◆王国軍の侵攻



 昼と夜の寒暖差が大きくなり、夏の終わりを徐じよ々じよに実感しつつあった。八の月ルナーサの下げ旬じゆんは時季を日本に照らし合わせればまだ真夏と言えるが、この国の夏は六の月ミヘイムの後半から八の月ルナーサいっぱいであり、九の月ミーフオに入ると徐々に気温が下がっていく。夏だけは北から吹ふき付ける寒気が森を抜ぬけないため、比ひ較かく的てき温暖な気候が保たれるのだ。体感の気温が二十℃前後の過ごしやすい気候である。

 逆にレトゥアール帝国やヴァラン王国では、夏は暑い地域が多い。だから夏の過ごしやすさに限れば、他に勝るものはないかも知れない。

 そんな中、王国に放っていた密みつ偵ていから報告を受けた。王国が兵ひよう糧ろうや革かわ、鉄、矢羽などの戦時物資の購こう入にゆうを増やし、ロンベルク公こう爵しやく領に運はこび込まれている。今回はどうやらロンベルク公爵軍が主力になるようだ。ロンベルク公爵領は王国北部に領土があり、地理的にエクドール地方に比較的近い。

「……こんな時季に攻せめ入ってくるというのか?」

 俺は執しつ務む室しつで一人ごつ。冬の間に準備を進め、冬が終わりに近づく頃ころに侵攻する。俺が指揮官ならばそうするし、一番可能性が高いと思っていた。というのも、この国への侵攻というのは難度が高い。大陸一の豪ごう雪せつ地帯であり、冬の間に戦うのは過か酷こくを極きわめる。だから普ふ通つうは夏の間に片付けたいと思うはずなのだ。

「いや、そうか」

 俺はセレスの諫言を思い出す。事を大きくした弊害、セレスはそれを懸け念ねんしていた。

 可能な限り反乱を早期に鎮ちん圧あつするため、見せしめとしてルドワール子爵親子を晒さらしあげず、また残った貴族の粛しゆく清せいを取りやめ謝罪を促うながしたのは、セレスの懸念を勘かん案あんしたからだった。

 とはいえ人の口に戸が立てられない以上、いくら隠いん蔽ぺいしようとしても無理がある。王国にその情報が漏れるのを避さける手立てなどなかった。

 つまり、大公国の内部に反乱の機運が巻き起こった事を察知されてしまったのだ。そしてその火種を残してしまった事も。俺は中ちゆう途と半はん端ぱにセレスの言葉を受け入れて、これで良いのだろう? と鼻を明かした気になっていた。

 不正に加担する可能性のある貴族たちを一網打尽にしようとしたのが、そもそもいけなかったのだ。一網打尽にするならば、甘あまさなんて見せずに無理にでも貫つらぬき通すべきだった。

 事を焦あせった結果、王国を動かしてしまった。

 つまりこの戦争は俺が引き起こしたも同然ということになる。

 その事実が心に重くのしかかって、振り落とすように拳で鼻の頭を数度叩たたいた。

 いや、王国がいずれ攻め入ってくることは確定事じ項こうだったはずだ。俺の一連の行動は、それを早めたに過ぎない。ならば王国の侵攻を退ければ全てが丸く収まる。俺は気を取り直して、アレオンの下へ急いだ。

「王国が戦の準備を進めているとは真まことで?」

 アレオンは俺の報告に脂あぶら汗あせを浮うかべて動どう揺ようを露あらわにしている。アレオンもこれから冬が始まるというこの時季に王国が動こうとしている、その事実がイマイチ信じきれていない様子だった。

「貴様は兵の召しよう集しゆうを急げ」

「すぐに軍部に通達致いたしましょう。しかし如い何かにして王国の大軍を退けるか、私にはとても荷が重い」

 そう、いくら王国軍が攻め入ってくると分かっていたところで、戦力差は比べるべくもないほどに歴然。戦力差で劣おとるこちらが勝つにはそれこそ乾けん坤こん一いつ擲てきの策を弄ろうする他ない。

「確実に勝つ手段などない。だが国を守る、この一点に絞しぼれば十分可能性はある」

 雪に覆おおわれる日が一年の多くを占しめるこの国で、冬の間も攻め続けるのはいくら精強な軍隊であろうと極めて困難だ。

「王国軍はきっと早期決着を狙ってくるだろう。少しでも長く戦線を押おし留とどめること。それが撤てつ退たいの二文字を突き付ける近道になる。だがそれを成すためには士気を十分に保つ必要がある」

「士気の維い持じは私にかかっている、そう言いたいのですな」

「貴様が軍をまとめろ。俺が軍を率いようとしたところで、愚かな貴族どもは団結を欠くだろうからな」

 子爵院での出来事は、多くの貴族にとって衝しよう撃げきであり、疑ぎ心しん暗あん鬼きをもたらした。強ごう引いんにも僭せん越えつにも映ったはずだ。

 三日後の夕刻、宣戦布告の使者が王国からやってきて、文書のみ手て渡わたしてすぐに帰って行った。エルドリア城に子爵院の面々を緊きん急きゆうで召集し、今後の方針について意見が交かわされることになった。

「して、文書にはなんと?」

 軍の指揮官の一人が、緊きん張ちようした面持ちで尋ねる。

「大公家は王国の庇ひ護ごを受け、友好的な関係を約束されながら、度たび々たび反逆の姿勢を顕著にし、此こ度たびはあまつさえ帝国に与くみするなどという行動に出た。大公家と永えい劫ごうの友好を誓ちかっていた我ら王国にとって、これは許されざる行いである。よって、帝国の支配下から解放するために戦を行う、と」

 白々しい文書だが、筋は通っている。大公国は元々属国の立場にあり、名目上王国から領土を下か賜しされたに過ぎないのだから。

「くっ、そもそも銀の採さい掘くつ権けんの半分などという、我らを舐なめ腐くさり、尊厳を踏ふみにじるような要求をした王国が悪いのではないか!」

 至る所から王国への非難が噴ふん出しゆつする。大公国を滅ほろぼし、銀山資源を全て我わが物にする狙いか。

 いや、違うな。

 大公国を滅ぼすなんて面めん倒どうなことは最初から考えていない。最初から銀山さえ手に入れば何でも良いのだ。アルバレンが帝国の侵攻に備えた防ぼう御ぎよ力りよくの高い城じよう塞さい都市であることはよく知られている。つまり、アルバレンで籠ろう城じようされれば、滅ぼすのは骨が折れる。だが銀山を奪うばえば、この国は一気に財政が悪化し、脅きよう威いにもならなくなる。王国はそう踏んだわけである。防御力の乏とぼしいエルドリアならば、遅くとも雪が深まる前までには制圧できる、そんな余裕も透すけていた。

「て、帝国から援えん軍ぐんを!」

 そんな声も当然上がる。アレオンだけは援軍を見み込こめないと理解しているが、アレオンの立場を悪くするリスクを勘案し、他の誰だれも知らない事実になっている。

 だからここでは、援軍が来ないという事実を突つきつけるのではなく、そもそも援軍を呼んだらどうなるか、という方向に話をすり替かえることにした。

「帝国の援軍を呼んでどうなる」

「はっ? それは如何なる意味で」

 貴族の一人が俺の発言の真意を理解できず、しきりに目を瞬まばたかせている。

「王国は体ていの良いことを並べ立てているが所しよ詮せんは銀山が狙いだ。帝国もそれは同様。帝国軍を国に入れて王国の侵攻を防いでも、もし帝国軍がそのまま駐ちゆう留りゆうし対価として銀山の全てを要求し、承しよう諾だくするまで立ち退のかないと言われればどうするつもりだ」

 帝国も銀という資源がなければ決して同盟を組もうとはしなかっただろう。

 それに帝国は元々ソルテリィシア家の活かつ躍やくによって煮にえ湯ゆを飲まされた過去がある。逆にそれが無ければ、現在世界の覇は権けんを握っていたのは帝国だったと誰もが認めるところだ。

 ソルテリィシア家の活躍がサミガレッド家を始めとする貴族たちの不満を高めたのだから、クーデターが起きた原因は大公家にあるとさえ言える。だからゲレオン・サミガレッドは帝てい位いを得るきっかけをもたらした大公家に感謝すら抱いているかもしれない。

 でもそんな心情は何の意味も持たない。援軍の要よう請せいがあればそれに応えて大量の兵を送り、そのまま駐ちゆう屯とんして実効支配してしまおうという魂こん胆たんを秘ひめているはずだ。

「ですが、帝国が皇族の婿まで送った国に対してそのような不利な条件を突きつけましょうか?」

 この貴族の男はゲレオンが俺おれのことを少なからず好意的に見ているとでも思っているのだろうか。

「この好機をみすみす逃のがすはずがない。俺は帝国の連中の性質をよく理解している。それともこの俺が嘘うそ偽いつわりを述べていると?」

「い、いえっ! 決してそのようなつもりはなく」

「嘘だと思うなら帝国の援軍を要請すれば良い。その場合責任を取るのは誰になるか分かっているな?」

「ぐっ……」

 なまじ権力を持つ者は『責任』という言葉に弱い。誰しもが責任など取りたくはないのだ。特に貴族にはそうした傾けい向こうが強い。もし失敗して権けん威いを失うことは否いやが応おうでも防ぎたい。その言葉に怯んでか、不平を述べる者はいなかった。俺の剣けん幕まくに圧おされたということもあるだろうが、目を逸らして大事な決定の責を負いたくないという意思がありありと表れている。

「ですが、帝国の援軍なしで王国の侵攻を退ける術すべなどありませんぞ」

「身代が小さいから勝ち目がないなどと、誰がそんなことを決めた」

 そもそもこの国には敵を引き入れて戦った歴史がない。王国の右みぎ腕うでとして帝国との戦いに参さん陣じんしてきた一方で、世代を経るごとに軍は弱体化していった。衰すい退たいの途とにおいて王国に優ゆう秀しゆうな人材も流出した。その結果、今では初代大公の政権下にあった精強な軍とは似ても似つかない練度の低さを露ろ呈ていしている。

「全軍でオストアルデンヌに向かう」

「しかし……あの街は敵を迎むかえ撃うつような場所ではございませんぞ」

 オストアルデンヌは、東の国境から一番近い場所にある比較的大きな街で、砂糖液の製造所がある街でもあった。

 製造所は人目につきにくい場所に建設したとはいえ、王国軍がオストアルデンヌを通過する可能性は十分高いため、この街は可能な限り堅けん守しゆしたいという思おも惑わくもある。どこから製造所の存在が漏れるか分からないので、その意図を察せられないように細心の注意を払はらいつつ、俺は冷静な口調で説明した。

「大きな兵力差を覆くつがえすには、開けた場所で戦うよりも、狭せまい場所で大軍の利が活いきないよう立ち回ることが有効になってくる」

 長年流通の要として活用されてきたエクドール街道の整備は行き届いているが、国境付近では道みち幅はばがかなり狭くなっている。兵数の利を活かしづらいその手前で戦う方が戦略も立てやすくなる。そこで――、

「野戦に挑いどむ」

「野戦ですと!?」

 この場にいる全員が驚きよう嘆たんの声をあげて顔を見合わせる。王国が今回率いる軍は五千程度と目される。帝国の目がある以上、全軍で攻め入ってくるはずもない。

 対して大公国は常備兵と徴ちよう収しゆう兵を集めても、全軍で一千五百程度にしかならない。

 正面から愚ぐ直ちよくに戦うようなら、敗戦は免まぬがれない。

 だから本来ならば、籠城して時間を稼かせぐのが賢明なのだろうが、エルドリア城とて籠城に適しているわけではない。

 四方を堅けん牢ろうな壁かべに囲われているアルバレン城塞と違って、エルドリア城は周辺の街を守る城じよう壁へきがない。籠城しようとすれば、街をそのまま失ってしまう可能性が高い。築き上げてきたものを全て敵の手に委ねることになる。

 火を付けられて街全体が焼け落ちでもすれば、戦後復興に莫ばく大だいな時間とコストがかかる。

 もちろん、王国と手切れをした以上、侵攻に備えて街の外に堀ほりを設け、街の東側を網もう羅らするように迎げい撃げき用の砦とりでをいくつも作った。

 とはいえ、しばらくは王国が動かないと勝手に思い込こんでいたから、俺が施ほどこしたのは最低限の策でしかない。

「無論、正面から当たるつもりはない。この俺が王国軍を撃げき破はする術を教える」

「お、おお。これは頼もしいですな!」

 戦せん闘とう経験がほとんどない軍部の指揮官にとっては、少なくとも帝国で軍事に関する様々な知識や戦術を学んできた俺は頼もしく映ったらしい。

 ただ、子し爵しやく含ふくめ多くの貴族たちは違う。一様に打って出ることへの忌き避ひ感を露わにしていた。

「打って出るなど正気の沙さ汰たではございませんぞ!」

 反論しようと口を開きかけたところを、アレオンに制止される。その顔には並々ならぬ意志が宿っていた。

「このまま籠城し続けて、兵の質や士気が劣る我らが勝てると本当に自信を持って言えるのか?」

 沈ちん黙もくが流れる。単純な兵数差だけに限らず、質や士気も明らかに劣っているのだから、反論できる者は少ない。しかし、その中の一人が額に汗あせを滲にじませながらも真まっ直すぐな眼まな差ざしを向けてくる。

「ですが打って出ればそれこそいたずらに兵を失うだけになりましょう」

「愚直に正面から槍やりを突き合うのが戦争か? 答えは否いなだ。戦術を駆く使しし、敵を翻ほん弄ろうすれば盤ばん面めんは幾らでも、如い何か様ようにでも覆すことができる。王国軍を退けさえすれば、我らの勝ちなのだ。それだけで、王国は我らを畏おそれることだろう。そのために私が恐きよう怖ふをかなぐり捨て、自ら軍を率いようぞ!」

 普段らしからぬ鬼き気き迫せまった様子に貴族達は息を呑のむ。数秒後にハッとしたように顔を見合わせ、動揺を露わにした。

「閣下自ら出しゆつ陣じんを!? それでは万が一のことあったら取り返しがつきませんぞ!」

「大公自らが出ることに意味があるのだ。及および腰ごしで城に籠こもっているだけの大公を誰が支えようと思うだろうか。民もそんな私のために耐たえ忍しのぼうとは思わん。違うか!」

「……それは」

「私は守られてばかりの弱い大公のままいるつもりはない。アルバレン卿きよう、エルドリア城の留守を頼む」

「……はっ」

 セレスは渋しぶ々しぶといった様子で歯は噛がみしながら返答する。

 本来ならばセレスがこの軍を指揮するのが順当であるが、アレオンが大将として出兵することで貴族たちに覚かく悟ごを示すことができた。これを崩くずすわけにはいかないし、もしアレオンとセレスが揃そろって戦死するようなことがあれば、この国は一気に弱体化する。

 空元気にも見えたが、少なくともこの場にいる貴族たちは想定よりも団結していた。俺はアレオンが無事帰き還かんできるよう、策を弄して背中を押そうと静かに決意した。


◆


 ヴァラン王国の王都・ザンブルグとエクドール=ソルテリィシア大公国の公都・エルドリアを繋つなぐエクドール街道を、五千の大軍が進んでいた。

 総勢五千を後方から指揮するのはグラハム・ロンベルクという高貴な将軍だった。

 ヴァラン王国は三大公爵であるロンベルク、コルベ、ヴェリンガーの三家がとりわけ強い権勢を誇っている。現状の王国は国王の下にこの三者が権力を拮きつ抗こうさせることによって国家体制を維持していた。

 つまり、皇こう帝ていが圧あつ倒とう的てきな権力を持つ帝国とは違い、国王とは名ばかりで三大公爵の方がむしろ強いという状じよう況きようなのだ。公爵家の力が無ければ政治が円えん滑かつに回らず、国の統治が揺ゆらいでしまうため、王家は三大公爵の為なすことに口を挟はさめない。

 その状態が三大公爵の増長を招き、やがて大公国に対して法外な要求を行う。案の定アレオンは反発し、帝国と手を結ぶことを決めたわけだが――。

 そんな同盟関係を、グラハムは強く警けい戒かいしていた。

 銀山を帝国に奪われることに加え、戦略的にエクドール方面からの帝国軍の侵攻が考えられるからだ。グラハムは婿むこ入いりを阻そ止ししようと刺し客かくを送ったが失敗し、その後もヘンリックを狙ねらったものの、満足に近づくことすらできなかった。コンラッドや私兵隊の面々が陰かげから警護していたからである。

 グラハムにとって、これは大変な屈くつ辱じよくだった。それだけでなく、常に鎬しのぎを削けずり合う公爵家の間で、この度重なる失敗は発言力を下げる要因にもなりつつある。そういった風潮を払ふつ拭しよくするために、今回、単独で出兵を志願したのだ。

 無論、この戦いは誰が出陣しても容易に撃ち敗れる戦いだと見られている。だから、この戦いは損そん耗もうの少なさが何よりも大切だった。

「どうした? なぜ止まる」

 グラハムは眉まゆを顰ひそめた。馬に乗った斥せつ候こうが前方から駆かけてくるのが視界に映る。グラハムの前で跪ひざまずいた斥候は通りのいい声で報告を行った。

「ご報告いたします。どうやら前方に柵さくが無数に連なっている模様」

「柵? ふん、無む駄だな足あ掻がきをするものだ。気にせず強引に突とつ破ぱしろ。柵など取るに足らん」

 グラハムは一いつ蹴しゆうする。当然、柵の奥おくに敵が潜ひそんでいると確信している。それでも経験が極めて浅い大公国軍が設置した柵など、単なる悪わる足あ掻がきでしかないと先入観を抱いだくのも無理はなかった。

「しょ、承知致いたしました!」

 斥候は手た綱づなを引いて再び戻もどっていく。そして先せん鋒ぽうが一番手前の柵に差し掛かかったところで、突とつ然ぜん声が響ひびき渡わたる。

「弓隊、放てぇ!!」

 幾いく重えにも並んだ鉄てつ条じよう網もうの奥から、矢が放たれたのだ。目を見張ると、大公国軍の旗が揚よう々ようと風で揺れている。斥候は柵があるせいで、その奥に敵が潜んでいることを確かく認にんできていなかった。

 王国側の弓兵は後方に控ひかえていたが、道幅が狭い街道では隊列の基本である横おう陣じんの状態を作れなかった。結果、縦に伸びた縦じゆう陣じんになってしまっており、味方の射程が全く足りない。一方的な攻こう撃げきを甘んじて受けるばかりの状況に陥おちいってしまう。

 柵は単なる柵ではなく、鋭えい利りな棘が全体に生えており、生なま肌はだを掠かすめるだけで怪け我がを負う鉄条網のようなものだった。

 弓の集中砲ほう火かを受けていれば、当然撤てつ去きよに身が入りようもない。そのため、軍の最前列は柵の撤去に苦戦を強しいられる。

「た、大公が先鋒を率いておりますぞ!!」

「なんだと!?」

 総大将であり、一国の長であるという以上に、出しゆつ征せいした経験のないアレオンが前線にいるという事実は、グラハムに強い困惑をもたらした。

 グラハムの頭に、罠わなの可能性が浮かぶ。

「いや、これはまたとない好機だ。強引に突っ切るぞ!!」

 罠だとしても、目の前のアレオンの首さえ取れば、当初の目的であったエルドリア奪だつ取しゆと銀山獲かく得とくへ一気に近づく。戦力的に明白な優位がある以上、怖おじ気け付づく理由はどこにもなかった。

「ぐわぁぁぁぁぁ!!」

 そう意い気き込ごんだところで、慟どう哭こくにも似た、苦痛に震ふるえる声が無数に響く。

「なぜ前に進まない。精強な王国軍が怖気付いているとでも言うのか? 柵など一気に壊こわしてしまえ!」

 幾重にも並んだ柵と柵の間には、鋭利な木の棒や針が植うえ込まれていた。それを踏み抜いた将兵が野太い呻うめき声を上げて苦しんでいたのだ。

 アレオンの姿は、味方の士気を上げるのみならず、敵の視野を極きよく端たんに狭くし、足元の注意を散さん漫まんにさせる作用をももたらしていた。

 安直な突とつ撃げき指令が迂闊だったと表情に悔かい恨こんを滲ませつつも、グラハムは強引にでも突破を図はかるしかないと判断し、追加の指示を控える。

 だがしばらく待っても、先鋒の兵が次々に悲鳴を上げるばかりで一向に前に進まない。

 大公国軍は加えて山の斜しや面めんから岩を転がしたり投石したりして、障害物の撤去を更さらに遅おくらせていたのだ。狭い道に兵が所ところ狭せましと並んでいるためにグラハム自身も身動きが取れず、手立てがない状況に陥っていた。

「くっ、小こ癪しやくな」

 グラハムは鮮あざやかに、軽けい微びな損耗に留めて勝利しなくてはならない。時間が掛かれば掛かるほど被ひ害がいは積み重なっていく。

 グラハムが苛いら立だちを露わにしながらも戦せん況きようを見つめながら打開策を練っていると、突とつ如じよとして敵軍の後方から困惑に満ちた声が風に乗って耳を通り抜けた。

 最初は何事かと思ったグラハムだったが、大公国軍に潜んでいた有力貴族が寝ね返がえったと聞き、途と端たんに口角が吊つり上がった。


◆


「何が起こった! まさか王国の手によるものか!?」

 真ん中後方の本ほん陣じんにいたヘンリックは、すぐそばの左さ翼よく後方が騒そう然ぜんとしていることに気づき、瞠どう目もくしてコンラッドに尋たずねる。

「いえ、ヴェルマー卿がいきなり攻撃を始めたと!」

 アクロン・ヴェルマー。子し爵しやくの地位にあり、古くからエクドール州の盟主的立ち位置にあったヴェルマー家の当主だ。大公アレオンの姉が嫁とついだ縁えん戚せきの家で、国内ではアルバレンに次ぐ第三の規模を誇る領地を抱かかえる。

 そんなヴェルマーが突然味方の兵を攻撃し始めたというのだ。

「おそらくは大公の地位を狙ってのものでしょう!」

「……と言うと?」

「ヴェルマー卿には三人の息むす子こがおります。殿下が来る前は、その長男を大公家に迎え入れるのが既き定てい路線だったと聞きます」

「……それに不満を持っていたわけか」

 アレオンには娘むすめしかおらず、アルバレン家も男子が二人いたが、一人が夭よう折せつしたために大公家に入ればアルバレン家の後こう継けい者しやがいなくなる。

 だがヘンリックが来て、そんな期待が易やす々やすと打ち砕くだかれた。あろうことか長年の宿敵である帝てい国こくから婿むこを迎え入れたのだ。ヴェルマーは当然、自分を蔑ないがしろにされたと感じる。

 王国の手先はそこに付け込み、ヴェルマーを唆そそのかした。大公国の子爵であるという自覚が変心を封ふうじ込めていたが、今叛はん旗きを翻ひるがえせば大公の座のみならず、苦戦しているグラハムに恩も売れて、王国においての権力をある程度保持できるかもしれないと考えた。

「……くっ、誤算だったか」

 その目もく論ろ見みを今いま更さら察する己おのれの迂闊さをヘンリックは悔くいるばかりだった。


◆


 コンラッドが私兵隊に指示を出し、すぐさま臨戦態勢を整えようと試みるも、虚きよを衝つかれた形となった大公国軍の指揮系統はもはや機能していなかった。ヴェルマー子爵軍の奇き襲しゆうを受けた左翼後方の付近は完全に統制を失い、同どう士し討うちすら起こる始末だった。

 ヴェルマーのことを覇は気きのない不気味な男だと思っていたが、あの仮面の下には野心を秘めていた。大公家の縁戚なのだから、裏切る可能性は低いと思い込んでいた。

 どうして俺は失念していたのだろうか。血けつ縁えん関係が信用する理由にはならないことを。ルドワール子爵家も大公家の縁戚だし、ゲレオン・サミガレッドも帝てい室しつに連なる家系だった。

 綿密に策を練っていたつもりだった。にも拘わらず、味方は阿あ鼻び叫きよう喚かんの地じ獄ごくに晒され、その命を徐々に散らしている。己の甘さがこの状況を呼んだのだと突きつけられ、俺は腕うでが震えるのを抑おさえられなかった。

 俺は戦を甘く見ていたのだ。「おそらく大だい丈じよう夫ぶだろう」という楽観的な思考で、戦略を組み立ててしまっていた。特に前線にアレオンを置いてしまったのは間ま違ちがいだったと、今更思う。

 アレオン自身が先鋒への配置を望んだのを、俺は拒こばめなかった。当然アレオンを矢やお面もてに立たせるつもりなどなく、あくまで着ちやつ火か剤ざいとしか思ってはいなかったし、経験のある将も前線に配置して、弓隊による先制攻撃が決まったら、後方へと退たい避ひするように告げていたのだ。

 だが今は隊列が崩れ、退避用に設けていたはずの通路も塞ふさがっている。アレオンを前線に留めたまま、先鋒は戦いを続けていた。

 だからアレオンの命はもはや朽くちてしまっているのではないか、俺はそう解かい釈しやくし、かつてないほどに肥大化した自責の念に支配される。

 いや、今は自分を責めている場合じゃない。俺が原因で多くの将兵を現在進行形で死なせてしまっているのだ。その尻しり拭ぬぐいは、俺がしなければならない。

――たとえ、この命を投げ捨てることになろうと。

 俺は剣けんを握にぎりしめて、混乱の震しん源げん地ちへと向かう。

「殿下!?」

 コンラッドの喫きつ驚きようが耳に届く。

「コンラッド、貴様は先鋒でアレオンを捜さがし、救出しろ。その上で可能な限り前線を押し留めろ!」

 無む茶ちやな要求だと分かっている。だが、今はそんな無茶に応えてくれるという期待に縋すがるしかなかった。

「し、しかし殿でん下かはいかがされるのですか!?」

「アクロンの蛮ばん行こうを食い止める」

「危険ですぞ!」

「この戦場にいれば安全な場所などない。いいから行け!」

 俺は返事を聞かずに再び駆け出す。

 あれだけ豪ごう語ごした挙句、この体ていたらくだ。責め立てられ、嘲あざ笑わらわれ、また国を追われるかもしれない。それならせめて、自分の命を賭としてでも、一いつ矢し報むくいてやりたかった。

「おい、あれって帝国の皇子じゃないか?」

 帝国貴族の特とく徴ちよう的てきな軍服に加え、帝てい室しつ系けい譜ふの黒くろ髪かみ黒目は、今この瞬しゆん間かん初めて俺の姿を見た雑兵達たちにとっても、ヘンリック・レトゥアールと認にん識しきするのには十分な情報だった。

「そんな馬鹿な」

「見てみろよ。あれは絶対本物だって。あいつを殺やっちまえば俺たちとんでもねえ武功を手にできるんじゃねえのか!?」

 二人の雑兵の声が引き金となって、ヴェルマー子爵軍の全員が、一いつ斉せいに俺の首を刈かり取るべく動き出す。

 もし仮にも帝国の皇子である俺の首がこの戦場で地に叩たたきつけられ、無様にも踏み躙にじられたとなれば、当然王国軍の士気も上がる。

 それが大陸中に広まりでもすれば、ゲレオンはこれを恥はじと感じることだろう。

 そもそも、ゲレオンが帝室の権力を完全に握り、旧帝室勢力の多くを排はい除じよした後でも俺を始末しなかったのは、俺が死ねばその権威に少なからず綻ほころびが生じると理解しているからであり、旧帝室を完全に取り潰つぶす危険性を認識しているのだ。

 そうだろう? ゲレオン・サミガレッド。

 お前にとっては俺が大公国で愚おろかな婿として大人しくしているのが一番理想だったはずだ。でもそうはならない。俺はここで死んだって、一向に構わないのだ。

 たとえこんな無様な死に方でも、それがゲレオンへの復ふく讐しゆうにはなる。そのためならば、命だって惜おしくはない。

「簡単に死んでやるつもりはない。一人でも多く、あの世に葬ほうむってやる」

 槍先を前に突き出している複数の兵が、同時に俺の胴どうを目め掛がけて突とつ進しんしてくる。槍は小回りが利ききにくい上、構え方を見ても低い練度が見え透けていた。

「何人来ようが、貴様ら程度の弱兵など取るに足らない!」

 無論、全軍で襲おそい掛かられればひとたまりもない。しかしヴェルマー子爵軍とて、初うい陣じんに等しいのに変わりはなかった。一方的に敵を嬲なぶっていたヴェルマー子爵軍の目が一斉に俺という餌えさに向き、それに釣つられた兵たちが俺に引き寄せられる。