姉バカ姫のお嬢様:con Leon la Marquez

初めてリアレス公爵の屋敷を訪れたとき、なんて大きくて、立派な屋敷なんだろう、と俺はため息をついた。

俺の生まれたマルケス男爵家とは大違いだ。

男爵家といっても色々で、そのへんの侯爵家よりも歴史の古い家もある。そういう家は昔からの王家の忠臣として誇りを持っている。

逆に、新興の大商人が爵位を得たような家であれば、金はあるから、名門貴族よりも裕福な暮らしをしていることもある。

でも、マルケス男爵家は、そのどちらでもなかった。

百年ぐらい前に、マルケス家の初代が、リアレス公爵に付き従って武勲を挙げた。それで男爵の称号を得た。

初代男爵はそれなりに有能だったみたいだけれど、その子孫はみんなぱっとしなかった。

領地も少ないし、これといった特技もない。

俺の父親はいつも酒浸りで、ますます家は傾いた。

中途半端な歴史しかない、典型的な没落貴族が、マルケス男爵家だった。

そんな家に、俺は生まれた。

レオン・ラ・マルケス、なんていう貴族の名をもらっても、所詮、俺は最底辺の下級貴族のせがれにすぎない。

俺も父の男爵のように腐っていく未来しか思い描けなかった。

そんなとき、俺はリアレス公爵家へ使用人として出されることになった。

そういう下級貴族の子どもは、行儀見習いとして、上級貴族の家に奉公に出ることがある。

俺もそんなふうに、幼くしてリアレス公爵家を訪れることになったのだ。

ここで使用人として過ごして……公爵家の従者になる。そして、王立学園でぼんやりと学生生活を送り、卒業後は上級貴族にへつらう惨めな存在になる。

そんな将来を考えると、俺は自然と無気力に、シニカルになってしまう。

初めてお屋敷を訪れたとき、きょろきょろしていると、同い年ぐらいの少女に出会った。

青と白のドレスを着た、可愛らしい女の子だ。

彼女は俺と目が合うと、微笑んだ。

「わたしはクレア。あなたは?」

そう。

俺はそこで出会ったのだ、クレア・ロス・リアレス。公爵のカルル様の娘との初対面だった。

俺より一つ年上だというクレアお嬢様は……とても美しく、優秀で、何でもできる貴族令嬢だった。

しかも、王太子との婚約も決まっているという。

非の打ち所がない、と言う言葉は、クレアお嬢様のような人のためにあるんだろう。

そんな俺が、彼女に抱いた感情は……気に食わない、というものだった。

クレアお嬢様は、仕えるべき主だ。

なのに、どういうわけか、俺はお嬢様のことが好きになれなかった。

お嬢様が、物分り良さそうに、使用人の俺にも親切に振る舞おうとするのは、偽善に見えた。

澄ました顔で、なんでもこなしてしまうところも、気取っているように見える。

所詮、上流貴族のクレアお嬢様と、俺とは違う。

クレアお嬢様に、もし欠点があれば、俺は彼女のことを許せたかもしれない。

でも……クレアお嬢様は完璧だった。その存在を見るだけで、下級貴族の俺とは違うのだと思い知らされているような気になった。

クレアお嬢様は、内心では俺を見下しているんじゃないだろうか。

俺はそんなふうに思って、疑心暗鬼になり……そして、いつしか、ことあるごとにクレアお嬢様と衝突するようになった。

クレアお嬢様の一挙一動に腹が立ち、楯突いてしまう。やがて、クレアお嬢様も、俺のことを「生意気」だと言うようになり、仲は悪くなっていった。

先輩の使用人のアリスさんは、そんな俺をたびたびたしなめた。アリスさんはクレアお嬢様のことを妹のように可愛がっていたし、俺もしっかり者のアリスさんには頭が上がらなかった。

「レオンくんは、クレアお嬢様のことが嫌いなんですよね。でも、嫌いというのは、好きの裏返しなんです。だから、レオンくんは本当はクレアお嬢様のことが好きなんですよ!」

ずいぶんとぶっ飛んだ論理だ。

力説するアリスさんの顔を、俺は呆れて見た。

「そういうものですかね?」

「だって、どうでもいい人のことは、嫌いにもならないでしょう?」

たしかに、そうだ。

クレアお嬢様は俺にとってどうでもいい人間じゃない。俺が仕える身近な相手で、そして優れた存在だからこそ、俺は嫌っているのだ。

そういう意味ではアリスさんの言っていることの半分は当たっている。アリスさんは積極的に、俺とクレアお嬢様の仲を取り持とうとした。

ただ、そんなアリスさんがいてさえ、俺はクレアお嬢様と仲良くなれなかったのだ。

そんな日々が変わったのは、フィル様がこのお屋敷にやってきた頃からだと思う。その頃からクレアお嬢様は人が変わったようになった。

具体的には……クレアお嬢様は……フィル様を溺愛するようになったのだ。

たしかに、フィル様は、男の俺の目から見ても可愛い。溺愛する気持ちはわかるのだけれど。

ただ……その溺愛の仕方というのが……。

隙あらばフィル様を抱きしめようとしたり、フィル様を女装させて可愛がろうとしたり……。

そして、俺たちに対して、フィル様がどんなに可愛いのか、熱く語るのだ。

「フィルより可愛い存在なんて、この世にいないの」

と言って、目をきらきらと輝かせるクレアお嬢様は……今までとは違っていた。

完璧で、澄まし顔の公爵令嬢はいなくて……。

弟を溺愛する姉バカ姫がそこにはいた。

あの非の打ち所がない公爵令嬢はどこへ消えてしまったのだろう?

学園に入学してもそれは変わらなかった。

クレアお嬢様は、フィル様のこととなると暴走する。図書室では静かにしないし、冷静な判断はできなくなるし……。

でも、そんなクレアお嬢様のことが……俺は嫌いじゃなかった。

フィル様のために必死になるクレアお嬢様の表情は……本物だったからだ。

そんなお嬢様のことが俺はまぶしかった。俺には必死になるようなものはなにもない。

フィル様を大事にするクレアお嬢様のことも、クレアお嬢様に溺愛されているフィル様のことも、俺は羨ましかった。

俺はいまでも同じようにクレアお嬢様と衝突した。憎まれ口を叩き、生意気なことを言っていると思う。

でも、それは以前のようなクレアお嬢様に対する嫌悪からではなくて……ヤキモチと親しみからくるものだった。

どうして、クレアお嬢様は、俺ではなくフィル様ばかり構うのか。俺だって、年下の男というところは変わらないはずなのに。

いや、べつにクレアお嬢様に溺愛されたいわけじゃないのだけれど……。

ただ、俺はフィル様とクレアお嬢様の関係が羨ましかったのだ。

逆に俺にも、クレアお嬢様にとってのフィル様のような……かけがえのない存在がいれば……。

俺の未来ももっと変わるかもしれない。

そんなとき、クレアお嬢様が俺を頼るという珍しい事態が起きた。

フィル様が学園のクラスに馴染めない、という問題を解決したいのだという。

まったく過保護だなあ、とは思ったけど、協力するのは嫌じゃなかった。

単純にフィル様のことは好きだったし。

そして、クレアお嬢様に頼られて……嬉しかったのだ。

そのことに気づいて、俺は愕然とする。

いったいどうしてしまったというのか。

これでは、まるで……俺がクレアお嬢様のことを意識しているみたいだ。

俺はクレアお嬢様に引っ張り回され、セレナさんというフィル様のクラスメートと、フィル様を仲良くさせる計画を手伝わされた。

でも……それはぜんぜん、嫌じゃなくて……。

クレアお嬢様は俺の教室にまでやってきて、慌てた。

姉バカ姫といっても、クレアお嬢様は王太子の婚約者の完璧令嬢だった。俺なんかとは違う有名人だ。

案の定、クラスメートにからかわれる。

クレアお嬢様もそのことに気づいたのか、俺を廊下へと引っ張っていった。

俺は……素直に従った。

窓から夕日の射す廊下で、俺はクレアお嬢様と向き合う。

内心ではクレアお嬢様が来てくれたのが嬉しかったのだけれど、俺はため息をついてみせる。

「あまり目立つようなことをしないでください、クレアお嬢様」

「目立つようなことって……わたしがしたのは、レオンの教室に来ただけじゃない?」

「それが目立っていたんじゃないですか。お嬢様は王太子殿下の婚約者なんですから。使用人の男のもとに何度も足を運んだりしたら、噂になるじゃないですか」

「噂って、どんな?」

無邪気にクレアお嬢様に問い返され、俺は言葉に詰まった。

……なんていえばいいんだろう?

その……。

俺は自分の顔が赤くなるのを感じた。

「つまりですね……お嬢様が俺に浮気しているとかそういう噂ですよ」

口に出してから恥ずかしくなる。

俺なんかと……クレアお嬢様が噂になるわけがない。

そんなこと……ありえないのだ。

でも、お嬢様はくすっと笑った。

「べつに、わたしはそんな噂を流されても平気だけど」

「平気じゃないでしょう。仮にも公爵令嬢としての体面が……」

「レオンは嫌?」

からかうような笑顔で、クレアお嬢様は俺に尋ねる。

俺は軽口で返そうと思って……でも、何も言葉が浮かばなかった。

代わりに、小声で言う。

「べつに嫌ではないです」

「へえ、ホントに?」

「何をにやにやしているんですか?」

クレアお嬢様は本当に楽しそうに、俺を見つめている。

その茶色の瞳が、いたずらっぽく光っていた。

ああ……。そうか。

もう俺はお嬢様のことが、まったく嫌いではないのだ。

「べつに俺はお嬢様のことが嫌いなわけじゃありません。それに……」

「それに?」

「フィル様のために必死で頑張るお嬢様は……ちょっといいなって思いますし」

本音をぼそっと言うと、クレアお嬢様はきょとんとして、みるみる顔を赤くした。

俺でも……フィル様でなくても、お嬢様にこんな恥じらいの表情をさせることができるんだ。

そのことに気づいて俺は嬉しくなった。

でも、やがてフィル様とセレナさんは本当に仲良くなってしまって……。

そうすると、クレアお嬢様が俺に関わる必要性はなくなってしまう。

そんなとき、フィル様が決闘を申し込まれた。セレナさんと親しくなったのが理由だということで、当然、従者の俺が、フィル様の代理人として戦うべきだったのに……。

俺は怖かった。剣術の訓練をしたことがあっても、他人の悪意と戦ったことはなかった。

そんな俺の恐怖は、クレアお嬢様に見抜かれていた。

クレアお嬢様は当たり前のように、俺の代わりにフィル様の代理人となった。

楽勝、楽勝、とクレアお嬢様は言っていたけれど、実際には敵は手強かった。

クレアお嬢様は苦戦して……俺は見ていられなかった。

敵の木剣が、クレアお嬢様の身体を打ち、お嬢様は苦痛に顔を歪めていた。

俺のせいで、クレアお嬢様が苦しんでいる。

俺が守るべき……方なのに。

「申し訳ありません、お嬢様。本来なら……俺が戦うべきなのに……」

「いいの。わたしが言いだしたことなんだし」

でも、お嬢様はぜんぜん平気そうに笑みを浮かべた。

まるで、普段と変わらず、フィル様と一緒にいるときのような笑顔だった。

「……お嬢様は怖くないんですね」

「そうかな」

「怖がっている様子が……お嬢様にはまったくありませんから。お嬢様は……とても……勇気があるんですね。俺とは違って」

「もっと褒めてくれてもいいよ」

お嬢様は冗談めかして笑う。でも、俺は笑い返すことなんてできるはずもなかった。

自分が、情けなかったのだ。

すると、突然、お嬢様は俺の金色の前髪をそっと撫でた。

びっくりして見上げると、お嬢様は優しく微笑んでいた。

「レオンもきっと勇敢な人になれるわ」

「そうでしょうか」

「自分が臆病なことを自覚できる者のみが、真の勇者になれる。初代リアレス公爵の言葉、知っているでしょう?」

俺はうなずいた。リアレス公爵家の身内ならみんな知っている言葉だから。

お嬢様は……これから俺が成長して、勇気を手に入れることができると言ってくれているのだ。

「だから、今はわたしに任せておいて」

お嬢様はそうきっぱりと言い、立ち上がった。

その姿はとてもかっこよくて……。

そして、お嬢様は敵を倒してしまった。

俺はこの不思議な主人の少女に、どうやっても敵わないと悟った。

だけど、そのことが俺は誇らしかった。

クレアお嬢様とフィル様のそばにいれば……きっと俺も何者かになれる。

そんな気がした。