「大丈夫。わたしの弟はフィルだけだから!」

といって、わたしはフィルを抱きしめようとして、フィルにさっと避けられた。

残念……。

「お姉ちゃん、抱きしめるのはダメだってば! それに、ヤキモチなんか焼いてないし……」

「ホントに?」

とわたしが聞くと、フィルは目をそらして、「お姉ちゃんの意地悪……」と言う。

わたしはフィルの髪を軽く撫で、フィルはむうっと頬を膨らませながらも、それを受け入れていた。

レオンが「俺よりも、フィル様とクレアお嬢様との方がずっと仲良しじゃないですか……」とつぶやいていた。

そういえば、フィルは用事があるんだったっけ。

フィルはためらうように、わたしを上目遣いに見た。手をもじもじとさせている。

「どうしたの? 何でも言っていいよ」

とわたしが微笑むと、フィルはようやく決心したようだった。

「えっと……ぼくも剣術大会に出ようと思って」

「フィルが!?

「おかしいかな?」

「ううん、おかしいってことはないけど……」

どうしたんだろう? フィルは本と古いものが大好きなインドア派で、前回の人生でも剣術大会に出てはいないはず。

「決闘のとき、お姉ちゃんに代理人になってもらったでしょう? 今度は自分で戦って……お姉ちゃんを守れるようになりたいなって思ったから」

そういうことなんだ。たしかにフィルは決闘のとき、自分でも戦えるようになりたいと言っていた。

だから、剣術の練習をして、剣術大会にも出てみたい。そういうことらしい。

「……お姉ちゃん、何でにやついているの?」

フィルにジト目で見られ、わたしは慌てて自分の頬を引っ張った。

そんなににやけ顔になってたかな? フィルはくすっと笑った。

「ごめんなさい。フィルがわたしを守ってくれるって言ってくれて嬉しくて……」

「すぐには、そんな力は手に入らないと思うけど……」

「ありがとう。きっと、いつかフィルはわたしより強くなるわ。だって、わたしの自慢の弟なんだもの」

そう言うと、フィルは恥ずかしそうにこくんとうなずいた。

「それにね、優勝の賞品がほしいなって思ったんだ。ぼくが優勝するなんて、できないとは思うけど」

「それなら、わたしが優勝するつもりだから、勝ったらフィルにあげる。でも、賞品ってなんだったっけ?」

この学園の生徒はみんな貴族の子弟だ。お金で買えるものだったら、手に入ってしまうことが多い。

もちろん貧乏貴族もいるのでひと括りにはできないけれど、でも、賞品はもっと特別なもののはずだ。

「あのね、輝魔石のペンダントなんだって」

フィルは恥ずかしそうにそう言った。

輝魔石、というのは濃い緑色の宝石だった。それが特別なのは、魔力を宿しているからだ。

この大陸ではほぼ失われた魔法の力を、わずかだけれど秘めている。

そんな貴重なものなんだ。お金を出せば手に入るというものでもない。

さすが王立学園……。学園の剣術大会は、思い入れのある卒業生の大貴族が、応援している。だから、そういうことがあってもおかしくないけれど。

「それにね、お姉ちゃん。その輝魔石のペンダントは、二つもらえるんだって」

「二つ?」

「うん。……言い伝えがあってね。同じペンダントを……二人で一緒に身に付けていると、ずっと……一緒にいられるんだって」

フィルは顔を赤くしてうつむいた。

わたしはしばらく考えて……そして、わたしも顔が赤くなる。

「えっと、もしかして……」

「お姉ちゃんと一緒に輝魔石のペンダントを付けたいなって思うんだ」

フィルはそう言って、赤い顔のまま微笑んでくれた。

そっか。フィルは、わたしとずっと一緒にいたいと思ってくれているんだ。

それはきっと、今だけで……いつか、フィルはわたし以外の他の誰かを必要とするようになると思う。

でも、今は、フィルが素敵な提案をしてくれたことが、とても嬉しかった。

「ありがとう。わたしもフィルとおそろいのペンダントをしてみたいな」

わたしはフィルの髪を軽く撫で、フィルはくすぐったそうに身をよじった。

そういうことなら……わたしは絶対に優勝しないといけない。

それにフィルも大会に参加するなら……わたしがフィルに直々に剣を教えてあげないとね!

「あー、フィル様に剣を教えるのは、俺がやりますよ」

とレオンが手を挙げる。

「ど、どうして?」

「だって、クレアお嬢様は剣術大会で優勝するつもりなんでしょう? だったら、自分の練習に時間を使わないと」

レオンの言うことは、完全に正論だった。「で、でも……」と弱々しく反論しようとするわたしに、レオンはにっこりといい笑顔を浮かべた。

「まったく、お嬢様もフィル様も、俺のいる前で二人きりの世界に入ってしまうんだから……。さあ、フィル様。俺が剣術をしっかり教えてあげますよ」

「う、うん……」

レオンはフィルの手をとり、木剣を渡した。そして、剣術の姿勢を教えるため、フィルの体をぺたぺたと触っている。

ああ、わたしがレオンと代わりたい!

よっぽどわたしは剣術大会のことを放り出そうかとすら思った。でも、そういうわけにもいかない。

レオンより強い練習相手を見つけないと……。

そのとき、わたしは視線を感じた。誰かが……わたしを見つめている。

この場所だと、視線の主がいるのは……校舎の窓の向こう?

わたしは振り向いて校舎を見上げたけど、誰もいる気配はなかった。

……何だったんだろう? わたしは気になりながらも、その日は謎の視線のことを忘れることにした。

その日からレオンからフィルへの剣術の指導は始まって、なかなか上手くいっているみたいだった。

以前から思っていたけど、この二人、けっこう相性が良いみたいだ。フィルは繊細だけれど素直だし、レオンは意外と優しくて人を引っ張る力もあるから、たしかに剣の練習も順調なのはわかる。

わかるのだけれど……。

「面白くない……」

とわたしは自分の部屋で、天蓋付きベッドに寝転がってつぶやいた。もう夜で、しかも自分の部屋なので、完全にだらけきった薄手の寝間着姿だ。

まるで、フィルをレオンに取られてしまったみたいな気分だ。

メイド服のアリスが部屋にいて、いろいろと世話を焼いてくれている。

前回の人生では、アリスが死んでしまっていたから、別のメイドがいたわけだけれど、歳も離れていたし、アリスとのような親しさはなかった。

ぼんやりとアリスを見つめていると、アリスがこちらに気づいたのか、淡い灰色の目でわたしを見つめ返し、にっこりときれいな笑みを浮かべてくれる。

ああ……アリスがいてくれて良かった。

アリスがわたしのもとに近づいてきて、「失礼します」と言って、ベッドの上に腰を下ろす。

そして、うつ伏せでだらけるわたしの肩に、アリスは軽く触れる。

「お嬢様、お疲れでしょう?」

「まあ、決闘とか、いろいろあったからね……」

「それでは、マッサージをして差し上げます」

「ホントに!?

「はい♪」

アリスは嬉しそうに微笑んだ。お屋敷を離れて学園に入学してからは、あまり機会がなかったけれど、アリスのマッサージはとても上手だ。

アリスはメイドである以前に、学園の生徒だから、忙しくて頼むのを遠慮していたけれど、アリスから言い出してくれたし、たまには甘えてもいいか、と自分に言い訳する。

「それじゃお言葉に甘えて……」

とわたしが言うと、アリスはわたしの肩を、柔らかい手のひらでそっと押す。

ああ……心地よい。このまま、眠っちゃいそうだ。

アリスは小声でわたしにささやきかける。

「お嬢様……なにか悩みごとがあるんですか?」

「うん。悩みというほどのことじゃないんだけどね……」

わたしは、フィルとレオンの仲の良さに、ヤキモチを焼いているのだと素直に言った。

アリスは目を丸くして、それから、くすくすと笑った。

「お嬢様も面白いことを考えますね」

「だって……」

「心配しなくても、フィル様にとって、クレアお嬢様よりレオンくんの方が大事なんて、そんなことにはならないと思いますよ」

「でも……フィルとレオンって、とっても仲が良いし。それに……男の子同士だから、わたしよりも……いろいろと話しやすいのかなって思っちゃって」

レオンはフィルと同じ男の子で、学年も同じだ。わたしは女子だし、フィルよりも二つ年上。

フィルとレオンの友情のような関係は、わたしはフィルとは築けない。そのことが……羨ましかった。

アリスは優しく微笑んだ。

「たしかにクレアお嬢様はレオンくんにはなれません。でも、レオンくんもクレアお嬢様にはなれないんです」

「わかっているの。でもね、フィルにとって、姉のわたしより、友人のレオンの方が大事になっちゃうんじゃないかって……」

「大丈夫です。フィル様の姉になれるのも、恋人になれるのもお嬢様だけなんですから」

「こ、恋人!?

「はい。だってクレアお嬢様は女の子で、フィル様は男の子ですし」

「でも、フィルはわたしの弟で……」

「血はつながっていないではありませんか。王太子殿下という婚約者がいながら、義弟への禁断の恋。ああ、素敵……」

とアリスが笑いながら言うのを聞いて、冗談だと気づく。いや、まあ、たしかにレオンとフィルと違って、わたしとフィルは異性でもある。そのことをまったく意識しないわけでもないけれど。

「ああ、でも男の子同士や、女の子同士というのも……ありかもしれません」

などとアリスが面白そうに片目をつぶってみせる。

わたしは、咳払いをした。

「と、ともかく……わたしも、改めてフィルと仲良くなりたいなって思ったの」

「そうですねえ。レオン師匠と弟子のフィル様という関係ができちゃいましたものねえ」

レオンとフィルは、従者と主人、同級生の友人、という関係に加えて、剣術の師弟ともなった。

これまで以上に、二人が親しくなることは間違いない。

「とすれば、お嬢様もフィル様と新しい関係を作ればいいんですよ」

「それって、どんな……?」

「それはもうラブラブの恋人同士とか?」

「あ、り、す? 真面目に答えていないでしょ?」

「あはは、バレました?」

アリスは悪びれるでもなく、くすくすと楽しそうに笑い、わたしの身体に優しく触れてマッサージを続けている。その顔は幸せそうで、わたしもついつい、アリスの冗談を許してしまう。

アリスは「うーん」とつぶやき、真面目な顔になる。

「フィル様が何を必要としているか、だと思うんですよね」

「フィルが必要としていること?」

「はい。フィル様にとって、大事な家族で、姉のクレアお嬢様が必要なのは間違いありません。同時に、剣術の師匠としてのレオンくんも必要なわけですよね。そのフィル様にとっての『必要』を見つけてあげればいいと思うんです」

「そっか……。たしかに、そうだよね」

アリスの言うことは、説得力があった。わたしがそう言うと、アリスは「二つ年上ですから」と言って胸を張ってみせる。

アリスの言うとおりだ。

今よりもフィルに必要とされるには、どうしたらいいんだろう?

フィルは……今、何を必要としているんだろう?

こんこん、とノックの音がする。

わたしとアリスは顔を見合わせる。

こんな時間に誰だろう? 

わたしがどうぞ、と言うと、扉が開いた。

そこにいたのは、寝間着姿のシアだった。

いつもの純白の服じゃなくて、ピンク色の可愛らしいネグリジェ姿だった。その手には、小さな皿がある。

「あ、あの……クレア様、お疲れのようでしたから……寝付きがよくなるはちみつ入りのハーブティーをお持ちしたのですが……」

と言いながら、シアは扉を閉めて、そして、わたしと、わたしの身体に触れるアリスを見て固まる。

「……い」

「い?」

「いいなあ」

とシアはつぶやいて、唇に人差し指を当て、わたしたちをじーっと見つめた。

そ、そんなにアリスのマッサージが羨ましいのかな。

「あら、シア様に誤解されてしまいますね」

とくすくすとアリスは笑って、わたしから離れた。

マッサージは終わり、ということだと思う。……残念。

シアが身を乗り出して、アリスに迫り、「か、代わってください」と言っている。アリスはにこにこして「ダメでーす。クレアお嬢様にマッサージするのはあたしの特権ですから」と応じていた。

あれ、シアはてっきりアリスのマッサージを受けたいのかと思っていたけど……。

あっ、それよりも、マッサージはおしまいになったけど、シアが持ってきてくれた、美味しそうなお茶がある。

とても香り豊かなそのお茶は、果実感のあるそそられる匂いを部屋に漂わせていた。

シアは、アリスの分も用意してきてくれていたようで、わたしたちは三人並んでお茶を楽しむことにした。

林檎草マンサニージャという、ハーブを使ったお茶だそうで、眠気を誘い、睡眠の質を良くするという。

わたしたち三人は、しばらく幸せな気持ちを味わった。シアは若干頬を火照らせて、アリスは穏やかな表情で、お茶を味わっている。

考えてみれば、不思議だ。

前回の人生では、アリスは幼くして死んでしまって、シアはわたしと絶交してしまって。そして、わたしは処刑された。

そんな三人が、こうして並んで、夜に一緒の部屋で、お茶を味わっているなんて。

林檎草という名前のとおり、お茶からは林檎のような香りがする。

シアがふと思い出したというようにつぶやく。

「林檎草って、旧トラキア帝国の国の花だったそうなんですよね」

「へえ。意外ね」

トラキアは今は共和国で、貴族たちが議会を作って国を統治している。ただ、二千年近い昔、まだ魔法があり、神々がいた頃、トラキアは帝国を名乗り、大陸の覇権国家だったという。

「林檎草が国の花なのには由来があるんです。旧トラキア帝国が、隣国との戦争に敗れたとき、一人の銀髪の皇女が国民の代わりに命を捧げ、処刑されました。その皇女から流れた血の跡から、一輪の花が咲いて……それが林檎草の真っ白な花だったそうです」

「悲しい話ね」

もうほとんど歴史も伝わらないような、昔の話だ。

悲劇的な神話だけど、事実ではないだろう。

ただ、皇族や王族という人々は、権力を得る代わりに、それだけの責任を負わされているということでもある。

高貴なる者の義務、というやつだ。わたしはそんな物を背負いたくないから、王妃になんてなりたくないけれど……。

こういう昔の話は、フィルが聞いたら喜びそうだよなあ、と思いながら、わたしはお茶にふたたび口をつける。

ん? なにかひっかかるような……。

しばらく考えて、わたしはひらめいた。

……そうだ! フィルは本が大好きで、そして古いものや……歴史の話も大好きだった。特にずっと昔の時代のことが好きなはず。

わたしがフィルにそういうことを教えてあげられるようになれば……別の意味でも、フィルから必要とされるかもしれない。

そのためには……。

わたしが考え込んでいるあいだに、いつのまにか、シアとアリスが学園のうわさ話をしている。

こういうとき、うわさの餌食になるのは、生徒だけじゃなくて教師も同じだった。

「アリスさんって、バシリオ先生の古代学の授業って受けてるんでしたっけ? 後期の選択科目の参考にしたいので、どんな感じか教えてもらえないかなと思って……」

「そういえばそんな授業もありましたね。変わった先生ですよ。あの先生も、見た目は悪くないんだから、もう少し身なりに気を使えばいいのに」

「あの授業の内容は……?」

「何も覚えていないです」

とアリスはふるふると首を横に振り、シアは「あはは」と引きつった顔をしていた。

基本的に真面目なシアと、適度に手を抜くアリスの性格の差が現れている。

この学園でいちばん大事なのは、古典語と呼ばれている古い言葉の学習だった。大陸全体で使われていて、今でも外交のために用いられる言葉だから、貴族の教養として必須だった。

だから、進級や卒業のために必要な成績も、古典語の比重が最も高い。

反面、歴史は科目としてはそれなりに重要だけど、それもごく最近の出来事だけ。

古代学ともなると、人気のない選択科目でしか無い。その教師が、バシリオ先生だった。

二人が話題にしているのは、バシリオ・エル・アストゥリアス。

この学園の教師であり、考古学者だった。そして、王族でもある。

生徒に人気のない先生ではある。

だけれど、魔法時代より古い時代の専門家だ。この学園で、考古学のことを聞くとなると、バシリオ先生が適任だと思う。

フィルと一緒に、一度会いに行っても良いかもしれない。

ただ……。

問題は、前回の人生では、わたしとバシリオ先生との仲はあまり良くなかったということだった。

「ようこそ。クレア・ロス・リアレスさん。それに弟のフィルくん」

目の前の教師は眠たげな目をこすりながら、穏やかな低い声で、そう言った。

バシリオ先生だ。

赤色の髪は、サグレス王子を思い出させる。けど、サグレス王子よりもずっとくすんだ色で、地味だった。

淡い青色の瞳も、アルフォンソ様のような輝きはない。

ひょろりと背が高くて、そこは大人だなあと思う。

それなりに美形なはずなのだけれど、全体的によれよれの服のせいで台無しだ。

教師になったのは二十代後半と遅くて、今は二十九歳のはずだけれど、もう少し年上に見える。 

「眠っていらしたのですか?」

とわたしが尋ねると、バシリオ先生は「そう」とこくっとうなずいた。まだ授業が終わったばかりの夕方なのに……。

部屋に舞うホコリを、窓からの夕日が照らす。

ここは西校舎の三階の片隅にある、古代学講座の準備室だった。事実上、バシリオ先生の研究室といってもいい。

人間嫌いのバシリオ先生は、教師たち共用の仕事部屋にはめったに出向かないらしい。

そんなところに、わたしはフィルと二人で来ていた。

「こんなところに、生徒が来てくれるなんて珍しいね」

とバシリオ先生はかすかな微笑みを浮かべて言う。

まあ、たしかに、バシリオ先生は、人気はない。

冴えないし、授業は下手だし。

ただ……悪い人ではないのだと思うけれど。

フィルはきょろきょろと所在なさげに、わたしとバシリオ先生を見比べた。

そして、棚の奥の物を見て、ぱっと顔を輝かせる。

そこには、バシリオ先生の収集品の、古そうなものが並んでいた。

フィルは上目遣いにバシリオ先生を見る。先生はにっこりとして、「自由に見てご覧」と言った。

フィルは嬉しそうにうなずくと、棚を見て回った。

貴重なものが置かれていると思う。でも、わたしにはその価値がわからない。

神様の石像、みたいなものは、遺跡の出土品なのかなとわかる。

けれど、わたしがかがみ込んで見たところにあったのは、ただの木の棒のようなものだった。

たしかに加工されているようで、先端が曲がっているけど……なんだろう、これは?

「ええと、背中がかゆいときにかくやつ?」

わたしの言葉にフィルがくすっと笑う。

「お姉ちゃん、それは昔の人の斧だよ」

「斧? でも木だけだけど……」

「その先端に、石を縄で固定して、木に当てるんだ」

そうすると、木が斬れるらしい。斧の取手の部分だけが見つかって、こうして収蔵品になっていることはとても多いらしい。

とフィルに聞いて、へえ、とわたしは感心する。

「よく知ってるね」

とバシリオ先生もフィルを褒める。わたしがフィルに教えるどころか、フィルにわたしが教えてもらっている。

まあ、でもフィルも楽しそうだし、一緒に楽しめれば、まあ、いいか。

古い銀貨とか、凝った神像とか、そういうのは、わたしも見て楽しめる。

すべての遺物には、白いラベルのようなものが貼ってあった。

「どこで見つかったものか、という情報と組み合わさって、はじめて遺物は歴史を知る手がかりになるからね」

と、バシリオ先生はフィルに説明している。人見知りのはずのフィルは、珍しくすぐにバシリオ先生には慣れたようだった。先生の言葉に、こくこくとうなずいている。

二人は意外と性格的に相性がいいのかもしれない。

……フィルがバシリオ先生みたいになるのは、ちょっと困るけれど。

バシリオ・エル・アストゥリアスという先生は、ただただ考古学のことにしか関心がない変わり者だった。

バシリオ先生は、国王の弟フランシスコ殿下の長男だった。フランシスコ殿下は国王軍最高司令官で、とても有能な軍人なのだという。

バシリオ先生はそんなとても高い身分と権力のある父親を持ちながらも、この国の政治にも宮廷での社交にも背を向けて、ひたすら古い時代の研究に没頭している。

かつてのわたしには理解できない人だった。

前回の人生のわたしは、理想の王妃を目指していた。それが自分の幸せだと思っていたし、そして、国に貢献するのが、高貴な者の義務だと思っていた。

もちろん、それはとんでもない勘違いだったと今では思う。

でも、当時はそんな考え方をしていたし、そうすると、バシリオ先生のように、王族としての立場を捨てた存在には、反発もあった。

それに……バシリオ先生はいつも授業をちゃんと行わなかったし……。

だからこそ、わたしはバシリオ先生のことを軽蔑していた。

そして、バシリオ先生が研究ばかりしていることを、「そんなの何の意味があるんですか?」と言ってしまったのだ。

これが、前回の人生での、バシリオ先生と仲が良くなかった原因だった。

今は……バシリオ先生のおかげで、フィルは楽しい時間を過ごせている。

少なくとも、今のわたしはバシリオ先生のことを見下したりはしていない。

前回の人生のわたしは、愚かで傲慢だったな、と思う。

今のわたしと、バシリオ先生は立場が近いかもしれない。

わたしもバシリオ先生も、高い身分に執着なんてしていない。その代わり、別の大事なものがある。

バシリオ先生にとってはそれが考古学の研究で、わたしにとっては弟のフィルなのだ。そんなことを考えながら、棚を見ていたら、その中の一つに目を留める。

石と鉄が組み合わさったような……板だった。

赤い線が走っているのは、何かの顔料だろうか。

なんだろう、これ?

フィルに聞いてみるけど、フィルも不思議そうに首をひねった。

「ぼくも……わからないや」

バシリオ先生が笑いながら、こっちにやってきた。

「わからなくて当然だよ。僕たち学者もわかっちゃいないんだから」

「そうなんですか?」

「いちおう祭祀さいし用……古い神様を祭る儀式に使われた、ということになっているけどね。ただ、考古学の世界で祭祀用というのは、つまり使い方がわからないから、そうだと決めつけていることがほとんどだから」

「ふうん」

「ただね、一つだけ手がかりがあって……この板には名前がある」

もったいぶって、バシリオ先生は微笑み、間を置いた。

そして、言う。

「これはね、ある地方で記録された伝承では……『夜の魔女の瞳』と呼ばれているんだよ」

わたしは大きく目を見開いた。フィルも固まっている。

こんなところで……「夜の魔女」という言葉を聞くなんて。

「よ、夜の魔女って……なんですか?」

わたしは動揺を抑え、何も知らないフリをして尋ねてみる。

バシリオ先生は、そんなわたしたちの様子の変化に気づいていないのか、それとも単に無頓着なのか、あくまで穏やかな表情だった。

「トラキア共和国西北の辺境、ソレイユ地方の伝承上の存在だよ。『夜の魔女来たりて、諸人の罪を背負う。災いは望まざるものにあらず。ただ天よりもたらされるもの』」

流れるように、歌うように、バシリオ先生が言う。

わたしが聞き返す前に、ちょっと恥ずかしそうにバシリオ先生は頬をかいた。

「今のが、ソレイユ地方につたわる古い伝承でね」

「どういう意味なんですか?」

「一種の救世主願望に分類されるね。夜の魔女、という超人的な存在が現れ、彼女がこの世の人々のすべての罪を背負い、浄化する。そうすることで、あらゆる人々が幸せになる理想郷がもたらされる、というわけだ」

「で、でも、魔女って……教会の異端のことですよね。神に逆らい、みんなを惑わし苦しめる存在なんでしょう?」

「今の教会はそういうね。ただ、もっと古い時代の宗教……神々の時代には、魔女、つまり魔法を使う巫女は、神の代理人、あるいは女神そのものとして崇拝されていたという記録も残っている。古代の神話が形を変えたもの、と考えれば、おかしな点はないさ」

「へえ……」

「魔女は、優れた魔法の使い手から、異端で邪悪な存在へと変わった。当時の人々は今とはまったく違った価値観を持っていたってことさ。そして、そういう異なる世界が存在する」

わたしとフィルは顔を見合わせた。

この伝承がどういう意味を持つのか、今はまだ、わからない。

ただ……魔女崇拝者のクロウリー伯爵は、「夜の魔女はこの国に救いと希望をもたらす」と言っていた。それはただの迷信ではなくて、ずっと昔の神話が根拠なのかもしれない。

わたしはおそるおそる尋ねる。

「その……伝承では、夜の魔女、はどうなるんですか?」

「この類型の説話は、たいてい同じ結末を迎えるね。つまり、罪を背負った救世主は、死ぬんだよ。みんなの苦悩を背負って、犠牲となるのさ」

とバシリオ先生は、なんでもなさそうに言う。

……それって。

つまり……。

わたしが破滅するのは、宿命だということになる。いや、もちろん、この伝承がわたしのことを言っているのかはわからないけど……。

王宮の預言には……伝承と同じことが書かれているんだろうか? 魔女崇拝者たちが、わたしを崇拝するのも……同じ理由なんだろうか?

フィルが「そんな……」とつぶやいて、ショックを受けていた。