「殿下、ヘンリック殿下!」

 シャロンは明らかに取り乱した様子で、ヘンリックに呼びかける。もはや反応はなく、ただそれでも浅く息をしていることにつかの安堵を覚えた。しかしそれもおそらくあと数分、数十秒しか保たない。シャロンはけんめいりようを続ける。

 シャロンとしても、ヘンリックのことを「クズ」と形容するのに一切の異存はない。母の言いつけによりヘンリックの使用人になった日から、シャロンは精神的な苦痛を味わってきた。日常業務における細かなミスであっても、ことあるごとにてきを受ける。そんなのはまだやさしく、ヘンリックが胸に抱いた要望に対して、察しが足らずられるのもめずらしいことではなかった。

 母を亡くしてらくたんの底にあった自分に降り注いだ情け容赦のないしつせきは、シャロンの心根を深く傷つける。ただ、それがシャロンを大きく成長させることにも繋がった。全ての業務をそつなく完璧にこなせるようになったし、めつなことで動じなくもなった。

 だからと言って、シャロンが今の今までヘンリックにまぎれもないけん感を抱いていたという事実は揺るがない。

 それでもシャロンがヘンリックの婿入りに同行したのは、ヘンリックに言い当てられた通り、ゲレオンの束縛から逃れるためだった。これまではヘンリックの使用人として働いてきたこともあり、現皇帝と直接の面識はない。それでもこのまま帝国にいれば、いずれ母と同じきようぐうを甘んじて受け入れるしかなくなる、そう確信していた。なぜならシャロンが自身の容姿について、周囲より格段に優れていると痛いほど自覚しているからだ。

 それにヘンリックに同行すれば、しばらくは暮らしていけるだろうという楽観的な考えもあった。ゆくゆくは母の親戚に身を寄せようと考えていたのも事実だ。

 そんなシャロンがヘンリックに対して必死になって治療を施している。死なせたくないと思っている。自分自信でも理解ができない行動であり、心情の変化だった。

 しかし、もっと理解できないのはヘンリックの行動であった。

 周囲を見下し、さげすんできたはずのヘンリックが、シャロンを庇いひんおおを負ったのだ。その行動に一切のためらいも窺えなかった。

 そればかりか、金を手渡して逃げろとすら言われた。誰かと入れ替わったのではないかとさつかくするような変わりようだった。

(それに、母がエクドール出身なんて誰にも教えたことがなかったのに)

 シャロンが自分の個人的な事情を共有したことなど一度もなかったし、ヘンリックも興味すら持っていないりだった。にもかかわらず自分の事情どころか母のことまでも熟知していることに、シャロンもおどろきをかくせなかった。

「爺……。俺は約束を……果たせそうに……ない。帝国の民を救うことが……できなかった……。すまない……。本当に……すまない」

 うわ言をこぼしながら、ヘンリックの瞳からひとすじしずくが溢れ落ちる。シャロンは耳を疑った。爺という人物に心当たりはなかったが、それよりもヘンリックの口から「民を救う」などという言葉が飛び出すとは夢にも思っていなかった。

 ヘンリックは常にさいなことでも他人を叱責するし、他人を気遣う素振りなど一度も見せたことはない。皇宮でものあつかいされているのも、疑いなくなつとくしていた。

 そんなヘンリックの口から、人を思いやるような言葉が出てくるとは夢にも思わなかった。うわ言で本心でない言葉を述べることなんて、狙ってできるはずもない。

(まさか、殿下は私の行く末を案じて……?)

 昨日までの自分なら全力で首を横に振るような結論に至る。

 長いどくの最中にいる自分を、独り立ちできるように見ていてくれたのではないか。思えば、普通の人間では絶対に気づかないようなものを指摘してきたことも一度や二度ではなかった。

 ヘンリックは日々の研鑽を欠かさず、ひたすらに自分を追い込んでいる。シャロンもそれは帝国を背負う人間として当然の責務なのだろうと納得していた。

 だがそれは違う。帝国の民を救うために、常に甘さをてつていして切り捨てていたのだ。

(もし殿下が人々を帝国の圧政から救うべく、孤独に戦い続けていたのだとしたら……?)

「……ッ」

 シャロンはかんきわまってきやしやな身体を震わせる。

(私も母を亡くして孤独だと思っていたけど、殿下はもっと長い孤独の中にいるのね)

 しかも立場を考えれば、いつ命を刈り取られるかわからない。シャロンよりも遥かに厳しい世界で戦っているのだ。

 シャロンは思わずほおれそうになったが、不敬だろうとかぶりを振り、指先を引っ込めた。

 今考えるとヘンリックは、自分が一人で生きていくのに困らないよう、そつせんして厳しく接していたのではないか。母を亡くした悲しみを乗りえられるよう、しつに叱咤を重ね、発破をかけてくれていたのではないか。シャロンはそんな確信めいたものを感じていた。

(私が支えてあげないと)

 ヘンリックは「民とていこくを安んじる」としながらも、その胸中とは裏腹に人は離れていった。

 だからこそ、自分が理解者としてそばにいなければならない。ヘンリックだって同じ人間だ。くじけそうな時も必ずあるはずで、自分に対しても異常なほど厳しいヘンリックが、そんな時に何をどころとすれば良いのだろうか。言い訳はできる。弱音を吐く事だってできる。しかしヘンリックがそんな姿を見せるとは思えない。

 自分がぐちにされても傷付かず立てるくらい強くならなければ、ヘンリックのとなりに立つことなど許されないのだ。

 懸命な治療を続けていたシャロンだったが、内臓をズタズタに傷つけられていたヘンリックは無情にも息絶える。それでも、シャロンの顔に焦りは無かった。

殿でん、殿下!」

 残りの敵を片付けたコンラッドが駆けつけてくる。ヘンリックの死に直面し、ゆがんだ表情は色濃い絶望をはらんでいた。

「くっ……。殿下が命をして頭領を倒したおかげでなんとかやりきれたのに、殿下が死んでは元も子もない……!」

「……コンラッド様、少し下がっていてください」

 シャロンはどうこうを大きく開いたまま、ヘンリックの身体に優しく触れる。その身体はまだ、確かな温もりを残していた。

「な、何をする気だ?」

「今から殿下を復活させます」

「君がほうを使える人間であることはわかった。でも復活など、そんなことができるのか?」

「……簡単ではありません。でも、絶対にげます」

 シャロンは大きく深呼吸をする。

たましいの全てを以て、なきがらぶきをもたらさん。ささげ、世のことわりちようえつす!」

 シャロンは母から教わったえいしようを、一言一句たがわず行う。詠唱は非常にせんさいであり、声のよくようやスピードによって成功率が左右され、強い意思があればあるほど、その質は高まる。

(殿下、絶対に生き返らせます。こんなところで死なせるわけにはいきません!)

 そして何より、大魔法の場合は集中力が大切になる。少しでもさんまんになれば、成功率は低くなってしまう。だからシャロンはいまだかつてないほどに集中し、ヘンリックの全身に語りかけた。

『いい、シャロン?』

『なに? お母さん』

『これまで話したことは無かったけれど、貴女あなたは魔法を使えるの』

『まほう?』

『分からないわよね。絶対に守らないといけないことがあるわ。まず人前で気軽に使ってはいけないということ』

『どうして?』

『シャロンが魔法を使えると知られたら、悪い人につかまっていやなことをたくさんさせられるかもしれないからよ』

『嫌なこと……それはちょっと怖いかも』

『そうでしょう? 魔法には小魔法と大魔法の二種類があって、大魔法は特に危険なの。大切な人にしか使っちゃダメよ』

『……危険?』

『母親としては知らない方が良いと思うわ。貴女のことがだれよりも大切だから。でもシャロンの人生は、シャロン自身のものよ。私の勝手なおもいで、貴女の大切な人をうばうようなをしたくない。今はまだ分からないと思うわ。でも貴女は知っておかなくちゃならない。使うべき時が、貴女の人生で訪れるかもしれない。それは貴女にしかできないことだから』

『わたしにしかできないこと?』

『貴女は人を一度だけ生き返らせることができるわ。でも、それはとっても危険なものなの。人を生き返らせるというのは世の理に反するもの。シャロンは大きなだいしようを払うことになるわ』

『代償ってなに?』

『それはね――』

 脳裏をめぐったのは、幼いころおく。シャロンが初めて魔法の存在をにんしきして、自分が魔法を使えることを知った日。そして、魔法が危険なものだと理解した日。

(お母さんがこれまでの殿下を見ていたら、私がちがっているとしかるかもしれない。でも、この人は私がしんらいしたいと思った人だから。自分をかえりみず、私の命を助けてくれた。私の未来を、案じてくれた。きっと私は、間違っていない)

 確証めいたものが、シャロンの中にあった。自分はきっと、間違っていないと。

 復活魔法が使えるのは、死後数分のわずかな間。母親をくした時には発見が遅く、もう魔法では修復できないほどに朽ちゆく最中だった。そうしたけいから、シャロンの中には大切な人を救えなかった負い目がくすぶっている。だから今、目の前の救える「恩人の命」を救わないというせんたくはハナから存在していなかった。

 シャロンが自身の行動の正当性を言い訳がましくも抱えていたのは、この決断を案じているかもしれない天国の母に、自分の判断が間違っていないと証明するための理由づけだった。

「お願い、成功して!」

 シャロンとて、復活魔法は初めての行使だった。成功する確証はどこにもない。それでも、シャロンには成功させる自信と、強い想いがあった。強い想いは魔法の源泉になりうる要素だ。だからシャロンはひたすらいのり続けた。