Ⅰ アラン・ロス・リアレスの日常
俺は帝都の街を歩きながら、身を震わせた。
このあいだまでは軍の任務で南方にいたので、着馴れたインバネスコートだけでは、帝都の寒さには耐えられないかもしれない。
昼間なのに、ずいぶんと冷え込む。それなのに、街の道は人がごった返していた。
ここは統一ソレイユ帝国の帝都アポロニアだった。
統一暦二八六年の現在、ソレイユ帝国は大陸の過半を支配している。
その帝都アポロニアは、何百万という人口を擁する巨大な魔法都市だった。
だが、帝国の大陸支配は、動揺しつつあった。
俺は自分の軍人手帳を見る。そこには「アラン・リアレス少佐」と俺の名前と階級が書かれている。
俺は帝国の情報将校だった。
でも、それもあと少しだけのこと。
軍をやめることにしたからだ。二十代半ばで軍をやめるというのも、珍しいことじゃない。
軍にいたということは、一種のステータスにもなるし、次の職にも困らない。俺は腐っても少佐なので、なおさらだ。
軍をやめる理由は人によっていろいろあるけれど、俺の場合はシンプルだった。
大事な人のそばにいたい、という、気恥ずかしい理由だ。
「アランくん、寒そうだね」
そう言って振り向いたのは、俺の義姉のソフィアだった。
純白の服のスカートの裾がふわりと翻り、金色の美しく長い髪も風に揺れる。
翡翠色の瞳は、俺のことを嬉しそうに見つめていた。
「マフラー、かけてあげる」
そう言って、ソフィアは赤いマフラーを俺の首にかけた。
ソフィアの白い指先が、俺の首筋に触れ、どきりとする。
俺は自分が赤面するのを感じて、そして、ソフィアを見ると、ソフィアもその整った顔を赤くしていた。
俺は思わず、ソフィアにみとれてしまう。彼女はまた魔法理論の天才で、さらにその人間離れした美しさもあって、帝都ではかなり人気が高い。
聖女ソフィア、という称号は、教会が与えたものだけれど、彼女の美しさと優しさにもぴったりだった。
ソフィアが俺の両親の養子になったのは、十二歳のとき、以来、十五年が経つ。けれど、ソフィアを見るたびに、不思議な甘い感覚に襲われる。
俺より二つ年上の女性だけれど、見た目は十七歳の少女のときから変わっていない。
それは彼女の身体を蝕む病のせいだった。
ソフィアは恥ずかしそうに微笑んだ。
「マフラーかけるだけで、こんなに恥ずかしがってたら、ダメだよね。だって……わたしたちは……」
「姉と弟だから?」
「そうじゃないでしょう? その……」
ソフィアは目をそらし、白い手をもじもじとさせる。
言いたいことは、俺もわかった。
そう。
もう、俺とソフィアは、ただの姉と弟じゃない。
軍を辞めると決めたとき、俺から告白したのだ。
「婚約者だから、だよね」
と俺は優しく言う。
ソフィアはかあっと顔をますます赤くした。
そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに、と思う。けど、ずっと姉と弟の関係だったから、仕方がないかもしれない。正式に婚約者になったのも、昨日のことだった。
そういう俺もいまだに新しい関係には、慣れていないし。
「あっ、アランくん。そ、そこの屋台の綿あめ、美味しそうじゃない?」
……恥ずかしさに耐えられなくなって、ごまかしたな。
俺は肩をすくめて、その安いお菓子を一つ買って、ソフィアに手渡した。
まあ、そもそも、俺たちは屋台を見に来たということもある。
帝都三大祭の一つ、謝肉祭が開催されているのだ。
大通りには、色とりどりの飾りを施した山車が練り歩いていて、観客が歓声を上げている。
他にも、吸血鬼だとか悪魔だとか、多くの仮装をした人たちが、楽しげに街を歩いている。
俺たちも、その祭りを楽しみに来たというわけで。
ソフィアはいつのまにか、綿あめを手にしていて、子どものように目を輝かせている。
その様子を見て、俺は微笑ましくなった。
この祭りを見ていると、帝国が滅ぶなんて、とても思えない。帝国の繁栄が以前ほどのものでなくなるとしても、影も形もなくなってしまうなんて……。
けれど、目の前で綿あめを楽しむソフィアこそ、帝国の滅亡を予言した張本人だった。
ソフィアの無邪気な表情を見ていると、まったく実感はわかないけれど。
俺が帝都に戻ってきた日。ソフィアは
その予言によれば、二百年後に統一ソレイユ帝国は滅び、そして、激しい戦争が続いて文明は衰退。
そのままだと、数百年後には、人類そのものが消失するという。
そこで、ソフィアが代わりに描き出したもうひとつの歴史が「ソフィア・ルート」だ。ソフィアの計画で修正された予言の中には、千四百年の歴史が緻密に描かれている。
その予言に従えば、人類は破滅を回避できる、という。
俺は、ソフィアの言葉を疑っていない。魔法理論を熟知した天才聖女ソフィアが……俺の姉の言うことだからだ。
ただ、あまりにもソフィアの言葉は、常識からかけ離れていた。
そのときのソフィアは……俺の知らない表情をしていた。まるで神がかったような……不思議な陶酔の表情。
俺がそのとき感じたのは……恐怖だった。そして、俺はそれ以上、ソフィアに詳しいことを尋ねられなかった。
考えてみると、俺は十五年も一緒にいるのに、ソフィアのことを、本当は何も知らないのかもしれない。
ソフィアは魔法理論の研究者、俺は軍人と道は別れたけれど、いつも互いのことを理解しているつもりでいた。
けれど……。
俺のことを純粋な笑顔で好きだと言ってくれるソフィア。
そして、魔法理論に基づく壮大な計画を実行しようとするソフィア。
どちらが、本物の彼女なのだろう?
俺が見つめているのに気づいたのか、ソフィアは首をかしげる。
「どうしたの? アランくんも綿あめ、食べる?」
「ああ、もらおうかな」
「え?」
俺は何気なしにソフィアから綿あめを受け取って、それを口にした。
目の前のソフィアを見ると、ソフィアは口をぱくぱくさせていた。
そして、俺は気づいた。
そっか、これはソフィアが食べていた綿あめなのか。
何も考えていなかった。
ソフィアは、もちろん綿あめをとられたことを怒っているのではなく……照れているのだ。
同じ食べ物を共有するなんて……まるで……。
「恋人みたいだね」
とソフィアは微笑んだ。
俺も気恥ずかしくなって、けれど、昔のことを思い返す。
「小さな頃は……こうやってお菓子を分け合ったこともよくあったような……」
「それは子どもだったからでしょ? でも、今は……」
たしかに、二人とも大人なのだ。
まあ、ソフィアは特殊な病気のせいで、見た目は少女時代から変わっていないわけだけれど。
その後も、ソフィアは上機嫌で、俺も楽しかった。
軍の任務で遠方にいた頃は、ソフィアと出かけることもできなかったし。
これはまあ、デートということになるんだと思う。
こうして普通に祭りを楽しむソフィアの姿と、熱をこめて予言を語るソフィアとはやっぱり印象が違って、どちらが本物のソフィアなのか、考えてしまう。
いや、どちらも本物なのに、俺が理解できていないだけなんだ。
その二つの姿をつなぐ鍵があるはずなのに、俺は気づけていない。
それなのに、俺はソフィアとずっと一緒にいると言った。その資格は俺にあるんだろうか?
もう、ソフィアに残された時間は多くない。
そんなソフィアに俺ができることは……ソフィアの望みを、彼女の予言を正しく理解することなんじゃないだろうか?
俺はソフィアの言葉を思い出した。
予言について語るとき、ソフィアは言っていた。
ソフィア・ルート実現のための鍵となる人物が、未来の歴史の中には散りばめられている。
その中で、最も重要なのは、人類最後の災いをもたらす存在、『夜の魔女』と呼ばれる少女だという。
その名は……クレア・ロス・リアレス。
俺とソフィアのあいだに生まれる子どもの、千四百年後の子孫ということらしい。
ええと、俺とソフィアのあいだの子ども……。
考えて、俺は恥ずかしくなってきた。
そんなとき、俺は正面から来たなにかにぶつかった。
とっさに身構えたのは軍人のくせで、けれど、ぶつかる前に気づかなかったのは、気分が浮ついていたせいかもしれない。
「あっ……ごめんなさい」
高い、小さな声がする。
俺にぶつかったのは、幼い子どもだった。
七、八歳ぐらいだろうか。銀色の髪の愛くるしい容姿の女の子だった。
まるで、ソフィアをそのまま小さくしたかのような少女だ。
ちゃんとした身なりをしていて、あたたかそうなコートを着ている。上等な毛皮のものだから、裕福な家の子だと思う。
ただ、あたりに親の姿はない。
俺が、大丈夫? と声をかける前に、ソフィアが身をかがめ、「可愛い!」と言って、その子の頭を撫でていた。
戸惑った様子で、その子は俺たちを青い瞳で上目遣いに見た。
「えっと……その……」
「迷子なの?」
というソフィアの問いかけに、こくりとその子はうなずいた。父親と一緒に祭りに来て、はぐれてしまったらしい。
ソフィアは微笑んだ。
「じゃあ、一緒にお父さんを捜そっか」
そういうと、女の子は、こくこくとうなずき、「ありがとうございます」と小声で言った。
そして、フィリア、という名前だとその子は名乗った。
幸い、はぐれたタイミングはそれほど前のことじゃないはずだし、きっと父親もこのあたりで捜しているだろうから、すぐに見つかるんじゃないだろうか。
不安なのか、フィリアという子は、ぎゅっとソフィアの服の裾をつまんだ。
ソフィアはそんな少女の様子を愛おしそうに見つめる。
そして、俺を見て、そっとささやく。
「子どもは男の子と女の子とどっちがいい?」
ソフィアのいたずらっぽい笑みに俺は思わずどきりとして、そしてうろたえた。
さっきは婚約者だということだけで恥ずかしそうにしていたのに、急にどうしたというのか。
正面から答える代わりに、俺の口から出たのは、照れ隠しだった。
「予言でわかるんじゃないの?」
予言のことには触れないようにしていたのに、こんな形で、照れ隠しとして使うことになるとは思わなかった。
ソフィアは笑顔を見せた。
「
「ああ、なるほど。さすがにそんな細かいことはわからないか」
「わたしたちにとっては、歴史の流れよりも重要なことだけどね」
くすっとソフィアは笑った。
それはたしかに……そうかもしれない。
きゃっきゃっ、と子どもたちがはしゃぎながら、傍を通っていく。反対側からは、ひときわ大きな山車が通り、また歓声が上がった。
俺は意を決してソフィアに尋ねてみた。
「あのさ、ソフィア。俺たちの子孫の……クレアという少女が、未来の歴史の鍵を握るって言ってたよね? その子はどうなるの?」
「アランくんはどうなると思う?」
「夜の魔女、という名前で、人類最後の災いをもたらす存在、と言ってたよね。そう聞くと……ろくな目にあわなさそうだ。俺たちの子孫なのに」
俺が冗談めかしていうと、ソフィアは遠い目をした。
……本当に、クレアという少女は、俺たちの子孫はひどい目にあうのかもしれない。
そうだとすれば、どうしてソフィアは、そんな役割を俺たちの子孫に負わせるのだろう?
「お姉ちゃんたちは何の話をしているの?」
フィリアが首をかしげ、銀色の髪がふわりと揺れる。
不思議そうに青い瞳を丸くしている。
俺とソフィアは顔を見合わせ、くすっと笑った。
「ごめん、ごめん」
そうだった。
今はこの子の父親を捜すのが優先だ。
「ところで、君のお父さんって名前は何ていうの?」
「えっとね、ルイ・ルフェーブルって名前なの」
俺はぴたっと足を止めた。
ルイ・ルフェーブル、といえば、帝国陸軍の将軍の一人。西部アレマニアの反乱鎮圧の司令官だ。
有能な指揮官だと聞くけれど……休暇で戻ってきているのか。
……このタイミングで?
まだまだ西部の反乱は収まる気配がないし、不思議といえば、不思議だ。
ともかく、まさかの同じ軍人の子どもだったとは。
しかも将軍。
俺は軍をやめるといっても、軍との関係が切れるわけじゃない。
丁重に扱わないと。
フィリアは小声で言う。
「お父さんはね……いつも忙しくて……遠い場所で戦っていて……。だから、わたしに会ってくれないの」
「そうだろうね。でも、君のお父さんはみんなから尊敬されているよ」
「そうなのかもしれないけど、でも、そんなことより……」
自分を大事にしてほしい。
七歳の少女なのだから、そう思って当然だ。
「お父さんは、今日は帝都に戻ってきたからって、お祭りに連れてきてくれたんだけど……」
はぐれてしまったというわけか。
おとなしそうな子だし、自分から父親のそばから離れたとは思えないけど、この人混みでは仕方ないかもしれない。
ルフェーブル将軍もさぞかし心配しているだろう。
銃声が鳴り響いたのは、ほぼ同時だった。
通りの人々が一斉にそちらを振り返る。
そこには若い男が銃を構えていて、その視線の先に立派な身なりの紳士がいた。
紳士は……見たことがある。
ルフェーブル将軍だ!
通りがかった女性が悲鳴を上げる。
将軍が暗殺者に襲われているらしい。軍に恨みを持つ人間は多いし、将軍は西部戦線の責任者だから、反乱軍関係者が帝都に紛れ込んだのかもしれない。
最初の一発は将軍に当たらなかったようだ。大して拳銃の腕が良いわけではないようだ。
とはいえ、暗殺者と将軍はそれほど距離がない。将軍は銃を抜いて反撃しようとしたが手がもつれたのか銃を構えるのに手間取った。
そして、暗殺者が二発目の引き金を引こうとする。
「お父さん!」
フィリアが悲鳴を上げる。
そのままであれば、将軍は暗殺者の餌食となっていただろう。
だが……。
次の瞬間、男は拳銃を取り落としていた。
「なっ……」
男はうめき、赤くなった自分の腕を見て、絶句した。
男の手は弾丸で撃ち抜かれていた。
俺の拳銃の弾が、相手の男の手を撃ち抜いたのだ。
俺は銃をしまい、ほっとため息をつく。
いちおう、俺は軍人で、そして情報将校だから、一人で戦う必要があることも多い。自慢じゃないが、拳銃の腕はそれなりに良い方だと思っている。
しかし、帝都の真っ昼間でこんな事件が起こるようでは、安心できないな。俺も情報将校の一人として、暗殺の対象になってもおかしくないわけで……。
駆けつけた市警の制服警官たちが男を取り抑えている。
一件落着だ。
将軍がやってきて、俺に礼を言いかけたが、その前にフィリアが将軍へと抱きついた。
突然抱きつかれて、将軍は困ったような顔をしたが、けれど、その顔には娘への愛情が溢れていた。
ソフィアは俺にそっと近寄った。
「フィリアちゃんのお父さんが無事で良かった。アランくんのおかげだね」
「まあ、うん。そうかもね」
理不尽に父親を亡くすという不幸から、俺はフィリアという少女を守ってやれた。
けれど、将軍を暗殺しようとした人間にも、それなりの「正義」があったはずだ。西部では、多くの反乱軍の関係者が、弾圧で殺されている。
その中には、フィリアと同じような小さな子どもも含まれていると聞く。
それはまた、別の理不尽があるのだ。
ソフィアはささやく。
「あのままだったら、ルフェーブル将軍は死んでいた。でも、アランくんがいたことで、それは防げたでしょう? 運命は変えられるの」
「未来の歴史も同じ、ということかな」
「そう。わたしは……ソフィア・ルートの実現で、この世からすべての理不尽をなくしたいの」
ソフィアは優しく微笑んだ。
ただ、もう、防ぐことのできない理不尽はある。
「わたしは、すぐに死んじゃう。けどね、わたしとアランくんみたいな人たちが、千四百年後にも平和で幸せに生きることができるようにしたい。それがわたしの願いなの」
「クレアって子も、そんなふうに幸せに生きることができるってこと?」
「それはクレア次第。その子はわたしの分身で、運命を変えられるかどうかは、その子の意志と決断にかかっている。ソフィア・ルートを、ううん、クレア・ルートの完成が、その子を破滅の運命から救うはず」
「俺たちの子孫は、たった一人でそんな大変な役割を背負うわけか……」
俺は未来の自分の子孫に同情した。
けれど、ソフィアは首を横に振り、そして、いたずらっぽく笑った。
「クレアは一人じゃないの。彼女のそばに、彼女の大事な人がいて、その人が彼女のことを助けてくれるから」
「大事な人って……」
「その子の名前は、フィル・ロス・リアレス。クレアの義理の弟。つまりね、アランくんがわたしを助けてくれるように、フィルがクレアのことを助けてくれるの。ロマンチックだと思わない?」
ソフィアと俺は、血のつながらない姉弟で、そして互いに惹かれて、婚約者となった。
クレアとフィルも、同じような関係になるんだろうか?
ソフィアはそれ以上、クレアたちについて何も言わなかった。
だけど、俺は、ソフィアのことを少し理解できた気がした。
予言の実現は、ソフィアにとって、今ここにある幸せを、未来にも残しておくということなのだと思う。
彼女自身の命はすぐに消え去るとしても、未来の人類を破滅から救うことで、未来にも俺とソフィアのような人たちが生きていくことができる。
そうだとすれば、俺のことを好きだと言ってくれるソフィアも、ソフィア・ルートを実行しようとするソフィアも、同じ一人の人間として、理解できる。
ソフィアは俺の腕をぎゅっと抱きしめた。ふわりとソフィアから甘い香りがして、俺はくらりとする。
「そ、ソフィア?」
「それにね、クレアはわたしたちも見守っているもの。アランくんは、ずっと一緒にいてくれるって約束してくれたよね?」
「たしかに、そうだけど……」
ソフィアに残された命は多くない。あと数年、俺はソフィアと一緒にいるつもりだった。
けれど、ソフィアの言葉は別の意味を持っていた。
ソフィアの翡翠色の瞳が妖しく光る。
「わたしの体は、数年後には灰になってる。でもね、魂を残すことはできるの。
「まさか俺も
一緒に未来の歴史を見守ってほしい、とソフィアは言っていた。それは……こういう意味だったのか!
たしかに、ソフィアの
人間二人分の思考回路を再現することは、簡単なことだろう。
恐れる俺に、ソフィアは優しく……とても優しく、そして甘い笑みを浮かべた。
「ずっと一緒だよ、アランくん」