◆帝国皇子の婿入り



 誤って口の中を切ってしまいそうなほどの大きな振しん動どうを受け、一気に意識が覚かく醒せいした。乗っていた馬車の車輪が石を掠かすめ、大きく揺ゆれたようである。

 それにしても不思議な夢だった。経験したわけでもないのに、脳のう裏りに色いろ濃こく焼きついてひどく鮮せん明めいだ。若じやつ干かん気持ちが悪いのは、夢の中と言えど血ち生なま臭ぐさい空気に包まれていたからであろう。何度か目を擦こすり、光で朧おぼろげだった視界が徐じよ々じよに開けていく。

「大だい丈じよう夫ぶですか? 殿下」

 視界に入ってきた少女の顔に、俺おれは図らずも見み惚とれてしまう。背格好は小こ柄がらで細身。淡く金色に染められたプラチナブロンドの髪かみが目を惹ひいた。開花直後の白しら百ゆ合りが如く艶つやのある肌はだに、夕焼けを映したような瞳ひとみ。顔立ちはひどく整っており、一種の芸術品とすら感じさせるほど完かん璧ぺきなパーツ配置だった。

 そんな整った顔が覗のぞき込んでくれば多少なりとも心は乱れるはずだが、表面上平静を保てているのはこの身体が俺のものではないからだ。

 自分の精神が、別人の身体に入り込んでいると気づいたのは、昨晩のことである。現状把は握あくに、俺は一晩を費ついやした。

 この身体に影えい響きようされてか、思考はいつもより冷静で、感情の起き伏ふくも乏とぼしい。それはそれとして、一番の問題は――、

「殿下?」

 俺が鼻筋に皺しわを寄せたまま固まっていると、少女――シャロン・ボンゼルが怪け訝げんそうな瞳を向けてきた。シャロンは俺の使用人らしい。

「うるさい。余計なお世話だ」

 俺が意図した言葉と違う、突つき放はなすような言葉が出た。やはりか……。

 俺の傲ごう慢まんな態度には慣れきったものなのか、シャロンはムッとするわけでもなく、さも当然のように頭こうべを垂れる。

「ふぅ……」

 小さく息を吐ついて、目め頭がしらを押さえる。

 どういうわけか素す直なおな気持ちを口にできない。これもこの身体による影響だろう。

 荒こう唐とう無む稽けいな話だが、俺・宮みや籐とう稔ねん侍じはどうやら「ヘンリック・レトゥアール」という男に憑ひよう依いしたらしい。

 胸の内には自分のものとは思えない感情が奔ほん流りゆうし、その中には憎にくしみに呑のまれるドス黒い闇やみや、逆に内に秘ひめた正義感も混ざり合っていた。

 ただ意識は俺が保持しており、「俺」の思考が主体となり、行動も「俺」によって自在に変えられるようだ。

 二重人格というよりは、「俺」が「ヘンリック」の身体を乗っ取ったという感じだろう。

「今どの辺りだ」

「あと三日ほどで城じよう塞さい都市アルバレンに着きます。公都エルドリアまでは更に三日かかる予定です」

 俺は今、レトゥアール帝国の帝都・ヘンデルバーグから、エクドール=ソルテリィシア大公国の公都・エルドリアに向かう道中にいる。

 本来ならば交わるはずのない両国が手を結んだからだ。大公国はレトゥアール帝国の宿敵であるヴァラン王国の属国であり、大公国による帝国との協調は、王国にとって未み曾ぞ有うの背信行こう為いであった。大公国は王国との手切れを表明するとともに、帝国の皇子である俺の婿入りという形で婚こん姻いん同盟を締てい結けつしてしまった。

 無論、相当な事情があることは察するに余りある。

「殿下もお疲つかれのようですし、一いつ旦たん休きゆう憩けいに致いたしましょう。ここから更に道も険しくなりますから」

「だから不要な気き遣づかいだと言ったはずだ」

「……」

 シャロンは無言でジッとこちらを見つめてくる。余よ程ほど俺おれの様子を奇き怪かいと受け取ったのだろうか。

「……はぁ」

 俺は観念し、肩を竦すくめて肯こう定ていの意思を示すしかなかった。

 シャロンは手て際ぎわ良よく遅おそめの昼食の準備を進めていく。俺はそれを無心で眺ながめるばかりだった。あまりにテキパキと料理を進めるものだから、待ち時間はあっという間に過ぎる。目の前に出された料理は肉や野菜を白い生き地じで包んだタコスのような見た目だったが、とても馬車での長ちよう距きよ離り移動の小休きゆう憩けいで作れるようなクオリティではなかった。究極のキャンプ飯のような印象を受け、口こう腔こうで唾だ液えきが多量に分ぶん泌ぴつされていく。焦あせらず、平静を装よそおいながら口に運ぶと、想像を遥はるかに上回る風味に自然と目が見開いた。

 齧かじったことで露あらわになった中の具を見つめながら咀そ嚼しやくを楽しんでいると、視線を感じて顔を上げる。

「なんだ、じっと見て」

 食べかすでも付いているのかと思い、さりげなく口元を拭ぬぐう。

「いえ、申し訳ありません。殿下の表情がいつもと違って見えたものですから」

 機き微びを敏びん感かんに読み取ったシャロンが、目を細めて告げてくる。美お味いしいものを美味しいと言えない分、顔に出てしまったのだろうか。俺は観察されていたことに気き恥はずかしさを覚え、残りを一いつ瞬しゆんで平らげた。

「もう行くぞ。まだしばらく馬車に揺られねばならないのだからな」

 移動には一ヶ月以上を要する。というのも、国防上の観点からエクドール方面に伸のびる道に関しては、整備が一いつ切さい行き届いていないからだ。交易上のメリットも小さいうえ、帝国軍が攻せめ寄せてくるとなって街道が整備されていたら、行軍を助けてしまうことにも繋つながる。

 そのため、これまでは人の行き交かいが乏しかった。あるのは細々とした個人間交流のみである。

 乗り心ごこ地ちがすこぶる悪い馬車に対する不満を心中で並べながら外を眺めていると、再び馬車を大きな揺れが襲おそう。

「何事だ!」

 夕ゆう陽ひが地平線に沈しずむ逢魔が時。薄うす暗ぐらくなり始めた快晴の空は、徐々に地表の輝かがやきを散失させつつある。人間の油断を誘さそいやすい時間であり、実際気の緩んでいる自覚もあった。

 ずっと待ち構えていた。いや、あるいは尾び行こうされていたのかもしれない。

「敵てき襲しゆうのようだ。シャロン、貴様は馬車に待機していろ」

「……は、はい!」

「コンラッド!」

「はっ!」

「敵は何人だ」

「十人以上はおりましょう。王国の手の者かと思われます。お気をつけを」

 コンラッドはヘンリックが唯ゆい一いつ信しん頼らいする男で、大陸随ずい一いちの強戦士だ。

「王国? なぜ王国が俺を狙ねらう」

「大公国に婿入りする殿下を疎うとんでのことでしょう。帝国が大公国の銀山資源を狙っているのは火を見るより明らか。王国がこの婿入りを看過できないのも当然ですな」

 俺とコンラッドは攻こう撃げきを警けい戒かいしながら、奇き襲しゆうの意図を推し測はかる。同盟を阻そ止しするため、婿入り自体を止めに入ろうというのも理解はできる。

「ふん、俺を殺したところで大した意味は無いだろうが。まあここで話していても詮せん無なきことだ。奴らを退けるほかない。コンラッド、全力で行くぞ」

「はっ!」

『ヘンリック・レトゥアール』に憑依して、すぐさま訪おとずれた命の危機。

 本物の死地というものは空気がまるで違う。木々の不気味な騒めきに、肌を削けずるような冷たい敵意。正直震ふるえるほど怖こわいし、今すぐこの場から逃げ出したい。それでも、逃げることなど許されなかった。逃げれば、天国の恩師――この身体に入り込んだ今となっては、俺にとっても恩師同様のホルガーに顔向けができないから。

 俺は自分自身を奮い立たせる。そして腰を落として剣を構え、刺し客かくの攻撃に備えた。

「王国の刺客よ、帝国を追われ、辺境に送られようとしている哀あわれな皇子に何の用だ」

 沈ちん黙もくは変わらない。代わりに弓矢が俺を目め掛がけて放たれた。身体が再び、脳の指令を待たずして勝手に動く。持っていた剣が甲かん高だかい音を放ち、弓矢を弾はじき飛ばしていた。

「随ずい分ぶんなご挨あい拶さつだな。なんの力もない皇子を討うたねばならないほど王国は落ちぶれたのか?」

「安い挑ちよう発はつはそこまでにした方が良い」

 沈黙を破って姿を現したのは、焦こげ茶ちや色いろの装しよう束ぞくを身に纏まとった集団だった。およそ十二人といったところか。誰だれ一人ひとりとして表情を窺うかがい知れない。直後、再び飛んできた矢を剣で二度弾く。矢が迫せまる気配を感じとって身体が勝手に反応しただけで、正直なところ全く反応できていなかった。しかしその様子を見て弓矢では太た刀ち打うちできないと踏ふんだのか、刺客は近接戦せん闘とうに切り替かえ、一いつ斉せいに襲いかかってくる。

「貴様ならいけるな?」

「無論!」

 コンラッドは自信に満ちた声を響かせながら、力強く地を蹴ける。とはいえ、二人で十人以上を相手するのだ。コンラッドがいくら精強だとしても、相手の力量も不ふ明めい瞭りようで、俺が自分自身の能力ですら正しく測れていない今、負担をかけてしまうのは避さけられない。流石さすがに厳しいのではないか。そんな懸け念ねんを他よ所そに、コンラッドはその頑がん強きような肉体と余りある筋力を以もつて、敵をなぎ倒たおしていく。

 俺に近づこうとする者はすぐさま撥はね返され、俺は刺客たちのリーダーであろう男と向き合っていた。顔はよく視認できないが、明らかに他の人間とは異なる存在感を放っている。

「一人であの人数の精せい鋭えいを同時に相手し、それでも互ご角かくに戦っている。そちらは化け物を飼っているようだ」

「誤算か?」

「いいや、ここで皇子を葬ほうむり去れば全てがうまくいく。大人しく死んでもらおう」

「それは無理な願いだ」

 時代劇の戦闘シーンが如く、複数人を一人で相手するのはリスクが大きい。というのも、命を捨てんばかりの勢いで突っ込んできた一人に身体を固定されてしまえば、他の者に背後から斬きられるのを防ぎようがない。だから自分と敵に圧あつ倒とう的てきな体格の差がある場合以外は、複数人を同時に相手するのは極力避けたい。その点コンラッドは俺よりも一回り大きく、筋力も飛び抜けて優すぐれているため、複数の敵を相手にしても軽くいなしていた。

 至近戦かつ闇やみ夜よの邂かい逅こうにおいては弓矢のような飛び道具は好んで使われない。神速で戦いを繰くり広げる中、敵だけに狙いを定めるのは至難の業わざだからだ。万が一味方に当たることがあれば、自らの首を絞しめることにもなる。そのため、弓矢を持っている者は参戦することはなく、実質的に戦いに参加しているのは八人ほどだった。

 俺はリーダーの男に斬ざん撃げきを仕し掛かけ、数合斬り結むすぶ。やはり只ただ者ものではない。

「ふん、口だけではないようだ」

 だがこちらの剣技も並なみ大たい抵ていのものではない。いや、むしろ一対一の戦闘ならばまず負けないと自信を持って言えるほどに練度の高いものだ。

「レトゥアールの帝てい国こく剣けん術じゆつ……!」

 男が忌いまわしげに吐き捨てる。そう。俺の自信の源泉は、レトゥアールの幻まぼろしの剣術だった。長い帝国の歴史で培つちかわれた文化遺産同然のものである。帝国がクーデターで崩ほう壊かいしてからは伝える者がいなくなったが、唯ゆい一いつ俺おれだけはそれを継けい承しようした。

「それは生半可な技量では決して扱あつかえないはず……! 一体どれほどの研けん鑽さんを重ねたというのだ」

 レトゥアールの帝国剣術にはその構えや間合いにも特とく徴ちようがあるが、根幹にあるスタイルは、純じゆん粋すいに技術を追求し、自らを固く守りながら敵の隙すきを誘い出し、ひとたび隙を見せれば絶対に逃のがさない守り主体の剣術だ。それがコンラッドの助言により攻撃主体のスタイルに昇しよう華かされた。積極的に剣けん戟げきを繰り出し、怯ひるんだり守りが甘くなったりした隙を誘って敵の懐ふところに潜もぐり込む。そんな唯ゆい一いつ無む二にのものになっていた。

「これも誤算でないと言うのか?」

 リーダーの男の驚きよう嘆たんに、俺は挑ちよう発はつ的てきな微び笑しようで応える。力量差というものを否いや応おうなく感じ取ったはずだ。

 そんな中でも一つ懸念だったのが、俺の意識と身体の動きの乖かい離りである。意識と身体が馴な染じんでいないからこそ、万ばん全ぜんとは言い難がたい状態だった。それが影響してだろう。攻撃がことごとくすんでのところで避けられてしまう。心技体が律せていない状じよう況きようで強力な敵を打だ倒とうできるほど、甘くはなかった。

 それでも、身体に染しみついた技術が幸いして、そのうちの一いち撃げきだけ剣けん先さきが男を捕ほ捉そくする。右の胴どうを僅かに抉えぐる感かん触しよくを得た。一いつ瞬しゆん鈍にぶった動きを見て、機を逃すまいと更に間合いを詰つめる。俺はトドメを刺さそうと左脇わき腹ばらに狙いを定めた。

 刹せつ那な、鮮せん血けつが虹にじの如く弧を描き、致ち命めい傷しようを負わせたと確信する。

「ッ!」

 焦しよう慮りよが男の口から漏もれる。男は体勢を崩くずしながらも、追つい撃げきしようとする俺に対して素す早ばやく短たん剣けんを懐から取り出し、俺の胴に突き刺そうとした。

 俺はその動きにすぐさま反応し、後ろへ跳ちよう躍やくして難を逃れる。

「ふん、この程度とはな」

 俺の口からそんな言葉が漏れる。ふと数十メートル離はなれた場所で戦うコンラッドを見ると、既すでに三人が地面に伏ふせられ、かなり優勢に戦闘を進めているようだった。このままいけば勝てるに違いない。一瞬見入ってしまったが、コンラッドの方を見たままその場で突っ立っていれば、高台からこちらを見下ろす弓隊の格好の的になる。俺が弓隊の動きを注視していると、視界の隅すみでリーダーの男が立ちあがろうとしているのが映る。

 まだ戦えるというのか。そのタフな精神力に驚きよう愕がくを覚える。男は懐からもう一本短剣を取り出し、最後の力を振ふり絞しぼるようにあらぬ方向へそれを繰り出そうとしていた。

 視界が定まらず、俺の姿を捕捉できないのだろうと楽観視しかけた刹那、男が目掛けた先にシャロンがいることに気づく。あいつ、いつの間に外へ出ていたんだ。

「何をしている!」

 俺は足に力を込め、咄とつ嗟さに短剣とシャロンの対角線上に向かおうと、僅かに緊きん張ちようの抜けていた腿ももに鞭を打つ。間に合うかギリギリのタイミングだ。

 俺は形なり振ふり構かまわずシャロンに迫る短剣を弾こうと試みるも、強ごう引いんに振り払はらった剣は無情にも空を斬ってしまう。それでもなんとか、自分の身体をシャロンとの射線上に差し込むことはできた。代わりに俺の胸には短剣が深々と刺さっており、その箇か所しよがひどく熱を帯びている。

「ぐ、はっ」

 俺は血ち反へ吐どを吐きながら、ロクに受け身も取れず叩たたきつけられる。喫きつ驚きように駆られたシャロンは硬こう直ちよくしていた。

 でもこのまま倒れるわけにはいかない。俺の窮きゆう状じようを好機だと見た弓隊が追撃に出ていた。その攻こう勢せいを剣で辛かろうじて凌しのぎながら、シャロンの下まで駆ける。

 その身体を小こ脇わきで抱だき抱かかえ馬車に駆け込んだ俺は、血ち塗まみれの身体で椅い子すに横たわる。馬車は矢を防ぐ盾たてになる。リーダー格の男もすでに満まん身しん創そう痍いだ。

 一難が去った。そう実感した途と端たん、熱さが明確な痛みに変わる。そして自分の身が致命傷を得ていたことに初めて気づいた。


――ああ、新たな人生を喜ぶ暇ひますらなく、俺はまた朽くちるのか。


――誰が、どうしてこんな試練を俺に与あたえたのだろう。


――もう一度死んでしまうくらいならば、せめて無に帰してしまいたかった。


 走馬灯が見える。前世の終わりも呆あつ気けないものだった。洋画を見たり本を読んだり、ゲームをするのが趣しゆ味みで、たまに親に連れられて行く釣つりがささやかな楽しみだった。大層なものを望んだことは一度として無い。ごくごく普ふ通つうの男だったと思う。そのまま何事もなく寿じゆ命みようで死ぬのだと信じて疑ってはいなかった。

 しかし十九歳さいで重い病気に罹り患かんし、大学を休学して闘とう病びように専念することになる。大変な難病だったそうで、俺は闘病虚むなしく弱じやつ冠かん二十二歳で世を去ることになる。若くして死ぬのは運が悪い、そう思うこともあった。でも死とは等しく訪れるものであり、早い遅いは世界が下した一種の匙さじ加か減げんでしかないのだろう。

 だからきっと、これは最初から決まっていた運命だ。ヘンリックに憑依したところで、若くして死ぬという俺の結末は決して覆くつがえらない。これは世界が望み、定めた運命だった。

――この婿入りによって、もしかしたら帝てい国こく奪だつ還かんの機会を得られるかもしれない。

 そんな期待を抱くこと自体、無意味なことだったと悟る。

 胸に宿した未来への期待は完全に萎しぼみ、生命力の低下へと如によ実じつに影響しているのを感じた。

「殿下、しっかりしてください! 殿下!」

 必死な声が耳に響く。腹部を容赦なく駆けずり回る激痛に思わず双そう眸ぼうが開き、朧げな視界の隅でシャロンが俺に処置を施ほどこしているのが映る。身体が淡い光に包まれていた。

「何を、している……?」

「そんなの……手当てに決まっています!」

「なぜ不用意に外に出た」

「殿下こそなぜ……! なぜ私を庇ったのですか! 普ふ段だんの殿下なら私など視線をやることすらなく、すぐさま切り捨てていたはずでしょう!」

 そうか。俺は庇ったのか。何も産み出せずこれまで生きてきた自分でも、最後に人を助けられた。逡しゆん巡じゆんを経ることなく、咄嗟に身体が動いてくれた。そして何より、今は亡き恩師の死しに際ぎわをなぞることができて、満足していた。

「ふっ……。俺はこれまで、貴様に過か剰じようなほど強く当たってきたつもりだ。そんな俺が憎いだろう。違うか?」

「いえ、そんなことは……」

 シャロンは目を泳がせる。先ほどまでほとんど表情を崩さず冷れい徹てつなイメージを貫いていたというのに、この数すう瞬しゆんの間にずいぶんと多くの表情のレパートリーを目ま蓋ぶたの裏に焼き付けてくれたものだ。

 明めい滅めつしてはっきりしない視界の中、俺は最後の気力を振り絞って告げる。

「まあどちらでもいい。確か貴様は母を亡くしていたな。現皇こう帝ていの愛人だった」

「どうしてそれを……」

 言いたいことはわかる。自己研けん鑽さん以外の全てに対して、基本的に無関心な振ふる舞まいを貫いてきた俺だ。ましてやシャロンに気の利きいた言葉をかけたことなど一度としてない。周囲の人間に関する情報にやたら詳くわしいのは、ひとえに疑うたぐり深ぶかい性格だからだ。疑り深いからこそ、周囲の人間がどんな人間か、常に把は握あくしていた。

「貴様からしたら不思議だろうな。だが貴様に俺と共に死ね、などと言うつもりもない。だからこれを持っていけ」

 俺は血塗れの手で懐から金貨を取り出し、シャロンに手て渡わたす。

 現皇帝の人情の欠片かけらもない行動の数々に人生を狂くるわされたシャロンの母親。その運命に対して、俺は他ひ人と事ごとと割り切ることはできなかった。その娘むすめに対する補ほ償しようが、満身創痍の自分にもできうる最後の贖しよく罪ざいだった。

「こんなの受け取れません!」

 シャロンは袋ふくろの中身を見て仰ぎよう天てんする。帝国を去る際、餞せん別べつという名目で現皇帝ゲレオン・サミガレッドから渡わたされた金貨だった。決して配はい慮りよからではなく、帝国としての体面を保つために過ぎない。ただ、一庶しよ民みんが持つ金としてはあまりに大きな金額であった。それこそ、シャロン一人ならば死ぬまで安あん泰たいに暮らしていけるほどの額である。

「貴様の母はエクドールの出自だろう」

「は……はい。私の母は確かにエクドールの出身です」

 現皇帝はエクドール出自の女性を何人も侍はべらせていた。シャロンの母親はその中でもとりわけ美人で、現皇帝の拘こう束そくはきつかったと聞く。その母親に似て途と轍てつもなく容姿が整っているシャロンが怯おびえるのも当然だった。

「現皇帝は貴様も愛人として迎むかえようとしていた。貴様の母親がそうだったからな。母を亡くした貴様を憐あわれんで、などと体ていの良い言葉で貴様を囲かこい込むつもりだったようだが、お前にとっては全く迷めい惑わくな話だ。お前が俺についてきたのは奴の束そく縛ばくを回かい避ひするためなのだろう?」

 俺の推測を受けて、シャロンの目が見開かれる。薄うすれていく意識とは反対に、この口は饒じよう舌ぜつだった。

「……確かにその一心でした。母は皇帝の頻ひん繁ぱんな無む理り強じいによる心労で精神を病やみました。それでも変わらず強要を続けられ、過労で命を落とし……。私もそうなるのではないかと怖かったのです」

「貧しい国とはいえそれくらいの金が有れば親しん戚せきも受け入れてくれる筈はずだ。元々そのつもりだったのだろう?」

 俺はフッと力なく微笑ほほえみ、最後にするべきことはしたと安あん堵どに身を委ねて意識を手放した。

「殿下を見捨てて逃げるなんて、私にはできません! 殿下、お気を強く持ってください!」

 必死な声が耳を劈つんざくも、徐々に遠ざかっていく。死ぬのだろうな、という確信があった。