「フィルって……真面目よね」
わたしは小さくつぶやいた。
王立学園が夏季休暇に入ったある日。
わたしとフィルたちは、久々に王宮を訪れていた。
夏季休暇の前半には、王太子のアルフォンソ様の招待で、港町バレンシアに行く予定がある。バレンシアは避暑地として有名で、王室の別荘があるのだ。
前回の人生とは違って、アルフォンソ様とは打ち解けているし、フィルも一緒だし……とても楽しみなのだけれど。
バレンシア行きの前にわたしは王宮に寄る必要があった。わたしは……公爵令嬢のクレア・ロス・リアレスは、王太子の婚約者で、儀礼的に王宮へと挨拶に行く必要があったのだ。
だから、王宮に数日ほど滞在している。王妃のアナスタシア様も歓迎してくれた。前回の人生では仲が悪かったけれど、親しくなってみれば、アナスタシア様はとても親切だった。
王都にはリアレス公爵家の屋敷もあるし、学園だってすぐそばなのだけれど、アルフォンソ様の好意で、王宮のなかにリアレス家一行用のスペースを確保してもらっている。アルフォンソ様は、「クレアは僕の婚約者なんだから、僕と同じ部屋でもいいんだ」なんて言っていたけれど、さすがにそれは問題がありそうなので断った。それに、フィルと一緒にいたいし。
……アルフォンソ様はとても残念そうにしていたけれど、仕方ない。
そんなわけで、わたしはときどき王宮のなかを散歩したりする時間を除けば、フィルの部屋に遊びに行き、入り浸っていた。赤い絨毯と、豪華なシャンデリアにさすが王宮という感じがする。
アルフォンソ様も頻繁に遊びにやって来る。けれど、今日は公務があるとかで来ていない。珍しくレオンも一人で王都に出かけてしまった。
そんななか、フィルは……勉強をしていた。休暇明けに試験があるからだけれど、真面目だ。
フィルに勉強を教えてほしいと言われて、わたしは喜んで勉強を教えている。人生二周目なので、勉強も楽々教えられるし、姉らしいことをできるのも嬉しいし、わたしにはまったく不満はないのだけれど……。
「そんなに頑張って勉強しなくても、フィルなら試験なんて楽勝でしょう?」
フィルは飛び級で学園に入学し、しかも成績もかなり優秀だった。そんなフィルが落第するなんて思えないけれど。
フィルは机の前に座ったまま、恥ずかしそうにわたしを見上げた。
「ら、楽勝ってわけじゃないよ。それにぼくは……リアレス公爵家の跡継ぎにしていただいているし。一番は無理でも、恥ずかしくない成績をとらないと」
フィルはリアレス公爵家の次期当主だ。洞窟での儀式に成功して以来、徐々にその地位は確かなものになっている。公爵家の家臣たちも、フィルの利発さを褒め称え、後継者としての将来を期待する人が多い。
だからこそ、養子のフィルにとってはその期待は重荷かもしれない。前回の人生のわたしが、王太子の婚約者にふさわしくなければと頑張ったのと同じように。
わたしは微笑んでぽんとフィルの肩を叩いた。
「大丈夫。フィルならそんなに頑張らなくても、きっと良い成績がとれるわ。それに試験で一番になれなくても、フィルはわたしの世界で一番に大事な弟だもの」
「……は、恥ずかしいこと、言わないでほしいな」
そう言って、フィルは頬を真赤にした後、慌てて黒い表紙の教科書で顔を隠した。照れた表情も可愛い! 抱き締めたくなるけれど、部屋にはシアやアリスがいるし……。
アリスがからかうようにフィルに言う。
「フィル様、とても嬉しそうですね!」
むうっ、とフィルはうつむき、上目遣いにわたしたちを見る。
「そんなこと……」
「ないですか? 本当に? クレアお嬢様に『世界で一番に大事な弟』と言われたのに、嬉しくないんですか?」
アリスがニコニコしながら言い、フィルは「嬉しいけれど……」とつぶやいて恥ずかしそうにうつむいた。
アリスがさらにフィルをからかおうとしそうだったので、わたしは苦笑しながら止める。
「そういうアリスこそ、勉強は大丈夫? 落第すれすれでしょう?」
「すれすれでも落第していませんから大丈夫ですよー」
「まあアリスは要領がいいから」
言いながら、アリスは机の上に置かれた別の教科書を手に取り、ぱらぱらとめくる。この二百年、戦争では大砲や銃が使われるようになったのと同時に、いろいろな技術が進歩したと歴史では習う。その一つが活版印刷だ。
赤い装丁に金文字の背表紙の豪華な教科書には、綺麗な色の絵画も載っている。アリスはそんな一ページで手を止めた。
わたしとフィルがその教科書を覗き込むと、そこに載せられた絵画には、三人の赤いマントを羽織った男性が剣を手にして、まっすぐに前へと突き出している様子が描かれていた。
「これ……トラキアの三兄弟の誓いだよね」
フィルがつぶやき、アリスもうなずく。有名な絵のようだけれど……わたしだけ知らない! わたしは人生二周目で、フィルやアリスより知識があると思っていたのに……。
まあ、そういうこともあるかと気を取り直す。フィルはわたしより博識なところもあるし。アリスがなんで知っているのかは謎だけれど。
古代学の教科書だし、古い時代の歴史に関する絵なのかもしれない。
「これって、どういう絵なの?」
わたしが聞くと、フィルはこくりとうなずき、話し始めた。
「トラキア共和国ができたばかりの頃にね、隣国の王族とトラブルになって、国を守るために決闘をする必要があったってエピソードがあって……それを描いた絵なんだって」
トラキア共和国といえば、大陸東方の大国だ。かつてはトラキア帝国として大陸の覇権国家だったし、共和国になってからも長い歴史を持つ。
「でも、この絵、決闘しているようには見えないけれど」
わたしが言うと、アリスがくすっと笑う。
「これは決闘が始まる前、国のために命を捧げるという誓いの場面なんです。決闘は三対三で、トラキアの有力貴族の三人の兄弟が、勝利を誓っているというわけですね」
「へえ……三兄弟……」
国のために命を捧げるなんて、まっぴらごめんだ。そういうのは前回の人生で、王妃を目指したことで破滅したせいで、こりごりだった。
けれど、わたし、シア、フィル、も姉、妹、弟で三兄弟だなあとも思う。そういう意味では、少し親近感がある。
ただ、絵には三人の兄弟以外に、一人の女性が描かれている。右端に倒れ伏していて、泣き崩れているように見えた。
「この女性は?」
とわたしが聞くと、フィルが顔を曇らせ、「それは……」と口ごもる。
そこでシアが割って入った。
「その人はですね、この三兄弟の姉なんですよ」
「し、シアも知っているの?」
「はい」
シアは平然とうなずき、真紅の瞳でわたしを見つめる。
わたしだけ知らないみたいで、ちょっとショックだ。そんなに有名なエピソードなんだろうか……。
「その女性が深く悲しんでいるのは、隣国の王族が決闘相手の婚約者だったからです」
「ああ、なるほど……」
トラキア共和国とその隣国は友好的な関係で、貴族の娘と王族が政略結婚の対象となったのだろう。そして、国同士の関係が悪化することもよくあること。
この女性は婚約者と敵同士として引き裂かれ、しかも兄弟と婚約者が決闘することになったということだ。いかにも悲劇の題材という感じだ。
「それで、この決闘の結末はどうなったの?」
「全員死にましたよ」
あっけらかんと、シアは言う。わたしはぽかんとし、フィルは気まずそうにする。
「三兄弟は、隣国の王族を決闘で殺しましたが、兄弟のうちの兄二人はその戦いの傷がもとで亡くなりました」
「あれ? それなら最後の一人の弟は、どうして死んだの?」
「決闘が終わった後、姉を殺して自殺しました」
「へ?」
どうしてそうなるんだろう……? それに、弟に殺される姉、というところにどきりとする。わたしも、前回の人生では弟に……つまり、フィルに殺された。
「その姉は、婚約者を助けるために、国を裏切ろうとしていたんです。そのことが発覚して、怒りのあまり、姉を殺してしまったというわけです」
「へえ……なるほど」
血なまぐさいエピソードだなあ……。歴史上の出来事なのに、シアはまるで自分のことのように憤慨した表情をしている。
「だからといって、普通、弟が姉を殺したりしますか?」
「まあ、この絵の弟さんが怒る気持ちはわからなくもないかもだけれど……」
「私だったら、きっと許していたのに。この弟は、姉への愛情よりも国への忠誠心を平然と優先できる冷たい人だったんですよ」
シアはつぶやき、なぜかフィルを睨む。フィルは怯えたように、わたしの陰に隠れた。……この二人、そろそろもう少し仲良くなってもいいのに。
まあまあ、とわたしはシアをなだめた。
「フィルがわたしを殺したわけじゃないんだし」
前回の人生では、フィルがわたしを殺したんだけれど、今回はそうはならない……はずだ。フィルに処刑されないように、わたしはフィルを溺愛している。当初の目的を忘れつつあるけれど、もともとはフィルに処刑されないためにフィルと仲良くなろうとしたのだった。
今のところ、フィルもわたしを慕ってくれている。
シアは「すみません」と言い、素直に頭を下げた。そんなわたしたちを見て、アリスが首をかしげた。
「そうですかねえ。あたしは、この三兄弟の弟が冷たかったとは思っていませんでした」
わたしもフィルもシアもびっくりして、アリスを見つめた。アリスは本棚にある本を一冊手にとり、手慣れた様子でめくる。
「前回、王宮に来たときにも読んだ本なんですけれど」
そう言って、アリスはわたしたちにその本の一ページを示した。
そこには、男性が一人、赤いマントを羽織っている。さっきの誓いの絵の一人とそっくりだ。
ただ、その男性の表情は深い悲しみに包まれていて……そして、その横には、姉と思われる人物が倒れている。胸に剣を刺された状態で。
「この絵は?」
わたしの問いに、アリスは微笑む。
「さっきの絵と同じ画家が描いた絵なんだそうです。この画家は同じ逸話の別々のシーンを、二枚の絵にしたんですね」
「へえ……なんで知っているの?」
「あたし、昔の絵画を見るのが結構好きなんです」
……知らなかった。アリスとはもう何年も一緒にいるけれど、知らないことも多いんだなあと思う。
わたしは絵をしげしげと見てつぶやく。
「この絵、とても悲しそうね」
「一枚目だけを見ると、三兄弟は忠誠心と闘争心に満ちていますし、それ以外の感情はないように見えますけれど……でも、二枚目を見ると、この弟は……姉の死を心から悼んでいます」
アリスの言葉を聞いて、わたしは考え込んだ。この絵が描かれたのは、実際のトラキアでの出来事があってから、かなり時代が経ってのことだ。ただ、そうであっても、三兄弟の弟が、怒りのあまり姉を殺したというだけではなく、姉への愛情があったのだろう、とアリスは言いたいようだった。そうであればこそ、こういう二枚目の絵が描かれたのだ、と。
わたしは前回の人生の最期を思い出す。フィルがわたしを殺したとき……フィルは涙をこぼしていた。「ごめんなさい、姉上」と言って、謝ってくれていた。あのときのわたしとフィルは疎遠だったけれど、それでも、フィルはわたしの死を悲しんでくれていたのだ。
トラキアの兄弟たちは、悲劇的な結末を迎えた。
でも、わたしたちは、違うはずだ。わたしの選択次第で、フィルともシアとも仲良くやっていける未来が絶対にあると思う。
アリスはそんなわたしたちに明るく言う。
「あたしは……クレアお嬢様やシア様、フィル様の三兄弟にはずっと仲良くしていてほしいですね」
言われたフィルとシアは顔を見合わせ、少し困ったような顔をする。お互い警戒しているのを、気まずく思っているみたいだった。
「メイドとしては、仲の良いクレアお嬢様たち三兄弟を見るのが楽しいんですから」
「三兄弟じゃないわ」
そうわたしはつぶやいた。みんなが不思議そうにわたしを見つめる。思わずつぶやいて「しまった」と思うけれど、これで黙っていたら、もっと怪訝に思われるだけだ。
「アリスはわたしの大事な姉代わりだもの。アリスも含めて四人でしょう?」
アリスは珍しくぽかんとした顔をして、それから顔を少し赤くした。
「きゅ、急に言われると恥ずかしいですね」
「フィルと同じようなことを言うのね」
わたしがくすっと笑って言うと、アリスは恥ずかしそうに目を伏せた。
フィルがからかうように口をはさむ。
「アリスさんも……嬉しそうだね」
フィルとシアは顔をふたたび見合わせ、珍しく、くすっと笑っていた。