「すみませんが、私は戻らねばなりません。では殿下、またお会いしましょう」

 宰相が去っていき、俺は机に突っ伏した。駄目なことは分かっているが、プシューッと気が抜けたのだ。

「お父様はそんなに怖くないですよ?」

 リーゼが笑いながら言う。優しいのだと思う。けれども怖いぞ。

「課題をもらってしまいましたね。頑張りましょう」

「うん。ありがとうリーゼ」

 俺はリーゼが作ってくれたクッキーを一つ口に入れ、そのほんのりした甘さにいやされた。

 ちなみに宰相がほとんど最初から見ていたことを侍女から聞いて青くなったのは、リーゼが帰ってすぐのことである。


 それから俺は宰相にも教えを請うた。教師が知識を教えてくれるのとは別で、宰相は実際に起こっている問題を教えてくれた。それを解決するにはどうしたらいいか考える、という課題が多く、とても勉強になった。時には一人で、時にはリーゼと一緒に必死に考えた。

 答えがない問題も多かった。俺の考えを聞いたうえで宰相がどう考えているか、宰相だったらどうするか、思想を俺に押し付けることなく伝えてくれた。

 彼が王を討ったのは、本当にやむを得なかったのだと今ならば分かる。彼は民のことを一番に考えている。二度目の人生でそれを嫌というほど痛感した。だからこそ、どんどん困窮する民を顧みずに自分たちのことばかり考える王族に限界を感じたのだろう。


◆◇◆◇◆


 10歳になった。

 この国の貴族の間では、10歳はちょっとしたふしの歳だ。制度として変化があるわけではないが、10歳未満は完全に子供扱いなのに対し、10歳を越えると大人の準備をする年齢と考えられる。もちろんまだ成人ではないし親から離れるわけではないが、行動の範囲が広まるのだ。

 例えば昼に行われるパーティーに保護者同伴で参加するようになるのも、10歳を越えてからだ。俺が街に行きたいと言っても、10歳までは駄目だと許可が出なかった。

 慣例として婚約するのも10歳からだ。

 俺とリーゼは正式に婚約した。

 もちろん「婚約してやったありがたく思えお前は運のいい奴だな」なんて言わない。言うはずがないじゃないか。そんなこと言う偉ぶった馬鹿、いる?

「あああぁぁぁ」

 無事に婚約できてありがたく思います俺は運のいい奴です!

「だ、大丈夫ですか、殿下?」

「問題ない。リーゼと無事に婚約できて嬉しくなってしまっただけだ」

「そ、そうですか? そう思っていただけて、わたくしも嬉しいです」

 婚約の印として、俺はリーゼに髪飾りを贈った。かなり悩んだ品だ。最高のものを贈りたかったけれど、豪華絢爛な品をリーゼが望まないだろうなということも理解できた。だから小さな石が控え目に入っている、普段使いできるものにした。

「これをわたくしに、ですか?」

「うん。あの、もし気に入らなかったら……」

「ありがとうございます」

 リーゼは嬉しそうに笑った。俺の心拍数が上がった。

 リーゼが振り返ると、彼女の侍女がやってきて、そっと髪にそれをつけた。

「……どうですか?」

 ちょっと恥ずかしそうにつけたところを見せてくる。俺の心拍数は爆上がりした。俺がリーゼのことを考えて必死にぎんした品だぞ。似合うに決まってるじゃないか。

「可愛い、です……」

「ふふっ」

 なぜか侍女たちが口を押さえて震えていた。


 10歳になった俺は、護衛付きで街に出ることが許されるようになった。

 最初の訪問先に選んだのは教会だ。何度も訪れているリーゼと共に馬車で向かう。もしかしたら二度目の自分であるクルトに会えるかもしれないと期待していたけれど、彼は同行していなかった。ちなみに、クルトが公爵家にいることは確認している。

 馬車が止まり、窓から見えたのは懐かしの、今世で初めての教会だ。無駄に緊張する。

「孤児たちもわたくしたちと同じ子供です。怖くないですよ」

 俺の様子を感じ取ったのか、リーゼはサッと馬車を降りてニコリとして見せた。ああぁしまった、そこは俺が先に降りてスマートに手を差し伸べるところだった。失敗したと思いながら馬車を降りると、記憶の中と変わらない、柔らかい顔の神父さんが出迎えてくれた。

「お越しくださりありがとうございます、殿下」

 し、神父さあああぁぁぁん!

 俺ですよ、俺! いろいろあって、今王子なんですよ! 会いたかったです!

 と言いたい気持ちを抑えて、なるべく王子らしく挨拶する。心の中の俺がうるさい。

 隣でリーゼも神父さんと挨拶を交わす。

「よく来てくださいました、リーゼ様」

「今日もよろしくお願いします」

「こちらこそ。子供たちが楽しみにしております。こちらへどうぞ」

 神父さんに連れられて教会に入る。最初に通されたのは、神父さんの部屋だった。まずはここで教会の成り立ちなどを軽く教えてもらった。ここで育った経験があるのだから当然なんでも知っている、と思いきや、貴族サイドの話は知らないこともあり、驚いた。

「殿下はどうしてここに足を運ぼうと思ってくださったのですか?」

「リーゼから話を聞いて、来てみたいと思っていたのです。ようやく叶いました」

 王子らしく笑顔を貼り付けると、神父さんの眼光がわずかに強くなった気がした。会えた喜びで少し浮かれていた気持ちがすっと引き締められた。

「そうでしたか。興味を持ってもらえてありがたい限りです」

 神父さんは危ない。なぜかこの人を前にすると、全てを話したくなってしまう。俺は神父さんにとって初対面の王子だ。やばい子供だと思われないようにしなければならない。

 なるべく口を噤んで話を聞き終えると、俺たちは教会を軽く見学して孤児院へ行った。懐かしい通路に思わず顔が緩みそうになる。

 扉が開くと子供たちがバッとこちらを振り向いた。

「あっ、リーゼさま……」

 嬉しそうな声が上がった瞬間にそれが警戒するものに変わったのは、俺といかつい護衛がついてきたからだろう。そりゃ怖いはずだ。俺は護衛を手で制して一歩進んだ。

「こんにちは。クラウスだ。今日は何冊か本を持ってきたんだ」

 俺はリーゼとシスターに目配せして、小さい子を集めて本を読んだ。絵本では簡単すぎる大きい子は、今日はリーゼ担当だ。

 小さい子たちは新しい絵本にすぐに目を輝かせた。いつも同じ絵本なのを俺は知っている。俺が読み始めると、みんな真剣に本に見入った。その姿がかつての自分と重なり、微笑ましいような切ないような気持ちになった。

 チラッと横を見ると、リーゼが同年代の子たちと楽しそうにしていた。何度もここに来ているリーゼは、かなり打ち解けている。女の子同士でおしゃべりしているのは微笑ましい。

 俺は絵本を読みながら、またチラッと見る。今度は同年代の男の子と楽しそうに話していた。小柄なリーゼの姿が男の子に遮られて見え隠れする。ムクムクと心の中にモヤが広がっていく。おい、お前ら。離れろ。慣れ慣れしいぞ!

「クラウスさま、おはなしー」

「あぁ、ごめん。どこまで読んだっけ?」

 絵本と小さな子供たちに視線を戻す。

 この分担は失敗だった。リーゼが小さい子に本を読んで、俺は今リーゼがやっているところへ行くべきだった。次からはそうしよう。絶対にそうしよう。


 王宮の外へ出ることが許されるようになってから、俺は定期的に街に出た。さすがにどこへでも自由に行けるわけではないが、困っている人がいそうな路地やエリアにわざと足を向けた。実際に今の俺が目にしていれば「見たから支援したい」という理由が通りやすくなる。

 教会にも何度か訪れ、教会の敷地内を歩いていた時に偶然見つけた、ということにして施設にも入った。身寄りのない助からない者が最期を迎える施設だ。ここでラルフが死んだ。時期からして、今世の彼ももういないだろう。

「まだ助かる人を助ける施設を作りたいです」

 最期を看取るための施設も必要だが、今ならまだ助かる人が一時的に避難する場所もなくてはならない。そんな俺の訴えに宰相は頷かなかった。

「作るためのお金はどうするのですか? 遊びではないのですよ」

「遊んでいるつもりなどありません」

「殿下、なぜそんなに急ぐのですか。ご自身で責任を持てるようになるまで待つべきです。無理をしても中途半端で終わるだけです。今はじっくり計画を練ることに留めましょう」

「自分で責任を持てるようになるまで、あと何年ですか。その間に何人が死にますか?」

 宰相の言い分も分かった。大きく動いて目を付けられたり、俺が今潰されてしまえばあとに成せるはずのことも成せなくなる。力を蓄えておくべきだという主張はもっともだ。だけどそれまで何もできないのか?

 歯がゆかった。権力が欲しい。明確にそう思った。

 宰相と俺の議論は続いたが、最終的に折れたのは宰相だった。俺の意見が全て通ったわけではないが、教会内に新たな施設を作ることが決まり、俺はひとまずホッと胸を撫で下ろした。


 婚約をしてから、リーゼが王宮に来る日が増えた。王子妃になるための教育があるからだ。別の時間もあるが、俺たちはなるべく一緒に勉強した。俺が押しかけたという方が正しい。

 彼女は頭がいい。なんで過去2回の人生があったはずの俺よりも進みが早いんだ。

 リーゼは俺よりもずっと優秀だ。一度目の俺がリーゼを遠ざけた理由の一つがそれだったのだと思う。俺はリーゼを見下していた。俺は王子で身分が高いから、リーゼは女だから。そんな理由で俺より下のはずのリーゼが、俺より優秀なことが許せなかったのだ。救いようがない。

 ゴンッ!

 いたたまれない気持ちになって机に額をぶつけたつもりだったが、俺の前には本が置かれていて、額の半分だけが開いた本にめり込んだ。本の端が少し破れかけて泣きたくなる。

「殿下……っ」

 顔を上げるとリーゼの丸くした目と視線が合った。心配そうな顔をした彼女は、次の瞬間口を手で押さえ、笑いを堪えるようにプルプルと震えた。

 鏡を見ると、額の半分にくっきりと赤く本の跡がついていた。


 どうやら今回の俺は宰相に認めてもらっているらしい。少しずつ仕事もするようになった。リーゼも手伝うと言ってくれた。

「駄目だ、これは俺の仕事だから、俺がやらなきゃいけないんだ」

「2人でやった方が早いでしょう? 殿下の仕事を全部任されたら困ってしまいますが、わたくしにもやらせてくださいませ」

 なんていい子なんだリーゼ。

 そうだよな、全部任されたらそりゃ困るよな……一度目の俺!

 全部投げてた一度目の俺!

「あああぁぁぁ」

 思い出して机に突っ伏すと、「大丈夫ですか?」という心配そうな声が聞こえた。黒歴史発作を起こしているだけだ。そっとしておいてほしい。


◆◇◆◇◆


 15歳になると、そろって学園に入学した。

 学園は危険だ。同年代の貴族の子女が一同に会する場だからだ。どこでリーゼが別の男に狙われるか分からない。だからといって、学園で孤立させるのはよくない。ここでの人脈作りは大事だ。分かっているけれど、誰の目にも触れないようにしてしまいたい。

 リーゼは学園内ですぐに人に囲まれるようになった。筆頭公爵家の令嬢という身分もあり、なおかつ持ち前の穏やかさと聡明さである。身分社会の中にいながら身分だけで人を判断することもない。そりゃ友人もできるし、慕われる。特に女性からの支持が厚く、俺は彼女たちから鋭い視線を浴び続けている。要するに、リーゼの婚約者足りえるのか、と。

 一度目の俺はリーゼが俺の婚約者に相応しくない、などとふざけたことを思っていたが、逆なのだ。俺がリーゼの婚約者に相応しくなかったから、婚約破棄をした瞬間に、いやもっと前から見限られていたのだ。

 昔を思い出して叫びたくなった俺は、足早に建物を出て裏庭に向かった。大きく息を吸い込んで叫ぼうとした瞬間、人が通った。学園の中はどこにでも学生がいる。咄嗟に俺は茂みに隠れた。なんで隠れているんだろう。分からない。だけどそこにはたくさんのタンポポが咲いていて、ふわふわと揺れる丸い綿毛に癒された。俺は溢れる思いをタンポポの綿毛に託し、思いっきり吹き飛ばした。無心で吹き飛ばし続けることしばらく、護衛の焦ったような声がした。

「殿下。殿下っ? いい加減に行かないと間に合わないですよ」

 ハッとした。もう講義が始まる時間だ。急いで立ち上がって教室に向かう。

「もっと早く教えてくれよ」

「何度も声をかけましたよ。それで、殿下、あの……」

「とにかく急ぐぞ」

 思いっきり走りたいが、王子としてそれができないのがもどかしい。なんとかぎりぎりの時間に教室に着いた俺は、皆から注目された。遅刻しかけたからでも、俺が王子だからでもない。壇上に立った先生が俺を見て、そして全体を見回して言った。

「えー、休み時間は自由に過ごしてかまいませんが、建物内では綿毛を飛ばさないように」

 よく見れば俺は綿毛まみれになっていた。どうやら服や髪についた綿毛をほわほわと飛ばしながらここまで来たらしい。教室内は笑い声に包まれることとなった。


 俺もいつも人に囲まれていた。側近の座を狙う者、俺を探ろうとする者、単純にお近づきになっておこうという者。いい顔をしてくる女たちもいる。皆、俺の身分に寄ってきているだけだ。

 それを俺の魅力だとか思っていたかつての俺に告ぐ。魅力なんて一つもなかったよ!

 あああぁぁぁ……と声を殺して頭を抱えたつもりだったが、漏れていたらしい。俺を囲んでいた一部が、そっと距離を取った。

 もしかしてリーゼも男に言い寄られたりしているのかもしれない。そう考えただけで、はらわたが煮えくりかえってきた。男が全員敵に見える。

 リーゼを取り巻く男を思い浮かべると、剣術のけいがはかどって仕方がない。おかげで俺はメキメキと頭角を現し……はしなかったが、「殿下がこんなにも熱心に稽古に打ち込んでいるのに、騎士志望者が怠けてどうする!」とやる気を煽ることには成功したらしい。

 かつての俺を思い出して転げまわりたい気分になった時に、一度くらい練習用の剣で打たれたらすっきりするかもしれないと思って「俺が王子だからといって遠慮はいらない」と言ったからって、本気でかかってくるのはやめてほしい。小さい頃から鍛えてきた者たちに俺が敵うわけがないだろう。ボコボコにやられ続けたら「殿下は俺たちが守らなければならない」と奮起した彼らのレベルが上がって、剣術の先生からお礼を言われた。

 リーゼがいつも人に囲まれていて話せないから、俺は少しくされながら教室で勉強に励んだ。ぼっちだったわけじゃない。俺にも周りに人は寄ってきていたが、俺が勉強をし始めたら周りも同じように静かに教科書を開くようになったのだ。

 一緒に教科書を開いていると、それぞれの得意分野が分かってくる。難しい箇所は詳しい学生に聞くようになった。二度目の俺は教師から学ぶことができなかったから、とにかく少しでも詳しそうな人がいれば聞いて回ったものだった。たいていの場合、得意な分野や好きなことは楽しく話してくれる。学生も同じらしい。数字が好きな学生に尋ねたら数学についてやたら語られたし、歴史が好きな学生に尋ねたらその部分を含めた大きな物語が始まった。ニコニコと聞いてはいたが、正直に言おう。俺はそこまで聞いてない。

 優秀な学生たちは、だんだん俺が分かっていないということが分かってきたらしい。得意な教科が同じ学生同士で議論を交わすようになった。こうなると俺は全然ついていけない。

 爵位を継ぐ予定のない次男、三男以下は自分の能力で生きていかなければならないから、それぞれ専門科目を必死に勉強してくる。広く浅く勉強してきた俺が専門で敵うはずがない。

 ボコボコに論破され続けたら「殿下が得意でないところは私たちが埋めなければ」と学生が燃えるようになり、「殿下のおかげで皆が勉学に励んでおります」と先生からお礼を言われた。

 なぜそうなったのか分からないが、皆が頑張っているのはよいことだ。そのはずだ。


 初めての試験の結果が出た。学年首位はリーゼ、2位に子爵家の三男が入り、俺は3位だった。その結果に俺はニヤリとした。今世では小さい頃から勉強している。10位以内を目標に頑張ってきた成果が出たのだ、と思った。

 俺は頭がよくない自覚はあるが、次期王があまりにも悪い成績では不安になるだろうと自分なりには努力したつもりだ。だからといってリーゼに勝てる気は全くせず、あらかじめリーゼには遠慮はいらないから俺の代わりに首位を取ってくれとお願いしてあった。

「さすがだな、リーゼ。首位おめでとう」

「ありがとうございます。殿下も3位。思ったより高順位ですね」

「思ったよりって……」

「ふふっ、おめでとうございます」

 リーゼに俺の実力は全て知られている。リーゼも俺の教師も、10位に届くかどうかだと言っていた。大満足の結果にリーゼと笑い合っていると、一人の青白い顔をした男子生徒が他の生徒に押されて前にやってきた。ガリ勉というあだ名をつけられていた、子爵家の三男である。

「あぁ、君が。2位おめでとう」

 俺が声をかけると、彼は可哀想かわいそうなほどに縮こまってしまった。

「どうした、顔色が悪い。大丈夫か? 体調が優れないのではないか?」

「ひぃっ」

 俺が一歩彼の方に進むと、彼はビクつきながら一歩下がった。なぜか周りの生徒もしんと静まって動向を見守っている。まるで俺が彼を虐めているみたいだ。お祝いを述べただけなのに。

 その静寂を壊すようにリーゼがクスッと笑い、彼の方を見た。

「大丈夫ですよ。殿下は貴方の努力を讃えただけです。そうですよね、殿下?」

「あぁ、そうだが、えっ?」

 意味が分からなくてリーゼを見る。

「彼は殿下よりもよい順位になってしまって焦ったのだと思いますよ。成績に身分は関係ないことに建前上はなっていますけれど、なんとなく高位の者に譲る傾向はありますから」

「そういうものなのか?」

「そうです。特に彼は子爵家の三男で、殿下は王子ですからね。彼としては成績を喜ぶ前に、やってしまったという気分なのではないでしょうか」

 それは知らなかった。一度目の俺は試験を免除されていたから、そもそも成績を見ることがなかったのだ。当時は、俺は王子だから特別なのだと偉ぶっていたが、今思い返してみれば、俺の成績がひどすぎて公表できなかっただけだろう。

 皆に注目された俺は、わざとらしく咳払いをした。

「まず、俺は純粋に彼の2位を祝っただけであって、そこに別の意味はない。将来俺と共にこの国を作っていく皆が優秀であることは喜ばしいことだ。俺は身分だけではなく能力のある者と仕事をしたいと思っている」

 はっきりとそう告げると、2位の彼はホッとし、周囲にはどよめきが起こった。

「それに、少なくとも俺は自分の成績を抜かれたからって気分を害するほど、狭量ではないぞ。家柄や男女の別などにとらわれず、全力で励んでもらいたい」

 これで大丈夫かと問うようにリーゼを見ると、彼女は小さく頷いた。

 そして月日は少々流れ、二度目の試験が行われた。終了時の自己評価は前回と同じくらいだ。

 後日結果が発表された。首位は変わらずリーゼ。周辺に俺の名を探すが、見当たらない。まさか一度目同様の王子の特別枠に……と青くなりかけた時、ようやく見つけた。記録13位。

 スンッという気持ちになった。前回の3位は皆が遠慮して様子を窺っていた結果なだけだったのだ。成績上位者におめでとうと声をかけると、「殿下のお役に立てるように全力で頑張ります!」「殿下と共によい国を作るのが目標です!」と元気のよい返事が返ってきた。

 皆が優秀なのは国にとってよいことである。なんて素晴らしいのだろう。ただどうしてか少しばかりやるせない気がするが、俺は狭量ではないのである。そのはずである。


◆◇◆◇◆


 学年が一つ上がり、俺は慎重に側近選びを開始すると共に、引き続き全体のレベルを上げるべくほんそうした。ここの貴族たちが将来国を動かすのだ。民から陰口ばかり言われるような貴族ではなく、慕われるリーダーを育てなければならない。

 リーゼも協力してくれた。前世と変わらず、彼女は健気に俺を支えようと努力してくれる。

 控え目に言って超可愛い。

 今世で初めての発見がある。リーゼは地味で大人しいと思っていたけれど、意外と活発でよくしゃべる。そしてちょっと毒舌だ。

「殿下」

「名前で呼んでほしい」

「クラウス様」

 んぐっ。名で呼べと言ったが、呼ばれるとムズムズが止まらない。

「その書類、まだ終わらないのですか? 孤児院へ行く時間になってしまいますよ」

「リーゼが早いだけだろ」

「しょうがないので手伝ってあげます。貸し一つですよ」

「少し待て。自分でできる」

「クラウス様ができるのは当然ではありませんか。クラウス様の仕事ですもの。自分の仕事もできずに周りにやらせていたとしたら、それはただの馬鹿ですよ」

「うっ」

 無意識に過去の傷をえぐられ、胸が痛くなって押さえる。

 結局書類を奪われて、ささっと仕上げられた。これで貸し一つならば、一度目の俺は貸しいくつなんだろう。

 今のリーゼはとてもよく笑う。その度に俺は心臓をわしづかみにされるような心地になる。一度目の俺はこんなに可愛い笑顔を見逃していたのか。馬鹿じゃないのか。


 学園では時折学生たちのパーティーが開かれる。俺はリーゼをエスコートして会場に入った。着飾ったリーゼはマジ可愛い。可愛いが止まらない。

 リーゼのエスコートを恥ずかしいとか思っていた一度目の俺を殴り飛ばしてボッコボコにしてやりたい。俺の隣に並ばなければいけなかったリーゼこそ恥ずかしく思っていただろうに。

 俺はずっとリーゼの隣にいたいが、彼女には友人たちと話す時間も必要だし、リーゼと話したい人も多い。パーティーは社交の場でもあるのだ。

 少しリーゼと離れた隙に、俺は女に取り囲まれた。派手な化粧に豊満な体を見せつける露出の高いドレス。そしてつむがれる甘い言葉。

 が出る。気持ちが悪い。

「殿下もおつらいでしょう? 政略とはいえ、あのような方と人生を歩まれなければならないのですもの。わたくしでしたら殿下を……」

「あのような方?」

 聞き返してみると、女たちはチラッとリーゼの方向を見てクスッと笑った。

 何を笑っている。ふざけんな。

 わたくしでしたら殿下をなんなんだ。

 でも一度目の俺だったら、それにフッと笑って紳士っぽく振る舞いながら腰を抱いて……。

「あああぁぁぁ」

 反吐が出るのは俺だ。反吐だけじゃなく全部出る。

 城壁よじ登って叫びたい。

「で、殿下?」

 いけない、ここはパーティーの場だ。たとえ黒歴史発作を起こしても平常心を保たねばならない。取り乱してしまった顔をキュッと引き締める。

「リーゼは可憐で美しいだろう? そのうえ、努力家で聡明だ。君たちも彼女を見習うといい」

「え?」

「言っておくが、俺の婚約者を侮辱して無事で済むと思うなよ」

 このような奴らに権力を持たせはしない。

 気分が悪くなった俺は、その場を離れて振り返った。数人の女たちがぜんと俺を見ている。そして遠くからそれに白けた視線を向けている貴族たちにも気が付いた。

 ……あの場で俺は笑っていたのか。

 城の池の底まで潜りたい。

 リーゼを探すと、彼女は楽しそうに男と話していた。たしか彼は公爵家の次男。容姿端麗なだけではなく優秀なので、側近候補にどうかと言われている人物だ。

「まぁ、ラファエル、そんなことが? ……きゃっ、クラウス様?」

 面白くない気持ちになり、リーゼを奪って人のいないバルコニーに出た。

 急に俺に引っ張られて連れ出された彼女は浮かない顔をしている。

「ちょっとクラウス様、腕、痛いです。女性に暴力を振るうのは最低最悪の下衆野郎ですよ」

 誰だよ、リーゼに「下衆野郎」なんて言葉を教えたのは。

『リーゼ様、自分より弱い者に手を上げたり虐めたりする人のことを、平民はなんと呼ぶか知っていますか?』

『下衆野郎、って言うんですよ』

 ……俺だな。二度目の、俺だな!

 胸が痛い。一度目のあれは、完全に暴力だった。リーゼに手を上げた俺は正しく下衆野郎だ。

 だけど今のは暴力じゃない。断じて違うぞ。リーゼが男と楽しそうにしてたから悪い。

 ……嘘ですリーゼに悪いところなんて一つもない悪いのは全部俺あああぁぁぁ。

「あの男といたかったのか?」

「え? いいえ?」

 すぐに否定されてホッと胸を撫で下ろすが、胸の中でとぐろを巻くモヤモヤは消えない。

「ずいぶん楽しそうに話していたじゃないか」

「彼とは家同士の繋がりがあるので、小さい頃からの知り合いなのですよ。クラウス様こそ、女性に囲まれていたではありませんか」

「望んだことじゃない」

 プイッと横を向く。かなり大人げない。俺はただ、あの男に嫉妬しているだけだ。

 分かっている、俺なんかよりきっとあの男の方が素晴らしい奴だ。

 リーゼにとっての俺は、ただの政略結婚の相手だ。第一王子に嫁ぎ国のために支える。そう育てられてきた彼女は、素直にその通り俺を支えようと努力してくれている。

 その第一王子がもし俺じゃなくても、彼女は同じようにする。リーゼは俺を男として見ていない。その事実にギリと奥歯を噛み締める。

「わたくしが殿方からそういった目で見られることなど、あるわけがないではありませんか。こんな容姿ですもの。必要なこととはいえ、殿下もわたくしをエスコートしなければならないのは恥ずかしいだろうなと、申し訳ないとは思っているのですよ」

「そんなことあるはずがない」

 俺は本心から否定したのに、リーゼは力なく微笑むだけだ。

 確かに一度目の俺はそう思っていたけれど、その時の俺を殴り飛ばし以下略。

「たとえ政略的な婚約とはいえ、わたくしを婚約者として遇し、よくしてくださることには感謝しています。でも、もしクラウス様にいい人がいるのならば、わたくしに遠慮しなくていいのですよ」

「それはリーゼにもいい人がいるから黙認せよということか?」

「違いますよ。わたくし、恋愛関係のあれこれは諦めているのです。クラウス様はいずれ、妾を持つことも可能でしょう? そうなった時、わたくしは嫉妬しませんから」

「そこはしろ」

 間髪を入れずに答えると、リーゼは小さな目を少し大きくした。

「こんな容姿と君は言うが、誰かに何か言われたのか?」

「ええと、ブサイクという言葉はちらほら聞きますし、そういえば幼少期にクラウス様にも言われました」

「申し訳ございません二度と言いません」

「自分でもよくないことくらい自覚しています。その、身体も女性らしくはないですし……」

 勝ち気なくせにちょっと恥ずかしそうなその仕草にグッときて、我慢できずに抱き寄せた。細くて小さい身体はすっぽりと納まって、庇護欲を掻き立てられる。女性らしくないと言うが、胸も……慌てて考えを逸らす。

「リーゼ、他の誰がなんと言おうと、俺は君が、その、可愛いと、思うし、だな、綺麗だと思う……その、容姿だけじゃなくて、いつも一生懸命なところとか、思慮深くて聡明なところとか、俺は好ましく思う。自分を卑下するな」

 鼓動が大きくなりすぎて、たぶんリーゼに聞こえている。俺は咳払いをして、大きく息を吐いた。

「俺は妾などいらない。リーゼがいればそれでいい。だから……少しは俺を男として見てはくれないか?」

「え?」

「君が俺のことを政略的な婚約の相手としか見ていないことは分かっているが、もし政略じゃなかったとしても、俺はリーゼがいいんだ」

 腕の中からリーゼが見上げてくる。驚いた顔をして、それからふふっと笑った。

「クラウス様は優しいですね。そんなに気遣ってくださらなくてもいいのですよ? クラウス様にとってわたくしの身分が不必要にならない限り、わたくしから婚約解消を持ちかけることなどございませんし」

「そういうことじゃない」

「全員に気を張っていたら疲れてしまいます。いろいろと我慢していらっしゃるのでしょう? わたくしの前でくらい、気楽にしてください」

 全く信じられていない。

「我慢ならしている。今すぐにでも君に口付けたいし、触れたいし、もっと先だって……」

「えっ」

 リーゼの身体が強張った。しまった、と思うと同時に、いとしさが込み上げてくる。

「すまない。だけど信じてほしい。俺がそう思うのは、君だけだ」

 リーゼは明らかに戸惑っていた。それにショックを受けながらも、仕方がないと思う自分もいた。俺は抱きしめていたリーゼをそっと離して苦笑する。

「そんなに困らないでくれないか? 今リーゼの気持ちを聞こうとは思っていない。だけどいつか一人の男として振り向いてもらえるように頑張るから、ほんの少しでいいから、俺に気持ちを向けてくれたらすごく嬉しい」

 それでもリーゼはきょとんと俺を見上げるばかり。やっぱり信じられていない。

「クラウス様、視力落ちました? それとも何か変なものを食べました?」

「落ちてないし、食べてない」

 ムッと返したら、リーゼはそれならなんだろうと心配そうに悩み始めた。

 そんな顔さえも可愛いと思ってしまうのだから、俺はもう駄目だ。

「好きだ、リーゼ」

 その日から俺はことあるごとに好きだと伝えた。最初は完全に社交辞令だと思われており「嬉しいです」「ありがとうございます」と軽く流されていたが、次第に「ふふっ」と笑いながら、ちょっとだけ、ほんのわずかに照れるようになってきたように見えた。手応えありと見ていいかな? いいよな?


 学年末の試験が終わり、リーゼは首位でこの学年を終えた。

 一度目の俺の側近だった取り巻き連中は、今の俺には擦り寄ってこない。彼らは俺の様子を見ながら俺に合わせていただけだったのだと、今になって気が付いた。俺が実力主義をはっきり告げてから、その中の数人はメキメキと成績を伸ばした。いや、もしかしたら一度目の時からよかったのかもしれない。

 逆に、落ちぶれている人もいる。俺と一緒に偉ぶっていた奴や、俺に気に入られようと容姿を磨いて着飾っていた女子生徒たち。

 よくも俺をたぶらかしてくれたな、という気持ちがないわけではないが、そもそも誑かされた俺が悪いのである。むしろ今は彼らに対して当時の俺を見ているような気がして、叫び出したいような、転がり回りたいような、痛々しいような、そんな気持ちになる。だから俺はたまにそっと助言する。できることならば俺のような思いをする前に気が付いて、真面目に生きてほしい。彼ら彼女らもまた、この国の民だから。


◆◇◆◇◆


 学年がまた一つ上がり、最終学年になった。

 忙しく過ごすうちにあっという間に学園生活も終わりに近づき、俺はリーゼと生徒会室で書類をまとめていた。もうすぐ下の学年に生徒会の業務を引き継ぐ。そのための書類だ。

「この部屋を使うのもあとわずかだな」

 他の教室よりも少し豪華なこの部屋を使えるのは、生徒会役員の特権だ。役員になるには身分だけでなく成績や人柄も考慮される。将来のステータスになるから、役員入りを目指して頑張る生徒も多い。成績優秀なリーゼはともかく、俺が選ばれた理由はよく分からない。しかも会長だ。身分でごり押ししたつもりはなかったのだが、なんだか申し訳ない。

 ちなみに一度目の俺は役員ではなかった。「王族は生徒会のさらに上から見守るものです」と言われて信じていたが、単純に学力も人柄も、役員レベルに到達していなかったのだろう。

「お茶にしましょうか」

 きりのいいところまで終わったリーゼが自らお茶を入れてくれた。代わりに俺はクッキーを出した。先日教会に行った帰りに寄った街の菓子屋で買ったものだ。味だけで言えば城の料理人に敵わない。だけど素朴な風味をリーゼが気に入っているので、たまにこっそり買いに行く。

「あら、こちらのクッキーは初めてですね」

「新作でアーモンドキャラメル味だそうだ。この味を出すのにいかに苦労したかおばちゃんに語られて、なかなか帰れなくて困ったよ」

 店員のおばちゃんはしゃべりだすと止まらない人なのだ。一緒に行った時にそれを経験しているので状況がすぐに分かったらしく、リーゼはクスクスと笑った。

 一つ先に口に入れると、甘くてほろ苦い味とアーモンドの香ばしさが鼻に抜けた。確かにおばちゃんが言うように、高くない原料を使ってこの味を出すのは難しかっただろう。

「美味しいですね」

「リーゼが作ってくれたクッキーの次の次の次の次くらいに美味しい」

「それは気に入っているのですか、いないのですか?」

「そこそこ気に入ってる」

 リーゼはふふっと笑ってからもう一つ手に取った。リーゼもそれなりに気に入ったらしい。

 クッキーを食べる口元に目が行き、慌てて逸らした。駄目だ危ない。

 先日、ついにリーゼが俺に少し想いを寄せてくれた。

『ちょっとよく分からないのですが、わたくしも殿下をお慕いしているのかもしれません』

 少し頬を赤らめながら潤んだ瞳でそう言ったリーゼを、外じゃなかったら押し倒していたかもしれない。誰もいなかったら危険だった。思いとどまった俺は褒められていいと思う。

 今までも駄目だったけれど、その日からはさらに駄目だ。そして今、危機的状況に近いのである。生徒会室に2人きり。部屋に鍵はかかっていないが、今のところ誰も来ない。ちょっとドキドキしてきた。そんな俺とは対照的に、リーゼは落ち着いて部屋を見回した。

「卒業してしまうと、なかなか会えなくなる方も多いですよね」

 そのまま王都に残ったり王宮勤めになる人もいるが、領地へ戻っていく人もいる。特に女性は家に入る人が多いから、どうしても会う頻度は減る。

「寂しいか?」

「そうですね。でもまぁ、クラウス様がいますから、大丈夫です」

「んぐっ?」

 お茶が変なところに入った。ゲホゲホとむせる俺の背を、リーゼはそっとさすってくれた。嬉しい、いや、厳しい。

 これはわざとか? わざとなのか? 俺を試しているのか?

 俺が落ち着くとリーゼはお茶と菓子を下げ、俺たちはまた書類に向かい合う。

 しばらく書類をこなし顔を上げると、リーゼの横顔が見えた。窓の外の木が風にそよいでいるのか、顔に映った柔らかな光が揺れている。どこか楽しそうなその顔は、率直に綺麗だと思った。最近リーゼは綺麗になったと評判だから、俺だけがそう思っているのではないはずだ。

「どうかしましたか?」

「なんでもない」

「ふふっ、なんでもないって顔じゃありませんでしたけど?」

 リーゼは恋愛関係のあれこれは諦めていると言っていたけれど、頭もよく皆から慕われている。普通にモテると思う。俺との婚約は皆に知れ渡っているから、表向きリーゼを狙ってくる奴はいない。だけど心の中でどう思っているかなんて分からない。考えるとイライラしてきた。

 リーゼが誰かに想いを寄せているというのは聞いたことがない。物心ついた時には婚約が内定していて、そのように育てられたリーゼは、誰かと恋仲になるということを考えたことがないのかもしれない。だけど、もし自由に選べたとしたら、どんな男を好きになるのだろう。リーゼから選択の自由を奪った俺は、リーゼの理想に近づけているのだろうか。

「なぁ、リーゼが好ましいと思う……いや、嫌だと思う男はどんな奴だ?」

「嫌だと思う人ですか?」

 思わず嫌だと思う方を聞いてしまったのは、好ましい男が俺と正反対だったらどうしようと咄嗟に怖くなったからだ。屈強で男らしくて頭のいい人が好き、とか言われたら泣く。

「えっと、自分勝手な人、権力を振りかざす人、人の意見を聞かない人、横暴な人、立場が弱い者を見下す人、自分はやらずに仕事を押し付ける人、面倒くさい人、それから……」

「うっ」

 思った以上にいっぱい出て焦る。

「特に、自分では何もできないくせに努力もしないで偉ぶってたり、他人をおとしめたりする人は最悪ですね。大嫌いです」

「ううっ」

 痛む胸を押さえて俯く。打撃が強すぎる。

 全部一度目の俺じゃないか。どう考えても嫌われてた俺。

 その状況で「俺の気を引こうとしている」とか思ってた俺。

「あああぁぁぁ」

 痛いにもほどがある。穴があったら入りたい。あ、結構入ってたな、鉱山という穴に。

「あ、好ましく思うのは、クラウス様みたいな方ですよ」

 ガバッと顔を上げると、悪戯が成功したような顔でリーゼがふふっと笑った。

 緊急事態発生! 理性総動員!

 襲わなかった俺は褒められていいと思う。


 無事に生徒会の仕事を下級生に引き渡した夕方、俺はリーゼを散歩に誘った。

「散歩ですか? 構いませんけれど、どちらへ?」

「学園内のいろんなところ。卒業したらもう来なくなるから、今のうちに見ておきたくて」

 時間に余裕があったこともあり、俺はリーゼとゆっくり歩いた。いつもはなんの気なしに通っていた廊下も、睡魔と闘った教室も、もう来なくなると思うとなぜか感慨深い。

 思い返してみれば、一度目の俺は卒業間近でもこんな気分になることはなかった。そもそも学園に真面目に通った記憶もない。来たい時に来て、やりたいことだけやって。本当は卒業できるレベルじゃなかったはずだ。それなのに可能になっていたのだから、腐っていたと思う。

「もうすぐ卒業かと思うと、なんだか感慨深いですね」

「リーゼもそう思うのか?」

「当然ではありませんか。あの窓から見た風景とか、ここで先生の手伝いをしたとか、いろいろ思い出します。忘れられない思い出もたくさんできましたね」

「そうだな」

「あとは、あの机でよくクラウス様が居眠りしているのを起こしたな、とか、あっちの部屋でクラウス様が先生に怒られていたな、とか」

「それは忘れていい」

「ふふっ」

 校舎を出て庭園に出ると、恋人同士らしい2人が至る所にいた。見なかったことにして裏庭に回ったら、秘密の恋人同士らしい2人が至る所にいた。多くの貴族が政略結婚をするから、学園内でだけは少しならば目こぼしされる。卒業間近になると、まぁ、いろいろあるわけだ。

 こちらも見なかったことにして仕方なく表に回り、建物を見上げた。

「リーゼ、俺さ、学校を作りたいんだ。この学園は身分がないと入れないだろ」

 この学園は将来国を担う者を育成するための機関と位置づけられているので、ここに入れるのは貴族の子女だけだ。特別枠というのも制度としてはあるが、ほとんど使われていない。

「平民にも優秀な人は多いと思うし、国を担うのが貴族だけとも限らないだろ? それなのに入れる学校がないというのはもったいない。そもそも学べない子供も多いからな。まずは小さい子のための学校からだ」

 平民だから、女だから、お金がないから、子供も労働力だから。そんな理由で学校に通えない子供は多い。二度目の俺は通えなかったし、鉱山の村の子は学校の存在自体を知らなかった。

「学べるのは貴族の特権だとする人もいるけど、俺はそう思わない。リーゼはどう思う?」

「わたくしも同じ意見です。誰でも学校に行けたらいいのにと思います」

「よかった。あっ、宰相には内緒にしてくれ。『実現可能になるように考えてから発言しなさい』って怒られるから」

 宰相を少し真似て言うと、リーゼはクスクスと笑った。

 実現は先になるだろう。まずは生活を安定させるところから始めなければならないからだ。だけど、必ず。

 そう決意しながら学園の校舎を再び見上げると、雲行きが怪しいことに気が付いた。

「リーゼ、雨が降るかもしれない。早めに戻った方がよさそうだ」

「あら、本当ですね」

 校舎の中に戻り、迎えを呼ぶ。馬車が来るまでの少しの間、俺たちはもう一度校舎を歩いた。

 今の俺には見慣れた風景なのに、一度目の俺の記憶にはない。校舎のぬくもりも、生徒たちの声も。生徒会室も、裏庭にはタンポポがいっぱい咲くことも。同じ場所のはずなのに、何も変わらないはずなのに、何もかもが違って見える。

「学園、楽しかったな」

 やりたいことばかりやっていたはずの一度目の時よりもずっと。隣のリーゼを見て微笑む。

 一度目の俺は天気も気にしなかった。暑ければあおぐ係がいたし、雨ならば傘係がいた。俺が快適に過ごすために誰が汗だくになろうが、びちょぬれになろうが、知ったことではなかった。

 空を見上げる。リーゼが家に着くまで、天気は保つだろうか。

「クラウス様が着くまで降らないといいのですけれど」

「えっ?」

 同じことを考えていたことに浮かれた気分になった。だから「君さえ守れれば俺などびちょびちょでもいいんだ」などと、ちょっとキザなことを言いたくなった。

「俺は別に濡れても構わないさ」

 格好をつけて「君さえ守れ……」と続ける前に、リーゼが言葉を被せてきた。

「構わなくないですよ。風邪でも引いたらどうするのですか。クラウス様が出席できないとなれば、卒業式も卒業パーティーも延期になるかもしれないのですよ。皆が困るのです。分かっていますか?」

 返す言葉もなかった。

 ちなみに結局雨は夜まで降らなかったし、俺は風邪を引くこともなく、無事に卒業を迎えた。


◆◇◆◇◆


 その日、学園のホールでは卒業パーティーが行われていた。一度目の俺がリーゼに婚約破棄を突きつけた日だ。

 俺はリーゼをエスコートして進む。リーゼは今日のためにあつらえたという質のよいドレスに身を包み、軽く化粧をしている。今ならば、そのドレスはマナーを守りながらも贅沢すぎないギリギリのラインで、庶民の生活に気を配っているのだと分かる。一度目の俺ならばそんなことに気が付かず、地味で華がないと鼻で笑うだろう。何も分かっていない馬鹿野郎だ。

「今日はどなたかが婚約破棄をなさるかしら?」

「婚約破棄?」

 ギクッとして聞き返すと、リーゼは少し困ったように目尻を下げた。

「卒業パーティーでの婚約破棄は定番らしいですよ。なんでも、この場で皆が見ている前で宣言すれば、親にも覆せないから、ですって。貴族の婚姻は家と家の繋がりを重視するものだから、相性が悪い場合もありますものね」

 困ったこと、とリーゼは首を傾けながら話し、俺は肝が冷える。

「だからといって、この場で破棄するのは得策ではないと思いますわ。重要だからこそ結ばれた婚約でしょうに」

「そ、そうだよな」

「まぁ、でも、その後どうなるかを考えられないような脳が足りない方となら、縁を切ることができてむしろ幸いかもしれませんね」

 思い当たることが多すぎて何も言い返せず、「うっ」と胸を押さえた。

「ま、まさかとは思うが、リーゼが婚約破棄するなんてことは、ないよな?」

「あるはずがないではありませんか。皆のための卒業パーティーを自分の都合で空気も読まずに台無しにするほど、わたくしは馬鹿ではありませんよ」

「そそそそうだよな」

 皆のパーティーを台無しにする馬鹿……。

 一度目を思い出しかけた、その時。

「お前との婚約を破棄する!」

 覚えのある台詞が響き、俺はびくぅぅぅっと肩を飛び上がらせた。

 慌てて自分の口を押さえる。今のは俺の口から出てないよな、大丈夫だよな?

「あら、始まってしまいましたね。残念」

 口を押さえたまま声が聞こえる方に顔を向けると、男が偉そうに婚約者らしい女性を睨みつけ、婚約破棄の理由をつらつらと述べていた。成績が悪く、器量もよくない、伯爵家に相応しくない、とか聞こえてくる。耳を塞いでしまいたい。

 会場は静まり返っているが、大ひんしゅくを買っているのは雰囲気で十分に分かる。恐る恐る見回してみれば、ほとんどの人が白けた顔をしていた。

 伯爵令息だという彼でこの状況なのだ。王子であり、既に見限られていた当時の俺は、どんな目で見られていたんだろう。想像するだけで汗が吹き出してくる。

 滝に打たれたい。

 ザバーッと打たれて、身も心もキレイなクラウスになってしまいたい。

 無理なのは知っている。

「彼女はもう終わりだ、みたいな言い方していますけれど、終わりなのはどう考えても彼の方ですよね。廃嫡はいちゃく間違いなしでしょうに」

「そ、そうだな」

 哀れみの籠ったリーゼの目から、俺はそっと目を逸らした。

 その婚約破棄の主役たちが退場すると、その余韻に浸ったなんともいえない空気がホールを包んでいた。

「せっかくのパーティーですのに、気まずい雰囲気になってしまいましたね」

 リーゼが苦笑する。俺はリーゼの手を引いた。

「リーゼ、来てくれ」

「え?」

「この空気を変えるのは、俺の仕事だろう?」

 一度目はもう変えられないけれど、今と未来ならば変えられるはずだ。

 俺はたった今その馬鹿がいた場所にリーゼを連れて出て、もやもやした空気を切り裂くように声を張り上げた。

「リーゼ!」

 嫌でももともと注目されている第一王子の俺だ。その声で会場は静まり返り、視線が一気に集まるのを感じた。空気を読まない馬鹿がまた出てきたのか、そう思われただろう。実際その通りだ。俺は馬鹿だった。いや、今もきっと馬鹿だ。

 立ち位置は一度目の人生と逆、リーゼが上座で俺は下座。

 婚約破棄の話をしていたからだろうか、リーゼの表情が強張ったのが分かった。

「リーゼ、聞いてほしい。俺は、本当にどうしようもない馬鹿なんだ。君がいつか嫌いだと言っていた、そんなひどい男なんだ。自分一人じゃ何もできないのに、それに気が付かないばかりか人の気持ちも考えられなくて、君をたくさん傷つけた」

 一度目の人生、君はどんな顔をしていただろう。どれだけ傷ついて、どれだけ惨めな思いをしただろう。君の人生を台無しにしておいて、俺はそれが当然だと思っていたんだ。

 今更どんなことを言ったって、かつてのリーゼを救うことなどできない。許されないことだなんて分かっている。

「努力はしているつもりだけど、仕事も皆に支えてもらってばっかりだ。王族として頼りないし、一人の男としてもできた人間じゃない。だけど、俺は君と一緒に国をよくしたい」

 鉱山の仲間たちの顔が浮かぶ。彼らは今日も山に潜って、危険と隣り合わせになりながら一生懸命働いている。そんな彼らが笑顔になれるような国を作りたい。孤児でも好きなだけ学べて、やりたい仕事につけるような、そんな国にしたい。

 リーゼと一緒に。

「これからも俺は間違ったことをするだろうし、君に嫌だと思われることもあるかもしれない。だけど、俺にできる限り、君を幸せにするって約束する。絶対に幸せにする。だから……」

 リーゼの前に一歩進んで跪く。

「俺と結婚してください」

 一度目の馬鹿な俺は、たくさんの間違いを犯した。取り返しのつかない過ちも犯した。それを鉱山と二度目の人生で思い知った。

 幸いなことに、やり直す機会をもう一度だけもらえた。

 だから俺は全力で国をよくできるように努力する。

 おこがましいことは百も承知だ。一度目の君をあれだけ傷つけておいて、今更何を言っているんだと言われたらその通りだ。だけど、同じ間違いは絶対に犯さないから、だから。

 俺に君を幸せにするチャンスを、もう一度だけもらえないか?

 しばらく、リーゼも、観客たちも、誰も言葉を発しなかった。ただ自分の鼓動だけがうるさく響いている。

 駄目だったか。

 顔を上げてリーゼを見ると、彼女はどうしてか泣きそうな顔をしていた。そして何度か小さく頷いて「はい」と言った。

 俺は立ち上がってリーゼを抱きしめた。

 割れんばかりの拍手が会場に鳴り響く。

「ありがとう、リーゼ」

 そっと囁いた声は、きっとリーゼ以外には届いていない。

「空気の読めない馬鹿ですまない」

 そう呟くと、リーゼは腕の中で肩を震わせて笑った。

「では、わたくしも一緒に馬鹿になります」

 リーゼは俺の胸を押すとグッと伸び上がり、そして俺たちの唇は重なった。

 遠くでさらに大音量の歓声と拍手が鳴り響いていた。