そのつやつやとした黒い髪を……わたしは撫でたくなった。
うん。髪をなでるぐらいなら、いいよね? フィルは眠っているし……。
わたしは軽くフィルの髪を撫でてみた。とてもさらさらしていて、心地よい。
ああ……なんて幸せなんだろう。
夜の魔女の刻印は消えたし、いまのところ、破滅へ向かう暗い雲は一つもない。
フィルはセレナさんと親しくなって、それをきっかけにクラスの他の子とも話せるようになったという。
フィルもセレナさんもひとりぼっちだったから、みんな近寄りづらかったみたいだけれど、でも、二人が話している姿を見て、何人かのクラスメートが話しかけてくれたらしい。
フィルにとってもセレナさんにとっても良い結果になったのは、単純に嬉しい。
まあ、セレナさんは、なぜかフィルよりもわたしに懐いてしまったけれど……。いつも「クレア先輩♪」といって、わたしの後についてくる。
レオンが「まるで忠犬みたいですね」とさらっと言っていて、そばにいたセレナさんは抗議するかと思いきや、「うん。そうかも」とうなずいてしまった。
……いいのかな?
まあ、でも、セレナさんに慕われるのも、新鮮だ。前世は取り巻きの子たちはいたけど……セレナさんみたいに純粋にわたしを慕ってくれていたわけではないし。
それに、レオンともちょっと仲良くなれた気がする。
わたしはフィルの髪を撫で続けていると、だんだん眠くなってくる。
「クレアお姉ちゃん……」
フィルが小さく幸せそうにつぶやく。
か、可愛い……。寝言でわたしの名前を呼んでくれるなんて……。
「お姉ちゃん……そんなにたくさん皿をとっても……食べきれないと思うよ……」
あれ?
何の夢を見ているんだろう?
わたし、そんなに食いしん坊だったっけ……。
いや、そんなことない……こともないか。
美味しいものは大好きだし、特に今回の人生では我慢していない。
少しはしたないと言われたって、王妃を目指すわけでもないし、へっちゃらだからだ。
特に、フィルが作ってくれる料理は美味しいし。
で、でも、フィルに食いしん坊と思われるのはショックだ。
そんなことない! と言おうと、わたしは思わずフィルを起こしそうになり……。
無意識なのか、フィルの手がわたしの
たったそれだけのことで、どきりとしてしまう。
ど、どうしよう……。
今ならフィルは眠っているし、抱きしめ放題だ。
で、でも……それはさすがにまずいかな。
代わりにわたしはフィルの手を握ることにした。
そのぐらいなら、きっと罰も当たらないと思うし。
わたしは、わたしの膝の上の、フィルの小さな手を見る。そして、その白い手にそっと自分の手を重ねようとし……。
「何してるんですか、クレアお嬢様?」
「れ、レオン!?」
いきなり現れたその少年を、わたしは見上げる。
レオンは普段どおりの小綺麗な服に身を包み、不機嫌そうな表情でわたしを睨んでいる。
その後には白いマントを身にまとった王太子のアルフォンソ様がいる。
レオンとは対照的に、アルフォンソ様はにこにことしていて、わたしを見下ろしている。
ただ、目は笑っていなくてちょっと怖い。
いったい、二人はどうしたというんだろう?
「いや、アリスさんから、クレアとフィルがお昼寝に出かけたと聞いてね。僕たちも混ぜてもらおうと思ったわけだよ」
とアルフォンソ様は、相変わらずにこにこしながら言う。
レオンが補足する。
「こんな人目につかないところで、お嬢様とフィル様を二人きりにしておいたら、お嬢様が何をするかわかりませんからね……」
「失礼な。レオンはわたしを何だと思っているの?」
「姉バカ姫です」
とレオンは切って捨て、にんまりとする。
こいつ……。なんだか、先日の決闘の一件以来、ますますわたしに遠慮がなくなっているような気がする。
まあ、少しは仲良くなれたからかもしれない。前向きに捉えておこう。
フィルは相変わらず、すやすやとわたしの隣で眠っている。
ああ……。フィルとの幸せな二人きりの時間だったのに……。
そんなこと、考えても仕方ない。
たまには、アルフォンソ様やレオンと一緒も悪くない、と気分を切り替えた。
アルフォンソ様が口を開く。
「そうそう。クレアが親しくなった一年生の、セレナさんのことで話があるんだ」
セレナさんのことで?
セレナさんはマロート伯爵家の令嬢で、ちょっとおとなしいけど、とても良い子だ。
いまやわたしを「クレア先輩、クレア先輩」といって慕ってくれている。
そのセレナさんと、アルフォンソ様にどういう関係があるというんだろう?
まさか……セレナさんのことを好きになったとか?
どうやら今回の人生では、いまのところ、アルフォンソ様と、未来の聖女シアが仲良くなる様子はない。
ただ、アルフォンソ様がシアに関心を持たなかったといっても、別の女の子のことが気になるということもあるかもしれない。
わたしは一応、アルフォンソ様の婚約者だけど、前回の人生みたいに、婚約者の地位にしがみつくつもりはない。
フィルの方が、ずっと大事だし。
ただ、「王太子殿下の婚約者」という立場でなくなるときのあれこれで、わたしが破滅する可能性もあるわけで……無関心にはなれない。
というわけで、わたしはアルフォンソ様に、セレナさんのことが異性として気になるのか、という質問を直球でぶつけてみた。
アルフォンソ様はぽかんとした顔をして、それから碧色の美しい瞳を細くしてわたしを睨む。
「クレアが何を言っているかわからないんだけど……」
あれ?
なんか怒ってる?
アルフォンソ様を怒らせると……処刑されてしまう!
「僕はクレアの婚約者で、クレアは僕の婚約者だ」
と、アルフォンソ様は言う。
あっ。たしかに失言だった。わたしたちは婚約者同士。
なのに、婚約者を相手に他の女の子が気になるかなんて、尋ねるのは変だ。
アルフォンソ様は肩を落とし、ため息をつく。
「これは……ぼくがクレアの婚約者だって、思い知らせないといけないね」
と言って、アルフォンソ様は、わたしに近づき、身をかがめる。
壁とフィルに囲まれているわたしは、逃げることができない。
アルフォンソ様の端整な顔が目の前にくる。
その瞳は、真摯にわたしを見つめていた。