この長男にも呼びにきた侍女がいるが、少し安心するのは、彼は「もうちょっと遊びたい」とごねていることだ。

 リーゼはわずか5歳にして自分の役割を理解し、必死に毎日の課題をこなしていた。この小さい肩にどれだけのものを背負っているのだろう。特に大きな期待などされずに育った俺には想像もできない。

 下の子が少し大きくなると、一緒に街へ出て案内したり、教会の孤児院へ行ったりもした。これは街や平民の子供たちの様子も知ってほしいという宰相の希望だった。

 子供たちの中に入ると、普段大人びているリーゼも年相応に楽しそうにしていた。

 俺は教会で育ちながら信心深いたちではない。だけど祭壇を見上げてしんに祈った。どうかリーゼが嫁ぐという王子がよい人でありますように、リーゼを大切にしてくれますように、と。


◆◇◆◇◆


 リーゼが7歳のある日、公爵家の子3人と一緒に孤児院へ行くと、見慣れない男の子がいた。彼は9歳で、新しく入ったばかりだという。リーゼが部屋に入った途端、彼は立ち上がってこちらにやってきて、すごい顔でリーゼを睨んだ。

「お前、貴族か?」

 リーゼが「えぇ」と答えた瞬間。

 バチン!

 男の子がリーゼの頬を殴った。立っていたリーゼは跳ね飛ばされて床に崩れた。

 一瞬のことで、誰も止められなかった。

 すぐにシスターが男の子を取り押さえ、俺はリーゼに駆け寄る。

「なんてことをっ!」

 シスターは青くなった。公爵家の令嬢を殴ったとなれば、子供であっても容赦はされない。最悪処分される。止められなかった護衛、シスター、もちろん俺にも罰が下るだろう。

 そんなことよりも俺はリーゼが心配だった。殴られた頬はもちろん、いきなり見知らぬ自分よりも大きい男の子に殴られたのだ。ショックを受けていないはずがない。

 押さえつけられた男の子は、もがきながら叫んでいる。

「やめろ! あいつが悪いんだ! あいつが、貴族が、俺の母さんをっ!」

 男の子は泣きながら喚き散らしているが、もはや聞き取れない。そのままシスターに連れ出された。こちらもリーゼの手当をするために別室に移る。

 リーゼの頬は赤く腫れていたものの、幸い怪我の程度としては軽いようだった。顔に痕が残ったらと思うとゾッとしたが、それは大丈夫そうだ。

 シスターが悲痛な顔でリーゼの前でひざまずいた。

「リーゼ様、申し訳ございませんでした。彼にはきつく言い聞かせておきますので、どうか、どうかご容赦を」

「彼に何があったのですか?」

 リーゼは静かに聞いた。殴られたというのに、その相手のことを冷静に聞くリーゼに驚く。

 シスターは少し戸惑いながら彼の事情を語った。最近孤児院に来たばかりであること、彼の家は貧しく、母しかいなかったこと。税が納められないならばと彼の母親は貴族に連れていかれ、死んだと聞かされたこと。

「あの子を同じ部屋にいさせるべきではありませんでした。こちらの不手際です。今後このようなことがないように、きつく指導いたしますから、どうか彼をお許しください」

 シスターは男の子を助けたいようだが、どんな事情があったにせよ、リーゼにいきなり殴りかかったのは事実だ。俺としても彼が処分されるような事態は望まないけれど、何も罰がないというわけにはいかない。

 それに、単純に何もしていないリーゼが殴られたことに、俺は怒りを感じていた。リーゼは毎日必死に努力している。彼とは初対面だ。なのになぜリーゼが殴られなければならない。

 リーゼは黙って最後まで聞いていた。そして小さくため息をついた。

「そうでしたか。わたくしのこの頬の痛みよりも、ずっとつらいでしょうね」

 殴られた頬にそっと手を当て、リーゼは悲しそうな顔をした。

「貴族が彼のお母様に何かしたというならば、わたくしにも責任があるのでしょう」

「リーゼ様は何もしていないではありませんか。いきなり殴られたのに、許すのですか」

 思わず強い口調になった俺に、リーゼは一度顔を向けた。

「彼も何もしていなかったのに、いきなり奪われたのでしょう? わたくしがこの程度のことを許せないというのであれば、彼は一生憎しみだけを抱えて生きることになります。わたくしは、それが心配です」

 俺だけじゃなく、シスター、その場にいた数人の大人たちが皆、ハッと息をのんだ。これがわずか7歳の少女の言う言葉だろうか。

 リーゼは静かに部屋を一度見回した。それから目の前のシスターを見つめた。

「わたくし、ぼーっと歩いていたら柱に頬をぶつけてしまったのです。でもすぐに手当をしてくれましたから、もう大丈夫です。心配かけましたね」

 そういうことにしなさい。そんな圧力を含んだ言い方だった。

 リーゼは公爵令嬢として、いずれ王族に嫁ぐ身として、厳しい教育を受けている。その成果か、それとも持って生まれたものなのか、7歳にして既に圧倒的なオーラをまとっていた。貴族らしい微笑みには人を惹きつけ従わせる力があったし、りんとした姿勢は上に立つ者であることを疑いなく示していた。

 リーゼは自分の立場をよく分かっていた。自分を殴った子がどうなるのかも理解していた。だから、頬が赤いのは自分の不注意だということで、彼とは何もなかったと示したのだ。

 胸が震えた。この気持ちをどう表現したらいいか分からない。完敗だった。物事の側面だけ見て怒りを覚えていた俺とは全く違う。リーゼはその小さな体の中で、驚き、恐怖、怒り、悲しみ、そういった感情を消化して、冷静に必要な判断を下した。

 この方が未来の王妃か。

 そう思ったら、未来に希望が持てる気がした。ちょっと神がかったようにさえ感じたのは、ここが教会という場所だからだろうか。


 その夜、俺はリーゼの父である宰相に呼ばれた。

「何があった?」

 たった一言で俺の全身から冷や汗が吹き出した。

 宰相は基本的には温厚で、理不尽な怒り方をしたり、意味もなく罰したりするような人ではない。だけど必要ならば冷徹に判断を下す。国を治める方には必要な要素なのだろう。

 この方には絶対に勝てない、逆らえない。本能的にそう察するような凄みがあった。

 俺は怖いという気持ちを隠しながら、見えないところでぎゅっと自分の拳を握った。

「お話する前に一つだけお願いがございます。私はいかなる罰でもお受けしますが、リーゼ様が守ろうとした者だけは、どうか寛大なご判断を」

「話を聞かずに約束することはできないが、少なくとも私は子供同士のけんに口を挟むつもりはないし、権力で解決しようなどとは思っていないよ。私はリーゼのことを知っておかねばならない。話しなさい」

 宰相は俺の主だ。口をつぐむわけにはいかなかった。俺は洗いざらいあったことを話した。宰相は時折疑問点を口に出しながら、最後まで感情を揺らすことなく聞いていた。

 話が終わると宰相は席を立ち、そのままリーゼの部屋に向かった。扉が開き宰相に気が付いた瞬間、リーゼは一瞬だけ動揺したように見え、それから何事もなかったかのように挨拶の言葉を口にした。

「お父様、何かございましたか?」

「柱に頬をぶつけてしまったそうだな」

「……はい。少し考えごとをしてしまったのです」

 リーゼは取りつくろっているものの、緊張がにじみ出ていた。声色が固く、宰相と目を合わせようとしない。宰相はリーゼの頬にそっと手を当てた。リーゼがビクッと身体を強張らせる。

「気を付けなさい。今回は頬が腫れる程度で済んだからまだよかったが、もしもっと大きな怪我やリーゼに傷痕が残るようなことがあれば、柱を切り倒さなければならなくなる」

 リーゼがハッとしたように宰相を見上げた。

「いくらお前が自分でぶつかったのだと言ったところで、そこにあった柱が悪いことになる。お前はそういう立場だ。分かるね?」

 グッと口を結んでリーゼが頷くと、宰相はふっと息を吐いて肩の力を抜いた。

「柱には傷がつかなかったか?」

 リーゼは少しだけ迷って、小さくコクリと頷く。

「そうか、ならばよい。痛かったな。リーゼ、よくやった」

 頬に当てられていた父の手がリーゼの頭に優しく置かれた瞬間、リーゼの目から涙が零れた。

 怖くなかったはずがないと思う。いきなり殴られたこともだけれど、殴った子が処分されるかもしれないのだ。優しいリーゼはどれだけ気を張っていたのだろう。宰相が出ていくと安心したのか、リーゼはわんわんと泣き始めた。その姿はやはりまだ子供なのだと思わされた。

「リーゼ様、よかったですね」

 リーゼに笑顔を向けつつ、心の中で殴った男の子を思い浮かべた。

 あの野郎、リーゼをこんなに泣かせるなんて、許せん。

 あの男の子が助かってよかったと思っているし、もちろん彼に何かしてやろうというつもりはない。だけど俺はどうやらリーゼのように純粋で清い心ではいられないらしい。

「リーゼ様、自分より弱い者に手を上げたり虐めたりする人のことを、平民はなんと呼ぶか知っていますか?」

 俺が問いかけると、リーゼは泣く力を弱めて俺を見上げてきた。

「下衆野郎、って言うんですよ」

「げす、やろう?」

「そうです。事情があったにせよ、リーゼ様に手を上げたのはよいことではありません。もし反省せずに繰り返すようならば、あの子は下衆野郎、ということになります」

「げすやろう……」

 俺がニコッと笑うと、リーゼも泣きながら微笑んだ。侍女が「そんな言葉教えるな」とばかりに俺を睨んでくるが、結果としてリーゼが泣き止んだのだからよしとしよう。


 次に孤児院へ行った時のこと。

 神父さんに連れられてきたリーゼを殴った男の子は、リーゼに一生懸命に謝罪の言葉を述べた。きっちり叱られてこってり絞られたのだろう。その謝罪も何度も練習したのが窺えたし、彼自身が反省している様子も伝わってきた。

 それを静かに聞いていたリーゼは謝罪が終わるとおもむろに立ち上がり、腕を組んで彼の前に仁王立ちになった。ご令嬢らしくないその姿に皆が「えっ?」という顔になる。

「自分よりも弱い者に手を上げるなんて、げ、下衆野郎、ですわよ!」

 良家のお嬢様の口から飛び出た言葉に、聞いていた皆の目が丸くなった。跪かされていた男の子も思わず顔を上げてあんぐりと口を開ける。

「あなたのお母様に手を出したのは、貴族だろうとなんだろうと最低の下衆野郎ですわ。あなたはそんな下衆野郎の仲間入りをしたいんですの?」

 ふんす、とリーゼが鼻息荒く言い切ると、男の子はくしゃっと顔を歪めて首を横に振った。

 男の子と和解したリーゼは、それからも孤児院に足を運んだ。どうやら平民の言葉遣いにも興味を持ってしまったらしく、孤児たちから教わったり俺が教えたりして使いこなすようになっていった。子供の適応力とはすごいものだ。

 俺が平民言葉を教える度に侍女たちは苦い顔をしたけれど、宰相は「言葉の意味を知っておくのはよいことだ」と笑っていた。


◆◇◆◇◆


 リーゼが10歳の時、この国の第一王子と婚約した。同じ年に生まれたリーゼと第一王子は生まれた時から婚約が内定しており、10歳を待って正式なものとなったとのことだった。

 リーゼが王宮に出向く頻度は高くなり、それと比例してだんだんと笑顔を失っていった。

「殿下はわたくしのことをブサイクと言うの」

「殿下にちゃんと勉強してくださいと言ったら、うるさいと押されて転んでしまったの」

「殿下に仕事をしてくださいとお願いしたのだけど、俺を支えるのがお前の仕事だろうと聞いてくださらないのよ」

 ごくたまに、ぽつりぽつりとそんなことを言っていた。俺はどう応えるのがいいのか、見当もつかなかった。直接お会いしたことはないが、王族は皆自分のことしか考えていない浪費家という評判だ。王子も例外ではなく、身分を振りかざし、わがまま放題で傲慢だという話を聞いている。そのような相手に嫁がなければならないリーゼを哀れに思った。

「今日もまた殿下にブスと言われたの。見苦しいとも言われてしまったわ。容姿が優れていないことは分かっているけれど、それほどかしら。身なりは整えているつもりなのだけれど」

 王宮から戻ったリーゼは気落ちしていた。なんてことを言うんだ、王子。

 胸の中に怒りが込み上げるが、返答はとても難しい。「そんなことありません」と言いたいが、それは王子の言葉を否定していることになってしまうからだ。平民が王族の言葉を否定すれば、即座に斬り捨てられても文句は言えない。

「私は、リーゼ様は美しいと思います」

 俺の本心だ。見た目だけじゃなくて、心も美しい。断言できる。

「ありがとう、クルト」

 リーゼは弱く微笑んだ。


 近頃の宰相はいつも難しい顔をしていた。

「民の不満が高まっているというのに、また大規模な夜会だ。たしなめれば今度は地方視察に行くと言い出した。本当に視察なら構わないが」

「遊ぶだけでしょうね。王妃様も派手なことがお好きですから」

 奥方とため息をつき合っているのが聞こえた。

 呼ばれた俺が「失礼します」と部屋に入ると、宰相は顔を上げた。

「あぁ、クルト。急だが3日後に王家のパーティーに行く。支度を頼む」

「かしこまりました」

「まぁ、夜会とは別に?」

「別だ。お妾様の誕生日祝いだそうだ。何人もいる妾に彼女たちが生んだ子たちの誕生日。それぞれ祝っていたら一体どれだけパーティーをしなければならないんだ」

 宰相はため息をつく。

「今一番ご寵愛ちょうあいの厚い方だから、私も出席するように言われてしまった。彼女の立場を高めたいのだろう。一応こちら派閥の家柄だから出席はするが、顔だけ出してすぐに戻るよ。まったく、国王が放棄している仕事が山積みだというのに」

 もう一度ため息をつく。

 パーティー、夜会、茶会、視察、またパーティー。王族の話は、そんな単語ばかり聞こえる。


 別の日。その日は王妃の誕生日だということで、王宮で大規模なパーティーが開かれた。王妃の子である第一王子の婚約者なので、リーゼも参加する。俺は御者として宰相夫妻とリーゼを王宮に送り届けた。

 チラッとだけ開いた扉から見えたパーティー会場は数々の料理や菓子、飲み物であふれていた。

 長居はしないので待つように、と指示され、俺は王宮が見える場所で待機していた。中には入れないが、賑やかな音が聞こえてくる。

 ふと見上げると、王宮のバルコニーに国王が姿を見せていた。その隣にいる着飾った女性が王妃だろう。かなり遠目に見ているはずだが、誰よりも派手な装いははっきりと見えた。国王は他にも着飾った女性を幾人も引き連れていた。キラキラして見えるのは宝石だろうか。

 あれがこの国のトップなのか。

 絶望にも近い感情が沸き起こってきた。

 仕事もせずにパーティーばかりだという国王と王妃。このために俺たちは高い税を払っているのか。食べられなくて死ぬ人もいる。ラルフのように不遇な人生を歩んだ者もいる。そんな民を、王たちは見ているのか。少しでも考えてくれたことがあるのだろうか。


◆◇◆◇◆


 リーゼは15歳になり学園に通い始めた。それと同時に王宮でも妃になるための教育があるといい、それに加えて婚約者の仕事の手伝いもしているらしい。朝早くに公爵邸を出て、暗くなってから帰宅する日々が続いた。毎日疲れているように見えた。

 この頃にはリーゼはほとんど笑わなくなっていた。笑うとすれば貼り付けたように貴族らしく微笑むだけだ。それが切なく、つらかった。

 リーゼが16歳になったある日、学生のパーティーから帰った彼女の頬が真っ赤に腫れていた。第一王子が婚約者のリーゼをエスコートすることもなく別の女子生徒とたわむれていたので、リーゼがやんわりと抗議したところ、暴言と共に頬を叩かれたらしい。

「もう我慢ならん。陛下に婚約を解消してもらう」

「ですがお父様、それではこの国が……」

 宰相はこの国を安定させるために尽力している。たとえ無能な王であったとしても、それを変えるには多くの血が流れる。だからなるべく穏便に王を動かして、民の暮らしがよくなるようにと動いてくださっていた。

 リーゼもそれを理解していた。だから暴言を吐いてくる王子でも、その婚約者として国を支えているのだ。むしろ無能な王子を抑えつつ王子に代わって国を治めるという任務がリーゼにはのしかかっており、そのためにずっと過酷とも言える教育に耐えてきたのだ。

 俺も理解はしていた。この公爵邸にいれば王族がどういう状態で、宰相がどれだけ苦心しているか、リーゼがどれだけ努力しているか、我慢しているか、手に取るように分かった。何もできないことが悔しかった。

 結局、宰相は王に抗議したものの、婚約は継続となった。いくつかの妥協案と共に、王子にはきつく言い聞かせると王は言っていたらしい。宰相はリーゼにすまないと謝り、リーゼも仕方のないことだと諦めていたけれど、俺は悔しくて仕方がなかった。

 翌日、王宮から戻ったリーゼは悲しそうな顔をしていた。

「陛下は殿下にお話ししてくださったそうなのだけど、殿下は全く反省する様子がなくって。全てわたくしが殿下の気を引こうとして画策したのだろうと、本当に嫌な奴だと言われてしまったのよ」

「リーゼ様は何も悪くないじゃないですか」

「わたくしはこんな容姿だし、好まれないのは分かっているけれど、この国のために殿下を支えようと努力しているつもりなのよ。どうしたらいいのかしら? もう分からないわ」

 滅多に弱音を吐かない彼女の悲痛な思いが伝わってきて、俺は許せなくなった。こんなに毎日ボロボロになって働いているのに、王子は何をしているんだ。リーゼは王子の婚約者の座など、一切望んでないというのに。

 リーゼを犠牲にして、暴言を吐いて暴力を振るって。それが王子のすることなのか?

 王子どころか、庶民だって婚約者にそんなことしない。

 ただの下衆野郎じゃないか!


 俺はリーゼの送迎を口実に学園に張り込み、ついに数日後、王子と接触することに成功した。さっさと通り過ぎようとする王子に俺は声を張り上げた。不敬は承知だ。覚悟もしている。

「リーゼ様は殿下のために精一杯努力されています。それに対して殿下は一体何をしておいでなのですか。どうか殿下、リーゼ様を……」

「黙れ」

「リーゼ様に手を上げることはおやめください。どうか」

「黙れと言ったのが聞こえなかったのか? おい、コイツを大人しくさせろ」

「はっ」

 言いたいことも言えないうちに、王子の護衛から暴行を受けた。

 薄れゆく意識の中で、気が付いた。

 あぁ、この王子は、俺だ。