閑話 アガサ・オルコックの後悔


 ランダース商会の社員寮。

 オレンジ色の屋根がのった三階建ての集合住宅。

 一階に食堂、シャワー室、ランドリールーム、休憩室など共用施設と私と夫が暮らす部屋があって、二階と三階が各人の個室だ。

 最大で十六人ほど生活できるけれど、現在は六人。数ヶ月間だけの出張で他国にある支店から来ている職員が泊まることもあるから、大体十人弱くらいの人が出入りしているのが日常。

 大半は男性職員で、今いる女性職員はひとりだけだ。

 まだ年若い人間の女の子。しかも家族もいなければ、つがいもいない。なんのまもりもない子。

 最初は遺児なのだろうと、番とはこれからきっと出会うんだろうって気楽に構えていた。でも、あるときあの子の身分証を見てそんな気楽な気持ちは吹き飛んでしまった。

 身分証の色は透明だった。あの子は異世界から、番と出会い結ばれるために呼ばれた子。

 普通なら市井で働くなんてしない。お披露目会で迎えに来た番と一緒に、番の元で幸せに暮らすのが異世界から呼ばれた人たち。

 向こうの世界にいる家族や友達、財産も名誉も全てを切り捨てて身ひとつで全く違う知らない世界にやってくる。だから、こちらでは番に愛されて不自由なく暮らす。異世界から呼ばれた番というは、そういうものだ。

 なのに、この商会でたったひとり働いているなんて……何か大きな訳があるんだろう。だから、せめてこの寮では安心して暮らせるようにしてあげようって夫と話し合った。つらいことがないように、楽しく笑って過ごせるように。

 レイちゃんが徐々にこの街に慣れて仕事に慣れて、寮での暮らしにも慣れていってくれるのがうれしかった。そのうちに、夕食やデートに誘ってくれる相手ができたこともすごく嬉しかった。

 出かけていった教会のバザーで、わいいヘアピンを贈ってもらったらしくて……その日から毎日、そのヘアピンで前髪を飾っているのが可愛らしかった。

 そのお相手と一緒に〝白花祭り〟に行ったことも、れいなブレスレットを贈られていたことも嬉しかった。レイちゃんは知らないかもしれないけど、〝白花祭り〟に一緒に出かけて白花の装飾品を贈られるということは、お相手が将来を真剣に考えているという意味があるのだから。

 だから、まさかこんなことになるなんて……夢にも思ってなかった。

 レイちゃんはいつだって元気で、病気知らずの子だ。毎日元気に仕事に出かけていたし、ご飯もちゃんと食べて、顔色だって良かった。

 けれど〝白花祭り〟が終わった頃からせきをし始めて、体調を崩しがちになったことは心配だった。夜の寒さに体を冷やして、体調を崩すことは人間にはよくある話だと聞いていたから。だから、朝ご飯を食べにレイちゃんが食堂へ下りてきたときとても驚いた。

「どうしたの、レイちゃん! 顔が真っ赤よ!?

「……おい、レイ。おまえ、熱があるんじゃねぇのか?」

 私の声にちゅうぼうで朝ごはんの目玉焼きを作っていた夫も顔を出し、真っ赤なほおに潤みきった目をして、ふらふらと歩くレイちゃんに驚いていた。

 急いで肩を貸して、食堂の椅子に座らせる。当のレイちゃんは「うーん」とか「目がかすむ」とか言って、コンコンッとき込んでいる。

「とても仕事に行けるような状態じゃねぇな」

 夫はレイちゃんと同じ本店に勤めている子に、レイちゃんが今日は体調不良で仕事を休むことをことててもらった。そして、そのままレイちゃんを支えながら彼女の部屋へ運び込んだ。

 私はレイちゃんの靴を脱がして服を緩めてベッドに寝かせると、額に冷たく絞ったタオルをのせてあげた。

「……アガサさ、ん?」

「大丈夫よ、今お薬持ってくるからね。お薬飲む前に、スープだけでも飲もうか。今朝はレイちゃんの好きなチキンスープだよ」

「ありがと……」

 大丈夫よ、と頭をでる。

 なんだか娘が大風邪を引いたときのことを思い出した。

 いつもはきちんとしていて、しっかりした娘なのに病気のときは少し弱気になって甘えてきた。

 レイちゃんもしっかりした子だけど、よく考えたらまだ成人したばかりの若い女の子だ。しかも頼る家族も番もない。ここは私が母親になって看病して甘やかしてあげよう、そう思った。

 朝食用のチキンスープを飲ませて、熱冷ましの薬も飲ませた。額の冷たいタオルを取り替えながら様子を見ていたけれど、夕方になっても治ってきている感じがしない。

「レイちゃん、病院に行こうか」

 飲ませた薬が効いていないってことは、風邪や疲れなんかじゃなくて何か重大な病気かもしれない。

 急に気温が下がったことで風邪を引いたんだと思っていたけれど、この街に来てからレイちゃんはよく働いている。疲れがまったのなら、休めばいいだけだけど……もしかして何か大きな病気でもしていたら? 人間特有の病気にかかっているのかも? と思ったらとても不安になった。

 一日っても回復してきていないから、病院に行って診察してもらおう、そう思った。

 身支度を整えて、レイちゃんには小さな肩掛けかばんにお財布と身分証を入れて持たせて、ふたりで寮を出る。まだ足元がふらつくので、レイちゃんの腕を組むようにしっかり支えた。

 夕食の支度で手の放せない夫に代わり、すでに仕事を終えて寮に戻ってきていたタヌキ獣人のポールに、つじしゃを拾ってくるようにお願いする。

 彼は寮から飛び出していき、ほどなく一台の辻馬車が寮の前に止まった。

 この街を走りまわる辻馬車にはドドム鳥が引く車が圧倒的に多い、けれど寮の前に止まった車はスリア馬が引いている。

 スリア馬は六本脚の馬で、とても速く長時間走ることができる。だから市中を走る車ではなく、街と街をつなぐ長距離の街道車を引くのに多く使われている馬だ。

 珍しいけれど市内を走る車に使ってないわけじゃないし、早く病院に行くことができるだろう。

「病院まではすぐだからね。大丈夫、診てもらえばすぐに良くなるよ」

「……アガサさん、ありがとう……ございます」

 鼻にかかった声がかなりかすれて、高い熱に顔も首も真っ赤だ。早く病院に行って診てもらわなくてはいけない。

「あれ、お嬢さんはご病気ですか?」

 御者台に座っていた耳の垂れたイヌ獣人の青年が降りてきて、レイちゃんに手を貸してくれた。

「ええ、今朝から具合が悪くてね」

「そりゃあいけない。病院はどこへ? かかりつけ医なんてあります?」

「ケアリー先生の診療所は分かる? ヒツジ獣人の先生がやっているの」

「ああ、東の七番通りにある診療所ですね。了解しました」

 御者の青年に行き先を伝え、力の入らないレイちゃんを客車に乗せようとした。

「レイちゃん頑張って、病院までもうすぐよ」

 声をかけた瞬間、私は背中に強烈な一撃を受けて石畳の道路に転がる。視界が上下左右に揺れて、地面に顔をこすりつけるようにうつ伏せに倒れた。痛みにうめき声がこぼれる。

 何が起きたの? 突然何?

 体を起こそうとした瞬間、背中を力いっぱい踏みつけられた。

 慌ただしい足音と馬のいななきが聞こえ、レイちゃんのくぐもった悲鳴も聞こえる。

「うっぐ!」

「悪いね、オバサン。ちょっとだけ大人しくしててほしいんだヨ、そしたらこれ以上何もしないからサ」

「こらこら、暴れないで!」

「むーっ! んん──!!

 レイちゃんの苦しそうな声とバタバタと暴れる音が聞こえて、私は必死に体を動かそうとするのに背中の足が重たくて全然動けない。

「ホントにサ、大人しくしてほしいナ。別に俺たちはオバサンに用があるわけじゃないんだからサ。ね? 分かってヨ」

 首を動かして男を見る。

 まだ若い大型のネコ科っぽい獣人が私を踏みつけていて、レイちゃんを羽交い締めにして強引に馬車へ乗せようとしているイヌ獣人とヒョウ獣人が見えた。ひとりは御者台にいた垂れ耳のイヌ獣人、もうひとりはどこかに隠れていたのか真っ黒いヒョウ獣人だ。

 なんてこと、レイちゃんを連れ去ろうっていうの!?

 こんなことになるのなら、病院に行こうなんて言うんじゃなかった! 往診をお願いすればよかった!

 後悔してもしきれない。

「思ったよりも手間取ったネ。時間も押してるし、急ぐヨ。じゃあ、オバサン……ゴメンネ!」

 レイちゃんを無理やりに乗せた客車を引くスリア馬は、私の気持ちなんて無視してものすごい速さで寮の前の道路を駆け抜け、あっという間に見えなくなってしまった。

 騒ぎに気付いて寮から出てきた私の夫、毛布を持ったポール、そして私を残したまま。



 アガサさんが倒れている、しかも知らない猫耳男がその背中を踏みつけている! 踏みつけられて苦しいんだろう、アガサさんは時折体を動かしては、うめくような声をあげている。

 やめてよっ! アガサさんを放して! そう言いたいのに、口の中に布を詰め込まれてその上から猿ぐつわをまされて声が出ない。むーむーとかうーうーとしか声にならない。

 知らない男に後ろから羽交い締めにされて、力いっぱい暴れるけども上手うまく体が動かない。あっという間に手足をひもで縛られた。

 猫耳男はアガサさんの背中を踏む足に力を入れてから、ようやく足を退かした。でも、アガサさんは動かない。

 イヤだイヤだ、アガサさんが死んじゃう!

「大人しくしていてヨ、お嬢さん? キミが大人しくしてくれたら、もうこのオバサンには何もしないからサ。大体ね、キミと一緒にいたからこのオバサンはこんな目にあったんだヨ?」

 え? 私のせい? 私のせいでアガサさんは倒れているの?

「大人しくしていてください、元気なのは良いことですが、おてんはいただけません」

 私を羽交い締めにしていた黒い毛並みのヒョウ獣人は、私が暴れるのをやめたのを幸いと、黒塗りの馬車に私を押し込めた。

 外側には装飾のたぐいも全くない、シンプルな黒塗りの客車。けれど、内装は思っていたものの十倍は豪華だ。内側には落ち着いた色合いの柔らかな布地が張られて、座席のクッションも分厚く肌触りも上質。身分の高い人がお忍びで使うような客車だ。

「んんー!」

「お嬢さん、お静かにネ」

 猫耳男が自分の口元で人差し指を立てた。

「大人しくしててくれないと、あのオバサン……本当に殺しちゃうヨ? キミ自身だって痛い思いしちゃうかもネ? こっちとしてはキミの足が動かなくなっても、手が動かなくなっても、何も問題ないんだしサ」

 氷のような薄青色の瞳を細めて笑って、ひとつにまとめて縛られている私の右足に手をかける。猫耳男の指先にある爪が、ニュッと伸びた……とても長くて鋭い。

 アキレスけんの辺りに、猫耳男の長くて鋭い指の爪が何度もくすぐるように触れる。私のアキレス腱なんて、一瞬で切られてしまうんだろう。

 猫耳男は……本気だ。

 なんの理由があって、私をどこに連れていこうとしているのかは分からない。でも彼らにとっては私が多少傷ついても、命さえあれば問題ないのだ。

「良い子だネ、物分かりが良くて素直な方が可愛げがあっていいヨ。言うこと聞いてくれたら、痛いことはたぶん……しないから、安心してネ」

 猫耳男は私を横抱きに抱えて座席にそのまま座った。向かいに黒い毛並みの男が座り、馬車の扉が閉まる。それと同時に馬車は結構な勢いで走り出し、中が大きく揺れた。

「んうっ」

「あー、悪いネ、急いでるからサ。キミ、具合悪いんでショ? 体調考えるとゆっくり行きたいところだけど、そうもいかなくてネ。俺が支えてあげるから、我慢だヨ」

 馬や鳥の引く車には何度も乗ったし、長距離移動も経験済みだ。でも、こんなにスピードを出して走る車には乗ったことがない。

 客車を引く馬や鳥の疲労もあるし、どんなに上等な客車でも衝撃があって乗っている人にダメージがあるから。けれど、この馬車は馬の疲労も乗っている私たちのダメージも気にするつもりはないらしい。

 猫耳男が私を抱えているとはいっても、上へ下へと揺さぶられるし、全く信用できない嫌な雰囲気の男に抱えられているという嫌悪感、さらに私はもともと体調不良なことも手伝って……体調はどんどん悪化してきた。

 熱が上がっているのか体がとても熱い。揺さぶられたことで馬車酔いして気持ちも悪く、吐き気がこみ上げる。同時に咳が出始めるけれど、口に詰められた布のせいで上手く呼吸ができずにとても苦しい。

「アレレ? 本格的に具合悪くなってきたのかナ?」

 猫耳男はもう目も開けられない私のあごつかんで、強引に上を向かせた。なんの抵抗もできない。

「……死なれたら、困るんだよネ。キミはさ、大事な存在だからサ。でも、元はといえばキミだって悪いんだから、多少は我慢しなくちゃだヨ」

 意味が分からない。

 私が何かしたっていうの? 何も悪いことなんてしてないし。

 フワッと甘い匂いを感じた。

 熟しきった甘い南国産の果物みたいな、ねっとりした濃くて甘い匂い。私の顔の近くに匂いのもとがあるみたい、匂いは薄れることなく私の鼻を刺激した。

「……ううっ」

「ゆっくり深呼吸しなヨ、すごく楽になるからサ」

 気分が悪いところに甘い匂いをたっぷりと嗅がされて、ますます気分が悪くなってきた。私の意識は徐々に真っ黒い闇に絡め取られる。洗濯機で洗濯中のシャツやタオルのように上下左右関係なくみくちゃにされるようで、私は闇の中で悲鳴をあげて泣いた。

 怖い、苦しい、気持ち悪い。

 どっちが上なのか下なのかも分からないけれど、とにかく手を伸ばして助けを求めようとして目に浮かんだ相手は……黒い毛並みに覆われた尻尾を揺らし青い瞳を細めて笑う、紺色の商業ギルド警備員の制服をきっちり身にまとったリアムさんだった。



 遠くで人の話し声が聞こえる。

 何を言っているのかはっきりと聞き取ることはできない。でも、楽しい話をしている感じはない。どちらかといえば揉めている感じだ。

 何を揉めているのか聞き取ろうとすると、私自身の感覚や意識が徐々に戻ってくる。体の中心部分から少しずつ少しずつ腕、指先に向かって熱が広がっていく。

「……んう」

「お! お嬢さん、気が付いたのかナ?」

 声がはっきりと聞こえて、ミントのようなスーッとした香りが漂ってきた。その香りを嗅いでいると、感覚や意識の回復が急激に早くなってくるのを感じた。

 意識が強引に引っ張り上げられているような感覚だ。

「いやあ、よかったよかった。なかなか目が覚めないから、さすがに不安になったヨ」

 目を開くと灰色と白に黒の混じったふんわりした毛色、水色の瞳、先っぽが丸みを帯びた猫耳、太くて長い尻尾……二度と顔を見たくないと思うくだんの猫耳男が私の顔をのぞき込んでいた。

 私はベッドに横になっていて、猫耳男が手にしている小瓶の香りによって覚醒したようだった。

「……ここは?」

「キミの寝室。二日も目が覚めないからサ、本当に心配したヨ? 異世界の人は魔法が使えなくて、魔法への耐性も全くないって知ってはいたけどネ。こんなによく効いちゃうなんて、思ってもみなかったんだヨ」

 私が聞きたかった「ここは?」の質問の答えじゃないのは、たぶん、ワザと答えなかったんだろう。だって、この猫耳男はアガサさんを傷つけて、私を誘拐した張本人。私に現在地なんて教えてくれるわけがない。

「で、気分はどうかナ? 大丈夫そうなら、なんか食べないとネ」

 ベッドサイドに置かれたテーブルの上にあった銀色のベルを猫耳男は鳴らした。リンリンッとベルの音が響いて、すぐに扉がノックされた。制服らしいグレーのワンピースに白いエプロン姿の女の子が入ってきて、深々と一礼する。

「お呼びでしょうか」

 真っ白い毛色にヘーゼルの瞳、長毛種のネコ獣人さんだろうか。とっても美人さんだ。

「紹介するネ! この子はコニー、今からお嬢さんの身の回りの世話をするから。何かあったら遠慮なく頼ってネ」

「いや、自分のことくらい自分で……」

「コニー、やっとお嬢さんの目が覚めたからサ、よろしく頼むヨ。食事と入浴と着替え。お嬢さんはまだ体調がよくないから、体調の回復にも努めてネ」

「かしこまりました。まずはお食事の用意を致します」

「……」

 猫耳誘拐犯と美少女メイドは私を無視して、私の扱いを決めてしまった。どうやら私が生きてさえいればよくて、私の意思などは関係がないらしい。

「まあまあ、そんな膨れっつらしないでヨ。可愛い顔が台無しだからサ?」

 猫耳誘拐犯は私の体をゆっくりと起こし、背中に枕やクッションを入れてくれた。その手つきがとても優しく、丁寧で驚く。もっとこう、ガサツで乱暴な男なんだと思っていた。

「……あのサ、今キミものすごく失礼なこと考えてないかナ? 言ったよネ、お嬢さんを傷つけたりはしないヨ」

「私が暴れたり逃げ出したりしなければ、でしょ?」

「そういうこと。コニーはネコ獣人だけど、逃げ出したお嬢さんを追いかけて捕まえて連れ戻すくらいは余裕だからネ? 獣人と人間とは体の基本的な能力が違うから、妙なことは考えない方がいいと思うナ」

 ノックが響き、食事とお茶ののったワゴンを押して美少女メイドが戻ってきた。ベッド用の小さなテーブルをセットし、野菜スープと柔らかそうな白いパン、小さめにカットされた果物とミルクティーを並べてくれる。

「食事の介助は必要ですか?」

「大丈夫、自分で食べられます」

「ゆっくり食べてネ。あ、それから俺のことはキムって呼んで。なんだか失礼な感じに呼ばれてる気がするからサ」

 猫耳で誘拐犯なことは事実だろうに。

「……そんなことより、なんだか揉めているようだけど。そっちはいいの?」

 ミルクティーを口に含んで、口の中や喉を潤しつつ聞いてみた。

 眠っている間に聞こえた声はまだ聞こえている。隣の部屋って感じではないけど、ほどほど近いところでなにやら騒いでいる。何を言っているのかは聞き取れない、でも、ずっと揉めていることだけは分かる。

「ああ、アレ。問題ないヨ、お嬢さんにも俺たちにも一切関係ないから安心して休んでネ。お嬢さんがすることはゆっくり休んで、体調を回復させることだけサ」

 キムという名の猫耳誘拐犯は「後はよろしくネ」とコニーさんに言うと、長い尻尾を揺らしながら部屋から出ていった。そのとき、チラリと扉の横にマッチョな獣人さんが立っているのが見えた。確か、誘拐された客車で向かいの席に座っていた人だ。

 日に焼けた小麦色の肌、黒い髪に丸みを帯びた耳、長い尻尾は黒いヒョウとかジャガーとかそういう印象。そして、その腕は丸太のように太い。強そうだ。

 これは……見張りとか監視という存在なのではないか?

 ぼんやりと猫耳誘拐犯キムの出ていった扉を見ていると、コニーさんに食事を促されたのでもそもそと食べた。

 部屋は日本でいうところの十畳くらいの広さで、セミダブルサイズのてんがい付きベッドが一台、大きな鏡の付いた化粧鏡台が一台、布張りのソファとローテーブルが一セット。装飾が綺麗な文机と椅子。部屋の隅には小さな棚があって、その上にはガラスの花瓶に白と青の花が生けられている。

 家具も食事の載る食器も高価そうなものが使われているので、裕福な庶民層や下級貴族が使う宿屋のお部屋か別邸の客間という印象だ。

 窓はめ殺しで開かないけれど、これは監禁用の部屋というわけではなくて、私のいる部屋の階が高いので転落防止のためなのだろう。窓から見える景色は高いところから街を見下ろす感じだ。

 窓に掛かるカーテンやベッドリネンの色に白や薄緑が使われているのは、男性でも女性でも使えるようにだろう。誘拐されて運ばれた先、としては上等なんじゃないだろうか。ろうの中とかおりの中でもなく、手足を拘束されているわけでもない。

 窓から下に扇状に広がる街並みには見覚えが全くない。王都ウェイイルからは出ているけれど、同じような街の雰囲気からウェルース王国の地方都市だろうと想像する。

 室内を観察しながら食べたスープもパンも果物も美味おいしかったんだと思う……けれども、ほとんど味を感じることはなかった。

 食後はお風呂。部屋の奥に続きのトイレと浴室があって、この部屋から出なくても暮らせるようになっているのが分かる。お風呂もトイレも部屋続き、食事は美少女メイドコニーさんが運んできて、洗濯物も処理してくれる。

 窓は嵌め殺しで、唯一外と繋がる扉の向こうにはマッチョな見張り。

 まあ、そうだよね。

 猫耳誘拐犯が私をさらった理由は不明だけれど、攫ってきたんだから、逃がさないようにするのは当然。部屋から逃げ出さないよう、見張りのマッチョと美少女メイドを付けた。

「……はぁ」

 あまりに予想外なことすぎて無意識に逃避しているのか、心がしているのか、現実感が全くない。私は自分の現状を受け入れられないまま、バスタブに体を沈めていた。

 浴室は白いタイル張りで、洋画や海外ドラマで見た猫足のバスタブが置いてある。足元の方にお湯が出る蛇口のようなものが付いているけど、宝石のように輝く魔導石が付いているので魔法で湯加減が調節されるもののようだ。

 だいぶお湯がぬるめなのは「お体に負担がかかりますので」とコニーさんが言うからだ。

 そもそも、私は魔力がないのでこの手の道具は全く使えない。お湯ひとつ出せないのだ。

 なので、ひとりでお風呂に入ることは却下された。お湯も出せない温度調節もできない、それに体調を崩してもひとりで入っていては誰も気が付かないからと。

 本当はひとりで入りたいけど、ここで抵抗しても意味がないように思えて……私は言われるままバスタブにかり、髪や背中を子どものように洗われた。

 お風呂からあがれば、新品の下着にクリーム色の柔らかな寝間着を着せられる。膝までのふんわりしたチュニックみたいな上着に足首までのパンツだ。その上に冷えるからと青と白のチェック柄の大判ストールを羽織らされる。

 一人がけのソファに座ってコニーさんに魔法で髪を乾かしてもらいながら、ミントとレモンの混じったような香りと味のする水を飲んでいると、廊下がにぎやかになった。

 誰かが歩いてくる足音、大きな声が響く。

「困ります。こちらのお部屋への入室許可は出ていません」

「いいでしょう、少しくらい。あの子に直接会って話しておきたいことがあるのよ!」

「許可がありませんので、お通しできません」

「アナタ、何様のつもりなの!?

あるじから、許可のない方はどなたも会わせてはならない、と命じられております!」

 私の部屋の前でマッチョな見張りくんが誰かと言い合っているらしい。

「いいの?」

「問題ありません。お嬢様は気にすることなく、穏やかにお過ごしください」

 コニーさんは表情ひとつ変えずに言い切り、私の髪を乾かしブラシを入れてから、お風呂の片付けをしに浴室に行ってしまった。

 それから十分以上経っても、扉前ではマッチョな見張りくんと女性の言い合いは続いている。

 部屋に入れろ、私に会わせろという女性と、部屋には入れられない、会わせられないという見張りくん。双方の主張は平行線のまま、おそらく永遠に交わることはないだろう。

 お風呂の片付けを終えたコニーさんは洗濯物やタオルを持って部屋から出たい、けれど廊下で揉めているので出ることができない、そんな状況となった。

 さらに十分ほど経った頃、廊下の騒ぎが収まった。第三者が割って入ったのかもしれない。

 一体何が起きているのか? 疑問に思っていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「マダム、勝手なことをされては困りますヨ。彼女は我々にとって、とても大切な女性なのですからネ」

 どうも私の部屋の前で入れろ入れないで押し問答しているのを見て、猫耳誘拐犯キムが出てきたらしい。キムが〝マダム〟と呼ぶところからして、マッチョな見張りくんと言い争っていたのは、どこぞのご夫人であるらしい。

「それはそちらの都合で、私には関係のないことだわ。私だって直接あの子に会って、話したいことがあるのよ。それに失礼ね、私があの子に何かするとでも思っているのかしら?」

 貴族ではない、身分的には庶民。でも貴族階級との交流があって、お金に余裕のある中年以上のマダムという感じだろうか。

 どうやらマダムは私に会って話がしたいらしい。でも私にはその年代のマダムに知り合いはいないので、心当たりが全くない。

…………率直に申し上げるのなら、暴言や暴力の可能性があると判断していますヨ。だからこそ、護衛を立たせているわけでしてネ」

「な、なんて失礼なっ!」

 キムから、勝手に部屋へ侵入した挙げ句、私に乱暴を働くとか暴言を吐くだろう、と思われていたマダムはお怒りの声をあげた。

「だって息子可愛さに妙な計画を立てて、なんの関係もないなんの罪もない女の子を盾にしたじゃないですカ。そんな恐ろしいことを考えついて平気で実行できちゃうような人を、大事なお嬢さんに近づけたりはしませんヨ」

 えっ? どういうこと?

 扉の向こうにいるマダムがどこの誰なのか、すごく気になった私はソファからお尻を上げた。

「お嬢様、いけません」

 コニーさんに押しとどめられソファに戻される。「でもっ……」と口を挟むすきも与えてもらえず、コニーさんは洗濯物を持って扉を少しだけ開けて廊下に出ていった。

 さすがはネコ獣人さん、わずかな隙間からスルッと出ていくとは見事だ。

「お話ならば、どこか別室でお願い致します。お部屋に声が筒抜けでございます」

 コニーさんの声が聞こえ、廊下が静まり返った。

 グラスをテーブルに置いて、廊下に続く扉を少し開ければマッチョな見張りくんの背中が見える。見張りくんはすぐに私が扉を開けていることに気が付き、首を左右に振った。

「お嬢さん、部屋から出てはいけません。必要なものがあれば、コニーにお申しつけください」

「でも……」

「お嬢さん、あなたはまだ体調が回復してないんですよ」

 さっきまでそこにいたマダムが誰なのか気になって、食い下がってみるものの……あのマダムを撃退してみせた忍耐強い見張りくんに私なんぞがかなうわけがなかった。温かいお茶を持って戻ってきたコニーさんに、あっという間に連れ戻されてしまった。

 コニーさんにも体調のことを注意されて、その言葉の通り夜になると私は熱を出し、咳が止まらなくなる症状に見舞われた。

 昼間は比較的体調は良くて、食べ物もコッテリしたものや油っぽいものでなければちゃんと一人前の食事ができるようになった。けれど夜になると体調を崩すことを繰り返して、三日。

 ようやく夜に熱を出すことも、まいに倒れることも、強烈なき込みをすることもなくなった。

 往診に来てくれたお医者さんから体調が回復したと判断された私の元へ、猫耳誘拐犯キムがやってきた。

「やあやあ、ようやく元気になってくれてよかったヨ。元気になってくれないと、ランチにも誘えなくてネ」

 手に持った大きなランチバスケットを掲げて「ピクニックしようヨ、中庭だけどネ」と長い尻尾を左右に振ってみせた。

 ここに連れてこられて数日が経つけれど、私の寝室と言われた部屋から出るのは初めてだ。

 私が滞在しているこの場所は宿屋ではなく、貴族か商家の持つ別邸のようだ。華美すぎることはないけれど、適度な装飾の施された内装に絵画や彫像などの美術品が廊下やホールに飾られ、摘まれたばかりだろう花も花瓶に活けてある。

 食事だって体調が悪い私が食べられるように、優しい味付けかつ柔らかくなるまで煮込まれた料理が並んだ。

 このお屋敷の持ち主は、広いお屋敷を美しく維持できるだけの財力があり、しっかり仕事をこなすことができる使用人と料理人を抱えている。

「中庭はあんまり広くないんだけどネ、大きな木があって気持ちがいい場所なのサ。芝生の上に敷物を敷いて、手掴みで食べるのもいいものだヨ」

 案内された中庭は全面に芝生が生え、中央に大きな木が一本あり、秋なのに深い緑色の葉を茂らせ白い花を咲かせている。庭の隅の方には花壇が作られて、秋に咲く黄色や赤い花が小さな花をたくさんつけているのが見えた。

 手入れが行き届いている。

 マッチョな見張りくんが分厚い敷物を木陰に敷いてくれて、私はその上に置かれた丸クッションの上に座るように促された。

 秋の乾いた風が吹き、木の葉や花が揺れる。

 こんなに気持ちの良い場所でピクニックなんて……いつぶりだろう? 子どもの頃、両親とお弁当を持って出かけた海浜公園以来だろうか。

 バスケットから取り出されたのは、豪華なサンドイッチ。スモークハムと葉野菜を挟んだもの、ひきにくを入れたオムレツを挟んだもの、ポテトサラダを挟んだもの、クリームチーズと果物を挟んだものなどが並び、デザートにはカットされた果物がたくさん広げられる。

「好きなものを遠慮しないで食べてネ? でも、無理はしないで」

「……いただきます」

 ポテトサラダサンドを手にしてかじりついた。小麦の風味が香ばしく少し堅めに焼いたパンに、マヨネーズがたっぷり使われたポテトサラダが美味しい。

 異世界から大勢の人が召喚されてきているこの世界は、驚くほど食生活に違和感がない。マヨネーズもケチャップもソースもあるし、パンもめん類もある。この辺は召喚された先輩たちに感謝しかない、彼らが伝えてくれたお陰だ。

「このマヨネーズってのはサ、天才的な調味料だと思うんだヨ。これを開発した人、この世界に伝えてくれた異世界人に感謝を」

 猫耳誘拐犯キムはマヨネーズの入ったボトルに祈りをささげ、大きなスプーンに山盛りにすくい取ったマヨネーズをポテトサラダサンドにたっぷりとのせた。追いマヨネーズをして美味しそうに食べる、その口の周りにマヨネーズが付いたけれど気にする様子はない。

「そろそろ、教えてもらいたいんだけど」

 コニーさんがれてくれた紅茶でサンドイッチを流し込み、そう切り出すとキムは口の周りのマヨネーズをペロリと舌でめとる。その仕草はとてもネコっぽい。

「お嬢さんは何が知りたいのかナ? 答えられることがあるかは分からないけど、とりあえず質問を聞くヨ」

「ここはどこ?」

「ウェルース王国内。王都ウェイイルじゃあないヨ、少し離れた街サ」

「これから私はどうなるの?」

「どうって言われてもネ、どうもならないと思うヨ?」

「ここからまた移動するの? 移動するならどこへ行くの?」

「移動はするネ。お嬢さんの体調が良くなったからサ、ぼちぼち移動の準備中。行き先は秘密だヨ」

 キムは笑い、私にスモークハムと葉野菜のサンドイッチを取ってくれた。噛みつけば、シャクッとした葉野菜といぶされた香りのする塩気の効いたハムがとても美味しい。

「誰に頼まれたの? 誰かに頼まれて、私を指定された場所に連れていこうとしてるんでしょ?」

「そう、俺はあるお方の命令を受けて行動してるのサ。お嬢さんを無事に指定された場所へ連れていく、それが俺の任務」

「あるお方って誰?」

「……お嬢さんが知らない方だヨ。心配しなくてもそのうちに会える。そのお方はお優しいから、どう転んでもひどいことにはならないからネ」

 どうやらキムは、私の誘拐の命令をした人のことや行き先に関しては、話すつもりはないらしい。食い下がって聞いたところで、はぐらかされるのが落ちだ。

「他に聞きたいことはないのかナ?」

「……そういえば、私がここで目を覚ましたときに魔法がよく効いちゃってって言ってたけど、どういうこと?」

「よくぞ聞いてくれました! お嬢さんてに恋文を送ったんだけど、それに仕込みをしといたんだよネ」

 恋文? ラブレター的なもの? でも、そんなものをもらった覚えはない。私が貰う手紙は全部不幸の手紙の部類だ。

「あれれ? ほら、お嬢さんくらいの女の子が好きそうな、可愛い便せんと封筒を使ったんだヨ? 花模様が可愛いやつ」

 そう言われて思い当たった。中身が何も書いてなかった、庶民向けのレターセットで送られてきた手紙。あの手紙にこの猫耳誘拐犯キムが何か細工をしていた、と。

「……あれ、あなたが」

「そう、ちょっとだけ体調を崩しちゃうような魔法を仕込んでたんだヨ。ちょっと熱が出て咳が出る風邪の諸症状的なネ」

 あの体調不良がこの猫耳誘拐犯キムの魔法のせい、それが分かると非常に頭にきた。熱が出てもうろうとしたし、咳が止まらなくてとても苦しかった。

「なんでそんなことをしたの?」

「だって、お嬢さんを連れてくるのに元気なままじゃあ俺たちが大変でショ? 強引に無理やり連れてこなきゃいけないって前もって分かってるんだから、その事前準備の一環サ! でも、お嬢さんが異世界人だってこと配慮し忘れて、思った以上にキミの体調が悪くなっちゃったんだよネ。魔法が効きすぎたみたいで、ゴメンネ」

 ごめんと言うわりにはにこやかで、謝罪の気持ちは全く感じられない。内心では、悪かったなんてじんも思ってないに違いない。

「それで、こっちからひとつお願いがあるんだけどサ……」

 猫耳誘拐犯キムは手にしたサンドイッチに追いマヨネーズをたっぷりのせながら、ずうずうしくもそう切り出してきたのだ。



 私は、ブルーグレーのスカートに刺繍ししゅうも鮮やかなブラウス、ざっくり編まれたカーディガンを着せられてから部屋を出た。

「気楽なお茶会ですので、お茶とお菓子を楽しんでください。私も控えておりますので、もし退出されたくなったら合図してください」

 ピクニックランチをキムとした翌日、お願いしたいことだというお茶会に参加する。

 コニーさんに説明をされながら、お屋敷一階にあるサンルーム的な場所に案内された。

 ガラス張りのテラスの向こうにはお屋敷の前庭が見えた。赤やピンクのコスモスっぽい花が咲き、奥に植えられた木は紅葉した葉が赤や黄色に染まっていて綺麗だった。昨日の中庭とは趣が違って華やかな印象の庭だ。

 サンルームには丸テーブルと椅子がセッティングされていて、テーブルには美しいデザインのティーカップと、くりを使ったプチケーキとベリーのジャムとクリームののったミニカップケーキが並んでいる。

「ようやく会えたわね」

 椅子に優雅に座っていたのはひとりのご婦人。

 シックなシャンパンゴールド系のデイドレス、ゴールドとシルバーを合わせ、真珠をポイントに使ったアクセサリーも上品だ。

 淡い茶色の柔らかなそうな毛並みに垂れた耳から、ゴールデンレトリバー系のイヌ獣人マダム。どこかで見たような印象だけれど、はっきりと覚えがない。

「こうして面と向かって顔を合わせて、お話しするのは初めてね。レイさん?」

 マダムは私の名前を知っている。でも、私は……全く知らない。

「分からないのも仕方がないわね。私はあなたをよく見ていたけれど」

「……」

「私はヘレン。ヘレン・ランダースよ。クルトの母と言えば分かるかしら」



 閑話 マリウス・ベイトの愕然


 その話が事務所に入ってきたのは、もう仕事も終わろうっていう夕方の時間だった。

 その日の僕は本店倉庫の方に朝からいて、本店のことは全く知らないでいた。だから、レイちゃんが体調を崩して仕事を休んでいることも知らないままだった。

 だから倉庫の方から本店事務所に入って、レイちゃんの姿がないことに気が付いたときと、グラハム主任に腕を引っ張られて会議室に連れ込まれたのは同時だった。

 会議室にはクルトさんとバーニーがいて、僕たち三人は主任の様子に驚くばかり。いつも落ち着いている主任がこんなに慌てるなんて、ほどのことなんだろう。

「大変だ」

「……どうしたんですか、そんな慌てて」

 主任は汗だくで、黒い髪は汗でびっしょりれて呼吸も乱れている。

「レイが、さらわれた」

「えっ……?

「はあ?」

 一瞬、言葉の意味が分からなかった。

 レイちゃんが、さらわれた? さらわれる? さらう?

「ええええええええっ!」

 バーニーの叫び声に僕は我に返った。

「なっなんでっ!?

 バーニーは慌てて主任の肩をつかんだ。

「分からん。さっき寮の管理をしているサムから連絡が入ったんだが、レイは連れ去られて、アガサがケガをした」

 僕は事務所を飛び出した。後ろから声がかかった気がしたけど、それどころじゃない。

 裏口から外に出ると商業ギルドに向かって人混みを避けながら走る。夕方の帰宅時間と夕食どきになり始めているせいか、人通りが多いのがいらちを誘う。

 商業ギルドの正面入り口には立ち番をしている守衛が必ずひとりは立っていて、いつもなら例の守衛くんが立っているのを見ると複雑な気持ちになった。

 僕のわいい妹分を口説いていて、口説かれている本人も悪い気はしてない印象で。最近はデートに誘って贈り物もしていたりして、確実にふたりの仲は進展しているのも分かっている。僕だって背中を押したから、分かっている。

 きっとあの守衛くんに可愛い妹分は取られてしまうって予感がある、予感があるからこそ兄としては複雑な気持ちになっていた。幸せになってほしい、でも僕やハンナにも甘えてほしいって気持ちもあって、妹離れはうれしいけど同じくらい難しいってハンナと笑った。

 でも、今は立ち番をしていてほしいと願う。彼を探す手間が省けるから。

「リアムッ!」

 僕の声に紺色の制服をかっちりと着こなし、長い警棒を持って立ち番をしていたリアム・ガルシアは勢いよく振り向いた。



「今日、レイは体調が悪くて仕事を休んだ。風邪だと思ったんだが……薬を飲んで眠ってもあまりよくならなくてな」

 ランダース商会の従業員たちが暮らしている寮、その管理をしているサムとアガサ夫婦は、もう十年ほどこの寮の管理人として、寮で暮らす従業員たちの世話をしてくれている。

 体調を崩したレイちゃんの看病をアガサさんがしてくれたのも、寮の母としていつものことだったんだろう。

「夕方、レイを病院に連れていこうとしていた。近くにいたつじしゃを捕まえて、寮の前まで着けてもらったんだ。それに乗ってアガサとレイはふたりで病院に行こうとして、御者の男が手を貸してくれたらしい」

「そこに誘拐犯が現れてレイちゃんを連れ去った、と?」

 クルトさんは腕組みをし、小さくうなりながら寮の前庭を見回した。そこには少し荒れた前庭があるだけだった。

「それが、辻馬車自体が誘拐犯だった……ようだ」

「何?」

「そこは、自分が説明します。自分が、その……辻馬車を呼んできたので」

 ミッドセア支店の社員で、ウェイイル本店にリョクチャの取り扱い研修を受けにやってきているタヌキ獣人のポールは、大きくてふわふわしている尻尾をしおれさせてだらりと下げてうつむいていた。

「アガサさんに辻馬車を拾ってきてほしいって言われて、寮を出ました。この辺は住宅街なので、あまり辻馬車は流してないって聞いて表通りに向かいました」

 ポールは寮の接続道路を左側に向かって走ったらしい、少し狭いけれど左側の通路から行けば表通りに近いと思ったらしい。

「そしたら、表通りの一本手前で休憩中の辻馬車を見つけたんです。まだ若いイヌ獣人の男が御者らしくて、露店で買ったっぽい果実水を飲んで休んでいました」

「どんな辻馬車だった?」

 クルトさんの質問にポールはあごに指をあてて、当時を思い出すように斜め上に視線を向けた。

「客車は一般的なものだったと思います、黒色で特に飾りなどはない感じで。よくある二頭引きの辻馬車だったんですけど、驚いたのは客車を引くのがスリア馬だったんです」

「スリア馬って六本脚のあれか?」

「はい。真っ黒いスリア馬が二頭つないであって、街中を流すには珍しいなって思ったんです。だから近距離なんて断られるかもって思ったんですけど、レイさんの体調を考えたら医者に行くのは早い方がいいだろうって、断られるのを承知でお願いすると御者の兄ちゃんは快く引き受けてくれたんで……時間もかけたくなかったですし、深くは考えませんでした」

 辻馬車を寮の前に着けてもらい、アガサさんとレイちゃんが乗り込むことになった。そのとき、ポールはレイちゃんに毛布をと寮の中へと戻っていて……騒ぎに気付いて外に飛び出したときには、すでに辻馬車の男はアガサさんに暴力を振るっていて、あっという間にレイちゃんを客車に乗せて走り出していた。

「……そうか」

「すみませんでした。こんなことになるなんて、もっとちゃんと確認するべきでした」

 ポールはがっくりとうなれて、誰ともなく謝罪し頭を下げた。

「やめなさいよ、キミは何も悪くないでしょう?」

「マリウスさん……」

「辻馬車を呼んできてって言われて、呼んできただけでしょ? スリア馬の引く辻馬車は確かに街中では珍しいけど、ないわけじゃないし。まさか辻馬車自体が誘拐犯なんて、誰も思わないよ」

 レイちゃんを病院に連れていこうとしたアガサさんも、辻馬車を呼びに行ったポールも、皆の夕食を用意していてレイちゃんをアガサさんに任せたサムも誰も悪くない。

 悪いのは、レイちゃんを誘拐した犯人なんだから。

「そういえばポール、辻馬車のマークはなんだった?」

 辻馬車には大きな会社が三つあって、それぞれの会社を表すランタンを客車に下げている。三日月形、どう形、鬼灯ほおずき形でその形から所属会社が分かるのだ。

 スリア馬は長距離を早く走ることができるから、とても高価な馬で小さな会社や個人辻馬車での所有は難しいと思われる。高位貴族や裕福な商家なら個人所有ができるかもしれないけれど、その場合は客車に家紋や商会の紋が入れられていることが大半だ。

 辻馬車を所有している会社が分かれば、そこからレイちゃんを追いかけることもできるかもしれない。

「……ランタン? ううん、魔導ランプみたいな形だったような……でも、大手三社じゃなかった気がします。いや、でもはっきりしなくて、すみません」

「いいわ、それならそれで大手三社全部に当たればいいだけよ」

 グラハム主任が警備隊に連絡をつけてくれていて、バーニーは商会の流通部門に話をつけてくれている。

 絶対に攫った奴らを見つけ出して、レイちゃんを取り戻すんだから!

…………で、アイツは何をしてるんだ?」

 クルトさんはそう言って、寮の入り口や接続道路をうろうろしている守衛くんを見て肩をすくめた。

 僕たちイヌ科の獣人は鼻が利いて、耳もよく聞こえる人種だ。でも、本人が走って逃げたのならともかく辻馬車に乗せられて運ばれてしまっては、鼻で追うのも限界がある。

 それでも確認せずにはいられない気持ちだけは、とてもよく分かって……切なくなった。


 翌日から僕は仕事を休み、同じく仕事を休んだ守衛くんを連れて辻馬車の会社を回る。

 黒いスリア馬が引く二頭立ての馬車、客車は黒く装飾などの飾りがないものを貸し出してはいないか? と聞いた。

 このウェイイルの街中を走っていたのだから、この街の馬車だと思ったのだけれど……三社とも空振りに終わってしまった。

「装飾品のない黒い客車なら所有していますよ、どこの会社でも持ってると思います。事前のご予約のときにお忍びなので地味めなものでと言われたりしますし、庶民層は派手なものを好みませんしね。豪華なものはそれだけお値段にも反映されますから」

 葡萄形のランタンを使っている辻馬車会社の社員は、貸し出し帳を確認しながら言う。

「スリア馬に関しては……個人所有っていうのは厳しいと思いますね。扱いが難しくて世話も大変な馬なので。ドドム鳥の方が従順で世話も楽ですし。それに、これもたぶんなのですけど、スリア馬が街のきゅうしゃにいるってあんまりないと思いますよ」

「どういう意味です? 所有はしてるんでしょう?」

「うちの会社にもスリア馬はいますよ、四頭。でも、大体街から街へ向かって走らせてるので。この街が到着地で、数日の休息中っていうなら厩舎にいますけど、休息中の馬は基本貸し出しをしませんしね」

 一昨日辺りからの貸し出し日時にスリア馬を付けた馬車の貸し出しはなく、この会社が所有しているスリア馬はウェイイルに立ち寄ってもいなかった。

 これとほぼ同じことを残りの二社でも言われ、僕と守衛くんはレイちゃんに関してなんの情報も得ることができず、スリア馬を目にすることすらできなかった。

「……この街の辻馬車会社を使ってない、もしくは個人所有の馬車だったってことなのかしら?」

 スリア馬が街中を走ることは珍しいから、なんらかの情報が得られると思ったのに空振りで……僕は気分が沈んだ。このままでは、レイちゃんを捜し出すことなんてできそうにない、そんな気持ちになってしまいそうになる。

 とりあえず、何も情報を得られなかったという事実を持って、ランダース商会の本店を経由して社員寮へと向かうことにした。

 ランダース商会本店はいつもと変わらないように見える。大量に並ぶ商品、笑顔で接客する従業員たちに買い物を楽しむお客様。

 従業員たちにはレイちゃんが攫われたことは知らせていない。知っているのは一部の者だけで、レイちゃんは体調不良でしばらく仕事を休むということにしてある。体調不良で休んでいることに違和感がない間にレイちゃんを見つけたいとは思っているけれど、今のところ手掛かりのなさに涙が出そうになる。

「どういうことなのか、説明してくれないか!?

 響くような声はグラハム主任のもので、声の質からかなりお怒りなのだと分かる。

 僕は守衛くんを連れて、声が響くランダース商会の職員用休憩室をのぞき込んだ。

 そこには真っ青な顔をしたクルトさんと、怒りが収まらないグラハム主任がいる。主任は今にもクルトさんに掴み掛からん勢いだ。

 慌てて休憩室に入るとふたりの間に割って入った。

「ちょっと待ってください! どうしたっていうんですか!?

「マリウス、どけ。俺は説明をどうしても聞かなきゃならないんだ」

「だから、なんの話です!?

 グラハム主任は喉の奥で唸り声をあげながら、鋭い視線をクルトさんに向ける。

「レイの捜索をウェイイル警備隊に頼んだ、昨日の時点では部隊を出して捜してくれると言っていた。それなのに、今朝になって捜索は中止にしたと言ってきたんだぞ」

「ええ!? どうして……」

 どうして捜索中止なんてことに!?

「だからその理由を説明してもらいたいんだ。なんせ捜索中止を警備隊に申し出たのが、ランダース商会だっていうんだからな!」

 ランダース商会がレイちゃんの捜索の中止を警備隊に申し出た?

 僕の頭の中には「どうして?」という言葉しかない。

「理由を説明してほしいんだよ、クルト坊ちゃん!」

「し、知らない! 俺は何も聞いてないっ、俺が捜索中止を警備隊に言ったわけじゃない!」

「じゃあ、誰が言ったんだ!」

 グラハム主任がテーブルを力いっぱいたたき、ドガンッという大きな音が休憩室に響いた。

「たっ大変! 大変、大変なんだよー!!

 今度は廊下から大きな声とバタバタと走る足音が聞こえ、休憩室の扉が勢いよく開いた。転がるように部屋に入ってきたのはバーニーだった。

「どうしたの!?

「レイちゃんの荷物が、運び出されちゃうんだよー!」

「はあ!?

「寮に荷運びの業者がやってきて、レイちゃんの部屋に入ってあの子の荷物を全部まとめだしたんだ! どこかに運んでいくらしくって、貨物用の荷馬車も来ててさっ」

 一体何が起きているっていうの?

「バーニー、その荷運び業者ってのは誰に頼まれて寮に来たって言ってるんだ!?

「そ、それが……ランダース商会からの依頼だって言うんだよ! レイちゃんが急な転勤になって、本人は仕事の都合で先に転勤先に行ってるから、荷物を後追いで送るんだとかって言ってさ! 主任、マリウス、どういうこと!? レイちゃんに何が起きてるの!?

 守衛くんが影のように動き、何も言わず休憩室から出ていった。きっと寮の方へ向かったんだろう。

「クルト坊ちゃん、本当に何がどうなってるのか、納得できる説明をしてほしいんですがね!?

「だから、何も知らない! レイちゃんの捜索中止も、荷物の搬出も、何も聞いてない!」

「……聞くなり調べるなりしてこいッ! テメェの家族がやってることだろうがッ!」

 クルトさんが休憩室を飛び出していく。

 何がどうなっているのか全く理解が追いつかない。

 ランダース商会はレイちゃんと契約を結んでいて、雇用主と従業員の関係にある。レイちゃんを守るべき立場にあるはずなのに……それなのに、商会は何をしているのか?

 僕が長年勤めてきた商会は、一体……。



 第八章 再会と別れ


 私はあっけにとられていた。

 どうして強引に連れ出された先で、ランダース商会の現商会長夫人と顔を合わせているのか? しかも優雅にお茶会をすることになっている不思議。

 でも不思議に思っているのは私だけのようだ、マダムは機嫌よく笑みを浮かべている。

「レイさん、ようやく会えてうれしいわ。なかなか会えなくて、もどかしいったらなかったの。あなたにはお話ししたいことも、お願いしたいこともあるのよ」

 私がテーブルにつくと、マダムヘレンは待ってましたとばかりに話し始めた。

「本当はもっと早くお話ししたかったのよ? なのにあの粗暴なユキヒョウが駄目だ駄目だと言うばかりで、全く聞き入れてくれないのだもの」

「……左様でしたか」

 コニーさんが濃い色合いの紅茶をれてくれて、部屋の隅に下がる。ここからが本格的なお茶会の始まりだ。

「まずはね、お礼を言わせて頂戴」

「何に対して、でしょうか?」

 マダムヘレンはふふっと笑う、本当に嬉しそうに華やかな笑顔になった。

「私のわいい娘を守ってくれてありがとう。お陰で無事に結婚準備も進んで、後は結婚式を待つばかりよ。あの子も安心して過ごせたしね。あなたがいてくれなかったら、どんな目にあっていたか分からないもの」

 マダムヘレンの娘? 娘なんていなかったはずだ、ランダース商会の会長夫妻の間には三人の子どもがいる。けれど、全員が息子であって娘はいなかったはずだ。

「ぜひあなたにも結婚式に参加してもらいたいわ、だって陰の功労者ですもの」

「あの、申し訳ありません……お話が理解できないのですが?」

 全く話の内容が理解できず、ご機嫌でお話ししているのを中断させるのは申し訳ないけれど、そう切り出した。マダムヘレンは話を中断させられても気にした様子もなく、優雅に紅茶に口をつけた。

「あら、私としたことが先走ってしまったわ、ごめんなさいね?」

「お嬢様がご結婚されるのですか」

「ええ、とても可愛らしいお嬢さんなの。クルトのつがいであるお嬢さんが、お嫁さんになってくれるのよ! あんな可愛らしいお嬢さんが義理の娘になってくれるなんて、とても嬉しいわ」

 なるほど、マダムヘレンの言う〝可愛い娘〟というのは、クルトさんの奥様になってくれる番のお嬢さんのことらしい。うわさに聞いたウェイイルにある商会の別支店で結婚式の準備が進められている、という話は本当のことだったみたい。

 それはそれでいい、なんの問題もない。

 クルトさんが番の女性と結婚するのもおめでたいことだ。

 問題なのは、なぜ私が名前も顔も知らないクルトさんの番であるお嬢さんを守ったことになっているのか? の部分だ。これはずっと私を悩ませていた、クルトさんの番が私らしいという噂とつながっているように思えた。

「私の子どもは息子ばかりでしょう、もちろん息子たちは全員可愛いわ。私と夫の間に生まれたのだもの、すごく可愛い。でも、娘だって欲しいと思っていたのよ……可愛い娘もね」

 マダムヘレンはその後、娘がいたらやりたかったことをお菓子を食べ、お茶で喉を潤しながら延々と語って聞かせてくれた。可愛いドレスを仕立てて着せたかった、美味おいしいお菓子のお店を一緒にめぐりたかった、有名な恋愛ものの演劇を見に行きたかった、と。私はただあいづちを打つだけに徹して、お話が終わるのを待つ。

「……だからね、ミレイちゃんを守ってくれて本当にありがとう。感謝しているわ!」

 ミレイ、ちゃん、ね。

「クルトさんと私が番だ、という噂が流れていましたから心配しておりました」

「ああ、あの噂ね! あれ、上手に流れていたでしょう? クルトの番があなたかもって、具体的に名前を出すことである程度の現実味を演出していたの。でも実際にクルトとあなたは番ではないし、職場で関わる仕事上だけの関係だから具体的な行動はなくて、噂の内容は決定的ではない……お陰で事実を見破られることはなかったわ」

 これで確定だ。

 噂を流していたのはマダムヘレン、もしかしたら商会長やクルトさんたちご兄弟も含まれているかもしれないメンバーだ。

「クルトには大勢の貴族令嬢たちから縁談の申し込みがあったわ。うちはお金も人脈もあるし、クルト自身の人気も手伝って本当に山のように申し込みがあったのよ。長男、次男のときもすごかったけれどね、クルトは一番凄かったわ」

 マダムヘレンは当時を思い出したようで、困ったような表情を浮かべながら紅茶を口にした。

「ですが、獣人さんは番であるお相手を大切にします。クルトさんに縁談の申し込みをいくらしたとしても、番さんがいらっしゃるなら引き下がるのではありませんか?」

「それが、そうでもないのよ」

「え?」

「普通ならね、番が見つかりましたとか番と婚約中ですって言えば引き下がるものよ。だって獣人なのですもの、番が見つかれば番しか愛せないわ。けれどね、貴族っていうのはいろいろ背負っているものがあるの」

「貴族、だから?」

「そう。あなたたち庶民には理解が及ばないわ。番がいるって聞けば、その番を殺してしまえば問題は解決するって、そうなるのよ」

「まさか……」

 この国で獣人さんが番相手と出会う確率は五十パーセント、おおよそ二人に一人。人口の半分は番ではない方と結婚する。番ではない方との結婚はこの国では珍しいことじゃないのだ。

 単純に番と出会えなかったという理由だけじゃない、中には結婚前に番さんが病気や事故で亡くなってしまったということもあるだろう。

 クルトさんの運命の相手であるミレイさんを殺してまで、彼の妻の座につこうとする……それを決断する一部の貴族の人たちの考えがとても怖い。

「そのまさかなのよ。本当、きらびやかな世界に生きている貴族っていうのは、恐ろしい人たちね。クルトやうちの商会が魅力的なのは分かるのだけれど、だからってミレイちゃんを排除してまで妻になりたいなんて。長男のお嫁さんは貴族のお嬢さんなんだけど……」

 一部の貴族の方々の考えが怖いのは理解できるし、自分の家族になってくれるお嬢さんが狙われているのだとしたら、心配だし対策を練ろうって気持ちになるのも理解できる。でも同時に、その貴族の考えた悪意からミレイさんを守るために私を盾にすることを思い立って、実行に移したマダムヘレンとその考えに賛同した人たちが、恐ろしい。

 クルトさんとミレイさんを守るためならば、私がどんなに傷つけられてどんな悪意にさらされても最悪殺されてしまっても構わない、そう判断をしたのだ。

 私は外国から来た身よりのない者で、番もいない。私が傷ついても、死んでも誰も悲しまないし怒ったりもしない。ランダース商会は誰に謝罪することも、保証することも必要ない。

 クルトさんとミレイさんは正式に国へ婚姻の届け出を出して結婚式を行って、大勢の人たちにお祝いされて皆が幸せになれる。

 私という存在をれいに切り捨てて。

 皆が幸せになれるのだ。

「それでね、お願いがあるの。私ね、今とても困ったことになっているのよ」

 マダムヘレンは改めて居ずまいを正し、私に向き合った。

 とても嫌な予感がする。

「……なんでしょう?」

「あのね、レイさんの口から直接説明をしてほしくて」

「説明?」

「クルトとあなたが番かもしれない、という噂を社交界に流して操作したわ。それは事実よ。だって、ミレイちゃんを守るためだったのだから、仕方がないでしょう」

 前のめりになったマダムヘレンの体が丸テーブルを押し、テーブルの上の茶器やお皿がガチャリッと音を立てる。私のティーカップに入っていた紅茶がゆらりと揺れ、わずかにこぼれた。

「その噂を流したのが私だと、夫と長男夫婦に知られてしまったの。夫は〝ミレイのためなのだから、仕方がない〟って納得してくれたのだけれど、長男夫婦が全然納得してくれないのよ」

「……」

「ミレイちゃんを守る方法は他にあったはずだって、あなたに迷惑をかけて危険な目にあわせていいわけないって。そう言って私を非難ばかりするのよ、噂のお陰でミレイちゃんを守れたのに」

 最低でもご長男夫妻はまともな考えの持ち主であるようで、少しだけ安心する。

 ランダース商会の次の商会長夫妻までもが現商会長夫妻と同じような考えの持ち主だったら、商会に未来はないだろうから。

「ミレイちゃんはね、イヌ獣人なのだけれども小型犬種で体が小さくて気も弱いの。だから、守ってあげなくちゃいけない子なの」

 今、私の中でランダース商会の株は急降下している。

 身よりのない外国から来た私と契約をしてくれて、寮という安全に暮らせる場所も提供してくれた。一緒に働く職員さんは皆私によくしてくれたし、社会に出て働くってことがどういうことなのかも教えてくれた。だから、いつか私がこの商会を離れても買い物をすることで貢献しようと思っていたし、今後の発展を心から願っていた。

 でも……もう、今はそこまで思えない。

 ただ、つぶれてほしいわけじゃないから、商会の未来を背負う次代のご夫婦が常識的な人たちでよかったと心の底から思う。

「あなたはどうとも思っていないわよね? だって、たいしたことされていないでしょう。ちょっと貴族のご令嬢やそのおうちから手紙をもらったり、少しばかり文句を言われただけだものね」

 毎日二十通から三十通、私の人格や存在を否定する内容の差出人不明の手紙を受け取ること。

 見知らぬ貴族のご令嬢やその従者さんたちににらみつけられ、声を荒らげて事実ではないことで文句を言われること。時には手を出されること。

 今まで私が受けた苦痛や恐怖は、たいしたことではない。私がなんとも思っていない、何も感じていないとマダムヘレンは信じている。

「それに、あなたは家族もいないし番もいない……誰かに心配をかけてしまうような立場でもないもの。なんにも問題ないわよね? だからね、あなたの口から長男夫婦に、セシルとダイアナに説明してほしいのよ」

「何を……説明しろとおっしゃるのですか?」

 声が震えた。この先の言葉を聞くのが怖い。

「何って、分からない子ねぇ」

 マダムヘレンは困ったような表情をし、出来の悪い子どもを見るように苦笑いを浮かべた。

「今回クルトとあなたが番かもしれないって噂を流したことは、あなたも承知の上でやったことだって。あなた自身、今までのことはなんとも思っていないって、ミレイちゃんが無事でよかったと思っているって、そうあなたの口から説明してほしいの」

 心臓が冷え、息が止まった。

 この人が本気で私に願っているのだと分かる、分かるからこそ心が凍りついた。

「最初からあなたも承知していたことだし、手紙を貰ったことも文句を言われたこともなんとも思っていないって言ってくれたら、セシルとダイアナも納得してくれるわ。私がしたことは正しく、ミレイちゃんを守ったことになんの問題もないんだって分かってくれる」

 最後に残ったくりのプチケーキを優雅に口に運ぶと、マダムヘレンはほほんだ。本当に優しい笑顔だった。

「分かってくれるわよね、レイさん。だから、一緒にウェイイルに戻って、私のお屋敷に来て頂戴。そして、皆の前で説明して頂戴。さあ、行きましょう」

 スッとマダムヘレンの手が伸びてきて、私の手に触れようとするのをとっかわし、私は席を立つ。それは反射的な嫌悪感からだった。

「レイさん? どうしたの?」

「……嫌です」

 一歩、二歩と丸テーブルから下がって距離を取る。

「どうしてそんなこと言うの? レイさんが直接説明してくれなかったら、私が長男夫婦に嫌われてしまうわ。次男夫婦にもクルトとミレイちゃんにも知られて、納得してもらえなかったら? もし嫌われてしまったらどうするの? 私、そんな風に家族が壊れてしまうのは困るの。大切な家族なんだもの、家族とはずっと仲良く幸せに暮らしていきたいじゃない」

 マダムヘレンも席を立ち、私に近づいてくる。

「嫌だと申しました」

「どうしてなの!? どうして説明してくれないの? 説明してくれた後は自由にしてあげるわ。お金も好きなだけ払うし、あなたの好きな国の好きな宝珠のやかたに案内してあげるから」

「は……い?」

 どうしてそこで宝珠の館が出てくるの?

 意味が分からない恐怖に包まれた私は、両手で自分の腕を抱え後ろへ後ろへと下がる。けれどマダムヘレンが近づいてくるから、距離は縮まらない。

「だって、あなたは異世界からやってきた番。でも運命の人からいらないと捨てられた子なんでしょう? だったら宝珠の館に行くしかないじゃないの」

 マダムヘレンが距離を一気に詰めて、あっという間に私の右手首をつかんだ。白くて傷ひとつない美しい手だけれど、力が強い。

「そうだわ、特別な館に紹介状を書いてあげるし、寄付金もたくさん払ってあげる。それでいいでしょう!? ウェルース王国で一番格上の宝珠の館よ? やってくるのは王族か限られた上級貴族だけ、それに異世界人の方にお相手を選ぶ権利があるの。あなたが選べる立場になれるのよ」

「っ……痛っ」

 栗色の瞳がらんらんと輝き、手首を掴む手に力が入って痛みが走る。けれどマダムヘレンは全く止まる様子がない。

「ワルテアにある宝珠の館、本来あの館に入るためには異世界人の方も安くないお金を払わないといけないの。でも私がちゃんと払ってあげるし、ワルテアまでちゃんと送り届けてあげるから」

「……痛いっ、放してください! コニーさんっ」

「さ、ウェイイルに戻りましょう! 私も商会長夫人としての仕事もあるから、そんなに長く街を空けてはいられないの」

「マダム、おやめください!」

「放してっ」

 右手を引っ張られると肩の方まで体の中からミシリと嫌な音がして、痛みが走った。痛いから手を放してほしいと何度訴えてもマダムヘレンは取り合わない。

 止めるコニーさんをものともせず、私を引きるようにサンルームを横切り出口へ向かう。細いのに想像以上の力だ。

「マダム、困りますヨ? 許可したのはお話するだけ、連れていっていいなんて言ってないですしネ。それに言ったじゃないですか、あなたは暴力を振るったり暴言を吐く可能性がある人物だ、と判断してるって」

 体全体が引っ張られる感覚がして、手首を締め付けられる痛みがなくなり、体がくるりと回される。気が付けば私はコニーさんに抱きしめられ、猫耳誘拐犯キムの背中にかばわれていた。

「話をするだけというお約束だったじゃないですカ。手を出したり乱暴なことはしないってことだったので、お茶会を準備しましたのに……困りますヨ、マダム」

「どうしていつも邪魔をするの! その子にちょっと家に来て、息子夫婦に事情を説明してほしいだけなのにっ」

「だってマダム、お嬢さんは一度も噂になった内容について了承なんてしていませんよネ。そもそも、噂について何も知らなかったんですヨ。あなたが彼女に説明させようとしていることは、うそしょせん、あなたが自分を守るための方便でしかないわけですネ」

「っ……自分を守って、何が悪いっていうの!?

「悪くなんてないですヨ。自分で自分を守るのは当然のことですからネ。でも、お嬢さんは噂について何も知らないし、何ひとつ承知していなかった。ただ知らぬ間に社交界で流された噂に迷惑していただけサ」

 私を抱きしめてくれているコニーさんの柔らかさと温かさと、すごくいい香りに甘えていると徐々に気持ちが落ち着いてくる。

「それにお嬢さんは今はっきりと断ったじゃないですカ、マダムの家に行ってマダムの家族に嘘の説明をするなんて嫌だってネ」

「いいじゃない、ちょっと口裏を合わせてくれるだけで全てが解決するんだから! 皆が幸せになれるんだから!」

 キムとマダムヘレンの会話がサンルームに響く。それと同時に騒がしい気配を感じた、ドタバタと何かが暴れているようなそんな感じ。

「駄目ですヨ。お嬢さんをウェイイルには行かせられません、こちらにも事情があるんでネ」

 バタバタと大きな足音が響き、扉が勢いよく開くとマッチョな見張りくんが室内に駆け込んできた。なんだか黒い毛並みが乱れて土なのかほこりなのかで汚れて、疲れているように見える。

「準備できました! 思った以上に押されてるので、急いでくださいっ」

「……やるねぇ、オオカミくん」

 キムは小さくつぶやくと、彼の方に振り向いてニヤリという感じの笑みを浮かべた。

 騒がしい気配が徐々に大きくなって、人の叫び声や獣のうなり声が聞こえる。

 もしかして、騒ぎになっている?

「コニー、ルーク、おまえたちはお嬢さんを連れて出発だヨ。最初の補給地まで走り抜けろ」

「はっ」

「承知致しました」

 何、なんの話? 何が起きているの?

 事情が飲み込めない私の手をコニーさんが引く。

「手当ては馬車の中で致します。今は急いで移動します、付いてきてください」

「駄目よっ! レイさんは私と一緒にウェイイルに……」

 マダムヘレンの声は途中で途絶え、キャンッというイヌのような悲鳴が聞こえた。同時に何かが床に倒れる音もする。

「えっ、ちょっと……」

「コニー、伏せろッ」

「お嬢様!」

 振り返ろうとする私を強引にしゃがませ、コニーさんが上に覆いかぶさる。そのコニーさんをマッチョな見張りくんがさらに庇ったようで、ずしりと重みを感じた。

 それと同時にガラスの割れる大きな音が響いた。床に割れたガラスが落ちて飛び散る音も続き、何か大きな物体が飛び込んでくる音も、何かがひしゃげて折れていくような音も、獣の唸り声のような低い声も響く。その音の全てが近い、私のすぐそばで発生している音だ。

 怖い、怖い、怖い。

 この世界には魔物がいる、創作でも幻でもなく現実に。

 魔物は家畜を襲い、時には人を襲うと聞いた。

 そのため魔物討伐を生業なりわいにしている人たちがいることを知っている。彼らが扱う剣ややり、弓などの武器、盾やなどの防具も見たことがあるし、商会で扱った武具の取引に立ち会ったことだってある。

 この世界では人は命をかけて戦うことがある、それを私は知っている。

 でも、それは私の中で知識として知っているだけ。自分のほんの数メートル先で実際に物が壊れて、誰かが本当に戦っているなんて恐怖しかない。格闘技やプロレスなんかの競技とは違う、相手を傷つけるため、殺すための争いだ。

 私の体は恐怖ですくみ上がり、ガタガタと震えた。

「お嬢様、行きます!」

 コニーさんに抱えられるけれど、足が震えて全く私の意思で動いてなんてくれない。

 目の前には粉々に割れたガラス、ひしゃげた窓枠の残骸が散乱している。壊れた丸テーブルと椅子、さっきまで使っていたティーセットやお皿も割れ滅茶苦茶になって床に散らばっていた。

 そして、キムの向かいにいるのは茶色の毛並みを持った大きなイヌを引き摺り倒した、黒から灰色の毛並みに真っ赤な瞳を持ったイヌ……いやオオカミだった。

 キムに対して低い唸り声をあげて牙をく。

「全く驚きだヨ、種族的なことを考えたってキミがここに辿たどり着けてることは奇跡のようだネ。個人的に感心するし、キミに敬意を払うヨ。でも……」

 キムは羽織っていた上着とブーツを脱ぎ捨てると、床に両手をつき四つんいになった。そしてすぐ、異様な音が響きシャツやスボンが破れ、その下から白と黒の毛に覆われた大きなひょうが現れた。

 キムは自身をユキヒョウの獣人と言っていた。その獣としての姿なんだろう。大きくて太い足に長く鋭い爪、巨大な牙を剥いてえる。

「このお嬢さんを連れ戻されるわけにはいかないのサ。仕事だからネ」

「……返せッ! その子を返せ!」

 ユキヒョウとオオカミは割れたガラスが散乱する無残なサンルームで激突した。二頭はぶつかり合い、みつき、蹴り、爪をたてる。

 戦いは激しいけれど、徐々に徐々にキムが優勢になっていく。オオカミは傷つき、血を流している。でも、それでもひるまない。

「さ、お嬢様。今のうちに参りましょう!」

「でもっ……」

「キム様なら心配ありません、大型のネコ科獣人である彼がイヌ科獣人に一対一で負けることはありません。それにあのオオカミはここに来るまでに戦い、傷ついています」

 違う、違う。猫耳誘拐犯キムが強いとか、そんなことはどうだっていい。だって、あのオオカミは……たくさん傷ついて、それでも戦っているオオカミは……

「リアムさんっ!」

 私が叫ぶと、オオカミの動きが止まった。

 黒と灰色の混じった毛並み、手やお腹の辺りの毛は真っ白だ。今は傷ついて汚れてしまっているけれど、ふわふわと心地よい毛並みだろうと分かる。大きなオオカミだ、けれど分かった。あのオオカミはリアムさんだ。

 赤く染まっていた瞳は青く変化して、その顔に理性が戻ってきたように思えた。

「リアムさん!」

「レイ、大丈夫か? 今……」

 言葉を遮るようにキムがリアムさんに飛びかかった。ふたりはみくちゃになって、転がって壊れたサッシにぶつかった。

 骨がきしむような、何かが折れるような嫌な音がした。重たいうめき声もする。

「ルーク、コニー! さっさと行けッ」

「お嬢様、参ります! ここは危険ですっ」

 私はコニーさんの手を振り払い、リアムさんの方へと駆け出した。

 砕けたガラスが一面に飛び散った床は危なくて走りにくいし、震える足は思ったように動いてくれないし、転べばケガは免れない。でも、私はリアムさんの元へ行きたかった。

「いけませんっ」

 すくい上げられるように体が浮いた。気が付いたときには、ルークという名のマッチョな見張りくんが私を抱え上げていた。

 身長百六十センチを超えて、体重だってそれなりにある私を軽々と抱えて、見張りくんは廊下側の扉に向かって走り出した。すぐ近くにいたリアムさんの姿があっという間に小さくなっていく。

 見張りくんの腕から逃げようと体を動かして必死に暴れるけれど、見張りくんにとってはなんの抵抗にもなっていないようだった。

「レイ! ……レイナッ!」

「っ……リアムさんっ」

 リアムさんの声を聞きながら私はサンルームの部屋から連れ出され、そのままあちこちで起きている小競り合いの横を駆け抜け、裏門からコニーさんと一緒に馬車へ乗せられた。

「降ろしてっ!」

 馬車の扉に手をかけたけれど、扉は全く動かない。鍵がかかっているのか、それとも魔法で何かしているのか分からないけれど、押しても引いても全く動かない。

「降ろしてってば!!

「お嬢様、落ち着いてくださいっ」

 客車に一緒に乗り込んだコニーさんに押さえ込まれた。細くてきゃしゃな体なのに、私は身動きが取れなくなる。獣人さんの力は本当に強くて、私はネコ獣人であるコニーさんひとり振り払うこともできない。

 そうこうしているうちに馬車は勢いよく走り出す。

 コニーさんに押さえ込まれたまま客車の窓から外を見れば、お屋敷の外でも小競り合いが起きていた。

「なんで……、何が起きてるの? リアムさん、ケガして……」

「お嬢様、落ち着いてください。さあ……腕と手首の手当てを致しましょう」

 クッションの置かれた席に座らされて、されるがまま手当てを受けた。

 右腕はひねってしまったようで、全体的にスーッとする薬を塗り込まれる。手首はマダムヘレンに掴まれた手の形も鮮やかに、そのままあざになっていた。こちらには湿布のようなものを貼られ、包帯を巻かれる。

「しばらくはあまり手首を動かさないよう、気を付けてください」

 手当てが終わり、再び窓の外を見ると景色は今までとは全く違うものになっていた。白い壁と黄色みの強い赤い屋根の街並みだった景色はもうなく、見えるのは秋の森になっている。

 六本脚の馬が引く馬車はかなりのスピードで街を出て、新たな目的地に向かっているらしい。

 私はただぼんやりと流れる景色を窓から眺めていた。

 自分の身の回りで何か起きているのか、さっぱり分からないまま……流れに身を任せるしかなかった。



 馬車が止まり、客車の扉が開くと見張りくんが降りる私に手を差し伸べてくれた。その手を借りて外へ出ると、小さな村の宿屋前にいることが分かった。

 村にはログハウスっぽい木の家が並んでいる。宿屋や食堂、薬屋、服屋などのお店や各種ギルドの支店が並んでいて、自分のいる周辺が村の中心部なんだろうと思われた。

 宿屋の二階にある部屋に案内されて、コニーさんが淹れてくれたお茶を飲んでいるとノックもなしに扉が開いて、キムが入ってきた。

 いつものキムは少し着崩してはいるものの、上等なシャツとパンツスタイルだ。でも今は彼らしくない庶民が着るようなシャツとパンツ姿。体のあちこちに大なり小なりの傷を負っているみたいで、包帯が巻かれガーゼみたいなものが当てられている。少し痛々しい。

「無事お嬢さんをここまで連れてこられてよかった。コニー、ルークよくやったナ」

 コニーさんとルークさんはキムに軽く頭を下げた。

「で、お嬢さんは……無傷ってわけにはいかなかったが、軽傷でよかったヨ。ここで一日、二日休んで補給してから出発するから、そのつもりでネ」

…………リアムさんは?」

「リアム? あー、あのオオカミくんネ。大丈夫、大丈夫。獣人って生き物は人間の何倍も丈夫にできてるし、傷の回復も早いからサ。ま、二ヶ月か三ヶ月くらいで動けるようになるヨ」

「なんでそんなケガさせるようなことしたの!? 大体、あの騒ぎはなんなの!?

 キムは部屋に備え付けられている椅子に座ると、大きなため息をついた。

「あれは、俺たちにしても予定外だったんだよネ」

「予定外?」

「あの屋敷であんな乱闘騒ぎになるなんてこと、全く想定してなかったってことサ」

 ボサボサぎみの毛並みをさらにき回すように、キムは自分の頭をかきむしった。

「マダムヘレンはお嬢さんに会って、家族に言い訳してもらう約束をこぎつけようってあの屋敷に何度も通ってきてネ。さらに、寮の部屋にあったお嬢さんの荷物もまとめて持ち込んできたのサ」

 まさか、マダムヘレンが私の部屋にあった荷物をあのお屋敷に持ち込んでいたとは知らなかった。

「それを知ったとある貴族のご令嬢は思ったのサ。商会の三男坊と、お嬢さんがいよいよ結婚するんだってネ。義理の母が義理の娘の荷物を、秘密裏にかくまってる屋敷に運び込んだんだってサ」

「……え」

「マダムはさ、お嬢さんを閉じ込めるつもりなんてなかったからネ? 自分の用事が済んだら、お嬢さんが希望するところへ送っていくつもりだった。隠すつもりもないから、尾行とか無頓着で困るヨ」

「……え」

「結婚うんぬんはもちろんご令嬢の勘違いだヨ? でもご令嬢と彼女の家はそれを信じて、お嬢さんを傷つけることに決めたのサ。顔に傷を残すとか、手足を使い物にならなくさせるとか、無理やり汚すとか……そのために破落戸ごろつきを金で雇った、それがひとつ目の破落戸部隊」

 キムはお茶菓子のプレーンクッキーに指を置いた。

「ふたつ目は、マダムヘレンを護衛しているランダース商会所属の護衛部隊」

 チョコレートクッキーに指を置く。

「みっつ目は、さらわれたお嬢さんを取り返しにやってきたランダース商会の有志連中と、あのオオカミくんの混成部隊」

 ナッツののったクッキーに指を置く。

「そして、あの屋敷に滞在中の俺たちを守るために最初からいた屋敷の警備部隊」

 マーブル柄のクッキーに指を置く。そしてキムはその四つのクッキーをお皿の中央でぶつけた。

「貴族のご令嬢が破落戸を雇って、屋敷にいるお嬢さんを襲撃するとは思っていなかったんだよネ。商会の有志連中が、お嬢さんを取り返しに来るかも……とは思ってたけどサ? まさかマダムヘレンが来てるときに、一斉に仕掛けてくるなんて思わなかったヨ。混乱に乗じて……って思ったのかもしれないけどサ」

 キムは四つのクッキーを次から次へと口に入れ、クッキーのカスが零れるのも気にせずに咀嚼そしゃくした。

「お陰で俺たちはてんやわんやだったヨ。なんとか切り抜けられてよかったけどサ。参った参った」

 そう言いながらも、慌ただしかったようにも参ったような印象も受けることはない。相変わらずひょうひょうとしていて、捉えどころのない男だ。

「大人しく私を帰してくれたらよかったのに」

 そう言うと、キムは目を丸くし耳をピンッと立てた。

「どこに帰るっていうのサ?」

「え?」

「だって、ランダース商会の現会長夫人がお嬢さんに関する噂を流してたんだヨ? 話を聞くに、マダムヘレンの独断でやってたみたいだけどサ。長男夫婦は否定したけど、現会長はマダムのしたことを〝仕方がない〟って肯定してるみたいだよネ」

 マダムヘレンは自分で義理の娘になるミレイさんを守るため、私を社交界の悪意から守るための盾に仕立てた。ご長男夫婦はそれを非難してくれたみたいだけれど、マダムヘレンの旦那様である現商会長は肯定した、らしい。

 それは、現役の会長さんが認めたってことは、ランダース商会全体がそれを認めたことになるんじゃないだろうか?

 そうなのだとしたら……。

「あんなひどい噂流して、お嬢さんが実際にご令嬢方から意味不明な難癖をつけられてたたかれたり、悪意に満ち満ちた手紙をたくさん受け取って嫌な気持ちになってても……それを仕方がないネって許してた商会だヨ? なんともなかったでしょって笑顔で言い切る商会だヨ? その商会が用意した社員寮、商会本店での仕事」

 喉がカラカラだ。

 でも、何かを口にしたい気分じゃない。

「お嬢さんはさ、そんなところに帰りたいのかナ? ……帰れるのかナ?」

 ずきっと胸が痛む。商会の仕事を通じて知り合った人たちとのきずなや、やりがいがあると感じることで少しずつ埋められていた私の胸にあるスースーする穴。その埋められていたものにヒビが入って、ポロポロと零れ落ちていく、そんな感じがした。

 キムの言うことに対して、否定することができない。

 ランダース商会での仕事は好きだ、やりがいもあるしいろいろな品を見られるのは楽しい。自分のしたことが人様の役に立って、感謝してもらえることで自信にも繋がった。一緒に働く職員たちも良い人ばかりで、職場環境だって、寮の生活環境だって文句はない。

 でも、噂の正体と誰がどういう理由で流したのかを知ってしまった今、ランダース商会に戻りたいかと言われたら、すぐに返事はできない。

「……個人的に頼りにできる連中はいるだろうネ。キツネだったり、イヌだったり……ああ、オオカミもいるよネ。でも、彼らには彼らの家庭があって、お嬢さんが入り込めるすきはない、ネ?」

「っ……」

 この世界に家族のない私は、番がいない私は……帰る場所がない。

「ああ、それにお嬢さんが心配していたオオカミくんだけどサ」

 私が顔を上げると、キムはニカッという擬態語が似合う笑顔を浮かべた。

「リアム・ガルシアって名前の、二十代、男、黒と灰色の毛並みのオオカミ獣人だけどネ」

 キムは手でコニーさんに何かを合図した。合図を受けたコニーさんは部屋に運び込んでいた荷物の中から、薄黄色の大型封筒を出してキムに手渡した。

 封筒を受け取ったキムはそれを私の前でヒラヒラと揺らす。

「存在してないんだよネ」

「え?」

「だから、リアム・ガルシアってオオカミ獣人は、この世に存在していないのサ。ウェルース王国、フェスタ王国、クレームス帝国、アラミイヤ国、ファンリン皇国、ポニータ国……どこの国の籍にもそんな男はいないんだヨ」

「……え?」

「商業ギルドに雇われてるから身元はちゃんとしてるって、思ってたんだよネ? でも、残念でしタ! 最低でもあのリアムってオオカミくんは、名前も国籍も立場も不明」

 嘘、嘘だよね?

「お嬢さん、キミはだまされていたわけだネ! ほら、お嬢さんも自分の目で確認してヨ」

 大型封筒の中から出てきたのは、戸籍の確認証書。

 ご丁寧にこの世界にある大半の国に確認を取ったようで、リアム・ガルシアという若い男性のオオカミ獣人、黒と灰色の毛並みに青い瞳を持っている人物には該当者がいないと書かれている。

「……いったい彼は誰なんだろうネ?」

 体から熱が消えていく。

「彼は何者で、どうしてお嬢さんに近づいたんだろうネ?」

 体から力が抜けていく。

「もしかしたら、彼はどこかの国のちょうほう員か何かでサ? 仕事の何かをごまかすために、お嬢さんに近づいて熱心に口説いてる風を装っていたのかもネ?」

 私は目をギュッと閉じた。まぶたの裏は真っ暗で、何も見えない。でも、声が聞こえる……私を呼ぶリアムさんの声、レイと呼ぶ声。最後に聞いたのは〝レイナ〟と名前を呼ぶ声。

 レイナ……レイナ?

「お嬢さん、キミはそれでもまだ、あのオオカミくんを信じてるのかナ?」

 私はこの世界で自分の名前を〝レイ・コマキ〟と申告した。だから、私を呼ぶときは皆〝レイ〟とか〝レイちゃん〟、〝レイさん〟と呼ぶ。

 本当の名前は〝れい〟だけれど、それを知っているのは従妹いとこあんだけだ。

 どうして〝レイ〟と申告したのかといえば、理由は私が単純にビビったから。

 異世界から召喚されてこの世界にやってきたとき、登録するから基本的な情報を教えるようにと言われた。年齢、性別、名前やあちらの世界での国籍、職業や立場などの個人情報。それを紙に記入するとき、この世界に魔法があると知った。

 魔法というものは私にとっては未知のもの、どんなものなのかさっぱり分からない。私が知っているゲームや小説の中にあるファンタジー的な魔法とは全く違う可能性があった。

 そのとき私の頭に浮かんだことは、魔法に対して自分の本当の名前を知られてはいけない、という何かの物語で読んだ内容だった。

 精神に訴える魔法はその人の本当の名前を知らないと効かないとか、そういうことが書かれていたことを覚えていたのだ。もちろん、それは物語の中の設定であって魔法のない現代日本では作り話の部類だ。

 でも、この世界には実際に魔法がある。

 人の心や精神に作用する魔法があるのかは知らないけれど、少しでも可能性があるなら潰しておいた方がいい。魔法で無理やり心を支配されるなんて怖いし、嫌だ。

 私は実際にどうなのか分からないけれど本名を知られてはいけないものだと思い、自分の名前を〝レイ〟と簡略化したもので国に登録をした。幸い杏奈は子どもの頃から私を〝レイちゃん〟と呼ぶので、名前を簡略化していることは誰にも分からないと思ったのだ。

 それなのに、どうしてリアムさんは私の本当の名前を呼んだの?

 書類にも残していないから、誰かから聞いたことになる。でも知っているのは杏奈だけで、杏奈から教えてもらったとは考えにくい。だって、杏奈は私とリアムさんが出会う前から番のクマ獣人さんと彼ら一族が治める領地で暮らしているはずだから。

 分からない。

 ひび割れてしまった心で、それでも恋をした相手のことが分からなくなる。

 誰も知らないはずの私の本当の名前。それを知り得た状況も分からないままなのは怖い。

 でも、本当の名前を呼ばれた嬉しさもある。あんなに傷ついても、必死に私を追いかけて「レイナ」と呼んでくれたことは私の心に響いている。

 私の本当の名前を知らないはずの世界で、ただひとり私の名前を叫んでくれた。


 リアムさん、あなたは一体何者なんですか?

 どうして私に近づいてきたんですか?

 どうして私に優しくしてくれたんですか?

 どうして私の名前を知っているんですか?

 どうして……?



 閑話 マリウス・ベイトの憂苦


 守衛くんは結構なケガをして、今は病院のベッドに縛り付けられている。右腕はちぎれそうなほどひどく折られ、大きく鋭い爪で体のあちこちを引き裂かれ、背中を折れた窓枠で大きく切ってしまい出血が酷かった。下手をすれば命に関わっていたかもしれないほどのケガだ。

「まあね、相手が悪かったよね?」

 イヌやオオカミの獣人にとって狩りや戦闘は群れで、集団でするもの。個人の戦闘力よりも団体行動における役割が優先される。けれど、大型ネコ科獣人たちは単独で狩りをするのが当たり前で、個人の戦闘力がものをいう。

 守衛くんはオオカミ、レイちゃんを攫った誘拐犯で彼に立ちはだかったのはユキヒョウ。

 一対一で戦えば、結果は見えている。それでも、大勢の破落戸や屋敷の警備員をなぎ倒してサンルームにまで辿たどり着いたのだから、守衛くんの個人戦闘力はかなり高い方になる。

「レイちゃんなら無事よ、大丈夫」

「無事かどうかなど……」

 病院のベッドでずっと苦虫をかみつぶし続けている守衛くんは、低くうなり不機嫌を隠しもしない。

「無事だと思うよ。ミッドセアにある、あのお屋敷……この国のなんとかっていう伯爵様が所有してる別宅なんだって。普段は自分の領地か王都のタウンハウスにいて、休暇のときにだけあのお屋敷で過ごすらしいのね」

「……そうか」

「で、伯爵様は自分が使ってないときには、あのお屋敷を知り合いに貸し出すんだって」

「……」

 守衛くんは羽毛の枕に埋もれた頭を器用にかしげた。

「そう、お屋敷って維持するのにお金がかかるでしょう? それに使っていないと傷むのがお屋敷ってものだもの。維持費の足しにもなるし、お屋敷も人がいれば傷みにくくなるってね」

「そうか、それで……誰が借りていたんだ?」

 僕はかばんの中から一枚の書類を取り出した。

 商会の伝手を使って、伯爵様が留守の間に屋敷を管理している管理会社に問い合わせた。その結果が紙には記されている。

「フェスタ王国のワイズ子爵家の縁者……ってなってるよ。他国の子爵家に関係してる人がわざわざお屋敷を借りて、レイちゃんを攫ってかくまってるって、ちょっとあり得ないと思わない?」

 レイちゃんがこちらの世界の生まれで、貴族だっていうのならどこかで関係があるのかもしれない。でも、レイちゃんにはこちらの世界で貴族という階級の人たちと関係がない。

「ワイズ子爵家はどこの派閥に所属しているんだ?」

「それが、国王派なの。現在の国王陛下とその血縁にある貴族を中心に構成している派閥、そこに入ってるみたい」

 フェスタ王国の貴族は基本的に上手うまくまとまっている。現在の国王陛下と三人の王子を中心に、どちらかといえば活気にあふれる国を運営している感じ。

 旧国王派やら、旧大公派なんかもいるけれど……彼らにしたって、血筋をさかのぼれば現在の国王陛下と血を同じくするわけだから、小さな問題で衝突はしても基本的にあの国は平和なのだ。

「……そうか、現国王派の貴族か」

 守衛くんはフムッと鼻を鳴らすと、考えごとをするように目を閉じた。何か思うところがあるらしい。

「そうそう、破落戸連中は全員逮捕されたわ。貴族のお屋敷に襲撃をかけて、滞在していたお客様を襲おうとしたんだもの、当然だよね」

「俺たちの扱いはどうなった?」

「ちょっと強引だったけれど、おとがめなしね。ランダース商会の商会長夫人の護衛部隊の者ってかたちになったわ、侵入してきた破落戸と戦闘になっても問題視されないでしょ」

 商会長夫人があのお屋敷に滞在していて、その護衛が破落戸と戦闘になったのが幸いした。本当は僕たちの一団は夫人の護衛とは無関係だったけれど、事情を知った次期商会長である若旦那様が「彼らも母の護衛だ」と言い切ってくださった。

 レイちゃんは取り返せなかったけれど、貴族のお屋敷に混乱に乗じて侵入して暴れまくったことは、若旦那様のお陰で不問になったのだ。感謝しかない。

 脳筋たちによる無計画な突入は、その無計画さと運の良さによって罪にならずに済んだ。

 済んだけれど、レイちゃんがいないことに変わりはない。

 商売人という立場にいる者ならば、まずは情報収集、情報精査、綿密な計画、この辺は誰もがするものだと思っていた。

 商人にとって情報は大切なものであるし、その情報を精査しまとめ、今後の計画を立てその通りに実行する。最低でも僕はそうしてきたつもりだ。

 そして、一緒に仕事をする仲間たちもそうだと思っていた。そう、思っていたのは昨日までだ。

 新たに知った現実は、僕の周りにいる仲間たちは脳や骨の髄まで筋肉で構成されていて、血の気が多く特攻しちゃうような奴ばかりだということだ。

 レイちゃんが謎の誘拐犯にさらわれたと分かった僕たちは、慌てて警備隊に捜索を依頼、商会や個人的な伝手つても使ってレイちゃんを捜した。

 その結果分かったことは、自分たちが働いているランダース商会の現商会長夫人が例のうわさの大元だということ。そしてレイちゃんをウェイイルから引き離したこと。以前レイちゃんに暴力を振るおうとした貴族のご令嬢が、破落戸ごろつきを雇ってレイちゃんを襲撃しようとしていること。レイちゃんを攫った実行犯がフェスタ王国に関係していて、レイちゃんを国に連れ戻そうとしていることだった。

 レイちゃんの荷物を社員寮から運び出した荷運び屋の後を尾行して、レイちゃんがまだ国内に滞在していることが分かった。

 ミッドセアという街の中流貴族が所有する別宅にいることが分かったとき、ようやく僕はひと息ついた心地がした。レイちゃんにケガはなく、丁寧に扱われていると分かったから。

 ここから先、どのようにレイちゃんを助け出そうかと計画を練り始めたというのに、仲間たちの行動は素早かった。

 グラハム主任もバーニーも守衛くんも、「屋敷に突入して、レイを奪い返せばいい」という正直に言えば無計画で単純な、計画ともいえない計画を立ててそれを実行に移した。

 幸か不幸か、貴族のご令嬢の雇った破落戸と屋敷を守る警備担当者たちがすでに乱闘騒ぎを起こしていたが、主任たちは「これは好機!」と踏んだらしい。

 実際、混乱に乗じて守衛くんがレイちゃんのいたサンルームに入ることはできた。ただ、レイちゃんの顔を見ただけで奪い返すことはできなかったけれど。

「……」

 大ケガをしたのは守衛くんだけだけど、グラハム主任もバーニーも、他のメンバーも多少のケガをした。それも、レイちゃんを取り返せていたら気にならないことだったけれど……

「まあ、とにかくキミはケガを治さないとね」

 扉がノックされ、治癒魔法師が治療にやってきたので「また来るね」と守衛くんに声をかけて、治癒魔法師と入れ替わるように病室を出た。

 病院の廊下でふと立ち止まり、大きく息を吐いた。

 なんだか、息が詰まるような感覚がなくならない。

 レイちゃん、今キミはどこにいるの? ケガはしてない? 具合悪くしてない? 皆とっても心配しているよ。

 でも、ランダース商会の商会長夫人のしたことを考えると、キミはもう僕たちのところへは帰ってきてくれないんじゃないかって思う。

 だって僕はキミが毎日のように郵便箱に届けられる悪意が込められた手紙に心を痛め、突然知らないご令嬢に怒りをぶつけられて詰め寄られて怖がっていたことを知っている。そのことに関して、僕たちが何も助けてあげられてなかったことも分かっている。

 レイちゃんからしたら、戻りたくないって思うのも当然だと思う。

 でも、それでも、僕は……キミに会いたいよ、レイちゃん。



 六本脚のスリア馬は大人を四人も乗せた客車を引き、風のように走る。客車の窓から見える景色がどんどん後ろへと流れていく。

 木々に囲まれた森の中の街道を走っていたのが、徐々に木が少なくなり背丈の低い木に変わる。

 客車の中には美少女メイドのコニーさん、猫耳誘拐犯キム、そして私、御者台にマッチョな見張りのルークさん、という配置で移動を続けている。

 私はランダース商会の契約社員として暮らしていたウェルース王国の王都ウェイイルから攫われ、ミッドセアという街のお屋敷に軟禁された。そこではキムにかけられた魔法の影響で体調不良になっていたため、療養の意味合いが強い軟禁になった。

 体調が良くなった頃、ランダース商会の商会長夫人でクルトさんのお母様であるマダムヘレンと不可解で不快なお茶会をし、その途中で乱闘騒ぎに巻き込まれ、恋した人が連れ戻しに来てくれたのはいいけれど、結局誘拐犯からは逃げられず馬車に放り込まれて慌ただしく出発。さらに恋した相手の名前や立場があやふやだ、ということを知らされた。

 情報量が多い。しかも、お茶会からの乱闘と強引な移動開始、リアムさんに関してはこの数時間の間に入ってきた情報だ。私の脳の処理能力を大幅に超えている。

 戦う人、戦う獣、怒声、悲鳴、呻き声、唸り声、ほうこう。割れて砕けた食器やガラス、引き裂かれたカーテン、壊れた家具。流れて飛び散った血液。

 私の耳の奥とまぶたの裏に、それらがまだ鮮明に残っている。

 戦闘が目の前で行われているなんて、それに巻き込まれているなんて私が今までに経験してこなかったもので、普通に元の世界で生きていたとしたら、死ぬまで経験がなかった可能性が高いものだ。

 私の心と体は驚き、今は軽いショック状態にあるように感じられる。心はしびれてに近く、深くものを考えることと感じることが上手くできない。

 親しい人が亡くなったとき、親族が心を守るためにぼんやりして過ごすことがあると聞いたことがあった。それに近いような気がする。

「次に行く大きな街はきっと楽しめるヨ、期待して」

 キムは相変わらずひょうひょうとした感じで言う。

 あのお屋敷でのマダムヘレンとの不快なお茶会も突然始まった乱闘騒ぎも、リアムさんと戦って彼に大きなケガを負わせたことも、自分がケガをしたことも、なにもなかったかのように。

 包帯やガーゼが痛々しいけれど、痛そうなそぶりを見せることもない。

「いい加減、教えてくれない? 誰に頼まれたかってことは話してくれないだろうから、もういい。けど、私をどこに連れていこうとしてるのかくらいは、教えてくれてもいいんじゃない?」

 だってもう、私ひとりの力じゃあウェイイルに戻ることなんてできない。荷物はなにも持っていないし無一文で、身分証だってキムに「これは預かるからネ」と取り上げられてしまった。

 お陰で商業ギルドに預けてあるお金を引き出すこともできないし、大きな街には入ることもできない。

 キムたちとはぐれたら、私は野垂れ死ぬしかないのだ。死にたくなかったら一緒に行くしかない。

…………連れていくっていうか、帰るんだけどネ」

 キムは長い足を組み、同じく長い尻尾で座面をリズミカルにたたく。クッションの効いた座面をパシンパシンと叩く音が客車内に響いた。

「……フェスタ王国の王都ファトルに?」

「そう。お嬢さんが気になってる、誰が俺に命令したのか、どうして帰るのかって理由……は本人から聞いてほしいナ。本人から聞いた方がお嬢さんも納得できるだろうし、俺に命じたお方も、直接お嬢さんに話がしたいだろうしネ」

 キムは……きっとある程度立場のある人なんだろうと思う。メイドや侍従さんのような職業の人たちに命令することに慣れているから。

 そんな立場の人に〝異世界人レイを王都ファトルに連れ戻せ〟と命令できる人となると、かなり身分の高い人ということになる。

 私にはそんな身分の高い人に知り合いなんていないから、誰なのか想像もできない。

 もちろん、私に話したいことの内容だって全く分からない。

 元の世界から召喚されたのに、つがいから迎えに来てもらえなかったびんな異世界人、宝珠のやかたに行くしか道がないわいそうな異世界人、従妹いとことその番に領地へ一緒に連れていってとすがって断られた哀れな異世界人……それが南離宮と王宮でもらった私の評価だ。

 誰がどう聞いても良い評価とは言えない。

 そんな自分に会って、直接話したいことがあるなんてろくな内容じゃないに決まっている。

 王宮にいる間、惨めに孤立した私を皆が笑い、馬鹿にし、噂話を耳にして新たな噂話を生み出し、より一層孤立した。そして、それを見て皆が笑い哀れんで楽しむ。

 当時を思い出すと、背中に冷たいものが走る。

 たったひとり、誰に気にかけてもらえることもかばってもらえることもなく、王宮で働く人たちのサンドバッグ兼娯楽になっていた。

 行き着く先も、行き着いてからも……私にとってはつらいことになりそうだ。そして、そこから逃げることは許されない。

 それなら、このまま心が麻痺したままがいい。いっそ凍りついてしまえばいい。痺れて凍った鈍い感覚でいるなら、何を言われても何をされてもやり過ごせそうな気がする。

 そうだ、王都ファトルでの時間をやり過ごせたら、また国を出よう。

 今度はひとりで国を出る。ひとりでもつじしゃと定期船を使えば、比較的安全に移動ができることが分かっている。

 どこかの商隊に通訳や翻訳の仕事を兼ねて同行させてもらってもいい。目的地に到着したらそこで終わるビジネスライクな関係なら大歓迎だ。

 髪を短く切って、庶民の男の子がよく着る木綿のシャツとパンツ、革のブーツにフードの付いたポンチョ、帽子はキャスケットタイプにしよう。鞄はリュックタイプがいい、両手が自由に使えることは大事だから。

 船に乗って、東を目指す。

 どうやら東に行けば行くほど、アジアっぽい文化圏になるようだ。

 大陸の東端にはファンリン皇国という大きな国があって、そこから船で東の島国ポニータ国へ渡れる。おそらく、あの国が一番日本に近いんじゃないかと思われた。

 私は日本人だから、やっぱりずっと暮らすのなら日本に近い文化圏で暮らしたい。お箸を使ってお米を主食に過ごしたい。

 コトコトと揺れる客車の中で、私はギュッと目をつむり、お腹の奥にある吐き気と嫌悪感と恐怖を抑えつけた。

 キムに命令を下した偉い人と会って話を済ませれば、私は解放される。その後は自由だ。

 私はただひたすらに、旅立つことと旅立った後のことを考え続けていた。ひたすらに。



 閑話 ヴィクター・キム・オルグレンの改悛


「あーあーあー、本当わいそうに。なんでこうなっちゃうんですかねー? 普通、もっとこう、優しくしてあげるもんなんじゃないんですかねー?」

 目の前でエールジョッキをあおるクロヒョウ獣人のルークは、俺にネチネチと絡んでくる。俺に絡み酒とはいい度胸だ。こいつは自分の立場を分かっているんだろうか?

「本当、可哀想で仕方がないですよ。家族や友達と強引に引き離されて、こんな獣がいっぱいいる世界に連れてこられたってだけでも悲惨なのにですよ! つがいは来ない、保護して守ってくれるはずの王城ではひどいイジメを受けて、そりゃあ疲れ果てて逃げ出したくなる気持ちも分かりますよ。ええ、とてもよく分かります」

「おまえがイジメられるようなタマか? むしろイジメやっちゃう側じゃないのかネ?」

「失礼な! 俺はイジメなんてしたことないです、そんなかっこ悪いことなんてしませんよ。そんなことより、本気でまずいですよ先輩」

 皿の上に残ったポク肉の唐揚げをほおって、咀嚼そしゃくしながらルークは追加のエールを注文した。

 お嬢さんの体調回復のために滞在していたウェルース王国ミッドセア。そこで襲撃を受けて、結構ギリギリでお嬢さんを連れて脱出に成功した。

 そのまま馬車を走らせて、街道沿いの小さな村に宿を取った。この村で最初の休憩と補給をする予定だったので、一応は予定通りに進んではいる。

 本来の予定ではもっとゆったりと、余裕を持って移動するつもりだったけども。

 宿は村に二軒ある宿屋のうちの一軒、一階は受付と食堂、二階から上が宿泊用の部屋という一般的な造りだ。お嬢さんとコニーは部屋で休んでいる……はずだ。

 村に到着し、宿に部屋を取るとお嬢さんは食事も取らず部屋に引っ込んでしまったから、よく分からない。

「なにか問題でも?」

「……お嬢さん、傷ついてますって。ただでさえショック受けて、傷ついてぼろぼろで獣人不信で人間不信なのに、先輩に追い打ちかけられちゃって。また体調崩したらどうするんですか」

「追い打ち?」

 そんなものかけた覚えはない、そもそもお嬢さんを傷つけた覚えもない。

「うわー、無自覚。いいですか、先輩……お嬢さんはあのオオカミくんのことを好きでいたんですよ。オオカミくんだって真面目に想ってたんですよ、きっと。なのに、あのオオカミくんがお嬢さんをだましてるって感じに話しちゃってもー」

「あのオオカミくんの素性が不明なのは、事実だヨ」

 追加で運ばれてきたエールを受け取り、ルークは勢いよく呷る。そのままの勢いで骨付きくんせい腸詰めに手を伸ばしてかじった。皮がパリパリになるまで焼かれた腸詰めは、パリンッという音を立てて割れ、中の肉汁をあふれさせる。

「事実ですけどね、言い方ってもんがあるでしょう! あのオオカミくんの素性が不明なのは事実です。でも、先輩が調べて素性が出てこなかったってことは、彼の素性を隠す手続きをした人がそれなり以上の立場にあるってことですよ? それなりの理由があって素性を伏せてるってことです」

 そう言われればそうだな、と改めて思う。

 この俺が調べて回ったというのに、あのオオカミくんの〝リアム・ガルシア〟としての表向きの経歴しか出てこなかった。どこの国にも戸籍はなかったが、もしかすると戸籍を作らない遊牧民やろうの民の出身という可能性もなくはない……が、奴がオオカミ獣人であることを考えると、その可能性は低いように思う。

 守衛として就職している商業ギルドの方も「問題のある男ではありません」としか言わない。言えない、という気配を感じたのは気のせいじゃない。

「それになんなんですか、オオカミくんがお嬢さんを騙してるって。なんてこと言うんです、お嬢さんにあの場で言うことじゃないですよね?」

「お嬢さんの、あのオオカミくんに対する気持ちを抑えられればいいと思っただけサ。そうでなくちゃ、うっかり馬車から飛び降りるとかするかもしれないじゃないカ」

 ルークは俺の言葉に首を左右に振った。

「スリア馬の引く馬車から飛び降りるって、俺たち獣人でもかなり危険な行為ですよ? あの異世界から来たお嬢さんにそんなことできるわけないじゃないですか。そもそも客車の扉には施錠魔法がかけられていて開きません」

 言い切るその顔は〝馬鹿じゃないのか?〟という気持ちが丸出しで、さすがに頭にきた。可能性はゼロじゃないだろうに!

「……お嬢さんはこの世界に来てくれた番さんですよ。いっぱい大切なものをくしてます。そのつらさは俺たちには分からない。想像はしますけど、きっと想像の何倍も辛いと思いますよ。だからこそ、その分こっちでは大事に愛されて過ごしてもらわなくちゃなんです」

「それは……」

「なのに、この世界はお嬢さんを傷つけてばかりです。フェスタの王宮にいた奴らも、従妹いとこさんの番であるクマ獣人一族も、ランダース商会のマダムも……先輩を含む俺たちも」

 ぬるくなっているのも手伝って、口にしたエールが酷く苦くてまずく感じる。

「お嬢さんの手首にある腕輪……見ました?」

「ん? 腕輪なんかしてたかナ?」

 全く覚えがない。お嬢さんは身を飾るアクセサリー的なものはほとんど着けていなくて、安物っぽい髪飾りをしているだけの印象だ。

「……あの腕輪、白い花のモチーフです。すごくきゃしゃれいで、その辺の露店で売ってる安物じゃあない感じがしました。あの腕輪、オオカミくんがウェルース王国で行われた〝しらはな祭り〟のときに、お嬢さんへ贈ったものなんだそうですよ」

「……それ、は」

 三年に一度開催される〝白花祭り〟。祭りのあいだ身に着ける白い花をモチーフにしたアクセサリー、それを恋人や番に贈るという行為は求婚を意味する。その求婚を受けた者は、贈られた装飾品を祭りが終わった後も着け続ける。それが求婚に対する返事であり、婚約のあかしにもなるのだ。

 贈り物の意味をお嬢さんはおそらく知らない。きっと、祭りのときは身に着けるのがならわし、と言われて贈られたものを着けていただけだろう。

 けれど、オオカミくんは意味を分かっていてそれをお嬢さんに贈った。

 つまり……本気でお嬢さんに求婚していたわけだ。

 素性は知れないけれど、お嬢さんに対する気持ちは本当だった。

「……」

「ただでさえいじめられた記憶しかない王都に連れて帰るって言われて、誘拐されて強制的に連れていかれていて、嫌なんだろうに。なのに、好きな人に騙されてるとか言われちゃって。本当、お嬢さんもオオカミくんも可哀想ですよ」

「……」

 ジョッキに残っていた温いエールの苦さときたら、過去最悪で……いつまでも口の中に後味として残っていた。



 第九章 受難とこれから


 街道沿いにある小さな宿場町というか宿場村、数件の宿屋と飲食店、雑貨店、武具店などを中心にした小さな集落で宿を取りながら、馬車はフェスタ王国の王都ファトルに向かって走っていた。

 ランダース商会の面々と一緒にフェスタ王国を出発して、あちこちの街や村で商売をしながらウェルース王国に到着するまで八ヶ月くらいかかった。

 見たことのないものや景色ばかりに囲まれた旅は、今思い返せばとても新鮮で楽しくて、八ヶ月という時間はあっという間だったように思う。

 けれど、「王都に帰る」という旅は淡々と街道を進むだけ。三週間ほどで王都ファトルに到着できると聞いた。

 途中で立ち寄る街や村を見て回ることはもちろんできるし、コニーさんと一緒にお店をのぞいたりもした。初めて見るものも珍しい品もたくさんあった。でも、あの八ヶ月の旅のような楽しさは感じられない。

 それでも時間がつというのは恐ろしいもので、ミッドセアという街でショックなことや情報がたくさんあって、したようになった私の心も少しだけ回復してきていた。

 コニーさんやルークさんが気を遣ってくれたことも大きい。美味おいしいものを食べさせてくれたり、れいなものを見せてくれたり……移動の道中も私の体調に随分と気を配ってくれた。

 彼らの優しさに触れて、私の中に生まれた「また新たに旅立つんだ」という気持ちもあって、少しずつ前を向けるようになってきているように思う。いや、前を向けるようになってきたと思いたいだけかもしれないけれど。

 途中、ウェルース王国とフェスタ王国との国境を越えた。

 大きな川がふたつの国を分ける国境となっていて、川を渡る石橋を通るための検問が設けられている。

 橋の手前にある検問所には国境を守る警備員さんが常駐していて、人々の出入国を管理している。当然身分証を見せて「はい、どうぞ」というわけにはいかない。

 フェスタ国籍の人が帰国する際は厳しくはないけれど、外国人の入国出国は厳しく、質問や荷物の検査が行われるので時間がかかる。どこの国の国境検問所にも長い行列ができるのが当たり前の光景だ。

 けれど、検問担当者にキムの持っていた一枚の書状を見せると、あっという間にフェスタ王国へ入ることができた。

 フェスタ国籍の人が帰国するにしても、身分証の確認も荷物の確認も全ての手続きがある。それが全て省略されてしまったのだ。入国審査を受ける順番待ちの行列も当然無視して。

 馬車が進めば、行列に並んで審査を待っている人たちの視線が突き刺さる。彼らは入国するために何時間も並んで待つのに、この馬車はそんなものは関係ないとさっさと入国するのだ。にらみつけたくもなるだろう。若干の申し訳なさを感じて、窓から視線を外す。

 彼らの視線もスリア馬の引く馬車ならほんの数秒の話。

 馬車は街道を進み、数ヶ所の宿場町を越えて大きな街に入った。街を囲む城壁は高くはないけれど、街の周りは水をたたえたお堀が守っている。

 真っ白い壁と赤黒い屋根の建物が並び、街の中にも大きな川が流れていた。所々に植えられた街路樹は常緑らしくて、冬が近づいている中でも濃い緑色の葉をたっぷり茂らせているのが見える。

「……れい

「ここはレリエル、フェスタ王国で二番目に大きな街サ」

 二番目に大きな街、というだけのことはあって本当に広い。私が知っている大きな街はふたつの国の王都のみだけれど、王都ファトルにも負けていない感じがする。

 白い外壁と赤黒い屋根で統一された美しい街並み、整えられた街路樹に魔法を使っている街灯、植物がたくさん植えられた花壇、あちこちに見られる緑地公園や噴水公園。通りは青灰色の石畳が敷かれ、ゴミひとつ落ちていない。

 街にあるお店にはたくさんの品物が並び、暖かそうな衣類に身を包んだ人間や獣人が買い物をしている姿をたくさん見かけた。買い物をする人たち、井戸端会議をする人たち、公園で遊ぶ子どもたち、カフェに集まって勉強する学生さんたち。皆楽しそうだ。

「この街は大公家が治めている街で、観光地としての人気も高くてネ、一年中観光客でにぎわってるヨ。人は多いけど、治安が良いから安心して過ごしてネ」

「……過ごしてって、一泊したらすぐに王都に向かうんじゃないの?」

 キムたちの仕事は私を王都ファトルに連れ戻すことだ。さっさと王都に行って、私を引き渡せばいいはずだ。

「まあ、キミを迎える側にもいろいろと都合があるんだよネ。それにお嬢さんだって、いきなり王都に戻されるより、ここで覚悟を決めるなり、心構えをするなりの時間があった方がいいんじゃないのかナ?」

 本音を言うのなら、王都には行きたくない。行かずに済むのだったら済ませたいくらいだ。

 でも、それは許されない。私はキムたちに連れられて王都に戻る。だったら、いっそ嫌なことは早く済ませちゃおうっていう気持ちにもなる。

 先延ばしにすれば、それだけ嫌な気持ちが長引くのだから。

「……とりあえず、長旅だったしここで少し休憩だヨ。ここから王都まで、馬車で三日はかかるんだからネ」

 馬車は美しく整備された街を進み、高台にある大きなお城のような建物のある敷地に入った。

 お城の外壁は街にある家と同じく真っ白なのに、屋根の色だけは少しだけ明るみもある赤茶色なのが目を引く。外壁に掲げられた、フェスタ王国の色である藍色の旗色も鮮やかだ。

「あれが大公館、現在の領主であるアディンゼル大公閣下と細君がお暮らしだヨ」

「大公、閣下?」

「そう、クリスティアン・アディンゼル大公閣下。現在のフェスタ国王の弟殿下の息子、国王のおいで王子たちの従兄弟いとこになる人物サ。お嬢さんには、明日大公閣下と会って話をしてもらう予定だからネ」

 キムは軽く言って、にこりと笑う。

「ちなみに、トラ獣人だヨ」

 獣人なのか人間なのか、そこはあまり問題にしてないけれど……国で一番偉い人の甥、王子たちにとっては従兄弟になるってことは、ものすごい高位貴族なんじゃないの? そんな人と会って、何を話せっていうの!?

「そんな変な顔しなくても大丈夫だヨ! お嬢さんは大公閣下の質問に、うそ偽りなく素直に答えればいいだけサ」

「それなら、できそう……かな」

 こっちから話すことなんてないから、困る。質問に答えるだけならできそう。

「ま、多少厳しいこと聞かれるかもしれないけどネ。大丈夫大丈夫、どっかの誰かさんみたいに殴ったり、後々妙なうわさをばらまいたりとかしないからサ」

 少しだけ安心したけど、あっという間に突き落とされた。明日という一日を無事に過ごすことができるんだろうか? 無事、全てを終えて再び旅立つことができるんだろうか? 不安しかない。

 馬車は美しく整えられた庭園を抜け、車寄せの前で止まった。



 アディンゼル大公閣下の暮らす領主館は、館と言われてはいるものの私の感覚では立派なお城。

 中央に大きな本館と呼ばれる四階建ての建物があって、その左右に左右対称の二階建ての建物がつながっている。ドローンで空から見たらきっとコの字型になっているだろう。

 私は東側にある二階建てのお屋敷へ案内された。

 本館には大公閣下のご家族が暮らしていて、食堂やダンスホール、遊戯室、図書室などもそちらにあるそうだ。

「何かご入り用の品がございましたら、遠慮なくコニーにお申し付けください」

 執事だという老年のトラ獣人さんはそう言って、引き続きコニーさんを私のお世話係に付けた。コニーさんの本業は大公閣下の奥様に仕える侍女さんだと聞いた。奥様の方を優先してもらって構わない、と言ったら「お風呂も沸かせないお嬢様を放っておくことなどできません」と拒否された。

 まあ、私がこの大公館でお世話になる時間はそう長くはないだろうから、ありがたく甘えることにした。

 部屋で夕食を食べ、部屋に備え付けられたお風呂に入っててんがい付きのベッドに横になると、さすがに疲れていたのかあっという間に眠ってしまった。

 宿屋の少し硬いベッドと薄いお布団でも平気だし、気持ちよく眠れる方だけれど、やっぱり厚みのあるベッドにふわふわのお布団は格別だと思う。

 夜の冷え込みも手伝って、私は高価なお布団にくるまれて眠り、大公閣下と会う日の朝を迎える。


 翌朝、部屋でお手本のようなヨーロッパ風の朝ご飯を頂いた。その後、コニーさんによってお風呂に放り込まれ、頭から足先まで磨かれて、まだこちらの世界の女性としては短い髪も、美しく編み込まれてリアムさんから贈られた髪留めで飾られる。服は綺麗めデザインの紺色のワンピースと白いボレロ風カーディガンを着せられた。

 着替えが終われば、キムに応接室でも客室でもなく本館にある執務室に案内されて、心臓が飛び出そうなくらい緊張しながら室内に入った。

 黒に近い色をした重厚なデザインの執務机の上には、上等な文房具と書類だけが置いてある。

 毛足の長いじゅうたんと窓に掛かるカーテンは深い藍色、壁紙はオフホワイトと落ち着いている。部屋の主人の人となりを表している感じがした。

 その部屋の主人は濃いオレンジ色と黄色と黒の混じった毛色と黒くて先っぽの丸い耳、しましま模様の太くて長い尻尾を持ったトラ獣人。彼はゆったりと執務机に座っていた。

 入室してすぐに頭を下げる。

「ようこそ、レリエルへ。堅苦しくしないでくれ。キミを呼びつけたのは私だし、かなり強引に連れてこられただろう。すまなかったな」

「……レイと申します。大公閣下にお目にかかれて光栄です」

「私はクリスティアン・アディンゼルという。キミにはいくつか確認したいこと、質問したいことがある。そこに座って、気楽に答えてほしい」

「承知しました」

 執務机の前に用意されている革張りのソファに座ると、執事さんが綺麗なティーカップに紅茶を注ぎ、お茶請けにドライフルーツの混ぜ込んであるクッキーを出してくれた。

 アディンゼル大公は私の向かいのソファに来て座り、キムは大公閣下の斜め後ろに立つ。執事さんは茶器の載ったワゴンを廊下に出すと、扉の横に控えた。

「さて、改めて名前をお聞きしようかな。異世界からやってきたつがいさん」

「レイです。レイ・コマキと申します」

 キムがソファの前の机の上にあった紙を手にした。その紙は薄緑色に光ると折り紙のように複雑に折れ、小鳥の姿になる。もしかして、魔法で手紙を送るというものだろうか。

 薄緑色の光る紙の小鳥は空中に浮かび上がるけれど、行き先が分からないようでキムの頭の上をぐるぐると飛び回って、床に落ちて一枚の紙に戻った。

「……どうして?」

「それはキミの名前が正しくないからだ。この手紙を送る魔法は、相手の名前が正しくなければ届かない。本当にキミがレイ・コマキならば、この紙切れはキミの手元にまで移動していた。だが、実際はここだ」

 大公閣下は座ったまま床に落ちた紙を拾い上げると、それを後ろにいるキムに手渡した。

「……」

「つまり、キミの名前はレイ・コマキではないことになる。この世界に召喚されたとき、キミたち番には名前や年齢、あちらでの立場などを聞いた。そのときに提出されたキミの資料にもレイ・コマキと書かれていたが……まあ、まずは正しい名前を教えてもらいたいな」

…………レイナ・コマキ、です」

 キムは先ほどと同じように紙を手にし、紙は薄緑色に輝いて小さな小鳥の姿になった。そして、今度は迷うことなく私の手元に飛んできてから一枚の紙に姿を戻した。

「フム、キミの本当の名前はレイナというのだね。レイナ嬢、どうして名前を偽ったのかな?」

「この世界には魔法がある、と伺いましたので」

「うん?」

 大公閣下とキムは分からない、と首をかしげる。

「ご存じとは思いますが、私のいた世界には魔法というものは存在しておりません」

「ああ、そうだったね。異世界では魔法がなく、代わりにカガクというものが発達していると聞いたよ」

 魔法が心というか精神に作用する可能性を想像し、その作用する軸に本名が関係している……となにかの本で読んで覚えており、それが事実かどうかは分からないけれど、そのため恐怖に駆られてレイナという名をレイとしたことを説明した。

「なるほど……単純に自衛のためだったわけだ。従妹殿にはその話をなぜしなかったのだ? キミの従妹殿は正直に名前を記入していたようだが」

「名前のことをあの子に伝えようとしました。ですが、あの子はそのときにはもう調書に記入をし終えており、書類を提出していました」

 あんは素直な女の子なので、記入しろと言われてそのままを記入して、書き終わったから提出したのだ。

「そうかそうか。ちなみに、キミが不安に思った精神作用系の魔法は確かに存在している。だが、名前など分からなくても魔法はかけられる。だから本当の名前を知られないことは、残念ながらあまり自衛にはなっていないな」

 そんなこと言われたって、知らないのだから仕方がないじゃないか! と心の中で訴えておく。実際に口に出すなんて、恐ろしくてできないから。

「では次の質問だ、どうしてフェスタ王国から無断で出国した? 無断での出国は重罪だぞ」

「無断ではありません、出国手続きをしてこの国を出ただけです」

「それはこちらの世界の者、の手続きだろう。異世界からの番たちは、伴侶となった番との同伴、もしくはそれに準ずる保護官の許可証と同伴がなくては出国できない決まりだ。基本的にキミは出国禁止の立場にある」

「……え」

「異世界から召喚された番たちを守るための法だ。それを無視して出国するとは、前代未聞だ」

 嘘……異世界から来た人は召喚された国から出たらいけなかったの? 出国するには条件があったの?

 無断出国は重罪だ、その言葉が耳の中で何度も繰り返されて、私は息をするのも忘れた。

 アディンゼル大公閣下はオレンジ色の強い毛並みの中にある黒い耳をピクピクと動かし、大きく息を吐いた。高貴な方はなんでもない仕草にも気品がある。

「まあ、無断出国についてはよい。キミはそれが重罪になるどころか、自分が出国禁止の立場にあることすら知らなかったのだろうからな」

「……」

「キミを無断出国の罪で裁くとなると、キミを保護する立場にあったトマス・マッケンジー上級文官とその部下たちを処罰し、キミを国外へ連れ出したランダース商会の者たちも、誘拐犯として捕らえて罰しなくてはならなくなる」

「……え?」

「そりゃあそうだろうサ!」

 戸惑う私を笑うように、キムが口を挟んだ。大公閣下と同じ場所にいるっていうのに、いつもの軽い調子のまま。

 大公閣下も執事さんも慣れているのか、特別口出しすることもない様子だ。

「お嬢さん、よく考えてみなヨ。マッケンジーはお披露目会の責任者で、奴の部下たちが動いて開催されたわけだヨ。異世界から呼んだ番たちの安全に関してはマッケンジーが責任者なんだよネ。番が伴侶となる獣人に引き渡された、そのときに責任は奴から伴侶に移るわけサ」

 私が首を縦に振ると、キムも縦に振る。

「けど、お嬢さんは伴侶の番に引き渡されていないわけだから、キミの保護官はマッケンジーのままなのサ。保護対象であるキミが行方不明になったら、当然責任問題になるわけで……マッケンジーが罪に問われるんだヨ。保護してるはずの異世界からの番に逃げられるなんて、前代未聞」

「……そんな」

「ランダース商会の連中に至っちゃあ、誘拐犯だヨ! フェスタ王国が呼んだ異世界からの番を、伴侶とまだ出会ってない番を! 国外に連れ出すなんて! 誘拐以外のなにものでもないんだヨ。誘拐だって重罪だし、出国禁止のキミを出国させちゃったなんて、これまた前代未聞」

 勢いよく語ったキムを、大公閣下が手で制して止めてくれた。止めてくれなかったら、もっと語っていたに違いない。

「まあ、大元を辿たどれば……お披露目会で伴侶に迎えに来てもらえなかった異世界からの番、という存在も前代未聞だ」

 とどめを刺された私はうつむいた。

 膝の上に置いていた手が震える。

 私が国を出てしまったことでトマス氏や彼の下で働いている文官さんたちが責任を問われ、ランダース商会のマリウスさん、グラハム主任、バーニーさんが誘拐犯にされてしまうなんて……想像もしてなかった。

 そんなつもりはなかった、と言っても意味がない。結果は変わらない。

「知らぬこととはいえ、申し訳ありませんでした」

 それでも頭を下げ、謝罪の言葉を口にしないわけにはいかなかった。

「トマス・マッケンジー氏にご迷惑をかけるつもりは全くありませんでした。ランダース商会の商隊に関しては私が同行を願い出たのです。どうぞご容赦ください」

 この先、どうしたらトマス氏と部下さんたち、ランダース商会の面々にかけられた容疑を晴らすことができるのだろう?

「それはよい、と言っているだろう」

「……ですが」

「問題なのは、キミが出国を考えたきっかけの方だ。理由があったから、フェスタ王国から離れようと思ったのだろう?」

 顔を上げると、正面には表情ひとつ変えていない大公閣下とその後ろで両肩をすくめているキムが目に入った。

「一応調べはついてるんだけどサ、お嬢さんの口から説明してほしいんだヨ。お嬢さんの立場から見た状況、お嬢さんが感じたことをネ」

「……それで、どうして国を出ようと?」

「私がこの国にいる意味がありましたでしょうか」

 私がそう答えると、大公閣下は長い尻尾を揺らし、首を傾げた。心底私の言葉の意味が分からない、という風だ。

「意味? あるに決まっているだろう。キミはフェスタ王国にいる獣人の番なのだから、王宮から出たとしても王都に滞在するべきだ。そして、番と出会うべきだったのだから」

「……心からそう思っておられた方が、王宮に何人いたでしょう」

 当時のことを思い出すと、胸が痛い。

「王宮での私は番に迎えに来てもらえず、従妹に一緒に連れていってとすがりつき、同行を断られた行き場のない異世界人でした。誰かの番として召喚されたのではなく、なにかの間違いで従妹と一緒に来ただけの不要な人と言われたこともあります。事実無根の噂をたくさん流され、私に居場所はありませんでした」

「……」

 大公閣下とキムは顔をしかめた。彼らは私がお披露目会の後、どんな風に王宮で過ごしていたのか調べただろう、寮に移って〝異世界課〟で翻訳の仕事をしながら過ごしていたことを。

 噂を流されていたことだって知っていたはずなのに、どうして驚いてみせるのだろう。

「王宮での生活は順調でした、仕事は嫌いじゃありませんでしたし、労働をしてその対価としてお給料をもらうことで、私はあの場所で辛うじて居場所を得ていました」

「異世界課のエイリー課長はキミを高く評価していたよ。たくさんの本を翻訳して説明してくれたし、分からなかったことも丁寧に解説してくれた。使えなかった品も使えるようにしてくれたと」

「……それが、仕事でしたので」

 異世界課の中では普通に過ごせていたと思う。課の同僚さんたちとも普通に会話ができていた。

 けれど異世界課の事務所から一歩外へ出れば、そこは結構な地獄だった。異世界課の室内と寮の自室だけが安全地帯だった気がする。

「最初は王宮から出ようと思いました。城下街で部屋を借りて、翻訳の仕事でもして暮らしていこうかと」

「でも、お嬢さんは国を出たよネ? その理由は?」

「……私を〝宝珠のやかた〟へ入館させたい人が大勢いらっしゃるようでした。私が館入りすることを望んで、人間ではない種族の……獣人とかエルフとかの子どもを産ませたい人が」

「それは、本当か!?

 大公閣下は身を乗り出した。私は首を縦に振って肯定する。

「名前も顔も分かりません、話している言葉を聞いただけですから。でも、新しい血が館に入ることを喜んでいましたし、私が入館しなかったら肩すかしだとも言っていました」

「……それで、お嬢さんは国を出る決意をしたのかナ?」

「このまま王宮や王都にいたら、強引に館入りさせられる可能性がある、そう思いました。なので、王都を出ようと商隊に同行させてもらうことにしたのです」

 ぼすんっと音を立てて大公閣下はソファに座り直し、片手で顔を覆った。耳は伏せられ、尻尾はいらたしそうにあちこちをたたいている。

「キミが置かれていた状況、立場については理解した。宝珠の館に関することで恐怖を抱いたことも、そこから逃げ出すことで自衛しようとしたことも理解した」

 私は小さく息を吐いた。

 少なくとも、私が出奔しようとした理由については理解してもらえたようだ。それなら、トマス氏や商会の皆への責任問題や誘拐罪もえん罪としてなんとかなるかもしれない。

「でもサ、お嬢さん」

 キムは真面目な顔で私を見つめた。

「お嬢さんの事情はよく分かったヨ、逃げ出したくなる気持ちも理解できるヨ。でも、どうして助けを求めなかったのかナ?」

「……え?」

 キムの言っていることの意味が理解できなかった。

 助けを求める?

「どうして助けてって言わなかったのかなって疑問でサ」

…………えっと、何に対する助けを?」

「え、だってお嬢さん、変な噂流されていじめられてたでショ? 宝珠の館に入ることを当然みたいに言われて、強引に入れられちゃうかもって思って怖かったんでショ? そのことに関して、助けてって言うものじゃないのかナ?」

「誰に?」

「……えっ、信頼してる人にサ」

 シンライ? 信頼? 信じて頼ることができる人?

「……」

「……」

 執務室に沈黙が降りた。

 大公館の整えられた立派な庭に遊びに来ているらしい小鳥の声が聞こえ、執務室にある立派な置き時計の秒針が、カチコチと動く音が大きく聞こえる。さらに、館から離れているところを移動していく馬車の音まで聞こえる。

 いたたまれなくて、私は放置されている紅茶に手を伸ばした。ぬるくなってしまってはいたけれど、すっきりとした味でとても美味しい紅茶だ。

 さすがは大公家、高価な茶葉を使っているんだろう。

 大きな息が吐かれ、大公閣下が沈黙を破った。

「……分かった。レイナ嬢、キミはフェスタ王国で知り合った誰ひとりとして、信頼していなかったのだな。助けを求めるなんてそんなことは思いもしなかった、ということだ」

 それは、申し訳ないと思いつつも……私と同じ状況にあって王宮の誰かに信頼を寄せろ、という方が難しいのではないだろうか。

 周囲にいた人は皆、私を番に見捨てられた惨めなゴミ、なぶっても問題のないサンドバッグ、楽しい噂話の元となっている娯楽、くらいにしか見ていなかった。

 そんな人たちを信頼しろと?

 無理だ。私はそこまで心が広くはないし、強くもないし、大人でもない。

「事情はおおよそ理解した。この先のことは私に任せ、キミはここでしばらく過ごしてもらいたい」

「えっ……」

「キミを王都に連れていくことに変わりはないが、相応の準備が必要だ。その準備が整うまでの間、この屋敷で自由に過ごしてくれて構わない。キムを護衛として同行させるのなら、街に出ることも近隣の村に出かけることも構わない」

 そう言って大公閣下はソファから腰を上げる。執事さんが音も立てずに執務室のドアノブに手をかけた。

「その代わり、どこに出かけても必ずここに帰ってくるように。行方不明にはならないでくれ、捜し出すのは手間だ」

 勝手に出国した私に勝手にいなくなるなとくぎを刺すと、執事さんが開けた扉に向かって廊下に出る。その直前に大公閣下は足を止めて振り返った。

「レイナ嬢」

「……はい」

「覚えておいてほしい、人は己を頼りにしてくれない相手を頼ったりはしない。己を信じてくれない相手を信じたりはしない。誰かが助けてくれるのを待つばかりではなく〝助けてくれ〟と自ら声をあげなくては誰もキミを助けない。キミは幼子ではないのだから」

 濃いあめ色をした大公閣下の瞳に、ほうけた顔をした私が写っていた。

「キミの行方が分からないと知ったマッケンジー上級文官とその部下は、キミを捜した。彼らは文官として責任者としての意識もあっただろうが、私財を投じてまで捜している」

 トマス氏が? 私を捜していた?

「それに、お披露目会開催中にキミの世話をしていた侍女、マリンというリス獣人の娘だ。あれも侍女仲間と共に、キミを捜して城下街を回っていたそうだ」

 マリンさんが?

「キミが信頼できないと切り捨てた者でも、あちらはキミを案じて捜し回っていた。それを覚えておいてほしい」

 大公閣下はそう言って執事さんを連れて出ていった。

 執務室にはぼうぜんとした私と肩を竦めるキムだけが取り残され、お昼を知らせる鐘の音が響き渡った。



 目の前に置かれたのは大きなマグカップ。お皿の上にはナッツとチョコの入ったクッキー。

 いつも飲み物といえば、きゃしゃなデザインのティーカップに紅茶だったから、白い大きなマグカップにマシュマロの浮かんだココアは珍しい。

「腹が減るとろくなコト考えないって、相場が決まってるんだヨ」

 大公閣下の立派な執務室を出て、本館から当面の住まいとなった大公館の東館に戻った。なんだか疲れてしまって、東館に入ってすぐ横にある休憩室でぼんやりしていた。

 昼食は全く食欲がなくて遠慮したのだけれど、気にかけてくれたんだろうか。

「……ありがとう」

 カカオの香りが漂い、溶け始めたマシュマロはココアの中に半分ほど沈んでいる。口にココアを含めば、甘さは思っていたより控えめだ。一緒に出てきたクッキーが甘めだったので、甘みの少ないココアとの相性は良い。

 キムはテーブルの向かいに座ると、自分の手にあるマグカップに口をつける。

「少しは落ち着いたかナ?」

「頭の中でいろんなことがぐるぐるしてる」

 今まで考えていたのは自分のこと、マリウスさん、グラハム主任、バーニーさんをはじめとするランダース商会でお世話になった人たちのこと、リアムさんのこと。

 私の中でフェスタ王国での思い出はつらくて苦しいことばかり、だった。誰も私のことなど気にかけないし、心配なんてしないと決め込んでいた。

 まさかトマス氏やマリンさんが私を心配して捜してくれていたなんて、全然思っていなかった。だから、心配してくれたことをありがたく思うと同時に、申し訳なく思う。

「ま、考えすぎなお嬢さんのことだから、そうだろうネ」

 クッキーがまだ残る皿を私の方に押しやり、キムは笑った。

「甘いものは心を落ち着けて、元気をくれるんだヨ。お嬢さん甘いもの好きでショ、食べなヨ」

「ありがと」

 猫耳誘拐犯キムとの付き合いはほどほど長くなっている。なんと言っても三度の食事も移動中もほとんど一緒にいたし、宿の部屋も隣だったり向かいだったり。

 とにかく一緒にいる時間が長かった。お陰で興味もないのに、キムのことをいろいろと知ってしまった。さんくさい雰囲気をまとっている割に思いのほか面倒見が良くて、気が利いていて優しい。彼を知ると同時に、私のことも知られた。私が甘いお菓子や果物が好きだとか、洋服は落ち着いたデザインのものが好きだとか、あちこち旅をしてこの世界を見て回りたいという夢のことまで。

「で、どうしようかネ?」

「? なにが」

「ちゃんと帰ってくるなら出かけて構わないって、大公閣下に言われたでショ。出かけようヨ」

…………本気?」

「本気も本気サ! お嬢さんはこの世界にある見たことのない景色やら、品物やら生き物やらを見たいと思ってるんだよネ? この街も見どころがあちこちにあるし、近くの村で連れていきたいところもあるんだヨ」

 キムなりに私を慰めようとしてくれているんだろうか。

 胡散臭い男だという印象に変わりはない。意地が悪いし、任務に必要だとなればひどいことだって暴力を振るうことだってできてしまうような……キムはそんな怖い部分のある男だ。でもそれとは違った一面を持っていることも今は知っていて、私の中でただの胡散臭くて信頼ならない男から少しずつ変わってきているのは事実だ。

「せっかくの機会だから、出かけようヨ」

 いくらこの国で私に優しくしてくれる人が少なかったからって、自分がこんな単純だったなんて驚いてしまう。こんな胡散臭くて怖い人なのに、気晴らしにと誘ってくれることを素直に純粋にうれしく思ってしまうなんて。

「……うん」

「期待しててヨ、きっと楽しめるからサ」


 大公館東館にある休憩室は昼過ぎの柔らかな日差しが入り、大きなマグカップに入った甘いココアも手伝ってとても暖かい。

 私はその暖かい部屋から、秋の深まる美しいレリエルの街を見つめる。レリエルの街はその整えられた美しさも手伝って、少しだけよそ行き顔に見えた。