第一章 新しい世界と私の立ち位置


 それは突然目の前に現れた、ように見えた。

 瞬間移動や魔法による転移とかそういうモノではないのは分かっている。彼女が店に入って、私のいるテーブル席に近づいてくるのも見えていたから。ただ、突然湧いて出たように感じたのは彼女が迫ってくる勢いがすごかったのだ。

「アナタがクルト様のつがい?」

 目の前のご令嬢は眉をつり上げてお怒りのご様子。美人は怒った顔も美しい。

「何よ、返事をしなさい! 番なの、そうじゃないの!?

 身にまとうのは優しいローズピンクのお出かけ用ドレス。落ち着いた茶色の瞳に、淡い黄色に近い豊かな髪からは柔らかそうな垂れた耳が見える。

 外見から察するに大型犬の獣人だろうか、イメージするならゴールデンレトリバーという感じ。ドレスで隠れて見えないが、きっとふさふさの尻尾があるに違いない。

「はっきりしなさいよ!」

 ご令嬢は私の反応が気に入らないらしく、周囲も気にせずに詰め寄ってくる。

 店内にいるお客や店員全員がこちらを注目しているのが分かる。突然始まった修羅場らしきものに好奇心がき出しだ。すごく嫌なんだけど。

 そもそも彼女はどこか良いところのご令嬢なんじゃないの? こんな人が、お客が大勢いるカフェで騒いでもよいの? 後ろに控えているメイドさんも止めなくてよいの?

「……はあ。番だとうわさされていますが違います。事実ではありません、根も葉もない噂です」

 とりあえず、ため息と共にお返事をする。すると、お嬢様は顔を真っ青にしてから今度は一気に真っ赤に染めた。

「なんで、アナタみたいなパッとしない人間が! どうしてよ! わたくしではなくて、アナタみたいな人間が!」

 そんなことを言われても、困る。それに、ちゃんと人の話を聞いてほしい。私は違うって言っているのに、そこは完全無視だ。

 どうしてこう、人の話をちゃんと聞いてくれない人ばかりなんだろう。

 私の容姿がこちらの人たちと比べてパッとしないことは事実だ。だからそこは否定しない。

 短い黒い髪に濃い茶色の瞳、典型的な日本人の色。顔の造りも平面的で、日本人の中にいても特別にわいいとかれいとかそういうこともない。金や銀とか鮮やかな色合いの髪や瞳の色を持って、彫りの深い顔立ちが多いこちらの人たちからしたら、地味でパッとしない顔だと自分でも理解しているのだ。

 しかし、番うんぬんに関しては断じて私の責任じゃない。自分で選べるものではなく女神様が決めるもの。生まれる性別を選べないように番相手を自分で選ぶことはできない。私はそう習った、この世界に落とされたときに。

 ワアワアと騒ぎ続けるご令嬢を横目に見ながら、私は冷め始めたお茶を飲み干す。口をつけたときは香ばしくて美味おいしいと感じたのに、お茶はすっかり味をくしている。

 安いお茶じゃなかったのに、とても残念で無駄なことになったと心の底からうんざりした。



 私、こまれいがこの世界にやってきた……いや、強制的に連行されたのはかれこれ一年半ほど前になる。気が付けばもう一年と半年が過ぎているなんて、時間の流れはどちらの世界でも早い。

 当時の私は短大に通う女子大生で、前期の試験を終えてのんびりとした時間を手にしていた。

 大学図書館で初心者でも作りやすいお菓子や料理の本、唐突に読み返したくなった童話集を借り、同じ短大に通う同じ年齢の従妹と共にランチと買い物に出かけた。

 地下鉄を乗り継いで新幹線が止まる大きな駅で降り、最近できたというイタリア料理店でパスタランチを食べた。パスタは美味しかったし、デザートの小さなケーキも美味しくて「また来ようね」とか「別のパスタも食べたい」なんて従妹と笑い合った。

 その後、夏の洋服を買い足すのだ、と大手デパートに向かってビルとビルの間の細い道を歩いていたときだ……突然足元の地面が無くなっていた。

 アスファルトで舗装された道がちゃんとあったはずだ。事実、私と従妹から数メートル離れたところにはある。なのに、私たちの立っているところだけぽっかりと無くなっていて、その穴は底が見えない暗闇が続いているように見えた。

 ふっと一瞬だけ浮いている感じがして、そして、落ちた。

 底の見えない穴に飲み込まれ、私にしがみつく従妹の悲鳴を聞きながら私は意識を失ったのだ。


 目が覚めたとき、従妹と私は見知らぬ場所にいた。

 広いロビーというか大広間という感じ。建築も調度品も西洋風で、きっとお高いんだろうなと想像がつく。私たちが座り込んでいるじゅうたんも毛足が長くふわふわだ、これを土足で踏むとかちょっと躊躇ためらわれるほど。

「ねえ、レイちゃん……ここ、どこ?」

 従妹のあんは今にも泣き出しそうだ。

「さあ? 元いたところじゃあないよね」

「あの落っこちた穴の先ってことだよね? え、異世界とかそういうやつ?」

「異世界? 何それ、違う世界ってこと?」

 私が聞くと杏奈は大きくうなずいた。

「そういう小説とかコミックとかあったでしょ。えない男の子が異世界に呼ばれて〝この世界をお助けください、異界の勇者様〟とか言われて、新しい世界で可愛い女の子や親友と一緒に世界を救う的なやつ」

「あー、分かった」

 何冊か読んだことがある。なかなか面白かったし、気分転換にと気が向くと手にして読んだ小説やコミックが思い浮かんだ。杏奈が言っていたような内容もあったし、生まれ変わって記憶を持っていたり何かの拍子で思い出したり……とバリエーションも豊富で楽しかった。

 しかし、それが現実として自分の身に降りかかるとは。世の中何が起きるか分からない。

「あの、大丈夫ですか?」

「えっ、はい」

 声をかけられ、杏奈と共に顔を上げればそこには真っ白い肌に金髪へきがんの美女がいた。どこかの事務所のモデルか女優か、というレベルの美女だ。

「よかった。いつまでも座り込んでいるから、具合が悪いのかケガでもしたのかと思ったわ」

「ありがとうございます、大丈夫です」

「あたしも」

 ふたりで立ち上がり、周囲を見渡す。そうすると美女と私たち以外にも同じような人が何人もいるのが確認できた。そして彼らの人種がさまざまであることに驚く。北欧系の人もいれば中東系、ヨーロッパ系に私たちのようなアジア系もいて、性別も男女まちまち。

「ところで、ここはどこですか?」

 杏奈の質問に金髪碧眼の美女は肩をすくめて分からない、と言う。

 彼女は自宅で食事の支度をしていたのに、突然床が無くなって落っこちてしまい、気付いたらここに立ちつくしていたらしい。どうやらここにいる者全員が同じような経緯(突然床や地面が無くなり、そこから落っこちて気付いたらここ、的な)でこの場所に来たようだ。

 そんな話をしているうちにも、新たに数名がこの大広間に突然現れてざわめきが広がる。

 ここはどこなのか、これからどうなるのか、元の場所に帰ることができるのかと不安な気持ちが胸の中で膨らんでいく。

 そういう私も自分の置かれている立場に改めてゾッとした。ここがどこなのか、この先どうなるのか、そういう疑問ももちろんあるのだけれど、帰れるのかいなかを考えると恐怖を感じる。

 読んだ小説やコミックの知識を鑑みれば、帰れないという確率が高い。もしくは、帰るためにはてつもない労力を必要としたりする。なんとなくそれを察している杏奈も顔色が悪い。

「レイちゃん、どうしよう……怖いよぉ」

 私も怖い、普通に怖い。

 ざわつく室内にパンパンッと手をたたく音が響いた。大広間はよく反響するらしく、拍手の音はとても大きく聞こえた。

「さて、皆様。ようこそ、異世界へ! 残念ながら皆様はもう以前の世界へ戻ることができません。ですので、こちらで幸せな生活ができるよう頑張って参りましょう!」

 にこやかに宣言した男は麦わら色の髪にやや濃い茶色の丸い耳と長い尻尾を持った、異世界人だった。その彼の後ろに控える男性たちも、メイドさんらしいそろいの制服を着た女性たちも皆、人と同じ姿に獣の耳と尻尾を持っている。

 その場にいた数人が意識を失って倒れ、私のすぐ横にいた杏奈も気を失って絨毯の上に倒れた。

 開示された情報に対して脳の処理が追いつかなくなり、意識をれんにぶっ飛ばしたものと思われる。もしくは現実逃避だろうか。

 残念ながら私はしっかり意識を保ったままだった。本当に、残念なことだった。


 宮廷文官をまとめる立場にいるのだというその人は、ピューマの獣人であると自己紹介してくれた。

「トマス・マッケンジーと申します。改めまして、ここは皆様が暮らしていた世界ではありません、別世界です。訳あって、皆様をこちらの世界へとお招きしました」

 大広間の隣にある部屋に椅子が並べられており、そこへ自由に座るように言われた。

 杏奈は他の倒れてしまった人たちと一緒に別室に運ばれ、意識の回復を待つのだという。倒れた人は杏奈を含めて五、六人いた気がしたが、そのほとんどが男性だったので……繊細な男性が多いのだなと感じた。

 それぞれが椅子に座ると、正面に陣取ったトマス氏の説明が始まる。質問は後で受けるので、まずは説明を聞けと言う。

「ここは、さまざまな種族が仲良く暮らしています。種族によるなかたがいや差別はありません。人間、獣人、エルフ、ドワーフ、妖精などです。特に獣人の種族は多岐にわたりまして、肉食系から草食系まで進化の過程によりひと通り揃っているもの、と認識してください」

 トマス氏の右側に控える男性はやや小さめの三角耳で、耳の先からさらに黒い毛が生えている。左側の男性は先が丸まった黒い耳で、ネコ系の獣人だろうことしか分からない。

 私の一番近くにいるメイドさんは、小さな丸耳だがスカートから出ている大きな尻尾からリスの獣人だろうと察せられる。

「我々は今のように人とそう変わらぬ格好で生活しておりますが、もちろん獣の姿になることもできます。ですが、あなた方と変わらぬ生活を営んでおりまして、他人を襲って傷つけたりするような野蛮なことはいたしません。法律が施行され、国民全員がそれにのっとって平和に暮らしています」

 トマス氏いわく、この世界には複数の種族が共に暮らしている。国は大小さまざまで複数あり、春夏秋冬があること。国は大陸中央にある大樹を中心に広がっていて、大樹はこの世界を創った女神様の化身であり、大樹の足元には広大な森が広がっているらしい。

 富士山と青木ヶ原樹海を私は連想したけれど、合っているだろうか?

 千年以上前は、大樹の森には天人族とかいう背中に羽の生えた天使のような一族が住んでいたらしいけれど、絶滅してしまったっぽい。天使がいたのなら、見てみたかった。

 現在大樹の森には妖精族とエルフ族が暮らしていて、滅多に姿を現さないんだとか。

 戦争などはここ五百年起こってない、平和な世界らしい。良いことだ。ただし、人々を襲うような魔物と呼ばれる凶暴な獣は存在しているらしい。

 魔物を退治するための職業(騎士? 冒険者?)もあるが、街や村をつなぐ街道には魔物けの魔法がかけられていて、比較的安全に行き来できるらしい。

 そう、この世界、魔法があるのだ!

 残念なことに異世界から来た我々には魔法を使う力(魔力?)がないので、訓練をしても使えるようにはならないとのこと。無念だ。

「そして、皆様をお招きした理由なのですが……」

 椅子に座り、大人しくトマス氏の話を聞いていた全員が注目する。それはそうだ、どうして異世界に誘拐されたのかは最も知りたいことだからだ。

「花嫁様、花婿様になっていただくためです!」

 室内がシンッと静まり返り、物音ひとつ消えた。

「さすがに驚かせてしまいましたね! ですが、それが皆様をこちらへお招きした理由なのです。この世界に暮らす者には、『つがい』と呼ばれる相手が必ず存在しているのです」

 日本人にはみ深いというか、小説やコミックで仕入れた程度には認識のある言葉だ。

 運命の番、という人生でたったひとりの愛する存在。私だって憧れるし、存在してくれたらいいなとも思ったことのある存在。

「こちらへ来たということは、この国に皆様の運命の相手が必ずいるということなのです。とはいっても、皆様からは誰が運命の相手なのかは分かりません。ですが心配には及びません、こちらの世界の者が必ず迎えに参ります」

 室内がザワザワとし始める。それもそうだろう。

 自分の運命の相手が必ずいる。けれど自分からはこの人だ! とは分からない。相手任せで「君がオレの運命の番だ」と言われ、それが正しいのか間違っているのか判断できないまま、それに従わなければならないのはなかなか受け入れがたい。

「ああ、この世界の者が運命の相手を間違えることは、絶対にありません。間違いはないのです。ですから、安心してお相手とつがって幸せに暮らしてくださいね」

 トマス氏は「これから一ヶ月後のお披露目会に向けて、まずはこの世界に慣れて、世界のことを学んでいきましょう!」とにこやかに言った。

 だが、それをすぐに受け入れられた者は、この場ではごく少数なように思われた。



 今、従妹の杏奈と私は見知らぬ異世界にいる。

 この世界には魔法があって、魔物なる危険な生き物がいて、動物の耳と尻尾を持つ獣人さんやエルフ、ドワーフなど多種族が共存している。

 ここは数ある国のひとつフェスタ王国。よく分からない魔法の力で召喚され、お約束通り二度と元の世界に帰ることはできないという。

 杏奈と私が召喚されたとき、一緒に元の世界のあちこちから召喚された人たちは三十人ほど。魔法は使えないけれど、元の世界の人たちとの意思疎通に困らないよう言語理解ができるようになっている(だから外国の人たちとも普通に話せた)、また、それぞれ個別に特別な力を授かっていると言われた。いわく怪力だったり俊足だったり、無限の記憶力だったりさまざまだそうだ。

 それはともかく、この世界に召喚された理由は、私たちがこの世界に暮らす獣人さんの番相手だからだという。

 召喚された者は獣人さんにとって運命の番、大切な花嫁・花婿だという。

 獣人さんにとって、運命の番という相手は生涯にただひとりの愛する人、大切な存在で命をかけても大事に守り抜く伴侶らしい。

 運命の相手に出会う確率は国によって違いがあるのだそうで、この国では六割を少し超えるらしいのだけれど、出会えない方々のお相手の一部が違う次元の世界にいる、と分かったのが五十年ほど前。

 それからというもの、誰かの運命の相手と分かった存在を一年に一度まとめて召喚していると聞いた。番召喚、という集団誘拐が五十年も前から行われていたことに驚きを隠せない。

 一ヶ月後にこのお城の離宮で私たち異世界人のお披露目会が開かれ、番を探している人たちがいに来るそうだ。

 大体七日、遅くても十四日以内に迎えが来て、伴侶としてお相手に引き取られる。

 意識を失って倒れ、最初の説明を受けなかった杏奈にそう簡単に伝えると、彼女は顔を真っ青にして再び意識を失った。杏奈がベッドの上にいてくれて、そのまま寝かせることができたのはよかった。


 翌日からはトマス氏の宣言通り、この世界に馴染むための勉強会が開かれ、それに参加する日々が続いた。

 そこでは、この世界や国の歴史、大樹と女神様関係の神話、種族の特徴や人間との違い、貴族と庶民の生活様式とその違い、経済状況や貨幣価値などを学んだ。

 さらに、女神様から個人に授けられたであろう能力が調べられた。杏奈は植物を早く元気に育てる力を得たらしい。

 私はというと、何度も調べたけれど分からなかった。

 女神様があなたに相応ふさわしい能力がないので、悩んでおられるうちに授け忘れたのでは? と調べてくれたエルフの血を引くとかいう耳の少しとがった魔法使いは鼻で笑った。

 この世界でも一定数、嫌な奴はいるのだ。

 魔法もなく魔物もいない人間だけの世界と、多様な種族がいるこの世界。大きな違いはもちろんあるのだけれど、人間関係はそう変わらないな、としみじみ実感した。



 一ヶ月の勉強期間を終え、約二週間のお披露目会が始まった。お城のある敷地の一角、南離宮と呼ばれる大豪邸とその周辺が会場になる。

 南離宮の内部はもちろんのこと、南離宮の別邸や広々としたお庭も会場になっていて、広すぎないだろうか? とは思ったけれど、そのくらいの範囲なら『いとしい運命の番』がどこにいてもこの世界に生まれた者は簡単に見つけられるらしい。

 だから異世界人である私たちは、好きなところで好きに過ごしていていいらしい。向こうが見つけてくれるまで。

 お披露目会の初日、杏奈と私は中庭を望むティールームでお茶をすることにした。この世界に落ちてきたときに声をかけてくれた金髪碧眼の美女、エディスさんも一緒に。

 アメリカ人である彼女と、言葉の問題もなく普通におしゃべりできるのが不思議で仕方がない。英語なんて私はさっぱり話せないのに。

 元の世界と変わらない味のお茶と、見た目も華やかなお菓子に杏奈は夢中なようだ。

「まあ、今日はのんびり過ごしていても問題ないそうよ」

 エディスさんはジャムののったクッキーを食べ、次のクッキーを選びながら言う。

「どうしてですか?」

「さっき、メイドの子に聞いたの。異世界人の花嫁・花婿のお披露目会は毎年開かれるんだけど、初日から迎えに来るのはまれなんだって。自分の領地だか、暮らしている場所からここへ来るのにも時間がかかるみたいでね。愛おしい相手と今すぐ会いたい、と思っても望んだ通りにいかない現実があるみたい」

 なるほど、と私は納得してお茶を飲んだ。

「でも、何人か獣人さんを見たよ、あたし」

 杏奈はフルーツののったプチケーキを食べて、目線を中庭に向けた。そこには真っ白い髪に丸みを帯びた耳、透き通った水色の瞳に太い白と黒の尻尾を持つ獣人さんがいた。その奥には黒髪に大きな三角耳、濃い紫色の瞳と黒く大きくて先っぽだけが白い尻尾を持つ獣人さんもいた。

 どうやら、一番乗りの獣人さんたちらしい。

「領地が近くにあるとか、この街で生活している人なのかな? それなら初日からお迎えに来るのも分かるね!」

 なるほど、と私はまた納得してクッキーを食べた。

「一番にお迎えが来るのは誰かしらね? 最初も恥ずかしいけど、最後はちょっと精神的にキそうだから嫌よねぇ」

 エディスさんの言いたいことはよく分かる。でも、どうせ迎えが来るんだったら、早い方が気が楽だと思う。いつ来るのか分からない存在を待ち続けるって、精神的にしんどいことだろう。

「ああ、ここにいたのですね愛しい人。お待たせしてしまって、すみません」

 甘いセリフが降ってきたと思ったら、片膝をついてエディスさんの手を取り、その甲にチュッとキスを落とす獣人さんが目の前にいた。

 先ほど、中庭にいた白い髪に水色の瞳をした獣人さんだ。

「え、ええ?」

 エディスさんは驚き、耳まで真っ赤になっているけれど獣人さんはお構いなしだ。

「驚かせてしまい申し訳ありません、ですが、驚いた顔もまた愛らしい。私はゲラルト・エルラー。ユキヒョウの獣人です。あなたのお名前は、愛しい人?」

「あ……ああ、エディス・マッコールですけれど」

「エディス、素敵な名だ。エディスと呼んでも? 私のことはゲラルトと呼んでください、愛しい人。そして、あなたのことをもっと教えてほしい」

 チュッチュとリップ音を立てて、何度も手の甲にキスを繰り返す獣人さんはエディスさんにアプローチする。見ているこっちまで顔が赤くなってくるほど積極的だ。

 他人の存在とか目とかガン無視して、こんな猛烈で熱烈なアプローチをするなんて……この獣人さんが特別なのか、それとも全員が似たような感じなのか。

「え、えっと……私たちはお邪魔なようですので……」

 杏奈の服を引っ張って逃げようとすると、獣人さんはようやく私たちの存在に気が付いたようでニコリと笑った。

「いいえ、せっかくのティータイムにお邪魔してしまい申し訳ありませんでした。おふたりはどうぞお茶を続けてください、私どもの方が場所を変えますので」

 真っ赤になって固まっているエディスさんをお姫様抱っこで抱き上げると、獣人さんはササッとティールームから出ていってしまった。

 遠くから「ちょっと~! なんなの~」とか聞こえたような気がしたけど、私たちにはどうにもできないことなのだ。

 獣人さんの愛というのは、凄いなと思った。


 その後もお披露目会は順調に進んでいる、らしい。

 日が進むたびに、会場である南離宮とその周辺施設を訪れる獣人さんたちは増えて、あちこちで『愛しい番』を見つけて愛を乞う姿が目に入った。

 スマートに愛を乞う人もいれば、ただただ会えてうれしい大好きだとはしゃぐ人もいる。獣の部分の種類による違いがあるのだろうとか思ったけれど、どの人も多少の違いはあれどただひたすらに最愛の番を想って、真っすぐに情熱的にアプローチしていて……ほほましくもうらやましく感じられた。

 トマス氏いわく、運命の出会いは順調そのもので三十人いた花嫁・花婿も十二人が運命のお相手と出会い、番として愛を確かめ合ってその後の生活の準備を始めているそうだ。

 お披露目会も五日目に入り、私はいつものようにやや甘めなデザインの刺繍ししゅう入りブラウスにシックなパンツと揃いのベスト、というお仕着せ(これを着ろとメイドさんが持ってくる)を着て、愛らしい薄緑色のシフォンっぽいワンピースを着た杏奈とティールームへと向かった。

 このティールームは居心地が良くて、美味しい紅茶やコーヒーも楽しめてお気に入りだ。

「ねえ、レイちゃん。今日はこのあと舞踊団が来るんだって、行ってみない?」

「舞踊団?」

「そう、この国の南側にある国に拠点を置いてるんだって。リスとかネズミとか、体が小さな種族の獣人さんたちが中心になってできた舞踊団で、ダンスが素敵なんだって!」

 小さなリスやネズミが舞台上でくるくる回って踊る、そんな動物ステージを連想する。でも、きっと私が想像したのとは違うんだろうな。

「いいよ、見に行こうか」

「やったー!」

 杏奈は私の腕にしがみついてピョンピョンと飛び跳ねる。喜びの表現で飛び跳ねるのは、従妹が子どもの頃から変わらない。楽しみなのは分かったから、もう少し大人しく喜んでほしい。

 ハイハイと適当に返事をしながらお茶菓子を選ぼうとしたとき、フッと背後に何かを感じた。

 大きくて分厚くて、非常に圧を感じる。ここが南離宮という安全な場所で、危険などあるわけないのに身の危険を感じるなんておかしい。

 振り返ろうとした瞬間、顔に今まで感じたことのない大きな衝撃を受けて体が空中に浮いた。

 私、吹き飛ばされている?

 そう感じたときには壁に大きく体を打ち付けていて、息が詰まった。目の前が真っ暗になって、体が全く動かない。

 周囲からはざわめきと悲鳴、私の名前を叫んでいる杏奈の声が……すごく遠くに聞こえて、そして聞こえなくなった。



 ワアワアと騒がしい声が聞こえる、それが段々大きくはっきり聞こえてくる。

『どこに行ってしまったの、玲奈! 杏奈ちゃんも』

『事件性はないそうだよ。ふたりとも大学で授業に出席して、午後からふたりで買い物に行くとお友達には話していたそうだ』

 お母さん? お父さん?

 目を開くと家のリビングに両親がいるのが見えた。母は顔色も悪く、私と杏奈の行方を気にしていて、父はやつれた表情で母をなだめていた。

『じゃあ、どこに行ったっていうの?』

『ふたりでお昼ご飯を食べたとこまでは分かっている。でも、その先は……』

 そうだ、杏奈と私は大学を出てからイタリアンのお店でパスタランチを食べた。その後デパートに向かっている途中でこの世界に連れてこられたのだ。

『姉さんが昨日警察に捜索願を出してくれたの、杏奈ちゃんと玲奈が一緒に行方不明になったって』

『そうか、警察が捜してくれたらすぐに見つかるよ』

『でも、短大生だって言ったら……家出だろうって。彼氏と一緒にいるんじゃないのかって、警察に来る前に彼氏のところとか、友達のところに行ってないか確認しろって言われたって』

 母は両手で顔を覆い、震える鼻声で言う。

『そんなことする子たちじゃないって、何度も訴えたんだけど……誘拐されたわけでもない、幼い子どもでもないからって。帰ってくるのを待てって言われて、警察官が実際に捜してくれるわけじゃないんだって』

 母は泣き出し、父はぼうぜんとしたあと渋い顔をして母を抱きしめる。

 誘拐みたいなものだから! 杏奈も私も勝手に連れていかれただけだから!

 きっと、杏奈のご両親も従兄いとこけん兄さんも、突然消えた私たちを捜している。

 家に帰りたい。

 普通のサラリーマンをしている父、近所のクリーニング店でパートをしている母。私は普通の短大に通う女子大生で、ファミレスで週に数日アルバイトしている、どこにでもいる学生。

 同じ年の従妹の杏奈とは幼稚園からずっと一緒、三つ年上の建斗兄さんは少々ズボラだけど杏奈の良き兄だ。

 母と伯母は仲が良くて、月に二、三回は姉妹会という名目でケーキショップを巡っている。

 伯母の旦那様はアメリカ人で、酔っ払うと英語しか喋れなくなってしまうけど陽気な伯父。

 母方の祖父母は庭師をしていて、彼らの家のお庭はすごく立派だ。飼っている太った猫は、黒猫なのにダイフクって名前で抱っこが好きだ。

 私を取り巻く家族たちが、杏奈と私を捜している声が聞こえる。すごく心配して、不安になったり怒ったりしている。

 皆の声を聞くと胸が痛くて、つらい。

 家に帰りたい。

 父と母に会いたい、祖父母に会いたい、バイト先の人たちにも、短大の友人たちにも会いたい。

 涙がこぼれて止まらない。

 目の前が揺れて両親の姿がゆがむ、声が徐々に遠くなる。

 嫌だ、帰りたい! こんなのは嫌!

 私は必死に両親が見えている方向に向かって走って手を伸ばすのに、手はくうつかんでばかり。

「お父さんっお母さんっ!」

 両親の姿は遠くなって、テレビやパソコンの電源をいきなり抜いたときのように、バツンッという大きな音がして消えた。

「えっ」

 本当に突然、周囲は真っ暗になった。

 手も足も動かなくなって、まるで糸の切れた操り人形のように真っ暗な空間を私は漂う。

「なんで……どうして……」

 私は悲鳴をあげた。

 さっき聞こえた、大きな音が忘れられない。何度も耳の中で繰り返される。何かが突然無理やり切断されるような、大きな音。そしてその音と同時に消えた家族の姿。

 私と家族とを繋いでいた何か大切なものが断ち切られてしまった。そんな風に思えて、私は小さく光る方向に吸い寄せられながらずっと声を限りに叫んで泣いた。

 私と家族の縁が、切れてしまった。強引に切られてしまったことが、とても悲しくて。



 目を開けると、私はベッドに横たわっていた。涙がいくつも零れてほおを伝って落ち、その涙は柔らかな布でぬぐわれる。

「レイ様、目が覚めてよかった。どこか痛いところがあったり、気分が悪いことはありませんか?」

 私の面倒を見てくれているメイドのマリンさんだ。リス獣人である彼女はとっても愛らしく、くりいろの大きな尻尾がチャームポイントだ。

「マリ……ンさん」

「申し訳ありません、このようなひどいことになってしまいまして。おびのしようもありません。今、お医者様とトマス担当官を呼んで参ります」

 私の手をギュッと握り、マリンさんは足早に部屋を出ていった。

 ここはどこだろう?

 この世界に来ててがわれた部屋とは違う。私が使っていた部屋はもう少し小さくて、家具もシンプルなもので揃えられていた。今いる部屋は広いし家具も装飾が凄いし、ベッドも大きくててんがい付きの立派なものだ。

「目を覚まされて本当によかった。おかしな感じがしたりはしとらんかね?」

 お医者さんだというおじいさんはフクロウの獣人さんらしい。真っ白い髪と立派なひげが確かにふくろうっぽい。

 ひと通りの診察をし、どこにも異常はないとお墨付きをもらった。ただし、数日は体も心も不安定になりやすいので、安静にしているようにと命じられる。

「本当に申し訳ありませんでした」

 診察後にやってきたトマス氏は、私に深々と頭を下げた。

「えっと……どういうことでしょう?」

 久々に顔を見たトマス氏はやつれているように見えたし、耳と尻尾の毛並みも心なしかつやをなくしているようだ。

「レイ様、あなたは三日間意識が戻りませんでした」

「……え」

「三日前、アンナ様とティールームにいらしたのは覚えていますか?」

 ティールーム? あ、ああ、そうそう、杏奈と一緒にお菓子を食べようって向かった。それで、……それで杏奈が舞踊団を見に行きたいって言い出して、いいよって返事をして、それから……それからなんだっけ?

「ティールームでとある獣人に殴られ、あなた様は大きなケガを負いました。そのせいで意識が戻らずに三日間眠り続けていたのです」

 確かあのとき、背後に怖い気配を感じたような気がしたけど、あれは獣人さんだったのか!

 そもそも、なんで私が突然殴られなきゃいけないわけ!?

「ケガについてはワシから説明しよう。今はもう治癒魔法で完全に治っているから、心配せんでいい。強く左横顔を殴られ、左目がつぶれて左頬骨も砕かれておった。吹き飛ばされて、壁に右肩と腕を打ち付けて右腕と右肩を骨折。要するに、重傷だったわけだな」

…………な、なんで」

 私がここに連れてこられてひと月半ほど、メイドさんや文官さんなどここで働いている獣人さんと交流したし、同じく連れてこられた人たちとお喋りくらいはした。大体の人が礼儀正しかったし、優しかった……中にはちょっと嫌な奴もいたけど、暴力的な感じはなかった。

 そもそも私、獣人さんからいきなり重傷を負うほど張り倒されるようなことなんてしてない。

 そういえば、トマス氏は最初に「獣人は他人を襲ったりしない」とか言ってたのに!

「それは、あなたにケガを負わせた獣人が、アンナ様の番でして……レイ様に親しく笑いかける姿を見て嫉妬し、カッとなって殴ってしまったと」

「……はぁ?」

 何を言っているんだ!?

 ションボリと耳を伏せながら言うトマス氏に、結構ドスの効いた「はぁ?」が出てしまったけれどもう遅い。メイドのマリンさんも、お医者さんもションボリしている。

「ですよね、そういう反応ですよね。異世界の人からしたら、理解できないことですからね」

 トマス氏は苦笑して、私と改めて向き合った。

「番云々以前の問題として、どんな理由があっても全く落ち度のないレイ様に対していきなり暴力を振るい、ケガをさせるなんて許されることではありません」

 そうでしょうね。当たり前ですよね。そこが同じ感覚でよかった。

「こちらの管理不足です、申し訳ありませんでした」

 マリンさんもお医者さんもトマス氏と一緒に頭を深々と下げた。彼らは実行犯ではないけれど、管理が甘かったと言われたらそれはそうだろうから、謝罪を受けることにした。

 私が謝罪を受けなかったら、先に進むことができないだろう。先に進まなければ、解決は見えてこない。

「とりあえず、管理側からの謝罪は受けます。先生は私のケガを治してくれて、マリンさんは私の面倒を見てくれたんでしょう」

 そう答えれば、トマス氏はまた軽く頭を下げた。

「ありがとうございます。それで、あなたに暴力を振るった本人のことなのですが……」

「杏奈の運命の番さん、だとか?」

「はい。ええと、ハイイログマ……ヒグマの獣人で、南の国境を守る任務についている者です」

 熊? ヒグマ? 北海道にいるあのでっかい熊?

 え、私そんなのに張り飛ばされて、よく生きてたね。即死じゃなかったことに驚いちゃう。

「今は南離宮から離れた場所にある部屋で謹慎していますから、レイ様と顔を合わせることはありません」

「それは、安心です……けど、その人、杏奈の番さんなんですよね?」

 杏奈の顔はすごく可愛い。日本人の母とアメリカ人の父との間に生まれたというのもあってか、顔の彫りが深めで目はぱっちり、まつバッサバサの美少女だ。でも性格的には結構キツめで、はっきりともの申しすぎちゃうくらい。今回のことで、せっかく出会えた番さんとの関係がこじれているのではないかと思う。

「それは……まあ、なんと申しますか」

 トマス氏が言葉を濁したので、私の想像が当たっていることが分かった。

「レイちゃん! レイちゃ──ん!!

 トマス氏、マリンさん、お医者さんを押しのけて半分開いていた扉から杏奈が飛び込んできた。そのままの勢いでベッドから半分体を起こしていた私に向かってダイブする。

「レイちゃんっ!」

「ぐえっ……」

 杏奈の全体重が私にのし掛かり、背中に当てていたクッションや枕と一緒に私を押し潰す。全体重を使ったタックル、重い、苦しい……。

「レイちゃん、よかった……よかったよぉぉ」

 マリンさんとお医者さんが慌てて杏奈を引きがしてくれて、呼吸が確保できた。せっかく大ケガから生還したのに、従妹に圧死させられては笑い話にもならない。

「……本当に申し訳ありませんでした。ケガについては完治しておりますが、血をたくさん失ってしまっています。レイ様にはゆっくりと養生していただきたく、お願い申し上げます」

 トマス氏はそう言って深く頭を下げた。

 お披露目会の番探しについては、離宮の中ならどこにいても番さんが気付く距離らしいので、気にせず部屋で休んでいて構わないらしい。

 体は痛いところはないけど、どこかだるいのでしばらくはのんびりさせてもらおうと思う。それと、私の番さんが見つかるまでは人が多いところは遠慮させてもらうことにしよう。もし、また別の獣人さんが嫉妬でカッとなったところに巻き込まれたら嫌だし。

 トマス氏とお医者さんは「また参ります」と部屋から出ていき、マリンさんは私の軽食とお茶を用意すると言って出ていった。

「杏奈、心配かけてごめんね? 大丈夫だから」

「レイちゃん……レイちゃんが死んじゃうんじゃないかって、あたし不安で、怖くって……」

 杏奈は大きな目からぽろぽろと大粒の涙をたくさん零した。

「杏奈……」

「だって、レイちゃん血だらけで、いくら呼んでも目を開けないし、このまま死んじゃうって」

 ああ、そうか。私はクマさんに張り倒されてすぐに意識をなくしちゃって、気が付いたときには治療済みだったから痛くもなかったし、自分の体がどんな風に傷ついたのかも分からない。でも、杏奈はまみれで体がボロボロになった私をしっかり見ているわけだ。そりゃあ、不安だし怖い。

「もう大丈夫だから。私は元気になったし、ちゃんと生きてるから」

「レイちゃん~」

 杏奈は私にしがみついてわんわん泣いた。

 あんまり激しく泣きじゃくるもんだから、私は杏奈を必死に慰めて泣きやませるのに苦労した。

 その後、杏奈は戻ってきたマリンさんと杏奈付きのメイドのネリーさん(白ウサギの獣人さんだ、すごく可愛い)によってドロドロになって目がパンパンに腫れた顔を蒸しタオルで拭かれ、一緒にサンドイッチとスープを食べた。

 お腹がいっぱいになった私たちは、そのまま私が寝かされていたベッドにふたりで横になる。

 こうやって一緒に寝るのは久しぶりだ。子どもの頃は一緒にお昼寝していたし、どっちかの家でお泊まりもよくしていたから、こんな風に並んで寝るのは慣れ親しんだこと。

「ねえ、杏奈。杏奈の番さんって、どんな人でどんな感じ?」

 そう聞くと、杏奈は頬を膨らませ唇を尖らせる。

「最っ低野郎だよ。カッとなって暴力を振るうなんて、マジ最低。そんな奴が運命の相手とか言われて、超ショック」

「そっか……全然好きになれそうにない感じ?」

「……分かんないよ。たぶん、こんな事件がなくて普通に会いに来てくれてたら、好きになれたかもしれない。背も高かったし、顔も嫌いじゃないもん。でも、突然レイちゃんに暴力振るうような男に、好きだって言われても……そんなこと今は考えられない」

 杏奈は背の高いマッチョな男性がタイプなのだ。好きな俳優はハリウッドのマッチョなスターばかりで、韓国や日本の線の細い王子様や可愛いタイプには見向きもしない。高校時代に杏奈が憧れた先輩は、柔道の選手でこれまたマッチョだった。

 杏奈のお相手さんはクマの獣人さんだというから、たぶん体が大きくてマッチョだろう。好みのタイプには当てはまる。けど、確かに暴力男はいただけない。

 私が杏奈の立場だったら、自分の運命の番だと言われても受け入れられるかは分からない。

「そうだよねぇ……うん。で、具体的にどこのなんていう人?」

「うんとね、クマの獣人なんだって。クマ牧場とか動物園にいるヒグマ的な感じの。名前はウィリス・ファルコナーっていって、二十二歳。ここからずーっと南にあるウイリアって街の領主? なんだって」

「領主って、貴族なの?」

「みたい、伯爵だかって言ってたよ。偉いの?」

 現代日本に生きていたら、貴族は昔の特権階級の人たちって認識で終わり。杏奈のように具体的に理解ができていなくても不思議はない、私だってそんなに詳しくない。

「偉いんだろうね。領主ってことは、そのウイリアって街の市長的な仕事をしている人でしょ」

「そうか、だから偉そうなんだ」

「偉そう?」

 杏奈は枕に半分顔をうずめたまま頷いた。

「今日のお昼、どうしても一緒にご飯食べたいって言ってきてさ。本当は嫌だったんだけど、ネリーちゃんも他のメイドさんたちも『一緒にお昼を食べてみたらどうでしょう』とか何度も何度も言うから、しょうがなく一緒に食べたのね」

 普通なら、迎えに来た番の獣人さんとすぐに仲良くなるはずの異世界からの番が、獣人さんを拒否しているから、歩み寄るきっかけをと助け舟を出したんだろう。

「で、どうだった? 番さんとのランチは」

「ご飯は美味しかったよ、とろけたチーズソースのハンバーグもくるみの入った甘いパンも美味しかった。でも、あの人はなんか嫌な感じだった」

「どう嫌だったの?」

「だって、メイドさんにああしろこうしろってすごく偉そうに命令してた。なんか、そういう言い方とかイヤな感じだなーって思ってた。やってもらって当たり前だって、そういうの丸出しで。そんな人があたしの運命の相手とかって……レイちゃんに酷いことしたってだけでも暴力的で嫌なのに、ますます嫌になった」

 枕にぐりぐりと顔を埋めた杏奈は少しだけ鼻をすすった。

「話の内容も、あたしの機嫌とるようなことばっかり……ドレスとか宝石とか好きだろうって、いっぱい買ってやろうって。そんなのいらないし。それにさ、このお披露目会が終わったら……あたし、あの人と一緒にウイリアって街に行かなくちゃいけないんだって」

「ああ、うん、そうなるね」

 異世界から来た人間は、番である相手と一緒に彼らの暮らす街に移る。その街で新しい生活を始めるんだって聞いている。当然、杏奈は番のクマ獣人さんと一緒に南の街へと移動して、その街でクマ獣人さんと結婚して生活していくのだ。

「……レイちゃんもさ、どこかの獣人さんが迎えに来るよね。そしたら、その人が暮らしているところに行っちゃうんだよね?」

「そうなるね」

「そうなったら、あたしたち離ればなれ……だよ」

…………そうなるね」

 二週間違いで生まれた私たちは、従姉妹という関係ながらまるで双子の姉妹のように育った。幼稚園から短大に至るまで、ずっと同じ学校に通って一緒の時間を過ごしてきた。なぜか、この世界にまで一緒に呼ばれてしまって……今も一緒にいる。

 私はまだお披露目会が終わってから誰とどこに行くのか分からないけど、杏奈はもう決まっている。フェスタというこの国の南にあるウイリアという街に行く。私たちは離ればなれになって、気軽に会えるような立場ではなくなる。もしかすると、もう一生会うことはないのかもしれない。

「やだよぉ……」

 鼻声になった杏奈がそう本音をつぶやいて、私に体を寄せる。

「私も杏奈と離ればなれになるのは、辛いよ。寂しい」

 私たちは、召喚されるという非現実な出来事によってこの世界にやってきて、元の世界に帰ることはできない。この世界で運命の相手といわれる番と一緒に生きていくことが決められている。

 これは、変えようがない、あらがいようがない道だ。

 今、私たちがお城のような場所に寝泊まりして、美味しいご飯やおやつが食べられて、綺麗な服を着ていられるのも、これから私たちがこの国に暮らす運命の相手と結婚して一緒に暮らしていくからこそだ。

 この決められた道から外れることは難しくて、もし外れることができたとして……家族も知り合いもいない、どこにどんな国や街があって、どういう生活様式なのか文化圏なのか、机上で学んだことしか知らない私たちが、なんの保護もなく生きていくことはほとんど考えられない。

「レイちゃん?」

「杏奈、私思ったんだよ」

「何を?」

 私はケガの治療を受けて眠っている間に見た夢のようなことを、杏奈に説明した。

 私たちがいなくなったあちらの世界が少しだけ見えたこと。私たちの家族が警察に酷いことを言われても、そんなことないって私たちを信じてくれて、必死に私たちを捜してくれていたこと。でも、そんな私たちと家族を繋いでいた縁のようなきずなのような、そういうものが無理やり断ち切られたような感じがしたこと。それと同時に、あちらの景色が見えなくなってしまったこと。

 説明している間、杏奈はずっとあいづちも入れず質問もしないで静かに泣きながら聞いていた。

「もしかして、この世界の女神って神様がさ……あたしたちと家族の関係を強引に断ち切っちゃったってこと?」

「そんな感じがしたってこと」

「レイちゃんがそう感じたってことは、そうなんだと思うよ。あたしもさぁ、なんだか胸の中がスースーするんだ。何かがぽっかり無くなっちゃったみたいな、そういう感じがするの。冷たくて、物足りなくて、寂しい感じ。きっと、それはレイちゃんの言うあたしと家族を繋いでた何かが入ってたところで、今はそれが無くなって穴になってるみたいな、そういうの」

 杏奈は鼻をすすって、目をこすった。

「私たちさ、ここで生きていかなくちゃじゃない? もう家族のところには帰れないっていうんならさ、ここで生きていくしかない」

 杏奈は「そりゃあ、そうだけど」と言って枕にしがみついた。

「でも、ここで生きていく手段って限られてるから……だから、利用できるものはなんでも利用して、幸せに生きるためにはなんでもやろうと思うの」

「うん、それで?」

「自分が幸せに生きるための努力をしようと思う」

「うん」

「だから、杏奈もそうして」

「……どうしたら?」

「まずは、番だっていうクマさんと仲良くする努力をしてみる、とか」

 そう言うと、杏奈は勢いよく体を起こし、しがみついていた枕を振り上げて私を叩いた。枕は羽毛がいっぱい詰まっているから、叩かれても痛くない。ただ、ボフボフと音がしてほこりっぽいものが舞うだけだ。

「なんでっあたしがっあの最低クマ野郎とっ仲良くしなくちゃっいけないのっ!」

「だって、杏奈……杏奈が番のクマさんと一緒に暮らすことは変えられないんだよ?」

「でもっ! あいつはレイちゃんに酷いことしたっ!」

 最初は埃っぽいものだけだった中に、小さな羽毛が混じり始める。同時に、なんだか鼻がむずむずしてくる。

「それでもっ!」

 私は同じように勢いよく体を起こすと、杏奈から枕を奪った。そこには、また泣き出しそうな顔をした従妹がいる。

「確かに彼は私に酷いことした人だね。そこが納得できないって気持ちは分かるよ。だって、もし逆の立場だったらきっと私も、なんでこんな奴とって思うからさ」

「だったらさぁ!」

「でも、そんな奴でも杏奈は一緒に行かなくちゃいけないんだよ。なら、仲良くできた方がいいよ。ギスギスした関係でずっと一緒にいるなんて、辛いだけだから。今すぐ好きになれなんて言わない。酷いことした暴力事件については一生許さなくたっていい。でも、それを踏まえて、歩み寄ってみて」

「レイちゃん……」

 羽毛が出始めている枕を杏奈に返すと、私は横になって毛布を引き上げる。

「あちらの世界との縁が切れちゃって、もう二度と元には戻らないなら……こっちで新しい縁を結ぶしかないよね。その縁の一番目として存在してるのが、この世界にいる運命の相手だってことなんだとしたら……杏奈の胸に空いたスースーしたところを埋めてくれるのが、番さんだよ」

 そう言うと、杏奈は私の隣に横になってまた唇を尖らせた。

「あの最低野郎があたしのスースーしたとこを埋められるなんて、思えないんだけどっ!?

「今はもう、私たちしか親戚はいないんだよ。だからさ、杏奈、幸せでいてよ」

「レイちゃん」

「たとえ離ればなれになってもさ、私たちだけはまだ同じ世界にいるんだから」

 枕を抱えたまま私にぴったりくっついてきた杏奈は、私の顔の前で、「ぶえっくしょんっ!」とオジサンがするような大きなくしゃみをした。

 羽毛が飛び出るほど叩いて暴れるから……私は唾にまみれた顔を洗いに洗面所に行った後、「ごめーん、ごめんってば」という謝罪を聞きながら杏奈と一緒に眠りについた。



 閑話 トマス・マッケンジーの憂鬱


 キリキリと痛む胃を手で押さえながら報告書に目を通す。報告書の内容については、予測のはんちゅう内で〝やっぱり〟としか思わなかった。

 この世界に暮らす我々と異世界から呼んだ人たちとでは、やはり根本の部分が違うのだ。そこは理解していたつもりだし、今回のお披露目会に関わる者全てに言い聞かせた。

 同時に、つがいを探し求めている獣人たちにも言って聞かせたつもりだ。その成果があって、今まで大したトラブルにはなっていない……三日前までは。

 控えめなノックが部屋に響き、入室を許可すると部下に付き添われたふたりの獣人が入ってきた。ふたりは兄弟で、クマ獣人らしくやたら体格がいい。

「こちらへどうぞ、ウィリス・ファルコナー殿。ネッド殿も」

 ここ数日、私の胃粘膜を激しく痛めつける原因になった男の顔を見て、ついにらんでしまったのは……仕方がないことだろう。

「その、このたびは、申し訳ありませんでした」

 ウィリスは勧めたソファに座る前に深々と頭を下げた。弟のネッドはそんな兄に対して不満そうな顔をし、軽く頭を下げただけだった。

「……謝罪する相手をお間違えかと思いますけどね? 一応、謝罪する気持ちはあると受け取っておきます」

「それは……」

 いつまでも縦にも横にもデカい男がふたりも立っているのは邪魔なので、手で座るように促す。

 大きな体を縮こまらせソファにちょこんと座り、ウィリスは悪い顔色を一層悪くする。ネッドはソファの後ろに立っており、座る気はないようなので放置とした。

「さて、あなたが暴力を振るったお相手が目を覚まされましたよ。後遺症もなく、肉体的な健康は取り戻しました」

「そう、ですか。よかった」

「ええ、よかったです。これで目が覚めなかったり、目が覚めても後遺症が残っていたりした場合、ご自身もお家もおとがめなしでは済みませんからね。まあ、現状でもお咎めなしとはいきませんが」

 そう言うとネッドは顔を赤くし、私の方へ一歩踏み出した。

「なぜですか! なぜ兄がそのように責められなければならないのですか!?

「なぜ? その理由をお分かりにならない?」

「ええ、理解できません。そもそも、アンナ様は兄の番なのです。そのアンナ様と腕を組んで親しくするなど、不貞行為でしょうに! 許されることではない。兄の番を奪おうとするなんて、殺されても仕方がない。殺されずに済んで、命があることを感謝してもらいたいくらいだ。だというのに数少ない上級治癒師から治療を受け、兄の方に咎があるなんておかしいでしょう!」

 私は頭痛を感じ、こめかみをんだ。頭から首、肩にかけての筋肉が凝り固まっているのが分かる。胃痛に加えて頭痛だなんて笑えない。

「……そもそも、あなたの兄上が傷つけた方は獣人ではありません。異世界からお招きした方です」

 我々獣人にとって番は唯一の相手。その番を害そうとしたり、連れ去ろうとしたり……という状況になった場合、番を守るために相手を攻撃しても、最悪殺害しても問題にはならない。

 だが、それはあくまで番を害されそうになった場合だ。じゃれついていたから、では理由にならない。

「だからって兄の番を……」

「あの方は女性で、アンナ様とは血のつながった従姉妹いとこでいらっしゃる」

「「え」」

 理解していないだろうと思ってはいたけれど、本当に理解していなくて胃痛と頭痛が増す。

「あんな……短い髪の女がいるはずがない。それに服もパンツ姿で……」

「お披露目会に参加するにあたり、注意するべきことをお伝えしていたはずです。異世界では服装も髪型も個人の自由で、女性だから髪を長くする、というこちらの常識は当てはまりません。実際、今回異世界から女性は十八人お招きしていますが、髪の短い方が半数ほどおられます」

 兄弟は顔色を失った。自分たちのしたこと、述べたことに関して徐々に理解が追いついてきたらしい。

 今頃理解しても、遅いのだ。事前に説明をして文化や常識の違いについて、十分に理解しておくようにと注意事項の連絡もしたというのに。

「服装については、まあ、お似合いになるから……とスカートではなく、パンツスタイルの服ばかり用意したこちらにも多少問題はあったのかもしれません。ですが、それも全て女性用です」

 異世界からやってきた番たちには、ひとりに対して専属の侍女か侍従を付けている。常識が全く異なり勝手が分からないこの世界で、番自身の生活を補助するためだ。

 レイ様にもリス獣人の侍女マリンを担当に付けていて、魔導具の使い方から離宮で立ち入ることのできる場所の説明まで補助させている。当然、その日に着る洋服も侍女が数着選んだものの中から、身に着けていると聞いた。

 短い髪型をしているため、最近王都で流行し始めている女性用パンツの服装が似合うだろう、と勧められれば、彼女も気に入って着ていたはずだった。あちらの世界では、女性がパンツを身に着けることは一般的だったというから特に何も思わなかったのだろう。

 まさか、その流行し始めた服装で勘違いを加速させていたとは。

 部下が白湯さゆと胃薬を運んできて机に置いてくれた。気が利く部下で助かる。

「そもそも、アンナ様が気安く接していたのは、あの方が女性で幼い頃から共に育った姉妹のような関係の従姉いとこだったから、なのですよ? それを勘違いから嫉妬にかられ、確認もしないでいきなり暴力を振るうとは……」

 薬をゆっくり飲んで、大きく息を吐いてから顔を青くしている兄弟を見つめる。

「番を見つけたとき、番が複数人でお茶をしていたとか観劇をしていたとか、そんなことはよくある話です。ご自由に過ごしていただいていますからね。皆さん礼儀正しく自己紹介をした後、ご友人たちには席を外すことを説明し、それから番に愛を乞うていましたよ? 異世界の方々には番という認識がありません。我々のように出会った瞬間にかれ合い、求め合うような方たちではないのです」

 注意事項に書いてあったよな? と目で訴えると、兄弟は体を小さくした。注意事項を読むには読んだ、けれど理解はしていなかった……というところだろうか。

「異世界の方にケガをさせたということで、いろいろと大きな問題が起きているのですが、そちらも正確に理解されていますか?」

 即効性があると有名な胃薬も、まだ効力を発揮しない。私の胃はどうなってしまうのだろう?

 私の言葉の意味を理解しているのかいないのか、ポカン顔をさらした兄弟を見て私の胃はさらにキリキリと痛む。

「まず、異世界の方が全員どなたかの番であることは承知しておられますよね? アンナ様がウィリス殿の番であるように、あの方もどなたかの番でいらっしゃる。その方を傷つけたのですよ」

 そう説明するも、兄弟はまだ分かっていないらしい。ポカンとした顔が憎たらしい。

「想像してみてください。アンナ様と出会う前、アンナ様には全く非がないのに勘違いで衝動的に見知らぬ獣人から大ケガを負わされていたとしたら……」

「許せるわけがないだろう! アンナには非がないのなら、なおのこと傷つけられて……あ……」

 ようやく自分のしたことに気が付いたらしい兄の方はシュンとうなれた。

「あの方はまだ番と出会われていませんが、当然、番の方には報告することになります。その方からどのようなお咎めがあるかは不明ですが、ある程度は覚悟しておいてください」

…………はい」

「それから」

「ま、まだあるのか!?

 ここからが本番なのに、という言葉を飲み込んで代わりに残った白湯に口をつける。胃がじんわりと温かくなって、ほんの少しだけ胃痛が和らいだ、ような気がした。

「……異世界からの方々には女神様の魔法がかけられています。あちらからこちらへ抜けてくる際の、端的に申し上げれば〝元の世界のことを深く考えなくする〟魔法と言えばよいでしょうか」

「それは、どうして?」

「だから、また想像してください。自分が突然知らない世界に己の意思など関係なく呼び出されて、二度と戻れない状況になったとします。残してきた自分の親きょうだい、友人とは二度と会えない。今まで築いてきた友人関係や学歴や資産もなかったことになる……こんなことが許せますか?」

 先ほどまで青くなっていた兄弟の顔色は、青を通り越して白くなっている。ようやく理解が追いついてきたのだろう。

「私たちにとってはいとおしい番を迎えただけですが、あちらにとってはそうではない。家族や友人たちと築きあげてきた絆を断ち切られ、突然こちらに迎え入れられる。彼らの立場になってみれば、失ったものが多すぎます。そこへ見知らぬやからが突然愛をささやいても、はいそうですかと受け入れられるわけがないのです」

 そのためにかけられた女神様からの魔法。残してきたものについて深く考えず、失われた絆の代わりに新たな番と絆を結ぶ。今これからが大事だという気持ちを全面的に押し出し、番からささげられる愛を違和感なく受け入れてもらう。

 魔法によって元の世界への気持ちがになっているうちに、番の元へ引き取られ、婚姻を結び幸せな生活を始めてもらう……というのがいつものお披露目会での流れ。

「ですけれど、あの方とアンナ様については女神様からの魔法が薄れている、もしくは解けている、と判断してよいでしょう」

「そんなっ!」

「仕方がないでしょう。即死してもおかしくないほどの大きなケガを負わされた、仲の良い従姉が突然襲われた、そんなおふたりの精神状態を考えれば当然のことと思われます」

 事実、アンナ様は番であるウィリス殿に対して全く心を開いていないし、受け入れる気も今はなさそうに見える。

「ウィリス殿、アンナ様と一緒に過ごせていますか? 食事やお茶を一緒にしたとか、庭園を一緒に散策したとか、彼女の心からの笑顔を見たりしましたか?」

 そんなことは聞かなくても分かっている。

 少し考えれば分かることだ。幼い頃から仲が良く姉妹同然に育った従姉が、突然見ず知らずの野蛮なクマ男に大ケガを負わされた。その理由が嫉妬してカッとなったから、というのは彼女にとって理解し得ないもの。

 そんな相手に愛を囁かれても「ふざけてる」としか思わないだろう。私ならそうだ、家族を突然傷つけられて怒らないわけがない。

「それは……でも、彼女は番なのだし、そのうちに打ち解けてくれると……」

「分かりました、そこはご自分の番なのですから自己責任で努力してもらいましょう」

「……はい」

「では、ケガを負って解けてしまった彼女の魔法に関する責任はどう取られるのですか? それと、この暴力事件に関しては当然、お披露目会の参加者全員に話が広まっています。番だと言って現れた獣人に対して、異世界の方々の中で不安が広がっているそうです」

 兄弟の顔色は白を通り越して色を失おうとしている。だが、それは事実として受け止めてもらわなくてはならない。

「番だという獣人が、自分に対して突然暴力を振るうのではないか? 周囲にいる獣人が突然殴りかかってくるのではないか? そんな風に不安に駆られる人が出てきています」

「そんな……」

「番とすでに出会っている異世界の方でも、不安になって交流することに戸惑ったりしているそうですよ。まったく、この責任をどう取るつもりでおられるのか」

 私にもどう責任を取るのが正しいのか分からない。ウィリス殿を処罰しても何も変わらないし、謝罪や見舞金、おびの品を贈って済む問題なのだろうか?

 過去五十年の番召喚の歴史の中で、こんなことは初めてだ。

 私が先代のお披露目会担当者から引き継ぎをして、最初のお披露目会でやらかしてくれるなんて……私の胃は無事で済むのだろうか? そろそろ胃薬が効いてきてもよいはずなのに、一向に痛みが引かないのはなぜだろう。

 気を利かせた部下が白湯のお代わりを持ってきてくれて、ゆっくりとそれを口に含んだ。

 もう一回分胃薬を飲んだらどうだろうか? たくさん飲めば効く気がする。

「さて、現実をしっかりと踏まえていただいたところで、お披露目会の運営側からの決定事項を伝えます」

 すっかり顔色をなくしたウィリス殿に改めて向き合う。

「ウィリス・ファルコナー殿、異世界からの花嫁殿を傷つけたその賠償金の支払いを命じます。後々訴えがあるだろうレイ様の番相手からの賠償については、しんに対応してください。同時に、同じく異世界からの花嫁・花婿に不安と不信を与えた件については、それぞれより抗議があった場合は誠実に対処すること。来年以降に開催されるお披露目会において、一族の方の番が見つかる可能性が限りなくなくなることを一族中において承知おき納得させてください」

 クマ兄弟は息をんだ。

 賠償金や抗議に対する対処は想定内だっただろうが、今後異世界からの番が現れないことに関しては想像もしていなかったのだろう。

 番のお披露目会は、異世界にいる番と出会うことのできる唯一の機会。異世界に番がいてもこちらに召喚されることがなくなれば、その会で生涯、番と出会えないということになる。

「……ど、どうして」

「ウィリス殿は、ランキー諸島にあったランカ王国で起きた三十年前の痛ましい事件をご存じですか?」

 ランキー諸島は大陸の南端からさらに海上を進んだ先にあり、その大小数え切れないほどの島で構成されたのがランカ王国だった。

 その王国では一年に二回、異世界からの番召喚が行われていたという。一回の召喚で二人から五人と人数は少なかったけれど、一年間に十人程度の花嫁・花婿を迎えていた。

 しかし、今から三十年ほど前、ひとりの獣人が異世界からの番をふたり殺してしまった。理由は単純、自分の花嫁が他の獣人の花婿と楽しげに話していたから、カッとなって己の花嫁と他人の花婿を殺してしまったという。

 殺すつもりはなかったのだろう。己の番から引き離し突き飛ばした、くらいのつもりでやったことだ。しかし、異世界からやってきた人間はか弱く、引き離して突き飛ばした腕と爪によってあっさり死んでしまった。

 当然、番を殺された獣人の女は激怒し、己の番を殺してしまった獣人は心が壊れてしまい、周囲の獣人や召喚された異世界人たちを巻き込んで流血の惨事となった、と聞く。

 その後ランカ王国では女神の怒りを買ったとして、番の召喚ができなくなり、この国にいては番に出会えない、と国民は徐々に国を離れていき、結果ひとつの国がなくなったのだ。

「まさか、このことで召喚の儀式が我が国でできなくなると……!?

「もしかすると、数年は召喚の儀式が行えない可能性もありましたよ。ですがレイ様は無事に回復され、肉体的な後遺症などもなさそうです。今のところ、番の召喚儀式は行えそうです…………が、あなたがた一族の番が招かれる可能性は限りなく低いとご理解ください」

…………はい、申し訳ありませんでした」

 以上です、と話を締めくくれば、縦も横もある大きな体を縮こませてファルコナー兄弟は扉へと足を進めた。そして、足を止めて振り返る。

「トマス殿」

「……なんでしょう?」

「その、レイ殿への謝罪は……」

 被害者へ謝罪がしたいというその気持ちは分かる。とりあえず、自分の中にある罪悪感が軽減されるし、周囲が自分を見る目も変わってくるだろう。

「レイ様はまだ意識を回復させたばかりです、今すぐの面会は許可できません。落ち着かれた頃にお伺いを立ててみますが、期待はしないでください」

「よろしくお願いします」

 大きなふたつの体が部屋から消えてから、私は机の引き出しからもう一袋胃薬を取り出した。

 胃が痛い。キリキリとナイフで引き裂かれているかのようだ。これもみな、あの脳の中まで筋肉でできているクマ獣人のせいかと思うと、さらに胃の辺りが熱くなった。

「お薬の前にこちらをどうぞ」

 手にした胃薬を奪われ、目の前には湯気の上がるハーブティーが置かれた。

「胃痛に効くというハーブティーです。連続で薬を服用することは推奨されておりません、ですので、代わりにお茶を」

 有能な部下はそう言って笑顔を浮かべた。その笑顔からは薬ではなくハーブティーを飲め、という圧を感じる。

「本当に、来年も番召喚の儀式、できるのでしょうかねぇ?」

 カップに口をつける寸前で部下が言ったので、また胃がズキリと痛んだ。口の中に温かさは感じたものの、茶の味は甘いのか苦いのかもさっぱり分からない。

「どうだろうな。今のところ女神の水晶にはなんの変化もないから大丈夫だろう、と私は思っているけどね」

 番の召喚儀式を行うときに使う一抱えもある大きさの水晶は、〝女神の水晶〟と呼ばれていて、その水晶から湧き出る力によって異世界からの一方通行の扉を開く。

 淡い桃色に光る水晶は、ランカ王国の資料によると召喚ができなくなったときは色も光も失ったとあった。今朝、水晶を確認したときは桃色に光っていたので、おそらく大丈夫だと思う……思いたい。

 これで、ある日突然水晶が力をくしたなんてことになったら、担当官である私はどう責任を取ったらいいのだろうか?

「トマス様?」

「……いや、なんでもない」

 私は味のしないハーブティーを飲み干し、お代わりを頼んだ。

 胃薬も胃痛に効くというハーブティーも、一向に効いてくる感じがない。私は両手で腹部を抱えると、執務机に突っ伏した。

 これ以上のトラブルが起こることがありませんように、私の胃があるうちにお披露目会が終了しますように。これから毎日女神様にそうお祈りしようと思う。

 女神よ、我が胃をお守りください。



 第二章 残された私のゆくえ


 異世界からやってきたつがいは南離宮とその敷地内にて、お披露目会に参加すべし。

 だから、南離宮とその敷地内であればどこにいても問題ない。獣人さんの持つ番センサー(匂い?)にかかれば、離宮のどこにいても分かるらしい。なんだろう、ちょっと怖い。

「部屋の外に出て、複数の獣人に会うことに抵抗があるのでしたら、お部屋でくつろいでくださっていいのですよ? お茶やお食事はお部屋に運びますしね」

 マリンさんがそう言ってくれたので、私はその言葉に甘えることにした。

 獣人さんにはいろんな種族がいて、ウサギやリスなどの草食でわいい種族もいれば、熊や虎、獅子などの肉食の力強い種族もいる。

 あんの番であるクマ獣人さんに引っぱたかれて、死ぬかもしれないケガを負った(全然記憶にはないけど、引っぱたかれる前に感じた威圧は覚えてる)せいか、体の大きな男性獣人さんを見かけると一瞬ドキリとする。

 緊張するのだ。それが微妙に疲労感をあおる。

 そのうちに慣れてくるとは思うけれど、しばらくは部屋に引きもっていてもいいかと思った。

 だから、部屋でお茶を飲みながら本を読んだり、顔を見せに来る杏奈やエディスさんとおしゃべりをしたりして過ごした。すごく快適だった。

「レイ様、面会の申し入れが来ていますが……いかがしましょう?」

 マリンさんはお茶の支度を整えてくれたあと、一通の封筒を差し出した。

「面会?」

 受け取ったのは白い封筒で、赤いろうで封がしてある。差出人の名前を確認しながら、文具好きたちの間でふうろうって流行はやっていたよなー、これが本物かー、なんて思いながら封を開けた。中には一枚のカードが入っていて、顔を合わせて謝罪をしたい、との文字が見える。

「……これは、杏奈の番のクマ獣人さんから、でいいんだよね?」

「はい。これはあちら様の希望でして、実際に面会するかどうかはレイ様のお気持ち次第です」

「どうしようか」

「お断りしても問題はありません。あちらが加害者であり、レイ様は被害者です。暴力事件を起こした事実は変わりませんし、〝本人に対して謝罪をした〟という行動で楽になるのはファルコナー様の気持ちだけで、周囲の者に対しての宣伝行為でしかありませんから」

 マリンさんの意見を聞いて、それもそうだなと私は思った。そもそも、私には覚えがない。殴られて痛かったとか、目が覚めたら体中が痛くて治るまで何日も苦しい思いをしたとか、そういう記憶がない。

 背後に怖い圧を感じて、そのあと体が浮いて吹っ飛んだような気がする。そして目を開けたら、体には傷一つなく回復していたのだ。謝ってもらっても「はあ、そうですか」みたいな、気のない返事をしてしまいそうだ。

「お断り、しましょうか?」

「うーん、ええと、お手紙でもいいかな?」

 私がそう言うとマリンさんは便せんと封筒、インクを用意してくると言って出ていった。クマ獣人さんには、私に謝罪している時間があるのならその分杏奈との交流を頑張ってほしい。

 毎日杏奈は午後のお茶と夕食を私の部屋で一緒に取っている(一応、歩み寄りとして杏奈と番のクマ獣人さんは朝食を毎日一緒に食べるようにして、演劇や舞踊なんかの催し物を一緒に見たりもしたらしい)。そのときに聞かされるのは、今のところクマ獣人さんと自分がどんなに合わないかという話なのだ。杏奈にとって番さんの見た目は完全に好みなのだけれど、身分の高い人特有の物言いや杏奈の機嫌をドレスや靴などの物で露骨にとろうとする行動がどうにも気に入らないらしい。

 さすがに、こう毎日聞かされていると杏奈と番さんの距離が縮まっているようには思えなくて、不安になってくる。

 用意してもらった便せんに、私への謝罪はいらないとつづる。それよりも、杏奈との関係改善に努めてほしいこと、領地に行っても杏奈を生涯大事にしてほしいことを書いて、渡してもらうようマリンさんに頼んだ。

 私からの手紙を読んだのか読まなかったのか、それは分からないけれど……杏奈と番のクマ獣人さんとの関係は近づいているような、遠ざかっているような長期戦の様相を見せている。

「こういうの、ケンカップルっていうの?」

 夕飯を食べながら言うと、杏奈からは「違うからッ!」と激しい否定の言葉とナプキンが飛んできた。杏奈には心が落ち着くお茶と血圧が下がる薬か何かが必要なんじゃないだろうか、と本気で心配した。

 そして、杏奈と番のクマ獣人さんとの関係を気にしているうちに、気が付いたときには番のお披露目会が閉会する日になっていた。

 私には、私を番だと言ってくれる迎えが来ないまま。



 開けっぱなしになっていた窓からは、れいな音楽と楽しげに話す人たちの声が聞こえる。

「……窓、閉めましょう。夜風は冷たいですから」

 マリンさんは窓を閉め、しっかりと施錠するとカーテンまで引いた。

 今日の南離宮の別邸は朝から落ち着かない感じだった。メイドさんも侍従さんもバタバタしていたし、大ホールとそれに続く中庭にはテーブルや花がセットされてパーティーの準備が進められているのが見えた。

 そこで気が付いたのだ。お披露目会という名の番探しが終わって、今夜は異世界からの花嫁・花婿と彼らを伴侶に迎えた獣人さんたちの正式なお披露目パーティーなのだと。

 お披露目会、というのは今夜のパーティーが本番なのだ。

 当然、番である獣人さんが迎えに来なかった私は、参加しない。今、絶賛開催中のパーティーには、獣人さん側が用意した衣装と装飾品を身に着けてふたりで参加するのがルールなんだそう。

 私には参加資格がないのだ。

「お茶を用意して参りますね」

「うん、ありがと」

 マリンさんが、私を気にしながらお茶の支度をしに部屋を出ていった。それを見送った私は、自然にため息をつく。それが思ったより大きくて、自分で驚いてしまう。

 私、がっかりしている。

 生まれて今まで彼氏がいたことはない。恋愛に対して興味が薄くて、積極的にしたいとも思わなかった。

 でも、生涯をかけて愛してくれる相手、という存在に憧れないわけじゃない。そんな相手が私にもいてくれたらって思う。だって、私だって女の子だし憧れる。

 この世界に呼ばれたってことは、私のお相手がいるのは確定している。そのお相手さん、つまり私の番さんと一緒に幸せに暮らすこと、そのためにこの世界へ呼ばれたのだと説明された。

 最初は確かに半信半疑だった。運命の番、なんて確かに憧れるけど私の中ではあくまで物語の中の話だった。

 でも次から次へと獣人さんたちは南離宮へやってきて、自分のお相手さんを見つけて愛を告げる。それを目の当たりにすれば、嫌でも現実なんだって理解せざるを得ない。

 途中、アクシデントがあって離宮の表側には出ていなかったけれど……過去にはお披露目会の間中、自分の部屋に籠もっていた異世界人にも、ちゃんと番さんが迎えに来たと聞いた。

 だから、気にせずに過ごした。お披露目会の開催中には、迎えに来てくれるんだろうと思って。

 でも、現実はどうだろう?

 私以外の人には全員番さんが迎えに来ている。

 私には迎えは来ない。

 私以外の人は番さんに贈られた正装と宝飾品を身に着けてパーティーに参加している。

 私には参加資格がない。

 なんなのだろう?

 私はなんのために家族や友人と引き離されて、こんなところへ誘拐されてきたんだろう?

 なんのために?

 遠くから聞こえる楽しげな音楽を聞きながら、私の心は少しずつ沈み始めていた。



 パーティーの翌日から南離宮の別邸は今までとは違った様子で騒がしくなった。パーティーの終わりはお披露目会の終わり。

 最愛の番を迎えた獣人さんたちが、番を連れて自分の家や領地へと帰っていく。

 家が遠い人たちはそのための準備を始めたし、近い人たちは翌日にはもう離宮を離れていくという。二、三日中には全員がここからいなくなって、それぞれ番さんの元で新しい生活を始めるらしい。

 杏奈と番であるクマ獣人のウィリスさんと弟のネッドさんも、杏奈と共にこの国の南側にあるという領地に帰る準備をしていた。領地はここから遠いらしく、準備に三日をかけ、四日目の今日いよいよ出発する。

 王宮のある敷地は大きな石の壁に囲まれていて、出入りできる場所が数ヶ所造られている。その中でも、大きな馬車が出入りできる西門の前には複数の馬車が並んで出発を待っている。

 本当ならさっさと出発したいんだろうけど、一番の重要人物がまだ客車に乗り込んでいないので行くに行けない状態だ。

「……レイちゃん、考え直してよ。ね?」

 複数並んでいる中でも一番大きくごうしゃな客車の前で、杏奈はここ数日呪文のように唱え続けたセリフをまた言った。

「一緒に行こうよ、ね? 大丈夫だから」

 杏奈が言うたびに牛っぽい角のある生き物に乗って客車を護衛する人とか、御者、侍女の鋭い視線が私に向けられる。こういった視線に囲まれながら、私に「一緒に行こう」と言い続けられる杏奈は、なかなかの強心臓だ。

「何言ってるの。ちゃんと話し合ったよね? 杏奈は杏奈でちゃんと幸せになる努力をこちらの世界でするって」

 杏奈はお披露目会のパーティーが終わったときから「一緒に行こう」と言い続けている。自分と一緒にファルコナーさん一族が暮らす街へ行こう、と言うのだ。

 結局、番の迎えがなかった私にはお披露目会が終わった後の行き先がない。

 お披露目会の会期中に番の迎えがなかったことは前代未聞なのだそうで、この国も私のことをどうしたらよいのか、持て余し始めている。

 いとおしい番である杏奈の言うことには甘いし、私に大ケガさせた負い目もあるだろうクマ獣人のウィリスさんは、私が希望するのなら一緒に来ても構わないと言った。私が暮らす家や生活の面倒を自分の治める領地で見てくれると。

 一見、私にとって良い申し出のように聞こえる。でも、それって……良いことじゃない。

 ウィリスさん本人がどう思っているのかは知らないけども、彼の弟やファルコナー家に仕えている人たちは私のことが嫌いだ。見れば分かる、だってすごくにらんでくるし。

 杏奈には、単純に私と離ればなれになるのが寂しいとか、ウィリスさんとふたりっきりになるのが嫌だとか、知らない場所に連れていかれるのが不安だとか、そういう気持ちがあって……私の番が迎えに来なかったんだから、今までのように一緒にいたらいいじゃない、と思っているはずだ。

 杏奈としては私と離ればなれになるものだと覚悟を決めてはいたものの、やっぱり一緒にいられる可能性が出てきたので、その選択肢を捨てることができないのだろう。

 その気持ちは私にだって理解できる。けれども、ファルコナー家に仕える彼らからしたら、私は当主の大切な番を惑わす危険な存在、なのだろう。

 私がいるから、杏奈がウィリスさんを受け入れないと思っている。私が一緒に行くなんて、冗談じゃないのだ。そんな風に思っている人たちが大勢暮らす街に行って一緒に暮らすなんて、針のむしろの上で暮らすようなものだろう。きっと、侍女さんやメイドさんからいじめられる。

 カビの生えた古いパンと虫の入った薄いスープの食事を出されて、崩れそうな物置小屋っていう名の家で心無い言葉と暴力にさらされて生きていくとか、そういうのを本で読んだことあるし、実際にそうなっても不思議じゃない世界なのだ。

「でも、だって、レイちゃん……」

「だってじゃないよ、杏奈。ちゃんと現実を見て。何度も言ったけど私たちはもうこの世界で生きていくしかないの。私も頑張って生きていくから、杏奈もちゃんと番さんと向き合って幸せになる努力をして」

「レイちゃんっ! ヤだぁ、やっぱり離ればなれなんて寂しいよぉ! ヤダヤダぁ」

 杏奈は号泣しながら私に抱きついた。小柄なくせに相変わらず力が強くて……結構苦しい。

 子どものように泣きじゃくる杏奈に番のクマ獣人のウィリスさんは慌てておろおろとして、おろおろするウィリスさんを見た侍女さんや侍従さん、弟のネッドさんが私にまた「おまえがいるからっ」と敵意をき出しにしてくる。

「大丈夫、また会えるから。次に会ったとき、幸せいっぱいでいてよ、ね?」

 泣きじゃくる杏奈の背中をで、不安な顔をしている番のウィリスさんの方へと背中を押した。

 杏奈が乗る客車の内にはクッションやブランケットなどがたくさん用意してあって、長距離移動をするための準備がしっかりとしてあるように見えた。きっと、杏奈は経済的にも安全面でも大事にしてもらえるに違いない。

 番のウィリスさんのエスコートを泣きながら受けた杏奈が客車に乗り込み、ウィリスさんが乗り込むと客車の扉は音もなく閉められた。

「じゃあね、杏奈。元気で」

「レイちゃん、またすぐ会えるよね? あたしの知らないどっかに行かないよね!?

 客車を引くのは馬じゃなくて、やたらでっかいトカゲみたいなイグアナみたいな生き物だ。大きなトカゲといったところが私の知るファンタジー世界を超えている。馬車ならぬトカゲ車?

「番さんと仲良くね」

「レイちゃんっ! レイちゃんも幸せにならなくちゃ駄目なんだからねっ!」

「出立!」

 護衛さんの声でトカゲ車の車列は出発した。杏奈の行く先は国の南側にあるウイリアという街で、砂漠の国との国境に接しているところらしい。季節も初夏から夏くらいの気候が一年の大半を占めていて、冬が短い地域だと聞いた。

 日本とは全く違う場所だ、季節も生活環境も。いっそ、日本を思い出さないで暮らせるかもしれない……杏奈は見た目よりずっと強い女の子だから。

 まるで借金のカタとして売り飛ばされていく娘のように杏奈は悲壮な表情を浮かべて涙をこぼし、窓から体を乗り出して手を振って何度も私の名前を呼んでいた。

 私は手を振り返し、杏奈と番のウィリスさんの乗った車とその後を荷物やメイドさんたちを乗せた車が続いていくのを見送った。

…………おい」

 不機嫌でしか構成されていない声が上から降ってくる。けれど、私は小さくなっていく車列を見送り続けた。

「……おいっ!」

「心配しなくても、付いてくつもりはないから。あなた方の暮らす街に一生涯行くつもりもない」

 そう言うと、牛みたいな生き物に騎乗していたネッドさんは「うぐっ」っとうなって、言葉を飲み込んだ。

「まさか、私が杏奈にすがりついて一緒に連れてって、とか言うとでも思ってたわけ? 杏奈の申し出をこれ幸いと受けるとか思ってたわけ?」

…………おまえは、行くてがないだろう。それに兄上はおまえに負い目があるから、おまえに生活の面倒を見ろとか言われたら断れない」

「ふぅん、で、私が一緒に行くとか言い出したら、邪魔だし街に向かう途中で殺してやろう、とか思ってた?」

 ゆっくり顔を向ければ、顔を真っ赤にして手綱を握る手を大きく震わせた弟のネッドさんが、大きな牛の上でうつむいていた。図星突かれたって感じかな?

「そんなことするわけないでしょ。杏奈が幸せになる場所と私が幸せになる場所は違うんだもの」

 杏奈が番のウィリスさんと向き合うかどうか、は私の存在とあまり関係がない。

 離れて暮らせば徐々に私の存在なんて希薄になっていくもので、関係を縮められるかどうかはふたりの問題。そもそも、もしネッドさんが私を殺したことが杏奈に知られたならば、その方が上手うまくいかないってことを理解できないらしい。

「早く追いかけなよ。私はもうあなた方とは関わらないから、正直に言えば顔も見たくないし二度と関わり合いになりたくもないしね。杏奈のことを大事にしてくれたら、それでいいの」

「……分かった。それと、すまん」

 何に対しての謝罪なのか全く分からないひと言を残し、ネッドさんを乗せた牛っぽい生き物は先に進んでいる車列を追いかけていった。

 杏奈と一緒に行ったら殺されていたのか。とんだバッドエンドだ。

 この世界はすごく怖い世界だと改めて認識する。命の危機が、現代日本よりずっと近くにある。

「レイ様、お時間よろしいでしょうか」

 見送りを終えた私は、かけられた声に「はい」と返事をした。



 シンプルなんだけれども机や椅子なんかは高価なものが並んでいる執務室は、部屋の主人らしさが表れていると思う。現実主義、使い勝手重視、みたいな。

「申し訳ありません、突然。今後のことをお話ししたいと思いまして」

「はい、もちろんです」

 お披露目会の責任者だったトマス氏と私の前にお茶が用意される。茶器は装飾も絵柄もない白くシンプルなもので、向こうで好きだった印のない某メーカーを思い出した。

「さて、お披露目会の会期中に起きた暴力事件に関しては申し訳ありませんでした。レイ様にとってはいろいろ思うところもありましたでしょう」

「まあ、でも、その事件に関して私の記憶にはありませんし。他については、良い経験だったと思っています」

 一般的な会社員の家庭に生まれ育った私にとって、毎日がパーティーみたいな経験はあり得なかったことだ。暴力事件に関しては私自身に覚えがないので、どこか自分のことという感覚が薄い。だから、いろいろあったけれどそういう経験を得たと思うことにした。過ぎてしまったことだし。

「そうですか。……それで、改めましてあなた様の今後についてなのですが、何かご希望はありますか?」

「希望?」

 トマス氏はうなずく。

「あなた様の番はまだやってきておりません。このまま、ここで番をお待ちいただくわけですが、……そのあいだ何かやってみたいことなど、ご希望がおありではないかと」

 ん? 待って、ちょっと聞き捨てならない言葉があった気がする。

「あの……」

「はい、なんでもおっしゃってください」

「私、ここで番さんを待たないといけないんですか?」

 私がそう聞くと、トマス氏も部下らしい男の人も目をまん丸にし、さらに耳や尻尾までピンッと立てた。

 え、そんな驚かれるようなこと言ったかな?

「あ、当たり前ではないですか! レイ様、あなた様はこの国に生まれ育った獣人の番なのです。番でいらっしゃるから、女神がお招きしたのです。残念ながらまだ出会えてはいないのですが……ここに滞在していれば、運命の相手と必ず出会えるのです」

 この世界に獣人という種族の人たちがいて、彼らには番と呼ばれる運命の相手がいる。それはもう十分に理解できている、私以外の異世界から来た人の全員が獣人さんと伴侶になって、出ていったのを見送ったのだから。それはもう、嫌ってほど分かっている。

 お披露目会の開催中に獣人が迎えに来なかった番は、過去にいない。私が初めての事象。

 私はそこで思ったのだ、私は杏奈のオマケで連れてこられてしまっただけで、番の獣人さんなんていないのではないか、と。

 でも、トマス氏も彼の部下も私を番だという獣人さんがいる、という前提で話を進めてくる。

「……そう、ですか」

「はい。南離宮の別邸から、お部屋も移っていただくことになります。お願いしたいこともありますし。何かやってみたいことがあれば、それを優先した部屋を用意します」

 とりあえず、やりたいことというか知りたいことはある。

「この世界のこと、この国のことを知りたいです。その、深く知りたいってわけじゃないんですけど……この世界で生きていくのに知っておくべき知識というか。普通の人が学校で習っていて、皆知っている一般常識とかそういうものを」

 私は魔法なんて使えないし、武器だって扱えないので戦えない。医療に明るいわけでも、お裁縫が得意なわけでもない。さらに女神様が異世界から来た人間に授けてくれるという、特別なギフトももらえてない。私はどこにでもいる世間を知らないごく普通の女子大生、何もできない小娘。

 私が自立して生きていくためには、この世界の常識や生活するための知識が必要だ。

 トマス氏や部下さんは私に番がいるって決めてかかっているけど、そんな存在はいない可能性が高いんじゃないかと私自身は思っている。

 だから、生き抜くための知識が欲しい。この世界の街にひとり放り出されても困らないくらいの庶民の常識。ここに来て一ヶ月の間にこの世界について基本的な勉強をしたけれど、もっと庶民として暮らすのに役立つ知識が必要だ。

 他の皆は愛おしい番さんが大事にしてくれて、この世界のこともいろいろ教えてもらえるんだろうけど、私にはそんな相手はいない。自分でなんとかするしかない。

「分かりました。では、教師役の者をお付けします。ならば……新しい部屋は赤の宿舎にご用意します。教師役の者との調整もありますが、しばらくは午前中に授業で、午後にはお願いしたいことがあります」

「ありがとうございます。それで、お願いしたいこと、とは?」

 トマス氏は笑みを浮かべて首を縦に振ると、ゆっくりとお茶を飲んだ。

「はい、レイ様にしかできないことなのです。ちゃんとお給料もお支払いしますよ」

 お給料と言われて、私は背筋を正した。

 生きていくためにはお金が必要だ。いつまでも、ここで生活できるわけじゃないのだし、働いて稼げるのならば稼がねば。

「私は何をしたらいいのですか?」

「異世界から番をお招きするようになって、五十年ほどちます。その際、番の方々からは許可を得て異世界からの品を譲っていただいております。小物や書物が主なものになりますがね」

「はあ」

「中には用途不明のものも多く、書物の内容も理解できないでおります。ですので、分かる範囲で構いません。異世界課で鑑定と翻訳をお願いしたいのです」

 なるほど、通常なら番として呼ばれた異世界人は、皆獣人さんがさっさと連れ去ってしまう。だから、異世界の品を譲ってはもらえても、内容確認をちゃんとして説明をしてもらえる時間は取れない。結果、謎の品と内容不明の本が増える。

 でも今回は私という存在がいる。私がいつまでここに滞在するのかは分からないけど、いる間中にできるだけ鑑定と翻訳をさせたいのだろう。

「分かりました」

 お給金が発生する仕事なのだ、私に異存はない。

 何もせず、来ない確率の方が高い番さんをただ待っているより、ずっといい。

 私には仕事があって、そのためにここに滞在するのだ。



 赤の宿舎、と呼ばれる城で働く者のための寮は、主に魔法使いと異世界のことに関係する仕事に就いている人用だと聞いた。

 事実、魔法使いが勤務している〝常夜の塔〟と呼ばれるとがった塔状の建物は、異世界課のある建物の近くにある。どちらにも赤の宿舎から徒歩五分ほどで行けるのだから、便利だ。

 私は赤の宿舎の個室で寝起きするようになって、午前中はこの世界の常識を勉強し、午後は異世界課で仕事をするという生活を送っている。

 この世界に来てから、ずっと一緒にいてくれたマリンさんがそばにいないのはちょっと寂しい。でも彼女には本来の職務があるのだから仕方がない。

「まあ、昨日までで一般庶民が知っておくべき常識はおおよそ教えた」

 この世界の貨幣価値や、基本的な物流、歴史、女神信仰、女神に関わる神話など、一般庶民の子どもたちが小学校的な位置づけになる学校で習うことを今までに学んだ。あと学校では文字の読み書き、計算や生活魔法なんかを習うらしいけど、読み書きと計算はすでにできる私には必要なくて、魔法は使えないから関係がない。

 あのお披露目会が終わってから一ヶ月、この世界の常識を学びながらお仕事をする生活にも慣れた。明日からは朝から晩まで異世界課でのお仕事に切り替わる。

 勉強はなかなか有意義だったと思っている。教師役がこの男でなかったのなら、もっと楽しく学べたように思うけれど。やり切った自分を褒めたい。

「今までのことをちゃんと覚えていれば、一般庶民として生活していくのに不自由はないはずだ。覚えていればな」

 女神が異世界人に授けてくれるギフトを確認するときに会った、いけ好かない男、女神からギフトを貰い損ねたのだろうと小馬鹿にしてきた魔法使い。

 最初の印象は嫌な奴、だった。教師と生徒としてひと月あまり一緒にいた今に至っての印象は、やっぱり嫌な奴でいやな奴に変わりはない。

「聞いているのか?」

「はいはい。聞いてますよ、先生」

 男の名はマーティン・フォー、エルフの血を引く魔法使い。エルフの血を引くというのは希少で高貴なのだそうで、やたら偉そうなのが鼻につく。けれど、ちょっとおだてて「先生」なんて呼んで、敬語っぽい言葉で話してやれば話は通じる。ちょろい男だ。魔法使いだけあって学識は豊かなので、教師としては及第点を超えていたように思う。

「どうだかな。……今日は授業の最終日になる。おまえに聞きたいことがあるのなら答えるが、何かあるか?」

「……私の運命の相手って、本当に存在しているのでしょうか?」

 このひと月、宿舎で生活して王宮で働く人たち用の食堂でご飯を食べて、異世界課で仕事をしている。その間いろいろなうわさばなしを耳にした。王子が留学先からなかなか戻ってこないだとか、どこぞのご令嬢が駆け落ちしただとか、どこぞのご令息が庶民の娘を嫁に迎えようとして泥沼だとか、メイドさんたちの情報網は侮れない。

 その噂話の中には、私自身のものもあった。

 いわく、『杏奈が呼ばれたときにたまたま一緒にいたから、番でもないのに呼ばれた』だとか、『杏奈と番の仲を裂こうとした』だとか、『ずうずうしくも杏奈と番の暮らす領地に同行しようとした』とかだ。

 杏奈と番のウィリスさんと私の関係の噂が多いのは、たぶん弟のネッドのせいだと思われる。

 あの弟クマ野郎は私が杏奈の誘いにほいほい乗って一緒に来ると思い込んでいたので、私の悪い噂を作って王宮内で働く人たちにばらまきまくったのだろう……だから別れ際に謝罪したのだ。

 二度と会うことはないけど、本気で迷惑な話だ。

 それと同じくらい多いのが、私が誰かの番じゃなくて杏奈のオマケとして異世界からやってきたんじゃないかっていう噂。

 この噂に関しては、私にも分からない。

 こんなに長い期間、異世界から来た人間に番の迎えが来なかったことは過去になかったので、私は誰かの番ではなかったという話になっているのだろう。

「それは間違いない。必ずおまえの番は存在している」

 マーティン氏ははっきりと言い切った。

「え、でも……」

「誰かの番でなければ、おまえはこの世界に来てはいない。昔の資料にあったが、複数人の友人と肩を組んでいたところを迎えられた男がいたらしい。だがその男だけがこの世界に迎えられ、肩を組んでいた友人とやらは迎えられていない」

 その話が本当であるなら、私が誰かの番ではない場合、ウィリスさんの番であった杏奈と私が手をつないだり腕を組んだりしていても、杏奈だけが召喚されて私は元の世界に残される。

「この世界に来ているということは、必ず、誰かの番である証明になる。何度も言うが、おまえの番は確実に存在している」

 マーティン氏は両腕を組んで、椅子に座る私を見下ろす。

「獣人は番と出会いたくてたまらない種族だ。だから、毎年開催されるお披露目会を心待ちにして、一日でも早く出会って最愛の者とつがいたいと切望している。だが、なんらかの事情があってすぐに迎えに来られない者もいる」

「どういう事情ですか?」

「仕事だ。世界中を飛び回っている商人や、他の国に駐在している外交官や武官などは仕事の都合がある。己の都合だけですぐにというわけにはいかない」

 なるほど、職業上〝お披露目会だからすぐに帰国〟というわけにはいかない人もいるだろう。

「まあ、その場合は連絡が入るものだがな」

「え?」

「そうだろう、大人の常識だ。迎えが遅くなるのなら、その旨を連絡するものだろうが」

 生徒らしく右手を挙げると、マーティン氏は教師らしく私を指名する。

「あの、根本的なことを質問します。獣人さんはお披露目会で自分の番を迎えに来るわけですけども、どうやって事前に自分の番が異世界から召喚されるって分かるんですか?」

「これは俺も聞いた話だが…………勘、のようなものらしい」

「勘?」

「そうだ。お披露目会で番に会える、とある日突然思うらしい。それを女神のお告げ、と言っている。まあ、それも確実ではないらしいが……誤差二、三年くらいで出会えるらしい。だから、何やら感じた者は三年ほど毎年お披露目会に顔を出して、番を探す。勘のいい奴は一年目で出会えるし、悪い奴なら三年ほどかかる」

 なんて、ガバガバな……伝説の生き物が実際にいて、魔法がある世界だけど、雑なところはあるんだなと私は変に感心していた。

 つまりだ、マーティン氏の言ったことを踏まえて、情報を整理してみる。

 私の番さんは確実に存在している。

 しかし、今現在、私は番さんと出会えていない。

 迎えが遅くなるというなんらかの連絡も入っていない。

「私は、番さんに求められてはいない、のですね?」

 そういうことになるのだろう、おそらく。

 番さんは勘のような、女神のお告げを受け取って自分の番が異世界から召喚されることを知る。多少の時差はあっても、女神様からの知らせが届けられるんだろう。でも、それに対してのアクションが何もないということは、私をえて迎えに来ない、迎えに来るつもりがないということではないだろうか。

「……そう、かもしれん」

 さすがのマーティン氏も言いにくそうだ。

「だが、それも考え方によってはよかったのかもしれないぞ」

「どういう意味ですか?」

「番というのは、ある意味呪いや呪縛のようなものだ」

 呪い……呪縛……穏やかじゃない意味の言葉が出てきた。番という存在は伴侶、愛する結婚相手のことじゃないの?

「この世界に生まれた者は種族に関係なく、番を認識することができる。獣人はもちろん、人間もエルフもドワーフもだ。ただ、番に激しく執着するのは獣人種族だけだ。獣人たちは番を心から愛して執着する、たとえその相手がどんな心根の持ち主であったとしても」

「えっと、それは……どんな性格の悪い人でも、番だから愛してるってことですか?」

 マーティン氏は首を縦に振った。

「おまえは異世界から来た人間だ、番だ本能だっていう感覚はない。伴侶にする相手はさまざまな要素から選ぶだろう? 例えば見た目、職業、収入、人となり」

「まあ、そうなりますね」

「獣人の番と認められたら、おまえがその獣人以外の相手をすることなどできない。どんな見た目だろうがどんな性格だろうが、番の獣人しか相手はいない。一生離れてはくれん、一生そばにいてまとわりつく。だが、おまえは……今なら相手を選ぶことができる。そういう意味では、選択の幅ができてよかったのかもしれん」

…………確かに。でも、この世界の人たちは番さんと出会い、伴侶になるのが一般的なのでしょう? 六割くらいの人が番さんと伴侶になると聞いてますけど」

「この国は女神の大樹が非常に近くにある国だから、番と出会える確率がずば抜けて高い。だが、大樹から離れた国になればなるほど確率は低くなっていて、番と出会って伴侶になる確率が二割を切る国もある」

「その場合は性格とか人となりとか、気が合うとか合わないとかを重視して皆さん結婚なさる?」

「そうだな。気の合う者、好ましい者と付き合いを重ね、伴侶となるな」

 つまりは私が知っている普通の恋愛結婚? 好きかもって感じた相手とお付き合いをして、結婚してもいいなって双方が思ったら結婚するってこと、かな。

「はい、先生。好ましい相手と結婚したその後で番さんと出会った場合、どうなるんですか?」

 人間とかエルフとか番にこだわり抜いたりしない種族だったら、まだ話し合いの余地はあるかもしれないけど、結婚相手が獣人さんだったら即離婚になるのかな? 番を求めるのは本能。獣人さんの本能ってすごく強いらしいから……別れるって話になりそう。

 好き合って結婚したのに、番と出会えたからとその場で捨てられたとしたら悲しくて死ねる。さらに子どもとかいたらなおさらつらいし、生活にも困ることになりそう。

「伴侶としての手続きを取った後、番けの魔導具を使う者が多いな」

「つがい、よけ?」

「番を判断する材料は匂い、フェロモンの匂いだな。だから、番ではない伴侶を得た者はフェロモンの匂いを消す魔法を施したアクセサリーを身に着ける。首飾り、腕輪などにして常に身に着けることで、番に自分が分からないようにする」

「え……でも、番さんとは出会いたいものなんですよね」

「……おまえ、好ましいと感じて何年も同じ時を過ごし、伴侶になってほしいと願って結婚した相手に〝番に会いました、なので番と結婚することにします。ですから、あなたとは離婚しますよ〟と言うことが、どれだけ非道なことか分からないのか?」

「分かりますよ、ひどいって思います。でも、酷いことしてるって分かっていても本能で求めちゃうのが番って存在なんでしょう?」

 実際、杏奈の番さんは嫉妬を感じた瞬間、衝動的に私を一撃でひんの重傷にもっていった。その衝動は並の精神力でどうこうできるものじゃないだろう。

「だから、番避けの出番になるんだ。獣人は番を求める衝動が強いことを除けば、人間やエルフたちと何も変わらん」

 ちなみに、番避けの魔法を使った装飾品っていくらくらいなのかを聞いたら「装飾品のランクにもよるが、三十万ガルから百万ガルほどだろう。出そうと思えばいくらでも出せる、上限はないからな」と言われた。

 一ガルが日本円の一円と同じくらいなので(ガルがお金の単位)、一般的なものでも三十万円から百万円ほどになるようだ。高い。普通に高い。気軽に買って身に着けられるようなものじゃない。

「おまえにはいくつかの道があるだろう。どの道を選ぶのかはおまえの自由であり、自分自身の責任だ。よく考えて決めるといい」

 そう言ってマーティン氏は一枚のカードを私にくれた。

 名刺のようなそれには、華やかな飾り文字で〝宝珠のやかた〟と書いてあって、その下には城下街の住所らしきものが書いてある。

「一度訪ねてみろ、参考になるはずだ」

 …………怪しげなお店じゃないだろうな? と思った私を責める人はきっといないに違いない。


 私には選べる道が大きく三つある。

 一、このまま王都と呼ばれるこの都市で生活する。仕事は今臨時で働いている異世界課に正式雇用してもらう。

 二、このまま王都と呼ばれるこの都市で生活する。けれど、異世界課での仕事は辞めて庶民が大勢暮らしている城下街に部屋を借りて、新しい仕事を探して収入を得ていく。

 三、他の都市に移動し(国を移動するのも可)、新しい場所で新しい仕事を見つける。

 大まかに言えばこの三つだ。

 一のパターンでいけば、生活は安定しているし宿舎もそのまま使えるから、引っ越しの手間もお金もかからない。一番楽ちんだ。もしかしたら、私の番さんって人が大分遅刻して迎えに来た場合にすぐに会える。万が一、いや、億が一くらいの確率だろうけど。

 でも悪意ある噂が横行する生活環境で、番さんと出会える可能性は恐ろしく低く、番さんと出会って婚姻するのが六割を超えるこの都市で……私はたぶん死ぬまでお一人様だ。

 別にお一人様が嫌ってわけじゃないけれど、まだ諦めたくない気持ちもある。

 二のパターンでは噂問題は解決する。王宮から出てしまえば私はただの人間で、杏奈と杏奈の番のウィリスさんのことを知っている人もいないので、噂は消える。

 でも、新しく部屋を借りて新しい仕事を探さなくちゃいけない。知らない国の知らない町、身元を保証してくれる人もいない私が、果たして部屋を借りられるのか? 雇ってくれる職場があるのか? ここはパターン二と三は同じで、三に至っては国や街を変えるという不安もプラスされる。

 この世界での移動は基本、騎獣で移動か馬車に乗っての移動になる。けれど、魔物が出るらしくて年間に何人も犠牲になっているらしい。この世界の素人である私が、慣れない移動旅で魔物に襲われたら……確実に命を落とす。危険だ。

 でもこの国の王都から離れれば離れるほど、番さんと出会う確率は下がる。田舎の方では出会える確率は二割を切るとかで、私と一緒に生きていきたいって言ってくれる人と出会える確率は高まる。

 どうしようか迷うし、とても不安。

 経済的な問題で楽なのは断然、一のパターン。仕事の心配も食べるものの心配も寝る場所の心配もしなくていい。

 でも、異世界課の居心地は悪くないものの、他の場所の居心地はあんまりよくないのが現実だ。

 休憩所とか食堂とかではばらまかれた私の噂が噂を呼んで、よく分からないおくそくも呼び込んで事実なんてひとつも入ってない。でも、私をよく知らない人たちからしたら、その噂が事実になっているんだと思う。

 だから、食堂でご飯を食べようものなら酷い感じになる。私が座った席の周囲はどんなに混み合っていても空いているし、周囲からはヒソヒソと微妙に聞こえる感じで噂話をされたり、悪口を言われたりする。食堂で食べるご飯は、味がしたことがない。

 精神的にかなりきつい。

 二と三のパターンは経済的には不安だし、独りぼっちで部屋を探したり命の危険に注意しながら知らない世界を移動しなきゃいけない。何かあっても誰も助けてくれない。すごく怖い、緊張する。でも、変な噂や悪口に悩まされることはなくなる。

 異世界から呼ばれてお披露目会の開催中に番さんと出会い、番さんの街に一緒に行って共に暮らす、という基本的なレールから外れてしまった時点で、私の立ち位置はとても不安定になった。これからのことを考えなくてはいけないけれど、考えれば考えるほど不安が募る。

 マーティン氏はよく考えて決めろと言ったけれど、まだ私は決められていない。



 第三章 新しい出会いと決意


 異世界課での仕事は基本楽しい。

 この世界にやってきた先輩たちが残した本を翻訳したり、残していった品物についての説明書を作成したり相手に説明したりする。本は小説だったり、レシピ本だったり、専門書だったりいろいろだ。

 机の上には報告書や説明書などの各種書類、異世界から来た人たちが置いていった本や小物が山のようになっていて、一見汚部屋のようにも見える。

 それでいて、大まかに分類されているのだと聞いたので、部屋の掃除やら片付けをするのはやめておいた。下手に触って怒られたら嫌だ。

 私の机だと言われた机上には本がたくさん積まれていて、それらをこの国の言葉に翻訳することが私の主な仕事になった。

 私自身も召喚される直前に短大の図書館で借りた童話やお菓子や料理のレシピ本を持っていて、それを今こちらの言葉に直している。レシピ本の翻訳は楽しいし、料理の勉強にもなるので一石二鳥。部屋にある小さなキッチンを使って自分で簡単な料理が作れるようになったら、そうしたら……食堂に行かなくてもよくなるし、味を感じない食事を取らずに済む。

 小物に関してはノートパソコンやタブレット、スマホ、昔の携帯なんかが主流。電気がないので、先輩たちはここに捨てていったのだろうと思う。電話はかからないし、ネット環境もないからなんの情報も得られない。バッテリーが尽きれば、持っていてもなんの役にも立たない四角くて重たい物体になってしまう。

 そんなものを持っていっても仕方がないよなぁ、と思いながら異世界課のジャガー獣人のダリル・エイリー課長に説明をした。

「これはパーソナルコンピューターという機械です」

「ぱー……こんたー? 何をするもの?」

 何をする、と言われても説明が難しい。専用のソフトをこの箱に中に入れることで、誰でも文章を書いたり、計算をしたり、絵を描いたりすることができるようになるのだと説明する。

 でも、いまいち伝わっているとは思えない。やっぱり実際に動かしているところを見せなくては理解してもらえない。

「エイリー課長。まず、根本的な問題として、これを動かすためには電気が必要です」

「デンキ……デンキってよく聞くが、一体どういうものなんだ?」

 課長をはじめとして、大勢の同僚たちの視線が私に突き刺さり、「デンキとは何か?」に対する答えを待ち構えている。

 私は専門家じゃない、どこにでもいる学生だった。そんな私に電気がなんたるか、なんて説明ができるわけがない。困っていると、つがいさんと一緒に王都を離れていった方が寄付してくれた荷物が届き、その中に小さな太陽光パネルを使った充電器を発見した。

 私はエイリー課長とその仲間たちにこの太陽光パネルを使った充電を説明し、時間はかかるもののノートパソコンと自分のスマホへの充電を完了させた。

 私は充電完了したことで再び動くようになったスマホを操作し、異世界課から見える景色を写真に撮った。

 白い石造りのお城の一部、れいな噴水と手入れの行き届いた木々や花の見事な庭園、オレンジ色の国旗が三角屋根の塔のてっぺんで風になびいている。文官の制服を着た人たちや魔法使いのローブを着た人たち、騎士服に帯剣した騎士の人たちが、渡り廊下や通路を歩いていく姿も見える。

 平和で穏やかな世界だ。私の知っている、ヨーロッパ的な綺麗な景色に、楽しげかつ一生懸命に王宮で働く人たちの姿が切り取られる。

「……お、おお! なんだそれは! そこの窓から見える景色か!?

 何枚か撮った写真を見たエイリー課長は、素早い動きで私からスマホをもぎ取った。そして、窓から見える景色に続いて私が向こうの世界で撮った写真がスライドされて流れてきたのを見て、「うおおおおお!? あちらの世界かー!」と興奮して叫び声をあげた。

 短大の友人たちとキャンパス内で撮ったもの、あんとアイスやパンケーキを食べに行ったときに撮ったもの、遊びに行った先の綺麗だったり珍しかったりした景色、ご当地にいるゆるいキャラクターたち、祖母の家で飼われている太った黒猫を撮ったものなど……その全てが、私の大切な思い出の一部だ。

「それは写真、という機能です。背面にあるレンズを通して、目の前にあるものの姿を写し取ります。指で面を広げるようにすると、拡大できますよ」

 エイリー課長も他の文官さんたちもひどく興奮した様子だ。拡大したり縮小したり、写真を撮りまくっている。他のスマホ……小さな四角いものでも写真が撮れることを伝えると、異世界課の全員が充電待ちになっているスマホたちにくぎ付けになった。いいとしをした大人がわくわくしながらスマホに群がっている姿は……少しだけほほましい。

 皆さんがスマホに夢中になっている間に私はノートパソコンの起動を完了させた。幸いロックもかかっていない状態で、表計算ソフトにワープロソフト、画像編集ソフトなどのアイコンが並ぶ見慣れた画面が立ち上がった。

「ほおおおお、こっちはガメンとやらが大きいな。見やすい」

 スマホ片手にエイリー課長は私の横に椅子を引っ張ってきて座った。

「そうですね、スマホより大きくて見やすいです。これが、文章を書くためのものです」

 マウスがないので、タッチパネルを操作してワープロソフトを立ち上げる。最初に出てくる白紙の文書が立ち上がり、そこに異世界課の課長ダリル・エイリーの名前を入力してみせた。

すごいぞ! 中に文字が入っている!」

「こうして入れた文字を紙に印刷することもできるのですが、残念ながら印刷する機械がないのでできません。ですが、この中で文字を書いて保存しておくことができます。場所を取らないのが利点でしょうか」

 この世界は、紙にインクを使って文字を書くのが基本。もちろん仕事で使う書類も同じなので、出来上がった紙書類を保存管理するのも大変そうだ。

「なるほど……この中に入っていて、保存してまた取り出すことができるのか!」

「はい」

 私は他の書類を見せようとフォルダを開き、リストの一番上にあったファイルを開いた。

「……えっ」

「なんと書いてあるんだ? 読んでほしい」

 このノートパソコンの持ち主は、確か去年この世界にやってきた男性で……ミュージシャン志望の方だったと聞いた。ライオン獣人の女性がお披露目会の開催二日目の朝にやってきて、熱烈なプロポーズをしてお婿さんに迎えたらしい。

「早く読んでくれ、レイ」

 もう少し、文書ファイルを確認して選んで開けばよかった。深く考えることなく、一番上のファイルを開いてしまった自分を恨みたい。


 キミの瞳は真珠の輝き

 おお、いとしいキミよ!

 心の中を吹く冷たいばかりの風も

 キミの瞳に映れば僕の心はソーハッピー!


 何なのこれは? 意味が分からない歌詞のような、詩のようなポエミーな言葉の羅列が三番まで続く。さらに別のページにもこのヘンテコな歌詞のような詩のような言葉がいくつも書かれている。

 これを音読しろっていうの!?

 期待に満ちた表情で目をキラキラと輝かせながら「早く読み上げて」と言う職場の仲間たち。

 あちらの世界の音楽に乗せて歌う歌詞だと知ると、この歌詞モドキを紙に書かされて、何度も音読を聞かされたり音読させられたりした。

 悪意しかないうわさつらいけれど、訳の分からない歌詞モドキを聞かされたり言わされたりするのも辛い。持ち主だった男性が旅行に行ったときに撮影したらしい美しい南の島のビーチの動画が出てくるまで、歌詞モドキ騒動は続いた。

 パソコンの中には個人情報が詰まっている。電源が入らないから、と気軽に異世界課に捨てていったんだろうけども……「見られたくないもの、見られちゃってます。今後も発掘されてはさらされ続けるでしょう。この手のものを手放すときは、中身をきっちりと処分しておくことをお勧めします」と持ち主さんたちに伝えたい。

 私は自分のスマホをしっかり回収した。

 充電が切れれば写真は見られなくなってしまう。それは分かっている。それでも、この中に入っている家族の写真データは……私の大切な宝物だから。

 スマホの待ち受け画像はわいいゆるキャラのものを季節ごとに替えていたけれど、家族の写真に変えた。祖父母、父母、伯父伯母、健斗兄さんと杏奈と自分。去年のお正月に祖父母の家のリビングに置かれたこたつで、祖母と母が作ってくれたおせち料理の入ったお重箱を囲んで撮ったものだ。

 季節感を全く無視した待ち受けだけれど、皆が笑顔で……幸せがぎゅっと詰まっている。こんな時間があったことを、家族の笑顔を忘れないよう、目に、頭に、心に、焼き付けておきたい。



 異世界課での仕事がお休みの日、私は街へと出た。目的はふたつ。ひとつは自分の口座を作ってお金を預けること、もうひとつは〝宝珠のやかた〟に行ってみることだ。

 この都市で暮らすにしても、他の都市や外国に行くとしても口座は必要になる。だって、この世界のお金はコインだけで紙幣はない。持ち歩くにも部屋に置いておくにも限度があるし、安全の問題もある。

 元の世界でいう銀行の機能を持った施設はないけれど、各種ギルドがその役割を担っているらしいことを異世界課の人に教えてもらった。

 ギルドの金融システムはお金を預けて、引き出すっていうだけのシンプルなもの。投資とかそういうものはまた別なことなんだとか。シンプルだからこそ、国をまたいでも問題なく使えるらしい。

 誰がどのギルドで口座を作っても問題ないし、身分証みたいなものも発行してくれるから、大人になると皆作るものなんだとか。

 いろいろ考えた結果、商業ギルドで口座を作ることに決めた。どこの国にも必ずあって、支部の数が一番多いから。元の世界でいう、世界中で使える一番大きくて支店の多い銀行というイメージ。

 王都の商業ギルドで口座を作り(私の身元保証は異世界課のエイリー課長がしてくれた)、異世界課で働いてもらったお給料を預ける。

 渡された身分証はひし形の透明なペンダントトップで、中心に白く木のようなマークが入っている。異世界から来た人は透明、こちらの世界の人間は薄桃、エルフは薄緑、ドワーフは薄黄、獣人は薄青になると聞いた。チェーンやかわひもを通して首から下げるのが一般的なんだとか。

 これはお金を預けたり引き出したりするときに使ったり、入国審査とか特定の施設に入るためにも必要になるらしい。

 絶対持ってなきゃいけないアイテムじゃない? ゲームなら重要アイテム欄に入っている感じ。

 ギルドのすぐ近くにあった革製品屋さんで革紐を買って、身分証に通してペンダントにして首から下げる。皆が持っている身分証を私も手に入れた。これで、私もこの世界の住人としての一歩を踏み出したように感じられる。

 マーティン氏から渡されたカードをポケットから取り出して、住所を確認した。革製品屋のご主人に聞いたところ、女神様をまつっている神殿の近くらしい。

 大きな通りを南に向かって行けば神殿だというので、にぎやかな商店街をのぞきながら向かう。

 武器屋さん、魔導具屋さんといった見たことも聞いたこともないお店もあるし、八百屋さんや肉屋さん、パン屋さんもある。本屋さんを覗いたら、半分くらいが魔導書という魔法に関する本を扱っていて驚いた。見たこともないような色や大きさの花が花屋さんに並んで、一抱えもあるような巨大なきのこや木の実を売るお店、魔物の牙や毛皮なんかを売るお店もある。

 お店の人も買い物に来ている人も大半は動物の耳と尻尾を持った獣人さんで、改めて私は、ここは異世界なんだっていう実感を得た。見たことのないものの洪水だ。

 ここは私が生まれて育った国じゃない。そもそも世界が違う。

 私は家族と無理やり切り離されてこちらの世界にやってきて、呼ばれた理由である番さんにも見捨てられ、家に帰ることすらできなくなった迷子だ。どこにも帰る場所のない、迷子。私はたったひとりで……ひとりぼっちでいる。

 急に周囲の色がせたように見えて、ざわめく街のけんそうも遠くになったような気がする。胸が痛み、徐々に音は消えて目の前が暗くぐるりと回り始めた。

 このままじゃマズい。それは分かっているんだけれど、体が動かない。

 ゆっくりと体が揺れたとき、私の腕をつかんだ手があった。その手は大きくて、温かい。

「おい、大丈夫か?」

 引っ張られるまま私は商店街の隅へと移動させられ、休憩用のベンチに座らされた。

 そのまま目を閉じると、ぐるぐるとまぶたの裏が回った。

「おい、坊主。これを飲め、ゆっくりな」

 温かく大きな手からコップらしきものを手に持たされた。ゆっくりその中身を飲むように促され、私はそれに従った。

 口に入ってきたのは、とろみのあるフルーツミックスジュース。フルーツスムージーのようだ。

「全部飲め」

 ほどよく冷たくて、甘くて美味おいしい。

 目を開ければぐるぐると回っていためまいは治まり、色をくしていた世界に少しずつ色が戻ってくる。

「……すみません、ありがとうございます」

 ジュースを全部飲み干すと、元気が戻ってきた感じがした。めまいも感じないし、ちゃんと見えているし聞こえている。

 私が座っているのは、ジュース屋さんが用意してくれている休憩スペースらしい。

 目の前にいるのは獣人さん、おそらく犬……ドーベルマンみたいな感じだ。褐色の肌に黒い髪、黒い瞳、ピンと立った耳。この人が私をここに座らせ、ジュースを買って飲ませてくれたらしい。

「顔色も少しは良くなったな。……坊主、おまえ異世界人か。番はどうした、はぐれたのか?」

 服からはみ出たギルドの身分証を指さしながら、イヌ系獣人さんは首をかしげた。

「番の種族はなんだ? まだ近くにいるだろうから、俺の仲間に声掛けして探してやるぞ」

「いえ、あの……大丈夫です。飲み物、ありがとうございました。おいくらだったでしょうか?」

 手にした木製のコップの中身はとても美味しかった。このジュースの糖分で体調を持ち直したんだろう。自分で支払わねば。

「そんなものはいい。だが番の件は駄目だ。坊主、おまえはちゃんと番と共にいなくちゃいかん。危険だしな」

 そう言いながら、目の前の獣人さんはなにやら周囲に合図を送る。すぐさま二人の獣人さんがやってきた。

「さあ、坊主の番は何の種族だ?」

「番さんのこと教えてちょうだいな。はぐれちゃったなら、向こうも今心配で心配で仕方がないでしょうね。必死で捜し回っているでしょう」

「捜して見つからないってことは、あんまり鼻の利かない種族なんですね」

 そんなこと言われても、番なんていないし。

 さっきから坊主坊主って、やっぱり今の髪型でパンツスタイルだと私は男の子にしか見えないようだ。

「あの、だから……大丈夫です。番はいないので」

 三人の動きが止まり、固まった。どうしたんだろう?

「あ、この住所の場所に行きたいのですが、場所がよく分からなくて。ご存じでしたら教えていただけますか」

 固まったままのイヌ系獣人さんは、差し出したカードをぎこちない動作で受け取ると住所を見て目を大きく見開いた。

「……ぼ、坊主…………おまえ……」

「?」

 なんか絶望っていう感じの顔をしているけども、大丈夫? それとも、あのマーティン氏の推薦する館はやはりとんでもない場所なんだろうか?

「おまえ、今、いくつだ?」

「十九歳ですけれど」

「えええ!? じゃあ成人したばっかりで、番とも出会ったばかりじゃないですか! それなのに、宝珠の館に? わいそう!」

 イヌ系獣人さんの呼んだ獣人さんのひとり、垂れた耳に太くてふさふさした尻尾、雪のように真っ白な毛並み……大型のイヌの獣人さんらしい人がそう叫んだ。

「ちょっとバーニー、声が大きい。深刻な問題をお持ちのようだから、騒がないの」

 黄色の毛並みに長い尻尾を持ったキツネ獣人さんが白い毛並みのイヌ獣人さんをたしなめ、人の目を集めようとしていたところを回避してくれる。

「ええと、館の場所は知っているから案内することはできるわよ。でも、その前に事情を聞いてもいいかしら? なにか困っていることや悩んでいることがあるんじゃないかしら? もちろん言いたくないことなどは言わなくても大丈夫よ」

「そうだな、俺たちは隣国に拠点を置く商家の者だ。怪しい者じゃない。その歳で番がいない、さらに宝珠の館に行こうっていうんだ、何か事情があるんだろう。他人だからこそ話せるってこともあるだろう、よければ相談に乗る」

 褐色の肌のイヌ獣人さんはグラハムさん、キツネ獣人さんはマリウスさん、白いイヌ獣人さんはバーニーさんと名乗ってくれた。私もレイと自己紹介する。

 彼らは隣国ウェルース王国に本店のある商会の従業員で、この都市にある支店への応援と買い付けに来ている最中なんだとか。どうやら彼らの商会では養護院や、母子家庭の救済施設の運営など福祉関係にも力を入れているようで、困っている者へは積極的に声掛けをする方針らしい。

 そして、私は彼らに困っている者として認定を受けたわけだ。

「さっきもマリウスが言ったが、無理に話さなくてもいい」

 正直、悩みは多い。相談したいけれど、相談する相手がいないという現実があった。

 異世界課の人たちは職場の人としての交流しか持っていないし、個人的な興味もなく(異世界課の人たちは、良くも悪くも異世界の文化や宗教などに興味津々な人たちばかりで、他のことに興味がないのだ)、職場から一歩外へ出れば妙な噂を信じる人たちばかり。

 トマス氏とはお披露目会が終わった後、ほぼほぼ交流がない。マリンさんは本来侍女として働いていた場所に戻ってしまったし、マーティン氏とはあまり関わりたくない。

 となると、気軽に相談できる相手なんていないのだ。

「……よければ、少し教えてもらいたいことがあります」

 場所を借りているジュース屋さんにお代わりにおすすめジュースを注文し、休憩所の隅っこに改めて座った。お代わりのジュースはリンゴっぽい味で甘酸っぱい。

「その、宝珠の館ってどんな施設なんですか?」

 そもそも何をしている館なのか分からないから、訪ねてみようと思ったのだ。マーティン氏の紹介だから、とんでもない場所ではない、と思いたい。

「え、レイくん知らずに行こうとしてたの?」

「はい。教師役の方に一度訪ねてみるように、と言われていましたので」

「うう~ん。それはどういう意味だったのかよく分からないねぇ」

 マリウスさんは大きな尻尾を揺らし、首を傾げた。

 それは善意で紹介されたのか、悪意で紹介されたのかってことだろうか? その答えは……分からないけど、善意であってほしい。悪意であっても不思議はないけど。

「宝珠の館ってのは、その名の通り宝を授けてくれる場所だ。この場合の宝というのは、子どものことになる」

「……子ども? 子どもを授ける?」

 どういうこと? 子どもは男女の営みをして、母親のお腹で赤ちゃんが育って出産ってなるんじゃないの? この世界では違うの?

「宝珠の館に暮らしているのは異世界人ばかりだ。といっても、異世界人なら誰でも館の住人になれるわけじゃない。伴侶である番を、事故や病気などで亡くしてしまった異世界人だ」

「……え」

「坊主、おまえもそうだろうが、番の召喚儀式でこちらの世界にやってきた異世界人はこちらの世界の者と伴侶になる。その後はふたりで仲むつまじく夫婦として暮らしていく、それが一般的だ。だが、中には伴侶の獣人が突発的な事故だったり、病気にかかったりして命を落としたりする。ふたりの間に子どもがいれば一族の援助を受けることができるが、いない場合はな……まあ、生活に困るって奴が出てくるんだ」

 なるほど、子どもがいればその子が孫だのおいめいだのってなるから、異世界人もその子の親として支援してくれるけども、子どもがいなければ一族の者とは扱われなくなるのか。

「だから、そういう人たちが集まるのが宝珠の館ってわけなのね。異世界人に子どもを産んでほしいって獣人は一定数いるから、二人か三人産めば死ぬまで生活には困らないって話よ」

 マリウスさんは緑色のジュースを飲んで、ウエッてなった。なんのジュースだろう。

「あの、どうして異世界人との間に子どもを望むのですか? 伴侶がいるのなら、望む必要がないですよね」

「異世界人からは、伴侶の種族しか生まれないのよ」

 ん? ちょっと意味が分からない。

 私が首を傾げていると、マリウスさんとバーニーさんは苦笑した。「本当にこっちに来たばっかりなんだねぇ」としみじみつぶやいて。

「例えば、異世界人とトラ獣人の夫婦がいたとして、そのふたりの間に生まれる子どもは全員トラ獣人なのよ。クマ獣人とならクマ獣人、ウサギ獣人とならウサギ獣人しか生まれないの」

「獣人とこちらの人間との夫婦の間に生まれるのは、獣人か人間といった半分くらいの確率なんですよ。でも、獣人っていうのはその……獣人の子どもの方が欲しい風潮がありまして。確実に自分たち一族の子を産んでくれる異世界人さんは、人気なんです」

 な、なるほど? 獣人の子もヒトの子も生まれるけど、どっちかといったら獣人の子の方がうれしいものなのか。

「それにな、番との間に子どもができないってこともある。各国の王族や上級貴族なんかにとっては、子どもができないのは重要な問題になる。そういうときにな、お願いするわけなんだよ。報酬を払ってね、それは金銭だったり宝石だったり本人の希望するもので払われる」

 確実にこちらの世界の獣人やエルフ、ドワーフなどの子が生まれる異世界人に子どもを産んでもらうための施設。宝珠の館っていうところには、子どもを望んでいる人たちの求めに応じて、金銭で子どもを産んであげても問題のない異世界人が集まっている。

 …………おおい! マーティン! マーティン・フォー! いくらなんでもひどいんじゃないの!? 私には確かに番がいないけども、迎えに来てもらえなかったけども!

 それでも、まだ十九歳で……男の人と子どもができるようなことなんてしたことがないし、そもそもお付き合いしたこともなくて! そんな私に、宝珠の館に入ってよく知らない相手の子どもを産んで、その子と引き換えに金銭を受け取って生活しろっていうの!?

「だからな、まだ年若いおまえが宝珠の館に行くってのは、何か事情があるんじゃねぇかって思ったんだよ」

 グラハムさんはそう言って私の頭をぐしゃぐしゃとでた。髪がボサボサになっていく感じがしたけど、それどころじゃない。

 宝珠の館が悪いとこじゃないってのは、なんとなく想像がつく。番さんを亡くして、番さんの一族に受け入れてもらえなかった異世界人が、生活に困ることなく安全に暮らして、お金を稼げる場所のひとつなんだと思う。

 子どもができなくて悩んでいる王様や貴族の人たちにとっても、大事な場所になっているんだとも思う。だから、館で生活している人たちがどうとは思わない。そこで生活することを本人が納得しているんだったら、いいと思う。

 でも、私自身は納得できない。子どもは好きだと思えた男の人との間に欲しいし、産んだらちゃんと育ててあげたい。だから、私にはできない。無理だ。

 マーティン氏にはよく考えて決めろと言われた。

 きっと宝珠の館のことも、すぐに館の住人になれって言ったわけじゃなくて……そういう風に生きている異世界人がいて、彼らの話も聞いてみろって意味だった……と思いたい。

 そうでなかったら、さすがにちょっと辛い。

 私は心が弱ってしまって、今までのことを彼らにかいつまんで話してしまった。心のどこかで誰かに聞いてもらいたい気持ちがあったようで、話し出したら止まらなかった。

 今年の召喚でこの世界に来たこと、番さんが迎えに来てくれなかったこと、王宮で仕事をしているけど妙な噂を流されて居場所がないことなど。考えながらだったし、つっかえながらだったから上手うまく話せたとは思えない。かなり聞きづらい感じになったと思う。でも、彼らは私の話にあいづちを打ち、時に促しつつ聞いてくれた。

「……そうか、大変だったな。それに獣人としても申し訳ないことをしたと思う、獣人を代表して謝罪する。申し訳なかった」

 グラハムさんは耳と尻尾をしょんぼりとさせながら、私に謝ってくれた。でも、あの、グラハムさんに謝ってもらう必要はないんだけどもね。

「本当にごめんね、同じ獣人種族として恥ずかしいよ。獣人に対してイメージ良くないと思うんだけど、獣人だからって嫌わないでいてくれると嬉しいな」

 マリウスさんもそう言った。大きくてふさふさな尻尾が力なく下がっている。

…………いえ、こちらこそ要領を得ない話を聞いてもらってありがとうございます。話をしてすっきりした部分もあるので。それに宝珠の館についても教えてくださり、感謝します」

 リンゴジュースっぽいものを飲み干し、ジュースの代金を払おうとすると「気にするな」と再びごそうされてしまった。

「で、レイくんは今から館に行くの?」

 マリウスさんの問いかけに私は首を左右に振った。

 どんな場所なのか分からなかったし、訪ねてみるように言われたから行って確かめるつもりだった。でも、どういう場所なのか分かった以上、実際に確認しに行くつもりはない。

 実際に行くときは、宝珠の館の住人になってもいいと私自身が納得できたときだ。

「そう、じゃあ、これからどうするの?」

「えっと、どうって……」

「だって聞く限りだけど、レイくん、今の生活が辛いんじゃないの? 仕事が嫌いじゃないのは幸いだけど、番は迎えに来ないし、周囲にいる人たちは変な噂に影響されて、レイくんに対してちゃんと接してくれないんでしょう?」

「それは……」

 マリウスさんの言葉は、今、私が置かれている立場をズバリ言い当てている。

 職場の雰囲気は悪くない、無視されることも遠巻きにされることもなくちゃんと会話が成り立っている。でも、それ以外の場所では駄目だ。噂の内容はうそばかりで、気にしない気にしないと心の中で唱え、できるだけ他の人たちから離れて生活しているけれど……正直辛いし、疲れる。

「レイくん、キミはどうしたいの? 選択肢はいろいろあると思うけどね、もちろん宝珠の館っていうのも選択肢のひとつ。自分がどうしたいのか、をよく考えたらいいよ」

 マリウスさんは緑色のジュースを飲み干し、またウエッてなってから「これ絶対に苦い野菜混じってるよね?」と笑った。

…………ここを、この街を離れようかな、と思っています」

 そう言うと、お三方はおのおのの耳をピンッと立て、尻尾の毛を膨らませた。

「ここを離れるってことは、番の獣人と出会える可能性がものすごく低くなるってことだけど。レイくんはそれでいいの?」

「……はい。迎えに来てもらえないってことは、向こうが私を望んでくれていないってことだと思うので」

 伊達だてに、迎えのなかった史上初めての異世界人、としてヒソヒソと自分の悪口を聞かされて遠巻きにされてきたわけじゃない。私の立場になれば、きっと皆、嫌でもそう思える。

「そうか、うん……まあ、そう受け取られちゃっても仕方がないの、かな? どうなのかな、どうなんですかね、グラハム主任」

「俺としては、おまえの番が迎えに来ないってことに納得いかん」

 グラハムさんは両腕を組んで、ふんっと鼻を鳴らした。

「えっと、それは、獣人さんにとって番がとても大切な存在だから、ですか?」

「ああ、そうだ。異世界から来たおまえには理解が難しいだろう。だが、本当に我ら獣人にとって番という存在は大事なものだ。だから、迎えに来ないということが信じられん。何か問題が起きているとは考えられんか?」

「都合が悪く、お披露目会に来られない場合はその旨連絡があるのだと聞いています。ですが、その手の連絡は入っていないとも聞いています」

…………そうか。だが、信じがたい」

「僕としては、キミにはこの街に残っていてほしいと思うよ」

 ずっと黙って聞き役に徹していたバーニーさんは、小さい声だけれどはっきりと言った。

「最終的に決めるのはキミだって分かってるよ。でも同じ獣人としては、番を得られる可能性が低くなる行動はなるべくとってほしくないなって思う」

…………

「何か問題が起きていて、キミと番である獣人はまだ出会えてない。だからって、切り捨ててほしくはないんだ……本当に女神が結んでくれた番とのきずなは大切だから」

 バーニーさんの言葉にグラハムさんもマリウスさんもうなずく。

 だから、私は心ない噂が飛び交う針のむしろのようなこの街で、友人もなく居場所もなくただただ耐える生活をしろって? 会えるかどうかも分からない、私を望んでもいないかもしれない相手を待って?

 目の前がまたぐらりと揺れて、さっきまで美味しく飲んでいたジュースが吐き気と共にせり上がってくる。慌てて両手で口を押さえ、せり上がってくるものを強引に飲み下す。こんなところで吐くなんてゴメンだ。

「ちょっとレイくん、大丈夫!? ごめんね変なこと言って! 大丈夫だから、落ち着いてゆっくり息を吸って。気持ち悪かったら出しちゃっていいから、レイくん? レイくんっ!」

 目の前がぐるぐる回って、マリウスさんの慌てた声を聞きながら私は耐え切れず意識を手放した。



 閑話 マリウス・ベイトの心配


 丸々一日休日という素敵な日を過ごすのに、上司と同僚と一緒っていうのは結構なハズレ具合だと思う。

 でも、この国の王都に入ってからは運び込んだ荷の管理に追われて、王都の市場や店を見て回る時間も休暇も取れていなかった。だから、こわもてのグラハム主任と少々気弱なバーニーと久方ぶりの休日の過ごし方がそろってしまったことは、まあ、仕方がないかと諦めた。

 王都で一番大きな市場のある通りに向かい、なんとなく主任とバーニーの位置を確認し、この王都を出発するときに仕入れていくものを物色する。

 僕たちは商人だから、新しかったり珍しかったりする品が気になるし、その土地特有の品も気になる。だから、それぞれ下見の下見くらいのつもりで見て回った。

 さまざまな品の露店が並び、大勢の多種多様な人たちが行き交い、威勢の良い声が飛び、商品とお金がやり取りされる。

 そんな中で異世界人であるレイくんと出会えたことは、奇跡に近いことだと思う。

 この世界に招かれた異世界人。

 つがいに迎えに来てもらえなかった異世界人。

 今までに聞いたことがない。僕たち獣人にとって、番は大切な大切な存在。世界中のどこかにいる番を探し出すことは、悲願と言っていい。

 だから異世界から番を迎えられる者は運がいい。女神様から「貴方あなたに番となる人を授けます」って啓示を受けて、迎えに行けばいいんだから。しかも国中を探して回らなくても、お披露目会に迎えに行けば最愛の人に出会えるんだから。

 それなのに、それを無視するなんて、主任じゃないけどとても信じられない。

 でも事実、今ベッドで青白い顔をして眠っているレイくんには、番がいない。何度その現実を見ても、信じられない。

「精神的なものだろうから、体は大丈夫だ。ちょっと痩せすぎてるがな」

「そう、それならよかった」

 懇意にしている医師のサムソンじいさんは僕の顔を見て大きく息を吐いた。

「いいもんかね」

「え、だって、大丈夫なんでしょう?」

「精神的に追い詰められている者のつらさは、目に見えない分手遅れになりがちだ。何かが変だと周囲が気付く頃には、もう手の施しようがないほど心が傷ついておるもんだ」

「……レイくんも、そうなの?」

「このお嬢ちゃん自身、追い詰められているつもりはないのだろうが」

 お嬢ちゃん? えっと、お嬢ちゃん? レイくんが? 髪は短くて、白いシャツに濃紺のパンツ姿のレイくんが?

「えっと……レイくんは、レイちゃん、なの?」

 そう聞くと、年老いたとはいえサムソン爺さんのイノシシ獣人らしい素早く力強いチョップが僕の頭にさくれつした。耳と耳の間から真っ二つに体が割れたんじゃないかってくらい、強い衝撃があった。実際は割れてなかったけど。

 これは机の角に小指をぶつけて絶対小指折れているとか、小指がちぎれて少し離れたところに落ちてて床は血だらけだ! って思うのと同じ。

「馬鹿者、この子は異世界人だろうに。異世界では女子は髪を長く伸ばすべし、という風習などないのだということを忘れたのか?」

「あ、ああー」

 そうだった、異世界では性別で服装や髪型に決まりがなくて自由にしているのだった。だから、女の子でも髪が短い子もいるのが普通。

「そっか、女の子だったのね。そっかそっか」

「まだ年若い女子が突然家族や友人と生木を裂くように引き離され、まもり愛してくれる番もおらず、心ないうわさを広められているのだろう? 辛いに決まっておる」

 サムソン爺さんはレイちゃんの首元までしっかりと毛布をかけ直すと、心を穏やかにするハーブティーやアロマなどを勧めるようにとメモをくれた。

「我ら獣人の望みをこの子に押しつけるようなことをしたり、言ったりせんでやってくれ。今のこの子に必要なのは、穏やかな生活と栄養のある食事だ」

 サムソン爺さんを見送って従業員仮眠室へ戻ろうとすると、バーニーが尻尾を垂らして仮眠室の前をうろうろしていた。

「どしたの、レイちゃんならまだ眠ってるよ?」

「……僕のせいで、具合悪くなっちゃったから。だから、その」

 バーニーの大きな背中をぽんぽんたたいて、落ち着くように促してやった。耳も尻尾もしょんぼりうなれている。

「まあ、気持ちは分かるよ……分かるよ。でも、レイちゃんが今いる立場とか、気持ちとか、そっちを優先してあげなくちゃだよね?」

 小さくうなずいて、バーニーは半分ほど開いたままの扉から室内をのぞき込む。まだ、レイちゃんが目覚める気配はない。でも数時間もすれば起きるはずだ。

「サムソン爺さんから、レイちゃんにハーブティーとかアロマとか……気持ちを落ち着かせるようなものを勧めるように言われてるんだけ……ど」

「探してくるっ」

 バーニーは僕からメモを受け取ると、バタバタと店舗の方へ走っていった。

 きっと商会で扱っている品の中から、良質なものを見繕ってきてくれるだろう。

…………レイちゃん、ごめんね。僕たちが想像していた以上に辛い思いをたくさんしてたんだろうね。僕たちが何か、お手伝いできたらいいんだけど」

 青い顔をして眠っているレイちゃん。短くカットされた黒い髪をでれば、少し傷んでいるようで乾いた感じがした。

 この傷ついた女の子が、僕たちを頼ってくれたらいいのに……そして元気になってくれたらいいのに。でも、なんだかこのままじゃあ頼ってくれないような気がして。とても心配だ。



 私が目を開けると知らない室内がそこにあった。

「……えっ」

 慌てて体を起こすと、シンプルな部屋に置かれた簡素なベッドに寝かされていた。部屋は八畳くらいで、ベッドとテーブルと椅子、鏡台しかない。

「あ、レイちゃん! 目が覚めたのね、大丈夫? 気分悪いとか目が回るとかない? ここは僕たちが勤めている商会の従業員仮眠室、変な場所じゃないから安心して」

 半分開いていた扉からお茶セットを持って入ってきたのは、商店街でジュースを飲んで話をしたキツネ獣人の……確かマリウスさんだ。ちょっとオネエっぽい優しい口調が印象的だ。

 そうだ、確か彼らと話しているうちにまた気分が悪くなったのを覚えている。そのまま意識をなくして倒れた……んだろう。

「大丈夫です。すみません、ご迷惑をおかけしました」

「いいのいいの、気にしないで」

 ベッドから抜け出そうとすると、マリウスさんが私の靴を揃えてくれた。でもって、テーブルにセットされていた椅子を引いて、そこに座るように促してくる。

「こっちこそごめんなさい。レイちゃんの気持ちを無視するようなことこっちが言ったから、びっくりしちゃったよね」

 少し大きめのマグカップにお茶が注がれた。ミルクティーらしいそれは温かな湯気を上げて、甘い香りがする。

「家族と無理やり引き離されて異世界から召喚されて、守ってくれる番とも出会えてない。さらに周囲からひどいこと言われて傷ついてる女の子に対して、僕たちが言っていい言葉じゃなかったの。本当にごめんね」

「……え……女の子って……」

 私の髪は短くて、服だってパンツスタイルでこっちの世界の人たちから見たら男の子にしか見えないはずなのに。

「お医者さんにね、診てもらったの。大丈夫、ヨボヨボのおじいちゃんだし、服を脱がしたりとかしてないから。でも、痩せすぎだって言ってたよ? ご飯、食べてる?」

 一応食べてはいる。食堂で食べるご飯は味がしないからたくさんは食べてない。少し痩せたかな、とは思っていたけど……お医者さんに痩せすぎって言われるほど、かな。自分ではよく分からない。

 勧められてミルクティーを口に運ぶと、甘くて優しい味がした。

「ちゃんと食べて、眠らなくちゃだよ。環境が合わないんだったら、変えなくちゃね」

「……でも」

「でも、じゃないよ。向こうの世界には、自己管理って言葉はないの?」

「あります」

「体調管理は大切なことなの。健康第一よ」

…………はい」

 全くもって反論できない。

 うつむいた私の頭をマリウスさんが優しく撫でた。

「レイちゃん、この街を離れようかって気持ちに変わりはない?」

 私は俯いたまま、首を縦に振った。

「ここを出てどこに行くとか、どうやってお金を稼いでいくとか、考えてある?」

 首を横に振る。

 この街を出ようか、王宮での仕事をやめようかと考えた。そのための第一歩としてギルドに口座を作ってお金を預けることにして、実行した。まだそこの段階で、具体的にどこの街に行くとかどうやってお金を稼ぐか、なんていうのは考えていない。

「僕たちは、ランダース商会っていう商会で働いてる商人なの。本拠地は隣の国になるウェルース王国の王都ウェイイルにあって、今は本拠地を中心に海外も含めて支店が十店舗。僕たちは今、各地で売れそうな商品を買い付けながら、各支店の様子をぐるぐる回って確認しているの」

 商会で販売する新商品の発掘と、お店の監査を行いながら回っている感じだろうか。私の中ではシルクロードを行く旅商人のようなイメージだ。

「この街にはまだ来たばっかりで、今月中は滞在する予定でね。よかったら、お休みの日に商会へ遊びに来ない?」

「……遊びに?」

「そう」

 マリウスさんはニッコリと笑った。細めの目が笑うとなくなっちゃうけど、あいきょうのある笑顔だ。

「ここに来るまでの間にいろいろな品を仕入れてきてるの。食料品とか工芸品とか本とかね。見て、触れてみない? レイちゃんはこっちに来て、王宮でしか生活してないよね。この国のこの街のごく一部しか見てない、そんなのもったいない」

「もったいない?」

「そう! いろいろあるのよ、この世界にはね。もちろんレイちゃんの生まれた世界にはこっちにないすごいものがたくさんあったと思うけど」

 例えばパソコンやスマホなんかの精密機械に、洗濯機や電子レンジなんかの家電、車も新幹線もバスもこっちにはない。

 科学に代わるように、こっちには魔法があって不思議な生き物がいる。

 手紙を一瞬で相手に飛ばしたり、洗濯やお皿洗いをする家事魔法、荷台に人を乗せてそれを引く大きなトカゲやダチョウのような大きな鳥がいる。

「でもこっちにしかないものもたくさんあるの。品だけじゃなくて、景色とか生き物とかもね。どこへ行くのか、どうしたいのか……それを決める材料になるものがここにはあるから。見てみない?」

 私はミルクティーを飲み、首を縦に振った。

 そう、私が頼れるのは自分だけ。自分の面倒は自分で見なければいけない。

 この商会でここではない街について、食料品や工芸品なんかを見せてもらいながら知ることは、私にとってはプラスでしかない。マイナスになることはない。

 私が考えた今後の生活パターン、その三。

 他の都市に移動し(国を移動するのも可)、新しい場所で新しい仕事を見つける。

 これの実現にはどんな国のどんな街がいいか、私が王宮を出てできる仕事は何かを具体的に決めなければならない。それには判断材料が必要になる、それもできるだけたくさんの材料が。

 それにマリウスさんやグラハムさんたちは、私に対して普通に接してくれている。一緒に飲んだジュースやお茶にはちゃんと味がある。

「……よろしく、お願いします」

 私はマリウスさんに頭を下げた。



 商会の従業員仮眠室を出て、従業員の出入り口からお店側に抜けた。

 そこは麻袋に入った豆や乾燥させた果物、塩、砂糖などが所狭しと並んでいた。グラム単位で量り売りをしているらしい。

「ここは乾物を扱ってるところよ、左側に行くと瓶詰めや袋詰め商品とかが並んでいるの。店の二階は工芸品や書籍、三階は宝飾品なんかの高級品を扱ってるのよ」

「……たくさんの種類を扱ってるんですね」

 どうやらランダース商会は食品から宝飾品まで、多様なものを扱っているみたいだ。何かに特化しているというわけじゃないみたいだけど、食品関係が主力商品なんだろうと思う。

「そうね、でも一番多いのは食品関係かしら。豆とか小麦とかお茶とかね、地域によって種類がたくさんあるから面白いよねぇ」

 お店には数人のお客様がいて、店員さんと相談しながら楽しげにお買い物をしている。活気があって、素敵なお店だ。商品を眺めつつ、豆と小麦粉を買っているウサギ獣人のお姉さんの邪魔をしないように店から出た。

「何か気になる品はあった?」

「えっ…………あれ?」

 促されて見回した中で気になったものがあった。豆とか小麦粉とか、見覚えがある商品の中で私の目を引いたのは、店の隅に置かれていた米っぽいもの。

 この世界の文化は西洋っぽい感じが七割、アラブ系のようなもの三割くらいで混じっている感じで、主食はパン。ロールパンや食パンのようなものも、ナンみたいな平たいパンもある世界。

 それなのに、お米?

「お米、あるんですね」

「えっ! レイちゃん、コメを知ってるの!?

「……はい、私の国ではお米が主食なので」

 そう言うとマリウスさんは耳と尻尾をピピーンッと立てて、私の顔を真正面から覗き込んだ。その顔は真剣だ。

「じゃあ、コメの食べ方を知ってるよね!?

「母国での、食べ方で、よかったら」

「教えてちょうだい!」

 ものすごい勢いで言われて、私はただ首を縦に振るしかなかった。そんなに知りたかったのかな。

「よかった。コメって東の島国ポニータ国ってところで栽培されている穀物なのよ。でも、いまいち食べ方がよく分からなかったのよね。説明書の文字が難しくて。試食も大失敗だったわー」

「ちなみに、どうやって食べたんですか?」

「お湯に入れて、煮る」

「お湯はどれくらいの量で、お米はどのくらい入れて?」

「お湯は大鍋に七分くらい、コメはあの量り用のおわんに一杯分」

 大鍋はどのくらいの大きさなのかよく分からないけれど、お米の量に対してお湯が多すぎるように思う。

「それは、たぶん、お米がとろけたお湯が出来上がったのでは?」

「そうなの、白く濁ったお湯? 飲むとちょっとだけ甘い感じのするお湯」

 どうやらごく薄い重湯を作り上げたらしい。お腹には優しいだろうけど、お米の美味おいしさは理解できないだろう。

「分かりました、来週のお休みにお邪魔していいですか? お米の炊き方をお教えします」

「ありがとう、レイちゃん! 準備しておくものはある?」

 一階部分にある食料品を細かく見せてもらって、お肉のしぐれ煮っぽいものと魚の干物を用意してもらうように頼んだ。ご飯には友が必要だし、おにぎりにも具が必要。

「来週が楽しみ! あ、王宮の寮に暮らしてるのよね、門限は大丈夫?」

 今は夕方の六時くらいになっている。門限は夜の八時だから今から夕飯を買って帰れば問題ない。食堂で食べればお金はかからないけど、針のむしろに座って食べる味のない食事は一食でも少ない方がいい。

「はい、八時までに戻ればいいので。夕飯買って帰ります」

「じゃあ、送るわね」

「え、大丈夫ですよ」

 ここから王宮までは大きな通りで一本道。王宮のお膝元だからか、警備担当の騎士も巡回している。この国で一番治安が良い街だ、ってマーティン氏は言っていた。

「駄目。確かにこの街は治安がいいけどね、女の子がこれから夜になろうっていうのにひとりで歩くものじゃないの」

 マリウスさんのふわふわの尻尾が、私の背中をぽすぽすっと叩いた。見上げれば愛嬌のある笑顔があった。

「……ありがとうございます」

「わー、待って待って!」

 店からおいとましようとした瞬間、店の奥からバーニーさんが転がるように出てきた。

「待って、レイちゃん! ごめんね、いろいろ」

「……いえ、気にしないでください。獣人さんの番に対する思いっていうのが、私が考えてる以上にずっと重要なものなんだって分かりましたから」

 自分が獣人の番だとずっと言われ続けて、獣人とその番が何組も添っていくのを見た。でも、自分にそれが起こらなかったから、番という存在についてどこか軽く見ていたのかもしれない。

「そう言ってもらえると助かるけど。これ、おびの品。遠慮なく受け取って?」

 白地に花模様でわいいけども、しっかりランダース商会の名の入った紙袋を渡された。戸惑っていると、マリウスさんからも「受け取って」と言われてしまう。

「中、見てもいいですか?」

「もちろんだよ。気に入ってくれるといいけど」

 中身は紅茶にハーブをブレンドしたような茶葉、れいなグラスに入ったカラフルなキャンドル、いろんな味の入ってるっぽいキャンディーの袋。

「……ありがとうございます。こんなにたくさん」

 こんな風にプレゼントをもらうのは、この世界に来て初めてだ。品もうれしかったけど、私を気遣ってくれる気持ちが嬉しかった。

 その後、マリウスさんとバーニーさんのお勧めの夕食を露店で買って、そのまま王宮前まで送ってもらった。別れ際に何度も振り返って手を振ったり、会釈をしたりして……彼らの帰宅を遅くしてしまった。

 申し訳ないやら嬉しいやら、むずむずしたような気持ちで王宮の敷地内を寮に向かって歩いていくと「レイ殿が……」という声が聞こえ、一気に体温が下がった。

「ふぅん、あのお嬢さんがねぇ」

「ま、上手うまくやったんじゃないか? フォー家にとってもさ」

 私は慌てて柱の陰に隠れ、息を殺した。

「本当にな。フォー家をはじめとして、エルフやドワーフなんかの血筋の家としては大歓迎だろ」

「いやいや、他の高位貴族もそうだって」

「最近はやかたに入る新しい異世界人、いなかったもんなぁ。これで新しい血が入るんだろ、どこの家だって大歓迎さ」

「しかもあんな髪だが、女だ」

「髪なんかすぐに伸びるさ。まだ若いし、顔もまあまあ見られる。子どもを産むには十分だろ」

「それより、本当に宝珠の館に入るんだろうな? これでやっぱり入りませんでしたってなったら、肩すかしだぞ?」

「大丈夫だろ。番に迎えに来てもらえなかったんだ、相手の獣人はもう別の伴侶がいるんだよ。それしか考えられないだろ?」

「だよな。それにまあ、噂も流れまくってるから居づらいだろうし」

「まあ、確かに今流れてる噂はひでぇもんだよな。本当のことなんて全然入ってないんだろ?」

「あ、ファルコナー家の長男が謝罪したいって何度も面会を申し込んだのに、全部拒否したってのは本当なんじゃないか? 謝罪くらい受けてやればいいのにさぁ」

「顔も見たくないって感じか。ひえー、異世界人様は怖いねぇ」

「でも、その従妹いとこって子がファルコナー領に出発するとき、ファルコナー家の次男が何か言い含めてたらしいぞ? 付いてくるなって言ったのは事実かも」

「でもあの子、従妹に付いていこうって気配は感じられなかったけどな? だって荷物まとめたりしてなかったし、見送りも手ぶらだったよな」

「そうか、それもそうだな。でも、そんな姿が見られたから噂は真実味を増したんだろ? もう、王宮中に広がってるらしいじゃないか」

「だーかーらー、レイ殿を館入りさせたい貴族連中がこれ幸いって噂を流しまくってるんだろ。逃げ場がないようにさ」

「でもさ、もしも、もしもの話だが。レイ殿の番が迎えに現れたとしたら、マズくないか?」

「そりゃあマズいな。レイ殿の番がどんな立場の者かにもよるけどさ、もし高位貴族だったら本当にマズい。想像してみろよ、自分の番が変な噂流されて宝珠の館に入れられたって。でもって、自分の子じゃない子でも産んでるとか、はらんでるってなったら……」

「そりゃ……怒りで我を忘れるかも。でも、現実問題としてはない話だろ。今になってもまだ迎えに来ないってことは、必要ないってことなんだよ」

「……それに宝珠の館に入れば、王宮で暮らすよりずっといい生活送れるんだろ?」

「そうだろな。なんたってお相手は金も地位もある王族や高位貴族が主だし。謝礼金はたっぷり貰えて、宝飾品も豪華な食べ物も貰い放題だろ」

「ええー、いいな! 俺も異世界人だったらなー」

「おまえみたいな奴、館に入ってもだーれも繁殖相手として選ばねぇよ!」

「そりゃそうだ!」

 大きな笑い声が響き渡って、私の耳に残った。

 王宮に戻ってきたときはオレンジ色の空だったのに、窓から見える空は真っ暗だ。私はどうにか寮の自室に戻ってくることができたらしい。

 ランプにあかりを入れることもしないで、ぼんやりベッドに腰掛けている。

 テーブルの上にある夕飯は冷えきって、硬くなってしまっているだろう。

 さっき聞いた会話内容がぐるぐると頭の中を駆け巡る。

 そうか、そういうことだったのか。とても納得している自分がいる。

 異世界人は獣人やエルフといった種族の子どもを確実に産む。宝珠の館は確実に種族の子が欲しい人たちと、番を亡くしてこの世界で居場所を失い生活のすべがない異世界人、どちらにもメリットのある場所。

 でも、思うに異世界人が番を亡くすというイレギュラーな事故は滅多に起こらない。こちらの世界の人たちは基本的に強くてとても体が丈夫なのだから。

 結果、宝珠の館にいる異世界人は滅多に増えない。

 宝珠の館を利用するにしても、同じ人が親では血が濃くなってしまって困るし、異世界人もとしをとって子どもが作れなくなっていく。だから、私のような存在を館に入れることは歓迎されるべきことなのだ。

 新しい血を持った若い異世界人。

 マーティン氏はエルフの血を引いていると言っていた。彼の家も宝珠の館を利用しているクチなのかもしれないし、新しい血を入れるために一肌脱いだのかもしれない。

 私の館入りを希望する王族やら貴族やらは多くいて、私の妙な噂を積極的に流している。それが事実なら、いつまでたっても噂が風化せずに流れているのも納得がいく。

 ここに、私の居場所はない。

 もう王宮にはいられない、当然宝珠の館に入ったりもしない。

 私は、私自身の手で居場所を作り出すしかない。ズキリと胸が痛んだけれど、それを無視する。

 ゆっくりベッドから下りてランプにあかりをつけた。少し黄色味の強い灯りが小さな部屋を照らす。

 椅子に腰掛け、買ってきた夕飯を紙袋から取り出した。

 バーニーさんお勧めのサンドイッチ。堅めのライ麦パンに似たパンに、葉野菜とにんじんラペとハムとチーズがたっぷり挟まっている。マリウスさんお勧めの野菜スープは、数種類の野菜を形が崩れるまで煮込んであるシンプルなスープ。

 さっき貰ったハーブの入った紅茶をれて、硬くなってしまったサンドイッチを食べ、冷えたスープを飲む。大口を開けてがっついた夕飯にはちゃんと味がある。

 サンドッチもスープも紅茶も、とても美味しくて力が湧き出すような味がした。

 私は王宮を出る。ここにいたら駄目だ。

 この世界のことをもっと具体的に知って、自分がこれから死ぬまで生き抜く場所を探す。

 マリウスさんがお米は東にある島国の作物だと言っていた。もしかしたら、日本……最低でもアジアっぽい生活基盤のある国かもしれないし、お米があるならもあるのかもしれない。

 いいかもしれない。口に合う食事も慣れ親しんだ文化も大切だ。

 この世界で新しい縁を結びながら、幸せに暮らす努力をすると決めた。だから、私は努力する。

 私の胸にあるスースーする穴を埋めてくれる番が私をいらないというのなら、別のものでその穴を埋める。新しい縁やきずなは恋愛だけではないはずだから。