それからその態度だ。風が吹けば飛ぶくらいに弱そうな身体をしながら、俺に向かって幾度も苦言を呈してくる。俺がいくら頑張ったところで褒めること一つしないばかりか、俺の前ではいつも困ったような表情を浮かべ、ニコリともしない。

 全く可愛げがない。

 いつもにこやかに俺の周りに集まる花たちとは比べ物にもならない。彼女たちは俺がいかにすごいか理解しているし、俺に見せるためにいつも自分を美しく着飾っている。そんな美しくあろうとする努力もせずに、俺の隣にいられるとでも思ったのか? 馬鹿が。

「お前は俺に相応ふさわしくない。その理由が必要か? そんなことはお前が一番よく分かっているだろう?」

 さすがにここでお前の欠点をさらけ出すことはしないでやる。それくらいの配慮はできる。俺は優しい男だからな。

 ここで泣いてすがってきたり役に立てずに申し訳ないと謝りでもすれば少しは可愛げがあるというものだが、リーゼはただ静かに「承りました」と述べただけだった。

 本っ当に可愛くない。苛立ちが募る。

 承りました、だと? こいつは自分の状況を理解しているのだろうか。俺がどれだけ慈悲の心を持って糾弾きゅうだんしないでやっていると思っているのだ。

 まぁだが、王子である俺から婚約を破棄された女など、もうどこにも嫁げまい。いい気味だ。それならばどうせ未来のないこいつのことなど気にせず、この場で俺の優しさを周りに示しておく方がいいだろう。

 そう考えなおして、俺は目の前の女を睨むのをやめた。

「俺に対する不敬の数々は見逃してやる。その代わり、もう俺に姿を見せるな」

 きっぱりと言い切ると、初めて女はわずかに動揺して俺を見上げてきた。

「お仕事の引き継ぎが必要ではありませんか?」

「お前がやっていたのは俺の手伝いだろう? そもそも俺がしていた仕事なのに、どうして引き継ぎを受けなきゃいけないんだ。そうやって俺の気を引こうとするなど見苦しい。さっさと去れ」

 女が一瞬ぐっと詰まるような表情をしたことに、少しだけ溜飲りゅういんを下げる。そして女は何事もなかったかのように礼をすると、くるりときびすを返した。その姿がいたく反抗的に見え、再び腹が立った。婚約を破棄した理由とやらをつらつらと述べてやればよかったと少し後悔する。

 だが、さすがにこれだけの人が見る前で婚約を破棄したのだから、父である国王も何も言えないだろう。宰相の娘であるリーゼとの婚約を決めた父は、何度願っても婚約を解消することを許してくれなかったのだ。

 これで自由の身だ。

 そう思えば、少しは気分も上がるというもの。せいせいした気持ちで、もう見ることはないだろう女が出ていくのを眺めた。


◆◇◆◇◆


 宰相の娘であるリーゼと正式に婚約したのは慣例により10歳の時だ。だけど、俺たちの婚約は生まれたと同時に決まったようなものだった。

 俺は国王と王妃の第一子、嫡男ちゃくなんとして生まれた。生まれながらにして、いずれこの国の頂点に立つことが約束された立場だ。

 リーゼは王の次に権力を持つ宰相の娘であり、筆頭公爵家の令嬢として、俺とほぼ同時期に生まれた。

 国を安定させるため、政治的要因で、俺たちの婚約はすぐに決められたらしい。要するに、俺が物心ついた頃には既に未来の伴侶だと定められていたのだ。

 俺はリーゼが気に入らなかった。

 俺は王子で、未来の国王だ。国王はこの国で一番偉い。だから今一番偉いのは父で、いずれ一番偉くなる俺は今は二番目に偉い。

 子供も大人も俺の言うことはなんでも聞いた。当然だ。俺は王子で、偉いのだから。それなのにリーゼは俺の言うことを聞かないし、それどころか文句を言ってくる奴だった。

 5歳のある日。

「外に行くぞ。リーゼもついてこい」

「駄目ですよ、殿下。文字の練習が終わってからです」

「僕が行くって言ったんだから、行くの」

「わたくしは終わってからにします」

「終わってからじゃない、今。なんで僕の言うことが聞けないの?」

 こういう言い合いになると、なぜか侍女たちもリーゼの味方をするようになる。

「では少しだけ、ここだけやったらお2人で外に出てはいかがですか?」

「そうしましょう、それがいいですよ、殿下!」

 面白くない。俺の方が偉いのに、なんでリーゼの言うことを聞かなきゃいけないんだ。

 6歳のある日。

 俺はリーゼとそれぞれ絵を描いていた。

「そっちの色を貸せ」

「今使っているので少し待ってくださいませ」

「僕も今使うんだ!」

「もうすぐ終わりますから」

 俺の言うことは絶対なのに、どうして俺の言うことが聞けないんだ?

 しかも貸せと言ったのであって、返さないとは言っていないのに。使わなくなったら返してやるんだから、俺は優しいだろう?

 俺はリーゼから筆を奪った。リーゼは怒らなかったが、心からあきれたという顔をした。

「殿下は少し待つということもできないのですか?」

 寄こさないリーゼが悪いのに、どうして俺が悪いみたいになるんだ。

 そんな感じで会う度に衝突していたが、誰もリーゼを叱らなかった。逆に俺は、少しはリーゼに歩み寄れと言われる始末。なんで俺が歩み寄らなきゃいけないんだ?

 俺の方が偉いのに。


 7歳になったばかりのある日、俺と母はリーゼとリーゼの母を招待して、王宮の一室で昼食をとっていた。俺は不満だらけだった。リーゼとの昼食だからと食事のマナーを叩き込まれ、それだけでなく、リーゼに優しくしろだのなんだのと言われたからだ。リーゼは俺に優しくなんかしないのに。俺の侍女たちはリーゼを気に入っている。俺の侍女なのに。

 さらに食事が始まってから、母までリーゼをめた。

「リーゼは食事の所作が綺麗ですね」

「ありがとうございます、王妃様」

 2人で微笑み合っている。俺だって気を付けながら食べていたのに、母は俺じゃなくてリーゼが綺麗だと言った!

 無性に目の前の野菜のスープが憎らしくなった。

「これは食べたくない。すぐに替えてきて」

 俺が緑の野菜を嫌いなのを知っているのに入れた料理人も、出してきた侍女にも腹が立った。

「殿下、こちらは殿下のお身体を思って作られたスープでございます。少しでいいのでお召し上がりになってください」

「嫌だ。替えてって言ったんだよ。僕の言うことが聞けないの?」

 困った顔をして動かない侍女にイライラしていると、リーゼが俺に見せつけるようにそのスープを口に運んだ。

「殿下、美味しいですよ。一口だけ食べてみたらいかがですか?」

「嫌だよ。いのを知っているもの」

「でも殿下にも食べてもらいたくて料理人が作ったのでしょう?」

 俺のために作られたものなんだから食べるのが礼儀だというリーゼに、俺は声を荒げた。

「いらないって言ってるだろ。口を出すな!」

 招待してやっているのはこちらなのに、なんで文句を言われなくちゃいけないんだ。全く意味が分からない。俺はリーゼを無視して侍女を睨みつけた。

「早く替えて」

「ですが……」

 これだけ言っても侍女は動かず、俺は母を見た。

「母上、この人、僕の言うことを聞かない。辞めさせてよ。命令には従わなければいけないのでしょう?」

「そうねぇ、でもクラウス、時には寛容な姿を見せることも王子として大事よ」

 母は俺に優しく微笑むと、侍女に向かって言った。

「王子が嫌だと言っているのだから、すぐに替えてきてちょうだい」

「……かしこまりました」

 侍女は母の言うことならば聞く。ちょっと悔しい。俺が王になったら、こいつも料理人も辞めさせてやるんだ。でも今は母の言う通り、寛容な姿を見せることにする。

「コーンスープにすれば、許してあげるよ」

 静かに侍女が下がったのを見て、俺は母に笑いかけた。

「母上、僕、ちゃんと許してあげたよ」

「そうね、クラウスは優しいわね。リーゼのことも許してあげなさい」

「どうして?」

「だって、クラウスは優しい子だもの」

「……分かった、許してやるよ」

 母は俺の頭をでてくれた。

 食事会は静かに終わった。許してやると俺が言ったのに、リーゼは何もしゃべらなかった。お礼すら言えないらしい。スープのあとは俺の好きなものだけが出てきたので、仕方なく食べてやった。最初からそうすればいいのに、どうして嫌いなものも出すのか分からない。

「ねぇ、母上。なんで僕はリーゼと仲よくしなきゃいけないの? リーゼは僕の言うことを聞かないし、あまり可愛くもないよ。他の子と遊びたい」

「そうねぇ、でももう少し大きくなれば変わるかもしれないわよ」

 母はそんなことを言って、俺が嫌だと言うのを聞いてはくれなかった。他のことならなんだって聞いてくれるのに、リーゼばかりは特別扱いなのだ。気に入らない。


 食事会から数カ月経った頃、俺は高熱を出して寝込んだ。その直前に母と宝物庫に行ったことまでは覚えているが、ガラクタを見ていたあとの記憶がない。母によれば、手鏡を見ていた時に気を失ったとのことだ。

 3日ほどで熱は下がったが、まだ身体がだるかった。ゆっくり休むようにとの母の指示で、俺はそれからさらに5日、言われた通りゆっくり休んだ。

「こんなもの食べられないよ」

「ですが、まだお体が本調子ではないからと特別に作らせたものなのです」

「普通のを食べられる。肉がいい」

 もう身体の調子はよいというのに、食事は柔らかいものばかり。嫌になる。それなのに勉強だけはしろと教師が本を持ってくる。休めって言うのだから、普通は勉強も休みだろう?

「まだ体がよくならないから、今日の勉強は終わりだ」

「殿下、もう少しだけ進めましょう?」

「うるさい、終わりといったら終わりだ」

 教師と言い合っていたら、母が入ってきていた。

「あらあら、なんの騒ぎかしら?」

「母上、まだ調子が悪いと言っているのに勉強しろと言うのです」

「あら、それは大変ね。勉強はしっかりよくなってからにしましょう。いいわね?」

「……かしこまりました」

 母はいつも俺の言うことを聞いてくれる。みんな母の言うことには逆らえない。優しくて強くて、すごい人なんだ。


 8歳になったある日。今日はリーゼとのお茶会だ。

「殿下、リーゼ様がお待ちです。参りましょう」

「待たせておけばいいだろう? なんで僕があいつに会わなければいけないんだ」

「そういう決まりです。いずれ婚約者になるのですから、仲よくするのがいいと思いますよ」

 侍女に促されて、仕方なくリーゼがいる部屋へ向かう。

 俺が望んだわけでもないのに、仲よくしておくようにと定期的に会う機会を作られているのだ。はっきり言って面倒だ。

 侍女が開けた扉を抜けると、リーゼは椅子から降りて俺にお辞儀をした。毎回あいさつを受けるのはうっとうしい。やらなくてもいいのに、そういう決まりだという。決まり決まり、決まりばっかりだ。嫌になる。仕方なく、いつもと同じような挨拶を聞いてから席に着く。

「お忙しかったのですか?」

 遠回しに遅いと言ってくる。本当に嫌だ。

「僕はいつも忙しい。勉強がたくさんあるんだ。教師が山ほど本を持ってくる」

 今日もそうだった。やりたいことがあったのに、お勉強が終わってからですと積み上げられたのだ。こんなに大量の本を読めというのか? それを無視していたら教師に「やらないと立派な王になれません」とか言われた。あの教師、俺が王になったら絶対に辞めさせてやる。

「殿下は大変ですね」

「お前はいいな。毎日遊んでるんだろ?」

「わたくしも勉強していますよ。王妃になるにはたくさん学ばなければいけないんですって」

 王妃である母は毎日優雅にお茶してお菓子を食べて、宝石を眺めているだけだ。王妃になるための勉強なんて、大変なはずがない。それを俺と同じくらい大変だと言うのはどうなんだ?

「今日はお菓子を持ってきたのです。一緒に食べませんか?」

 リーゼが侍女から受け取った包みを開けると、中には一口サイズのクッキーが入っていた。

「殿下がレーズンが好きだと聞いたので、取り寄せて入れてみました」

「お前が作ったのか?」

「料理人に教えてもらって、わたくしが作りました。お口に合うといいのですが」

 リーゼは一つ取って食べてみせる。毒見として出す側が先に口に入れるのが貴族のルールだ。

「形がガタガタじゃないか。そんなの食べれないよ」

「形は上手くいかなかったのですけれど、味は大丈夫ですから」

 ほら、と言うようにリーゼが俺の前に包みを出してきた。食べないと言ったのに。

 俺が動かないのを見た侍女が声をかけてきた。

「リーゼ様がせっかく作ってくださったのですから、一つお召し上がりになってみては?」

 レーズンはそのままで食べるのがいいのに、なんでクッキーに入れたんだ。しかもひどい形。

「僕に食べてほしいなら、もう少しまともなものが作れるようになってから言いなよ」

「殿下、そのような言い方は……」

 侍女が取りなそうとする。俺の侍女なのに、どうしてリーゼの味方をしようとするんだ。

「うるさい。いらないって言っただろ!」

 立ち上がった拍子に俺の手が包みに当たり、クッキーが床に散らばった。

「あ……」

 リーゼが悲しそうな顔をする。

 わざとじゃない。俺のせいじゃないぞ。仕方ないだろう。いらないと言ったのに食べろと言うからいけないのだ。

 俺はそのまま部屋を出た。


 10歳になり、俺とリーゼの婚約は正式なものになった。

 俺は嫌だと言ったけれど、聞き入れられることはなかった。

「殿下、これから婚約者として、よろしくお願いします」

「フン、俺の婚約者になれるなんて運のいい奴だな。ありがたく思えよ」

 婚約者になると、一緒にいる時間も増えた。椅子を並べて教師から教わったり、お茶会だ食事会だのと共に行動させられる。

 それから2年ほどすると、仕事も渡されるようになった。王族としての務めなのだそうだ。

「殿下、もう少しだけ進めましょう?」

「そう思うならお前がやれ」

「殿下の仕事ではありませんか」

「だからといって、別に今日やらなくてもいいだろう。あぁそうだ」

 俺はニヤリとリーゼに笑みを向けた。

「お前は俺の婚約者なのだから、俺を手伝うのは当然だよな」

「……えぇ、そうですね」

「じゃあ手伝ってくれ。俺は別の用事があるから、よろしくな」

 俺はリーゼに書類を渡すと部屋を出た。やれというのなら自分でやれ。俺に指図するな。


◆◇◆◇◆


 15歳になると貴族の子女は学園に入学する。

 学園には同年代の貴族の子女が大勢いた。今まで限られた子供しか俺と遊ぶことを許されていなかったので、俺はたくさんの人に囲まれることがなかった。ここでは皆が俺に寄ってきた。彼らはリーゼのように俺に文句を言ったりしなかった。

 母には学園で将来の側近候補を選ぶように言われていた。だから気の合いそうな者たちを側近候補にした。彼らは俺の言うことを理解し、俺が言う通りに動いた。

 俺に意見を言ってくる奴は遠ざけた。側近候補に命じて大人しくさせたり、事実上学園から追放したりした。俺に従えない奴は、この国にいらない。

 だが俺は優しいから、悔い改めるならば許してやらないこともない。自分が間違っていたと認め、俺の命令に従うならば側近候補に加えてやることもあった。

 女子生徒も誰が俺の隣に座るかで争った。

「殿下、今日はわたくしと昼食をとってくださるお約束ですよ?」

「まぁ、わたくしもご一緒してもいいでしょう?」

「わたくしも仲間に入れてくださいませ」

「駄目よ、わたくしとのお約束なのですから。ね、殿下?」

 俺を巡って争いが起きてしまった。これは困ったな。

「皆で昼食をとろう」

「えー? わたくしと、と言ったではありませんか」

「2人で、という約束はしていない。でも、今日の俺の隣は君だ。それでいいだろ?」

 フッと笑って立ち上がると、視界の角に一瞬だけリーゼが映った。少し気分が悪くなったが見なかったことにして、俺は専用で使っている部屋へ、彼女たちと共に向かった。


 ある日、学園の部屋で側近男女数人と過ごしていると、書類を抱えたリーゼが入ってきた。

「失礼します、殿下」

「なんの用だ? 俺たちは今勉強会中で忙しい。邪魔しないでくれるか?」

「勉強会には見えませんが……」

「教科書を開いていることだけが勉強じゃない。そうだよな?」

 側近に目配せすると、彼は苦笑しながらうなずいた。

 リーゼはそれを横目に見ると、俺の前に書類を置いた。

「殿下、こちらにサインをお願いします」

「は? ここは学園だぞ。分かっているのか?」

「分かっております。でも殿下は城の執務室にはいらっしゃらないではありませんか」

「だからといって持ち出していいものではないだろう。それも分からないのか?」

「こうしないと間に合わないので、持ち出し可能なものだけを持ってきたのです。残りは城にありますから、執務室にもいらしてください」

 間に合わないくらいのものがあるならば執務室に来るように言えばよかったのに、と思ってから、そういえば何度も言われて適当にあしらっていたことを思い出した。そのうち行くと言いかけた時、俺が今一番気に入っている女子生徒が「まぁ」と声を上げた。

「殿下はお仕事も忙しいのですものね。でも殿下ならこのくらい、すぐに終わるでしょう?」

「フッ、当然だろ」

 俺は書類を手元に寄せると、ざっと見てサインをした。

「殿下、内容もちゃんと確認してください」

「見ている。そもそも、しっかり確認しないとまずいような不完全なものを、お前は俺に見せているのか? ちゃんと確認するのはお前だろ」

 サインを繰り返してさっと終わらせると、リーゼに突き返す。

「これでいいだろ?」

「ありがとうございます。それから殿下、こちらなのですけれど」

「まだあるのか?」

 リーゼが別の書類を俺の前に置いた。それには俺が購入したものとその金額が記されていた。

「これらはなんのために購入されたのですか? 殿下がお使いになるものではありませんよね」

「あぁ、彼女たちにあげた」

 俺は目線の先にいる女子生徒を見て言った。今彼女がつけている髪飾りは俺がプレゼントしたものだ。それに気が付いた彼女は、それをアピールするように頭を傾け、リーゼに見せた。

「なぜ彼女に?」

「欲しいと言われたから。それに、彼女は俺のために仕事してくれたからな。ほうだ。何か問題でもあるのか?」

「殿下に割り振られたものとはいえ、国のお金ですよね?」

「それのどこが問題なんだ? 父上も女性に贈っているし、母上は自分で買っているだろ。それに、国の金は王家の金。お前が口出しすることじゃない」

 装飾品を数点購入したからといって、なんなのだ。父の多数のめかけたちだって、母だって、いつも着飾って多数の装飾品を身に着けている。それに比べたらささやかなものではないか。

「あぁ、そうか。しっしてるんだな? 分かったよ、欲しいならお前にも買ってやる」

「そういうことではございません。これらのお金は平民たちが稼いだものなのですよ。使い道はしっかり考えて……」

「平民のことなど、俺の知ったことではない。欲しいなら素直に言えばいいだろう? 髪飾りか、それともブローチがいいのか?」

 こうやって妨害されるくらいならば、一つ二つ贈っておく方が楽だ。婚約者だからって特別扱いされないと気が済まないとは、まったくもって面倒くさい。

 リーゼは欲しいものは言わず、あきらめたように俺がサインした書類をまとめて手に取った。

「執務室にも……」

「行けばいいんだろう? その時までにちゃんと終わらせておけよ。俺は忙しい。お前に合わせてばかりいられないんだ」

 リーゼは軽くお辞儀すると、部屋を出ていった。


◆◇◆◇◆


 学園では時折学生たちのパーティーが開かれる。婚約者がいる場合、パーティーにはエスコートして参加しなければならないというルールがある。俺はリーゼと共に参加などしたくないが、仕方がない。エスコートをしなかったら文句を言われたうえに、その時につい手を上げてしまい、父からも注意されてしまったのだ。

「今日もまたみすぼらしいな」

 貧相な身体に質素なドレス。筆頭公爵家の令嬢なのだから用意できないはずがないのに、リーゼは着飾るということをしない。宝石は小さなものだけだし、顔まで青白い。

「元の顔がブサイクなのはしょうがないにしても、化粧でなんとかするとかできないのか?」

「申し訳ございません」

「俺の婚約者でいさせてやってるんだから、それに相応しい振る舞いをしろよ」

 なんでこんな女を連れて歩かなきゃならないんだ。盛大にため息をついてから会場を進む。指定の場所までエスコートすればとりあえず役目は終了だ。

「殿下、あちらでわたくしたちとお話ししましょう? 皆が待っていますわ」

 リーゼからパッと腕を離すと、俺は振り返ることなく別の女の腰に手を回した。会場の奥に進むと、俺はいつものように人に囲まれた。

「ねぇ殿下、本当にあの方とこのまま結婚なさるの?」

「そう決められてる。父には君がいいって訴えてるけど、許可が出ないんだよ。ごめんね」

「いいえ、殿下のせいではありませんもの。わたくしは妾でも構いませんの」

貴女あなたばかりずるいわ。わたくしも殿下のお側にいさせてもらえますわよね?」

「そうしたいと思っているよ」

 俺はニコッと微笑んだ。父には妾が大勢いる。俺の側にいたいと言うのだから、断る方がよくないに違いない。

「それにしても、あの方は殿下に相応しくないと思いますわ」

「あら、殿下の婚約者様にそのような言い方は失礼でしてよ?」

「でも皆もそう思うでしょう? だって殿下は未来の国王陛下ですもの。もっと相応しい方がいらっしゃると思うの」

「確かに。国王となった未来の殿下の隣に並ぶのがあの方では、周辺国からどう思われるかしら。わたくし、不安ですわ」

 それもそうだな、と思えてきた。あの地味で貧相で青白い女が国王になった俺と並んでいたら、周辺国から見下されるだろう。国内の民や貴族だってその程度の王だとさげすむかもしれない。

「殿下はあの方がお好きなの?」

「そんなわけないだろ、冗談はよしてくれよ。この俺に文句ばかり言ってくるんだぞ」

 思い出すだけで腹が立ってきた。勉強しろ、仕事しろ、周りを見ろ、あとはもう何を言われたか忘れたが、いつだって会えば苦言ばかりのリーゼ。そういえば最近は静かになったが、代わりに俺を蔑むような目で見てくる。婚約者だから大事にしろ? アレは俺にニコリともしないのに、なぜ俺が気を使わなければならない。

「殿下が我慢する必要はないのではありませんか? ほら、最近は婚約を破棄する男性も増えているそうですもの」

 一人の女性が色っぽい目線を俺に送りながらそう言った。

「好きでもない方と一生を共にされるのはおつらいでしょう? わたくし、殿下が心配ですの」

「だが、父の許しが出ない。俺が婚約を破棄すると言ったところで、覆されるだろう」

「陛下がいらっしゃらない時に大人数の前で宣言すればよいのではありませんか? 多数の証人がいれば、陛下だってなかったことにはできないでしょう」

「大きい声では言えませんけれど、未来では陛下よりも殿下の方がお立場が上になるのです。きっと問題はありませんわ」

「なるほど?」

 聞けば聞くほど、それがいいと感じてきた。俺はリーゼと一生を共にしたくなどないし、むしろ顔を合わせたくない。アレが国王になった俺の隣に並んでいるのは俺の評判に関わる。俺の評判ということは、国の評判ということだ。阻止する必要があるに違いない。

「あの方は自分の立場を分かっていらっしゃらないのよ。どんな態度を取っても婚約者でいられると思っているのだわ」

 そうか、リーゼは小さい頃から決められた婚約者だったから、婚約者でいられるのを当たり前だと思っているのか。何をしても許されると思っているに違いない。ごうまんすぎないか?

 俺はその鼻をへし折ってやりたい気分になった。

 そして迎えた卒業パーティーで、俺はリーゼに婚約破棄を言い渡した。


◆◇◆◇◆


 リーゼに婚約破棄を告げた卒業パーティーから2日後。

 久しぶりに執務室を訪れた俺を待っていたのは、大量の書類だった。

「ようやくいらっしゃいましたか」

 机の上に積まれた書類を睨んでいると、呆れたような顔をした宰相が部屋に入ってきた。その手には書類があり、彼はそれを俺の前にドカッと置いた。

「なんの真似だ?」

「こちらは全て殿下の仕事でございます。本来であれば、不在の陛下に代わってここを守るのも、殿下の仕事でございます」

 父は地方視察に行っており、まだ戻らない。

「俺がお前の娘との婚約を破棄したからといって、嫌がらせをする気か」

めっそうもございません。こちらは全て、私の娘が殿下に代わって行っていた『殿下の手伝い』でございます。娘は引き継ぎを申し出ましたが、却下されたのは殿下ですよね」

 俺はこの宰相が嫌いだ。冷たいまなし、ニコリともしない強張った顔。俺に愚か者でも見るかのような目を向け、苦言ばかり。そんなところはリーゼとそっくりだ。さすが親子。

 やったところで褒めることもなければ俺に得もないというのに、正論をぶつけて仕事を押し付けてくる。本当にイラつく。

 とはいえ、リーゼが「引き継ぎが必要では」と言ったのは確かだ。あくまで俺の仕事の手伝いをしていたに過ぎないのに、引き継ぎなどあるわけがない。

 仕方なく書類に目を通すが、さっぱり意味が分からなかった。

「おい、これは俺の仕事じゃないだろう。理解できない」

「そんなはずはございません。確かに殿下のサインをいただいておりますから」

 宰相が指差した先には、確かに俺のサインがあった。

 まさか、これをリーゼはやっていたのか?

 そんなはずはない。アレがやっていたのは、俺の手伝いのはずだ。

 だが思い返してみれば、アレは困った顔をしながらサインを求めにしょっちゅう来ていた。「ちゃんと目を通してください」と何度も言われたが、あまり気にかけたことはなかった。

「おい、リーゼを呼べ」

「娘は公爵領へ向かわせました。ここには来られません」

「俺が呼べと言ったのに従えないのか? すぐに戻ってこさせろ」

「恐れながら、殿下。姿を見せるなとおっしゃったのは殿下でしょう? 万が一ばったりお会いしてしまうことを避けるために移動したのです。自分の言ったことには責任を持っていただきたい」

 宰相は冷たい視線で引く気はないことを示し、書類を追加して出ていった。宰相め。父が戻ってきたら、親子共々不敬罪にしてやる。

 書類を1枚手に取る。やはりさっぱり理解できない。しょうがない、できるものからやるしかないか。積まれた書類を目にしながら、俺はただうなることしかできなかった。

 やってもやっても仕事は終わらない。むしろ宰相が来る度に追加するので増えている。

「いいかげんにしろ。今何時だと思っているんだ」

 外は既に暗い。いつもならば夕食をとっているくらいの時間だ。

「殿下、少なくともこちらの書類は、明日の朝までに仕上げていただかねばなりません」

「俺に寝るなとでも?」

「リーゼはそれらの『手伝い』を毎日こなしておりました。帰宅はいつも深夜でしたが、もちろん知っていらっしゃいますよね」

「は? 冗談だろう」

「リーゼには常に護衛がついておりましたし、門や扉を通る時に出入り記録に記載もされます。冗談だと思うなら、どうぞご確認ください」

 確認しろと言いながらここから出す気がないくせに、まったく馬鹿げたことを。

 俺の護衛だと称して宰相の手の者が俺を常に見張っている。どうやったのか知らないが、俺の護衛や側近の姿は見えない。父がいないのをいいことにやりたい放題だ。

「もし冗談でないなら、リーゼの効率が悪かっただけだろう」

 事実、俺は夜遅くまで仕事をすることなどなかったのだから。

「それならば、効率よく仕上げてください。期限は明日の朝までです」

 言い捨てるように宰相が出ていき、代わりに侍女が夕食だと料理を運んできた。

 宰相は一体何を考えている? 昼食もここに出され、夕食までここで食べろと?

 俺は料理を並べる侍女を横目に見ながら部屋を出ようとしたが、護衛に止められた。

「殿下、どちらへ?」

「食事をしにいく」

「なりません。朝までに必要な書類が終わるまでは、執務室でお過ごしいただくようにと指示されております」

「どけ。俺の言うことが聞けないのか?」

「申し訳ございません」

 謝罪の言葉を口にしているくせに、護衛がどくことはなかった。そして俺は残念ながら、きたえている護衛3人を前に、力づくで突破することはできなかった。

「父上が戻られたら覚えていろ。お前たちの顔は忘れないからな」

 俺は机に戻り、書類と向かい合うしかなかった。


 それから3日。

 俺がほとんど寝ずに書類と向かい合っていた頃、ようやく父と母が視察から戻ってきた。

 よかった、これでここから出られる。

 明日の朝まで、と言われた書類が朝までに終わることがなく、次の日には別の仕事も届く。結局執務室からほとんど出られなかったのだ。

 父と母は俺に甘い。当然のことだ。父には多数の妾がいるが、王妃との子は俺だけ。嫡子である俺は、学園を卒業したら立太子されることが内定している。

 そんな父と母が戻れば、いまいましい宰相など一声で遠ざけてくれるに違いない。

 父と母に呼ばれてようやく執務室を出た。戻ってきたという挨拶と共に、きっと俺の立太子の日程の相談をするだろう。次の婚約者の話も出るかもしれない。何人か候補はいるのだ。その中で一番身分が高い者を正妃にして、残りを妾にすればいい。リーゼの時もそう考えて我慢してやっていたのに、それさえ許せなくなったのはあいつが悪い。

 そうだ、何もかもリーゼのせいだ。

 俺がこんなに仕事をやらなきゃいけないのも、婚約破棄をしなければならなかったのも、あいつに理解がないからだ。大人しく従っていればいいものを。ギリと奥歯を噛む。まずは宰相親子の不敬罪を願おう。そう決心して部屋の前で止まると、ゆっくり扉が開けられた。

 これから父に叱られるだろう宰相を鼻で笑って、父と母のいる部屋に入る。まずは宰相親子、それから話し合うのは立太子の件だろうか。俺は浮いた気持ちで父と母の前で礼をとった。

「お前はなんということをしてくれたんだ!」

 扉が閉まるなり、父のせいが飛んできた。父は顔を赤くして俺を睨んでいる。

「あれほどリーゼとの婚姻は絶対だと言っていたのに、なぜ勝手に破棄した」

「それは、リーゼが未来の王妃には相応しくないと……」

「何が未来の王妃に相応しくない、だ!」

 全く予想していなかった父の反応についていけない。

「リーゼが未来の王妃になるのは絶対だ。よって、彼女を妻としたものが未来の王になる」

 彼女を妻としたものが王? あの女がいなくたって、王になるのは俺だろう?

 だって俺はこの国の第一王子で、唯一の嫡子だ。俺でなければ誰がなるというのだ。

「この婚約がなくなった時点で、お前が次期王になる道は絶たれた」

「……は?」

「それどころか、この国が揺らぎかねない状況なのを理解しているのか!」

 父によると、この国の頂点にいるのは王であるが、実質この国を動かしているのは宰相とその一族らしい。彼らの力は大きく、それをまとめている宰相が王族についているからこそ、貴族が王族に従っている。王が代わっても問題はないが、宰相がいなくなれば国が終わるとまで言われるほどだという。彼はそれだけの影響力を持っている。そのため、彼の一人娘であるリーゼと俺の縁談が組まれた。俺が王としてつつがなくこの国を治めるために。

「宰相に見限られたら、王族は窮地に立たされる。宰相は婚約を解消したがっていた。どれだけ苦労してつなぎ止めていたと思っているんだ。何度もリーゼを大切にしろと言っただろう!」

 宰相は争いを好まない。代替わりに亀裂の少ない嫡子が次期王となり、リーゼが次期王妃として支えることが穏便に国を運営できる方法だと思っていたからこそ、リーゼが俺の婚約者であることを許していた、と父は言った。

「それじゃあ……」

 どうが激しくなる。息が上手く吸えなくて、言葉に詰まる。

「多くの者がお前の婚約破棄を見ている。もはや撤回はできぬ。しばらく離宮にちっきょせよ。少なくとも王族としてありたいのならば、そこで王族として仕事ができることを証明せよ。無理ならば王族としての地位をはくだつする」

「そん、な……」

 すがるように父の隣の母を見た。いつもだったら、俺が何を言っても聞き入れてくれる優しい母。でも今日ばかりは悲しそうに目を伏せているだけだ。

「連れていけ」

 父の無慈悲な声で、俺は兵に離れへ押し込められた。


◆◇◆◇◆


 離宮の部屋は俺の私室よりも狭く、居心地が悪い。

「殿下、お食事でございます」

「これだけか?」

 運んできた女は小さく「はい」と答えて食べ物を置くと、急いで出ていった。普段食事と言えばいくつかの料理が出され、そこから食べるものを選べばよかった。今は選択肢さえない。

 食事の質も落ち、外出も許されないというのに仕事だけは運ばれてくる。

 王子である俺をこのような状況に置きながら、仕事だけはしろと?

 ハッ、わけが分からない。

 このような仕事をするのは側近の役目だろう? 俺がやるべきなのは指示を出すことと、内容を確認してサインすることだけだ。父もそうしているのではなかったか。

 理解できない書類を前に、俺は父と母の様子を思い浮かべた。あの時は叱られたが、嫡子は俺だけなのだ。しばらくすれば父もここからまた呼び寄せ、今度こそ立太子に向けて動き出すだろう。どうしてもリーゼが必要だと言うならば、婚約を結び直してやってもいい。きっと今ごろ俺に婚約を破棄されて反省しているだろう。謝るならば許してやる。

 この時はまだ、そう思っていた。


 それからしばらく離宮で過ごしたある日、父がやってきた。

 ようやく俺を戻す準備が整ったのか。そう思った。

 外にも出られず常に監視が付き、分からない書類だけは毎日渡される。書類の他に難しそうな本を差し入れられたり、教師を名乗る人がやってきたりもした。当然「この環境で勉強などできると思うのか?」と追い返した。

 そんな日々からようやく解放される。

 父の側近の他に、母の側近だって動いたはずだ。それなのに、少し時間がかかりすぎじゃないか? そんな不満はあったが、まぁここを出られるのだから大目に見てやろうと思い直す。

「座りなさい」

 父はテーブルの片側を示し、向かいに座った。父の後ろには護衛が立ち、俺の後ろにも監視をしていた者と父が連れてきた男が数人立った。

 父はため息を一つこぼすと、俺を見た。

「残念だが、お前が反省する様子が感じられない」

 言われたことが分からなかった。ただ父が、肉付きのよさはそのままだが、憔悴しょうすいした顔をしていることに気が付いた。これはあまりよいことではないということだけは察せられた。

「宰相と話はした。なんとかお前を助けられないかと聞いた」

 宰相は俺が反省して仕事や勉学に励むようであれば役職を与えたらどうか、と言ったらしい。人手不足なので、仕事ができるのならば歓迎しますよ、と。それでここで俺がどう過ごしているかを見ていたそうだ。俺の言動は全て父と宰相に報告されていたという。

「お前はここで何をしていた?」

「書類なら……」

「ほとんど空白のままサインだけをしたものか? 宰相がそれでよしとするわけがないだろう。それに宰相が寄こした教師も追い返しているではないか」

 あれは俺を試していたのかと今気が付いた。それならば、まずいことをした。

「ちゃんと仕事と向き合い、反省するのならば機会を与えると宰相は言った。それをお前はことごとくつぶした。今度ばかりは彼は許してくれない。どうしてこのようなことをしたのだ」

「父上、なぜ宰相ごときに気を使うのですか。宰相を追放すればいいでしょう?」

「宰相を追放? そんなことをすれば私は王でいられなくなるよ」

 父は大きくため息をつくと立ち上がった。部屋を出ていきながら、最後に俺を見た。あわれむような、見限るような、そんな目だった。


 俺は離宮から出され、塔に幽閉された。そこまで来て初めて、これは本気なのだと悟った。

 父はなんと言っていたか思い出してみる。王族として仕事ができることを証明しろ、できなければ王族の地位を剥奪する、そう言っていた。

 俺は今までにないほど焦っていた。王子という地位はまだあるのだろうか。父は剥奪したとは言っていなかったし、ここを訪れる者は俺を「殿下」と呼んでいるから大丈夫なはずだ。

 このままここから出られない、なんてことは、まさかそんなことは。冷や汗が頬をつたう。

 俺はがむしゃらに仕事をした。しかし、書類は分からないことだらけだった。それでも必死にやったが、そのうちにだんだんと運ばれてくる書類の数も減った。

 ある時、書類を運んできた男に、仕事を増やしてやってもいいと話した。仕事ができることを証明しなければ地位を剥奪されてしまうのに、そもそも仕事が来なければ何もできない。

 男は鼻で笑うような仕草を見せた。

「殿下の書類は間違いだらけなのですよ。直すのに二度手間なので、これ以上は無理ですね」

 何を言っているんだと言わんばかりの、俺を馬鹿にするような態度が鼻についた。

「なんだと!」

 カッとなった。気が付いた時には男をなぐり飛ばしていた。


◆◇◆◇◆


 幽閉中に騒ぎを起こしたとして、俺は王族の身分を剥奪され、鉱山に送られることになった。この時になっても、俺はまだ自分の状況を理解できなかった。

 王都を出て荷馬車のような乗り物に揺られること数日。扉が開いて「降りろ」と命じられた。誰に向かって言っていると思っているのだ。不満でいっぱいだが、この硬い座席からようやく逃れられることにはホッとした。

 ここはどこなのだろう。見えるのは山、山、山。その合間に集落のように小屋が並んでいる。俺は目の前の小屋に入るように促された。俺が立ち尽くしていると、兵が後ろから押してくる。

「早く行け」

「触るな。俺を誰だと思っている」

「そんなの知らん。俺たちの仕事は罪人を送り届けることで、相手の素性は知らされていないからな」

「俺は王子だ!」

「へぇ、そうかい。それなら王子様、さっさと入って着替えてくだされ?」

 わざとらしくそう言うと、3人の兵はケタケタ笑った。信じられていないようだ。あとで覚えてろと思いながら小屋に入ると、服を剥ぎ取られた。代わりにボロい布を渡される。

「こっちに着替えるんだとよ」

 抵抗したら、それなら裸でいればいいと言われた。さすがにそういうわけにはいかない。俺が仕方なくその服のようなものを身に着けると、がたいのいい男が入ってきた。すすや土のようなものが至るところについていて汚らしい。男は俺をいちべつすると踵を返した。

「ついてこい」

 俺は命じる立場であって命じられることはない。ついてこいと言われて行く理由がないと思い留まろうとすると、兵に「ほら行け」と後ろから押された。前につんのめりそうになり、振り向いて睨むも兵はどこ吹く風だ。がたいのいい男と兵が3人。さすがに逆らっても勝てない。

 男のあとについて歩き、俺の後ろには3人の兵がついてきた。男はいくつかの粗末な小屋が連なったような建物の前で止まり、一つの戸を開けた。

「ここがお前の住まいだ」

「へぇ、部屋一つ与えられるなんて好待遇だな。本当に王子様だったりして」

 兵の一人が笑った。どこが好待遇なのだ。まるで家畜小屋じゃないか。ふざけやがって。

「入れ」

 あごでクイッと中を示された。男を睨みながら中に入ると、兵3人もついてきた。

「必要なものは置いてある。食事もな。これで大丈夫か?」

 兵の一人がぐるっと見回し、「大丈夫だ」と答えた。何が大丈夫なのだ。

「明日の朝迎えに来る」

「ちょっと待て! これが俺の部屋だと? ふざけるな!」

「ふざけてなどいない。不満ならば出ていくといい。お前に今できることは、ここで休むか出ていって獣に喰われるか、どちらかだけだ。好きにしろ」

 そう言い捨てると、男は出ていってしまった。

 外に出るともう薄暗く、見回す限り山ばかり。城はもちろん王都のような建物がないどころか、灯りすら見えない。どこからか獣が鳴いたような音が聞こえてゾッとした。

 俺はチッと舌打ちして小屋に入り、その場に座り込んだ。兵3人は今日はここで休んで明日戻るのだという。俺も連れて戻れと言ったが、聞き入れられることはなかった。

「王子様ぁ、食べないの? 俺たちだけで食べちゃいますよ?」

 兵が俺を笑っているのは気に食わないが、しばらく食事をとっていなかった俺はとてもお腹が空いていた。仕方なく口にした食事とは思えない飯は、やはり不味かった。

 移動で疲れていたのだろう。硬い台に薄い布を敷いただけの寝床にもかかわらず、俺はぐっすりと寝たらしい。気付けば朝になっていた。

「起きたか」

 昨日の男が食事を持ってきた。兵たちはそれを食べると、俺を置いて戻っていった。

「食べたなら行くぞ」

「どこへだ?」

「鉱山に決まっているだろう。お前は今日から鉱山で働く。ここでは働かなければ食事はない。分かったか?」

 こいつは何を言っているのだろう。食事は時間になれば出てくる。そういうものだ。

「行かないのか。それなら死ぬまでだな」

 男はため息をついて出ていった。まったくなんだというのだ。

 それからしばらく部屋の中で過ごし、昼になったと思ったが、昼食は出てこなかった。部屋から出てふらふらと歩いてみた。時折女や子供が見えたが、俺の姿を見ると慌てて小屋の中に入ってしまう。薄暗くなっても食事は出てこなかった。もしかして本気なのだろうか。食べさせないつもりか?

 今までこんなことはなかった。城では食事ができれば呼ばれたし、離宮でも塔でも、質は悪くとも時間になれば出てきた。それが当然だと思っていた。食事が出ない時はどうしたらいいかなど、考えたこともなかった。

 結局その日は食事が出されることはなく、口にできたのは部屋にあった僅かな水だけだった。

 翌朝、男が食事を持ってきた。

「おい、どういうことだ」

「どういうことだとはどういうことだ。言っただろう。働かない奴には食事はない。ここはそういうところだ。朝食は持ってきたが、働くならば分けてやる。そうでないなら勝手にしろ」

 きゅる、とお腹が鳴った。昨日の朝から何も食べていない。俺は食事とも言えないような飯を受け取って食べ、仕方なく男についていった。

 鉱山ではボロボロの服を着た汚らしい鉱夫たちが並んでいた。

「今日から一緒に働く新入りだ」

 男は親方と呼ばれていた。彼の一声で、仕事が始まった。暗い中でわずかな灯りを頼りにひたすら岩を砕いていく作業はつらく、すぐに手が痺れてきた。

 手にしていた工具を岩に叩きつける。

「ふざけんな、俺は王子だぞ。なぜこんなことをしなければならない!」

 そう叫んだ瞬間だった。みぞおちに痛みが走ったと思うと、俺は地面に転がっていた。一緒に岩を砕いていた男の一人が俺を殴ったのだとあとから気が付いた。

「あ? 王子だと?」

「何をする。俺に手を上げるなど、どうなるか分かっているのか!」

「分かってないのはてめぇの方だ」

 それから数人にられて、殴られた。


 目を開けると親方がいた。ずいぶんと粗末な小屋のようだ。馬小屋にでも入れられたのかと思ったが、机や寝台らしきものが一応あるので住居なのだろう。俺の部屋だと言われたところよりはマシなのかもしれない。

「起きたか。お前は馬鹿か? まぁ、馬鹿じゃなかったらここには来ないよなぁ、王子様?」

 ケタケタと笑う。なんだと、と起き上がろうとしたが、激痛が走って動けなかった。

「やめておけ。いろんなところが折れていたり、傷ついてる。動くと本当に死ぬぞ。まぁ俺はそれでも構わん。死にたいなら勝手にしろ」

 彼はそう言いながらもスープを飲ませてくれた。味が薄くて、美味しいとは言い難いものだ。それでも生ぬるいそれが身体にしみ込んだ。

「舌の肥えた王子様には美味しくないだろうなぁ」

「お前は俺が……」

「あぁ、お前が本物の王子だったってことを知っているのは、ここでは俺だけだ。言っておくが、お前が元王子だろうと俺は特別扱いする気はない。そもそもお前はもはや王子じゃない」

 王子じゃないと言われてまた起き上がりかけたが、やはり激痛が走って動けなかった。

 んぐっ、とうめく俺を、奴は面白そうに笑った。

「一つだけ教えてやる。死にたくないなら、もう王子だなんて言うんじゃねぇ。ここの連中が王族をどう思っているか知ってるか?」

 首を横に軽く振ると、首まで痛くて呻いた。

「教えてやろう。目の前に現れたら最も残酷な方法で苦しめて殺してやりたいクソ野郎だ」

「は?」

「ここの奴らは皆毎日汗だくになって働いている。それで得たお金の多くが税金として持っていかれる。いくら働いてもこっちの生活は全然よくならないっていうのに、お貴族様や王族様方はそのお金で優雅にパーティーだ」

 奴は忌々しさを前面に出して言い、ハッと鼻で笑った。

 最近は税率が上がり、ほとんどが困窮しているという。王族に対する恨みは増すばかり。

「そんな中でお前が『俺は王子だ』と言い始めたらどうなるかくらい分かるだろう? いや、既に体験しただろ。だから、王子だなんて言うのはやめておけ。無残な殺され方をしたくなければ、ここでは黙って働くことだ」

 体が治るまでの間、親方はかいほうしてくれた。ごはんは美味しくないし、量も足りない。最初はふざけんなと思っていたが、なにせ身体が動かない。

 殴ってやりたくてもこいつの方が強そうだ。護衛にやらせれば……もういないのか。俺が何を命じても、誰も動かないのか。こいつはただ笑うだけなのか。


◆◇◆◇◆


 体がよくなり、俺は鉱山に復帰することになった。

「一度だけチャンスをやる。それで生きられるかはお前次第だ」

 朝、先日のように鉱山の前に並ぶと、親方が皆に説明してくれた。

「こいつ、ここに来るまでに腹が減りすぎて、変なきのこを食べたらしいんだ。その影響が残っててたまに幻覚を見るらしくて、その中で自分は王子なんだと」

「なんだそりゃあ」

「そりゃお偉いさんに生まれたかったよなぁ?」

「無理なこった」

 ガハハと笑い声が起こる。

「だからまた、自分は王子だ、とか言い出すかもしれないが、許してやってくれ。こいつも複雑な身の上だ。仕事に慣れるまでは使い物にならないかもしれんが、面倒見てやってほしい」

 俺は殺されないために、言われた通りに黙って働くことにした。そうしたら、鉱夫たちは意外と親切にいろいろと教えてくれた。

「この前は殴っちまって悪かったな。王子だなんて言い出すから、そんな事情があるなんて知らなかったしよ」

「もう治ったか? しっかり治るまではできることだけでいいからな」

 そう言って、少しずつ仕事を教えてくれた。


 1日が過ぎ、3日が経った。

 最初は体力が持たず、立っているだけでもやっとだった。4日目には倒れた。

「軟弱な奴だな」

 鉱夫たちは笑った。だけど危害は加えてこなかった。

「そこにいられると邪魔だ」

 俺は砕いた岩と一緒に運び出され、鉱山の入口に寝かされた。布団などあるはずもなく、転がされたと言う方が正しい。頭がずきずきと痛む。少し休んだころに親方がやってきた。

「立てるか? 立てるなら帰るぞ」

 俺を運んでくれる人などいない。馬車は来ない。

 俺はよろよろと立ち上がると、親方に支えられて粗末な部屋に戻った。

「お前、明日皆に謝れよ」

「謝る?」

「皆に迷惑をかけたのは分かっているか?」

「でも倒れたのは俺のせいじゃない」

「お前のせいじゃなくても倒れたのはお前だ。それを皆が運んだ。お前は皆に、本来しなくていい、お前を運ぶという仕事を増やした」

 俺は混乱していた。今までだったら、もし俺が倒れるようなことがあればすぐさま運ばれたし、医者が呼ばれて診察された。俺が倒れるようなことをした周りが叱られた。それが当たり前だった。でもここでは今までの当たり前は当たり前じゃない。それに気が付き始めていた。

「俺たちは倒れたお前を放っておくことだってできた。そうなっていたら困ったのはお前だ」

 確かにそうだった。今もあの鉱山の中にいたかもしれない。それよりは粗末な部屋でもここの方がマシだ。

「皆はそうせずにお前を運んでやった。そういう時は感謝をするもんだ」

「感謝?」

「……お前、そういうのを学ぶことなく育ったんだな。マジか。ガキでも言えるぞ」

 親方は俺に憐れむような目を向けた。

「いいか、間違ったことをしたり周りに迷惑をかけた時は『すみません』、何かしてもらったら『ありがとう』、そう言うんだ。お前の今までなど知らん。ここではそうするものだ」

 その言葉を知らないわけではないけれど、俺が使うことはほとんどなかった。俺は言われる側なのであって、言うのは立場の低い者たちのはずなのだ。悪いのは俺を倒れるまで働かせた奴だろう? なんで俺が言わなきゃいけないんだ。

「お前が明日言うべき言葉は『昨日はすみませんでした』だ。それだけでいい。むしろそれ以外言うな。いいな?」

 親方はもう一度「昨日はすみませんでした、だぞ」と言って出ていった。

 翌日の朝、俺は重い身体を引きずって鉱山へ行った。親方と目が合った。「言え」という睨みを利かせてくる。言わないぞ。俺は悪くない。言わないぞ。クソッ!

「昨日は、すみません、でした……」

 俺が目をらしながら言うと、皆は一瞬静かになった。それからガハハと笑い声が響いた。

「いいってことよ。困った時はお互い様だ」

「今日は大丈夫か?」

「慣れるまでは身体がつらいだろ。倒れそうになる前に少しなら休んでいいから」

 体は重かったが、なんだか気持ちがほわほわした。今までにない感覚だった。


 10日が過ぎ、ひと月が経った。

 仕事はきつかったが、身体は最初の頃に比べれば少し慣れたような気がする。倒れることはなくなったし、少しだけ身体つきもよくなった。

 この村では山で働ける男は鉱山へ、女や鉱山へ行けない者が煮炊き洗濯などを担当している。食事は各家庭ごとではなく、皆でまとまってとる。これに俺はとても助けられた。食事は出てくるのが当然と思っていた俺である。もちろん料理などできるはずがない。そもそも食料の手に入れ方も知らない。このシステムがなかったら、とっくに餓死していたことだろう。

「はいよ」

 おばさんが皿に盛り付けてくれる。幸いなことに、質はともかく量はそこそこちゃんとあった。毎日満腹とはいかないが、空腹に苦しんだのは仕事をしなかったあの最初の日だけだ。

 親方によれば、親方より上の世代の時には食料がろくにない時代があったらしい。鉱山仕事は重労働だ。食べずに働けば当然皆倒れ、労働力が削がれたうえに暴動が起きる、という事態になったことがあったそうで、お偉いさんが飢えないようにだけは気を配っているのだという。

「あ、ありがとぅ……」

 器を受け取りながら小さくおばさんに言うと、おばさんは目を丸くした。

 その翌日、同じおばさんが「おまけだよ」とこっそり量を増やしてくれた。この日も「ありがとう」と言った。おばさんはニコッと笑った。歯が何本か欠けていた。貴族の女性ではありえない笑い方だけど、嫌な気分にはならなかった。


 1年が過ぎ、また1年経った。

 鉱夫たちの仕事はきつかった。それなのに、いくら頑張っても生活は全然楽にならなかった。食べられるだけマシだと周りは言うが、生きていくために必要なのは食料だけではない。昨年は体調を崩していた人が冬を越えられなかった。温かい服や布団があれば、彼女は助かったかもしれない。夏には小さな子がお腹を壊して死んだ。この村に医者はいない。医者にかかるには隣町までの相当な距離を歩かねばならず、費用もかかる。薬も買えない。

「またかよ? それじゃあまきだって買えないじゃねぇか」

 鉱夫仲間の一人が親方に向かって怒鳴った。

「落ち着け。親方に言ったってしょうがねぇだろ」

「分かってるけどよ、もう、どうしろってんだ! 取れるだけ以上にむしり取られて、その金でお偉いさんが俺たちに何かしてくれたことがあったか?」

 鉱夫が手に入れられる賃金は驚くほど低い。それさえも年々減らされているという。

 り切れた服に穴の空いた靴。娯楽などほとんどないこの村で皆の楽しみである安い酒さえも、ぜいたく品になりつつあった。

「俺らが働いた金は、お貴族様のドレスや宝石代になるんだぞ?」

「なんだかんだ言っても結局は、毎日のパーティー代が足りないから税を上げるんだろ? やってらんねぇよ」

 ここに暮らす人の多くは王都まで出たことはない。せいぜい近隣の町まで程度だ。だから実際王都がどのような文化なのか知らないだろう。それでも貴族や王族の悪い噂というのは流れてくるものだ。そして厄介なのは、それがわりと真実であること。

 王族ふざけんな、と思う気持ちもだんだんと分かるようになった。ここでは不満は最終的に王族に向かう。皆はあることもないことも王族のせいにしてを言い合う。悲しいのは、実際の状況を知っている俺からすると、むしろ現実の方がひどい場合が多々あることだ。

 毎日汗だくになって働くうちに、自分が王子だったなんて信じられないようぼうになった。たぶん今の俺を見て「俺は王子だ」と言ったところで、誰一人信じないだろう。白くて滑らかだった肌はごつごつとして煤と埃だらけになった。毎日あれだけ鉱石を削っていれば自然と筋肉がつき、体格はよくなった。いつか俺が「汚らしい」と思っていた姿そのものだったが、不思議とあの頃に戻りたいとは思わなかった。

 あぁ、俺は何も分かっていなかったんだな。

 誰からもかしずかれて、殿下と呼ばれてもてはやされて、いい服を着ていい物を食べて、それが当然だと思って生きてきた。自分が言ったことは全て通るものだった。

 その陰にこれだけの人たちが汗水垂らしていたなんて、想像したこともなかった。


 5年が過ぎ、10年が経った。

 その間に王が討ち取られたという知らせが入った。首謀者は宰相だった。村ではお祭り騒ぎになった。誰もがもろを挙げて喜んでいる。その気持ちが理解できるようになっていたから、非常に複雑な気持ちで同じように喜んでいるように装った。

 お祭り騒ぎは夜も続いた。俺は親方にかくまわれて、密かに泣いた。

 父も母も、もういない。


◆◇◆◇◆


 ある晩、俺は親方と2人でわずかなつまみを囲み、安い酒をちびちびと飲んでいた。

「お前がここに来てから何年だ?」

「何年でしょう。10年は経ったと思いますけど、もう分からなくなってしまいました」

 俺が苦笑すると、親方も笑った。

「俺はなぁ、お前がここまで生きてるとは正直思わなかったよ。ここに来た時のお前を見た時は、あぁこいつはすぐに死ぬな、そう思ったんだ」

「もう忘れてくださいよ」

 鉱夫たちを汚らしいと思ったり、俺は王子だと偉ぶったり。今となっては恥ずかしい思い出である。すぐさま消し去っていただきたい。

「お前の前にも貴族出身の奴が何人かここに来たんだ。いろんな奴がいたけど、皆死んだ」

 親方は遠い目をして酒を口に入れた。

 俺が来てからは誰も送られてきていないが、それ以前は何か罪を得た貴族の処刑以外の罰として、ここが選ばれることが度々あったという。

「ここの仕事についていけず体調を崩した奴もいたし、精神を病んだ奴もいた。貴族の矜持きょうじだとか言って自ら死を選んだ奴もいたな。貴族の矜持ってのは命を懸けるほどのもんなのか?」

「さぁ、どうでしょう。今の俺はそう思いませんけどね」

「そうだよな。あぁそういえば逃げ出した奴もいたな。そいつはどうなったのか知らないや」

 ここは山や森に囲まれている。備えもなく身一つで飛び出せばどうなるか、想像はつく。

「親方がいなかったら、確実に俺は死んでましたよ。だから感謝してます」

 ニッと笑って俺は親方のカップに酒を注いだ。

「どうだか。さっさとくたばった方が楽だったかも知れんぞ」

「そうかもしれませんけど、でも俺はあの頃の自分のまま死ななくてよかったと思いますよ」

「そうか?」

「そうです。でも親方、なんで親方は俺によくしてくれるんです?」

 放っておく方が楽だったはずだ。俺が死んだところで誰も困らないし、むしろ厄介払いできたと思う。でも親方は俺を見捨てなかった。仕事も生活も、それから人として当たり前のはずなのにできていなかったことも、みんな教えてくれた。

「んー、俺も俺の親方によくしてもらったんだ。だから、かな」

「親方の親方?」