4章 三度目の人生 後編


 学園を卒業したあと、俺は正式に立太子された。障害は特になかったと言っていい。もともと国王と王妃の長男という身分だし、筆頭公爵家当主であり現状この国で一番の権力を握っている宰相が俺についている。その娘リーゼと婚約までしているのだから、身分は最強、後ろ盾も最強。これで立太子されなかった一度目の俺よ。どれだけやらかしたというのだ……と黒歴史を思い出しかけた時に、リーゼに声をかけられた。

「立太子おめでとうございます」

「ありがとう、リーゼのおかげだ」

「いいえ、クラウス様が努力された結果ですよ」

 可愛い。

 今までも正式な婚約者であったけれど、卒業パーティーで結婚してほしいと告げて頷いてもらってから、リーゼは俺をチラチラと見たり、時折顔を赤らめたりするようになった。これはもう完全に俺を意識してるだろ!

 はあぁぁ、早く結婚したい、結婚したい、結婚したい、結婚……。

「いい雰囲気なところ申し訳ございませんが、仕事が詰まっております。ぎっしりと」

「ラファエル、少しくらい、いいだろう?」

 ラファエルは文官で俺の側近だ。宰相と同じ派閥の公爵家の次男で、リーゼとは小さい頃から家同士で付き合いがあったという。俺たちの一学年上の首席で、非常に仕事もよくできる。さらに腹の中は黒いくせに見た目はさわやかイケメンだ。勝てる要素が一つもないのに、幼馴染みだからとリーゼとの距離が近いので、俺はいつもこいつを警戒している。彼に結婚を予定している恋人がいなければ、王子権限で執務室から追い出していたかもしれない。

「半年後に殿下が婚姻を結ぶために忙しいのですけれど、延期しますか?」

 俺はスッと着席した。延期するはずがないではないか。

「まずはこちらにサインを」

 ラファエルがニヤッと笑って書類を俺の前に置いた。

 立太子されたことにより、俺の権限が大幅に広がった。俺の判断、サインだけで動かせるようになるこの時を、俺はずっと待っていたのだ。俺もラファエルにニヤッと笑い返し、書類にサインした。責任は当然伴うものの、これでやりたいと思っていた事業がいくつも動き出す。

 後日宰相にいきなり動かしすぎだと叱られたけれど、後悔はしていない。


 俺は立太子を機に王太子の部屋に自室を移した。リーゼも少しずつ荷物を移動し、城の客間に居を移している。いずれ結婚すれば王太子妃の部屋、つまり今は空いている俺の自室の隣へ移ることになる。

 考えただけでドキドキしてきた。

 結婚する気しかないけれど、実際にこうして同じ城の中で生活するようになって実感が増してきて、それと同時に落ち着かない気分になる。そわそわしてしまって仕方がない。

「殿下、サインください。それから落ち着いてください」

 どうやら俺は意味もなく部屋の中を動き回っていたらしい。

「殿下はずっとこの調子だし、宰相はピリピリして機嫌が悪いし、板挟みになる私の気持ちも考えてくださいよ」

「すまない」


 それから数日後の城の一室。俺は鏡に向かって鋭い目つきをしていた。それから微笑んだ。なるべく優しく見えるように、少しだけ口角の上げ具合を変えてみる。次にキリッとした表情を作ったところで、リーゼとラファエルが入ってきた。

「殿下、何をやっているんですか?」

「威厳を出す練習」

 ラファエルが「ブッ」と吹き出したのが聞こえた。

「笑いごとじゃないぞ。王太子となったからには見栄えだけでも威厳がなければ、誰も従ってくれないじゃないか」

 見栄えだけでも、という部分を強調して言う。分かっている。俺よりも優秀な人はいくらでもいる。だけど俺の実態がどうであれ、王太子がなよなよしているわけにはいかないのだ。

 俺はもう一度鏡を見ながら、顎の角度を調整した。

「こんな感じでどうだ?」

「それで命じてみてください」

「『その通りにせよ』……こんな感じか?」

「もう少し声が低い方が威厳は出る気がします。それから下を見すぎですね。あまり重視していない案件のように見えてしまいます」

「顎を引きつつ目線は上げるって難しくない?」

 アドバイス通りに少し目線を上げると、鏡越しにニヤつくラファエルの姿が映った。それを言い訳に、俺は顔を戻す。ついでに自分の手で顔をぐにぐにとむ。表情筋が疲れた。

「おい、笑うなって。そんな顔するならラファエルがやってみろよ」

「私ですか? 私はしがない公爵家の次男坊ですから」

「関係ないだろ。お前だって命じる必要がある時もある」

 仕方がないと観念したのか、ラファエルは軽く咳払いをしてから真面目な顔になった。そしてスッと俺の前に書類の束を差し出した。

「この書類を明日までに確認し、サインしておくように」

 何をしても器用な男は、表情の作り方も完璧だった。勝てる気がしない。

「かしこまりました、しか言えない」

「それはよかったです。お願いしますね、殿下」

「えっ、本気だったのか?」

 途端に笑顔に戻ったラファエルに書類を渡された。ちょっと多いと思う。

「もうさ、ラファエルが玉座に座ればいい気がしてきた」

 ボソッと呟くと、さすがのラファエルも慌てたように否定してきた。

「冗談でもやめてくださいよ。宰相に殺されますって」

「だってお前のができるもん」

「なんでいきなりねるんですか。殿下には殿下にしかない魅力がありますよ」

 ラファエルは助けを求めるように「ね、リーゼ?」と顔を向ける。リーゼは「そうですね」とクスクス笑った。

「あ、そうだ、もし仮に、仮に、ですよ! 私と殿下の立場が入れ替わったとしたら、リーゼと結婚するのは私になりますね?」

 ……なぬ? それは許せるはずがない。俺はシュッと背筋を伸ばし威厳のある顔を作った。

「それはならぬ」

「殿下、その顔、わりといいと思います。威厳出てます」

「そうか?」

 顔を崩さないようにそのまま鏡を覗く。表情を作るというのはなかなか難しい。

「リーゼも練習したりするのか?」

「しましたよ。わたくしの場合は立ち居振る舞いの教師がおりましたから、表情だけでなく手や身体の動かし方まで、マナーと共に一通り勉強しました。女性は学園でもそのような講義がありましたけれど、男性はなかったのですか?」

 俺はラファエルと顔を見合わせた。学園では男女別の講義もそこそこある。男性だけで受けたマナーの講義はあったけれど、そんなに大変ではなかった。どうやらこういった立ち居振る舞いというのは、女性の方が厳しいらしい。

「リーゼ、もしよければ見本を見せてくれないか?」

「構いませんけれど、男性と女性では違いますから、お役に立てるかは分かりませんよ」

 リーゼはふわりと椅子に座り直すと、姿勢を正した。

 その瞬間だった。一瞬にして空気が変わった。

 スッと伸びた背筋、ドレスの上に置かれた手や腕は完璧な角度だ。わずかに顎は引かれ、表情は柔らかいのに瞳には強さが宿っていた。ゾクッとした。俺は思わずその場に跪きたくなった。ひれ伏さなきゃいけないような、そんな圧倒的なオーラがその場を支配していた。

 もはや王妃のたたずまいだった。令嬢ではなく、王太子妃でもなく、王妃。それも現王妃である母よりもずっと洗練されていて、威厳があるのと同時に慈愛溢れる微笑みだった。

 リーゼは視線をゆっくりと移し、俺の目と重なった。射貫かれた。そう感じた。

 そして優雅に軽くだけ首を傾ける。

「いかがですか?」

 俺はゴクリと唾を飲み込んだ。声が出なくて、ただコクコクと頷いた。

 その瞬間に支配されていた空気がパッと緩んだ。

「参考になりましたか?」

「……すごかった」

 なんともひどい感想だと思う。だけど本当にすごかったのだ。心臓が止まるかと思った。

 どうやらラファエルも俺に近い気持ちだったらしい。俺に同意するように、ただ頷いている。

「でも、あの、なんだ、その、公の場以外では、今のは控えてくれると助かる」

「どこかよくないところがございましたか?」

「いや、ない。完璧だった。リーゼに問題は全くない。だけど2人の時は、ちょっとまずい」

「何がまずいのですか?」

「それは、その、こちらの問題だから、気にしないでくれ」

 ……変な扉が開きそう。


◆◇◆◇◆


 立太子から半年。

 少しずつ準備を重ね、俺たちは結婚式の日を迎えた。

 儀式は二度目の俺が育った、今の俺とリーゼにとっても馴染みとなった教会で行われる。

 朝から俺とリーゼは別行動で、控室も別だ。リーゼが着ることになっているドレスは事前に見ているが、身にまとった姿を見るのは式の最中が初めてになる。

 この日のために準備された正装を身にまとい、ブローチやら装飾品をこれでもかとつけられた。男の俺でそうなのだから、リーゼはもっと大変だろう。

 準備が整い呼ばれると、俺はリーゼより一足先に聖堂の中に入った。

 事前に打ち合わせていた通り、内装はとても豪華だった。もっと小さく質素な式でよかったけれど、そうもいかなかった。王家の威厳を示す必要があるからだ。

 俺はゆっくりと指定の位置まで進み、リーゼを待った。リーゼは彼女の父である宰相と共に入場し、途中で宰相と俺がエスコートを交代する流れになっている。

 扉が開いたのが分かった。だけど俺は前を向いていなければならないので、入ってきたはずのリーゼの姿を見ることはできない。少し不安になる。本当にリーゼはそこにいるのだろうか。俺のところに、来てくれるだろうか。

 もしかしてこれは俺に都合のいい夢なんじゃないだろうか、と思った。俺はリーゼに一方的に婚約破棄をした。だから今度はリーゼが結婚式で逃げ出すんじゃないだろうか。そんなことも思った。「貴方と結婚などするはずがないではありませんか」とウエディングドレス姿のリーゼに言われる夢を見て、飛び起きたこともある。

 長い時間待った気がする。祈るような気持ちで足音に集中すると、少しずつ近づいてきて止まり、ふわっとドレスの裾が見えた。振り返ると、リーゼがいた。

 俺は思わず息をのんだ。周囲の音が消えて、リーゼだけが輝いているように見えた。

 リーゼがわずかに目線を上げて俺はハッと意識を取り戻し、宰相から引き渡されてリーゼの手を取った。そして一歩ずつゆっくり進む。

「リーゼ、綺麗だ」

 リーゼにしか聞こえないようにそっと囁くと、リーゼがかすかに笑ったのが分かった。

「クラウス様も、素敵ですよ」

 一歩一歩、ゆっくり進む。ドレスには慣れているリーゼだが、それでもこの重厚で裾の長いドレスで歩くのは大変そうだ。

「宝石だらけでとても重いのです」

「だろうな」

 おごそかな雰囲気の中でリーゼの歩幅に合わせながら前面まで到着すると、リーゼと並び、神父さんと向かい合う。一通りの誓いが終わると、神父さんは俺たちを祝福してくれた。

 彼はこの式を機に、長年務めた神父の座を辞することが決まっている。神父さんは、もういい歳だ。ゆっくり余生を過ごすつもりなのだろう、と思ったが、違うらしい。

「殿下を見ていたら、まだ私にもできることがあると思いましてね。各地の教会を回ろうと思っているのですよ」

 式の打ち合わせの時にそう言っていた。この教会は規模も大きく恵まれているが、そうでない教会も多い。状況を把握して改善するために、動ける限りできることをしたいと言ってくれた神父さんに、俺からも頼みますと伝えた。ただし、神父さんの体調優先で。

「誓いのキスを」

 神父さんに促され、リーゼのベールを上げる。一度目の鉱山の村での村民の結婚式で、新郎と新婦は幸せそうに笑い合っていた。俺とリーゼがそうなる日が来るとは、その時には全く考えられなかった。やっぱりこれは何もかもが都合のいい夢なんじゃないかと思えてくる。

 そっと唇を重ねた。短い間だったけれど、確かにリーゼの温かさを感じた。

 そして微笑み合った。夢じゃなかった。


◆◇◆◇◆


 ウエディングドレス姿のリーゼは可愛かった。

 もう一度言う。可愛かった!

 可愛いだけじゃない。とても綺麗だった。全身から滲み出る気品はリーゼが磨き続けてきたものだし、その所作の一つ、目線の一つが全て美しかった。慈愛溢れる笑顔はもはや女神だった。その姿を思い出す度、今のこの状況はいけないのではないかと思えてならない。

「ちょっとは落ち着いたらどうですか」

 ラファエルが苦笑する。

 俺は部屋をそわそわと歩き回っていた。長く息を吐いてみても、鼓動の早さは変わらない。

「落ち着けるわけがないだろう」

 今は結婚式を挙げた夜。そう、いわゆる初夜というやつだ。

 俺は自室でそのための準備をしていた。念入りに、それはもう念入りに湯浴みをして、真新しい夜着に身を包んだ。歯もきっちり磨いたし、爪も切った。準備は万事整っている。

 だが、相手は女神だ。俺のものにしてしまいたいが、穢してはいけない気がする。

 だがしかし。この日をどんなに待ち望んでいただろう。何度も頭の中でシュミレーションしては悶えてきたのだ。

 それなのに実際にいざその時となってみると、なぜかそんなつもりじゃないのです申し訳ございませんでしたと謝り倒したい気分になるのはどうしてだろう。まだ何もしていないのに罪悪感が湧いてくる。

 とりあえず、思考が飛びまくっている。考えがまとまらない。

 要するに情緒不安定だ。

「殿下、挙動不審ですよ」

 情緒だけでなく挙動まで不審だったらしい。

「それでは妃殿下が怖がりますよ。落ち着いて、堂々としていてください」

「妃殿下か!」

「反応されるところ、そこです?」

 その呼び名に慣れていない。つい先ほど結婚したので、呼称も変わったのだ。殿下と妃殿下、対になる感じがなんともモゾモゾする。いいな、へへへ。

「というか、なんでお前がいる?」

 ラファエルはなんでもこなせる万能な男だが、文官なので、俺の身の回りの世話は職務内容に含まれていないはずだ。実際には儀式の際は、俺を飾り立てる総監督みたいになっているが。

「最後まで見張れと宰相に命じられました。宰相に乗り込まれるよりはマシでしょう? 諦めてください」

「なるほど……最後?」

「寝室に送り出すまでって意味ですよ。さすがに覗く趣味はありませんからご安心を」

 ラファエルが面倒そうな顔をする。確かにこの場で義父となった宰相に睨まれるのだけは勘弁願いたい。ラファエルでよかったと思うことにしよう。

「普通ならば女性の方が緊張されるのですよ。殿下はそれをほぐして差し上げないといけないのに、殿下ががちがちに緊張してどうするんですか」

「そうは言っても、なぁ。分かるだろう?」

「いいですか、いきなり襲いかかっちゃ駄目ですよ」

「そんなことするわけがないだろう。イメージトレーニングだけはバッチリだから大丈夫だ、と思う、たぶん」

「それは……」

 俺がぐっと拳を握ると、ラファエルはなんとも言えない表情で俺を見てきた。あれは気持ち悪いと言いたいが自分にも思い当たるところがあるから言えない、という顔だな。

 ラファエルが俺の姿を確認して、裾を少し直した。

「準備ができましたよ。どこか気になるところはありますか?」

 気になるところはないが、困ったことならある。脇汗が止まらない。

 上手くことが運んだとして、初夜の感想が「臭かった」だったらどうしよう。

「もう一度湯浴みをした方がいいだろうか?」

「ブフッ、失礼しました。妃殿下を待たせてしまうのはよろしくないかと」

「ラファエル、笑いごとじゃない」

「笑わずにどうしろっていうんですか」

 濡らしたタオルで身体をく。服を整え直したら、もう逃げる要素がなくなってしまった。

 寝室に着くまでに気持ちを整えたいところだけれど、残念ながらそのような距離はない。俺の自室と寝室は扉一つで繋がっており、その扉は既にドーンと目の前に鎮座している。ごく普通の扉のはずが、今日だけはまるで越えられない壁であるかのように、いやに巨大に見える。

 この扉の先に女神がいるかもしれない。いや、いるはずだ。いてくれないと困るのだけれど、もしかしたらいないかもしれない。

「リーゼはいるだろうか?」

 扉を見つめながら遠い目で呟くと、ラファエルは呆れたように息を吐いた。

「いるに決まっているではないですか。殿下、どれだけ自信がないのですか。妃殿下がこのに及んで逃げるわけがないでしょう」

「本当は逃げたいんじゃないか?」

「それはご本人にお聞きくださいよ」

 いかにも面倒だという顔でラファエルが答え、ざっと跪いた。他の側仕えたちもそれに続く。

「殿下、婚姻おめでとうございます。よい夜を」

 こういう時だけきっちり臣下っぽく振る舞うのだからずるい。扉を開ける以外の選択肢がなくなったじゃないか。もともと逃げるつもりなど、これっぽっちもないのだけれど。

「ありがとう」

 一応堂々と見えるように皆に礼を述べると、俺はゆっくりと扉に手をかけた。


 寝室に入ると、リーゼは椅子に腰掛けて本を手にしていた。俺の姿を見るとパタンと本を閉じ、立ち上がる。まずはリーゼがいたことにあんした。

「すまない、待たせたか?」

「……いいえ」

 俺と同じで湯を浴びてきたのだろう。ドレスではなく夜着姿で、化粧は一度落として気持ち程度に整えられている。緩く結われた髪、ほのかな香り。昼の式での女神的な美しさとは違って、それはリーゼの形をしていた。

 心なしか、それとも薄い化粧なのか、リーゼの頬が赤い。顔が強張っているのを見て、何か言わなきゃと思った。まずは緊張を解きほぐせ、である。

「あの、その、えっと、リーゼ」

 駄目だ。初めて見る夜着姿に目を奪われまくっている。少し扇情的で身体のラインが出ていて、思わず目がそちらにいった。ゴクリと唾をのむ。どうにも目が離せないけれどなんとか離さなくちゃそっちを見てはいけな……くはないのではなかろうかだって今はそういう時だしやましいことなどなにもいややましいことしかないけれどとりあえずいったん静まれ心の声よ!

 首を軽く振って雑念を振り払う。だけど湧き上がる方が早くて、振り払えるはずもない。

 俺の目線に気が付いたのか、リーゼがクスッと笑って、その場でくるりと回った。裾がふわりと軽く上がり、細い足が見えた。

 クラリとした。堂々としていろ? 無理がある。

「似合いますか?」

「あ、あぁ、とても。昼も女神だと思ったが、今も、とても綺麗だ、本当に。すまない、どう表現したらいいのか分からない。だけど、とても似合っている」

 リーゼは嬉しそうに、はにかんだ。

「クラウス様、今日からは婚約者ではなく妻として、どうぞよろしくお願いいたします」

 リーゼは夜着を軽くつまみ、優雅にお辞儀をした。ハッとして、俺も背筋を伸ばす。

「そうか、俺たちはもう夫婦なんだよな。こちらこそよろしく頼む」

 ここはスマートに手を差し出し、エスコートして寝台に誘導するところのはずだ。さっと手を出しかけて気が付いた。無意識に握りしめていた手は、ぐっしょりと手汗で湿っている。

「ちょ、ちょっと待って」

 手を重ねようとしていたリーゼが「えっ?」という顔で見つめる中、俺は自分の夜着で手をゴシゴシ拭いた。

「ごめん、手汗が」

「まぁ」

 リーゼが笑う。どうしてこう、カッコいい感じにならないのだろう。でもまぁいいか、リーゼが笑ってくれたなら。

 今度こそ手は重なり、2人で寝台に腰掛けた。

「リーゼ、その、だな、この状況で言うのもなんだが、今日は式もあって疲れているだろう。だから無理をしなくてもいい」

「クラウス様はお疲れですか?」

「いや、そういうわけではないけど……」

「嫌なのですか?」

「そんなわけないだろ! 嫌だったら緊張なんてしない」

 俺が目を泳がせて口ごもっていると、リーゼが俺の手を取った。驚いて肩が跳ねる。

「手に汗をかいているのに、指先が冷たいですね」

「冷静に分析しなくていいから」

 俺が項垂うなだれると、指先を温めるように手で包まれて、さすられた。

 んぐぐ、それはまずい。心拍数が上がって、心臓が苦しい。

「リーゼ、俺、心臓発作を起こしそう」

 ふいにリーゼが近づいてきて、唇に柔らかいものが一瞬だけ触れた。

 ドクン、とひときわ大きく一度鼓動して、心臓が止まった。

 俺はそのまま後ろにパタンと倒れた。寝台の柔らかいクッションに沈む。

 上から覗き込んできたリーゼは、少し悪戯っぽい顔をしていた。

「少しは落ち着きましたか?」

 この状況のどこを見てそう思うのか? どう考えても逆だろう。

 大きく息を吸って、吐く。鼓動が再稼働した。どうやら生きている。

「……リーゼはずいぶん余裕そうだな」

 俺はなんだか情けない気分になった。俺ばかり緊張している。

「そんなことはありませんよ。とても緊張しています。この部屋に来てから、なんとか落ち着こうと思って本を開いてみましたけれど、全く頭に入ってきませんでした」

「そうは見えない」

「だって、クラウス様があまりにも緊張していらっしゃるから。わたくし以上にがちがちなのですもの。自分より余裕がない方を見ると、不思議と落ち着くものですね」

 リーゼの顔が近くなる。のしかかられてはいないが、手を伸ばせば触れられる距離だ。

「クラウス様、わたくし、自分の容姿が優れていない自覚はあるのです。だけど今日は綺麗でしょう?」

 まっすぐに見つめてくるリーゼの瞳に吸い寄せられる。本気で綺麗だと、そう思っているのに、コクコクと頷くことしかできない。

「侍女たちが頑張ってくれたのですよ。彼女たちの努力に応えるべきだと思いませんか?」

 記憶を得て初めて会った時から、ずっと可愛いと思っていた。あどけない少女のはずだったのに、いつからこんな妖艶な雰囲気をまとうようになったのだろう。

 リーゼが笑おうとする。だけど少しだけ引きつっていて、声も震えている。

 あぁ、リーゼも緊張しているのか。そう思ったらもうたまらなかった。

 俺はくるりと身体を反転させ、リーゼを寝台に縫い留めた。

「リーゼ……」

 きっと今の俺は情けない顔をしている。こういう時こそカッコよく決めるべきなのに、全くできそうにない。

 俺はたぶん一生リーゼに敵わない。

 リーゼが小さく頷いたのを肯定の意だと受け取って、小さな唇にそっと自分のそれを重ねる。

 二度目のキスは、長かった。


◆◇◆◇◆


「殿下、鼻の下を伸ばしていないで仕事してくださいよ」

 側近のラファエルがこれ見よがしにため息をつく。

 リーゼと婚姻を結んで3カ月。俺は最高に幸せだった。

「まだ新婚ってやつなんだから、少しくらい浮かれてもいいだろう?」

「少しならいいですよ。少しなら」

 ジトッとした視線を感じた。どうやら少しじゃなかったらしい。

 豪華な式にはそれなりの費用がかかったけれど、それを上回る経済効果もあった。側近たちもしばらくは緩い雰囲気だったが、早くもそれはもう終わりのようだ。

「気持ちは分からなくはないですけど、即位に向けて動かなきゃいけないんですから、しっかりしてくださいよ。でないと宰相呼びますよ?」

 宰相という言葉が聞こえて、背筋がシャキッと伸びた。義父となった宰相は最近目が怖いのだ。リーゼを泣かせたらただじゃすまんぞ、という圧と同時に嫌がらせのように仕事を大量に持ってくる。リーゼを幸せにしろと言うわりには夕方までに終わらない量の書類を渡されるのはなんなんだ。一体どうしろというんだ?

 ガチャ、と扉が開いて入ってきたのは噂をしていた宰相だった。

「おや、ずいぶんと進んでいらっしゃるようですな」

 皮肉たっぷりの笑顔に執務室が凍った。


◆◇◆◇◆


 結婚して半年。

 リーゼの妊娠が分かった。それを告げられた時の感情は、どう表現したらいいか分からない。頭が真っ白になってしまい、固まってしまった。あとから考えれば完全に失敗だったと思う。リーゼから「喜んでくださらないのですか?」と不安そうに聞かれてしまったからだ。そんなはずがない。だけど喜びと驚きと心配が心の中で爆発して、感情という機能が一時停止してしまったのだ。望んでいたし、想定もしていたはずだったのに。

 俺はリーゼを抱きしめて、言葉を絞り出した。

「嬉しい、とても」

 それからしばらく、俺の顔が緩みきっていたことで側近たちに勘付かれてしまい、リーゼに叱られた。これもまた失敗談である。


 婚姻の1年後、俺は即位した。

 王位を引き継いだ、と言えば聞こえはいいが、実際のところは父から穏便に奪ったという方が近い。国庫を無駄に消費するだけの王は必要ない。宰相と意見が一致した俺たちは最短で俺が王位につけるように準備して、実現させた。

 前国王と王妃である父と母、希望した父の妾たちは離宮に移動した。これからは限られた予算の中で生活してもらうことになる。今までお金を意識することなく自由に過ごしていた彼らにとっては不便な生活かもしれないが、俺から見ると十分すぎる手当だ。文句は言わせない。


 それから数カ月。

「陛下、落ち着いてください」

「落ち着けるわけがないだろう」

 リーゼが産気づいたのは早朝のことだった。医者やさんが駆けつけたものの、まだ生まれないからと俺は執務室に追いやられている。だけど、この状況で仕事が手に付くはずもなかった。

「ちょっと様子を……」

「見に行ってからまだ全然経っていません。さっき王妃様に大丈夫だと言われたばかりでしょう。そんなに頻繁に来られたら、王妃様だってきっと気が散りますよ」

 俺は座り直して書類を眺める。やっぱり頭に入らない。

 そんな長い時間を過ごしたあと、もうすぐだと言われてリーゼのいる部屋に向かった。扉からリーゼの苦しそうな声が聞こえるのに、部屋の中には入れてもらえなかった。あまり信じていないはずの神様に祈りまくっていると、中から何やら泣き声が聞こえて、侍女が出てきた。

「無事に産まれました。もう少しだけお待ちください」

 力が抜けるのを感じた。次に教会に行ったら、お礼の祈りを捧げようと心に決めた。

 少しして案内され、部屋に入ると、リーゼは寝台で軽く上体を起こしていた。その腕にもごもごと動く小さな生き物がいた。リーゼは俺を見ると、ふっと表情を緩めた。

「リーゼ、大丈夫か?」

「今はまだ動けませんけれど、無事ですよ」

「そうか、よかった……」

 それしか言葉が出なかった。俺はこういう時、何も言えなくなる。本当はもっと言葉で伝えるべきなのは分かるのに、どうしても適切な言葉が見つからないのだ。

 リーゼが少し身体を傾けて、赤い不思議な生き物を俺に見せた。それが俺たちの子なのだということは理解しているが、どうにも実感が湧かなくて、ただ不思議だ。

「……女の子です」

「そうか」

 リーゼが少しだけ言いにくそうに、子の性別を告げた。男でも女でも、どちらでもよかった。

「陛下、抱いて差し上げては?」

「どっ、どうやって抱いたらいいんだ?」

 産婆に促されてリーゼと赤子を交互に見ると、リーゼは呆れた声を出した。

「それをわたくしに聞くのですか? わたくしだって初めて子を抱いたばかりですのに」

「あっ、そうだよな」

 お腹にいる子を抱けるわけがないと言われて、そりゃそうだと思い直した。なんとなくリーゼは当たり前にできる気がしたのだけれど、言われてみればリーゼにとっても初めてなのだ。産婆の方を向くと、やり方を教えてくれた。俺が腕で形を作ると、そこに赤子が置かれた。

「おおおお落としたらどうしよう」

 カチカチに固まっていると、周りから笑い声が漏れた。

「陛下、大丈夫です。そのままそのまま」