◆セドリア川の決戦



「ヴェルマー卿、此こ度たびの助力はご苦労だったな。その英断がなければ我わが軍は更に多くの兵を無む駄だに失うことになっていただろう」

「我らも長年の宿敵であった帝国と手を結ぶ大公家には辟へき易えきしていましてなぁ、フフフ」

 オストアルデンヌの領主居館で、ヴェルマーとグラハムは初めて向き合っていた。本来の領主は今回の戦いに参さん陣じんしており、居館には不在だった。

 ヴェルマーの軽けい薄はくそうな微び笑しようと不気味なオーラは、グラハムにとって気に食わないものだった。

 グラハムは一応感謝を述べるものの、内心でははらわたが煮にえくり返るほどの怒いかりを蓄たくわえている。この戦いは勝利が確定している戦いであり、グラハム自身も「どのように勝つか」以外の考えは備えていなかった。

 本来ならば圧倒的な武力と士気によって最小限の犠牲で勝利するつもりで、大公が表に出てきたのはむしろ僥ぎよう倖こうだとほくそ笑えんでいた。

 ただ、結果は少なくない兵を失う結果になってしまっている。

 その要因の一つは、あまりにも貧ひん弱じやくなヴェルマーの率いていた兵だ。ヴェルマーの加勢は確かに敵の陣じん形けいを崩し、明らかな動どう揺ようを生じさせた。大公国の反大公家勢力を味方に取り込こむこともできた。

 でもそれは、大公国が帝国に鞍くら替がえした当初から侵しん攻こうを見み据すえて懐かい柔じゆうしていたから、それを使わない手はなかったというだけである。グラハムが苛いら立だっていたのは、その労力に見合っているとは言い難いと感じていたからだ。大公国の兵を弱兵だと罵ののしりながらも、ヴェルマー子爵軍の弱兵ぶりはそんな中でもとりわけ目立っていたことを突きつけられ、グラハムは呆れ返った。

 そもそも、用が済んだらヴェルマーのことは始末するつもりだった。だから、本来はこんな場所でグラハムが謙へりくだる必要などどこにもない。利用価値がまだあると思っていたから、こうして表面上は敬うような姿勢を見せていただけである。

 一方で、ヴェルマーの立場は、もはや王国の援えん助じよなしには立ち行かない状況だった。次期大公に据すえる代わりに提示された条件も、かなりの譲じよう歩ほが求められているものだった。

「しかし拘こう留りゆうした公女を逃のがすという失態を犯おかしてしまいましてなぁ。誠まことに面めん目ぼくない」

 ヴェルマーに味方した貴族が捕ほ縛ばくしていた公女が脱だつ走そうしていたのは、正直なところヴェルマーの軍勢があまりに弱兵だったという事実より、何百倍もグラハムを苛立たせていた。

 公女アルシアナの身み柄がらさえ確保すれば、大公家は簡単に崩壊するはずだったからだ。アレオンの生死も不明である現在、大公国の反はん抗こう心しんをへし折るにはまだ足りない。

 大公が死に絶えた事実を証明できればまだ大公家に付いている貴族の心も動くだろうが、死体を発見することはついにできなかった。どこかに逃された可能性もあり、だからこそアルシアナの身柄確保は重要事じ項こうだった。

 それを大したことのない失態と言わんばかりにヘラヘラと笑うヴェルマーをグラハムは思い切り怒ど鳴なりつけたい気分に駆られるが、まずは邪じや魔まな大公家を打だ倒とうすることが最優先だと、固い克こつ己き心しんを腹に宿す。

「過ぎたことを悔くいても仕方ない。アルバレンに籠こもった敗残兵を叩けばいいだけのこと」

 グラハムは気の良さそうな笑みを浮うかべてヴェルマーに告げる。本心とはかけ離はなれた所作を見せる様子に一いつ切さいの異変を感じとることもなく、ヴェルマーはホッとした表情で胸を撫なで下ろした。

 ヘンリックの読み通り、グラハムはアルバレンの攻こう略りやくに興味はない。あの場所こそ、王国にとっては無益な土地だからだ。その上、大陸随ずい一いちの堅けん牢ろうな城じよう塞さい都市となれば、ますます狙ねらう必要などない。もっとも、アルバレンの近きん郊こうにはホップが自生しているが、価値の大きさは現状大公国側しか知り得ない。

 王国にとっては、銀山さえ手に入れば良いのだ。エルドリアのすぐ北側にある銀山を獲とるためには公都を落とす必要がある。

「エルドリアの東には迎撃用の砦とりでがあると聞くが、他に罠わななどはあるのか?」

「そういったものは知りませんなぁ。全て帝国の皇子によって勝手に作られたもので。まったく、帝国の輩やからの横暴は困ったものですなぁ。フフフ」

 やれやれと呆れたような仕草で答えるヴェルマーに、グラハムは内心で舌打ちする。

 エクドールの貴族ならば知っていて当然のはずだと踏ふんでいたが、期待外れの結果に溜息を吐きそうになる。大公国内部の機密情報がヴェルマーからは全く出てこない。

 それだけ軍事に無関心だったのだろう、と逆にヴェルマーに対して呆れ果てていた。

 とはいえ、大勢が決した今、内部から突き崩していく必要もない。一大決戦で敗れてもなお大公家に与するような貴族に調略が通じる可能性は高くなく、王国軍の士気も低くない。エルドリア城も籠ろう城じよう向きの城ではなく、砦からの迎撃さえ撃うち破やぶれば勝利は確実だった。

「兵を大きく減らして追い込まれた大公家が、再び打って出るような真ま似ねをするとは思えん。この国の冬は長い。雪が積もり始める前に戦を終わらせねばならん。ならば悠ゆう長ちように構えている暇はないな」

「我らは如何いかがすれば?」

(ふん。仮にも大公家の後あと釜がまに収まらんとする人間が、ここでいとも簡単に全権をこちらに委ねるとはな。大公家がこれからも王国で強い存在感を持ち続けるためには、お前の手しゆ腕わんがモノを言うのだぞ。全く愚おろか極まりないが、こちらとしては好都合か)

 グラハムは小さく鼻で笑いながら、傀かい儡らいとしての適性だけは評価する。

「後方支し援えんをしてもらおう。先の戦いでの消しよう耗もうは貴殿が特に激しかったであろう」

 本心から言えば、ヴェルマーに味方した貴族たちの兵を矢や面おもてに立たせて戦力を削けずり、エルドリア奪だつ取しゆ後の大公国支配を楽にしたいところだが、先の戦いでの無様な姿を見てしまっては、戦せん況きよう次し第だいでかえって王国軍の士気を下げてしまいかねない。

「お気き遣づかい痛み入りますなぁ」

 ヴェルマー自身もあの戦いで相当な恐怖を味わったために、あからさまに胸を撫で下ろしている。

(くれぐれも余計なことをしてくれるなよ)

 グラハムは胸中の濁にごりを誤魔化すように、瞑めい目もくしながら静かに深呼吸を繰くり返し、出陣に向けて集中力を高めることに専念した。


◆


 オストアルデンヌの失しつ陥かんから三日後。王国軍が西進を開始したという報しらせが届く。

 緊きん張ちようが高まるエルドリア城の一室にこの局面においても王国軍に立ち向かうことを選んだ貴族たちが勢せい揃ぞろいしていた。選んだというのはやや語ご弊へいがあるかもしれない。貴族としての面目が、逃にげることを食い止めていた。

「アルバレン卿きよう、やはり籠城ですか?」

「いや、籠城戦を選ぶべきではない。敵を公都まで引き込んでしまえば、市街戦は避さけられない」

 セレスがその発言を否定する。損害の大きさを度外視し、王国軍を退けるという一点のみに注力すれば、可能性はあるかもしれない。最初から戦せん闘とうを前提として成立した城ではないのだから、当然街が戦場になる。だがそれは文化と財産の喪そう失しつであり、復興にも多額の費用が必要になる。

「無論、無策なら惨ざん敗ぱいは必定だ。だから俺が弱兵を勝たせるための策を授さずける」

 俺は補足するように告げる。その策、というものが余よ程ほど気になるらしい。全員が固かた唾ずを呑のんでこちらを見ている。

「唐とう突とつだが、セレス。この戦いの勝利条件はなんだ?」

「はっ? 王国軍を退けることでしょうか?」

「それは大前提だ。どうすれば王国軍が退くと思う?」

「全軍を壊滅させる、でしょうか」

「それは過程ではなく結果だ。士気の上下、補給の遮しや断だん、退路の封ふう鎖さ。これらは戦線の維い持じに多大な影えい響きようを及およぼす。だが一番確実に敵を敗走させる方法は、敵大将の討うち死じにだ」

「……なるほど」

 王国軍大将のグラハム・ロンベルクは王国において傑けつ出しゆつした権威を持っており、討ち取れれば王国にはたちまち激げき震しんが走る。

「だからこの策は、敵大将グラハム・ロンベルクを討ち取ること、その一点に専念したものだ。敵大将さえ討ち取れば、何万の大軍であろうと瓦が解かいする」

「しかし敵大将の首を取るなど、そう易やす々やすと成せるものではございませんぞ」

「そのための策を今から授ける。一言一句聞き逃すな」

 この場にいる全員が期待の帯びた視線を向けてくる。むず痒がゆく感じるとともに重圧が押おし寄せてくるが、それを悟さとらせぬよう振る舞まうことについて、この身体は他の誰だれよりも上手かった。


◆


 私は使用人という立場にあって、エルドリア城に帰き還かんしてから殿下に命じられた道具の調達に奔ほん走そうしていた。王国軍に敗れたという情報は、残念ながら街中に広がっている。殉じゆん職しよく者しやの遺族が、遺体を前にして頽くずおれているのを何度も見た。

 いや、まだ遺体が帰ってきただけ良かったのかもしれない。大勢は遺体と対面すらできず、訃ふ報ほうを無機的に告げられるだけだったから。それを見て、胸が苦しくならないはずもない。殿下も気き丈じように振る舞ってはいるものの、少なからず胸を痛めていることだろう。

 同時に、力になれなかった自分の無力さに打ちひしがれた。回復魔ま法ほうは後方では役に立っても、前線で戦うことはできない。武芸の心得が全くないわけではないものの、戦場で殿下のお傍にいることが逆に足手まといになると理解はしている。だから後方支援に徹てつするつもりだった。

 だけど、やっぱり私は戦場でも殿下の傍に控ひかえていたい。

 殿下はアルシアナ様の言葉で奮起し、この状じよう況きようを打破しようとなさっている。私は明らかに弱っている殿下に対して、かける言葉が見つからなかった。だからこそ、今度こそ殿下の支えになりたい。一いつ緒しよにいたからといって、何かできるというわけでもないけれど、後方で指を咥くわえて見ていることなんてできなかった。

 アルシアナ様は前線には出られない。だから、私が出られないアルシアナ様の代わりにならないと。

 そんな想おもいを胸に抱かかえ、城下を足早に進んでいると、前から何十人もの男が出てきて、私の進路を塞いだ。年ねん齢れい層そうは高めで、その手には使い古された槍やりや剣があり、木でできた手作りの盾たてを全員が手にしていた。

 何事か、と思わず身構える。ただ敵意は一切感じなかったので、服の下に忍しのばせている短たん剣けんには手をかけなかった。

「おいあんた、ヘンリック皇子のお付きの使用人だよな?」

「はい。シャロン・ボンゼルと申します」

 足を揃そろえ、お辞じ儀ぎをする。帝国にいた時に叩き込まれた所作が余よ程ほど珍めずらしく映ったのか、呆ぼう然ぜんとしていた。

「いやぁ、申し訳ねえ。あまりに綺き麗れいで見とれてしまってな。しかもとんでもねえ別べつ嬪ぴんときた。ヘンリック皇子も隅すみに置けねえなぁ」

 別嬪、と言われて悪い気はしない。殿下の隣となりにいても恥ずかしくないように、容姿については常に気を遣つかっている。それが認められた気がして、隣にいて殿下が少しでも誇ほこらしく思ってもらえる気がして、少し嬉うれしかった。

「急に声掛かけちまってすまねえな」

 照れながら頭を掻かく男性の後ろに目を向けると、見覚えのある顔が近づいてきた。

「貴方はあの時の」

 コタツの作業所にいた下層街の長だった。

「おお、覚えてくれていたか」

「それで、私に何か用でしょうか?」

 少なくとも殿下を害する人間ではないと確信が持てて、少しよそよそしかった振る舞いを改める。

「俺たちは有志で集まった男どもの集まりなんだがよ。王国軍が迫せまってきたと聞いて、いてもたってもいられなくなってな。俺たちで公都を守りてえ、そう思ったんだ」

 一いつ般ぱん市民については、危険が及ぶ前にエルドリアを脱だつ出しゆつせよと触ふれがあったはずで、事実慌あわただしく出立の準備を進めている人も多い。

「でも皆さんは戦闘経験もロクに積んでいない、一般の方々ですよね? わざわざ王国軍に立ち向かおうなんて、あまりに危険です。その心意気は、殿でん下かにお伝えしておきますから、早く逃げてください」

「お嬢じようちゃんはどうするつもりなんだ?」

「もちろん、どんな結果になろうと殿下に最後まで付き従います」

 私はそうしないといけないし、そうしたいのだ。

「お嬢ちゃんですら危険を承知で戦いに赴こうってんだ。お嬢ちゃんは俺たちから見りゃあまだまだ子供だ。そんな子供が残ってるんだから、俺たちみたいな大の男がそそくさ逃げるわけにゃいかんだろう。なあ?」

 そう言って、後ろに列立する男たちに同意を求める。当然のように深く頷き、そして笑い合った。この人たちは、おそらく私でも簡単に倒たおせてしまうだろう。戦場が恐おそろしいものだということも、頭では理解しているはず。それを全く表に出さず振る舞っている。とても勇気のある人たちだ。

「おっと、妻と子供ならもうアルバレンに避ひ難なんさせたぜ。それに俺たちの街を守ろうってやつは、ここにいる人間だけじゃない。まだまだたくさんいるんだぜ」

「だからって……!」

 その気持ちだけで十分だと、私は突っぱねようとした。でも私の心を読んだのか、先頭に立っていた男は、懇こん願がんするように深く頭を下げる。

「頼たのむ。皇子に会わせてくれ! どうしても戦いに参加してぇんだ! 俺たちゃヘンリック皇子に返しきれねえ程の恩があるんだ。それを返せぬまま、そそくさと逃げるなんてカッコ悪いだろう?」

 ヘンリック皇子のため、その言葉を聞いて私は断ることができなかった。

 殿下のやってきたことに救われた人が、こんなにもたくさんいる。殿下のために命を懸かけてもいい、そう思える人がたくさんいる。その事実に胸が熱くなる。

 要介護者の母親に付き添そっていたために困こん窮きゆうしていたが、家でもできる仕事を斡あつ旋せんしてもらい、生活を立て直せたという人。

 鉱山労働者で体調を崩していたが、殿下の作った保障制度のおかげで家族の未来を守れた人。

 殿下が助言を行ったおかげで、生活環かん境きようが劇的に改善したという、とある男だん爵しやく家けの領民。

 様々な想いを抱えた人々が、殿下のために尽くそうというのだ。無下にするなんて、私にはできなかった。そんな彼かれらの熱意に圧せられ、代表の一人を殿下の許もとへ連れて行くと、返ってきた反応は意外なものだった。

「逃げろと言ったのに愚かな奴やつらだ。それは蛮ばん勇ゆうであって、勇ゆう敢かんではない。こき使われ、使い捨てられる覚かく悟ごをしておくことだ」

 殿下は足手まといだと切り捨てることはしなかった。満まん更ざらでも無さそうに見えるのは、私の気のせいだろうか。

「覚悟なら出来ているぜ」

「ならば貴様らを囮おとりとして使う。せいぜい役に立つことだ」

「で、殿下。流石さすがに囮は荷が重いのでは?」

「ふん。戦えない人間を活かすなら、役回りなどそれぐらいしかない」

「……戦わせない、ということですか?」

 戦えないなら戦えないなりに、役に立てることがある。殿下はそう言いたいのだろう。私も殿下の傍にいて、戦力として役立たない代わりに出来ることがあるはずだ。

「戦えるのなら前線で使うんだがな」

 殿下は決して貶けなすようでも蔑さげすむようでもなく、呆あきれるように呟つぶやく。けれどもそこに否定的な色は一切見当たらなかった。


◆


「ヘンリック皇子、私にできることはないかしら」

 戦の準備を進める最中、アルシアナが俺にそう尋たずねてきた。

「前回のように城を出てきたせいで敵に囚われる、なんてことにならないよう城に籠っていることだな。そもそも魔法が使えるというならいくらでも抜け出す手段はあっただろうが。なぜしなかった」

 俺の足を凍こおらせて身動きを取れなくしたのだから、襲われた時に幾いくらでも対処する方法はあったはずだ。

「私の魔法は対象を認にん識しきしなければ発動できないの。いきなり襲われて、使う機を逃してしまったわ」

「油断しているからそうなるんだ」

「ええ、私が迂う闊かつだった。反省しているわ」

 やけに素す直なおで、ハキハキと言葉を紡つむぐ。

「自覚しているなら大人しくしておくことだ」

「ならせめて今この時だけでも、できることはない?」

「……」

 無いことは、ない。というより、自分でやることも憚はばかられ、恥はじを忍んでセレスに頼もうとしていたこと。それが兵たちの鼓舞による連れん携けいの強化だった。実は最初から、大公国軍の連携はとても取れているとはいえない状況であり、先の戦いでは兵たちがこちらの指示を迅じん速そくに遂すい行こうできなかったり、そもそも言うことを聞かない、といった問題が噴ふん出しゆつしていた。

 その主因が騎き士し団だんである。国の伝承で崇あがめられているリンドヴルムと呼ばれる龍りゆう。それが描えがかれた紋もん章しようを胸に携たずさえた大公国騎士団の傲ごう慢まんな態度が起因して、一いつ触しよく即そく発はつの空気を醸かもしていた。大公国騎士団には漏もれなく士しし爵やくという地位が授けられ、プライドが高いものばかりで構成されている。

 先の戦いでは、アレオンが自ら出しゆつ陣じんして気き概がいを見せることで軍を団結に導けたつもりになっていた。しかしそれはあくまで「軍上層部」に対してという、限定的な影響でしかない。アレオンの人ひと柄がらを知る人間は男爵以上の限られた者だけで、士爵以下の人間にとってアレオンが出るということはなんら特別なことではない。むしろ当然とすら言えた。

 アレオンは生まれてこの方支配層に君臨してきた。下々の気持ちなど、酌くんでいるようで実は殆ほとんど理解できていない。娘むすめであるアルシアナを下層街に近づかないよう配はい慮りよしていることからも、潜せん在ざい的てきな忌き避ひ感はあるはずだ。騎士団の連中が原因であるとも理解していなかった。むしろ兵たちの方に問題があると考えていたはずだ。だがヘンリック本人が生きつ粋すいの皇族であったとしても、宮みや籐とう稔ねん侍じは違う。庶しよ民みん的てきな思考を持ち、庶民の立場に立って物事を考えられる。だからこそ、俺は大公国軍の問題点を正しく理解できていた。

「今、軍の士気は著いちじるしく低い。なぜだかわかるか?」

「あれだけの敗北を喫きつした後だもの。勝ち目の薄い戦に挑いどむ軍の士気が上がらないのも無理はないわ」

「それだけじゃない。逃げ場のない戦場、すぐそばで散っていく味方、鼻び腔こうを突く血ち生なま臭ぐさい空気、膨ふくれ上がった殺意の応おう酬しゆう、いつ死ぬかわからないという恐きよう怖ふ。そんなものを身をもって感じて、命いのち辛から々がら逃にげ帰かえってきたというのに、また野戦に駆かり出される? 冗じよう談だんじゃない。それが本心だ」

 国を守ろうという意思、それだけじゃどうにもならない空気に触れてしまったのだ。

 最悪、機能する寡か兵へいだけを用いて戦うことも検討しているが、それは大きく勝率を押し下げることになる。だから、士気の向上は不可欠だ。

「……そんな将兵を、戦場に出ていない私がどうにかするなんて、至難の業わざね」

 でも、できないとは言わない。それがアルシアナの精神力を物語っていた。

「付いてこい」

 俺は出陣を待つ兵たちと指揮官の士族たちをエルドリア城内の広場に集めるようコンラッドに告げる。いつでも出陣できるよう常時装備を整えている兵たちは、十分とかからずに集結した。俺は姿を現さず、広場を臨のぞむ部屋の窓から兵たちを見下ろす。

「今のこいつらを見てどう思う?」

 俺は目の前の兵たちを指差して、アルシアナに問いかける。

「……隊列がバラバラだわ」

「それは大した問題じゃない。十分な訓練を受けていない徴ちよう集しゆう兵へいに寸分と違たがわない隊列を組めというのは酷こくだろう。むしろ声をかけてすぐに集まったんだ。いつでも出陣ができる準備が整っていると証明したも同然。褒ほめられたっておかしくはない」

 アルシアナは納なつ得とく顔がおで小さく頷うなずき、再び兵たちの方に目を向ける。

「……なんだか兵たちが指揮官の方を睨にらみつけているような」

「そうだ。相手は士族とはいえ仮にも貴族だ。そんな人間を前に、平民の徴集兵が反はん抗こう的てきな態度を示している」

「全く団結していない、ってこと?」

「団結していないどころじゃない。険悪だ。セレスのおかげで上層部はまとまったが、騎士団以下の連中はそうじゃない。なぜこうなっていると思う?」

「……兵たちが反感を抱いだくような原因を騎士団が作っているのね」

「その通りだ。権けん威いを笠かさに着て身分の低い兵を見下している」

「こんな時にどうして……」

 無駄にプライドが高いのだ。上層街には貴族が城下に置いている屋や敷しきの他に、大公国騎士団の人員が居を構えている。いわゆる士爵の地位を得ている人間だ。高こう慢まんな騎士団の連中が一方的に身分の低い徴集兵を侮あなどり、時に詰なじったりもする。

 下も意固地になっている。こんな奴らに従えるかと。騎士団もその無駄に高いプライドのせいで馴なれ合う気などサラサラ無い。

「貴様にその気があるなら、奴らを説得しろ」

「……私に?」

「できることをやる、そう言っただろうが」

 アルシアナは、突とつ然ぜん任された重役に一瞬固まった。

「……分かったわ。私がなんとかしてみせる」

 だがすぐに決意を改めたように拳こぶしを握にぎる。広場に移動したアルシアナは、小さく息を吐ついて、壇だん上じように立った。

 壇上を見つめる視線ははっきり言って総じて冷たかった。アルシアナはそんな異様な空気を前にしても、臆おくすることなく、声を震ふるわすこともなく、落ち着いた口調で語りかけていく。

「突然集めてごめんなさい。私は第一公女のアルシアナ・ラプトリカ・ラ・エクドール・ソルテリィシアよ」

 公女としての威い光こうが手伝ってか、敵意は全く窺うかがえない。ただ、アルシアナの姿を見てどこか諦てい念ねん的な空気が作られたのを感じた。騎士団の連中と仲良くしろ、とでも言いに来たのだろうと考えたはずだ。

 兵たちに対して労ねぎらいの言葉をかけ、励はげましていたアルシアナも所しよ詮せんは貴族の味方なのだと、兵たちが落らく胆たんを覚えているのが伝わってくる。

「ここにいる全員が、この軍の問題を理解していると思うわ。でも死地に足を踏み入れる貴方たちに、今この時だけは仲良くしてほしいだとか、頑がん張ばれだとか、そんな軽薄な言葉を言うつもりはないの」

 その言葉に、この場にいる全員の目が真しん剣けん味みを帯び、次の言葉を待つように視線を送った。

「まず、貴方たちに感謝させて欲ほしい。この国のために戦ってくれて、そしてこれからまた戦おうとしてくれて本当にありがとう」

 ひたすらに真まっ直すぐな感謝。それは敵意すら孕はらんでいた広場の劣れつ悪あくな空気を、一時的に和やわらげた。

「貴方たちは強大な敵に一度立ち向かった。それがどれほど勇気のいることか、貴方たちは分かっていないわ。その勇気の尊さに、貴き賎せんはないはずよ。今だけはそれを互たがいに認めて欲しい。国の存亡をかけた一大決戦を前にしても、今ここに立っている。その事実だけでも私は貴方たちが誰よりも精強だと思うの」

 決して張り上げた声ではない。しかし強く、気持ちのこもった、ここにいる千余人の耳に確かに届く声だった。

 戦力も練度も、精神力も、王国には遥はるかに及ばないだろう。それでも、ここに立っているということは、逃げずに立ち向かう勇気があるという証左だった。

「そんな貴方たちの強さを、私は信じてる。だから戦が終わるその時まで、ここに留とどまることにした。私は皆みなに、この命を預けるわ」

 兵たちもアルシアナという存在の重要さを知らないわけではない。予あらかじめアルバレンに避難していれば、命を失うことはまず無いはずだ。それをしないと宣言したのは、軽い気持ちで前に立ったのではないのだと、兵たちに証明する言葉になった。

 この戦いで敗れてエルドリアを失えば、その先に未来はない。経済の中心地であるエルドリアを失陥することは、再起が極めて困難になることを意味するのだ。だから勝利のみを信じて、兵たちに命を預ける。それが、アルシアナの決意だった。

「怖こわくは、ないのですか?」

 沈ちん黙もくの中、指揮官である士族の一人が、恐る恐る尋ねる。命の危機を進んで受け入れようとするばかりか、それに対する恐きよう怖ふ心しんを外に一いつ切さい漏もらしていない。そんな堂々とした立ち居振る舞いに、純じゆん粋すいな疑問を抱いたのだ。

「怖くなんてないわ。死ぬかもしれない、なんて思う弱気な自分を私は捨てたから」

「捨てた……?」

 恐怖は捨てようとして捨てられるものではない。信じるだけで誤ご魔ま化かせるものでもないのだ。ましてや、まだ年とし端はも行かない少女がさも飄ひよう々ひようとすら見える口ぶりで言い放ったとあって、その姿は明確に異い彩さいを放っていた。

「そう振る舞えるくらいに、貴方たちの勝利を信じているということよ。でもね……」

 そこまで言って、一いつ旦たん呼吸を整える。

「私は欲張りだから、敵を追い返すだけじゃなくて、この国の誰もが未来に希望を抱けるような勝利を届けたい。だから叩たたきのめしましょう。二度とこの国に攻せめ入ろうと思わないくらいに」

 アルシアナは打って変わって、好戦的な視線を振り撒まく。それに呼応するかのように兵たちは口角を上げ、互いに顔を見合わせた。

「勝つしかないのなら、最良の勝ちを目指しましょう! 弱兵の誹そしりを受けるのは、今回で終わりよ。大陸最強は過去の栄光ではないのだと、力を合わせて大陸中に知らしめましょう!」

 前向きな感情で形作られた鼓こ舞ぶの言葉は、この場にいる全員の心に響ひびいた。「オオォーー!!」と怒ど号ごうのような声が上がる。それは反射的に耳を塞ふさぐほどの声量であった。

 俺おれでは騎士団員と徴集兵の対立関係を解消することなんて絶対にできなかった。セレスですら、難しかったかもしれない。

 改めて、アルシアナという存在の大きさを再確かく認にんする。同時に、大公としての素質すらも感じさせるものだった。兵たちは初代大公・アレクシスの姿を想起したかもしれない。

 もちろん、アルシアナの声かけだけで、騎士団と徴集兵の確かく執しつが直ちに解消されるわけではない。

 だが今この時に限っては、全員が一つの方向を向いた。少なくともそれは確かだった。


◆


 王国軍は五百の兵をオストアルデンヌに置き、四千の兵でエルドリアに迫りつつあった。

 五百の兵を残したのはヴェルマーら大公国貴族の目付役のためでもあった。グラハムが国を裏切った人間を信用するはずもない。寝ね返がえりとはそういうものだ。ましてや、大公国には帝てい国こくという後うしろ盾だてがある。帝国も大公国に対して対等などとは思っておらず、王国と同様に銀山に価値を見み出いだしている。だから帝国が大公国の力を殺そぐためにヴェルマーに王国へ寝返らせた振ふりをさせ、油断しきったところに奇き襲しゆうさせる腹積りだった、なんてことも十分にあり得る話だ。

 王国軍の進軍が予想よりもだいぶ鈍どん重じゆうなのは、先の戦いで仕し掛かけられていた罠を警けい戒かいしているからである。

 それ以上に、グラハムが懸け念ねんとして抱いていたのは、エルドリアの東側を流れるセドリア川の存在である。エルドリアに辿たどり着くためには、急流で度たび々たび氾はん濫らんするこの川を渡わたる必要があった。

 当然ながら川に架かかる橋は大小問わず全てが王国軍の進軍に備えて撤てつ去きよされており、当然の動きだと理解はしても、無駄な時間稼かせぎだとグラハムは下唇くちびるを噛かんだ。

「大公国軍はどう待ち構えている」

「どうやらエルドリア城近郊の砦に集結しているようです。詳くわしい兵数は定かではありませんが、少なくない規模かと」

 グラハムは奇襲の可能性も考こう慮りよし、斥せつ候こうに前方を窺わせていた。セレスの率いる軍がエルドリア城に最も近い砦に入り、王国軍の襲しゆう来らいを待ち構えていることがグラハムに共有される。

「そこにセレス・アルバレンの姿は?」

「ございました。おそらく本隊を率いているものかと思われます」

「やはり砦で迎げい撃げきするつもりか。野戦で敗戦したとなれば、当然の判断だな」

 先の失策により消極的になっている。グラハムはそう確信した。同時に奇襲への警戒が微かすかに緩ゆるむ。

「いかがなさいますか?」

「無論、このまま進んで川を渡り、砦を落とす。全軍、前へ進め!」

 士気は低くない。緒しよ戦せんに勝利したことで、最初は浮き立っていた将兵もだいぶ落ち着き、結束していた。

 満を持して渡と河かを始める先せん鋒ぽうを、中ちゆう陣じんにいるグラハムは冷静に見つめていた。斥候の報告通り流れは速いものの川かわ床どこ自体は深くなく、淡あわい安あん堵どの息を漏らす。

(一人が渡りきるのにおよそ十分、といったところか)

 焦あせって速く進んだことで足を掬すくわれるのも馬鹿らしい。グラハムはそう考えてゆっくりと進むよう通達していた。

 全体の半数が渡りきったのを見て、グラハムは渡河を始める。

 しかし、川の中間あたりを過ぎた時、軍の前方と後方から喫きつ驚きようが上がる。

「な、何事だ!」

 目を向けると、部隊が分断された王国軍を大公国軍が襲おそっていた。

(奇襲、だと!? くっ、セレス・アルバレンが『本隊が砦で待ち構えている』と思い込ませるためのカモフラージュだったとでも言うのか!)

 そんな策を考え、実行できる人間に、グラハムは一人しか心当たりが無かった。

「ヘンリック、レトゥアール……!」

 舐なめていたわけではない。だが、上手にあるとも思っていなかった。

(認めなければならんな。一度のみならず、二度もあの若造に嵌はめられたことを)

 自分の甘あまさを呪のろいながら、声を張り上げて指示を送る。しかし、その声は虚むなしくもかき消された。


◆


 主要な指揮官を中陣に固めていた王国軍は、前方と後方を奇襲されたことで統制を失っていた。

「ひ、卑ひ怯きようだぞ!」

 そんな罵ば声せいが何ど処こからか響き渡る。

(卑怯? 寡兵で戦うのならば卑怯にでも戦うしかない。明めい瞭りような敵意が奔ほん流りゆうする戦場において、「正義」などどこにもないのだからな。あるのは薄うす汚よごれた人間が互いを斬きり付け合う、最も正義に反したもの。ただそれだけだ)

 ヘンリックは冷めた心であしらった。煩はん雑ざつな戦場を見てもなお、平静を保つ。内心は吐き気けすら催もよおしていたが、ヘンリックがそれを周囲に悟らせるはずもない。

 耳じ朶だを打つ怒号、槍が人の肉を突つき破る生々しい音、そして鮮あざやかに舞う赤黒い鮮せん血けつ。不意を衝つけたことで、敵の方が圧あつ倒とう的てきに被ひ害がいは多く、優勢に事は進んでいるように見える。

 それでも、焦りはつのる。

 ヘンリックは上流を見つめながら、機を待っていた。

 示し合わせていたとはいえ、川の上流から流した罠をグラハムにタイミング良く見み舞まうのは容易ではないのだ。

「大だい丈じよう夫ぶですよ」

 ヘンリックの不安な胸中を想像して、シャロンは耳元で囁ささやく。ヘンリックはシャロンの志願を断りきれず、渋しぶ々しぶ同行を認めたのだ。

「ヘンリック様の策は、必ず成功します」

「成功してもらわないと困る」

 しかし兵力差は如何いかんともし難がたく、やがて王国軍は互ご角かくから劣れつ勢せいへと戦せん況きようを変えつつあった。劣勢に転じたら撤てつ退たいするよう命じていたにも拘かかわらず、乱戦において冷静な判断力は持ち合わせておらず、撤退の機を逃のがしてしまっていた。首筋の静じよう脈みやくが浮くのが分かり、動どう悸きは時を刻むにつれ激しくなる。

 だが次の瞬しゆん間かん、私兵隊の数人が乗った筏いかだが姿を現す。ヘンリックは何とか間に合ったかと途と端たんに胸を撫で下ろした。


◆


 突然、上流から筏に乗った兵士が近づいてきて、グラハムは目を丸くする。最初から渡河中を襲うことが狙いだったのかと直感し、腰こしの剣けんを抜ぬき身構える。筏に乗った兵から得体の知れない幾つもの玉が投げつけられ、グラハムは反射的にそれを叩き切った。

 刹せつ那な、破は裂れつした玉から大量の粉が舞う。

 その粉は瞬またたく間まにグラハムの顔を覆おおい、それが目、口、鼻に入り込こんできた。満足に声すら出せず、グラハムは咽むせる。目を洗せん浄じようするため川に潜もぐり、視界の改善を試みるも、宙に舞っている粉のせいで周囲の視界は依い然ぜん晴れず、粉を再び吸ったグラハムは再び咽せた。

「な、何だあれは!!」

 身動きの取れないグラハムの耳を、雑兵の上げた声が劈つんざく。上流から迫っていたのは、大量の火をまとった筏であった。渡河中の兵は一目散に逃げようと試みた。本来ならばグラハムを守るはずの側近も総じて貴族である。第一に保身が頭を過よぎる中で、グラハムの身を案じる余よ裕ゆうなど持ち合わせてはいなかった。

 そうしてグラハムは、未いまだかつてない混乱に支配される。

 視界が奪うばわれたまま迫り来る得体の知れない何かから逃げることなど難しかった。

(くっ、無念だ。大公国如ごときに敗れるとは! ヘンリック・レトゥアールを甘く見ていた報むくいがこれか……)

 グラハムは自じ虐ぎやくの念と共に、死を覚悟する。だが死への恐怖以上に、グラハムは真っ先に戦場へ連れてきた息むす子この身を案じる。後方の安全な場所から大局を見て勉強するように言いつけていたため、生き延びる可能性はあるはずだと、微かな希望に縋すがった。

(レグナルト、後の事は任せたぞ)

 最後にそう念じ、グラハムは激流と共に火の筏に呑のみ込まれていった。