大丈夫、と言ってあげたいけど……でも、どう考えればいいのか、わからなくなった。

バシリオ先生は言う。

「それで、この遺物、つまり『夜の魔女の瞳』は、夜の魔女を崇める祭祀に使われていたんじゃないか、なんて言われるけど、僕は別の考えを持っている」

バシリオ先生は、大陸が統一されていた時代の機械の一部だったのではないか、というようなことを言っていた。

でも、わたしは……もう、上の空だった。

そんなとき、ぞくっと背中に寒気が走る。

また……視線を感じる。こないだも感じた……誰かがわたしを見つめているような視線だ。

でも、視線の主は見つからない。

ふっとバシリオ先生と目が合う。その淡い青色の瞳は、一瞬、鋭く光り、わたしを見つめた。

けれど、すぐにその瞳の輝きは消えてしまった。

「フィル、楽しかった?」

「うん!」

バシリオ先生の研究室を去り、わたしとフィルは、人気のない廊下を二人きりで歩いていた。

聡明で、古い時代に関心のあるフィルのことを、バシリオ先生は気に入ったようだった。

人見知りのフィルも、バシリオ先生とは打ち解けたようだし。

なんやかんやいっても、バシリオ先生は有力な王族の息子だ。

フィルと親しくなっておいてもらえば、フィルの未来に役立つこともあるかもしれない。

フィルをバシリオ先生に会わせたのは、将来を見据えた狙いもあった。

こういう打算を、前回の人生では、わたしは自分のために使った。立派な王妃になろうとして。

今は……すべてはフィルのためだ。

フィルの幸せのためなら、わたしは何だって利用する。わたしはフィルの最高の姉になりたいのだから。

まあ、単純に、フィルの喜ぶ姿が見られるだけでも、嬉しいのだけれど。

バシリオ先生の研究室で見たものについて、フィルは頬を上気させて、嬉しそうにわたしに話してくれた。

そんなフィルの顔を見られるだけで、わたしにはご褒美だ。

あとは思わぬ収穫もあった。

「夜の魔女の瞳、がお姉ちゃんは気になっているんだよね?」

フィルの言葉にわたしはうなずく。

アルフォンソ様にも相談しに行ってみよう。預言についての知識もあるはずだし。

わたしがそう言うと、フィルはうなずいて、そして、ちょっと頬を膨らませた。

「やっぱり……王太子殿下のことを信頼しているんだね」

「そう……かな?」

アルフォンソ様は、前回の人生で、わたしを裏切った張本人だ。ただ……今回はまだそんなことは起きていない。勝手に監禁したのも、わたしのことを思ってのことだった。

だから、少なくとも、それほど悪く思ってはいない。

フィルはわたしを見つめる。

「そうだよね。殿下は……お姉ちゃんの婚約者だもの」

「フィルは、アルフォンソ様のことが信頼できない?」

「そんなことないよ。でも、そういうことじゃなくて……お姉ちゃんは……いつか殿下と結婚して、ぼくのもとからいなくなっちゃうんだな、って思って……」

フィルは消え入るような声で言った。

たしかに、わたしがアルフォンソ様と結婚したら、フィルと毎日会ったりすることはできなくなってしまう。

わたしは王宮に住み、フィルは公爵領に戻ることになるのだから。

それは嫌だけど……でも、そんなのは先の話だ。だいたい、前回の人生みたいに、アルフォンソ様との婚約だって、破棄されてしまうに違いない。

それより、フィルがヤキモチを焼いてくれるのが嬉しい。その不安そうな表情も、赤く染まる頬も、とても可愛かった。

わたしは微笑んだ。

「大丈夫。わたしはフィルのもとからいなくなったりしないから」

「本当?」

「ええ。アルフォンソ様よりも、今のわたしはフィルの方が大事だし」

「……それ、殿下には絶対に言っちゃダメだよ?」

とフィルは小声で言い、でも、嬉しそうな笑顔を浮かべた。

わたしは思わずフィルを抱きしめたくなり……そのとき、また、わたしは視線を感じた。

誰かがわたしを見つめている視線。しかも……好意的な目じゃない。

しかも……さっきよりもずっと近くだ。

フィルも誰かがいる気配に気づいたようだった。

「……お姉ちゃん」

フィルがぎゅっとわたしの腕にしがみつく。

いったい……誰が、何の目的で、わたしをつけているのだろう?

その答えはすぐにわかった。

物陰から一人の男子生徒が姿を現したからだ。

「あなたは……!」

「このあいだは世話になりましたね」

そこにいたのは……このあいだの決闘で戦ったカルメロだった。

黒髪に褐色の肌。獰猛な黒い瞳。

学園の標準服姿で、そして、腰に木剣をぶら下げている。

彼は残忍そうな笑みを浮かべ、そこに立っていた。

「何の用?」

わたしはフィルをかばうように前へ進み出て、そして、カルメロを睨みつける。

こいつが、視線の正体だったんだ。

勝負で負けた相手を、じっと陰から見ているなんて、陰湿いんしつだ。

カルメロは笑みを深くする。

「恥をかかされた礼をしに来たわけですよ」

「へえ、仕返しってわけ? 情けないのね」

カルメロは急に真顔になった。

そして、わたしを鋭く睨みつける。カルメロは木剣を構えた。

「剣を持っていればこそ、あなたはそれなりに強いが……今は素手すでってわけですからね」

「まさか……」

「まあ、手加減はしますが、ちょっと痛い目を見てもらうぜ」

わたしはすうっと背中が寒くなるのを感じた。

ここには誰もいない。校舎の中でも薄暗くて、ほとんど人も来ない。

そして、わたしもフィルも武器を持っていない。

剣を持ってすらなんとか勝てた相手に、素手で戦うなんて……無理だ。

「恥ずかしくないの!? 武器を持っていない相手を痛めつけようとするなんて」

「これは私の本意じゃありません。騎士道精神には反するのですが……まあ、しかし、私はそこまで高潔な性格でもないのでね」

ということは、カルメロは、誰かの指示で動いているんだろうか?

いや、今は……ともかく、この場をなんとか切り抜けないと……。

「わたしやフィルに怪我をさせたら、ただじゃ済まないのは、わかっているでしょう?」

暗にわたしは王太子のアルフォンソ様のことをほのめかした。けれど、カルメロは一笑し、黙って剣を振り上げた。

サグレス王子が背後にいる以上、怖くない、ということなんだと思うけど……。

これも、サグレス王子の命令? 

でも、こんな卑劣で短絡的な手段を取るような人には、サグレス王子は見えなかった。

わたしは身構えた。初撃をかわして、そして剣さえ奪い取れば……なんとかなるかもしれない。

けれど、カルメロの剣は相変わらず鋭くて、わたしは最初の一撃を避けるだけで精一杯だった。

しかもフィルもいる。フィルをかばいながら、反撃するのは不可能だ。

わたしは二撃目の剣を避けようとして、転んでしまった。

「お姉ちゃん……!」

フィルの叫び声が聞こえる。

もうダメかもしれない。わたしはカルメロが振り下ろそうとする木剣を見て、ぎゅっと目をつぶる。

けれど、次の瞬間、何も起こらなかった。

おそるおそる目を開けると、そこには、長身の男性がわたしに背中を向けて立っていた。

その人は細長い木剣を構え、そして、カルメロと向き合っている。

どうやら、その人が、カルメロの剣を防いでくれたみたいだ。

そして、彼は、わたしたちがさっきまで会っていた人だった。

「ば、バシリオ先生!?

「なんだか喧しいと思って来てみたんだけどね。どうやら、丸腰の相手に暴力を振るおうとしている生徒がいるみたいだ」

飄々ひょうひょうとバシリオ先生は言う。

カルメロは驚いた様子だったが、けれど、やがて余裕の笑みを浮かべた。

「誰かと思えば……古いことにしか興味のない、能無しの先生じゃありませんか」

「ああ、そのとおりだね」

カルメロの挑発にも乗らず、バシリオ先生は剣を構え直す。一方、カルメロもふたたび剣をまっすぐにバシリオ先生に向けた。

サグレス王子がいる以上、王族のバシリオ先生だって、怖くないんだろう。

さらに……カルメロは学園の一年生とは言え、剣術の腕はかなりのものだ。たいていの大人では手も足も出ないと思う。

一方、バシリオ先生は……どう見ても、本と古い遺物を相手にしてきたインドア派で、強そうには見えない。

「せ、先生。無理をしないでください」

わたしが声をかけると、バシリオ先生はこちらを振り向かないまま答えた。

「大丈夫。無理をするというのは、僕がもっとも嫌いなことなんだ」

その言葉には、少しだけ面白がるような響きがあった。

「手加減は……しませんからね!」

カルメロが鋭い斬撃を繰り出し、踏み込んだ。

……勝負は一瞬だった。

「……え?」

わたしもフィルも息を呑んだ。

カルメロは……呆然と立ち尽くしていた。その手にはもはや剣はない。

バシリオ先生の木剣が、カルメロの剣を捉え、そして、叩き落としたようだった。目にも留まらぬ速さ、というのはこういうことを言うのだと思う。

わたしには……何が起こったかわからなかった。

ただひとつ、バシリオ先生が勝ったということ以外。

「まだ続けるかね?」

バシリオ先生は、あたりを瞬間で凍えさせるような冷たい声で言った。

さっきまでの、穏やかな教師の雰囲気はどこにもなく……バシリオ先生は苛烈にすら見えた。

カルメロが顔を歪ませ、そして、剣を床から取り、そして、ふたたび斬りかかる。

けれど、二度目の勝負も一瞬で、決着がついた。

バシリオ先生は軽々とカルメロの剣を避け、そして、したたかにカルメロの胴を打った。

カルメロは苦痛にうめき、そして剣を取り落とした。

憎しみのこもった目で、カルメロはバシリオ先生を見上げている。

「あなたは何者なんですか?」

「ただの能無しの教師さ」

「そんなはずない! ただの教師や王族が、こんなに強いはずがない。それに、その剣術は……」

「そう。国家傭兵団アルモガバルスの剣だ。かつて僕は国家傭兵団アルモガバルスの少佐だった。それがどうかしたかな」

わたしはあっと驚いた。国家傭兵団アルモガバルスといえば、カロリスタ王国軍最強の部隊だ。

国王の直接の指揮下にあり、あらゆる汚れ仕事を行い、そして、激戦地に赴く。王国の財政のため、外国の戦争にも参加して、金を稼いでくるのも仕事だった。

そんな軍人の中の軍人なら、カルメロに勝つのだって簡単なはずだ。

でも、バシリオ先生がそうだったなんて、とても信じられない。

バシリオ先生は急ににっこりと微笑むと、がらりと穏やかな雰囲気に変わった。

「さて、カルメロ君。今の僕は、軍人じゃなくて教師だ。というわけで、今度の件で、明日の朝、呼び出させてもらおうか」

もう、カルメロは抵抗する気もなくなったのか、こくこくとうなずいていた。

「最後に一つ。君はクレアさんとフィル君に言うべきことがあるね」

「……申し訳ありませんでした!」

カルメロは怯えた様子で言うと、そして逃げるように立ち去り、廊下から一瞬で消えた。

よほどバシリオ先生が怖かったんだろう。

バシリオ先生はため息をつくと、わたしたちの方を向いた。

そして、ぽりぽりと頬をかいた。

「災難だったね。それに、恥ずかしいところを見せてしまった」

「いえ……すごかったです。あんなに……先生が剣術に強いなんて思いませんでした」

「僕のは剣術とは呼べないね。今となっては、何の役にも立たない、人殺しの技術だよ」

バシリオ先生は気負う様子もなく、卑下するでもなく、淡々という。

フィルがわたしの袖を引っ張った。

「ねえ、クレアお姉ちゃん……」

「なあに?」

「お姉ちゃんは、剣の練習相手を探していたんだよね?」

わたしはフィルの目をまじまじと見つめた。フィルの言いたいことがわかったからだ。

バシリオ先生は不思議そうに首をかしげている。

フィルは顔を赤くして、わたしとバシリオ先生を見比べて言う。

「バシリオ先生に、剣の師匠になってもらえばいいんじゃないかな」

たしかに……それは良いかもしれない。

あれほどの実力を持っていて、しかも、特殊な剣術の使い手なら、学べることは多いはず。

バシリオ先生は目を白黒させた。

「いやあ、まあ、国家傭兵団アルモガバルスの剣術は門外不出というわけでもないし、教える分には問題ないけど。ただ……」

「ただ?」

「僕が教えるなんて、向いてなさそうだけどね」

「一応、教師ですよね……」

バシリオ先生は、ははは、と笑った。

わたしはバシリオ先生に対して、何か見返りを出そうと思った。例えば、公爵領で、なにか先生の研究に役立ちそうなものを見つけるとか……。

でも、わたしがそう言うと、バシリオ先生は笑って断った。

「気持ちはいただいておくよ。リアレス公爵家が研究に協力してくれるなら、嬉しいからね。でも、君のいうとおり、僕は教師だ。生徒を教えることに、見返りなんてもらわないよ。給料だけで十分だ」

「でも……」

「それに、クレアさんは……どうも、この先も危険な目にあいそうだからね」

バシリオ先生は淡い青色の瞳で、わたしを穏やかに見つめた。

この先生は、何かに……わたしが秘密を抱えていることに気づいているのかもしれない。

でも、いま、重要なのは……剣の技術をより磨いて、剣術大会で優勝することだった。

フィルを陥れようとしたサグレス王子を倒す。そして、輝魔石のペンダントを手に入れて、フィルとおそろいにするんだ!

「ありがとうございます。バシリオ先生、これからよろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ」

そして、フィルを振り返る。この提案が実現したのは、フィルのおかげだ。フィルがいなければ、わたしはバシリオ先生のもとを訪れなかったし、剣を教えてもらえるほど好意的には思われなかったかもしれない。

でも、フィルはなぜだか、わたしとバシリオ先生を不安そうに見つめていた。

フィルはとてとてと、バシリオ先生のもとへ行く。

「あの……」

「なんだい?」

バシリオ先生は身をかがめ、優しくフィルを見つめた。

そして、フィルは、わたしには聞こえないほどの小さな声で、バシリオ先生にささやく。

バシリオ先生は、フィルの言葉を聞き終わると、にっこりと笑った。

「大丈夫。僕は君の大事なお姉ちゃんを取ったりしないよ」

フィルは顔を赤くして、こくこくとうなずいた。

その日から、わたしはバシリオ先生に剣の授業を受け、フィルはレオンの指導のもとで剣術の訓練を積んだ。

バシリオ先生は本人の言葉とは違って、剣の技術については、とても教えるのが上手だった。

ある日、校庭の一角で剣術の練習をしていたときに、わたしたちは短い休憩をとった。そのときに、本人に聞いてみることにした。バシリオ先生は肩をすくめて言う。

「そりゃまあ、僕が使っているのは、軍隊の剣術だからね。当たり前だけど、軍は大勢の兵士が同じぐらいの能力を持って戦えるようにしないといけない」

「だから、技術の共有が簡単にできるように工夫されているということですね?」

「そういうことだよ。国家傭兵団アルモガバルスは国王軍最強の部隊だと言われているけど、やっていること自体は平凡な軍隊そのものだ」

そうは言っても、バシリオ先生の強さは、圧倒的だった。わたしでは、まったく歯が立たない。

剣を持ったときだけ、まるで人が変わったみたいだ。

こんなに強いのに、どうしてバシリオ先生は軍を辞めたんだろう? 国王軍最高司令官の父もいるのだから、出世だってできたはずだ。

「だからこそ、嫌になったのさ。君はアルフォンソの婚約者だったよね」

「はい」

「君は、まっすぐに未来の王妃になれればいいけれど」

バシリオ先生はそう言って、柔らかく微笑んだ。

王族出身の軍人として、バシリオ先生は未来が約束されていた。でも、何か挫折が……きっとあったんだと思う。

具体的になにがあったかはわからない。

でも、きっと、わたしも同じだ。前回の人生では、順風満帆に王妃になるはずが、処刑されてしまった。

そうなってみれば、王妃とか王太子の婚約者とか、そんな身分なんてどうでもよくなって……代わりに、フィルという大事なものを見つけた。

「まあ、アルフォンソはいいやつだけれど、気が弱いからね。クレアさんのような強い人がいるとぴったりかもしれないな」

と、バシリオ先生はつぶやく。

アルフォンソ様やサグレス王子は、バシリオ先生の従弟にあたる。呼び捨てなのが新鮮だった。

「さて、今日の練習はそろそろ終わりにする?」

「いえ、まだまだです!」

わたしは剣を構え直した。バシリオ先生は「教え甲斐があるね」と微笑んでくれた。

今頃、フィルはレオンと練習に励んでいるんだろうな、と思う。ああ、フィルに教えてあげたかった。

でも、仕方ない。

わたしは目の前の練習に集中することにした。

そんなふうにして、わたしたちは剣術大会の日を迎えた。