リーゼは次第に寝ている時間が長くなった。食事も喉を通りにくくなっているようだった。俺はリーゼが好きな桃のゼリーを少しずつ口元に運んだ。リーゼは「美味しい」と言ってゆっくり食べた。

 とうとう、俺が読んで聞かせていたお話もほとんど終わりになった。

「彼は世界一の幸せ者になりました」

「その王子は幸せになったのですね?」

「あぁ。彼自身は凡庸で特別秀でたこともなかったのだけれど、優秀な側近たちが国を繁栄させて守ってくれた。何よりも彼の隣にはいつも大好きな妻がいて、その妻が微笑んでいてくれたから」

 視線を本からリーゼに移すと、彼女は微笑んでいた。

 ほら、そうやっていつも隣で。だから俺は世界一の幸せ者だ。

 まだお話を終えたくなかった。これが終わってしまったら、リーゼがいってしまうような気がした。だから俺はもう一度本に目線を向けた。

「それで、まだ話は続いているんだ」

 今も、ずっと続いている。だけど本の先は、白紙だった。

「素敵なお話でしたわ」

「楽しんでもらえたか? それならまた明日、続きを話そう」

 さすがにリーゼに疲れが見えてきている。今日はそろそろ休ませてあげた方がいいだろう。俺がリーゼの布団を整え直そうとすると、リーゼは俺の手にそっと触れた。

「これが、クラウス様が辿ってきた道なのですね」

「……え?」

 リーゼは俺を見て微笑んだ。

 俺は一言も俺の話だとは言っていない。三度目のお話では「俺たちに似ているだろう?」と笑ったりはしたけれど、わざと似せていることにしていた。

「長い間、大変でしたね」

「……リーゼ?」

 俺が目を丸くすると、リーゼは少しだけ呆れたような顔をしてみせた。

「何年一緒に過ごしてきたと思っているのですか? もうとっくに気が付いておりましたよ。クラウス様が他の人生を歩んだのだろうことも、わたくしにずっと罪悪感を抱いていることも」

「リーゼ、も、もしかして、君も……?」

 リーゼは緩く横に首を振った。

「わたくしに別の人生の記憶はありません。だから最初は分からなかったのですよ。クラウス様がどうして頭を抱えるのか、なぜ寝言でわたくしに謝るのか」

「寝言を言っていたか?」

「ごくたまにですけれど、すまないリーゼ、って。謝ってもらうような心当たりがありませんのに。それに、初めてのはずの街を知っていたり、厨房に入ったことなどないはずなのに料理ができたり。不思議に思うことは度々ありました」

「それは……」

「本で読んだ、ですか?」

 そう、本で読んだことにしていた。いつも。

 リーゼはふふっと笑った。

「クラウス様は素直すぎて、嘘が下手なのですよ」

 俺は唖然とした。リーゼは全てお見通しだった。

「クラウス様、わたくしが知っているのは今の貴方だけです。だから、クラウス様がわたくしに罪悪感を抱く必要はないのですよ」

「リーゼ……」

「もっと早くにお伝えすればよかった。そうすれば、貴方の心を楽にして差し上げられたのに」

 少しの後悔を滲ませるようにリーゼが目を伏せ、それから、ちょっとだけ口をとがらせた。

「クラウス様がいけないのですよ。教えてくださらないから」

「そうだな、俺が全部悪かった」

「そうやって全部自分のせいにしようとするのですから。聞かなかったわたくしがいけなかったのです。申し訳ないとは思っているのですよ。でも聞けなかったのです。だって……」

 リーゼは俺を見ると悪戯っぽく笑った。

「頭を抱えている貴方は面白かったのですもの」

 リーゼがクスクスと笑う。

「きっと一度目のわたくしのちょっとした仕返しですわ」

 そんなはずはなかった。リーゼは頭を抱えた俺を心配して、どうしたのか、大丈夫かと何度も聞いた。話さなかったのは俺だ。

「これが仕返しになるのなら、いくらでもしてくれ。これからもずっと、何度でも。俺はいくらでも頭を抱えるし、のたうち回って君を笑わせるから。だから……」

「クラウス様」

 リーゼは優しく微笑んだ。だけど、そうするとは言ってくれなかった。

 お互いに分かっていた。もう、残された時間は少ないと。

「もし貴方の人生がもう一度あるのならば、またわたくしをお側に置いてくださいね」

「また俺の側にいてくれるのか? 俺はこんなに情けない男だぞ」

「情けなくなんてありませんよ。最高に頼もしくて、優しくて、カッコいい、わたくしの自慢の夫です」

 リーゼはふふっと柔らかく笑って、「わたくしがそうしたのですから」と言った。

「ずっと、これからもずっと側にいてくれ」

 俺はこんがんするように、リーゼの手を握った。かつて白くみずみずしかった彼女の手はかさつき、しみもできた。俺の手も同じだ。共に時を重ねてきたその手が、しわの刻まれた顔が、リーゼの全てがどうしようもなく愛しい。

「リーゼ、俺は君を幸せにできただろうか?」

「えぇ、とても幸せでしたよ」

「そうか……。ありがとう、ありがとうリーゼ。愛している」


 その翌日、リーゼは天に上っていった。

 休むことなくずっと側についていた俺を労るように、そろそろ休めと言うかのように。

 おやすみなさいと、まるでいつも共に眠る夜のように。

 ただ穏やかに微笑んでいた。


 雲一つない、よく晴れた日だった。