第四章 Nowhere in the sea


     1


 あの騒動から、一週間がっていた。

 帰ったぞと声を転がすと、お帰りなさい、とベッドの上から返された。

 白い寝巻姿のクロニカの熱を診て、買ってきた薬用ワインと晩飯を渡してやる。

「ありがとう。でも、いい加減、病人扱いは飽きたのだけれど……。

 もうせきもしないし寒気も消えたし。ライナス、あなたちょっと心配性よ」

 そう言って毛布をどかし、ベッドの上でじたばたと動いてみせるクロニカ。

「その言葉より、俺は体温計を信じるね。どうせまだ出発できないんだ。ゆっくりしてろ」

 それから俺も、一ペニー屋台飯の蟹肉団子クラブケーキに口をつける。

「それで……いつになったら、出発できそうなの」

「だから、もうしばらくだよ。……多分な」

 かすようなクロニカに生返事で応じながら、俺は机の上の地図を目でなぞった。

 千年続いた鎖国下の海禁令の反動か、革命後に作られた港湾都市へは多くの街道が整備され、鉄道路線も国内で最も密なダイヤを走っている。

 だがしかし、いくら交通の便がいとはいえど距離はまだある。まとまった旅費は必要だ。現状の俺の『真っ当な』稼ぎだけで工面するのは到底現実的ではない。

「イヴリーン」

「呼びましたか」

 不機嫌そうな声音が、ベッド下の物陰からずるりと現れた。首都に送付する報告書でもしたためていたのか、メイドの手にはペンと書きかけの便箋があった。

 彼女の分の夕食、口をつけていなかったもう一串を渡してから、本題をたずねる。

「そっちの手応えは? 軍から金、もらえそうか」

 礼も言わずにもそもそとほおを動かしながら、イヴリーンはにべもなく即答した。

「なしのつぶてです。捕虜を一人捕ったと報告しましたが、有益な情報源とは言い難い結果に終わりましたので、追加資金は小遣い程度かと」

 捕虜とは、先日イヴリーンと戦ったパトリツィアのことだ。あの家出娘は騎士団に加入したばかりの新参で、手紙で指令と駄賃をもらっていただけだったらしい。クロニカのひだりでも読んだが、残念ながら、うそはついていないようだった。

「請求は続けますが、やはりしばらくは貴方あなたの稼ぎが頼みになりそうです。分かったらもう少ししようを出してください。薄給男」

 そう言う彼女はつい三日前、ウエイトレスのバイトをクビにされていた。本人は皿を割ってもいないのにと憤慨していたが、愛想が絶望的にないせいだとは黙っておく。

 ……さらに後日、街中のいたる所のカフェの立て看板に、彼女の名前と似顔絵、雇い入れお断りの旨、そして殺人紅茶に注意の警告を発見したことは、もっと黙っておく。

 丁度その時、イヴリーンの影から、くだんの金髪の生首がにゅっと現れた。

「どうやらお困りのようですわね!」

「呼んでません」

 瞬間的に放たれた背面飛びかかと落としを間一髪、慌てて影に潜って回避するパトリツィア。そして再びメイド服の背後から、生首だけが顔を出す。

「ちょっ、た、タンマですわ! 反応が塩を通り過ぎてはや殺しにきてるんですけど!?

「無論そのつもりですが」

 黒いスカートが翻り、いつせんするはくせきの足刀。影に沈んで逃れる金髪。そして再出現。

 そんなモグラたたきをしばらく演じた後、ついにパトリツィアは全身を脱出させた。

「チ、大分血を抜いたはずですが、まだ動けるとは」

「いえ……貧血で、もう……これが精一杯の、限界ですわ。し、失礼」

 そう言って、パトリツィアはふらふらとよろめきながら、クロニカの座るベッドに倒れ込んだ。そのまま少女の膝に顎をつけて、打ち上げられたトドのようにダウンする。

「あんまりイジメると可哀かわいそうよ、イヴリーン。ほら、こんなにぐったりしてる」

 まるで飼い猫をでるようなクロニカを前に、イヴリーンはいくらか気勢をがれたのか、剣のように振り上げた足を下ろした。

「まあいいでしょう。殺すのはでもできますし、遺言ぐらい聞いてやります」

 そう促されたパトリツィアは、疲れ切ったように口を開いた。

 いわく、もう騎士団に従うつもりは無いし、ちゃんと建設的な提案があると。

「でも、タダではお教えいたしませんわ」

「では、私の前で呼吸をする権利と引き換えにしてあげましょう。早く言え」

「……もうやめろイヴリーン。話が進まねえ」

 ついつい口を挟む。するとパトリツィアは、微妙に潤んだ熱っぽい視線を俺に向けて、

「で、ではライナス、代わりに私ともう一度デートを──って痛! いたいいたーいっ!!

「あ……ごめんね、つい。急に変なこと言い出すから」

 つねっていた尻から手を放し、クロニカは悪びれた様子のない謝罪を口にした。

 そうしてようやく、パトリツィアは観念したように本題を切り出した。

「海まで、馬車を借りればいいのです」

「話を聞いていましたか。そのための先立つものが、そこのしようなしの薄給では──」

 すると、パトリツィアは黒地に金の装丁のパスポートを取り出して、言った。

「お金なら、必要ありませんわ」


     2


 明くる朝。木漏れ日が、真新しいテーブルクロスに反射していた。しかし対照的に、気のせいか足元のタイルは焦げたようにすすけている気がする。

 ここは運河に面した、流行の喫茶のオープンテラス。有閑層のマダムがたむろする時間帯、俺の対面に相席しているのは、クロニカでもパトリツィアでもなかった。

「注文は以上です。あなたも何か頼みますか、ライナス」

「コーヒーでいい。……で、話ってなんだよ」

 外見だけは見目麗しい黒髪のメイド。イヴリーンは、これも気のせいか、おびえたような様子の店員にメニューを返して下がらせた。

 話がある。彼女がそう言ったのは今朝方のこと。そして現状、洒落しやれたカフェテラスに二人きり。だが、そういう雰囲気では間違ってもないのは明らかだ。

 しばしの無言が続き、俺の前に届いたコーヒーカップが契機となった。

「次の目的地。あの小娘は、海だと言っていました」

 それが? と続きを促すと、アイスブルーの瞳は僅かに細まった。

「海へ、何をしに行くのですか」

「さあな。それも本人に聞けばいいだろ」

「あのと話すやりにくさは、あなたもよく知るところでしょう」

 反論できない苦々しさを、コーヒーを一口含んです。

「私が思うに、あなた方の目的は、海の向こうなのではありませんか」

 正確には、俺ではなくクロニカにとって、だが、その言葉は図星だった。

「肯定と見なして続けます。私は立場上、それを許すつもりはありません。ですが、今すぐ小娘をろうにぶち込むつもりもありません。……実際に騎士団の構成員を捕らえることができた以上、あの娘の有用性は明白ですから」

 よって、もうしばらく利用したいのだと、メイド服の軍人は言った。

「あなたが説得しなさい。彼女が国内にとどまるよう。そうすれば、悪いようにはしません」

「……俺が?」

 実に腹立たしいが、出会ってから今まで、クロニカには振り回されっぱなしだ。とても説得できるとは思えない。そう伝えると、イヴリーンはなぜかあきれたように言った。

「はあ……まあいいでしょう。どちらにせよ、海の先へ逃げるつもりなら、私は強硬手段に出るだけです。忠告しておきますが、邪魔をするなら詐欺師ごとき、容赦はしませんよ」

 そんな警告をされるまでもない。海に着く、そして約束通り記憶を取り戻す。それだけが俺の目的で、アイツのその後の運命など、最初から知った事ではないのだから。

 コーヒーが、半分ほど減った。ところで、とイヴリーンが言った。

「ライナス。あなた、姉がいるのですか」

「……どこで知った」

 言ってから愚問だと気付く。俺の過去を暴き得るモノなど、心当たりは一つしかない。

「そうですか」

 けれど、イヴリーンは短くつぶやいたきり、そこでぱたりと言及をとめた。

 興味がないなら、どうしてわざわざ口にした。そんな抗議を飛ばそうとした矢先、再び現れた店員が、お待たせしましたとテーブルに乗せたのは。

「……おい、ちょっと待てなんだこれ」

「あの小娘が食べていたのを思い出したので、頼んでみました。私のおごりです。どうぞ」

 そう言いつつ、大きなサンデーグラスに山と盛られた生白いクリームとフルーツのさんてんを、イヴリーンは大きくスプーンですくって口に運んだ。しかしすぐに顔をしかめて、半分ほど残っていた俺のコーヒーで流し込んだ後、一言。

「やはり、甘いものは嫌いです。……残りは本当にあげますから、遠慮なく」

 そう言ってイヴリーンは口元を拭い、金だけ置いて影の中に消えた。

 ……一人残された俺の胃がもたれたのは、言うまでもない。


     3


 行儀のよいていてつの音が、街の門前で停止した。

 ハンチングを外して席を降り、丁重にお辞儀した中年の御者に、パトリツィアは黒いパスポートを手慣れた優雅さで示し見せた。

 パトリツィア=ウシュケーン。かつて三柱の大貴族からちようあいを受けてきた南部四大公家の一角、ウシュケーン家の一人娘。

 王国時代に比べればかなり削減されたとはいえ、いまだ広大な領地を所有する実家は、革命後も国内トップクラスの富裕層に属する、とは本人談。

「ですから、当然持ってますわ。共和国馬車協会のVIPフリーパス……家出するとき、きちんととうさまの財布からチョロまかしておきましたの」

 得意げに微笑ほほえんだ不遜な口元に、俺は少しだけ感心したように言った。

「案外たくましいんだな、あんた。そうだ、実家の口座とか分かるか?」

「さり気なく何を聞いているのよ、馬鹿」

 言った途端、小さなブーツの爪先に、すねしたたかに蹴られた。

 先日までの宿暮らしから一転、俺たちは今、超が何個ついても足りない高級客車に乗り込んでいる。近年、蒸気鉄道に押されつつある旅客馬車業協会。彼らは生き残りをかけて、富裕層向けの新サービスにかじを切った。年会費二千ポンドと引き換えに、大陸中のほぼすべての都市で高級馬車のフリーレンタルができる定額利用制度サブスクリプシヨンだ。

「なんだこの座席、全部本革だ。つかどんなサスペンションしてんだ全然揺れねえぞ」

「成金趣味ですね。気に入りません」

「広くて景色も素敵! あ、ドリンクサービスもあるわ! ねえライナス、ココア取って」

「あのー、皆さま。一言ぐらいお礼があってもいいんじゃありません?」

 イヴリーンは鮮やかに無視し、クロニカは豪華な内装に夢中。俺は少しだけ同情して、小さく礼を言った。そうしたら抱き着かれたので引きがす。うっとうしい。

 ほどなく、短いむちの音がして、二頭立ての箱はゆっくりと動き始めた。

 俺の隣に座ってそわそわしているパトリツィア。足を組んで黙り込んでいるイヴリーン。そしてあかゆきの少女は、俺に背を向けたまま車窓の景色にかぶりついていた。

 もうすぐ、この旅は終わる。

 クロニカは、普通の貴族とは何かが違う。どうしてがんさいぼうなどと呼ばれ、狙われ、〈王〉の復活に関わるのか。そして俺に流し込まれたあの意味不明な暗黒は一体、何なのか。

 旅は終わる。けれど、俺はまだ何一つ、この少女の事を分かっていなかった。

 ふと、膝の上に置いていた、少女からもらった帽子が視界に入った。

 ……やはり俺には似合わない。ならばこの感情は、詐欺師に相応ふさわしくないのだから。

 その時、そういえば隣に座っていたパトリツィアが、おずおずと話しかけてきた。

「あ、あのウィ……ライナス。の、喉は渇いていらっしゃいませんか」

「ん、ああそうだな。じゃ、なんか取ってくれ」

 車内前方に取り付けられた、飲料棚ドリンクバーを指して言う。パトリツィアはぱあっと顔を明るくして、密栓されたレモネードの瓶を持って来た。

 そんな俺たちに気付いたように、対面のイヴリーンがかすかに目線を上げた、直後。

「はい、イヴリーン。コーヒー、飲みたいでしょ?」

「どうも小娘……タイミングが完璧すぎて逆にむかつきます」

 黒白のメイドはややへきえきしたような無表情で、受け取ったコーヒーに口をつけた。

 そんな彼女の態度に、パトリツィアは思わずという風に苦言を呈した。

「まったく、他人に給仕させるなんてとんでもないメイドもいたものですわね。まあ、それも栓無き事ですか。あなた見るからに家事とか下手そうですし」

「は? 別に下手じゃありません、得手不得手がいささかはっきりしているだけです」

「あらそうですの? じゃあ得意な事は?」

「殺しと、お茶をれることです」

「その二つを並列させている時点で明らかにお察しですわ……でも、ふーん、お茶の腕がご自慢なら、賞味してあげてもよろしくてよ。わたくしも、ちょうど喉が渇いてきましたし」

「待って。あのね、本当に善意からの忠告だけど、やめておいた方が……」

 冷汗を浮かべたクロニカが口を挟む間もなく、イヴリーンは席を立って、心なしか揚々と、影の中からティーセットを取り出し始めた。

「構いません。まだあなたがこの世にいるうちに、特別に、そうしてあげます」

「何か一々引っ掛かりますが……いいでしょう。お手並み拝見ですわ」

 数分後、上品にソーサーを構えたまま、たったの一口で廃人のように固まったパトリツィアの手から、イヴリーンはそっとティーカップを取り上げて、自ら飲みほした。

「ふむ。やはりあなたごときにはしすぎたようですね」

 などと意味不明にのたまうメイドを見て、俺は先日の会話を思い出した。

 海外へ、クロニカは逃げようとしている。それを思いとどまらせなければ、予告通り、イヴリーンは強硬手段も辞さないだろう。

 ……だからどうした。やはり俺には関係ないのだ。金の切れ目が縁の切れ目。約束が果たされた後でクロニカがどうなろうとも、痛む心など持ち合わせていない。

 むしろ清々するぐらいだ。ようやく、処理できないまま抱え続けてきた、この胸のわだかまりと、おさらばできるのだから。

「……」

 自分でもよく分からないため息とともに、窓枠に肘をついて、外の景色を眺めやる。

 いつの間にか、空には灰色が広がっていた、そして、冷たいしずくが窓をたたきだす。

 雨が、降り始めていた。

 車輪がぬかるみを跳ねる。窓を流れる水の粒。湿った灰色が、あの日を想起させる。

 故郷の家を思い出すように、そこに自分の居場所を確かめるように。俺は思い出す。

 ──あの日も、雨が降っていた。

 降りしきる冷たいつぶてが、責めるように窓を叩いている。長い息を吐いて、血にまみれたナイフを机に置く。真っ赤に染まったシーツから垂れた、まだ温かい水音が床を汚す。

 深く切り裂いた彼女の喉元は、もう一つの口のように開いていて、そこからあふれる声なき言葉はきっと、裏切りへの憎悪以外に有り得ない。

 奇妙な熱と虚脱感。そして決定的な何かが自分の魂に焼き付いたのだと確信する。

 殺した。俺はこの手で、たった一人の家族を。姉さんを。

 世話をしなければいけない半病人。彼女は、邪魔だった。

 そのくせ、いつまでもキレイ事の道徳を押し付けてくる保護者気取りは、気に障った。

 肉親だった。そして肉親だからこそ、深い部分で許せなかった。

 血れた手で無造作に、机の上のガラス瓶の貯金に手を伸ばす。べっとりと赤く汚れた瓶の中で、コインが鳴った。

 鼓膜にこびりついたその音が、許されざる福音が人生を呪ったこの日から、俺は取り返しのつかない道を歩き始めたのだ。

 金のためなら何でもする。良心の欠片かけらもない外道。最愛の姉を、最低の形で裏切ったことにさえ、一片の罪すらも感じない悪党。

 詐欺師、ライナス=クルーガーとして。


     4


 馬車での旅は、丸二日ほど。目的地に着く頃には、雨はとっくにんでいた。

 拡大し続ける外洋交易と文化交流の最前線に位置する西部海岸の港湾都市たちは、今や首都を要する国内中央よりも政治経済的に重要かもしれない。もちろんクロニカの目指す、蒸気帝国エルビオーン行きの船便も、そうした港街から出ている。

 しかし俺たちは、その手前で馬車を降り、整備された街道も外れていた。

 砂混じりの草地を踏み、潮風の存在を感じながら、丘を幾つか越えた先にあるはずの光景へと歩いていく。先頭を歩く小さな背中へ、俺は問いかけた。

「おい、港はあっちだぞ」

「いいの。まずは砂浜が見たいから」

 少女の気まぐれには、もう慣れた。隣を歩くイヴリーンが、ふとつぶやくように言った。

「海には、何があるのですか」

「そりゃ海水だろ。俺も初めて来るけどよ、お前もか」

 この国の人間の大半は、海を見たことがない。繰り返すが、王国レガートス時代の鎖国政策のせいだ。海岸から内陸四マイルを禁足地とされていたせいか、革命後も相変わらず、海は多くの人間にとって縁遠いままだ。

「ふふーん。ご存じないのですねお二方。海はとっても広くて、カモメが鳴いているのです。そして恋人同士が砂浜で追いかけっこするのが最新の作法だそうですの」

「……さてはあんたも初めてか」

 そんな、情緒の欠片かけらもない俺たちの会話に、振り返った少女の笑顔が告げた。

「私ね、ゆうが見たいの」

 レースのリボンで胸元をめた、白いブラウスと黒いスカート。こげ茶をした編み上げブーツが軽やかに砂を蹴りながら、謡うように言った。

「水平線の先で、ルビーの色した火の玉が、銀色の海に溶けて一つになるのを見届けて、それから波の音を聞いて、砂の熱さを裸足はだしで感じながら、思いっきり、飛び込んでみたい。それがもうすぐかなう、私の夢。素敵でしょう?」

「……かもな」

 ようやく海が見えたのは、昼を割った太陽が、丁度、西へ大きく傾いた時だった。

 白い丘のてっぺんから見えたのは、オレンジ色の空と、濃藍の海原。

 木霊する波の音が、吹き付ける潮風が、実感となって肌に染みる。

 視界の両端をぶち抜いてどこまでも続く水平線に、この世とは、こんなにも広かったのだといやおうなしに自覚させられる。

「いい景色ですわね! さあライナス、私と一緒に砂浜ラブラブ追いかけっこを──」

「少しは空気読みなさい」

 イヴリーンがすぱんと金髪の頭をひっぱたき、抗議の声が上がる。

 二人を無視して、俺はクロニカの方を見た。すると、

「? ……クロニカ、おい!」

 少女はもう俺達には目もくれず、小高い丘を勢いよく駆け下りていた。砂浜へ、打ち寄せる波へ、その先へ広がる海と夕陽の境界線へ。

 ひもを外したブーツを靴下ごと脱ぎ捨てて、ざぶざぶと、膝までたくし上げたスカートが躊躇ためらいなく波をかき分け、刺すほどに鮮やかな夕べの水面に吸い込まれていく。

 人の目では、どうせそこまで遠くも深くも見えないのに。少女にとっては違うのか。

 じっと波間に立ち尽くし、はるか水平線の先へ、永遠に続く物語を見つめて詠嘆した。

「……きれい」

 俺もまた砂浜に下りて、嘆息のようにつぶやく小さな背中へ声をかけた。

 きらめくなみ飛沫しぶきをはじいて、銀の髪先が振り返る。予告通りに赤く燃え尽きる水平線を背にして、かつてなく晴れやかな微笑が、鏡のように俺を見つめ返す。

「ありがとう、ここまで連れてきてくれて。あなたのおかげで、私の旅はようやく終わる」

 思わず息をんだのは、クロニカの声が、いつになく震えていたからだ。

 見間違いではなく、見開かれた紫水晶アメジストが切なく潤んでいた。

「だから、これで最後。ライナス、あと一つだけ、わがままを聞いてくれる?」

 お願い、と少女は透明な前置きをして、告げた。

私を殺して


     5


「えーと、聞き間違いですの?」

「場違いですから黙ってなさい」

 嘆息とともに開いた影に、パトリツィアは短い悲鳴とともに飲み込まれた。

 しかしそんな外野など、もう見えないし聞こえない。ひどい耳鳴りを感じながら、俺はじっと立ち尽くしている。海にれた紫水晶のひだりから、目をらせないままに。

「……何を、言ってる」

 聞き間違いでは、あり得なかった。クロニカは確かに、俺へ言ったのだ。

「言葉の通り。ここで、あなたの手で、私を殺して。ライナス」

 静かに打ち寄せた波際が、靴先をじわりと濡らす。

「どうしてって、顔に書いてある。無理もないわね……いいわ。知りたいのなら構わない。最後だもの。これまでの、私のすべてを教えてあげる」

 その途端、周囲を満たす海の音が、遠ざかっていくような錯覚を覚えた。

「私は、平民にんげんじゃない。けれど、貴族でもない。

 ──不死身の〈王〉を殺した癌細胞ドローキヤンサー、それが私の正体よ」

 俺の絶句と同時、おんの輝きが揺らめいて。

「〈真理の義眼アイオブザプロヴイデンス〉」

 そして視線を介して流し込まれたのは、いつかと同じ、闇の濁流だった。

 理解は及ばず、共感の余地もない。うつろにして意味不明な暗黒が、再び俺の視界を閉ざす──だが、今回のこれは時とは何かが違っていると感じられて。

 上下左右天地も知れぬ虚空に、どこからともなく、クロニカの声が響く。

『ここが、私が生まれ落ちた故郷、そして……ここが、こそが。

 不死身の〈王〉そのものなの』

 ──暗黒の中で、形を失った無数の何かが、苦痛にあえぐようにうごめいている。

 それらは、かつて人間だったものだ。まさに消化されつつある、記憶や感情の成れの果て。黒ずんだ溶けかけの精神たちが、声なき声で鳴いていた。

 そして共有された少女の記憶を介して、理解は即座に連続していく。

 ここは現実じゃない。物理的な場として空間を占めていない。

〈王〉とは、最初から、この世のにもいない存在なのだ。

『ええ、その通り。そしてこれが、不死身の〈王〉のカラクリよ。やつは最初からどこにもいない。だから誰にも殺せない、千年を経ても死ぬことはない。

 貴族たちの貴血因子レガリアに偏在しながら、その血を介して、彼らの犠牲となった平民にんげんたちの魂をらい続けてきた非実在の生物……この大陸の人間、その遺伝子に住まう寄生君主パラサイトモナク

 ゆえに、貴族とは細胞なのだ。彼らの役割は、〈王〉を構成する一部であると同時に、形なき主へ、その空虚な存在の維持に必要な、食糧をささげる役目。

 その食糧とは。俺は今まさに消化途上のそれらを目撃していた。

『死者の記憶、感情、精神の全て……つまりは私の左眼が見ているものと同じ。人のこころよ。──だから、貴族の役割とはそういう事なの。継続的に平民にんげんたちを苦しめ殺し、肉体から分離させた魂を、その血を介して主の下へ送り続ける給仕係であり、無自覚の奴隷たち』

 がくぜんと、俺はかつての王国レガートスの真相を、ついに悟らざるを得なかった。

 貴族とは、貴血因子レガリアに、〈王〉に寄生された人間たち。植え付けられた暴力衝動と残忍性は、先天的な主への食糧提供者としての役割をまつとうするため。

『──そして、私が生まれたの』

 声とともに、俺の視点はクロニカと、より深く同調しつながりはじめた。

 曖昧になっていく彼我の境の中で、俺は、「私」の誕生を目撃する。形を失い、虚無に埋没していく人間の輪郭たち。それでもかすかに残った欠片かけらとかけらが結びついていく。未練が、無念が、互いを補い合うように、一つの人格を形作っていく。

 どれぐらいったのだろう。自我を獲得した瞬間、「私」を支配したのは、当然ながら恐怖でしか有り得なかった。

 怖い、震えるほどにおぞましい。己を食らうバケモノの胃を子宮として生まれてしまったことが、消えたくなるほど恐ろしくて、しかし、未熟すぎる生存本能を抑えきれない。

 死にたくない、それは名前すら無い自分の叫びなのか、それとも食われていった犠牲者たちの代弁なのかさえ分からぬまま、形のない手足でもがき叫ぶ。

 そうしていた果てに、「私」は奇跡をつかむことに成功した。

〈王〉の食糧は、死した平民にんげんたちの魂である。よって、それらを確保するための捕食器官が、唯一存在する外界との接点となる。

 それが〈王〉の眼細胞。貴族たちの貴血因子レガリアから、目撃した犠牲者の魂を捕らえ、暗黒の胃袋へと導く食道にして捕食器官。

 その機能を奪い自らの産道として現世へ逆流したのが、クロニカのはじまりだった。

 ゆえに「私」はドローキャンサー。がんさいぼうにして眼細胞、主を滅ぼす突然変異。

「……ぐっ!! ぉ、おお!」

 現実に復帰した途端、穏やかな夕焼けの海との、とてつもない落差に膝をついた。

 見れば、隣のイヴリーンも同じものを伝えられたのか、冷汗を流してうめくように言った。

「……そうか、小娘。だから、あなたがっ」

 再び、彼岸のように隔たった波打ち際から、少女は此方へむけて言葉を紡ぐ。

「私の分離で捕食器官を失った〈王〉は、新たな食糧を取り込めなくなり、休眠状態に陥ったの。加えて、本体へのダメージはまた、直系細胞たる大貴族オリジンノーブルを弱体化させた……その結果、あの革命は成功した」

 俺を含む多くの人間の運命を変えた、革命の日の真実。その全貌をいま、たった一人の当事者の口が語り終えて。

「ここまで言えば、もう分かるかしら。革命の日、騎士団が王都から持ち出したと言われている〈王〉の遺骸。それはつまり、クロニカわたしの事。けれど、私は騎士団から逃げ出した。彼らが、私に何をする気なのか見えたから……。

 だから騎士団は私を追っているの。かつて私が〈王〉から奪ったこのひだりだけが、今となっては〈王〉をよみがえらせる唯一の希望だから」

 その途端、イヴリーンは鬼気迫る表情で、即座に少女へ声を飛ばした。

「なら、今すぐ死になさい」

「……そう単純なら、楽だったのだけど」

 すると、どこで手に入れていたのか、クロニカはたくし上げたスカートの中、内もものベルトから拳銃を取り出して、自らのこめかみにあてがった。

 待て、という暇もなく銃声が小さな頭部を貫いて、きやしや身体からだが海に倒れる。

 しかしゆっくりと、赤く濁った水面から、少女は起き上がった。血れた髪を張り付けた壮絶な微笑は、まるで呪われたようにゆがんでいて。

「死ねないの、私」

 思い出す。列車で貫かれた時、首都のホテルで脚を丸ごと失った時……あれらのは、たとえ貴族だろうと、死んでいてもおかしくはない傷なのだ。

「私はしょせんがんさいぼう、本体が消滅しない限り、私もまた死ぬことはできない。つまり、首輪を着けられてるようなものよ。……本当に、迷惑」

 一度は死にたくないとしがみついた生は、いつしか苦痛へと変わっていた。

 相手は不滅なのだから、どこまでもいつまでも追ってくる。

 自分は不死なのだから、どれだけ逃げても終わりはない。

 とつとつと語りながら、歩き疲れた旅人のような瞳が、すがるように俺を見た。

「だから……ごめんね、ライナス。私はあなたをだましていた。海の向こうへ行きたいだなんて、うそ。もう、これ以上歩くのは、疲れちゃったから」

 最初から、死ぬことが目的だったのだと、少女は枯れ果てたような涙を流した。

 そして、だらりと下げた細い右手は、いつの間にか、あの日記をげていて。

「わたし、もうほとんど思い出せない。あなたと、出会った時のことが」

 きしむようなクロニカの声に、なぜか急に胸をきむしられる心地がした。

 思い当たる節は、幾つもあった。その場その場で書きつける日記、何度も同じページを読み返す指、そして、今までの自分を語らない態度。

 記憶が、徐々に消えていくのだと、あかゆきの少女は告白した。

「私が産まれ、を奪われたことで〈王〉は新たな食糧を得られなくなった。けれど、まだ不滅のままなのはどうしてだと思う? ……やつは眠りながら、唯一つながる私の精神を消化してるのよ。記憶をかじり、思い出をかみ砕いて、自らの存在維持に必要な最低限の栄養に換えている」

 今までも歩いてきたはずの旅路は、積み重ねてきた思い出は、もう数えきれないほど消化されてしまったと、少女は語る。

 けれど歩き続けるしかない。立ち止まってしまえば、旅の思い出をつくるのをやめてしまえば、その時こそ本当に、自分の人生は跡形もなく食い尽くされてしまうから。

「クロニカ……お前、ずっと」

 そんな旅路を、一人きりで、歩いていたのか。

「あなたに、出会うまではね」

 少女のひだりが一度強く閉じられて。そして、まるで傷口のように再度開かれた、ひび割れた紫水晶アメジストの瞳から血の涙が流れ出す。

 そんな有様にもかかわらず、微笑ほほえみさえ浮かべながら、クロニカは感謝を告げてきた。

「もう、記憶として覚えてはいないけれど……。あなたのおかげで〈ほんたい〉との接続が損傷し、私に与えられる不滅性も、大分弱まったの」

 どくどくと、小さな頭部と眼球から流れ出る赤色は止まらない。細い指先で、まるで祝福か何かのように掌で己の血をすくいながら、少女は微笑み続ける。

「もちろん、まだまだ死ぬには、ほど遠いけれど……風邪を引いちゃうぐらい、今の私は打たれ弱くなっている」

 だから、もう、あと一押しなのだと。

「あなたの手でなら、きっと私は死ぬことができる。……とっくに気付いているでしょう、ライナス。今の自分の体が、ただの人間とは違うことに」

 あの時、あの列車で俺に移された〈王〉。以降、思い当たる節はいくらでもあった。これまで死にそうなおおを何度しても、どうしてか、まだ生きているのは俺も同じ。

「……私の視線を介して、あなたは〈王〉と接続した。けれど、あなたはそれを拒絶し、引きがしてしまった。私と同じく〈ほんたい〉の要素を宿しながら、けれど私とは違う、完全に独立した奇跡みたいな存在。だから、きっと……」

 言葉の続きは視線が告げた。そんな俺の手は、他の誰より深くクロニカに干渉できる。俺の手なら、最後の鎖を断ち切れるかもしれない。

「ありがとう。あなたがうそつきだったから。あの日あの時あの瞬間、あなたの仮面が、顔の無い〈王〉を欺いてくれたから……私の旅は、ようやく終われる」

 夕焼けの海を背に、晴れやかに両手を広げる、あかゆきの少女。それはまるで、この世ではないどこかを映した絵画を思わせた。

 ……いびつな耳鳴りが、いっこうにまない。どころか、増々ひどくなっていく。

癌細胞わたしは、本体が死なない限り死なない。逆に言えば、私が死ねば、〈王〉そのものも消滅する。……だから、あなたがためらう必要なんてない」

 仮に〈王〉が復活すれば、この国は、再び暗黒の王国レガートスに逆戻りする。それを防ぐ唯一の手段が、クロニカの死であり。

「私は、私であることすら奪われていくのが、すごく怖い。……それと同じくらい、そんな目に合う人がもうこれ以上、誰一人として生まれてはいけないとも、思ってるから」

 それが、今まで虚無の胃底で溶かされてきた無数の未練と無念が構成する、誰でもない年月記クロニカの偽らざる本心なのだと、少女は切々と告げた。

「やりなさい」

 固まっていた俺の背中を、イヴリーンの声が冷たく押しやった。それに追い立てられるまま、俺は一歩、れた砂浜を踏み出した。

 二歩、三歩と。やけに遠いその距離を歩きながら、しかしいまだに分からない。

 詐欺師ライナス=クルーガーは、金のためなら何でもする。必要ならば欺き、だまし、奪う。実の姉だって殺したくず人間が、何を今更ためらうのか。

 俺はどうしても分からないまま、気付けば少女の前に立っていた。

「……俺の金は、どうなる」

「心配しなくても、私が死ねば、あなたの記憶も自然と戻るわ」

 赤く輝くゆうを背負い、クロニカは俺を迎えるように両手を開いた。ばしゃばしゃと、冷たい波しぶきが胸に降りかかる。鼓動が痛い。体を引き裂きそうなほど切実に、甲高く。

「楽しかった。あなたと一緒に、旅ができて……」

 向かい合った白い首筋へ。ゆっくりと、俺は両手を伸ばしていく。

「助けてくれて、感謝してる。……あなたと一緒に食べたご飯が、しかった。れいな服を着せてもらえて、照れ臭かったけど、ホントはすごくうれしかったの」

 指先が、花を手折るように細い喉首をつかんだ。

「この間は、ごめんなさい。でもその帽子、やっぱり良く似合ってる……受け取ってくれて、ありがとう」

 少女は上目遣いに俺を見上げ、それから綻ぶように、はにかんでみせた。

 おんひだりが伝えてくるのは、共に過ごした時間の面影。かけがえのない、これらを形あるまま抱きしめて死にたいのだと、潤む瞳が切々と訴えていて。

 俺は、なにかを断ち切るように、指に力を込めていく。

 押し込んだ親指が気道を塞ぎ、クロニカの声と息が、詰まるように止まった。

────か、ぁっ……

 小さな手のひらから、重い水音を立てて、日記が海に落とされた。

 いびつな耳鳴りが、ゆがんだコインの絶叫が、頭の中でずっと鳴りやまない。

 脳裏に響く、言語ならぬ警告に脅されるように、俺はいたいけな細首を窒息させていく。

 ──もう何も聞くな。もう何も見るな。早く殺せ。

 ひび割れた左眼はいつも通り、俺の記憶と心のすべてを写し出していた。

 ──さもないと、お前は気付いてしまう、見抜いてしまう。

 そこにいるのはやはり詐欺師。金のためなら恥も悔いも感じはしない、人のカタチをしたほういつざん。だというのに、なぜ、

 少女の右目に写った俺は、泣いているのだ。

「──ぁ、あ」

 その瞬間。俺自身の内側に、致命的な亀裂が音を立てて崩壊した。

 よって、俺はついに見てしまう、見つけてしまう。

 紫水晶が映す自身の記憶の中に、いままでかぶり続けてきた詐欺師の仮面の裏側に。

 ずっと目をらしてきた、ライナス=クルーガーという男のしんじつを。


     6


 あの日は、雨ではなかった。

 階段を上る。胸に抱えた焦りとは裏腹に、ためらうような重い足取りで、俺は三日ぶりにボロ部屋へ帰宅しようとしていた。

 自分が間違っているとは、思わない。けれど言い過ぎたとは感じていた。もう一度、姉さんと話しをしよう。そうしなければいけない。

 そう思いながらドアノブを回した。建付けの悪い扉がとがめるようにギィと鳴る。

 部屋には、誰もいなかった。そして、俺は思い知った。

『……? 姉さん、俺だ。……──っ! 姉さんっ!!

 そばで支えられなければ、生きていけないのは、俺の方だったと。

 空のベッド。物の少ない部屋の中はしかし荒らされたような気配はなく。テーブルの上には、姉が貯金をめていたガラス瓶と、一枚の手紙があった。


『ライナスへ。

 あなたがこれを読んでいる時には、私はもう二度と、あなたと会うことはない場所にいるでしょう。その方が、いいと思います。

 ごめんなさい。色々書きたいことは有るけれど、未練が湧いてきそうなので、一番大事な事だけを伝えます。私は、最低な姉だったね。あなたが悪い事をしてしまったのも、元はと言えば全部私のせいなのに。頭ごなしに叱ったりして、本当にごめんなさい。

 でも、あなたが間違ったことをしているのは変わりません。一日でも早く、その過ちに気付いてくれるよう願います。

 そのために、私はあなたの前から消えることにしました。でも、悲しまないで。もういいんです。今まで黙っていたけど、私の喉はもう治らないらしいの。いつか、あなたと一緒に舞台に立ちたかったけど、それは夢のままにしておきます。

 では、お元気で。これからは、どうか自由に生きてくださいね。

 あなたの姉より。

 追伸 いままでありがとう。愛してる。大好きだよ』


 くしゃりと、握りしめた拳の中で、震えた筆跡の手紙がつぶれた。

『ふざ、けるな……ふざける、なよ。姉、さんっ……!

 それから数週間。俺は方々を全力で駆けずり姉を探した、幸い、手がかりはあった。

 ガラス瓶に溜まっていた、金だ。それ以前の最後に見た記憶では、大した額など入っていなかった。それがほとんど一晩で倍以上になっていた、つまりあれは、契約金だ。

 俺が、姉が自ら身売りしたしようかんを突き止めたのは、ちょうど一月がった時だった。

『おい。何だよ、ここ。姉さんはどこだ』

 姉を知っているという女に、俺は金を払って案内をさせていた。しかし連れていかれたのは、だだっ広い街中の空き地。革命時の暴動で舗装がはがれたまま、き出しの黒土がそこかしこで掘り返されているのが見えた。

 ふと立ち止まった女は、無造作に地面を指さした。

『多分、その辺』

『……何を、言ってる』

 背筋を突き刺した予感を無視して問いを重ねると、女はめんどうそうに言った。

『埋めたのよ。先週、その辺に』

────

『みんなそう。病気とか客に殴られたケガとか、飲みすぎとかで死んだら埋めるの。ここはちょうどいい広さだし、土もあるし。あなたの姉さん。先週、血を吐いて倒れたまんま、起きてこなかったの。だから、私が埋めたげた』

 冷えきった土の上に、糸の切れた体が崩れ落ちた。生きてきた意味が、手足をいた地面もろとも消失する。涙よりも先に、俺は叫んでいた。

『ぁ、ぁ……ぁぁ、お、ぅ、おおおっあああアアアアッッ!!

 心がきしんで砕け散る。俺のせいだ。俺があんな事を言ったから、言ってしまったから。

 元気に、自由に生きろだと。出来るわけがない。それが姉さんの最後の望みだとしても。

 俺には、無理だ。姉さんのいない人生を生きていくなんて。伝えきれなかった言葉と思いを抱えたまま生きていくなんて、「俺」には、とても──。

 だから一番最初に欺いたのは自分自身

 創り上げた偽りの記憶を、仮面として身につけた。

 俺は金のためなら何でもする外道なのだから、最愛の肉親をこの手で殺そうが、何も思わないし感じない。だから悲しくなんてない。そう、信じ込むために。

 それが、詐欺師。ライナス=クルーガーの、正体はじまりだった。


     7


「ぁ、あ、ぁぁあああアア!」

 大きくこじ開けられた喉からほとばしったのは、あの日の叫びと地続きだった。

 突き飛ばすように、締め上げていた細首から手を離す。そして反射的に、自分の顔へ。

 そこにある存在しない仮面を必死で押さえつける。しかしもう、止められない。砂粒のように指の隙間から流れ出していく見えない質量を、とどめるなど無理な相談だった。

 思い出してしまったからだ。今までの俺が、一体誰をだましていたのかを。

 そうだ。俺はずっとうそをついてきた。欺いてきた。誰よりも何よりも、自分自身を。

 俺は金のためなら姉さんだって殺せる、最低最悪の外道なのだから悲しみなど感じないのだと、存在しない記憶で痛みを覆い隠し、見えないコインの音で耳を塞いできた。

「俺は……俺、はっ……ぁ、ぁあぁ、あああっ!」

「ライナス……あなた、は」

 ぼうぜんと見開かれた紫水晶アメジストに映るのは、ついに素顔をさらした哀れな男。誰よりも俺自身が忘れ去り、消し去りたくて仕方なかった、弱く情けない「俺」そのもの。

「……できない、殺せない、俺には……もう、金なんて、どうだっていい」

 打算も恥も外聞もなく、嗚咽おえつとともに喉が動く。何かに触れれば、容易たやすく破けてしまう。き出しの心を守る仮面はもう存在しない。ここに実在する、ひどく愚かで弱弱しい、何者でもない男の口から本音がこぼれ落ちていく。

 今まで闇雲に積み上げてきた金は、ただ己の過去から目をくらますための口実に過ぎず。

 そんな建前がなくなった以上、もう俺の手に、彼女を殺せる理由なんて、何もない。

「それでもっ! ……お願い、何でもするから……私は、もう、生きたくないの」

 どこか責めるような懇願に、俺が絞り出した返答は、みっともなく言い訳じみていた。

「……できない」

「なんでっ!」

 だって。

「お前と、旅したのが──楽しかった、から」

 一切の思考を挟まず、気付けば口にしていたその言葉に、クロニカは今度こそ絶句して。

「俺を……もう、一人にしないでくれ」

 かすれた本心を、今こそ何もかも見通した少女の表情が、あきれたような怒ったような、こんとんとした色彩にくしゃりとゆがんだ。

「馬鹿ぁっ! 馬鹿……馬鹿馬鹿、大馬鹿っ……! あなた、詐欺師でしょう! なんで。どうして、これで最後なのに、これで! これで……何もかも終わりなのにっ!」

 つかみかかるように、波を蹴立てて猛然と歩み寄った拳が、俺の胸元を何度もたたく。

うその一つも、つき通してくれないのっ!」

 軽い、小さな拳だ。しかしそこに込められた痛切が、その下の心にひどくみた。

「すまん。悪い……でも、頼む。お願いだから」

 死にたいなんて、言わないでくれ。

 そのためなら何だってする。どんなわがままだって聞いてやるから、なあ──

──っ!? 伏せて!!

 瞬間、上目遣いにこちらを見上げたクロニカは、とつのように俺の胸襟を引っ張った。

 不意を突かれた上半身が容易く折れて、顔面から塩辛い水面に突入する、その寸前。

 背後から風を切り裂き迫った何かが、後頭部を熱く擦った感触がした。

っ……!

 すぐさま海水から顔をあげ、振り返った先に俺は見た。

 砂浜に立ち、抜き身の殺意をあらわに、こちらを見下ろす一輪の黒白。

 イヴリーン=ハベルハバルを。


     8


 思えば、こいつはずっと、こういう場合に備えていたのかもしれない。

「私の言いたい事は、お分かりですね」

 短い旅の間、このメイドは俺たちに対して、どこか一線を引いていた。

「ライナス、お前が殺せないのなら、私が殺します。さっきの話を聞くに、お前の意思でなくとも、動けなくした肉体を使えば、間接的には私でも小娘を殺傷可能かと思いますが、どうでしょう? ちなみに返答は不要です。これから確かめますので」

 俺は考えるより先に、れたクロニカのスカートに手を突っ込んだ。内もものベルトから素早く拳銃を抜き取る。幸いにもパーカッション式だ、多少濡れていても発砲できる。

 しかし向けられた銃口を、イヴリーンは無表情のまま鼻で笑った。

「お思いですか。そんな玩具おもちやで、私を相手に、抵抗らしきものが出来ると」

 あきれたような哀れみとともに、白いエプロンドレスの足元から、黒いやいばが立体化する。

「やめて、イヴリーン! 二人とも、お願いだから──」

「……無駄だ、クロニカ。こいつが、言葉程度で止まるかよ」

「それはあなた次第です」

 意外にも、イヴリーンは交渉の余地をにじませた。

「小娘、お前は生かしておけない。それが、行政の暴力代行者たる私の責務です。ですが、詐欺師。前にも言いましたが、お前の方の生き死になどは、別にどうでもいいのです」

 よって、と底冷えのする声が、俺に命のてんびんを突きつけた。

「殺しなさい。見逃してやりますよ」

 誰が誰を、など問うまでもない。だから交渉は、決裂以前の問題だった。

 無言のまま、片手に銃を握り締め、ざぶざぶと波打ち際から砂浜へと上がる。

 作戦は以下の通りだ。その一、何とかして近づく。その二、これまた何とかして至近距離から全弾ぶち込み、後はそのまま、殴って蹴って締め上げて、とにかく死ぬまで殺す。

 そこまで真剣に考えて、思わず奇妙な笑いが漏れた。いや、絶対無理だろコレ。そこらの鼻タレ小僧だって、もう少しマシな作戦を思いつくはずだ。例えば、逃げるとか。

 だから、これはもう、まごうことなきなのだろう。

 がれ落ちた仮面とともに、詐欺師として歩んできた人生の意味も価値も失われた。

 今の俺に残されたものは、ついに思い出してしまった、あの日の後悔だけだから。

 だから、今度こそ事実として、大切な者をこの手で殺すぐらいなら──。

「待って──ライナスッ!!

 甲高いクロニカの悲鳴に押される形で、腰を折ってその場にしゃがむ。まるで、合図とともに走り出す陸上競技者のように。

 それではタイミングも何もかも丸わかりだ。はたから見れば自殺行為に等しく、だがしかし、俺が背後に隠していたのはクロニカだけじゃない。

「っ!!

 ゆう。逆光が、正面に立つイヴリーンの視界を焼き、一瞬でも閉ざしてくれれば十分だ。

 れた靴裏が、引き潮を蹴立てた。ほんの十数フィートの距離を死力で駆け抜ける。

 潮風に揺れる黒髪に肉薄し、その顔面に向けて引き金を引く間際。

「はい。悪いけど普通に無理ですね」

 音もなく、影も形もない一撃が顔面を強襲した。だけでなく、喉、腹、そして足へと連続する衝撃に、なすすべもなく砂浜に沈められる。

 折れた鼻から血を流す俺を、イヴリーンは拳を払ってつまらなそうに見下した。

「知りませんでしたか。私の武器は貴血因子レガリアだけではありません。というかむしろ、舞闘こつちの方が主力武装メーンウエポンですので」

 何をどうされたのかも分からない速度の徒手空拳、それをたたまれたのだと気付いた時にはすべてが遅く。いや、きっと最初から詰んでいたのだろう。

 髪をつかまれ、血と砂で汚れた顔が引きずり上げられる。凶獣のような瞳が狩人かりゆうどのような冷徹さでじっと俺をのぞみ。そのまま首を、体ごと背後へ向けられた。

 反転した視界の先に、力なく海にしゃがみ込んだ少女と目が合った。

 泣き腫らしたりようが俺を見る。その胸に、取り落としていたあの帽子を抱きしめながら。

「もう一度言います。殺せば、助けてやる。そしてまた、詐欺師に戻りなさい。安っぽい英雄ごっこなんて、似合いませんよ」

 首に突き立った爪がギリギリと、痛みとともに最後つうちようを食いこませてきた。

 一線を越えた緊張感が、周囲をひどく静かにした。ある日突然の休暇を言い渡されたような、余りにも無情な静寂しじまが今、俺という人生を閉ざそうとしている。けれど。

「……下手くそが。もう少し気の利いたセリフ、言えねえのかよ」

「最後まで減らず口ですか……。まあ、短い付き合いですが、あなたらしい」

 べったりと密着した死の気配を無視して、俺は握ったままの拳銃へ意識を傾けた。

「では、さようなら──馬鹿な人」

 事態が、動く。俺のすべてが決着する。その刹那。

「〈真理の義眼アイオブザプロヴイデンス〉、第三眼サードアイ

 溶けた鉄のように、網膜を刺した熱さがいやおうなく、骨の髄へと注ぎ込まれていく。

 そして、身に覚えのないはずの記憶が、一切のよどみなく俺の肉体を導いた。

「! な、っ……!?

 背後への肘鉄とともに首を掴むイヴリーンの手首をひねって外す。そのまま砂を蹴立てた爪先で、馬脚のように彼女の顎を蹴とばし、前転を決めながら脱出した。

 気付けば俺はぼうぜんと、逆にあおけになったイヴリーンを見下ろしていた。

 迅雷のように過ぎ去った己の動作に困惑する。しかし以前とは違った。訳も分からず流されているのではない。確信のごとき経験が、俺の手足を達人の境地へ導いている。

「まさ、か……」

「何っだッ、そりゃぁッ!!

 跳ね起きるイヴリーン。間髪入れず強襲してきた拳に、しかし反応が追い付いた。

 払い、続く二撃目をかわし、蹴りを蹴りで相殺して拳を交わし合うこと十数連撃。勘と無意識の領域にて、影も残さぬ徒手空拳の攻防を実現する。

 そして俺とメイドは、どちらからともなく自然に、すれ違うように距離を空けた。

 宮廷舞闘ノーブルクロス。知らぬ単語が頭に響く。これは、つまり、

「どんなイカサマです。一目、見る事すらできなかった分際で、一体どうして次の瞬間にはマスターしてやがる……っ!

 その身で積んだプライド故か、みするイヴリーンに応えたのは、俺ではなかった。

「彼に移したのよ。あなたの技術と経験を」

 水音を引き連れながら砂を踏んだ、クロニカだった。

こんぱく転写……これが、私の奥の手。誰かのこころを、別の誰かに移し替える」

 ほとんどころすような視線を流して、クロニカはそっと、俺の前に立った。

 交差した細腕の中で、胸に抱かれた黒い帽子が潰れている。

「勘違い、しないで」

 与えた力は、あくまで一時的に窮地を脱するためだと、少女は諭すように続けた。

「私はあなたに、戦う手段をあげたんじゃない。……技量が互角になった程度で立ち向かえば、確実に死ぬわよ」

「だろうな」

 俺だって分かっている。貴血因子レガリアの有無。彼女と俺を隔てる生物としての性能差は、まだまだ天と地ほどに開いているのだ。しかし、

「足りない分は、その場しのぎで埋めてやるさ。取り繕うのは得意分野だ」

 強がりを自分に言い聞かせながら、俺は拳を握って、黒白のメイドへ向き直った。

 するとクロニカは慌てたように、叱るような口調で制止した。

「馬鹿っ! ダメだって、死んじゃうって言ってるのよ! ……だから、もう、無理だから、あなたが何をやっても、ここで終わりなの。終わりにしないと、いけないの」

「うるせえ」

 その一言で黙らせる。目をいたクロニカへ、俺は心の底からためいきをついてみせた。

「もうそろそろ、うんざりなんだ。いつもいつも、俺が何でもかんでも言う事聞くと思うなよ。いい加減、勝手にやらせてもらうぜ」

「なっ……! で、でもあなた、さっきは何でも言う事聞くって──」

「言ってない。思っただけだ。……そんで今は気が変わった」

「こ、この……あなたって男は! 本当にああ言ってはこう言うばっかりで……っ!

 顔を赤くして憤り、しかし一転、か細くなった声が、俺の胸にすがりつく。

「イヴリーンは、本気よ。真実一片の容赦なく、あなたを殺す」

「ああ」

「それに、もし仮にあなたが勝ったところで、私の運命は変わらない」

「そうかもな」

「そうよ。わたしは、最初から人間なんかじゃない、貴族でもない。ただの記憶の集合体、存在しない虚構のヒトガタ、つかがんさいぼう……あなたとの旅の記憶だって、いつ〈ほんたい〉に消化されて、私の自我もろとも消されてしまっても不思議じゃない」

「……」

「だから、ぜんぶ無駄なきなの。なのに、どうして──」

 あなたは、命を賭けるのか。そう問いかける瞳に、俺はしばしの間をおいてから、答えた。

「姉さんを失った過去に後悔なんてしていない。そう思い込むためだけに、俺は人生をささげてきた。……けど結局、最初の一歩目から矛盾してたんだ。悔んでなんかいないと思い込むほど、それが何より後悔を証明するんだからな」

 愛も情も、人の心の価値なんて、カタチの無いものはどこにも存在しない。ずっとずっと、俺はそんな理屈を重ね塗ってきた。

 そして予想通り、クロニカのひだりには、決して、目には見えないものが映っていた。

 この期に及んでは、もう認めるしかないだろう。欺き、し、目をらし続けてきた果てに、それでも自覚せざるを得なかった、たった一つの真実というものを。

「俺は、お前と一緒に、これからも旅を続けたい」

……っ!

 そっと、クロニカの胸から帽子を取り上げて、誓うように頭に乗せた。

「だから決めたよ。お前が、これ以上追われて生きていくのがつらいのなら……思い出を奪われながら、旅をするのが耐えられないって言うなら、いいさ」

 言葉を切って、あえて間をつくる。より強く、自分自身に刻み込むため。

「俺が、騎士団を、〈王〉を倒す。そんでお前の記憶も、不死身も、なんとかしてやる」

 瞬間、俺を除く二人分の絶句が重なった。

「どうやるかなんて知らねえよ。不可能だと言われりゃそうかもな、けど知った事かよ。

 俺は、そうしたい。だから好きにやるだけだ」

 偽りない気持ちを、声ではない視線で、俺は赤く潤んだ左眼へ伝えて。

「……ああ、つかよ、そもそもどうして俺だけこんなにしやべらされてんだ。

 クロニカ、お前こそ、ホントのところどう思ってんだよ」

「え……」

「お前自身はどうしたい。ここで終わりにして、真実うそ偽りなく本当に、悔いはないって言えるのか」

 その問いは、目の前の少女にとって、少しきようすぎたかもしれない。

 俺がどう答えて欲しいのかなんて、正直過ぎるほど見え透いていただろうから。

「そんな、そんなの……私は」

 しゆんじゆんするように、クロニカはあと退ずさった。はらはらと、あかゆきの髪の間から涙が落ちる。何度も口ごもりながら、押し殺していたのだろう感情が、絞り出すように吐き出される。

「後悔なんて、あるに決まってるじゃないっ……!

 泣きじゃくる。いつも微笑を浮かべていた相貌は、熱く激しくどこまでも崩れていき。

「あなたと一緒に歩くのが、楽しかった……! 景色が、食べ物が、着る服が、何でもないぜんぶがぁっ……一緒にいるだけで、ずっとずっと、かがやいて、感じられたからっ」

 終わらなければいけないのに。終わりたかったはずなのに。

「これ以上忘れたくない、消したくない……なのに、なのに、でも、まだ、歩きたい」

 くし続けることに耐え切れなかったはずなのに、それでもと。

 いつの間にかこんな気持ちを抱いてしまったのだと、責めるようなひだりが俺を見た。

「あなたと一緒なら、たとえ忘れながらでも、どこまででも旅をしたいっ!」

 なんてきような男だろう。なんて極悪人だろう。こんなことを言わせるなんて──そう非難する視線に、俺はこみ上げる感情をみしめて、そっと少女の頭をでた。

「ありがとな。……もう、大丈夫だ。後は任せろ」

 同時、唐突に響き渡った快笑が、俺とクロニカの間を断ち切った。

 振り返る。十歩を隔てた砂浜に、犬歯をいたイヴリーンがあきれたように笑っている。

「傑作ですよ、あなたたち。三流芝居は、見るに堪えない」

 相変わらず、匂い立つ殺意はじんも揺らがず。けれど声音にはどこか爽快さを乗せて。

「口先だけの詐欺師が、無力に等しい小娘を守りながら、騎士団に、〈王〉に挑み、勝利すると……面白すぎて、思わず殺したくなる冗談です」

 そこでかぶりを振って、イヴリーンは笑みを消して、切っ先を突きつけるように言った。

「ですが、もしも本気で言っているのならば──証明してみろ。この場で、この私を倒し、不可能を可能にすることを」

 指先が、そっと黒髪の頭上でヘッドドレスを直し、握られた拳が告げてきた。

「私は、黒箒メイドだ。この国に残るゴミどもをそうて殺す、血れた一振り。阻むのならば容赦しない。ライナス=クルーガー……お前を、処刑します」

 不意にいだ海風。すぐ傍らで、クロニカが息をむのが伝わった。

「……お願い──死なないで」

「ああ、何とかするさ……だから、待ってろ」

 安心させるように、俺は努めて気軽に少女の肩をたたき。

 そして、まだ持っていた銃をこれ見よがしに投げ捨てた──砂浜に落ちる乾いた音が、戦鐘ゴングの代わりを務めて響く。

 その、直後だった。

 とつかばうように、左眼を開いた少女が、俺を突き飛ばして、

 音を振り切り飛来した影のやりが、クロニカを刺し貫いたのは。


     9


「──っ、クロニカッ!!

「どうせ死なないのでしょう。なら、放っておきなさい」

 俺を狙い、そして外した影槍は少女の腹部を貫いて軌道を変え、そして彼女自身が駆け下りてきた丘の断壁へ、たつけいのように細い肢体を縫いめた。

 そこに込められた次善の意図は、今や明確に理解できた。

 不死身では人質にならない。だから逃げないよう拘束する。けれど己の影に収納しないのは、たったそれだけの、わずかな重量増加さえも嫌ったから。

「さもないと、あなたが死にますよ……まあ、今から殺すのですが」

 今から、一切の手抜きなく、俺をたたつぶすために。

「来なさい、詐欺師。今度は本気で、踊ってあげましょう」

 どうにか体勢を立て直し、蹴立てた砂音は二重に木霊した。俺とイヴリーン、互いのステップは全くの同時。同じ歩調、同じリズムが、調和した律動を砂浜に刻む。

 そしてすれ違う一瞬。互いが放つ拳の軌道も、そこから続く連携も、俺たちはそのすべてを知り尽くしていたに違いない。

 よどみなく紡がれる拳と肘と裏拳の三連撃を払いつつ、その場で互いの回し蹴りをぶつけ合う。回転力が乗った足刀は、しかし体重差から俺の優位、とはならなかった。

「ぐッ!!

 重い。押される。素の身体能力の差があらわになった。反射神経は転写された記憶に適応させられているせいか大差はないが、これだけはやはり覆しがたく。加えて、

「まさか、正々堂々ステゴロだとは思っていませんよね」

 視覚外から奇襲してくる影のやいばを間一髪で回避する。体勢を崩したところへの追い打ち、これも辛うじてさばき、続く影刃も、いくらか肉を切らせて致命打をける。

 そうして、やっと一度目の交錯は終了した。慣性という糸に引かれて互いの距離が開いていく。再び十歩を隔てたいした、俺とイヴリーンの姿は対照的だった。

 こちらは息を切らし、裂かれえぐられた手足からの流血が止まらない。一方、彼女は息一つ乱さずかすり傷すらもない。

 一合でこの有様だ。次は多分死ぬ。しかし、不思議と絶望感は無かった。多分慣れたのだろう。思えばクロニカに出会ってから似たようなピンチの連続だったから。

 目を細めたイヴリーンが、少しだけいらったように足を運んだ。俺も応じて、一歩。そして二歩三歩。緩急のけんせいによる触れざる攻防を交えつつ、決死点へと近づいてゆく。

 だから、いつものように考えろ。いつだって、俺はそうやって乗り切ってきたから。

 技量は互角。しかし身体性能と、因子の有無は覆せない。ならそこからだ。俺には何がある。イヴリーンには貴血因子レガリアがあるように、俺にあって彼女にないもの、俺の人生に基づいた、俺だけの個性をかすのだ。

 ひらめきと同時、間合いが重なる寸前に。俺の指先はそこへと動いていた。

 己の顔に、見えない仮面をはりつける。

 それはイヴリーンの技ではなく、この手にんだ動作。この俺が、圧倒的な意味でここに実在する俺が、片時たりとも休まず、培い、研ぎ上げ、磨いてきた業だ。

「「ッ!!」」

 拳が、蹴りが、至近距離で激突した。当たり前に、一方的に、血と命の消耗を強いられる裏で意識はより深く、転写されたこころを掘り返していく。

 イヴリーンという人間の、すべてを理解するために。そして、

 最初に見えた景色は、見知らぬ弟の顔だった。


 ──イヴリーン=ハベルハバルには、双子の弟がいた。

 弟の名は、アイザック=ハベルハバル。快活で利発な弟は、姉とは正反対の性格だったけれど、姉弟仲は良かった。互いに家族として愛し、愛されていたと思う。

 そして父は、とある貴族家のあるじ。母は、その家の使用人。

 だから双子の姉弟わたしたちは、不義の子だった。

 原則として、一つの貴血因子レガリアは、一人にしか受け継がれない。父か母、その片方しか貴族でない場合、生まれてくる子どもの内、貴族になれるのは一人だけだ。

 しかし極まれに、片親から継承した因子を、双生児間で共有して発現する事例がある。

 双血継承ジエミニブラツド。そう呼ばれる、遺伝的な稀血レアケース

 それが判明したのは、私と弟が十四歳になり、同時に因子を発現させた時だった。

 即座に、不貞が発覚した母は、私たちの目の前で惨殺された。

 そして、今まで貴族として教育を受けてこなかった上、平民にんげんの腹から生まれためかけの子らは、家名の継承どころか、人としてすら認められず。

 哀れな姉弟は、卑しくも奪い取った貴血因子レガリアを返すよう求められた。

 つまりは、新たな赤子に、二人分の因子を継承させろと。

 もともとは一つの貴血因子レガリアから派生した双血因子だ。不安定な突然変異は大半が一代限り、次代継承の際、遺伝修正力で元の一つに戻る可能性が高い。

 すぐに私とアイザックは独房に監禁され、狂気と禁忌の行為を強要された。

 私は血を抜かれて四肢を拘束され、弟は拷問と薬物で理性を消失させられた。

 痛い、苦しいよ、姉さん。

 苦痛に満ちた弟の吐息が、裸の胸の上に落とされた。

 両の瞳がえぐられ、両手を斬り落とされた裸の弟が覆いかぶさってくる。

 そのあまりにも変わり果てた姿が、何よりも鋭く心を刺し貫いたから。

 どす黒い衝動が、胸の奥底で激しい産声を上げた。沸き立つ憎悪が、何よりも大切な、たった一人の弟への愛情を上回った瞬間。

 ──ごめんね。

 気付けば、最後の力を振り絞って、私は弟の首筋にらいついていた。

 ──殺す。必ず、ぜんぶ殺すから。

 流れ出た肉親の血をすすり、飲み干し、補給して、実父を含めた屋敷の全員を殺した。

 そうして、玄関エントランスにぶちまけた血の海のなか、弟の生首を抱いていた時だった。迎えが来たのは。

『立ちなさい、お嬢さん。今のあなたはまるで獣です。殺しのマナーを、一から教えて差し上げましょう』

 その瞬間、私は師を得て、黒箒メイドになったのだ。

 殺すために。

 貴族も、貴血因子レガリアも、王国も、私と弟を、この汚らわしく忌々しい運命に組み込んだ何もかもを、残らず必ず殺してやる。そのためだけに生きると決めた。

 あの子の血の味が舌から落ちない。飲み込んだいのちのあたたかさが、喉に張りついたまま絶え間なく渇いている。

 よって殺す。とにかく殺す。そうだすべてを殺すまで、いや殺し尽くしても止まるものか。

 叫んでいるのだ。この身を流れる血の中で、初めて殺した最愛の肉親が、痛い苦しい、全てが憎くてたまらないんだと。

 だから私は、この子がむまで──。


──……殺し続けると、誓ったんだよ」

「──なっ!?

 顔面を貫かんとする影の穂先に、俺は自ら飛び込んだ。頭を穿うがたれるその刹那、極限までの見切りをもつて紙一重をつかみ、こめかみをえぐられた視界に飛沫しぶきが舞う。

 捨て身によって得られたのは、たったの一手。

 そして、その一手こそが会心となった。一瞬の隙をさらした喉笛を狙って、食らいつく。

 本人の抱える無意識を掘り起こし、出てきた痛みも嘆きも起爆剤に果たした覚醒。

 彼女以上に彼女らしい、執念がせる獣の一撃が、その首筋を深々と食い千切った。

ぁっ……がッ、こ、れは……ッ!!

 すれ違う最中、み千切られた動脈に影を巻きつつ、イヴリーンは憎々しげにえた。

 俺にとっては造作もない。憎悪も怒りも、あらゆる心の原動力を、本人よりも強く激しく過剰に演じ、その一点、その瞬間においてだけは本物をりようすることなど。

 ずっと、存在しない真実を演じ続けてきた。ずっと、居もしない誰かをかぶり続けてきた。

 ゆえに今、べんでできた愚者の仮面が、彼女の影を踏んでいる。

「は、はは、……傑作、ですね。自分自身に、一本取られる……なんて」

 ぐらぐらと、不明瞭にふらつきながら、イヴリーンは深手を押さえてつぶやいた。

 おびただしい出血が、メイドの足元の砂浜を汚している。貴血因子レガリアの源泉は宿主の血液だ。これ以降、因子出力と身体能力の低下は避けられないに違いない。

 衝撃に外れかけた顎を戻して、歯に挟まった肉片を吐き出す。それから、俺は再び他人の意識下へと潜り始めた。この機を逃さず一気に決めるために。

 いける。勝てる。そんな俺のもくは、だがしかし、

「……でも、おかげで、ようやく気付けました。あの子が、今までどこにいたのか」

 鮮血に染まった、晴れやかなその表情を前に、戦慄とともに打ち砕かれた。

 違う、俺は勝機をつくったんじゃない。

 踏んではいけないものを、踏み抜いてしまったのだ。

「ありがとうございます。詐欺師、ライナス=クルーガー」

 どろりと、イヴリーンの背後に何かがにじした。それは、先ほど追体験した彼女の闇をそのままに写し上げたような、絶えず沸騰する憎悪のカタチ。

「お礼に、殺してあげますよ」

 それは、魂の片割れの喉笛をみ千切り、血肉をすすった時に、姉の中に流れ込んでいた弟の──アイザック=ハベルハバルの貴血因子レガリア

 過去トラウマを疑似的に再現した一撃が、きっと呼び覚ましてしまったのだろう。

 これまで自分自身の影に同化していた相似なる双子の陰影に、この瞬間を切っ掛けとしてイヴリーンは気付いた……いな、俺が、気付かせてしまった。

「〈夜行影シヤドウテイカー〉、真影解放ペルソナドライヴ

 傷だらけのメイド服から伸びたもう一つの影が、魔剣のごとくに立ち上がる。

 その影は、黒くない。

 血塗られた過去の投影は、それと同じ色をしているのだから。

 漆黒が編み上げた影刃と絡み合いながらそびえ立つのは、もんつづられた血刃アナザーブラツド

 しかして、許されざる双影を従えた憎悪の化身が、今ここに完成した。


     10


 血びた戦慄が、風よりも早く背筋を走り抜けた。高密度の殺意が大気をゆがめて光を屈せしめ、潮騒しおさいを殺し尽くすような赤黒い陽炎が、メイドの全身から揺らめいている。

 その殺伐とした血風が、俺の頭上から帽子をり、背後で軽い砂音を響かせた。

「あなたが悪いのですよ、ライナス」

 真紅の影が、夕焼けの砂辺をいつせんする。遅れて、爆裂した衝撃波がほおたたく。

「私に、あの子を思い出させた、あなたが」

 その影が刻んだ爪痕は、一直線の地割れのように浜辺を切り裂いていた。

 思い出したように手足が震える。逃げるべきだ。つかんだ勝機は、はる彼方かなたに消え去った。

 イヴリーンははや、さっきまでの彼女ではない。

 なのに、どうしてか、狂おしいほどに叫ぶ生存本能は、俺の足を動かしてはくれず。

 今度こそ、俺に狙いを定めた双血の影刃が、空を引き裂いて走り──。

 その瞬間、腹の底から、熱い吐き気が込み上げた。

──ッ!?

 こらえる間もなく、しやくねつの塊が喉を押し通り、口から勢いよく飛び出していく。

 それは、先の一撃でみ千切っていた血肉とともに、いつの間にか俺の中に飛び込んでいたイヴリーンの影の一部。目前に吐き出された黒い塊から、響いた声は。

「〈白日炎天ホワイトフレア〉、熱域拡大」

 ほとばしるは爆熱爆光。迫りくる二重の影刃をはじき、焼け焦げた砂に降り立ったのは、きらめく金色をほうはつとなびかせた一人の淑女。

「間一髪、危ない所でしたわね! ですが、もうご安心あそばせ」

 場違いに高らかなその声に、俺とイヴリーンは、またしても表情を同じくした。

 そういえばコイツの事、すっかり忘れてた。

「この胸の恋に殉じるため、わたくしパトリツィア=ウシュケーン! ただいま見参ですわ!! ……って、うわー、なんですの、あの陰険メイド。ちょっと見ない間にキャラが大分悪化してません?」

「色々あってな、大体そんな感じだ。で、悪いけど助けてくれるか、パティ」

「是非もなし。まだあなた様との再デートの約束、果たしてもらってませんもの」

「断じてそんな約束をした覚えはない。……けど、はあ、分かった。生きて帰れたら、どこへなりともエスコートさせていただきますよ、お嬢様」

「しゃあっ!! 言質! 言質取りましたわ! 今の聞いてましたわよね陰険メイド! お前に勝ったらデートですわ! もう負ける気しませんのでしからず!」

「……少しは、空気を読んだ言動が出来ないんですか、あなた」

 再三、あきれ返ったイヴリーンの半眼にも構わず、パトリツィアは俺の隣へ歩み寄る。

 そして熱く、白い指先が、傷だらけの腕をそっとでてきた。

「影の中でも、おおよその話は聞こえていました。……あの癌細胞ドローキヤンサーのために、あなたは、こんなにも傷ついているのですね」

 離れた砂辺に縫いめられた、クロニカの姿を指して、パトリツィアは切なげに、しかしそれ以上にうれしそうに。

「やっぱり、あなたはうそつきですわ。……悪い人なんかじゃ、なかった」

 その笑顔が、彼女と出会ってからの何時よりも、まぶしく感じられた瞬間。

 唐突に、襟首をつかまれ引き寄せられて、俺は唇を奪われた。

 数秒の間。柔らかな熱を交わし合い、金の淑女はそっと離れていく。

「……今のは、前金代わりです。残りも、後できっちりしてもらいますので」

 それきり、パトリツィアはほおを真っ赤に染めてうつむいた、と思ったらまた顔を上げて。

「い、いえ、やっぱり名残惜しいのでもう一回! もう一回だけ! ワンモアしますわよ、ライナス! つ、次はもっと情熱的に、で、ディープな感じで……!」

「続きならあの世でやりなさい」

 鋭く飛んできた声に、二人で同時に顔を向ける。視線の先で肩をすくめるイヴリーン。最後の情けを握り潰したようなその拳は、躊躇ためらいのない殺気で空を切った。

「いいからさっさと来なさいバカどもが。まとめて、ピリオドを打ってあげます」

 俺は一度だけ、パトリツィアと顔を見合わせて、うなずいた。

「来るぞ、やれるか」

「ええ。もうすぐが沈みます。夜になれば、あのメイドは舞装ドレスまで引っ張り出してきますわ。ですからその前に──」

 俺とパトリツィアは同時に構えた。互いのリズムを、背中合わせに伝えながら。

「ヤツの頭で、十二時の鐘を打ち鳴らしましょう!!

 しくもその時、いよいよ水平線へ沈みゆくあかねいろは、あと一曲分ほど残っていた。


     11


 パトリツィアのたんを合図にして、俺は預けた背中と一緒に砂浜を踏み出した。

 水平線に沈む、恐らくは人生最後かもしれない夕陽が、いやに視界に焼き付いて。

 しかし次瞬、切ないほどに真紅に輝くその海が、唐突に、紫水晶に染まり、

 時が、止まった。

「──は?」

 そしていつの間にか、俺は静止した周囲をかんする位置で、椅子に腰かけていた。

「海を眺めてたら思い付いたの、あなたがかやったみたいに、銀幕スクリーン代わりにできるかもって……くいって、良かったわ」

 唐突に漂うかんした空気に、俺は取り残されたような気分のまま。

「ここは、即興で構築してみたの。視線を介してお互いの意識を無理やりつなげて引き延ばした……まあ、ちょっとした休憩時間よ」

 湯気の立つティーカップをテーブルに置いて、対面に座った少女が微笑ほほえんだ。

「まずは一杯、どうかしら? あなた、飲んだことないでしょう? アリアのお茶。

 私の記憶から再現してるから、もう大分薄味かもしれないけど」

 促されるままに、一口飲む。しかし、その味は。

「ぶっ! お前! これ……」

「あは、ふふ。引っかかったわね。イヴリーンのよ、それ」

 とつにティーカップを投げ捨てる。非難を込めて向き直ると、少女の前には、いつの間にか山盛りのクリームと果物の乗ったサンデーグラスが置かれていた。

「はい、口直し。あーんして」

 みずみずしい甘さが口を満たす。クロニカは満足そうに微笑んで、それから静かに目を伏せて、ぽつりと言った。

「……ごめんなさい」

「なんだよ、急に」

「私、ずっと、あなたを誤解してた。とんでもないおおうそつきの、悪人で、私を救ってくれる人だって、勝手に期待してたの」

 でも違った。声にされないおもいが伝わるのは、この時間が互いの心の産物だからか。

「お金に汚くて、素直じゃなくて……でも、ホントは誰よりさみしがりの男の子。

 私と同じで、一人ぼっちに耐えられない、ただの人間だって、ようやく気づけた」

 いつの間にかテーブルは消え、互いを隔てる距離は無くなっていた。

 ごめんね、と背中に回された右手は、切ないほどに優しくて。

 その感触は、あの日を境に、俺の人生から失われたはずの温度だと思えた。

「だから……やっと、ホントのあなたに触れられたから──」

 その続きを、少女がためらうのは恐れているからだと伝わったから。

 今度は俺の方から、小さな背中に手を回して、強く抱きしめた。

「ライ、ナス……っ」

 しばし見つめ合ったまま、俺達は自然と心を重ねていた。

 旅の続きの、約束を。


     12


 ──一瞬の暗転を経て、すべての時間は、再び坂を転がり始めた。

 もう後戻りはできない決着へ向けて、どこまでも果断に容赦なく。

 爆風と斬撃。激戦の余波が幾重にも刻まれた砂浜は、とうの昔に焦土と化していた。

 その決死なる激突点にて、三人は同時に間合いを踏んだ。

「おおアアッ!!

 技を奪い、心を盗んだ詐欺師の手管。本人以上の再現性を憑りつけた分身拳ドツペルゲンガーがもう一度、致命的な隙を狙う。

「ハアああッ!!

 熱血する爆炎をまとった徒手空拳。その身に秘めた熱量を余すことなく着飾ったしやくねつの淑女が、影を焼きながら正面突破を狙う。

 交錯の瞬間、イヴリーンを挟むような二体一の構図。左右から迫る致命的な暴力にさらされながら、しかしまみれのメイドは吐き捨てた。

「──ぬるい」

 そして壮絶なまでの血れた微笑が、二人を同時に迎撃する。

 本人以上の再現性? それがどうしたと言わんばかりの、針を振り切った肉体性能が牙をく。音速突破の正拳の衝撃波だけで、詐欺師は胸板を砕かれ吹っ飛ばされる。

「っ──ライナス!!

「あるのですか。他人の心配を、する暇が」

 瞬時、パトリツィアの放つ爆熱を、容易たやすく切り裂いたのは血よりも赤い影のやいば

 光と熱は、影の弱点。しかし、もう一つの赤影にとっては違う。

 触れたものすべてを焼き焦がし、手の付けられない憎悪を常に煮えくりかえす血の刃は、弱点であるはずの光熱を効かぬとばかりに引き裂き散らし、黒い影刃とともに倍する手数で金髪へと襲いかかる。

 肩口に食い込んだ刃が、光熱の衣を貫き、肉を裂く。その瞬間、熱量の爆発で自らを後方に飛ばし、パトリツィアは辛くも致命傷を逃れた。

 ライナスもまた、波打ち際から身を起こし、血を吐きながら拳を握る。

「話になりませんね、あなたたち」

 数回繰り返した交錯が、ついに決定的なすうせいの傾きを示した時、イヴリーンは見下すでもなく淡々と、厳然たる実力差をつぶやいた。

 今のイヴリーンは、貴族という生物のはんちゆうすら越えていた。一つの身体からだおきて破りの二重因子。禁断の双血が姉の身を極限以上に強化している。が、その代償は──。

「がはっ──!

 唐突にメイド服の口元を押さえ、黒ずんだ血と溶けた内臓の欠片かけらを吐き出された。

 一つの肉体にはあり余る因子出力が、内側から彼女の身体を破壊しているのだ。

「イヴリーン、お前……」

 その末路を察したライナスの呟きに、イヴリーンはせきみながら自嘲気味に応じた。

「……だから、他人の心配などしている暇は、無いでしょうに」

 パトリツィアもまた肩口の深手を押さえながら、言った。

「たとえ私たちに勝てたとしても……それ以上は、あなたも死にますわよ」

「それが、何か問題ですか」

 即答。イヴリーンは全くの自明のように言い切った。関係ないのだと。あの日殺すと誓った以外に考慮する事など何もなく。己の末路がどこだろうと、止まる気も無い。

 ならば、この汚れた身を流れる血の中で、アイザツクが泣いているから。自らの手で、すべてを奪ってしまった最愛の肉親が叫んでいるのだ。

 苦しい、痛いよ、つらい。どうして、姉さん。僕はこんな目に遭っているのだと。

 どうして、僕を殺したのと。

 貴族も、貴血因子レガリアも、姉さんも。この世の全てが憎い、許せない、だから全てを壊して一緒に死んでよと、破滅的に沸騰する怨念を抑えるすべを知らないから。

 ずっと自分を動かしてきた憎悪は、自分だけのものではなかったのだと知った今、イヴリーンはしよくざいのように、その身を滅ぼす衝動の全てをただ受け入れるのみ。

「ええ……そうですね。いいでしょう、今度こそ一緒に死にましょう、アイザック。それまでに、一つでも多くのゴミを殺して、それから、どうしようもない私たちも、跡形もなく消え去るとしましょうか」


 ……そして再び、飛沫しぶきが舞う、肉が飛ぶ、ぶつかり合った命の欠片かけらが散っていく。

 拳を交わす度に、俺には今のイヴリーンの心境が伝わってくる気がした。

 転写された記憶が共感でもしているのか、真相は不明ながらも、かつて殺してしまった弟に関してのトラウマが、今の彼女を形成し、駆動させているのは間違いなく。

 そこでかわし損ねた貫手に、脇腹を深々とえぐられた。

 間髪をれず左腕を折られる。折れたろつこつに再度の衝撃、破けた肺が血を吹き出す。

 けれど、それでも。

 まだ動くらしい足で、連撃から逃れ出る。交錯をまた一合、生き延びる。

 俺にはもう、自分がどうやって生きているのかさえ分からなかった。

 このまま立っていても、い事がないのは分かっている。更なる暴力によってより凄惨に、より致命的に、削られるだけだ。──けれど、でも、

 コインの音が、聞こえるのだ。

 一枚一枚、ささやかに響くその音は、懐かしい、あの日々から木霊していて。

「ああ……そう、だった」

 遠い遠い、久しき、昔。あのガラス瓶に希望をめていたのは姉さんだけじゃなかった。

 俺もまた、ほんの少しずつ小銭を足しながら、小さな音に夢を託していたんだ。

『ねえ、ライナス。そう言えばあなたは何かないの?』

『何かって、何のことだよ。姉さん』

『夢よ。劇場を建て直すのは、私の夢。でも、これは二人の貯金なんだから、あなただって、何に使いたいか決めていいのよ……あ、でも、あんまりスゴイやつだと、瓶が何個あっても足らなくなっちゃうかも』

『……いや、別にそんな大したことじゃないけどさ』

『あ! じゃあやっぱりあるのね! ねね、お姉ちゃんに聞かせてくれない?』

『嫌だ』

『何でえっ!?

 恥ずかしかったから、無言で顔を背けた。けど、今なら言えるよ、姉さん。

 俺の夢は、いつか、あなたに幸せを贈ることだったんだ。

 いつか、列車に乗って、あなたに色んな景色を見せてみたいと思った。

 いつか、うまい料理をあなたにそうしたかった。

 いつか、とびきり上等な服を、贈りたかった。

 姉さん、そうだ。俺はずっと、ずっと、あなたの笑顔のために、生きたくて。

 ふと視界の端で、吹き飛ばされたパトリツィアが膝をつくのが見えた。

「終わりです」

 せきを切ったように、彼女が受け持ってくれていた影刃がすべて、俺に向かって殺到する。

 けれど、終われないのだ。まだ死ねないのだ。

 姉さんはもういない。だからせめて、アイツには、贈りたいものがまだ沢山あるから。

 考えろ、俺。死なないためには、何が必要だ。この場を乗り切るには、何をすべきだ。

 転写されたイヴリーン自身の記憶、経験、そんなものではもう勝てない。

 だから、だから、俺の指が選んだのは、やはりそれしか有り得なかった。

 創り上げた、見えない仮面を顔にかぶる。

 かのじよの記憶から拾い上げた断片で、かれの人生を再構築し、

 俺が、全てを込めて演じる。


 うそをつくときのコツを教えよう。


「姉さん」


 真実だけを、話すことだ。


「一度だって、恨んだことなんかない。俺もあなたを、ずっと、ずっと愛してた」


「──ぁ、っ……!

 止まる。鈍る。ほんの僅かな時間だけ、イヴリーンの憎悪が凍り付いた。

 アイザツクの仮面が、彼女の何を呼び起こしたのかは、分からない。

 しかし結果として生じた、最後の機会を見逃さなかったのは、俺だけではなかった。

「〈白日炎天ホワイトフレア〉──れんごく創生ッ!!

 それはパトリツィアの最大火力。まんしんそうを通り越し、けれど揺るがぬ眼光は、膝を折ったその時から、ずっとぐ俺を見つめていた。

 その両腕が白熱を凝縮してゆく。命も恋慕も、彼女の持てるすべてを燃料にしたような熱核が、とつに振り返ったイヴリーンへさくれつした。

「食らいなさいな」

 解放される熱量ははや、今の世の物理で語れる領域を突破していたのかもしれない。

 視界が白く染まる寸前、影の群れが幾重にも盾を織りなすのが見えて、直後、一拍遅れた爆熱と衝撃が世界の全てを吹き飛ばした。

 巨人の歩行を思わせる熱風の勢いが、俺の体を蒸発する海面へとたたんだ。

 傷ついた肺で呼吸するのを早々に諦め、もがきながら海からる。即座に乾いてゆく海水が、火傷やけどとともに塩の欠片かけらを顔に張り付けた。

 そして、地獄のように焼け溶けたガラス質の地面に、イヴリーンは、まだ立っていた。

 全て吹き飛ばされたのか、その背中に、もう影はない。

 パトリツィアはついに力を使い果たして、うつ伏せに倒れたまま動かない。

 砕けかけた拳を握ると、焼け焦げたメイド服もまた応じた。

 そしてどちらともなく、俺達は微笑のような、苦笑を互いに浮かべて。

「……幕を、下ろしましょうか」

 おぼつかない足取りで、一歩ずつ、引き合うように近づいていく。

 お互い風前のともし。つまりは、先に相手の命を吹き消した方が、勝つ。

 四歩を踏んだその時、俺の膝がかくんと折れた。支えを失った体が崩れ落ちる。

「さようなら」

 隙を逃さず、最後の一歩とともに距離を詰めてきたメイドの拳が迫りくる。

 この距離ではかわせない。払いのける力も残っていない。

 だから、勝敗はもう、決している。

「イヴリーン……お前の、負けだ」

 そして響いたのは、横合いからの銃声だった。

 撃たれた腹を押さえ、きようがくに目を見開いて振り返るイヴリーンの、視線の先には──。

「私たちの、勝ちよ」

 えぐれた脇腹を押さえる少女の左手は、真っ赤に染まって震えていた。

 しかしもう片手は、硝煙たなびく銃口を、きっちりと前に向けていた。

 パトリツィアの最後の一撃は、彼女をとどめていた影槍も跡形もなく消し飛ばしていた。

 だが、なぜその手に、が戻っているのかというと。

「──まさか、あの、時か……」

 戦闘が始まる最初、銃は投げ捨てた──ふりをしただけだ。あの時に投げ捨てたのはひそかに握り固めていた、砂の塊に過ぎない。

 本物の銃は、さり気なく、肩をたたいた隙に、クロニカへ返していたのだ。

 正直言って、この流れは偶然だ。予見も意図も、断じて期していたわけではない。

 けれど、俺はクロニカを信じていた。だから、きるかも分からない布石を渡したのだ。

「……ごめんなさい、イヴリーン。でも」

だまされる方が、悪いんだぜ」

 そして勝敗分け立つ弾丸が、二発、三発、イヴリーンの胴を貫いた。

 それでもなお、彼女は俺の首筋に食らいつこうと、喉首を伸ばして。

────くそ、が」

 ついに、勝負の幕は下り、

 遠くの水平線で、夕日がついに死に絶えた。


 ──荒廃したかつての砂浜に、いろの黒髪を広げたままイヴリーンが倒れている。

「……殺しなさい。でなければ、きっと後悔しますよ」

「だろうな。でも、決めるのは俺じゃない」

 ぽすりと、背伸びした爪先が、俺の頭に黒いミルキーハットを乗せた。

 再び、俺の隣に立ったクロニカ。その手にある拳銃には、後一発残っている。が、

「……友達を殺しても、きっと後悔するわ。なら、私は殺さない方を選ぶ」

 そして今度こそ、役目を終えた銃口が、砂の上に落とされて。

 メイドは倒れ伏したままそれを見て、どこか吹っ切れたように、微笑ほほえんだ。

「その言葉、覚えておきなさい。……私は、あなた方を追いかけます。そして、地の果てだろうと、海の果てだろうと追い詰めて……きっと、後悔させてあげますから」

 そんな脅迫に、クロニカは拾い直した日記を抱えながら、無邪気に返した。

「ええ。また会えるのを、楽しみにしてる」

「じゃあな。……短い間、世話になったよ」

 そうして俺たちは、しばしの仲間だった彼女に別れを告げて、砂の上を歩き出した。

 ふと背中に届いた苦笑の気配は、きっと気のせいに違いない。