Ⅱ 本物と偽物
宝石。
その美しさは、人の心を捉えて離さない。
いま、そんな宝石が、わたしとフィルの目の前にあった。
薄暗い宝物庫はレンガ造りで、さほど広くない。けれど、驚くほどのたくさんの宝石がガラスのケースに分けられて展示されていた。どのケースにも厳重に鍵がかけられている。
エメラルド、ルビー、サファイア、アレキサンドライト……。
「綺麗ね」
わたしは、そんな平凡な言葉を漏らし、感嘆のため息をつく。フィルも同感のようで、こくこくとうなずいていた。
ここにある宝石は、どれも一級品だ。
単に美しいだけじゃない。
綺麗なものを見れば、人はそれに惹かれる。ごく自然なことだ。
でも、宝石の価値はもう一つある。
それが希少なものであるということだ。単に美しい鉱物だったら、いくらでもあるけれど、その中で高い値段で取引されるのは、ルビー、サファイア、そしてダイヤモンドなどの珍しい鉱物のみだ。わたしとフィルの持っているペンダントの輝魔石も、それは同じだ。
この宝物庫は、ディアマンテ子爵家の屋敷の中にあった。そして、宝石商でもある子爵家が、その全力を挙げて集めた貴重な品々がここにあるのだ。
滅びた大公国の君主が使用していた王冠に埋め込まれたサファイア。名門貴族が資金のために手放した世界最大のエメラルド原石。
そういったものを見ることができるのも、わたしが公爵令嬢だったからだ。公爵家が懇意にしているディアマンテ子爵家に、わたしたちは招かれているのだ。
魔法学園は夏季休暇中で、時間はたっぷりあったし、わたしはその招待に飛びついた。
フィルをここに連れてくると喜んでくれるだろうとわたしは思っていた。フィルは古いものが大好きで、それは考古学の遺物にとどまらない。
宝石には、歴史がある。宝石商の扱う品の多くは還流品、つまりかつて人が使用していたものだからだ。
狙い通り、フィルは熱心に宝石に見入っていた。喜んでもらえて、姉としてのわたしも満足だ。
隅の方にある、あまり目立たない石に、わたしは目を留める。
それは真っ黒なスピネルだった。小さくて、可愛らしい石だ。
わたしはいつも、フィルの瞳を宝石みたいだと思っているけれど、この宝石はフィルの瞳にそっくりだ。
わたしがそう言うと、フィルは顔を赤くした。
「は、恥ずかしいこと言わないでよ……」
「ダメだった?」
「ダメじゃないけど……むしろ嬉しいけど……」
フィルはふるふると首を横に振り、照れ隠しをするように宝物庫の奥へと足をすすめる。
最後に、わたしたちは宝物庫の一番奥にたどり着く。
そこには、宝石の中の宝石がある。美しさという意味でも、貴重さという意味でも、そして、その宝石が持つ意義においても、史上最高の宝石だ。
それは、人の握りこぶしほどの大きさを誇る、巨大なブルーダイヤモンドだった。
それは「カロリスタの青い星」とも呼ばれる、この大陸で最も美しい宝石の一つだった。
青く透明な石は、ランプの光に照らされ、ガラスケースの中で、圧倒的な存在感で輝いている。
わたしは息を呑み、その宝石を見つめた。隣のフィルも、宝石の存在感に圧倒されているようだった。
いつのまにか、一人の若い女性がわたしたちのすぐそばに来ていて、声をかける。
「クレア様、フィル様。いかがでしょうか?」
「とても……美しいですね」
わたしが問いに答えると、相手の女性はにっこりと微笑んだ。
背の高い、二十代後半の女性だ。黒く長い髪をさっぱりと短くしている。
同じ黒色の瞳は、意志が強そうで、とても澄んでいた。
美しく、そして凛々しい雰囲気の人だった。
思わず、憧れてしまう。
グリセルダ・ラ・ディアマンテ、というのが彼女の名前だった。
ディアマンテ子爵家の女当主だ。
グリセルダさんは、ドレスではなく、機能的なジャケットとスラックス姿だった。
それは彼女が貴族の当主であるだけではなく、宝石商のディアマンテ商会の主人でもあるからだ。
もともとディアマンテ子爵家は、リアレス公爵家の庇護下にある貴族の家の一つだった。
だけど、子爵家は貧窮していて、領地もほとんど売り払っていたから、先代までは完全に没落貴族だった。
それを立て直したのが、グリセルダさんだ。
彼女は成人すると、わずかに残っていた子爵家の財産を売り払い、その資金を元手に宝石商を始めた。
カロリスタ王国では、裕福な貴族と没落貴族の二極化が進んでいる。貴族じゃない大金持ちの大商人も現れ始めた。
だからこそ、豊かな貴族や大商人は、宝石を買い求め、宝石市場が拡大しつつある。
グリセルダさんはそんな状況を見据えて、宝石商をはじめたわけで、そして事業を急拡大した。
いまや、ディアマンテ商会はかなりの規模になっている。
その扱う宝石は、ものすごく貴重なものも多く、王室や七大貴族の御用達だった。
わたしは宝石を眺めながら、感嘆のため息をつく。
自分の力で……ここまで成功できるなんて、すごい。
所詮、わたしは前回の人生では、公爵令嬢にして王太子の婚約者という身分があるだけだった。
もちろん、その高い身分にふさわしい存在になるように努力はしていた。けれど、結局の所、父が大貴族だから、わたしは高貴な身分だったにすぎない。
グリセルダさんは違う。自分の力で道を切り開いたわけだ。
憧れてしまう。
わたしがそう言うと、グリセルダさんは面映そうに、ぽりぽりと黒い髪をかいた。
「いえ、その、私もそれほど立派な人間というわけではございません。運と周囲に恵まれただけです。それに、ご存知とは思いますが、もともとは父の影響ではじめた仕事ですから」
グリセルダさんの穏やかな言葉に、フィルが口をはさむ。
「……カミロさん、ですよね」
「おや、ご存知なのですね」
グリセルダさんは、優しくフィルを見つめた。人見知りのフィルはこくこくとうなずいた。
「そ、その、有名ですから。『カロリスタの青い星』を探しだした英雄ですよね」
「たしかに、私の父は世間ではそんなふうに呼ばれていましたね。でも、あの人は英雄なんかじゃなくて、ただの宝石好きのロマンチストなのかもしれません」
遠い目をして、グリセルダさんはため息をついた。
グリセルダさんの父カミロさんは、先代のディアマンテ子爵だ。けれど、貴族としてよりも、ある種の冒険者としての方が有名だった。
ただでさえ、ディアマンテ子爵家は困窮していたのに、その財産を使い、大陸中を放浪していたのだという。
もともと貴族とか領主とか、そういう堅苦しいことが苦手な人だったのかもしれない。
やがて、彼はある宝石の噂を耳にした。
百年前、カロリスタ東部の鉱山で、稀に見るような大型のダイヤモンドの原石が見つかった。
しかも、めったに産出されない青色のダイヤモンドだ。
当時の大貴族の一人バトゥレ公爵はその原石を手に入れると、宝石細工の名人の手でカットさせた。
そして、生まれたのが、「カロリスタの青い星」と呼ばれるダイヤモンドだった。
しかし、そのダイヤモンドは、カロリスタから失われた。
バトゥレ公爵は病没し、その後継者たちも流行り病にかかって亡くなった。
混乱の中、断絶した公爵家の財産は国庫に収められるはずだったが、気づけば「青い星」はなくなっていた。盗まれたのだ。
その宝石が、隣国のアレマニア専制公国の悪徳貴族の手の中にあるという噂を、カミロさんは聞きつけた。
その悪徳貴族は、違法な盗品の「青い星」を所持していたわけだ。
カミロさんは冒険的なことが好きだったようで、「青い星」をカロリスタに取り返す決意をしたらしい。
彼はアレマニアに滞在し、そして機会を窺った。
しばらくして、その悪徳貴族が国庫に属する財産を不正に流用していた証拠をつかんで告発。
アレマニアの君主である専制公から恩賞を与えられることになり、カミロさんは「青い星」をめでたく手に入れたのだ。
カミロさん自身は、それから間もなく病死したけれど、今でもその偉業は語り継がれている。そして、その娘のグリセルダさんは、父親に影響を受けて、宝石商となったわけだ。
グリセルダさんは穏やかな表情で経緯を改めて語ってくれた。
「まあ、できすぎた話のような気もしますけれど、ともかく、至高の宝石『カロリスタの青い星』を取り返すことはできました。本来であれば、王室にお返しすべきところですが、恐れ多くも陛下は、我が子爵家に下賜いただきましたし」
「もし売れば、凄まじいお金になるのでしょうね」
わたしが言うと、グリセルダさんはくすりと笑った。
そして、優しくわたしを見つめる。
「この宝石を買える人間がいれば、ですけれどね。かつてバトゥレ公爵は、たとえ大陸を統一した帝国一つを対価としても、この宝石を手放すつもりはないと豪語していたそうです。それは私も同じですよ」
わたしはあ然としてグリセルダさんを見つめたが、グリセルダさんは本気のようだった。
大げさに言っているのかもしれないけれど、それでも、お金には替えられない価値があることはよくわかった。
もともと、この宝石はめったに客人にも見せないらしい。リアレス公爵の子弟だから、特別に見せてもらえているのだ。
「それに宝石商は、一番良い宝石は売らないものなのです」
なぜ? とわたしは口にしかけたけれど、その前にフィルがおずおずと言う。
「同じ種類の宝石で、一番良い石は基準として持っておくんですよね」
グリセルダさんはうなずくと、嬉しそうな顔でフィルの髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「本当にフィル様は聡明ですね。どうして私たちの仕事のことをおわかりになるんですか?」
「えっと、本で知っただけです。新しく宝石を買うときに参考にして、もし新しく仕入れた石の方が良いものなら、そちらの方を残しておくんだって読みました」
なるほど。
そういう理由なんだ。だから、この宝物庫には最高級品の宝石ばかりが集まっているわけだ。
それにしても、フィルはもともと博識だったけれど、この一年でますます磨きをかけたような気がする。
わたしの視線に気づいたのか、フィルは照れくさそうに微笑んだ。
そして、小声でわたしにささやく。
「お屋敷でたくさん本を読んだから。だって……お姉ちゃんがいなくて退屈だったから」
そう言って、フィルは頬を赤くして、わたしを上目遣いに見た。か、可愛い……!
抱き締めたくなるけれど、グリセルダさんの前だ。ぐっと我慢しよう。
そんなわたしたちを、グリセルダさんは……相変わらず、優しげな表情で見ていたが、その瞳にはなにか別の感情も宿っているようだった。
「羨ましいですね、仲の良い家族がいるというのは」
しみじみと、グリセルダさんはつぶやき、そして、わたしたちのお揃いの輝魔石のペンダントを見つめた。羨ましい、ということは、逆に言えば、グリセルダさんは家族との仲がよくないのかもしれない。
わたしが尋ねると、グリセルダさんは微笑して「すみません」と言った。
「父はああいう人でしたから、ほとんど家には帰ってきませんでしたし。私は母や兄には嫌われていますから」
こんな素敵で良い人を、どうしてグリセルダさんの母親や兄は嫌うのだろう? わたしにはわからなかった。
グリセルダさんは頭を下げた。
「すみません。愚痴みたいになってしまって。私の話などより、目の前の宝石の数々を愛でてください。それこそが私の喜びなのですから」
「はい。……その、グリセルダさん自身は、お父様のことを……」
「尊敬していますよ。家族だと思えたことはありませんが、この国に至高の宝石を取り戻してくれたことは確かです。だから、私も人々により素晴らしい宝石を届けたいと思い、宝石商となったのですよ」
グリセルダさんは遠い目をしながらも、はっきりとそう言い切った。
☆
その後、晩餐の席に私たちは招かれた。今日はこのお屋敷に泊まり、明日にはバレンシアの別荘に戻るつもりだった。
晩餐といっても堅苦しい雰囲気ではないのは、グリセルダさんの合理主義的な性格を反映しているのかもしれない。大鍋の煮込み料理や
ただ、グリセルダさんが、母親のアドラさんや兄のセサルさんと仲が悪いというのは、本当のことらしい。
貴族でも、夕食は家族みなで一緒にとるのが習いだというのに、二人とも姿を現さない。
代わりに席についていたのは、グリセルダさん以外にはたった一人だ。マリアさんという金髪碧眼の小柄な美人だった。
グリセルダさんの幼なじみであるという。もともと孤児だったところを子爵家に拾われて、グリセルダさんと一緒に育ったそうだ。グリセルダさんの信頼を得て、その片腕となり、今では商会のナンバーツーになっている。家族同然の扱いを受けているから、夕食の席にもいるわけだ。
そのマリアさんは、とても朗らかで、おしゃべりだった。
わたしとフィルのことを根掘り葉掘り聞かれたけれど、話し方が明るいからか、嫌な気は全然しない。とても楽しい雰囲気で話ができた。
「へえ、そうすると、クレア様とフィル様はご姉弟になったのは、この一年ほどのことなんですね」
「はい。短いかもしれませんけれど、今ではフィルはすっかりわたしの弟です」
「そうでしょうね。とっても仲が良さそうですから。お二人は本物のご姉弟なのですね」
そう言って、マリアさんが微笑むと、フィルが顔を赤くした。これは仲が良さそうと言われて照れているのか、それとも美人のマリアさんに微笑まれて照れているのか、どっちだろう?
前者なら嬉しいけれど、後者ならちょっとやきもちを焼いてしまう。
と思っていたら、フィルは顔を赤くしたまま、わたしを上目遣いに見つめる。
「ぼくは……お姉ちゃんの本物の弟なのかな?」
「決まっているでしょう? 血はつながっていないけれど、フィルはわたしの大事な弟だもの」
わたしはくすっと笑った。あまりにも、当たり前のことだったから。フィルは嬉しそうにうなずいた。
マリアさんは、そんなわたしたちを見てうっとりとした表情をする。
「いいですねえ、弟。あたしもフィル様みたいな可愛い弟、ほしかったなあ。そうしたら溺愛していたのに……!」
……なんとなく、このマリアさん、既視感があるなあと思っていたけれど、気づいた。うちのメイドのアリスにそっくりの雰囲気だ!
グリセルダさんが肩をすくめながら、口をはさむ。
「マリア……あなたの溺愛の方法って、なんとなく不健全そうで気になるわ」
「あら、そんなことないですよ。品行方正な使用人の言うことを、信じてくださいません?」
「まあ、それ以前に、あなたにも私にも弟はいなかったから、考えても無駄だけれどね」
「そうですね。妹同然の存在ならいましたけれど」
「……そ、それって私のこと? 私が姉代わりで、あなたが妹分でしょう?」
「でも、生まれたのはあたしの方が早いです」
「同い年じゃない!」
じゃれ合うように二人は言い合って、そして、二人同時にはっとした顔をして、慌ててわたしたちの方を向いた。
その仕草はそっくりで、たしかに姉妹みたいだった。
「すみません。見苦しいところをお見せしました」
そう言うグリセルダさんに、わたしは首を横に振る。
「二人もとても仲良しなんですね。本物の姉妹みたいです」
わたしの言葉に、グリセルダさんとマリアさんは顔を見合わせて、そして、赤面していた。
マリアさんは恥ずかしそうに、わたしを上目遣いに見た。
「たしかに、孤児のあたしにとって、グリセルダ様はたった一人の家族のような存在でした」
「でも、もうすぐ、私だけではなくなるでしょう?」
「はい。おかげさまで」
どうやら、マリアさんは近々結婚するのだという。
グリセルダさんは笑って説明してくれた。相手は子爵領の隣の下級貴族だといい、とても好人物だそうだ。政略結婚とかではなく、相手の貴族がマリアさんにとても熱を上げていたらしい。
グリセルダさんは、まるで自分のことかのように嬉しそうに語り、マリアさんは頬を赤らめていた。
グリセルダさんとマリアさんが互いのことを大事に思っているのが、とてもよく伝わってくる。
……わたしとアリスが、このまま二人とも無事に大人になれば、こういう素敵な関係になれるんだろうか?
今回の人生で、アリスは死なずに済んだ。あとは、わたしが破滅を回避するだけだ。
わたしは心の中で、そう言い聞かせた。
それより、今は目の前のグリセルダさんたちとの夕食を楽しもう。
わたしはふと、気になっていたことを尋ねてみた。
「あんなに貴重な宝石がたくさんあったら……その……盗まれたりする心配はないんですか?」
グリセルダさんは、よくぞ聞いてくれた、とばかりに胸を張る。
「私どもの商会は、王室も御用達ですので、警備は万全です。この屋敷の外は、
そんな大掛かりな警備をしているんだ……。それだけの価値が、この屋敷には眠っている。
グリセルダさんは、もはやただの子爵ではなく、王国の重要人物の一人なのだ。
マリアさんも微笑んで付け足す。
「宝物庫は、正面の扉以外からは入れないように、鉄の壁で覆われています。扉の鍵を持っているのは、グリセルダ様とあたしのみです。たとえ屋敷内部にいても、どうやっても、宝石を盗むことはできませんよ」
マリアさんは、宝物庫の鍵まで預かっているんだ。管理のためだとは思うけれど、それにしても絶大な信頼を得ているんだなあ、と思う。
夕食の席はその後も和やかで、グリセルダさんもマリアさんもとても良い人たちだった。人見知りのフィルもいつのまにか、リラックスしていたし。
あとは、明日、別荘に戻るだけ。
そう思っていたら、事件が次の日に起こった。
☆
次の日の朝、子爵家の屋敷が騒然としていた。わたしは客室で目覚めて不思議に思い、部屋の外にちらりと顔を出す。たまたま使用人の男性が通りがかったので、騒ぎの理由を尋ねてみた。すると、彼は曖昧な笑顔で誤魔化した。
次に別の使用人がやってきて、当主のグリセルダさんが、わたしを呼んでいると告げた。宝物庫に来てほしいという。朝食前に何の用事だろう?
わたしは慌てて普段のドレスに着替えると、宝物庫へと向かった。宝物庫の扉の前で、グリセルダさんが難しい表情で立っていた。その横にはマリアさんが顔を青ざめさせている。
とてとてと、わたしの後ろからフィルもやってくる。
フィルはわたしにささやいた。
「いったいどうしたの、お姉ちゃん?」
「さあ……」
その説明は、グリセルダさんたちに求めないといけない。そのグリセルダさんはわたしたちを見て、弱々しく微笑んだ。
「申し訳ありません。お呼び立てをしてしまい……」
「いえ。なにかあったのですか?」
一瞬、グリセルダさんはためらった様子で、けれど、しばらくして重い口を開けた。
「宝石が盗まれたのです」
「え?」
「しかも、盗まれたのは、ブルーダイヤモンド『カロリスタの青い星』なんですよ」
わたしは呆然とした。昨日も聞いたとおり、このお屋敷の警備は万全だ。
そんな中で、最も価値のある宝石が盗まれた。それも、グリセルダさんにとっては、父親との形見の品でもある。
グリセルダさんの困りきった表情も、マリアさんの真っ青な表情も納得だ。
おずおずとフィルが横から口をはさむ。
「最後に部屋で宝石があったのを見たのって、いつですか……?」
「昨日、クレア様とフィル様をご案内したときですね」
グリセルダさんの答にわたしは驚く。つまり、グリセルダさんだけでなく、わたしとフィルも盗まれる直前の宝石を見ていたことになる。
それで理解できた。だから、わたしたちも呼ばれたんだろう。
けれど、呼び出されても……役に立てることがあるかどうか。
宝物庫の入口は鉄の扉で閉ざされている。そこには重々しい錠前があった。グリセルダさんはポケットから金色の鍵を取り出す。廊下の窓から射し込む光が、鍵の金の輝きをきらめかせた。
グリセルダさんの手で扉は開け放たれた。
そして、グリセルダさんはわたしたちを振り返る。
「合鍵も含めて、この屋敷で宝物庫を開けられるのは、私とマリアだけですね」
外は厳重に警備されているから、外部からはそもそも屋敷の中にも入ることができない。
宝物庫の中を歩いてみたけれど、扉や壁が壊された様子もなかった。
わたしたちはグリセルダさんに案内されて、昨日と同じく宝物庫の一番奥へと行く。左右に展示された貴重な宝石の数々はそのままで、ただ、「カロリスタの青い星」だけがなかった。
ガラスのケースが叩き割られていて、無残な姿になっている。
「ひどい……。こんなふうにハンマーでガラスケースを壊したなんて……。宝石は無事なのかしら……?」
グリセルダさんは弱々しくつぶやいた。
わたしは、グリセルダさんの表情をうかがった。その美しい顔は憔悴しきっていた。一国の価値にも匹敵するという貴重な宝石が失われたのだから、当然だとは思う。
でも、誰が、何のために盗んだんだろう?
普通に考えれば、もちろん鍵を持っている人間にしか盗む機会はない。そして、グリセルダさんが自分の持ちものを盗むはずはない。
わたしとフィルは、同時にマリアさんに視線を向けた。
可能性としては、このマリアさんが盗んだというのが、一番ありえる。そして、実際にそう考えた人もいた。
「いつかはこんなことになるのではないかと思っていたのですよ」
それはグリセルダさんの声でも、マリアさんの声でもなかった。宝物庫の入口から聞こえたのだ。
振り返ると、そこには年配の婦人が立っていた。上品な雰囲気で、意志の強そうな黒い瞳が印象的だった。
「アドラお母様」
小さく、グリセルダさんがつぶやく。
なるほど。アドラさんは、グリセルダさんが歳を重ねれば、きっとこんな素敵な婦人になるだろう、という容姿だった。親子なのだから、当然かもしれない。
ただ、アドラさんの目には、グリセルダさんへの親しみはなかった。
「あなたはカミロの残した宝石を、恥ずかしげもなく商売の宣伝に利用していたのですからね。そもそも貴族の私たちが商人の真似事をするなど反対だったのです」
「お母様。何度も言いますが、宝石商にならなければ、ディアマンテ子爵家は消え去っていたでしょう」
「ならば消え去ればよかったのよ。私やセサルを厄介者扱いするぐらいならね。代わりに、そんな
アドラさんが憎しみをこめて見ているのは、マリアさんだった。マリアさんはなにかに耐えるようにうつむいている。
アドラさんはさらに言い募る。
「宝石を盗んだのだって、その娘に違いないわ。鍵は二つしかなく、グリセルダとその娘しか持っていなかったのだから」
母のアドラさんや兄のセサルさんは宝物庫の鍵を持っていなかった。だから、マリアさんが疑われるのも当然なのだ。
アドラさんは、宝石商として成功したグリセルダさんやマリアさんのことを疎んじているということもわかった。
アドラさんが言いたいだけ悪口を言って立ち去ると、グリセルダさんはため息をついた。
「クレア様、フィル様。見苦しいところを見せてしまいました」
「いえ……大変ですね」
「母は、ああいう人なのです。古い考え方しかできず、しかも何の役にも立たない」
グリセルダさんの声には、ぞっとするほど冷たい響きがあった。グリセルダさんは、颯爽としたかっこいい人だけれど……。きっと、それだけではない怖い一面もあるのだと感じた。
わたしたちは宝石が無くなる直前に、なにか変わりがなかったかを尋ねられた。けれど、何も思い当たる節はない。
フィルもそれは同じで、こくこくとうなずいている。あまり役には立てなさそうだ。
そのあいだ、マリアさんはずっとうつむいていた。昨日の快活さが嘘のようだ。きっと宝石が無くなったことの責任を感じ、アドラさんに非難されたことを気に病んでいるのだと思う。そして……自分が宝石盗難の犯人だと疑われているのではないかと怯えているのだ。
グリセルダさんはどう考えているのだろう?
落ち込むマリアさんに気づいたのか、グリセルダさんは微笑んで、マリアさんの肩を叩いた。
「心配しないで。あなたがあの宝石を盗んだなんて思っていないから」
「ですが……客観的に見れば、あたしは鍵を持っていますし……疑われて当然です。それに、あたしはもともと身分の低い孤児ですし、奥様の言うとおりです。それに、下賤の身のあたしがお金に目がくらんで宝石を盗んだのだとすれば、動機もあります。それに、それに……」
「もう。『それに』ばかり言わないで、顔を上げてほしいな」
そう言うと、驚いたことに、グリセルダさんはぎゅっとマリアさんを抱きしめた。フィルも少し顔を赤くして、目を見開いている。
びっくりしたのは、マリアさんも同じようだった。
「ぐ、グリセルダ様……?」
「アドラお母様たちの言うことなんて、聞く必要がないわ。私はあなたを信じている。それで十分でしょう? あなたがいなければ、ディアマンテ商会は立ち行かないし」
「……あ、ありがとうございます。でも、盗んだのがあたしでなくとも、旦那様の大事な形見を守れなかった責任が、あたしにはありますし……」
「あんなもの、あなたに比べたら大したものじゃないわ。一国の価値がある宝石よりも、あなたのことが必要なの。あなたにはずっと私を支えてほしいのだから」
「あ、あたしも……」
マリアさんは感極まった様子で、続きの言葉は声にならなかった。ぽろぽろと青い瞳から涙を流している。
少なくとも、グリセルダさんはまったくマリアさんのことを疑うつもりはないようだった。そして、わたしにも、これだけの信頼関係を築いているマリアさんが、グリセルダさんを裏切ったなんて思えない。
もちろん、わたしはこの二人のことをよく知っているわけではないけれど……二人の信頼関係は本物に思えた。
わたしも、宝石よりもフィルの方が大事だ。
そのフィルも、わたしと同意見のようだった。
フィルは小声でわたしにささやく。
「マリアさんが犯人だとは思えないな」
「どうして?」
「もしマリアさんが犯人なら、おかしいことが三つあるよ」
フィルは宝石のような黒い瞳で、わたしを見つめながら言う。
どういうことだろう?
「あのね、お姉ちゃん。一つは、もしマリアさんが犯人なら、どうしてすぐにこの屋敷から逃げなかったのかな」
「それは……逃げたら犯人だと言っているようなもので、疑われるから……」
そう言いかけて、わたしもおかしいと気づいた。フィルはうなずく。
「もちろん、他に疑われる可能性のある人がいるなら、逃げたらかえって目立つかもしれないよ。でも、鍵を持っていたのは、マリアさんとグリセルダさんだけだし」
「たしかに、当然疑われるはずのマリアさんは、宝石を盗み次第、逃げ出すべきよね」
マリアさんは自由に屋敷を出入りできる立場にある。夜のうちに「カロリスタの青い星」を盗んで逃げ出すのが、理にかなっている。
「それにね。どうしてあの目立つ宝石だけを盗んだのかな」
「一番お金になるから……?」
「ううん。ぼくは、あの宝石はお金に替えられないと思う。あんな大きなブルーダイヤモンドは、大陸に二つとないから、売ろうとしたら、盗品だとすぐにばれてしまうもの」
「……そっか。それなら、もっと目立たない宝石……少なくとも足がつかない宝石を盗むはず」
宝物庫には他にもたくさん宝石がある。お金のためだと言うなら、他の宝石も盗んで当然だし、換金しやすい宝石も持っていくべきだ。
お金のために、マリアさんが盗んだというのは、成り立たない。
いつのまにか、グリセルダさんもマリアさんも、フィルの話に聞き入っていた。マリアさんがおずおずと言う。
「それに……あたしはグリセルダ様から、商会の分配金をいただいています。分不相応なほどの金額で、それだけであたしには十分すぎるほどです」
それはきっとそうだろう。ディアマンテ商会はかなりの規模の宝石商だし、そのナンバーツーのマリアさんが、お金に困っているとは思えない。
「フィル様、最後のおかしいと思う点は何でしょうか?」
グリセルダさんが、フィルに続きを促した。フィルはわたし以外の二人に見つめられ、緊張したようだった。もともとフィルは人見知りなのだ。
わたしはフィルを安心させようと、ぽんぽんと頭に手を乗せた。フィルはどきっとした様子でわたしを見上げ、わたしは微笑み返した。
フィルはこくんとうなずき、深呼吸をした。そして、小さな唇を動かし始める。
「最後の理由は……ガラスケースが壊されていることです」
「どうして、それがおかしいの? 宝石はガラスケースに展示されていて、盗もうとしたら、当然、そこから取り出さないといけなくて……」
「お姉ちゃんの言うとおりだよ。でも、もしマリアさんが犯人なら、なんで鍵を使わなかったの?」
あっ、と思う。ガラスケースには鍵がかけられている。裏を返せば、鍵さえあれば、わざわざ、それを壊さなくても、開けることは可能なはずだ。
そして、おそらくマリアさんは扉の鍵だけでなく、ガラスケースの鍵も持っているはずだ。宝物庫の管理のために鍵を預けられているのだから。
グリセルダさんとマリアさんは顔を見合わせてうなずいた。
そのとおり、ということのようだった。
「ねえ、フィル。そうだとしたら、本当の犯人は、ガラスケースの鍵を持っていなかったということね?」
「そうかも。ともかく、ガラスケースをわざわざ壊すのは大変だし、音も大きいからバレるかもしれないし。危険が大きいから……ガラスケースを壊す理由のあった人が、犯人だと思うよ」
そうだとすれば、犯人は、鍵なしでこの宝物庫に侵入し、そして、ガラスケースを壊すための鍵は持っていなかったということになるけれど……。
「でも、それ以上のことは、ぼくにはわからない。ごめんなさい」
ぺこりとフィルが頭を下げる。わたしは首を横に振った。
「フィルが謝る必要なんて全然ない。フィルってやっぱり頭がいいのね」
グリセルダさんたちも感心したようにフィルを見つめている。フィルは照れくさそうに目を泳がせていた。
でも、フィルの言うとおり、これ以上の追及ができる材料はなさそうだった。
わたしはフィルとともに、部屋へ戻ることにした。グリセルダさんたちがどう対処するつもりなのかはわからない。けれど、一大事件だし、わたしたちもすぐには帰れないかもしれない。
伝説的なあの宝石が無くなった事自体が損失なのは間違いないけれど、それ以上に、そんな貴重な宝石を無くしたとあっては、ディアマンテ商会の評判にも傷がつく。
もちろん、事実を公表しないという手もある。そうであれば、グリセルダさんはわたしたちにも、黙っているように頼むだろう。
わたしはあれこれと考えた。一番問題なのは、誰が宝石を盗んだ犯人なのか、だ。
フィルと二人きりで廊下を歩きながら、フィルに尋ねてみる。
「フィルは、誰が犯人だと思う? 例えば……アドラさんが、マリアさんを陥れるために、宝石を隠したとか……」
「それはあるかも。でも、どうやって鍵なしで宝物庫の中に入ったのかがわからないよ」
フィルの言うとおりだ。結局、そこがわからないと解決できない。そんな話をしていたら、向こうから人がやってきた。
使用人ではないようだった。立派な身なりの若い男性だ。フィルと同じ黒髪黒目だけれど、とても背が高い。獰猛で威圧的な印象を与える。
彼はわたしたちの前で立ち止まると、にやりと笑った。
「お二人はリアレス公爵のご令嬢とご令息ですね。僕はセサル・ラ・ディアマンテと申します」
鋭く、リズムの良い調子で彼は言った。この人がグリセルダさんの兄のセサルさんらしい。グリセルダさんとセサルさんも、仲が悪いらしい。それは妹であるグリセルダさんが当主についたからかもしれない。
そういう事情から、てっきりダミアン叔父様のようなダメ人間を想像していたけれど、意外とまともそうな人だった。
グリセルダさんの力量が圧倒的で、宝石商としての大成功があったから、セサルさんは当主になれなかったのかもしれない。そうだとすれば、なおのこと妹を遠ざけても当然だ。前回の人生での、わたしとフィルが疎遠だったように。
貴重な宝石が盗まれた、という話をわたしがすると、彼は目を丸くした。それから微笑む。
「そうですか。まあ、そういうこともあるでしょう」
「でも、あれはあなたのお父様の形見の品なのでしょう?」
「まあ、それは合っています。そういう意味では盗まれて残念とも言えなくもないが、しかし、大した事件ではありませんよ」
「カロリスタで、いえ、大陸で、最も偉大な宝石の一つが盗まれたのに、大した事件ではないと思うのですか?」
わたしは思わず問い返した。セサルさんがあまりにも平然としていたからだ。フィルも違和感を覚えているのか、首をかしげていた。
セサルさんは、やや怖い印象の顔に、優しげな笑みを浮かべた。
「まあ、こうなった以上、お二人には話してもよいでしょう。あの秘密も、リアレス公のカルル様はご存知でしょうし」
「秘密?」
「偽物なんですよ」
「え?」
「あの『カロリスタの青い星』は真っ赤な偽物なんです。ブルーダイヤモンドなんかじゃありません。あれはただの大きくて、綺麗なだけの石ころだ」
わたしは衝撃のあまり、固まった。
偽物? あれが?
グリセルダさんは、「カロリスタの青い星」を、国一つ以上の価値がある至高の宝石だと言った。そんな宝石を取り戻した父のことも、尊敬していると言っていた。宝石商になったきっかけも、あの宝石だと言っていた。
けれど、その宝石が偽物だなんて……。
「そのことを、グリセルダさんは……」
「知っていますよ。当然じゃないですか。グリセルダは、実力派の宝石商です。今の彼女が気づかないわけがない。ついでに言えば、僕も教えてやりましたからね」
セサルさんが本当のことを言っているのか、わたしは判断がつかなかった。でも、本当だとしたら……彼女はわたしたちに嘘をついていたことになる。
セサルさんは付け加えた。
「まあ、妹も最初はあれが偽物だと知らずに、宝石商を志したのだとは思いますが。そう考えると、皮肉なものだ」
セサルさんの口ぶりにあるのは悪意ではなく……なにか別の感情があった。憤り、だろうか。
わたしは単刀直入に尋ねてみることにした。
「セサルさんは……グリセルダさんのことが嫌いなのですか?」
セサルさんはあくまで穏やかに微笑んだ。
「誤解なさらないでください。僕はあいつのことが嫌いなわけじゃない。ただ……羨ましいのですよ。あいつは自分の力で宝石商として成功し、当主の座も勝ち取りました。僕はあいつのことを恨んだりはしていません。ただ……自分よりもずっと優秀な相手が近親者にいれば……それを素直に受け止めることはできないものですし、遠ざけたいと思うものです」
セサルさんは言い切ると、わたしとフィルを見比べた。そして、羨ましさと寂しさの混じったような、不思議な表情を浮かべた。
「お二人は……仲が良いのですね」
「はい。フィルはわたしの大事な弟ですから」
わたしが言うと、セサルさんはフィルに「フィル様も、クレア様のことが大事ですか?」と尋ねた。
フィルは顔を赤くして、わたしの後ろに隠れた。そして、わたしの服の袖にしがみつく。……セサルさんのことが怖いんだ。
「クレアお姉ちゃんは……世界で一番の、ぼくのお姉ちゃんです」
でも、フィルははっきりとそう言ってくれた。わたしはとても嬉しくなって、フィルを抱きしめたくなるけれど、セサルさんの前なので我慢する。
セサルさんはうなずいた。
「僕も、あいつにそう言ってやることができればよかったのですが」
「言ってあげればいいじゃないですか」
わたしの言葉にセサルさんは肩をすくめただけだった。
「僕がグリセルダに言えるのは、あいつが『偽善者』だということだけですよ」
……どういう意味だろう? わたしが問う前に、セサルさんは立ち去ろうとした。
けれど、フィルが呼び止める。フィルにしては意外な行動だったので、少し驚く。実際、フィルはかなりびくびくしていた。
セサルさんは微笑むと、身をかがめて、フィルに目線を合わせた。
怖そうな見た目をしているけれど、悪い人じゃないらしい。
「なにかありますか、フィル様?」
「あの……マリアさんは、宝石が偽物だということを……知っていますか?」
「マリア? マリアならおそらく知らないと思いますよ。あれは商会の経営面では有能な補佐役だが、宝石自体への造詣はないはずです」
……あれ? それなら、どうしてセサルさんは、あの宝石が偽物だと知っているのだろう?
わたしの疑問に、セサルさんはあっさりと答えた。
「父は俺にだけ、あれが偽物だと教えてくれたのですよ。だから、俺と、あとになって気づいたグリセルダを除けば、他にはあれが偽物だと知っている人間はいませんね」
セサルさんはそう言うと、その場からいなくなった。
さて……。
ディアマンテ子爵家は、今でもリアレス公爵に従属する貴族家の一つだ。その家の問題は、リアレス公爵家の問題でもある。さらに、宝石商としては王室御用達ということもあって、その影響力は無視できない。
それに、グリセルダさんとマリアさんも、好感を抱かずにはいられない人間だし。グリセルダさんが嘘をついていたのだって、きっと理由がある。
なんとか解決してあげたいけれど……。
少なくとも、偽物だと知っている人間に、宝石を盗む理由はないはずだ。同時に、宝物庫に入るには鍵が必要である。
その両方の条件を満たすのは、やはりマリアさんしかいなかった。
うーん……。
「フィル、なにか思いつくことある?」
フィルの頭の良さがあれば、きっといい考えがあるに違いない! 姉バカかもしれないけれど、わたしはフィルに期待していた。
そのフィルは浮かない顔で、こくりとうなずいた。
「考えはあるよ」
「ホント!?」
「うん……。ぼくたちにできるのは、今すぐ宝物庫に戻ることだね」
宝物庫に、なにか手がかりがあるんだろうか? さっきはフィルも手がかりを見つけることを諦めていたけれど。
引き返す途中で、マリアさんとすれ違った。マリアさんは相変わらず落ち込んだ表情だった。たとえグリセルダさんの信頼を失っていないとしても、責任感を覚えて当然だ。
だけど、盗まれた「カロリスタの青い星」は偽物なのだという。それなら、どうしてグリセルダさんはそのことをマリアさんに教えてあげないんだろう?
そうすれば、マリアさんに辛い思いをさせなくて済むはずだ。
わたしが歩きながらフィルにそうささやくと、フィルはうなずいた。
「そうだね。でも、辛い思いをさせるのが目的だとしたら?」
「え?」
「思い過ごしならいいんだけれど……。グリセルダさんはお姉ちゃんの思うような良い人じゃないかもしれないよ」
フィルは小さくつぶやいた。
「それって、どういう意味……?」
わたしが尋ね返したそのとき、わたしたちは宝物庫の前にたどり着いた。
フィルの言葉の意味を考えるより先に、宝物庫にあるという手がかりを探そう。
鍵はかかっていないようだった。中にグリセルダさんがいるんだろう。
わたしは声をかけようとしたけれど、フィルに止められた。
「ちょっと考えがあるんだ」
声もかけずに入るのは失礼な気がするけれど、フィルがそう言うなら、わたしは反対しない。
わたしたちはそっと宝物庫に忍び込み……。
部屋の中央に、グリセルダさんがいた。
それ自体は、まったく不思議なことじゃない。
けれど、わたしは、もっと別のことに驚かされた。
グリセルダさんは右手に物を持ち、それをランプのあかりにかざしていた。
そして、その手に握られているのは、間違いなく「カロリスタの青い星」……「カロリスタの青い星」の偽物だった。
わたしは驚きのあまり、壁にぶつかってしまい、物音を立ててしまった。グリセルダさんもびっくりした様子でこちらを振り返る。
彼女は完全にうろたえた様子だった。
「どうして……クレア様とフィル様がここに……いるのですか?」
「それは……」
わたしはフィルを振り向く。フィルはこの事態を予想していたんだろうか?
フィルは怯えた様子もなく、まっすぐにグリセルダさんを見つめていた。
「やっぱり……宝石を盗んだのは、グリセルダさんだったんですね」
フィルの言葉は、わたしの胸に、冷たい水のようにすっと入ってきた。宝物庫の鍵は二つしか無い。一つはマリアさん、もう一つはグリセルダさんが持っている。
マリアさんが犯人でないなら、残るのはグリセルダさんだ。
でも……なぜ、グリセルダさんが宝石を盗んだりしたんだろう?
ううん。もともと宝石は、子爵家当主のグリセルダさんの持ち物だ。盗む理由はない。
グリセルダさんも開き直ったようだった。
「フィル様はおかしなことをおっしゃいますね。私が自分の持ち物をどうして盗むのですか?」
「理由はいくつかあると思います。一つはその宝石が偽物だったからです」
「偽物なのに、盗むの?」
わたしの問いに、フィルはうなずく。
「偽物だからこそ、盗まないといけなかったんだよ。……最初は、グリセルダさんもこの宝石が偽物だとは知らなかったからですよね?」
グリセルダさんは迷った様子だったが、観念したのか、うなずいた。
「そのとおりです。宝石商を始めたばかりの頃、私はその石を、本物の『カロリスタの青い星』だと思っていました。父が他国から取り戻したという偉業のことも信じていました。ですが、それはよく出来た模造品です」
「その宝石を偽物だと発表しなかったのは、どうしてですか?」
「フィル様なら、おわかりでしょう? その宝石があることこそが、ディアマンテ商会の宣伝になるのです。大陸最高の宝石を所有しているという実績が、王室や大貴族への売り込みに必要でした。……嘘をついているつもりはなかったんです。別の宝石商のもとで修行して、戻ってきたときに初めて気づいたんですよ。兄も秘密を黙っていましたし」
「そして……引き返しがつかなくなった。だから、宝石を盗まれたことにして、存在を消す必要があったんですよね」
「……偽物の『カロリスタの青い星』は、当然、売るわけにはいきませんでした。だからといって、所有したままであれば、いつか偽物だとバレてしまうかもしれません。なるべく人には見せないようにしていましたが、王室や大貴族の頼みとなれば、断ることもできませんから。そうなれば、ディアマンテ商会の信用は地に墜ちます」
……ああ、なるほど。話が飲み込めてきた。
つまり、グリセルダさんは、宝石が偽物だということを隠し通すために、宝石の盗難を演じたんだ。
そして、そのことによって、マリアさんを傷つけた。
「だから、あえてグリセルダさんはガラスケースを割ったんです。もちろん、グリセルダさんはケースの鍵を持っていました。でも、盗まれたということを印象づけるために、わざと壊したんですよね。そして、ぼくとお姉ちゃんを、盗難の証人にしました」
「お二人が、この石が盗まれたと言ってくれれば、王国中、みんなが盗まれたと信じると思っていました。多少、商会の評判に問題が生じても、偽物とわかってしまうよりマシですからね。でも、失敗でした。フィル様、それにクレア様が、これほど聡明だとは思いませんでしたから」
「……えっと……グリセルダさんは、宝物庫で壊れたガラスケースを見たとき、『ハンマーでガラスケースを壊した』と言いましたよね? でも、ぼくには不思議でした。ガラスケースの割れ方だけで、何を使ってケースを壊したかはわかりません。重くて硬いものなら、何を使ってもいいはずなのに、グリセルダさんははっきりハンマーと言いましたから」
「ああ、それも私の失敗ですね」
弱々しく、グリセルダさんは微笑んだ。彼女は、大きくため息をついた。
「この宝石は偽物でした。父は大うそつきで、家族にいい顔をしたいから、デタラメを言ったということも、後で兄から聞いて知りましたよ。そんな父に憧れて、宝石商になった私も……偽物なんです」
「そんなことは……」
ない、とわたしは言いたかった。たとえ出発点が、嘘と偽物によるものだったとしても、今のグリセルダさんは本物の宝石商のはずだ。
けれど、グリセルダさんは首を横に振った。
「この青く美しい石は、偽物でした。他の宝石が偽物でないとどうして言えるんです? いいえ、この世界には偽物しかないんです。人間も同じです。母には嫌われ、兄にも疎まれた私には、本物の家族なんていません」
「で、でも、グリセルダさんには……マリアさんがいるじゃないですか!」
わたしは思わず叫んだ。たしかにグリセルダさんは嘘をついていたのかもしれない。父も母も兄も信用できない人だったのかもしれない。
でも、全部が偽物だなんて、そんなことはないはずだ。
グリセルダさんはうつむいていた。
「私は弱い人間なんです。それなのに、強い人間を偽って生きてきました。たしかにマリアは……私にとってたった一人の本物の家族でした。そんなマリアに、宝石泥棒の疑いがかかるような状況を、私は意図的に作りました」
「ど、どうして……?」
わたしにはさっぱりわからなかった。たしかに疑いはかかった。けれど、グリセルダさん自身がマリアさんが犯人であるわけないと強く否定したはずだ。なのに、グリセルダさんは、マリアさんを陥れるつもりだったのだという。
「ぼくには……わかる気がするな」
フィルが小さくつぶやく。わたしはフィルを振り返る。フィルは宝石みたいな、黒く美しい瞳で、じっとわたしを見上げた。
「あのね。ぼくはお姉ちゃんがいなくなっちゃうんじゃないかって……いつも不安なんだ」
「わたしがフィルのそばからいなくなるなんて、そんなことあるわけないよ」
「うん。ぼくもお姉ちゃんのことを信じてる。でも……それでも、不安なんだよ」
フィルの言葉に、わたしははっとする。今のフィルは、わたしのことを必要だと言ってくれる。けれど、いつかフィルは、わたしより大事な存在を見つけて、わたしのもとからいなくなってしまうかもしれない。
わたしもフィルも同じ不安を抱えている。それなら、きっとグリセルダさんも同じだ。マリアさんがいなくなるんじゃないかって……怯えている。
「マリアは……結婚するんですよ。これまでどおり商会のことを手伝ってくれるとは言っていますが、それもいつまで続くか……。きっとマリアは私なんかいなくたって幸せになって、そして、すぐに私のことなんてどうでも良くなってしまうんです」
「たぶん……マリアさんは、ずっとグリセルダさんのことを思っていますよ」
「理屈ではわかっているんです。でも! 私はマリアの幸せを喜べない! 表面では祝福するふりをして、心の中ではずっと私のそばにいてほしいと思っている。だから、私は……偽物なんです」
そんなグリセルダさんが、マリアさんに疑いをかけた理由は一つしか無い。
「宝石の盗難の疑いがマリアさんにかかるように仕向けて、そして、それを自分で強く否定してみせる。そうすれば、マリアさんは、一生消えないほどの恩義をグリセルダさんに負うことになりますね」
実際に、マリアさんは、グリセルダさんの言葉に感動し、ずっとそばにいると誓っていた。さらに、宝石を盗まれてしまったという罪悪感も負わせることができるのだから、完璧だ。
偽物の宝石の始末。そして、マリアさんの束縛。二つの目的が、グリセルダさんにはあったんだ。
グリセルダさんは泣き崩れ、ぽろぽろと涙を瞳からこぼす。
「私は……最低なんです。強くもかっこよくもない。嘘つきで、何もかもが偽物で、マリアのことすら本物とは思えなくなってしまって……。この世界の、どこにも本物なんてないんです。……こんなもの!」
グリセルダさんは、青い石を床に叩きつけようとしたけれど、わたしはその腕をつかんで止めた。その石がダイヤモンドでないのであれば、きっと簡単に砕けてしまうだろう。でも、そうすれば、きっとグリセルダさんはもう戻ってこられない。そんな気がした。
「ぼくは本物を知っているよ」
フィルは身をかがめ、グリセルダさんにささやいた。グリセルダさんは顔を上げる。
「クレアお姉ちゃんは、ぼくの本物のお姉ちゃんだから」
「でも、私には……もう何も……」
グリセルダさんが言いかけたそのとき、宝物庫の棚の陰から一人の小柄な女性が現れた。
それは、マリアさんだった。
しまった……! いつのまにか、マリアさんも宝物庫に戻ってきていたんだ。
「その……クレア様とフィル様が宝物庫へ向かわれたので、気になりまして……話は全部、聞きました」
マリアさんが小声で言う。グリセルダさんは絶望の表情を浮かべた。
わたしもフィルも、マリアさんがどんな反応をするのか、固唾を呑んで見守った。
マリアさんは、グリセルダさんの前に行くと、床に膝をついた。そして、人差し指の先で、そっとグリセルダさんの涙を拭う。
「……マリア?」
「グリセルダ様は……もっと私のことを信じてください。どうして、何もかも打ち明けてくれなかったんですか?」
「で、でも……」
「前から言っているじゃないですか。あたしはずっとおそばにいますよ。あたしはグリセルダ様の本物の姉のつもりなのですから」
そう言って、マリアさんは柔らかく微笑んだ。グリセルダさんは、そんなマリアさんにぎゅっとしがみついていた。
結局、グリセルダさんたちは、宝石が盗まれたということに決めたみたいだった。偽物の「カロリスタの青い星」は、その役目を終えたのだ。
でも、グリセルダさんにとって、マリアさんの信頼は本物だったのだ。
二人の姿を見て、わたしは思う。わたしも、アリスと、アルフォンソ様と、シアと、レオンと、他のみんなと、本物の関係を築くことができるだろうか。
そんなわたしに、フィルがささやいた。
「お姉ちゃんが、本物があるって教えてくれたんだよ」
フィルは、恥ずかしそうに、わたしを上目遣いに見つめた。