◆過去の記憶
「はぁ、はぁ……!」
追っ手から逃げる二人が、狭い地下通路に苦悶の息遣いを響かせる。もはや臓腑全てが悲鳴を上げ、身体がひっきりなしに不調を訴えていた。断続的な目眩と頭痛が、二人を悩ませる。
追っ手はレトゥアール帝国の乗っ取りを図る組織。それが突然城に乗り込み、容赦なく皇族の命を次々と刈り取っていった。それこそ、道端の雑草を刈り取るかのように。
この局面において唯一の味方であるホルガー・フベール侯爵の機転により、どうにか帝都の地下に張り巡らされた避難道へと逃げ込めたものの、追っ手はすぐにそれを察知した。
地下通路さえ抜ければ、城壁の外側へ落ち延びることができる。しかし、通路から出られたとして、自らの体力的にそれ以上逃げ延びることは不可能だと、ホルガーは悟っていた。緩やかに減速し、やがて立ち止まったホルガーは、小さな背中を強く押す。
「殿下! ここは儂に任せ、どうか一人で逃げるのじゃ!」
息切れは激しく、疲労の色は濃い。それでもせめてもの足掻きと言わんばかりに、腰の剣に手を添えて臨戦態勢を整えていた。
「無理だ! 爺が唯一の頼りなんだ。絶対に置いていくものか!」
殿下――ヘンリック・レトゥアールのわずか九歳の子供らしからぬ迫真の声に、ホルガーは瞠目する。追っ手は無数にいる。この地下道を抜けたところで、命を拾える可能性はそう高くない。それこそ、老体に鞭を打つホルガーを随伴させたままであれば、その確率はさらに下がる。
それでもヘンリックは老いて足取りの重いホルガーの手を引き、再び走り出した。
一心不乱で狭い地下道を駆ける。その甲斐があって、出口からの淡い光を視認した。しかし外の光という甘い幻惑が、胸臆に潜む僅かな慢心を手繰り寄せてしまう。
光はやがて鋭利な矢に変容した。出口に追っ手が待ち構えていたのだ。
その追っ手が二人を射貫く構えをしていると気づいた時にはもう手遅れだった。ヘンリックは反射的に目を瞑り、未だ知り得ない痛覚の鋭さに備える。
だがそれがヘンリックの身体を貫くことはなかった。庇ったのが誰かは推して知るべしで、赤黒く染まった液体が眼前で弧を描く。
「爺!」
ヘンリックはすぐさま駆け寄った。矢は肩や左腰、右足を深々と貫いている。ホルガーはヒューヒューと苦しげな呻き声を上げていた。
「爺、死ぬな! 約束したではないか! 共に父と兄を支えて更に広い世界を見ると! 貴族は一度口に出した言葉を何があっても守らねばならないのだと、爺は口酸っぱく言っていたではないか! 約束を破るなどこのヘンリック・レトゥアールが許さないぞ!」
「約束を守れず、すまんかった……! 願わくば儂も殿下の行先を見たかった!」
「謝るくらいなら気を強く持て!」
「今の矢、殿下からは絶妙に逸れておった。きっと相当な手練れであろうな。単なる威嚇のつもりじゃろう」
それを頭では理解していても、ホルガーの身体は条件反射的に動いてしまった。万が一にもヘンリックに当たるのを防ぐために。
「サミガレッドの連中は自らの統治を内外に認めさせるための大義名分として、殿下を必要としている。だからたとえ儂が死んでも、殿下が殺されはせんじゃろう」
「何を言っている! 世迷い言ならあとでいくらでも聞いてやる。だから遺言まがいの言葉など冗談でもやめろ!」
「いずれ殿下は……帝国を奪還するための好機を得るはずじゃ。その時が来ても……殿下には多くの困難が待ち受けているに違いない。それでも……その手で帝国の民を……何としても救うのじゃ。奴らに任せていては……民は疲弊し……土地は荒れ果ててしまう。賢明な殿下ならば必ずや果たせるはずと……爺は信じておる……!」
ホルガーは機械のように伝えたい事を喋り続け、ついに事切れた。ヘンリックの嗚咽が狭い地下通路を支配する。
「ヘンリック殿下、皇宮に戻られよ。これ以上抵抗しない限り、殿下に危害を加えるつもりはない。さあ、こちらへ」
聞き慣れたやや高い声が耳に響いた。
騎士団長であったはずの男が、軽薄な笑みを浮かべながら近づいてきて、ヘンリックの身体を影で覆う。
ヘンリックはまだ温もりを確かに帯びるホルガーの亡き骸をその眼に刻みつけながら意を決した。乗っ取られた帝国を必ずや奪還すると。そのためには手段を選ばない、と。