こんなゴミが帝国軍人だったなどあってはならない。何よりも──。
(こいつを放置すれば一体どれだけの女性が犠牲になるかわかったもんじゃない。俺だってなぁ、エロいことがしたいんだよ! その可能性を、貴様なんぞに奪われてたまるか!)
大層な大義名分など必要ない。こいつは俺にとって邪魔になる。そう言うことにしておけば、俺が力を振るうことに迷いは生まれない。
「ああ、そりゃ人間を想定した糸じゃ、このデカブツは止まらねぇか」
俺が糸を振り切ったことに納得しているようだが、まだこちらの力を把握できてはいないはずだ。攻撃と防御はこちらが断然有利。不安要素は蜘蛛が持っていそうな能力──例えば毒。軍事用に強化されている以上、間違いなく持っていると見るべきだ。そして帝国の科学者ならば絶対余計な機能を付けてくる。
(後はどこに毒があるのか、だが……蜘蛛の頭部がないから牙が見当たらないんだよな。となると候補はどこになる?)
蜘蛛の毒と言えば牙から注入するタイプのものしか俺の知識にはない。その牙がこいつにはない。本来蜘蛛の頭部があるべき場所に、人間の胸から上が生えているのだから当然と言えば当然だ。ならば、位置的に毒でも吐くか?
それとも他の虫の特徴を持っていて毒針でも持っているか?
「もう少しその辺を暴いてから仕掛けるべきだったか」とタイミングを間違ったかと少しばかり悔やんだが、俺にも効くような毒を打ち込まれたらそこで終わりだったので、悪くはなかったということにしておく。
警戒しつつ、蜘蛛の糸を振り払い蜘蛛男へと詰めるが、無駄に部屋が広いおかげでカサカサ動き回る相手を捕捉できずにいる。そして相手のニヤニヤ笑い。こいつは本当に軍人だったのだろうか?
俺は賊の死体を持ち上げ振り回す。やはりというかたっぷりと絡みつく蜘蛛の糸「罠を張って待ち構えてます」と言わんばかりの顔からやりたいことが丸わかりである。叫ぶ蜘蛛男を無視して、そのまま賊の死体を投げつけると目標の目前で止まる。割と本気で投げたつもりだったが……やはり糸は警戒しなければならない。
「殺してやるよ、モンスター」
俺の行動がお気に召さなかったのか、明らかに今までのヘラヘラした物言いと違う。天井に張り付きながらも姿勢を低く構えたので、俺もそれに応じるように両手を広げた。逃がす気はない。どのように行動しようが、捕まえれば俺の勝ちだ。
どちらも動かず睨み合いが続く──そう思った直後、奴が動く。意表を突かれたが、最初から先手は譲るつもりだったので問題はない。何故ならば、ダメージを無視して相手に合わせた方が確実だからだ。相手の足の動きに合わせ、完璧なカウンターのつもりだった。
だが俺は奴を殴ることも、掴むこともできなかった。俺の手にあったのは、まさしく「抜け殻」と呼ぶべき蜘蛛の殻。
(こいつ! あの一瞬で脱皮しやがったのか!)
想定外の能力で取り逃してしまったかと思ったが、奴は俺が壊した出入り口にいた。俺は即座に反転し、蜘蛛男との距離を縮め──激痛で足が止まる。
「ガッアアァ!」
シュウシュウと音を立て煙を上げる右手。原因はすぐにわかった。
(脱皮した殻の粘膜! これが酸のように拳を溶かしているのか!)
のたうち回りそうになる痛みを噛み殺し、蜘蛛男に向かい突進する。だがそれは張り巡らされた糸に阻まれ、奴の手前から先に進めない。
「そこで死んでろ、バケモン」
それだけ言うと蜘蛛男が口を
(生死を確認しないということは、それだけ強力な毒ということか!?)
顔を背けたおかげで頭部にこそかからなかったが、首元から腹にかけてが紫色に変色しており、そこが熱を帯びジクジクとした痛みに変わっていく。このまま放置すれば明らかにまずいことになるは火を見るより明らかである。
だがその前にこの糸をどうにかしなければならない。単純に引っ張っただけでは引きちぎることもできず、下手に動けば上半身だけでなく足まで搦め捕られてしまう。
「グゥオオオオッ!」
だから俺は吠えた。そして全力を持って蜘蛛の糸が張り付いた壁を蹴り砕いた。戻ってこられたらアウトだ。だが、動かなくても終わりだ。俺は体についた破片を物ともせずドスドスと通路を走る。瓦礫が床や壁に当たり耳障りな音を立てるが気にしている余裕などない。
目指すは隠した荷物。幸いにも既に蜘蛛男は脱出しており、後は遭遇しないことを祈るのみ。
そして追加で薬を使おうとした時、痛みが収まっていることに気づいた。俺は恐る恐る変色していた部位に触れるが、痛みはなく元通りの体がある。溶けていた右手にも薬をかけると、みるみる見えていた骨が肉で覆い隠され、皮膚が出来上がっていく。
「魔法薬ってすげぇ」
俺が喋ることができたなら、きっとそう口にしていただろう。というか再生シーンがちょっとグロかった。
「ガッ、ハー……」
俺は大きく息を吐くと近場の木にもたれかかる。
(やばかった! 魔法薬貰ってなければマジでやばかった! っていうか相性ちょっと悪くねーか!?)
あのおっぱいさんに感謝の念を送りつつ、今後のことを考えるようとしたが、顔が思い出せずあの見事な胸しか出てこなかった。あれだけ印象が強かったから仕方がないとは言え、これには俺も苦笑い。だが、おかげで平静を取り戻すことができたのでおっぱいに感謝だ。勿論、何もなくても感謝を捧げる対象であると曇りなき眼で宣言する。結論、おっぱいは素晴らしい。
ともあれ、戦った場合のリスクが想定を遥かに超えて大きかった。放置すればどれだけの犠牲が出るかは想像以上となる予感がするが、下手に関わるとこちらが死にかねない相手ともなれば、無策に戦って良い相手ではない。
(となれば、最初にすべきことは何か? 相手の手はある程度暴いた。少なくとも状況から鑑みるに、あれ以上の攻撃手段はないと見て良い)
未知の相手に手を抜いていたというならその限りではないが、帝国軍人がそのような舐めプするとも思えない。
(いや、あの男の性格を考慮すればあり得るかもしれない)
しかしそれでも、その可能性は低いと見て良いだろう。ならば後はあいつ自身の情報が欲しい。となればアジトを探すというのは何か有力な手掛かりを見つけることができるかもしれない。何より「元帝国軍人」であるならば、目覚めた施設内部から何かを持ち出している可能性だってある。
もしも奴が戻ってくるようであれば、今度は遠距離戦を仕掛ければ良い。丁度洞窟には牢獄があるので、投げる金属には事欠かない。迎撃のための陣地を構築すれば、毒以外に有効な攻撃手段はないはずだ、と体に付いた瓦礫を剥がしつつ考える。
少々体がベタつく気もするが、体に張り付いていた瓦礫を剥がし終えたので洞窟へと戻る。元帝国軍人が使っていたのだから、俺にとっても有用な物があるに違いない。そんな浅はかな思考で格子を折りながら戻った俺は、T字路を右折した先で後悔することになった。
そこにあったのは無残な死体。数はどれほどだろう?
体が溶けている者もおり、正確な数字を出すことはできない。少なくとも、その重なり具合から五十以上はいるだろう。そのほとんどが女性であり、その中の一つから俺は視線を外すことができなかった。
「あー、そうだ。また子連れを捕まえよう。んでこの前みたいに裸で踊らせて、ガキを使ってゲームだ。今度は何を入れさせるか──」
あいつの言葉が頭を過る。視線の先には親子と思われる裸の死体。重なり、毒を受けた部分がよりどす黒く変色していることから何をされた……いや、何をさせられたのかが推測できた。
(ゲーム感覚で、子供に親を殺させるか!)
直視に耐えないものだった。見てしまった以上、もう放置はできない。俺は拳を握りしめ歯を食いしばる。そもそも、あの蜘蛛男は俺にとっても脅威である。
(もう、手段なんぞ選ばない)
あいつだけは、絶対に狩り殺す。
まずはあの蜘蛛男を追跡することから始める。幸いなことに臭いは覚えている。犬の真似事をしてでも見つけてやると荷物を置いて移動を開始。そう意気込んだ矢先に臭いが途切れた。洞窟から出たばかりだというのにこれでは先が思いやられる。
理由はわかっている。あいつは糸を使って移動するので臭いは地面には残っていない。もっと言えば、木から木へと移動していることが考えられるので臭いで追跡するのは効率が悪い。
(相性の良い相手ではないと思っていたが、もしかしたら想定以上に悪いのかもしれんなぁ)
泣き言を言っても始まらない。俺は奴の臭いを探すため、体を伸ばし高所も隈なく嗅ぎ回る。そしてようやく見つけた手掛かりから凡その方角に当たりを付け、そちらに移動を開始する。運良く痕跡が見つかった。つまり、方角は合っているということなのだが……問題がある。
(街道に向かっている……と言うことはさっきの馬車を追っている可能性がある)
俺は街道に沿って走る。痕跡を探しながらでの走行なので速度は出ないが、おかげで奴の痕跡をまたもや発見。木に付着していた奴の糸が残っていた。部下の話を聞いていたのだから、取り逃がした娼婦達を追いかけているというのも十分考えられる。これでその可能性が更に高くなり、俺はそこに懸け速度を上げる。
蜘蛛男にどれほどの移動速度があるかはわからないが、馬車を追っているというのであれば時間の猶予はあまりないだろう。街道に残った車輪の後を追い神経を集中させる。間に合うかどうかはわからないが、悲鳴も聞こえていないのでまだ追いつかれていないか、捕まっていないと思いたい。
手の中にある格子だったものの塊を確認する。うん、思わず強く握ってしまったので変形してしまったから、いっそのこと丸めてみた。そうなると俺の大きな手でも一個しか持てないのだが、投げ慣れた形に近いので命中重視と思えば悪くはない。ほぼ全力疾走を続けていると、前方に馬車が見えてきた。同時にそれを狙うように森の中に隠れる蜘蛛男を発見する。
(見えた! やっぱり馬車を狙っていたか!)
どうやらまだその存在に気づいていないらしく、 馬車は悠々と街道を進んでいる。奴は言っていた。
「やっと次の女を甚振れると思っていた」
恐らくあいつは一人も逃さず捕まえる。それも最大限恐怖を与えるように演出もするだろう。そうやって楽しむ残忍な男だ。最高のタイミングで横槍を入れてやろうかと思ったのだが、俺の投擲の射程内に入るや蜘蛛男がこちらに気づいた。
できればもう少し近づきてからやりたかったのだが、見つかってしまったのであれば仕方がない。
「グォオオオオォォッ!」
俺は適当に吠えると同時に手にした金属の塊を全力で蜘蛛男に投げつける。真っ直ぐに飛んでいくが、目標が咄嗟に飛び退いたことで後方の木に音を立ててめり込む。更に俺の存在に気づいた馬車が速度を上げ逃げ出した。俺は足元にあった手頃な石を掴むと再び蜘蛛男に向かい投げる。馬車の方に気を逸していたことで、俺が投げた石をギリギリのところで回避する。
「何邪魔してくれてんだ! この死に損ないが!」
俺が死んだとでも思っていたか?
残念、この通りピンピンしているよ。逃げる馬車を追いかけるような素振りを見せたのでもう一度投石してやると、糸を飛ばして防ごうとする。だが俺が全力で投げた物である。吹き出した蜘蛛の糸で止まるはずもなく、結局は回避に動かざるを得ず、蜘蛛男は別の木に飛び移り去りゆく馬車を見送った。その悔しそうな顔が見たかった。
(糸の射程は十~十五メートルと見て良いな)
蜘蛛男が馬車を追えば追いつかれるだろうが、俺が迫ってきている中、果たしてそちらに向かうことができるだろうか?
当然できない。俺が投げた石の威力から、背中を見せることが危険であることくらいはわかるはずだ。だからこそ、向かってくる俺に対して迎撃する構えを見せている。しかしながら俺はこいつとまともに戦う気がない。相手の射程内に入らない距離で立ち止まり、わざわざ睨み合いを演出する。
当然馬車が逃げるための時間稼ぎである。蜘蛛男からすれば「モンスターが同じミスをしないように警戒している」程度に思っているのかもしれないが、残念なことに俺はお前と同じ帝国軍人。お前が動かない限り、俺も動くつもりはない。
そうしてしばし睨み合いが続いたところで、ようやく蜘蛛男に動きがあった。チラチラと見えなくなった馬車を気にしていたが、舌打ちをするとこちらの対処の切り替えたようだ。こうなると「先に動いた方が云々」とは行かないまでも、不利になることには違いない。
俺としてもこの距離では先に動けば糸の餌食になりかねない。だから距離を取るか動いてもらうかして欲しいのだが、当然相手もそれくらいはわかっており、足を引くと相手も前に出る素振りを見せてくる。
(これは、長くなりそうだな)
蜘蛛男の姿を見る。間違いなく俺がどのように動こうとも対処できるように構えている。時間は十分に稼いだので、あのお姉さん達は無事逃げ切ったと見て良い。
(これで憂いはなくなった。後は、その集中力がどこまで保つか見せてもらおうか)
そうしてじっと睨み合う二匹のモンスター。傍から見れば新種のモンスター同士の決闘と言ったところか?
決闘かどうかは兎も角、お互い命を懸けた闘争であることは間違いない。俺も油断なく構え、蜘蛛男がどう動いても対処できるように足の一本一本の動きにすら気を配る。焦れた両者は動きを見せるも、その距離が縮まる気配はない。
(正面から行けば確実に糸で動きを止められ毒でやられる。だが向こうからこないということは、あの糸はやはり設置式。だったらやりようは幾らでもある)
当然奴が設置したであろう糸はしっかりと避けていくという前提だ。それを可能とするのが、この自然破壊だ。
「糞が!」
蜘蛛男が叫び、俺が周囲の木をその腕力で薙ぎ倒す。両手に持てるサイズの木を掴み、それを蜘蛛男に向かって投げつける。この腕力で投げられた物ならば、ある程度の質量さえあればそれだけで必殺の凶器と化す。
(俺が動く必要はない。精々動いて逃げまどえ!)
次々と手にした物を投げつけ、蜘蛛男が逃げれば手にした木で糸がありそうな場所を払いながら距離を保つ。逃がしはしない──そう思っていた俺に思わぬ反撃が迫る。
「とっととくたばれ!」
糸を使い大きく上へと飛んだ蜘蛛男。場所によっては危険な行為だが、ここでは飛杭魚はいないらしく、木々の上へと飛んだ蜘蛛男が視界から消える。そして降り注ぐ毒の雨。
(そう来たか!)
降り注ぐ毒は密集する葉を溶かし、枝をすり抜けて地面へと落ちてくる。これを完全に回避するには距離を取るか、縮めるかの二択となる。華麗に回避、という選択肢はこの巨体故に即廃棄。已む無く大きく右側へと飛んで回避行動を取ると、蜘蛛男はこちらの動きに合わせて離脱を試みる。だがその動きは想定内。
俺は飛んだ先にある太い木に掴むと体を丸める。掴んだ木を軸にして回転すると、勢いをつけて手を離すことでタイムロスを限界まで削る。森の中というフィールドにおいては間違いなく奴が有利。蜘蛛が持つ能力故に、その優位性を覆すことは困難であることはわかっている。
(ならば、俺が優位な箇所で戦うべきだ)
真っ向勝負の勝利は早々に捨てる。そして蜘蛛男を追いかけながら考える。
「俺が奴に勝る部分は何か?」
答えはすぐに出た。肉体能力──このインチキ染みたスペックをフル活用し、奴を殺す。だが先ほど結論を出したように、真っ向勝負は行わない。ならばどうするか?
(あいつは殺す。だが戦わない。俺はあの蜘蛛男を狩るだけだ)
なんてことはないただの根競べ。俺は森を駆け、蜘蛛男を見つけると一定の距離を保ち付きまとう。決して戦おうとはせず、ただ黙って追跡を続けた。
「何なんだてめぇは!?」
蜘蛛男の声には反応しない。前に出れば引き、後ろに下がれば前に出た。張られた罠は手頃な木で解除し、常に蜘蛛男を視界の中に収め続ける。苛立った蜘蛛男が仕掛けてきたが、それでも距離を保ち続ける。これを繰り返して一つ判明したことがある。森の中でも、移動速度は俺の方が上だった。身体能力に大きな差があるという推測は当たっていたのだ。
こうして追いかけっこが始まり、相手が止まればこちらも止まる。そして逃げたなら追いかけるということを続けた。こちらの狙いを察しているかどうかは兎も角、流石に繰り返されれば無駄なことを理解もできる。蜘蛛男は舌打ちをしながらも俺を無視することに決めたようだ。だが、それこそ俺の思う壺だ。
手段は選ばない。このまま付かず離れずの距離を維持し、こちらを無視するというのなら、投擲による攻撃を延々と繰り返す。そして近づけば離れ、遠ざかれば距離を詰める。休む暇など与えない。食事も、水も、睡眠も全て妨害する。生存競争みたいなものなので禁じ手などなし。どっちが先に音を上げるか、勝負といこうじゃないか。
それから丸一日が経過した。何度も繰り返し行われる妨害に、全力での逃走を試みた蜘蛛男であったが、振り切ることを八時間ほどかけてようやく諦めた。その間にも蜘蛛男は要所要所に蜘蛛の糸を使い迎撃を試みたが、そもそも俺は近づくつもりがなく物を投げるだけだったので、早々に戦術の変更を余儀なくされた。
また身体能力の差を理解したことで強引な力業は鳴りを潜めることになる。なお、逃げながら張っていた蜘蛛の糸は俺が適当な棒で搦め捕っているので、体にはほとんど引っかかっていない。
と言うより、俺の動きを止めるとなると数本に引っかかった程度ではとても足りず、網にかかるレベルでなければ効果がないので移動しながらでは作ることはほぼ不可能だろう。何度か奇声を上げて攻勢に出ててくるのだが、そうなると俺は逃げて距離を取った。
勿論勝負などしてやらない。こいつの毒と糸の危険性は嫌というほど理解している。そして森と言う地形低優位を持つ相手に油断などできるはずもない。一見して優勢とも見える状況ではあるが、それを一発でひっくり返せる手札を蜘蛛男が持っているのも事実である。
また、これまで一頻り罵声を浴びせられたのが、俺はモンスターなので言葉が通じないフリをしてやったら「テメェ! こっちの言葉わかってんだろ!」と、どうやらこちらも同じ遺伝子強化兵である可能性に気が付き始めていた。
まあ、俺は帝国語をはっきりと喋ることができないので確証を得るのが難しいとは思うが、挑発の意味を込めて「ワカリマセン」というジェスチャーをしたのはまずかった。
恐らくあれで俺を同じ帝国人である可能性に思い至ったのだと思われる。
そして二度目の夜──夜目が利き、臭いで追跡することもできる俺が蜘蛛男を見失うはずがなく、距離を維持することに何の問題もない。初日に向こうはアテが外れたのか、苛立ちを誤魔化すように地面に八つ当たりをしていたが、二度目ともなれば忌々しそうに舌打ちをするくらいだ。
定期的に石を投げる俺に睡眠を取ることを諦めた蜘蛛男が取った最初の行動は籠城。当然俺の投石を防ぐことができる建物などなく、人間が作ったと思われる小屋はあっという間に無残な姿と化した。俺に言葉が通じることを期待して話しかけてきたりもしたが、当然無視。意味がわかっていないフリをしつつ、時折唸り声で威嚇をしたりと適当に弄んだ。
また一つ夜が明けた。それでも俺は蜘蛛男に付きまとい投石を続ける。たまには別の物も投げるが、回避能力が若干落ちてきたらしく、何発かに一回は投擲物が体を
何度目かもわからない食事の妨害──どうやら形振り構っていられなくなったのか、糸で絡めた兎をそのまま食おうとする。だが俺の投げた石が兎に命中。やってて良かったゴブリンブートキャンプ。
蜘蛛男の手から兎が地に落ちる。そこに追撃するように石を投げ、地面を蹴って土を巻き上げ兎にかける。この時ばかりは少々近づくが、すぐに距離を取って元通り。何度も妨害しているので、俺が前に出たところを狙って毒を吐き出したりもするのだが、警戒している俺に当たるはずもなく全てが不発に終わっている。そんなことを繰り返していたところあっという間に日が暮れる。
夜が来た。明らかにこれまでとは違う雰囲気を醸し出し、ジワジワと蜘蛛男との距離を詰める。だが何もしない。距離は縮まったと言えど、まだ八メートルは確保している。常に身構え、投石の頻度こそ減らしたものの「いつ襲いかかってくるか」と警戒を強いることで精神的な疲労を狙う。
これに対して蜘蛛男は叫ぶばかりで何の対処もできなかった。流石にもう身体能力ではどう足掻いても勝てないことは理解しているはずだ。頼みの綱の毒と糸は射程を見抜かれ、無駄打ちを誘発させるように立ち回られては下手に攻撃もできない。
糸を使ったトラップもずっと監視されている状況では有効とは言えず、盤面を返す手になり得ない。現状「正面から戦えば負ける」という認識が既にある以上、自分から仕掛けることができなくなっているだろう。
今は体力の消耗を少しでも抑えるためか、毒も糸も使用を控えている。だから地面を蹴りぬいて土をぶっかけてやった。しかし反応がない。仕方がないので尻尾でその辺の石を掴み、俺の手元に放り投げる。危なかったけどキャッチ成功。実は結構練習していた。俺は手にした石を腕の力だけで投げようとしたところで蜘蛛男が口を開いた。
「……何でだ?」
声を無視して予定通り投石で蜘蛛の足を一つ潰す。
「何でこんなことすんだ、テメェは!?」
蜘蛛男は本気でこのやり方の意味がわかっていないようだ。だから俺は答えてやった。
「ぐぉあー」
馬鹿にしたかのような間の抜けた声──当然挑発だ。蜘蛛男はプルプルと振るえたかと思えばヤケを起こして向かってきた。だから逃げた。少しの追いかけっこの後、息を切らした蜘蛛男から十五メートルほど距離を取って様子を見る。
蜘蛛男が何か叫んでいるが無視。しばらくしたらまた八メートルほどまで距離を詰めてやった。泣きそうな顔をしていたが、だから何だと言うのか?
俺に背を向けてノタノタと歩き出したので適当に折った木の枝を投げつける。蜘蛛の尻に突き刺さったが、それに反応するだけの体力が最早ないようだ。
「腹が減った……もう何も出ねぇ……こんなことなら、体力を温存するべきだった」
後悔するかのような独り言から察するに、どうやら大量に出した毒と糸が原因でこんなにも早くスタミナ切れを起こしたらしい。蜘蛛の尻からは中途半端に出かかった短い糸がプラプラと揺れているので嘘ではなさそうだ。
近づいた俺に対し振り返りざまに吐いた毒も最早唾のような物となっており、簡単に避けることができた上に、地面に落ちて草を枯らすことすらできなくなっていた。お返しとばかりに蜘蛛の足を二本蹴り飛ばすと、バランスの悪くなった体でヨタヨタと俺から距離を取ろうとする。
折角なのでもう一本をもぎ取ってみた。左側の蜘蛛の足が四本なくなり、這いずるような動きになった。動きが気持ち悪かったので足を全部もいだところ、残った腕でどうにか這おうと足掻き始める。
「どうしてだぁ……どうして……」
俺は背後から蜘蛛男の首根っこを掴むと、足を人間と蜘蛛の境目にあて──一気に踏み抜いた。
「イギィヤァァァァアアアアアアァァァアッ!」
俺の手には蜘蛛から分離した人間部分が掴まれており、宙に浮いた体からは大量の血が流れ出ている。息も絶え絶えな元蜘蛛男の顔面を木に押し付けると、目の前で爪を使って文字を彫る。
──死ね──
月明かりがあるとは言え森の中、この暗さではわからないかもしれない。だが、帝国語で書かれた文字が読めたらしい。
「たしゅけ……たひゅけ、て……」
俺が何者なのか、その確信を得た男は媚びたような笑いを浮かべ懇願する。その言葉を無視して俺は手の中にある男の首に力を込めた。