は背中を追ってきた私兵隊の一人に対して、リブレスタの死を城の守備兵に告げて投降を促すよう指示を出し、広い食堂の中心に配置された縦に長い長方形のテーブルの端に陣取って脱力する。
心地の好い残響は一切無い。先程までの激情もとうに薄れ、心は哀愁に満ちていた。不快さを纏った浮遊感に身を任せていると、木造の扉がギギギと音を鳴らし、食堂を支配していた不気味なほどの沈黙が破られる。
「ヘンリック皇子。お見事、とでもいえばよろしいですかな?」
現れたのは、一連の出来事の観測者であるセレスだった。数度手を叩きながら称賛を表明するも、褒めているとはとても思えない声音にムッとする。
「その含みのある言い方はなんだ」
「よもや、僅かな手勢のみで敵城に乗り込むとは想像しておりませんでした」
「この城をすぐに正面から攻略できるほどの戦力を集めるとすれば、相応の時間が必要になる。これが一番手っ取り早い方法だった」
俺が持つ手駒の戦力は、数の上では貧弱にも程があるものだ。一人一人の技量に焦点を当てれば実質戦力は膨れ上がるが、それでも貴族たちが徒党を組んで向かってくれば、多勢に無勢なのは明白である。
そんな中、愚直に城を攻めるなど愚の骨頂。城攻めは攻める側が兵数において優位に立たなければ、余程高度な策でも用意していない限り挑むだけ無駄なのだ。
「それにルドワール陣営には大量の資金がある。時間を与えれば与えるほど戦力増強に動くことができるわけだ。資金があるからこそ、貴族たちが味方した側面もある。リブレスタを討ち、城を獲れば大勢が決する」
さすれば大公家を相手して戦うための体力も資金力もなくなる。
最初から有力な子爵家はリブレスタに付かなかった。子爵家は総じてプライドが高いこともあって、他の子爵家に、それもまだ若いリブレスタに同調して従うという選択を疎んだのだ。だからリブレスタに味方した者は全て男爵以下の、言ってしまえば小粒な者たちだった。
しかしそんな烏合の衆といえど、合わせればかなりの数になる。ルドワール子爵家が溜め込んだ潤沢な財があれば、一時的に大量の傭兵を雇う事だって容易だ。そうなってしまっては、こちらの戦力的な優位性は薄れてしまう。
そのため全部隊が集結して態勢を整えるのを待つつもりはハナからなかった。
「……本当にこれが最善策だったのですかな?」
「何が言いたい」
俺はその言葉の真意を計りかね、眉根を寄せる。
「皇子はこの反乱を起こすために、あの場でキプレアの不正を暴いたのでは? 息子のリブレスタが怒って挙兵し、ルドワール子爵家に加担した者が味方することも全て狙い通りであり、そうすることで不正貴族を炙り出して一掃しようとした。違いますかな?」
「だったらどうする」
「皇子のやったことは、確かに正しいのでしょう。ただ、過剰な締め付けは多くの人間の不安を煽ることになる。それが起因して皇子に反発する人間も多く出てくるかもしれません。その者たちも問答無用で一緒くたにして、例外なく罰を下そうというのも、酷ではないのかと私は思うのです」
「ふん。そんなのは些細なことだ。反発するような者は、元からきな臭い一面を持っている」
「その思想を否定はしませんし、皇子のしたことが効率的だったことは認めましょう。ですがそれはあまりに事を大きくしすぎる」
「事が大きくなれば、それだけ不正や裏切りを断じて許さないという意思を浸透させることができる」
「その意思には抑圧という一面を孕んでいます。貴族の萎縮を誘い、結果的に悪影響をもたらす可能性もありましょう」
「……」
ぐうの音も出ない。叛意を持つ貴族を一網打尽にしようとしたのは、決して純粋な正義心からきたものではない。過度に不穏分子を排除しようとしたのは、ヘンリックの根っこに染みついた恐怖心に起因する。放っておいたら、いつか寝首をかかれるのではないかと怖かったのだ。
「もう一度聞きましょう。皇子、本当にこれが最善策だったのですかな?」
俺は答えない。いや、ヘンリックが返答を拒んだ。
「ヘンリック皇子は賢く、きっと誰よりも未来を見据えておられる御方なのでしょう。この数ヶ月、皇子の成した事全てに私は心の中で賛辞を送らずにはいられませんでした。だからこそ思うのです。思慮深い皇子ならば、ルドワール財務長官の不正を暴くにしても、もっと賢明なやり方を選択できていたはずだと。皇子の選択には明らかな焦りがあった」
俺はその指摘を否定することができなかった。
呑気にしていては、帝国の奪還などという先の見えない目的に達する事など到底叶わない。事を一気に片付けられるのならそれが最適なのだという、先鋭的な思考に支配されていたのは事実だ。
それを見透かされたように思えて、俺は視線を逸らした。
だがこの口は、それでも強がってみせる。
「……この国を揺るがしかねない貴族はいずれにせよ一掃される。大公家にとっては間違いなくプラスに働くはずだ」
「それは皇子がそう信じたいだけなのだと、私は思わずにいられません。そして事を大きくした弊害は、そう遠くないうちに浮かび上がってくる事でしょう」
「ふん。そんなものは些末なことだ」
ヘンリックの身体はこれ以上都合の悪い事が突きつけられるのを拒み、セレスから離れる事を選んだ。セレスの性格を思えば、今の口論が直ちに関係を修復不可能なものにするとは思えない。むしろセレスは俺の事を認めている口振りだった。
とはいえ、セレスの言うことは正論だ。
俺は確かに焦りを抱いていた。
だがセレスの指摘によって、思わぬリスクがあったことにも気づくことができた。考えが足りなかったと反省はすべきだろう。
諫言は受け入れ、次に繋げる。
セレスはそれを求めているのだと、俺は解釈する。
これからはもっと隙のない策を講じなければ。俺の頭の中はすでにそればかりだった。
◆
キプレア・ルドワールの不正は、表向き隠匿された。ヘンリックがあの場で暴いただけでも十分だったからだ。
下級貴族や一般市民にまで周知するというのは、アレオン自身がさすがに忍びないと消極的だったこともあるが、それほどの不正をずっと見逃していたと捉えられ、大公家の信用を傷つける恐れもあったので、落とし所としては妥当とも言えた。
だから、あの場にいた人間以外はルドワールの本性を知らないままである。ルドワールは流行り病に冒され、手の施しようがない状態であり、周囲には気丈に振る舞いつつも、病には勝てなかった。そんな筋書きだった。
息子のリブレスタも同じ病に伝染して世を去ったと公表された。ルドワール子爵家の資金力を頼って味方した貴族は、反乱への意欲を一気に減衰させる。
ヘンリックは「不正」に対しては断固として許容しないつもりだったが、他の貴族に関してはルドワール子爵家に煽られた側面も大きく、また内乱の長期化は芳しくない。
そこでヘンリックは貴族たちに対し、アレオンに謝罪すれば今回の反乱を不問とする触れを出し、アレオンもやってきた貴族全員の謝罪を受け入れた。
とはいえ、ヘンリック個人は今回の反乱に加担した者について、今後二度と重用するつもりはなかった。
◆
アルシアナは、鬱屈した心境で日々を送っていた。
目下の悩みの種は帝国から婿としてやってきたヘンリック・レトゥアールという男だ。
初めて顔を合わせた日、アルシアナを視界に入れようとせず、ひたすら大公である父を見据えるばかりだった。
まるで自分に興味がないような反応に、アルシアナは尊厳をひどく傷つけられた。
(ヘンリック皇子にとって、私は大公家の一員として振る舞うために必要な道具でしかないのね)
そう思ってしまうのも無理はない。同年代と比べれば成熟した精神を持っているアルシアナとはいえ、思春期の女子には違いない。婚約者という存在に全くロマンを感じていなかったと言えば嘘になる。
しかし現実はそんな生温いものではないのだと、容赦なく突きつけられることになる。アルシアナは何度も、ヘンリックの身辺について探りを入れていた。
そこには淡い期待もあった。悪いことばかりが表に出ているだけで、実は評判の良い一面も持っていた、となれば少しは受け入れられるかもしれない、と。
だが探れば探るほど、否定的な情報しか出てはこない。冷酷無情な人格破綻者、その印象を欠片も改めることはできなかった。
それでもアルシアナは一縷の望みを懸けて何度も話しかけたが、対応は一貫して「忙しく構っている暇はない」というものだった。一瞥もくれず平坦な声音で告げられ、流石のアルシアナも心が折れかけた。
(いいえ。忙しいというのは方便で、私をわざと遠ざけようとしている?)
自分と話したくない理由がヘンリックにあるのではないか。そう思い、アルシアナは強硬な姿勢で尋ねた。
「なぜ貴方は私を遠ざけているの?」
「気づくのが遅い。最初からお前と関わる気はなかった。その意思表示は最初から一貫していたはずだ」
「私は理由を聞いているの。貴方が私を遠ざけていたことなんて、最初から分かっていたわ」
「この婚約は政略結婚だ。馴れ合う意味がどこにある」
アルシアナは断固たる意思を前にして怯んでしまう。本当に興味が無いのだな、と乾いた笑いを漏らしたくもなった。
だが、これまでアルシアナとの会話を拒んできたヘンリックが、珍しく会話を成立させた。ここで退くのは簡単だ。でもアルシアナは、一歩踏み込むことにした。
「……最近、父上は塞ぎ込んでいるわ。何かあったとしか思えない。これは貴方の仕業?」
当然、アルシアナとて父親が落ち込んでいる原因がルドワール子爵の死だということは理解している。ただ、それだけでは片付けられないほどに、アレオンは日々思い詰めた顔を覗かせていたのだ。
アルシアナはそれを見て、忠臣を失った悲しみとは質が全く異なるような気がしていた。
「仕業とは人聞きの悪い」
「……否定はしないのね」
「奴の代わりに汚れ仕事を片付けてやっただけだ」
「汚れ仕事……?」
「貴様が深く知る必要は無い。貴様の父親もこのことは了承済みだ」
「もしかしてルドワール子爵親子が亡くなった件に関与しているのではなくて?」
「どう思おうが貴様の勝手だが、仮に貴様の仮定が合っていたとしたら、どうするつもりだ?」
ルドワール子爵親子の死については病死で片付けられていたが、アルシアナとて不可解に思っていた。
とはいえヘンリックがそれに関わっているとは夢にも思っておらず、当人が一切否定の言葉を口に出さないのを見て、ヘンリックに歩み寄ろうとした自分がどれだけ愚かだったのかを実感してしまう。
「公女として全力で止めなければいけないわ」
「その止める手段は何だ? 俺を殺すか?」
ヘンリックの冷酷な言葉にアルシアナは一瞬硬直しつつも、すぐに気丈さをアピールするように胸の前で右の拳を握りしめる。
「それこそ帝国の思う壺よ。この国が完全に孤立してしまうだけ」
アルシアナは大公国の姫に相応しい水準の教育を施され、文武双方において才覚に優れた少女である。ゆえに浅慮な行動を慎む思慮深さも持ち合わせていた。
(分かってる。私にできることなんてない。もしこの皇子に危害を加えれば、民は皆苦しむことになる。どうすればいいの?)
ヘンリックの見下すような視線を真正面で受けながらも、柳眉を逆立てて精一杯の抵抗を見せるアルシアナだったが、やがて力なく視線を落とす。
「大層な口を叩くのは結構だが、貴様は一度でもこの国をどうにか変えようとしたか? 国民の暮らしを変えようとしたか? していないだろう。いや、できなかったという方が正しいか」
なぜヘンリックが見透かすような言葉を言い放てるのか。
実際に話す機会はなくても、情報なら幾らでも収集できたし、仮にも婚約者同士という間柄である以上、アルシアナのことを聞いて訝しむ者がいるはずもない。孤児院へ頻繁に足を運んでいることも知っていたし、子供たちから慕われている光景だって実際に目にしている。だがアルシアナは中層街には頻繁に足を運びつつも、一度として下層街に足を踏み入れてはいなかった。アレオンからきつく禁じられていたからだ。まだその時ではないというアレオンの意向で子爵院への出席すらも許されていない。
アレオンはアルシアナのことをまだ年端のいかない少女としか見ていないのだ。世俗の混沌、醜さに直面させるのが憚られる。アレオンのそんな心情が伝わってきた。
だからこそ下層街への立ち入りが禁じられていた。孤児の現実を知ったら、餓死・凍死に見舞われる人間を見れば、アルシアナはきっと涙するだろうと思って。
そんな気遣いを無下にするように、ヘンリックは棘を帯びた言葉を容赦なくアルシアナに投げかける。
「貴様は知らないだろうな。この国には貧困に苦しみ、日々の糧すらも得られない、寒さを凌げない、そんな人間がたくさんいる。親を失い、行き場を持たない子供が大勢いる。そんな人間に貴様は一度でも手を差し伸べたか?」
アルシアナは息が詰まって言い返せなかった。下層街の人間が決して裕福な暮らしを送れていないことくらいは実際に見た経験が無くても容易に想像がつく。しかしその程度は、アルシアナの想定をゆうに超えたものだった。
「本来死んでいたはずの人間も、俺が生かしてやったんだ。それに、全ては俺の資金を元手として行われたものだ」
畳み掛けるように告げると、アルシアナは俯いて黙り込んだ。ヘンリックとて、その事実を誇らしげにするつもりは毛頭なかったし、それが打算による産物であることも理解していた。だからこそ、内心で自らの物言いを恥じる。それでも、ヘンリックの口は止まらない。
「だから俺がその全てを奪い取る権利だってある。それを分かっているんだろうな?」
実際にそんなことをするつもりはなくても、アルシアナにはその言葉が顕著に効いた。
いや、こうすることくらいでしか、ヘンリックはアルシアナを自分から遠ざけることができないと思ったのだ。
(だってそうだろう? こんな酷い態度で突き放し続けてきても、こうして諦めず俺と向き合おうとするんだから)
「俺の邪魔をするな。貴様が静観していれば、何もしなければ、全てがうまくいく」
「……ッ!」
アルシアナは耐えきれず、無言のまま踵を返した。その背中にヘンリックは声をかけない。ひたすら冷淡な視線を向けるだけだった。部屋の外で待機していたシャロンが、飛び出していくアルシアナに声を掛けようとするが、その眼中にはもはや誰も映らない。
「よろしいのですか?」
特段外に漏れ出るような声量のやり取りでもなかったが、シャロンは一言一句違わず聞き取っていた。
「何がだ」
「アルシアナ様、確実に勘違いされておられますよ」
「それでいい」
「なぜ……」
その『なぜ』には悲哀や困惑、焦燥が混ざりあっているようにヘンリックは感じた。シャロンとて、慕う主君が傷つくのを見て喜ぶ趣味はない。心中に置いている思いとは裏腹な行動を取るヘンリックに対して疑問を抱いた。
いや、それがヘンリックの通常モードだと理解はしているものの、普段よりも明らかに語気が強く、余裕を欠いたように感じられたからこその疑問だった。
「あいつは俺に歩み寄ろうとしているようだが、邪険にされていると理解していながら嫌々関わり続けて何の意味がある。馬鹿としか思えない」
「……だからと言って、わざと相手の解釈を捻じ曲げるように誘導し、自分を下げてしまうのは聞いていて快くありません」
「ああでもしなければ、あいつは俺を見限れなかった。俺は俺のやるべきことができれば構わない。この婚約はそのために必要なものだ。目的を達成すれば、この婚約は直ちに解消するつもりだから、何の問題も無いんだよ」
「でもそれまで、婚約者という立場にアルシアナ様を縛り付けてしまうことにもなります」
「愛人を作ろうが俺は関知しない。どこに問題があると言う」
「問題しかありません。アルシアナ様が殿下の婚約者だと知られている以上、近づく者なんてまずいません」
ヘンリックの振る舞いを見れば、アルシアナに手を出すなんてリスクのある行為を好むはずもない。それが公認されていようと、飛びつく者はいない。相手が帝国の皇子とあればなおのことだ。
「それは俺の知ったことではない」
「一度、アルシアナ様と話してみてはいかがですか?」
本音で語り合う、そんなことをヘンリックができるはずもない。今から訂正したところで狐疑されるだけである。
「今の会話を聞いてそれが言えるのか? もうこの関係は修復不可能なところまで来ている。俺は確かにこの国を発展させ、貴族の信望を勝ち取った。そして不正を暴いて不穏分子を排除し、財政も回復に導いた。だがその全てはこの国を帝国奪還の踏み台にするために過ぎない。この国の資源・人・財産を利用しようとしている。それを知れば奴は幻滅するだろう。その未来を回避するために、先手を打った」
帝国の奪還という目的のため、この国をそのための道具として利用すること。それにヘンリックは後ろめたさを感じていた。
「それでも、苦しんでいた人を救ったのに変わりはありません。死ぬはずだった人も、殿下の手で大勢救ったはずです」
ヘンリックが目的のためだけに突き動かされて策を巡らせているわけでない事は、シャロンが一番よく理解している。主君の目的を知ってなお、シャロンが抱いている好意的な心情が色褪せることはない。決して盲目的ではない、正当な評価だとシャロンは内心胸を張る。
「それは結果論だ。他者への思いやりなどどこにもない。俺は俺の目的を達成するためだけに動いている。貴様も俺への幻想を持つのはいい加減やめた方が賢明だ」
「私は殿下に命を救われました。殿下が本当に他者を思わない人間ならば、ただの使用人に過ぎない私を庇った説明がつきません」
シャロンはヘンリックに命を救われた。冷酷無比な人間が、何の思い入れもない一介の使用人を庇うはずがないのだ。
「それとこれとは話が別だ。それに貴様を救ってやったのは貴様が有用な人間だと見抜いていたからにすぎない」
「殿下は帝国の奪還と言いますが、私は知っています。民のためを想い、徹夜で施策を熱心に練る姿を。孤児院の子供たちに私を介さずに物資を授けていることも。知っていますか? あまりにも熱中し過ぎた殿下はたまにその内心を漏らしているんです」
熱中しすぎた結果周りが見えなくなってしまう、なんことは誰でも往々にしてある。
「……幻聴だろう。医者に見てもらうべきだ」
返答に窮したヘンリックの顔は歪んだ。答弁のキレに翳りが見える。
「私の耳は誤魔化せません。嘘だとは言わせませんよ」
ボロが出たか、とヘンリックは唇を噛む。その内心は焦燥に支配されていた。
「……何を言われようと俺のサミガレッドへの復讐心は揺るがない。俺の行動がこの国の人間にとって不利益になるだろう。下手に関係を構築して情に絆され、奴への復讐心を忘れるわけにはいかない」
「それは……、帝国の民を圧政から救うためですか?」
「……なぜそう思う」
ヘンリックが掲げる帝国の奪還という宿志には、確かに帝国の民をサミガレッド家の圧政から救うという想いが折り重なっていた。とはいえ、一度も口に出した覚えが無いのに、いとも容易く言い当てられてヘンリックの面持ちがあからさまな不機嫌に変貌する。同時に自らの迂闊さを呪った。
「この国に来る途中、うなされる殿下が仰っていました。私は耳と記憶力がいいんです。一言一句忘れません。観念してください」
「……はぁ。貴様には小手先の弁明が通用しない。厄介な女だ」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
「言っておくが、何を言われようと公女と馴れ合うつもりはない。だがこのまま放っておくのも哀れだ。だから貴様が公女と関わるのを止めるつもりはないが、絶対に俺の事情は話すな。いいな」
「……はい!」
アルシアナのケアをよろしく頼む、ヘンリックはそう告げたつもりだったが、口から出たのは随分と遠回しな言葉だった。