Ⅰ
吾輩はモンスターである。名前は多分ない。この場合個体名ではなく種属名だが、ただの名無しのモンスターと思うことなかれ。どうにも自分には人間だった時の記憶がある。「生まれ変わったら怪物だった」ということはなく「ただ人体実験の結果、怪物にクラスチェンジ」というホラー映画でよくあるような、話としてはありがちな設定である。
ちなみに「モンスター名」がないだけで「ユーノス」という人間だった頃の名前はあるが家名はなし──貴族ではないから当然だな。今後使うことがあるのかどうかは不明なので名前うんぬんは正直今はどうでも良い。
さて、何故俺が自身を「名もなきモンスターと定義したか?」なのだが……自分の姿が知識の中にあるどの生物とも似ていないから、である。つまり、冒頭の台詞などただのヤケッパチ。
この大した学歴もなく「特筆すべき点はなし」という至極真っ当な理由で徴兵を避けることができなかった凡骨のオツムで絞り出したものがこれでは、戦況の悪化故の兵力増強のための措置に真っ先に槍玉に上がるのも致し方なし。おまけに俺を実験台にしたマッドな科学者はとうの昔に死んでおり、その実験に命令を下した帝国も今は存在しているかどうかも怪しい。
二百年ほど前に廃棄された研究施設の中で目を覚まし、泣いたり
「冷凍睡眠装置とか一体いつから実用段階に入ってたんだよ?」という至極真っ当なツッコミが脳内で起こっているが、まさか映画や漫画でしか見たことのなかったものが現実にあるとは到底信じることができず、未だにドッキリを疑っている。
しかし、俺が怪物になったという現実離れした現実が、これが本当のことなのだろうと薄々理解させられる。それと現在の時間がわかったのは施設の中にまだ生きている機器があったためである。
現在は北皇歴一八七二年──俺の生まれは一六四八年で軍人となったのは十八歳の時であり、実験体となったのも同年──つまり機械が故障していない、もしくはこれが「誰かの脚本ではない」というのであれば、俺は二百歳超えという超高齢者であり、無事帝国兵として職務を全うし年金暮らしのはずである。
ところがその帝国が最早ない可能性が極めて高いことで、俺の人生はお先真っ暗どころか「人生」はとっくの昔に終了し、残る余生は怪物生という有様だ。我が人生に一体どれほどの悔いがあったのやら。
そもそもの話、帝国がまだあるのであればとっくの昔に目が覚めていなければおかしい。つまり勇ましき我が祖国は、これらの実験が行われていたことが把握できない状況にまで追い詰められたか、もしくは滅んだと考えられる。なお、過去の情勢から鑑みて「帝国は滅んだ」と見る方が無難であろう。
何せ周辺国全部が敵に回って大戦争という状況である。こんな三流映画的な人体実験を敢行するほどに追い詰められていた帝国が残っていられるはずもなく、きっと「トンデモナイ新兵器」とやらで国ごと消し飛ばす羽目にでもなったに違いない。
そうでもなければ冷凍睡眠装置の維持限界までぐーすか俺が眠っていられたことに説明がつかないのだ。もっとも、俺の浅い知識での認識なので実際はどうだか知らない……というかわからない。科学者でもなければ学者でもないので当然である。俺が一体何をしたというのか?
ちょっと軍に徴兵されて「君、いい体をしてるねぇ。今軍の研究で軍人の肉体を強化する実験をやってるんだ。薬を飲むだけの簡単な実験でリスクなしの素晴らしいものなんだけど、よかったらどうだい? ああ、これは定員いっぱいになったら締め切るもので、先着順だから後になって『やっぱりお願いします』と言われても枠がないなんてこともあるから。っていうかぶっちゃけ残り十名切ってるんだ。どうだい、やってみないかい?」なんて
同意書を書かされている時に思い留まるべきだった。「気が付いた時には二百年後、化物になって冷凍睡眠から目覚めました」とか笑い話にもなりはしない。そう考えると今の状況がいっそ笑えてきた。
「ガッガ、ガッハ……」
声を出したら泣けてきた。人語が喋られないんだよ……さっきもそれでがおがお泣いた。「がおがお泣く」とはまた斬新な表現である。念のために言っておくが「鳴く」ではないし、涙は出てなかったがちゃんと「泣く」である。
人間離れこそしているが、見た目も辛うじて「人型」と言えなくもない風貌で、ほぼ全身が硬い外皮に覆われ、尻尾を生やした身長三メートルオーバーの爬虫類と哺乳類の中間……いや、割と爬虫類寄りのどう見てもゴッツイパワー型のモンスター。
どうにかして自分の全身を確認したが人間だった頃の名残がほとんどない。あと地味に体毛が全くないことにショックを受けた……これは体毛がないだけであって決してハゲではないと言っておく。
二足歩行で目が二つに鼻と口、それに耳らしきものがちゃんと二つあったところでこの甲殻のようなカチコチ体皮とご立派な尻尾のおかげで人型離れが進んでいる。だからと言って流石に切り落としたいとは思わない。そんなことをすればどれだけ痛いか想像もつかない。
おまけに二足歩行より両手も使った四足歩行の方が気持ち安定する──いや、手が若干長い気がするから「もしかして……」程度に思ってたんだが、軽く走ろうとすると重心の都合上、手も使った方が安定した。
この時は自分が完全に人間を辞めてることに否が応でも自覚させられた。だが時間が経てばこの現実を受け入れざるを得ない状況に嫌でも気が付くし、いつまでも現実逃避をしていては何も始まらない。
そんなわけで「能力の方はどうなっているのか?」と試しに研究所の外壁を徐々に力を入れて殴り続けてみたところ──壁が凹み拳は無傷という結果には驚きを隠せなかった。加えて痛みに対してもかなりの耐性があるらしく、金属製と思われる扉を強めに殴っても痛みがない。
試しにほぼ全力で殴ると扉が折れ曲がり、真っ暗な通路をバウンドしながら音を立てて吹っ飛んでいった。勿論拳は無傷で痛みもない。更に蹴りを壁に放ったところ轟音を立てて外壁が割れた。
金属製の扉を壊し、コンクリートの外壁を粉砕する様に「やっべ、俺強くね?」とちょっと面白くなってしまったが、ここは施設内部──暴れるのは色々不味いとすぐに気が付くべきだった。とは言え、この身体能力はまさに「遺伝子強化兵計画」の
(しかし、これだけ暴れても誰かが来る気配はなし……というか警報すら反応しないのか)
まるでここには誰もいないかのような静まりっぷりに不安になってくる。というか誰もいないのだろう。本当に二百年後の世界なのだろうか、と自分の両手を見る。「遺伝子強化」と言うより「合成獣」とかの方がしっくりくるレベルの変化っぷりだが、元となったモンスターに関しては該当する個体が記憶にない。まあ、能力面においては文句なしの合格なので気にしない。
問題があるとすれば、被験者が人間の原形を留めていないことが挙げられる。「がおがお」としか声が出ないとか「意思疎通に難あり」と評価せざるを得ず、一体この計画を推し進めた人物は、遺伝子強化兵を一体どのように運用するつもりだったのだろうか?
答えを口にするまでもない、と察してしまう辺りに帝国の末期感が伺われる。そんな風に一人……もとい一匹で
(これ絶対討伐対象とかになって狩られるタイプだよな)
取り敢えず誰かに会おうとする考えは吹き飛んだ。巨大モンスターを討伐するゲームだったなら、
(親父はともかく、姉……は大丈夫だな。となると心配するのは妹だけだが、姉さんがいるなら大丈夫か)
ふと家族のことが気になったが、凡骨を絵に書いたような俺と違い、うちの女は妙に強い……というよりハイスペックだ。母親に至っては「女傑」という言葉が似合いすぎたほどであり、姉はモデルをやっていた時期があるだけあって容姿に優れ、尚且学歴も自慢できるレベルという超人である。
「俺なんかが心配するまでもない」という結論に早々と至り、少しだけ気が楽になった。
親父?
どうせ女の尻でも追っかけて流れ弾に当たってくたばってるだろうよ。ともあれ、ここから生きて出ないことには何も始まらない。差し迫った問題として、この部屋の機器や電力がいつまで持つかは不明なので行動は早い方が良いだろう。
そんなわけで取り敢えずぶん殴って壊れた扉から研究室を出たわけなのだが……小一時間ほど出口を探してみたところ、それらしいものは何も見つからなかった。電気の供給も俺が目覚めた部屋以外はどこも止まっており、真っ暗で狭い通路をおっかなびっくりのっしのっしと歩いている。
地味に天井が低いせいで大きく前屈みにならざるを得ず、自然と両手両足で歩く羽目になっている。さらに歩く度に爪が床に当たってカッツンカッツンと音を立てており、この音が反響して雰囲気が出すぎて正直怖い。暗いことも相まってまるでホラーゲームのようである……というか、廃施設にモンスターというのはまんまホラーゲームの設定である。
(照明がない視界不良の廃棄された軍施設に徘徊する怪物──どう見てもホラーゲームだよな)
もっとも、やたら夜目が利くせいで割と普通に見えているのだが、やはり本能的に暗闇を恐れてしまうのは俺が元々人間だったせいだろう。そう思っていたのだが、恐怖心など気が付いた時には何処かへ行っていた。
まあ、兵士にしようとして体を弄くり回しているのだから「怖くて動けません」とかあったら大問題である。多分その辺も何か弄くられているのだろうと深く考えないようにする。
(しっかし広いな、この施設)
この体には通路は狭く感じるが、それに反して部屋の方はそこそこ広いものが多い。
こうなると案内板が欲しくなってくる。なので部屋や通路重点的を探してみるが、それらしいものは一切見当たらず、研究のための設備や実験のサンプルと思しき何か、ボロボロの紙の資料の束、何かよくわからない電子部品といった細々とした物が見つかるばかりである。
というか、幾らそれなりに見えるからと言っても光源なしでの探索は無謀すぎて効率が悪いにも程がある。加えて文字を読むのが本当に辛く、何でもいいから明かりが欲しい。このままアテもなく
「何か役に立ちそうなものを持っていくため」という理由もあるので、もうしばらくこの探検気分を味わうことにする。そんな具合に探索を始めて早速問題が発生。入手した道具が小さすぎる……いや、体が大きくなったために物が小さすぎてもの凄く扱いづらいのだ。
例えばライターを手にしたものの、サイズが小さすぎて使えなかった上、ムキになって着火しようとしたらあっさり壊れてしまい、この体の力加減が中々に難しく大きく息を吐いた。
他にも懐中電灯を見つけたは良いのだが、親指と人差指で摘むように持つ他なく、電源が中々入れられないことに苛つき、力を入れすぎて破壊してしまうという結果には思わず苦笑い。なお、どれも電池が切れており使える物は一つもなかった。
「そりゃそうだ」と外殻とも言えなくないやたらと硬い肩を落とすと、俺はまたのっしのっしと研究所内を歩き回る。そして見つけた。いや、見つけてしまったと言うべきか?
俺が目覚めた時に見た光景と同じ部屋──つまり、俺とは別の被験者がいる部屋だ。その作りは酷似しており、円形の部屋の中央に冷凍睡眠用のカプセルがある。その周囲に様々な機器やモニターが置かれ、外壁からは十数本のパイプが中心に向かい伸びている。
パイプを踏み潰さないように注意しながら恐る恐る中心部へと近づく。すぐに俺は気が付いた。冷凍睡眠装置は稼働しておらず、俺と同じ姿をした怪物がカプセルの中で眠ったように死んでいた。ただ呆然と立ち尽くす。自分もこうなっていたかもしれないと想像してしまったのだ。
(俺は、運が良かったのか?)
だが果たしてこれを「運が良かった」と言って良いのか自問する。人として生を享け、怪物として生きることになった今、果たして「生き残った」ことは幸運か不運か判断がつかない。
ただ考えることが増えてしまったことにお気楽ムードは鳴りを潜め、暗い気分で探索を続行した。そしてまた見つかった。結果として全部で八つの冷凍睡眠装置を発見することができたが、その全ては何らかの理由で稼働していなかった。
カプセルが破損し、干からびた被験者。失敗だったのか、明らかにおかしな細胞の変異を見せて朽ち果てた残骸。中には装置の外に出ていた者もいた。だがその全ては死んでいた。
死因は不明だが、どうやらこの部屋から出ることができず、ここで息絶えたと窺える。俺は、彼らとは離れた場所のカプセルの中にいた。これが何を意味するかは今となっては断定はできない。所詮は憶測でしかない。しかし、それでも──
(俺は、運が良かったのだろうか?)
繰り返しそう思ってしまうのは、きっと仕方のないことなのだろう。これ以上この場所を調べる気が起きず、何一つ持ち出すことなくその場から離れる。その日はもう、何もする気にはならなかった。とは言ったものの「今日」とやらがいつまでなのかは正確なところ不明であり、気分的なものである。
一応日時を知ることができる機器はあるものの二百年もの歳月が流れている。これが果たして正確なものなのかどうかは言うまでもなく、日付が変わる正しい時間なぞわかるわけもない。
やる気はなくともやらざるを得ない状況下。しばし落ち込んだ後は再び探索タイムとし、せめて明るい材料がないものかと大きくなった体には狭い通路をのっしのっしとゆったり歩く。
(そうだ。何をするにしても、まずはここから出ないことには始まらない)
そう、何をするにしてもまずは出口である。仮にここにまだ用があったとしても、また戻ってくれば良いだけのことだ。曲がりなりにも軍関係の施設である。こんな体になったとしても、役に立つものはきっと残っているだろう。
そんな具合に希望を胸に新たな扉を開けると、そこには半分以上が岩と土砂で埋まった状態の部屋に行き当たる。しばしその状態を観察して思う。
(ここ相当深い地下施設とかないよな?)
そんなことを考えたのが良くなかったのだろう。まったく、嫌な予感というやつはどうしてこうもよく当たるのか?
十数分のさらなる探索の結果、ようやく見つけ出した大きなゲートと施設全域の案内板。苦労して読み取った施設情報の中にある「地下六十メートル」という文字。これが何を示すかは大して頭の良くない俺でもわかる。
ともあれ、このデカくて分厚く頑丈であろうゲートの先に昇降機があるということがわかったことで「脱出口が存在しない」という懸念は一先ず消えた。「証拠隠滅のため埋めました」とかない限り大丈夫なはずだ。取り敢えず「信じているからな、我が祖国」と強く念じておく。
目下の問題としては、肝心のゲートがうんともすんとも言わない。押す、引く、持ち上げる──全部ダメだった。つまり出口に通じる昇降機がすぐ目の前にあるが、肝心のゲートを動かす電源が落ちているため、まずそこを何とかしないといけないということだ。
ますますもってホラーゲームの体をなしてきた現状に「ゴフー」という溜息が吐き出される。ふと「ブレスとか吐けないだろうか?」と思い頑張ってみたが、出てくるのは無理をしたが故の咳ばかり……俺は一体何をやっているんだ?
特に意味のない失敗はさておき、ようやく施設脱出の手がかりを得たわけである。目的が定まったことでやる気は十分──さあ、ゲートを管理する部屋を探すとしよう。情報は全くないと言えど、電源さえ入れてしまえば、培われたゲームの知識でゲートの操作くらいならできるはずだ。
そんな風に楽観的に考えていた数十分前の自分を殴りたい。ゲートがそこにあるからね、きっと近くにあると思ってた。でもなかった。それ以前にこの図体で人間サイズ用の施設を調べるということを舐めてた。後、マジで明かりが欲しい。
おまけにどこを探してもそれらしき部屋はあれど、ゲートに関するものを見つけることができなかった。よくよく考えればね、ここが「軍施設」だってことはわかるはずなんだ。機密保持のために外部からしか操作不能ということも十分あり得る話だった。だがそれ以前に大きな問題があった。
(……ちょっとぉ、どの機器にも電源が入らないんですけどぉ?)
と言うより発電施設からの電力供給が途絶えている可能性すら出てきた。と言うより濃厚だ。この無機質で真っ暗なゲート前の空間で一人……いや、一匹
それが何を意味するか、という部分はあえて触れないようにしておくが、自分一人が生き残っていたことを考えると嫌でもあれこれと想像してしまう。ともあれ、思考を切り替えて「その電力をどうにかこちらに持ってくることできれば……」と考えたところでこの案はボツとなった。
俺は技術者でもなければ工作員でもない──ただの徴兵されたばかりの取り柄のない新兵である。そんな知識も技術は持ち合わせていない。どこをどうすれば良いかなどさっぱりわからないのだから、ボツとなるのも仕方ない。加えて各種工具をこのデカくてゴツい手で使用できるとも思えない。
そもそもの話、電力の都合が上手くいったとしてゲートを開ける操作ができるかどうかも今となっては疑わしい。緊急時の備えの一つや二つあるとは思うが、末期と思われる帝国に果たしてそのような余裕があったかと言えば答えに詰まる上「緊急時」に使用するものなのだから、この施設の関係者でもない俺がそのための手段を行使できるとも思えない。
つまり、俺が採れる手段は一つだけ──そう、力業である。俺はゲートの前に立つと構え、そして振りかぶる。突き出された拳がゲートに突き刺さる……かのように思えたが扉は凹むどころか傷一つなし。この結果には正直少し驚いた。思わず「やるな祖国」と不敵に笑う。
気を取り直して「拳を痛めないように手加減しすぎたか」と反省しつつ、少し痺れた手の調子を整えるようにブラブラと振って一呼吸。
(次は全力で……行くと痛そうだけどしゃーないよなぁ)
しばし照明のない天井を見上げ覚悟を決める。右足を引き、拳を作ると腰を落とし腕を引いて動画で見たことのあるような構えを取る。そして──「ズゴン」という大きな岩の塊を鉄の塊にぶつけたかのような大きな音が響く。
結果、俺は右腕を押さえゴロゴロと痛みのあまりのたうち回り、肝心のゲートは無傷のままそこにあった。まさに惨敗……いや、完敗である。どうやら扉は特別頑丈に作られているらしく、俺の拳では破壊不能であるという結論を出さざるを得なかった。
だが拳がだめならば足がある。蹴りの威力は拳の威力の凡そ三倍とも言われており、この見た目「筋力特化型モンスター」にクラスチェンジした俺の切り札を早くも切らされる形となった。
取り敢えず痛みが治まるまで手をブラブラさせながら深呼吸で息を整える。準備が整い三度目の挑戦。「ホォアタァッ!」と頭では叫んでいるつもりでも出てくる声は「ゴッボァア!」という聞くに堪えない汚い奇声。
先程の一撃よりも、より深く大きい音が振動となって響く。手応えは──なかった。むしろ俺の足の方が重症だと言わんばかりに痛みでガアガア泣いてのたうち回る。破壊するには至らずとも亀裂なり入るだろうと予想していた。
だがまさか
続ければいつかは……そんな考えが一瞬頭を
(いや、だ……嫌だ! こんなことで! こんなところで! 死にたくない! 死んでたまるか!)
言葉にならない
「出られない」と認めたくない現実が肩を叩く。その瞬間──フッと唐突に恐怖が薄れた。まるで憑き物が落ちたかのように呆然と立ちすくみ、しばしアホ面でゲートを眺める。「何だこれは?」と言葉にはできないが口にしようとした時、俺はあることに思い至る。
(感情……いや、恐怖の抑制か!)
なるほど、戦闘用なのだから「恐怖」はない方が都合が良い。先程暗い通路で感じた恐怖が抑制された推測が現実味を帯びてきた。効果に違いがあるようにも思えるが、今回のはまるでスイッチが切り替わるような劇的な変化である。これは憶測にすぎないが、条件を満たしたことで発動する場合の効果とは別に、感情を抑制する二重の機能があるのではないだろうか?
ともあれ冷静さを取り戻すことができたのは
考えてみればこのスペックの怪物が暴走した場合、どれほどの被害が出るか想像がつかない。ならば封じ込めることができるようにはできていて然るべきだ。普段ならこれくらいのことはすぐに思い付くはずなのだが……もしかしたら知能低下などのデメリットもあるのかもしれない。
しかしそうなると正面からぶつかるだけではこのゲートを突破できず、このままここで餓死する未来が見えてくる。どうしたものかと顎に手をやり考えるポーズ。
(バカ正直に真正面からゲートに当たったところで、壊す前にこっちが壊れる。ならどうする? 普通のやり方ではダメ。電気を引っ張ってくるのも無理。出入り口はあのゲートのみ……あったとしても通風孔のようなものがあるくらいだろうし、そんな場所に俺が入れるわけがない)
「ならば通風孔を見つけて拡張。通れるようにするか?」と考えたところで何かがまとまりかけた。
(ゲートの破壊は現実的じゃない。でもゲートを通らなければ外には出れない……いや「ゲートを通る」必要はない。ただ扉の向こう側にさえ行くことができれば、それで良いんだ)
俺がゲートをじっと見る。分厚く、頑丈で俺の全力でもビクともしない。この先に地上に通じる昇降機がある。ならば──。
地下に響く轟音。その度、地面には硬い岩の塊が転がる。直面した問題を前に俺が閃いたものはと言うと──ゲートが無理なら迂回すれば良い。つまり、穴を掘ってゲートの先に行くという手段を取ることにした。
幸いというべきか、この肉体能力ならば外壁の破壊は容易にできる。最初は「ゲートのすぐ横を破壊していけばいけるのではないか?」と思い、早速行動に移ったのだが、思った以上にゲート本体が横に長く、結局岩盤も叩くことになった。
岩盤の掘削には少々手こずってはいるものの、あのゲートを破壊するよりかは余程現実的だ。拳や蹴りでは破壊することが難しくなれば、戻って適当な金属部品を拝借。それを
これを繰り返し「そろそろ道程の半分は超えたか?」という辺りで俺の手足が限界に近づいてきた。具体的に言うと痺れてきた。俺は手をプラプラさせながら掘った横穴から這い出ると、体についた土埃を払い大きく空気を吸う。どれほどの時間が経過しただろうか?
ただ一心不乱に掘り進めていたので時間などわからないし、時刻を知るには俺が目覚めた場所まで戻る必要がある。当然そんな無駄なことをするつもりはなく、そもそも戻る道など覚えていない。少し体を休めたところで、削岩再開──と思ったら土が出てきた。
(あー……これもしかして反対側掘ってたら楽にいけてたかもなぁ)
掘る場所次第では楽に行けた可能性もあったかもしれないが、ここまで来たのなら後の祭りである。ともあれ残りはさっくりと掘り進み、ゲート横の外壁を破壊。空いた穴にこの巨体を強引にねじ込み、更にそこから力業で抜け出ると、そこはやっぱり真っ暗な空間だった。
周囲を軽く探索してみたが、ここも電気が止まっているらしく全ての機器が反応しない。詰め所と思しき場所には中身の入った酒瓶が幾らかあったが、流石に飲むことが
(飯、どうすればいいんだ?)
時間が経過しすぎてこの施設にある保存食など到底食せるものではない。「この体ならばあるいは……?」などと考えてしまうが、流石に御免被る。この姿で腹を壊した状態など想像もしたくない。
(ま、飯のことは外に出てから考えよう)
真っ暗な広い通路の先に進み、目の前にあるのは俺でも何とか入れる通常サイズより少しだけ大きい昇降機。
(六十メートルかぁ……)
電気がない以上、俺はここを自力で登らなければならない。扉をこじ開けると生暖かい風が俺の体を撫でた気がした。埋められていなかったことは確実であり、外と繋がっていることを確信せずにはいられない。
かご室は上にある──と言うことは目の前にあるワイヤーで登った後、底をぶち抜くか持ち上げるかして扉を開けることになる。ロッククライミングのように外壁をよじ登るでも良いが、そこは臨機応変に対応していこう。そんな風に考えていたのだが、
流石にこの体には小さすぎるのだが、足の指が何とか引っかかるのでないよりは遥かにマシである。この梯子と昇降機のワイヤー、それに所々ある外壁の出っ張りを使い順調に登っていく。体が大きいおかげで手足を置く場所に困らない上、手と足を思い切り伸ばさなくとも壁に届くのでホイホイと登っていける。
最後の障害がこんなあっさりクリアできて良いのかとも思ってしまったが、天井──つまりかご室の底が見えてきたところで俺は選択を迫られる。
(さて、こいつをどうするか?)
選択肢としては「ぶち壊す」か「持ち上げる」の二つくらいしか思い浮かばない「下に落とす」というのもあったが、この図体ではそもそもかご室の上に上がれない。取り敢えず背中に乗せるようにして体を持ち上げてみるとあっさりと動いた。
掛かる負担もそれほどでもなく、このまま行けるかと思ったが出口がどうやら反対側にあるらしく、一度下りて場所を変える。扉を開けやすい中央に陣取り、もう一度同じようにかご室を持ち上げつつゆっくりと登っていく。腕が入るほどの隙間ができ、伸ばした片手に扉をこじ開けようと力を込める。
(よし、いける!)
確かな手応えがあった。そのままねじ込むように指が僅かに動いた扉の隙間に滑り込ませる。指が一本入った。扉は開く、開けることができる。僅かではあるが、開けた先から光が漏れる。
後はこのままかご室を持ち上げれば良いだけ──そう思った直後、足場として指をかけていた梯子が崩れた。二百年という歳月故の老朽化か?
それとも俺が重すぎたか?
その両方という線が濃厚だろうが、俺が持ち上げようと力を込めたことも要因の一つだろう。俺の片足を宙ぶらりんとなったことで、かご室の重量が扉の隙間に入れた指に伸し掛かる。
「がぁっ!」
「痛ってぇ!」と小さく叫んでしまう。反射的にワイヤーを掴む手を引き体を上へと持ち上げる。かご室が浮き指にかかる圧力が消えると体勢を変え、最早遠慮は無用とばかりにガッコンガッコンと揺さぶり、跳ね上げながら力業に訴える。
隙間に通した指をさらに奥へ、背に伸し掛かる重みなど知ったことかと強引に、荒々しく扉を
両腕がしっかりと扉の先へと辿り着く。ここまでくれば後は時間の問題である。両腕を広げ、扉を抉じ開けつつ体を引っ張ると扉の先が見えた。恐らく、出入り口となるこの部屋は厳重に施錠されていたのかもしれない。
しかし二百年という歳月か?
それとも戦争の爪痕か?
天井が僅かに崩れ、そこから光が差し込んでおり、侵食した植物が部屋を半分近く埋めていた。
(ああ、ここから抜け出せば外だ)
こんなことで感動をすることになるとは思わず、涙は出ないが目頭が熱くなったような気がする。それからしばらく扉やかご室と格闘し、やっとのことで扉の隙間に体をねじ込むと、芋虫のように体を揺さぶり這い出た。すると昇降機のかご室が落下。轟音が響いた。
映画だと炎でも吹き出してきそうだが、しばし落下先を見続けたがそのようなことはなく、俺は手足を広げそのままぶっ倒れた。肉体的な疲労はともかく精神的にはもう限界だ。
(と言うか情報が欲しい、整理したい、全く足りてない。そのためには……)
僅かに光が漏れる天井の亀裂を見る。地上へは出た。外の世界まで後少しだ。二百年ぶりの地上──と大げさに言うものの体感では多分二日ぶり程度。隙間から見える太陽の位置から今は昼前と言ったところだろう。天気も快晴で旅立ちには最高と言える。旅に出るかどうかは不明だが。
日光浴と洒落込みたいくらいではあるが、残念なことに俺の周囲……いや、見渡す範囲が薄暗い。何故か?
その疑問に答える前に俺も一言言いたい。「どこだよ、ここ?」と──施設の外に出て見渡した周囲は緑、緑、緑──森というより、手つかずの自然そのままと言った感じである。
(こんな場所帝国にあったか? こんな自然豊かな土地が帝国にあるなんて聞いたことないぞ?)
やはり時間が経ちすぎているのか?
まさか帝国が新たに領土を獲得した?
幾つもの可能性が頭に浮かぶが、そのどれもが「流石にそれはないだろう」と頭を振るようなものばかり。考えていても仕方がないので、取り敢えず周囲をよく観察してみることにする。
(一応植物は見たことのあるものばかり……位置的には帝国領だった場所から
そもそもの話、俺は意識がなかった時に移送されているわけである。体が既にこの状態であろうとなかろうと、冷凍睡眠装置などという大掛かりな物がホイホイ用意できるとは思えない。
よって、ここは元帝国領であることはほぼ確定と言って良い。流石にここまで大規模なドッキリを仕掛ける意味がわからないので、これはもう「冷凍睡眠装置で二百年以上眠っていた」という部分は確定にしても良さそうである。
(となると、緑だらけのこの状況には何かしら原因があると言うこと──あー、戦争がどのような形で終着したか気になってきた。まさかこんな状態のまま放置して戦争継続とかあり得ないだろうし、どこかの領土になってるなら、これだけの土地をこんな状態のままほったらかしとか考えにくい。いや、西側だったならあり得るが……東側でも事情次第では……ダメだ。判断材料が少なすぎる。これは少し施設地上部分の調査に時間を割くことも視野に入れるべきか?)
しばしその場に立ち止まりうんうん唸ってはみたものの、考えがまとまる気配はなし。「考えていても
何をするにしても、地理の把握に現在位置の確認は必須であり、これからの行動を決める判断基準にもなる。それに水や食料も手に入れなくてはならない。今はまだ空腹や喉の渇きを感じていないが、これで「強化故に感じにくいだけで無理が利く」とかであるならいつ危険な状況に陥ってもおかしくはない。
何せコールドスリープとは言え二百年以上眠っていたのである。睡眠はともかく、飲まず食わずが続いてる現状では水と食料は可能な限り早く確保したい。これだけ自然が多いのであれば、食べられる物が何かしらあるだろうが、
野生の木の実など食べたところで腹の足しになるのか怪しく、それ以前に食べられるものがあるかもわからない。いっそ獣でも狩った方が良いかもしれない。しかしそうする場合、今度は「生で食う気か?」となり、火をどのように調達するかという問題が発生する。
(そうだ、一度戻って使えそうな物を何かに入れて持ち運ぶか? こんな体になっても道具は扱える。ならあるに越したことはないはずだ)
そんなわけで一度施設地下へと戻ってみたのだが……目の前には土砂で埋まったゲートがあった。ゲートは無事でも周囲の老朽化は深刻なレベルだったのか、そこに俺が横穴なんぞ掘ったことで限界を突破。後は六十メートルからのあの落下による振動がトドメにでもなったのだろうか?
俺があれだけ苦戦したゲートは、僅かにその痕跡を残し土砂に埋もれ、研究施設への唯一の道が完全に消え失せていた。誰がどう見ても戻ることは不可能な状態である。これは無理に掘ろうものなら「自分まで埋まりかねない」と判断し、肩を落とし諦める。
「ゴッハァァァァ……」
俺は大きく溜息を一つ吐くと、せめて周囲に何かないかと探してみる。そして探すこと小一時間──俺の持ち物はこのようになった。
・リュックサック:背負えないけど小さな荷物は全部これに入る。密封されたロッカーに入っていたためまだ十分使えるのが良い。色は濃い緑。
・空き瓶:お酒の空き瓶。水とか入れるのに使える。蓋も健在。比較的綺麗な物を三本。
・マッチ:ライターはどれも使用不可だったが、包装された状態の新品が三箱。まだ使えると信じたい。
はい、一時間探してこれだけの成果です。無能と思うことなかれ、大半の物は錆ついていたり破損状態が酷かったりで、とてもではないが使用に耐えうる耐久性が認められなかったためである。
(そりゃ二百年も経ってれば使える物なんてほとんどないわな)
むしろこれだけあっただけでも上出来とすら言える。欲を言えば使える刃物が欲しかったが、贅沢を言っていられる状況ではない。リュックを腕に通し……たかったが手で掴み、縦穴を登り施設から出ようとしたところで周囲を見渡す。
見事なまでに緑に侵食された廃墟──こちらは地下と違い「探すだけ無駄」というのがひと目でわかる。だがそれでもこの状況の手がかりくらいはあるかもしれず、無視するわけにはいかないというのが俺の知能で出した結論。
このでかい身体では施設地上部分は狭くて仕方がなく、正直探索どころではないのだが「見逃し」があるとどうにも気持ち悪くて仕方がないのがゲーム脳。まずは時間のかからない施設外縁部──周囲を回りながら何かないか見て回る。
外壁の破損に銃弾の跡や爆発物でも使ったような形跡があれば、少しは今後の推測の役に立つだろうとの判断である。ところがグルっと一周して見たもののそのような痕跡は一切見つからず、この施設はまさに「自然に朽ちていった」という有様だというのがわかっただけに終わった。
(やっぱ内部から資料とか何か見つけるしかないのかー)
しかしそう都合よく紙媒体で、しかも読めるレベルで保存状態が良好な物があるとも思えない。ましてやこの植物の侵食具合……この状態で無事な紙があるならもはや奇跡かファンタジーである。そして帝国にはそのファンタジー要素がほとんどない。俺は一度施設全体を見ることができるように少し遠ざかる。
施設を囲む所々崩れたコンクリート製の壁をひょいと乗り越え、何かないかと見渡したところで俺はその「何か」を発見した。入り口──緑に覆われた壊れた門に何かが貼り付けられている。それは金属製の板であり、何かが書かれていた物であることがすぐにわかった。
俺は近づくなりその周囲の蔦や葉を
その内容を簡単に言えば──「汚染地区につき立入禁止」である。欠けてほぼ読めない部分を補完し、もっと詳しく言うならば「重度汚染地区指定に付き閉鎖、立ち入りを禁ず」と言ったところだろう。俺は探索を即座に中断し、全力で廃墟を後にした。
どれほど走っただろうか?
少なくとも十分近くはこの
もっとも、その大きな体故にあっちこっちに接触し、しっかりと走ることはできなかった。しかし、それを補って余りある速度が出せる肉体であることが確認できたので良しとする。
(それにしても、本当に高い能力を持った肉体だな)
自分の足の速さにもびっくりしたが、恐らくこの体に慣れればもっと速く走ることもできる気がする。と言うか確実に可能だ。こういった分析が冷静にできるくらいには現在の俺は正常である。
「汚染」──と言うからには化学物質による汚染と思われるが、そもそも帝国領で起こったことと考えるとそれしかない。加えてそんなことが起こりうる科学技術を持つ国と言えば──
(おう、祖国。何やってくれてんの?)
北のカナン王国でも科学は取り扱っているがその水準は帝国のそれを遥か下回る。とてもではないが候補に入らないどころか考慮する余地すらない。東のセイゼリアに至っては魔法国家である。
科学一辺倒のフルレトス帝国内で魔力による汚染──それも重度のものを引き起こすなど地形が変わる規模の変化でもない限りあり得ない。西も同様だが、自然崇拝が盛んなエルフ国家が汚染なんぞ引き起こすかと言えば、その可能性は限りなく低いと言わざるを得ない。
最後に南のレーベレン共和国とハイレ連邦だが……レーベレンのような小国にそんな実力があるはずもなく、領土に関して貪欲極まりないハイレに至っては、大戦中にセイゼリアに戦争を仕掛けられており、帝国領土でそのようなことが行えるわけもなく、こんなことをする余裕が当時のあの国にあったとは到底思えない。となれば答えは一つしかない。
(帝国の自爆だな。間違いない)
自国と言えどこの信頼よ。カナンと戦争中にトンデモ兵器をホイホイ作ってその度に爆発事故を繰り返していればそのような考えも定着する。「今回の重度汚染は一体何をやらかしたのやら」と呆れる他ない。まさかとは思うが、この鬱蒼とした森林地帯全域が「重度な汚染」の影響で誰も人が寄り付かなくなりできたものではあるまいな?
だとするなら森林地帯全域がアウトである。と言うか大陸最大の領土を持つ帝国がどこもかしこもこんな状態だとしたら、凄まじい緑化運動である。祖国の一大プロジェクトに思わず危機感を抱いてしまうが、未だ汚染が残る状態であるならば植物に何かしら異常が見られるはずである。
だがそのような光景は未だ目にしておらず、周囲を見渡しても見知った植物と昆虫しか見当たらない。当然奇形のようなものはおらず、汚染は過去の物であるという可能性も十分ある。後は希望的観測にすぎないが、この肉体が化学物質による汚染に強い可能性だってある。
こんな状況だからこそ焦りは禁物。まずは当初の予定通り、周囲の地形の把握と現在位置の確認を優先する。なお、施設探索は現状の凡その原因に見当が付いたので必要ないものとする。取り敢えず周囲を見渡してみるのだが、この身長を持ってしてもこの森の先を見ることは叶わないほどに木々が成長している。
と言うわけでいっちょこの身体能力を活かして垂直跳び。ドン、という大きな音を立て地面を蹴ると、頭上の枝をバキバキと粉砕し雲一つない青空が視界に広がっていく。ビックリすることに自分の身長くらい飛んでいた。
(これ、着地大丈夫か?)
増えに増えたこの体重を支えるだけの強度はあると信じているが、やっぱり怖いものは怖い。正面に見える景色には丁度良い高所が近くにはなく、ただただ森が広がっておりこの方角に進むという選択肢は消えた。
少し心配だった着地も、ドスンと両足が地に着いたところで痛みもなければ痺れもない。ただ衝撃と音にビビった鳥が飛び立ったことくらいだ。「いやはや、本当にお強い体なことで」と感心しっぱなしである。
今度は反対方向を見るために体を百八十度回転して再び垂直跳び。するとあるではありませんか──小さいながらも切り立った崖が。少なくともこの周囲を一望できるくらいの高さはありそうだ。距離もそこまで離れておらず二、三十分も歩けば着けそうである。ちなみに全力で走るには木が邪魔すぎる。
さっきの全力疾走でも無駄に広い肩幅のおかげでガッツンガッツン木に激突していた。木々の密度が少し高いこの辺りではランニング程度に押さえて走るのが正解だろう。二足歩行ではなく両手も使ったものを「ランニング」と称して良いのかどうかはわからないが、ニュアンス的にそんな感じなので問題はないだろう。折角なので走り方を最適化しつつ目的の崖に向かう。
わかってはいたが兎に角勝手が違う。体の重心もそうだが、身体能力がデタラメに高く、その制御に神経を使うあまり周囲の地形の把握が覚束ない。結果、ちょっとしたものに脚や肩をぶつけることが多く、勢い余って自然に自然破壊を行う体たらくである。
これには「自然に慣れるのを待つのではなく、自分から慣らしていく必要がありそうだ」と考えるくらいには危機感を持たざるを得ない。野生動物程度に負けるつもりは微塵もないが、魔獣とも呼ばれるモンスターや人間の集団が襲いかかってこないとも限らない。
特に人類種に狙われた場合、状況にもよるだろうが「危険な生物」と認定されれば多少の犠牲は払ってでもこちらを狩りに来ることが予測される。流石にそれは勘弁願いたい。何かあってからでは遅いのだ。
「体への慣れは時間を割いてでもやるべきである」というのが、えっちらおっちら走りながら出した結論である。さて、色々と考えているうちに目的の崖が見えてきた。視認できる距離まで近づいたところで凡その高さが把握可能となってくる。
(んー……まあ、俺が跳ぶよりかはずっとマシか)
正直少々がっかりではあるが、じっくり見渡せば何か見つかるかもしれない。何はともあれこの小さな崖を登ってみないことには始まらないので、足場となるような場所を探す。そうして探すこと約一分──この巨体の足場なのだからあるならすぐに見つかるだろうとは思っていたが、本当にすぐに見つかるとは思わなかった。
バカでかい階段状になった二~三メートルほどの高さで三段あり、跳べば簡単に登れるお遊戯レベルのアスレチックが俺の目の前にあった。足場としても十分の広さがあり、今の肉体スペックでこれを危ぶむ理由はない。もう少し崖に見えたこの場所を見てみたところ、何故かこの周囲だけがせり上がっているような奇妙な地形だった。
どのようにしてできたものなのか少々気になるところではあるが、今はその原因を究明する時ではないので一段一段を確実に登っていく。さてさて、何か見覚えのあるオブジェクトでもあれば良いのだが、と期待していたが、またしても見渡す限り緑、緑、緑……緑しかないこの景色に俺は黙って頭を抱える。
地形の凹凸こそあれ、人工物は勿論のことながら「自分が今どの辺りにいるか?」の指標にすらならない光景には
だが目に見える範囲で最も高いのは、最早「そびえ立つ一本糞」としか形容できない足場もなさそうな突起物。言い方は汚いが、そんな棒みたいな岩肌がにょっきりと森から生えている。
(こんなオブジェクトが存在する地域なんて知らないぞ)
可能性として戦争の結果、あのようなものが発生したというケースも考えられるが、流石に俺の記憶からでは該当するものがない。取り敢えずここが「俺の知識にはない土地であることはわかった」くらいのことは負け惜しみでも言っておく。
残念なことに俺にはロッククライミングの経験もなければ、知識や技術も持ち合わせていない。そもそもこの巨体である。人が生み出した技術が使えるとも限らず、その知識が正しく作用するかもわからない。物理的に考えるのであれば、増えすぎてしまった体重を支えるだけの腕力はあると思うのだが、掴んだ場所が崩れる可能性は十分に考えられる。
今は無理をするより安定した行動という方針だ。というわけで川でもないかと目を凝らして緑一色の大地を見渡しているのだが……見当たらない。ちなみに研究施設はギリギリ見つけることができた。緑に侵食されすぎて外壁が一部どうにか見えるくらいで、この距離では注意して見なければそこに人工物があるなどとはとてもではないが気が付かない。
そうやって注視し続けていて一つ発見があった。同じ場所を注意深くじっと見ていると、まるで望遠鏡の倍率を変えるように視野が狭まり遠くのものがよく見えるようになったのだ。それを何度か繰り返すことで見事に感覚を掴むことに成功。
程なくして俺はほぼ自由自在にこの機能を使うことが可能となった。色々試したところ、遠くのものを見るだけでなく、近くのものをより詳細に見ることもできた。要するに「ズーム機能」である。
何をどうしたらこんな能力が備わるのかさっぱり不明だが、あって困るものでもないので素直に受け入れる。
(いやまあ、兵器として投入するのだからあっても損はない能力なんだが……)
一体どういったコンセプトでこのような能力を備えることになったのか?
その経緯を少しばかり知りたくなった。ともあれ、ますます人間離れしていく我が肉体……まあ、既に見た目がかけ離れすぎているので今更ではある。さて、折角手に入れた──というより発見した能力を使って川はないとしても水場を探す。
また、この場所から自分の現在位置を探り当てるのは諦めた。今はまだ太陽がほぼ真上に位置しているので、日が傾き次第方角を決めて移動することにして、今は生きるために必要な水を探すことを優先する。
そんなわけで新たに体得したこの望遠能力を確認がてら、このどこまでも広がっていそうな森を高所から見下ろしていたところ、自然物とは思えない色合いが目に映った。そこを限界まで拡大したところ、緑に覆われていながらも見える「白っぽい布地に赤のライン」という明らかに人工物にしか見えない物を発見。
ここからではそれが何なのかは判別できないが、確認しに行く価値はあるだろう。幸い、と言うべきか研究施設とは反対の方角であったため、その関係性はそこまで高くはないと思われる。ならば汚染の心配も薄れる上、場合によっては何か良い物が手に入るかもしれない。
早速崖を降り、見つけた人工物の下へとのっしのっしと移動する。流石に距離があってすぐには着かなかったが、道中何事もなく日が少し傾く頃には到着できた。それに近づけば近づくほど、俺は遠くから発見したそれが何であるかわかってくる。
手を伸ばせば触れることができるほどの距離まで近づき、森の中に落ちたそれを見上げその姿を見て確信する。バカでかい丈夫な布地のようなものと、割れたガラスの先から見える「操縦席」とでも言わんばかりのもの──。
(飛行船か……)
どうやら人類はまだ空を諦めていなかったようだ。怪鳥に竜……仮にそれらを除いたとしても空を飛ぶモンスターは無数に存在し、人類はその脅威から逃れる術を持っていない。そんな中、落ちれば死ぬような人類が空に浮かべばどうなるか、などわかりきった話である。
(それでも、諦められない理由があるってのはわかるんだがな)
「空を制する」──この意味がわからない馬鹿はこの世界にはいないだろう。軍事に流通、その利用価値は計り知れない。一体どれだけの富を生み出すかなぞ想像もつかないだろうし、革命だって起きることは間違いない。だが、それができた試しはない。
「やるだけ無駄」と誰しもが諦めていたはずなのにまだ挑戦する者が今の世にはいるようだ。
(となれば、こいつがいつ頃の物なのかが気になるな。墜落して燃えていないということは魔法技術が主軸か? となると東か北か……)
どこが作った物なのかわかれば見えてくる情報もあるだろうが、パッと見では情報はなし。これが墜落した時期が特定できたのなら手に入る情報は多く、何より積荷である保存食が残っているのであればまだ食える可能性もある。まさにこの飛行船の残骸は可能性に満ちていると言って良い。
少しばかり自分の運の良さに驚きはしたが、そもそもこんな姿になってしまっているのだから、どこかで埋め合わせてくれなければそうそうに余生をリタイアしそうだ。そんなわけで早速調査を開始したわけだが……一言で言えば探し甲斐がなかった。操縦室の他にあったのは座席以外ない小部屋と小さな小さな貨物室。
こちらが大きいのもあるが、中に入って探すことなど不可能なので壁や扉を引き裂いたのだが体を滑り込ませるので精一杯である。仕方なしに外側から探っていたところ、出てくる出てくる白骨死体。原形を留めていないものを含めて恐らく合計四人分の骨が見つかった。
一部
ともあれ、この墜落した飛行船での収穫は主に二つ。一つはこの缶の中に入った非常食。帝国産の缶詰ほど信用があるわけではないが、まさか無事なものがそこそこの数手に入るとは思わなかった。
次に情報──俺としてはこちらの方が非常にありがたい。何せ、この飛行船は一八六七年に落ちたものらしい。つまり二百年経過が確定し、施設で知り得た年代からこの飛行船は五年前に墜落したものであると思われる。これは船員の日誌がまだ読める状態で鞄の中に入っており、それがカナン王国語であったことから多少読むことができたため得られた情報だ。
カナン王国は帝国の北に位置する魔法と科学を両立させた王政国家であり、最初に帝国と戦端を開いた国家である。俺が学校に通う年齢の頃には既に戦争をしており「敵性言語を習うとはけしからん」などという教師もいた。
それを表立って言われた時は「それだと諜報員とか育てるの苦労しません?」という風にやんわりと返したところ、いつの間にか「スパイ志望」に置き換えられて大変苦労する羽目になった。
そもそも諜報員のような忍耐を必要とする職業は俺には向いておらず、こうして大きくなってしまった指でページを捲るのが地味に辛く、途中で何度か投げ出したくなるような奴がなれるものではない。
それにしても第一外来語にカナン王国語を選択していたことがまさかこんなところで役に立つとは……何が起こるかわからないものである。わかっていたならもう少し真面目に勉強していた。
「二百年のブランクがあるんだから読めない部分が多いのは仕方がない」と大体二日前に目を覚ました年金暮らしのはずの元帝国兵は自分に言い訳をする。取り敢えず日誌からわかったことと言えば、この飛行船は試験として飛ばされたものらしく、案の定というか飛行生物の襲撃に遭い墜落した模様。
俺の目が覚めていた時代でもお約束な出来事ではあるが、いざそれを目の当たりにすると笑えない。ちなみに日誌はほとんどが役に立たない情報ばかりで、わかる範囲ではひたすら上司に対する恨み言が書き綴られていた。読めない部分を補完しつつ意訳するとこんな感じだ。
「ふざけるな、俺が希望したのは空飛ぶ棺桶の乗員でもなければ実験台でも探検家でもない。俺は、確かに『最新鋭魔動機のテスター』を志望した。これのどこが『最新鋭魔導機』だ? どう見ても百年前にもあったガラクタか骨董品だろうが。○○○(翻訳できず、恐らく人名)よ、お前さんはきちんと栄養を脳にまわしているか? 毛のない頭に幾ら栄養を送ろうがもう手遅れ、無駄なんだよ、脳みそに送れ、脳みそに。後口がくっせ、歯磨け」
ここから先は全部
「おいおいおいおい、飛ぶのはいいがずっとこの速度で飛ぶつもりか? てっきりどんどん速度上げていくものだと思ってたぞ? これじゃフライニードルの格好の的だろうが。ああ、あの無駄に目立つ赤い模様は得点計算のためか? おう、冗談で言ってると思ってるのか? 俺は自殺志願者じゃねーんだ、今すぐ引き返して降ろしてくれ」
ちなみに「フライニードル」は別名で正式名称は「カタルンヤ」と言い、見た目は体長五十センチメートルほどの細長い羽の生えた魚。「飛杭魚」の名前の方が有名で、鉄板も余裕でぶち抜く硬く鋭く尖った口が、時速百二十キロメートルで飛行物目掛けて飛んでくる。ぶっちゃけ、今の俺でも耐えられる自信がない危険極まりないモンスターである。
「クソが。昨日は日誌を見られてぶん殴られた。ふざけるな、やっぱり俺が言った通りに襲撃されて飛行継続不可能とか言ってんじゃねーか。『このままだと後三時間保たない?』そう、関係ないね。もう俺しーらね。さっさと落ちろ、俺だけでも絶対逃げ出してやるからな」
どうやら飛行船は三日程で落ちたらしく、乗員の忠誠度も低いことからその結果は「お察し下さい」と言ったところだろうか?
一見すると役に立たない情報だが、無事な保存食が多いのは緊急事態故に、手を付ける余裕がなかったのが理由だと推測できた。問題は中身だが、カナン王国の技術力なら五年くらいは保つ……と思いたい、というか保って欲しい。
帝国産と違い缶に蓋をするタイプのものなので魔法的な技術の介入がなければ正直怖くもあるが、開けてみないことにはわからない。俺は人間の拳大ほどのサイズの缶を一つ摘み上げるとじっくりとそれを見る。
記憶が確かならば開封のための専用の道具があったと思うが、そんな物は今の俺には必要ない。つまりは力任せ──缶ごときが今の俺の腕力に耐えられるはずもなくあっさりと粉砕され、中から出てきたのはカチカチのパン。要するに定番の乾パンだ。
カビの有無を確認し、ないことがわかると爪を使って引っ張り出しそれをポリポリと食らう。
「ないよりマシ」
そんな言葉が鮮明に脳裏に浮かぶ。
(栄養考えてドライフルーツか何か入れることはできなかったのだろうか)
数はあるのだが、如何せんこの体形──一日は確実だが、二日分となると少々怪しく思える。まあ、この量では先延ばしが精々と言ったところである。半分以上が破損していればこんなものだろう。加えてこの水分が飛んだカチカチ感では、喉が渇いたわけでもなく水が欲しくなる。やはり水源の発見は必須である。
リュックサックに入るだけ保存食を詰め込み、比較的状態の良い木箱に残りを詰め込みそれを片手で持つ。軽く歩いてみて「大丈夫そうだ」と判断した俺は墜落した飛行艇を後にする。収穫がないわけではなかったが「もうちょっと何かあっても良いんじゃあないかな?」とガオガオ呟く。
走った場合の振動で分解しないか怖かったが、幸いなことに木箱は壊れることなく俺に運ばれている。荷物は増えたがこの程度なら今の俺には問題ない。
(飛行船……それもあまり速度が出ていないもので三日の距離。カナン国境からそこまで離れていないとなると……東に向かってみるか)
現在のカナン王国の領土がどのようになっているかはわからないが、地理的に東に向かうことで「グラッシェル」という町かそこに繋がる経路が見つかるはずである。まだ町があるかどうかは不明だが、都市の跡地でも見つかれば戦争がどのような形で終えたのかくらいは想像ができるようになる。太陽の位置から方角はもう把握できている。
(まずは東──そこから先は臨機応変に、だな)
こうしてリュック片手に木箱を抱え、体を慣らすように色々と試行錯誤しながら東へと向かう。両手が塞がっているという状態は思いの外この体には都合が悪いらしく、しっかりとバランスを取る必要があったが、訓練と思えばこれくらいどうということはない。
曲がりなりにもこっちは軍人。新兵と言えど、軍事訓練にはしっかりと参加していた身なので「この程度のことで音を上げるなどありえない」と疲れ知らずの上がりまくった身体スペックで言う。もっとも、訓練を受けていた期間はもあまり長くはないので本来のものを全て知っているわけではない。
それで新兵と名乗れる辺りを帝国の余裕のなさと取るか、それとも訓練時間を短縮できる兵装を持つ強大さと解釈するかで、現代の歴史家が言い争っているならば終止符を打ってやりたいところだ。
「がおがお」としか喋ることができない俺に何かできるはずもないが、こういうのは想像して楽しむものである。何せ「自分がモンスター化して二百年後の世界で目覚める」など非常の極み。どうにかして楽しみでも見出だせなければやっていられない状況だ。
そんなこんなで日も傾き、もうじき夕方になろうという時、俺の嗅覚が何かを捕らえた。そう、臭うのだ。もっと言えば、ぶっちゃけ臭い。俺は自分の嗅覚を信じ、誘導されるようにフラフラとその先へと歩いていく。すると予期していないものが視界に入った。
「え? 何で川が見つかんの?」という疑問が聞き慣れた「がっがっ」という声で出た。予想外な発見にしばし川を見る。水場は見つかった。それは良い。だが先客……というより先住民がいた。
「ギャイギャイ」と煩い、やたらと群れて害を成す腰巻一丁で子供サイズの緑のアレ……そうゴブリンだ。
(なるほど、臭いの元はこいつらか)
知識として「臭い」ということは知っていたがこれ程とは思わなかった。五感が強化されているが故のものなのかもしれないが、正しく「鼻が曲がる」という臭いである。初めて生ゴブリンを見て思うのはその不潔さ故の創作物との乖離である。
エロ動画でゴブリンに扮した男たちに女性が襲われるというのは割とよくあるシチュエーションだが、それは最早現実的なお話ではないからこそのネタであり、こんな汚らしいのであればそんな対象にはなり得ない。「そういうのが好き」という人もいるだろうが、ものには限度があるのだ。
加えて武器や防具がどの国でも発達したことでその脅威度は徐々に下がり、帝国に至っては精々田舎の農作物を荒らすが限界だったのが俺の知る実情であり、基本的に都市部に住む人間には関わることがなかったが故の無関心さが、それらに拍車をかけたのだろう。
またモンスターに出くわすような危険な場所をフラフラと女が歩くわけもなく、危険度で言えば真夜中に一人で出歩く方がよっぽど危ないくらいである。とは言え、上位種や他種族──例えばオーガや知能の高い魔獣などに使役されていた場合は少々話が違ってくる。
どこかの国で輸送中の馬車がオーガに率いられたゴブリンの集団に襲われ、乗っていた女性が酷い目に遭うというのは俺が生きていた時代でもあったことだ。帝国では銃があるのでそのようなことが起きたことはなかったが、他国で子供が
「よし、滅ぼすか」