第三章 Sur le pont L'on y danse


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 この世で確かなものは一つ。

 それは、ルールだ。

 言われたこと、決められたことを守ってさえいれば、社会は幸福を約束してくれる。

 そう信じて、ずっとずっと歩いてきたのは、間違いではないはずだ。

 教科書通りに問題を解いた。親の言う通りに過ごした。命令通りに任務を果たした。

 敷かれたルールから、一度たりとも脱線することなく人生を生きてきた。

 おかげで、自分は確かに幸福を得られたのだから。

 安定した収入と職業身分は、革命によって没落した実家を支えられただけでなく、最愛の彼女の幸福を養うことさえ出来た。

 自分の歩いてきたルールは間違ってなどいない。

 間違ってなど、いない。

 だから、きっと間違っているのは、この幸福を壊したのは、他の誰でもなく……。

 あの男の、仕業なのだ。


     1


 ふと見上げた空には、雲一つ無い夜が広がっていた。

 人が上を向くのは、目の前の現実から目をらすためだ。きっと、今の俺のように。

「おかわりを下さい」

「……悪いがそいつでカンバンだ。足りなきゃその辺の草でも食ってろ」

 たきから外した空のキャンプ鍋の底を指して、俺は言った。

 黒髪のメイド服は、アイスブルーの瞳で俺と同じものを見て、小さくため息をつく。

 目を逸らしたい現実その二号、もとい、こいつの名前はイヴリーン。軍人且つ、本人いわく貴族ではない因子保有者。そして、この旅に新たに加わった、厄介者だ。

「何ですか、さっきから人の顔をじろじろと。ハッキリ言って不愉快ですが」

 そう言って、飾り気のない薄手の黒白が、枯葉を乗せたそよ風に揺れた。

 首都での騒動から三週間余り、街道沿いの秋の夜長は、すっかり冷たくなっている。

「いやその服で寒くないのかよ。腹壊しても知らんぞ」

「問題ありません。私はただの人間とは違いますし、そこの小娘ほど軟弱でもない」

 イヴリーンの言葉尻は、焚火の傍らのもう一人に向いていた。

 同様の現実その一号、もとい、クロニカはあかゆきの髪を分厚いフードにすっぽりと収めて、暖かそうなクリーム色のウールコートに、さながら子羊のようにくるまっている。

「だって寒いものは寒いんだもの。ねえライナス、あったかいコーヒーれて」

「ブラックでいいか。もう砂糖とミルクが切れた」

「じゃあいらないわ……へっくち!」

 くしゃみをして、鼻先を赤らめるクロニカをよそに、俺は鍋の横で熱していたケトルを取り上げる。これ見よがしに温まってやろうとブリキ缶を開けて、しかし、もうインスタントもなかった。

 その時だった。まるで抗議するかのような鼻息が、俺の背中を荒々しくあてつけた。

 振り返ると、そこには馬が二頭。マロン色の雑種が、黒い瞳でじっと俺を見ている。

「その子たちも、おなかいてるみたいよ。あと水が欲しいって」

「はいはい」

 俺もだよ、と言ったところで意味はない。クロニカの声に押されるように、俺はきっぱらを抱えて立ち上がった。飼葉を用意して、近くの淡水湖からみずおけんでくる。

 夜の平原は、星明りのおかげで見通しは悪くない。目を凝らせば秋色の草どもの中に、打ち捨てられた無数のよろいやら馬具、剣ややりが朽ちているのが見えた。

 特に珍しくもない、国中で見られる王国レガートス時代の、貴族間戦争の名残だ。

 死ぬのは専ら、気まぐれのように動員された平民たちの仕事だ。スポーツ感覚で行われる代理戦争に大義は無く、ただ朽ち果てた時代遅れの武具だけが、余興として空費されていった人命たちをあかし立てていた。

 ……数分かけて、汲んできた水桶を置いた。すると草をんでいた二頭は、今度は桶に顔を突っ込んだ。その背からくらを外し、ブラシで毛並みを整えてやる。

 獣臭い鼻息をくすぐったそうにしながら、しなやかな筋肉が小さく震えた。その横腹を優しくでてやりながら俺は思う。次の街に着いたら、すぐにでも売っぱらおう。

 なにせ、金がないのだ。

 そして、どうしてこんなことになっているのか、思い返せば少々長くなる。


 馬に乗って首都パリンったのは、イヴリーンと再会した翌朝だった。

『小娘、あなたは餌です』

 事務的な口調は、手綱を握る俺の胸元に、すぽりと収まったクロニカへ向いていた。

『そして、釣るのは私です。餌につられてノコノコとやって来た騎士団の刺客から、有益な情報を得られれば……あなた方を見逃すのもやぶさかではありません』

 そのためには、孤立しやすい馬旅が最適。襲撃者をおびすにやすく、他人を巻き込む心配は最小限。それがイヴリーンの弁だった。

『本来ならばまず、あなた方を逮捕した上でしかるべき拷──もとい取り調べをするはずなのですが……まったく、本当に面倒なコネをつくってくれていたものです』

 忌々し気に吐き捨てるイヴリーンへ、クロニカは気安い調子でたずねてみせた。

『アリアのことよね。そんなにすごい人なの? あなたの師匠は』

 イヴリーンは短く首肯して、続けた。

『〈黒い箒ブルームズイーパー〉。革命以前に私も所属していた、貴族ではない因子保有者たちからなる暗殺部隊です。主な任務は、重罪を犯した貴族、及び禁忌を犯した継承者カルニバリストの粛清。つわものぞろいのその中で、あの方はぶっちぎり最強でした』

 淡々と紡がれる言葉には、その反面、どこか懐かしむような響きがあった。

『口惜しいですが、私ではまだまだ及びません。もし倒すのならば政府の被害は甚大になるでしょう。……つまり、猫をかぶっていてもらえるのなら、願ってもないのです』

 ふと、風に吹かれた長い髪が鼻先をくすぐった。胸元のクロニカが俺を見上げて言う。

『本当に、あのお店を選んで正解だったわね、ライナス』

『まったくだ……いや、けどよ、あの店主に会わなきゃそもそもこんな面倒事に──』

『はいストップ。それ以上考えちゃダメよ』

 ともかく、政府のお偉い方々はクロニカを鎖につなぐより、釣り糸に垂らした方が有益だと判断したらしい。その判断は柔軟というべきか、あるいは。

『あんたたちも、相当切羽詰まってんだな。そこまでヤバいのか、騎士団ってのは』

『……あなた、本当に何も知らないのですね』

 俺の問いかけに、イヴリーンはあきれ、あるいは小馬鹿にしたような吐息を置いてから。

『騎士団とは、革命の最初期、王都が陥落した時から活動している最も強力な残党貴族どもです。各地での破壊行為テロリズムや要人の暗殺などの実績はさておき、最も厄介なのは、政府側に情報をほとんどつかませていない点』

 構成員の規模、そして活動拠点も不明だと、イヴリーンは続けた。

『そして何より、見過ごせないうわさもあります。やつらは、王都陥落の際に持ち去った〈王〉の遺骸を、今なお保有していると』

〈王〉の遺骸。その単語に反応したように、腕の中のクロニカがかすかに震えた。

 かつて少女は言った。騎士団は自身のを用いて、〈王〉を復活させようとしている。

『それが本当であるならば、政府としては一刻も早く連中の手からそれを奪い、一片残らずこの世から消さなくてはなりません。ならば──革命が〈王〉を殺したのではなく、〈王〉の死が革命を起こしたというのが、十二年前の真相だからです』

『なに?』

 初耳だった。間の抜けた声が、開いた口からすっぽ抜ける。

『少々しやべり過ぎましたか、これぐらいにしておきましょう。どのみち、詐欺師、お前は単なる雑用係のオマケです。詳しい事情を知る必要などありません』

 そう言って切り上げたイヴリーンの、補足をしたのはクロニカだった。

『……死なないはずの〈王〉があの日突然死んだ。原因は分からない。けれど、〈王〉の死が直系細胞である三柱の大貴族オリジンノーブルを弱体化させたのは事実。加えて、形勢不利と見た三柱の一人が王政を裏切ったことで、革命は成功した』

 ちらりと見ると、紫水晶の左眼が開いていた。イヴリーンから続きを読んだのか。

 それは革命の当事者である政府筋しか知らない秘密事項だろう。

『だから政府は不安なのね。千年間不死身だったはずの〈王〉が、なぜか死んだ。その理由が不明な以上、突然よみがえらない保証はない。少なくとも、遺骸とやらを消滅させるまでは』

 時の歯車が巻き戻らない確証はない。現状をそう捉えているのだとしたら、確かに俺とクロニカへの対応にも合点がいく。

『そのひだり、やはり不愉快な能力ですね。いよいよもって殺したくなります。よく一緒にいられるものだと、その点だけは感心しますよ詐欺師。……ああ、そう言えば』

 そこでふと、黒白のメイドは思い出したように、

『まだ聞けていませんでしたね小娘。なぜ、騎士団はあなたの身柄を狙っているのですか』

 その質問に、肝を冷やしたのは俺だった。理由は、今までの話の流れだ。

 もしこの危険メイドが、クロニカが〈王〉の復活のカギを握っていると知ったのなら。

 不意に筋肉がこわった。不安が手綱を伝わったのか、馬が鼻を鳴らす。

 しかし、クロニカは何のためらいもなくこう言った。

『秘密。イヴリーン、あなたには、まだ教えてあげない』

 おそれ知らず、あるいは自分は絶対に死なないとでもうそぶくような口調。それはイヴリーンの心を読んだからか、あるいは別の確信があるからなのか。

 分からない俺は、背筋に冷汗を滝と流しながら、固唾を飲んで次の瞬間を見守り。

 にわかに漂わせた極寒の気配を、しかし、メイドは握り締めた拳と一緒にしまい込んだ。

『……まあいいでしょう。どちらにせよ、いずれお前を狙ってやって来る手合いに聞けば分かる事です。むしろ、その方が楽かもしれません』

 クロニカはゆうしやくしやくと言った風に、またも気安く声を飛ばした。

『ふふ、じゃあ、わだかまりも解けた事だし、改めてよろしくね。イヴリーン』

『……そこの詐欺師もですが、気安くファーストネームで呼ばないで下さい』

 間一髪、かんした空気の中で俺は一人、取り残されたように先の会話を考えていた。

 不死身のはずの死んだ〈王〉。癌細胞ドローキヤンサーと呼ばれている少女。あの左眼から移された謎の暗黒、等々。ずっとくすぶっていた疑念に火が入る。

 ──クロニカ。こいつは、一体何者だ?

『? どうしたのライナス……ああ、そういうこと。

 道連れの女の子が一人増えてうれしいのね。やだ、なに考えてるのよこのスケベ』

『おい待て、勝手に人の本音をねつぞうすんな。後お見通しみたいな雰囲気出すのやめろ』

『一応警告しますが、道中で私にらちを働こうとしたら、その場で切除しますよ』

『働いてたまるかっ!』

 そこで付け加えるように、イヴリーンは言った、

『……ああ、それと詐欺師。あなたには一つ、言っておくことがありました』

『なんだよ』

『私の同行に際して、この馬も含めた道中の諸経費ですが……管理局へ手紙で任務予算を申請しても、すぐに下りることはないでしょう。万年予算不足ですから』

『……それで?』

『よって当面は、あなたの財布が頼りになりますから。頑張って、稼いでください』


 ……いつ思い返しても、忌々しい記憶を脇に捨てる。

 しかも、イヴリーンが襲撃者をおびしやすいようにと選んだひとの少ない旧街道沿いのルートは、鉄道全盛期の今、対照的にとても景気が悪かった。おかげで他人の懐に依存する、俺自身の懐具合も追い討ちをかけられているのが現状だ。

 ようやく畜生分際のご機嫌を取り終えてたきに戻ると、クロニカは上機嫌でトラベルペーパーを手元に開いていた。そのページには、次の目的地。ふうこうめいな中西部の観光運河都市、フィラデリヨンが紹介されている。

「あと二、三日で着くかしら……ねえライナス、私、今度はお洒落しやれなカフェに行きたいわ! クリームと果物を沢山使ったデザートがしそうなの。イヴリーンも興味ある?」

 水を向けられたメイドは、しかし素っ気なくはねつけた。

「ありません。甘いものは嫌いです。というよりあなた、よくも騎士団に狙われている状況下で、そんな事を考えていられるものですね。逆に感心しますよ」

「こんな状況だからこそよ。おびえてばかりじゃ、逃げる側が損をするばかりで不公平。せつかくなら楽しく逃げて、悔いを残さずいきたいもの」

 そう言ったクロニカが、どこかはかなげに見えたのは俺の気のせいか。

 ともかく、放置していた空鍋を洗い、おきまきを足したところで、ふと俺は手を止めて。

「おい、メイドさんよお……少しぐらい、手伝ってくれてもいいんじゃねえか」

 焚火の側でじっと、自らの影に座っていたイヴリーンをにらむ。すると、

「嫌です。というより……できません」

 ほんのわずかに目を伏せて、イヴリーンは告白した。家事全般が、一切できないと。

 そして俺はようやく、ここ数週間すべての雑用を押し付けられていた真相を理解して、

「……今すぐその看板倒れのメイド服を脱げ。そして二度と着るな」

「失礼な男ですね。……まあ、事実なので反論できませんが」

 メイド失格の自覚はあるらしい。しかしイヴリーンはすぐに、ですが、と逆接をつなぐと。

「あなたのような男に、このまま侮辱されっぱなしというのは思ったよりもムカつきますね……いいでしょう。一つだけ、私にも得意な家事がありますので」

 いぶかしみながら続きを促すと、顔色の読めない無表情が、少しだけ誇らしげな声で言った。

「私は師匠から、殺人技術だけでなく、美味しいお茶のかたも教わりました。それを今回だけは、特別に、あなた方に披露するのもやぶさかではありません」

 それを聞いた途端、赤い鼻先をこすりながら、クロニカが言った。

「私にも一杯いいかしら? 首都のお店で飲んだアリアのお茶、とっても美味しかったもの。楽しみにさせてもらうわね」

「ええ。任せなさい」

 自信満々、イヴリーンは影の中から愛用らしきティーセットを取り出してみせた。

 それから期待しないで待つこと数分、手慣れた丁寧さで、二人分のお茶がれられた。

「どうぞ、腰を抜かさないよう注意してください」

 見た感じ、目前のティーカップはふくいくとした湯気を漂わせている。

 ふうふうと冷ましながら、最初に口をつけたのはクロニカだった。

 しかしその瞬間、笑顔だった少女が、せつこう像のように固まった。

 俺は嫌な予感を覚えるも、空腹と疲労に逆らえず手に持った一杯に口をつけて。

っ……!?

 何だコレ。死んでいる。香りが、風味が、茶が茶たる由縁のものがことごとく殺し尽くされた、無人の荒野のごとき殺伐とした液体が、舌の上に絶望だけを残して流れ落ちていく。

 控えめに言えば、呪われそうな味だった。

 もっとはっきり言えば、クソかった。

 そして黒白のメイドは無表情のまま、しかし明らかに誇らしげに胸を張っている。

「いかがでしょうか?」

 いかがも何も、こんな代物を出して自信満々なのは一体全体、さまなわけだろう?

 だが、もしここではっきり不味いと言おうものなら、本当に殺されるかもしれない。

 感想を述べあぐねていると、イヴリーンはポットの残りを自分でも口に含み、言った。

「少し心配でしたが、やはり腕は落ちていませんね」

 それで、確信するには充分だった。このメイド、もう色々手遅れだ。

 俺はせめてもの口直しにケトルに残ったを流し込み、がいとうつかんで横になった。こういう時はもう寝てしまうに限る。胃袋の抗議は、眠りの中までは届かない。

 しかしまぶたを閉じた瞬間、イヴリーンの声が悪びれもせず落とされた。

「何を寝ようとしているのですか。まだ感想を聞いていませんが」

…………すごかったよ」

「死ぬほど具体性がありませんが、まあ、あなたの語彙力に期待するのも無駄でしょうね。

 今後も私の気が向けば、また淹れてやってもいいですよ」

 勘弁してくれと、続く言葉をぐっと飲み込み、もう一度固く瞼を閉じる。

「私も寝るわ……おやすみなさい、ライナス」

 げんなりしたようなクロニカの声に、今夜だけは、妙な連帯感を抱いてしまう。

 それからしばらく、腹の虫を黙らせるため、わらじきの上で何度も寝返りを打ちながら、俺の思考は一点に向けて引き絞られていた。すなわち、次の目的地である観光都市について。

(一発でいい、デカく稼がねえと……騎士団やイヴリーンより先に、貧乏に殺されかねん)

 それがいつだって、何より致命的な事は、たぶん、この中で俺が一番知っている。


     2


 三日後。

 州都フィラデリヨン。王政時代からの歴史ある運河都市であり、鉄道の発展に伴う全国的な物流量増加の恩恵は、河川運輸を主流とするこの街にも好景気をもたらしていた。

 都市の中央を流れる運河。その北側には、こうがんを積んだ伝統的なアーチ構造の旧大橋アヴイニヨが、南側には近年新設されたり構造の工業的インダストリツクな大鉄橋が、市内の物流を支えながら、観光名所としても一役買っている。

大陸週報ウイークリー……いや、やっぱ地方紙ローカルくれ」

 早速、通りがかった路上新聞売りから、多少安い都市新聞タウンペーパーとタバコを買った。いよいよ手持ちがこころもとなくなるが気にしない。これから稼げばいいのだ。

 景観高い街路を歩きながら記事の見出しに目を滑らせる。『お薦め住宅ローン』『弁護士妻の不倫殺人』『陸軍にて脱走兵による装備盗難』、そこでクロニカが邪魔してきた。

「ちょっと、ライナス。そんなのあとでいいから、早くカフェに行くわよ」

かすな……ったく、新聞くらいゆっくり読ませろ」

「というか意外です。あなた、字が読めるのですね」

 クロニカの隣を歩くメイド服が、さっそく平然と失礼を飛ばしてきた。

「こう見えても学校には通ってた。八歳の時、三日で退学したがな。学んだことは一つ。

 俺は勉強は好きだが、他人から物を教わるのは死ぬほど嫌いだってことだ」

 言いながらタバコに火をける。隣二名が露骨に顔をしかめるが無視して続ける。

「そもそも観光なら俺抜きで勝手にやってればいいだろ。こっちは忙しいんだ」

 お前らの食いを稼がなくちゃいけないからな、と言外の意味を込めておく。

 しかしクロニカは不満げに唇をとがらせて抗議してきた。

「みんな一緒の方が楽しいもの、イヴリーンもそう思うでしょ」

「いいえ。私はあなたさえ見張れていれば、それで構いません。詐欺師など、正直ぶっちゃけオマケ程度、至極どうでもいいですから」

 それから単調に続く不穏な口調にあわせて、ふとびた匂いがじわりとにじした。俺の吸う、タバコの煙をかき消すほどに。

「私はただ、殺したいだけです。クソ忌々しい残党貴族どもを残らず殺す。そのためだけに、私はかつて黒箒メイドとなり、そして今、軍人をやっているのですから」

「それは、私も含めて?」

 臆す気配もなく、世間話のように問いかけたクロニカに、メイドはためいきで答えた。

「あなたは、物心ついてすぐに革命に直面した世代でしょう。貴族として生きていたわけではない。私的にはギリギリセーフです。かといって仲良くする義理はありませんが」

 ふうんと、クロニカはその場でくるりと身を翻すと、唐突にこう告げた。

「まあいいわ。なら今日の所は別行動ってことで──行きましょう、イヴリーン」

 そう言うと、あかゆきの長髪を数歩分躍らせ、少女の気配は俺の隣から距離を置く。

 イヴリーンもまた、ちらりとこちらをいちべつし、クロニカの後ろに付いた。

 突拍子もない少女の心変わりに驚いていると、みどりの右目が遠間から俺を見つめて。

「じゃあライナス。お金のためとはいえ、あんまりひどい事をしちゃダメよ」

「……ガキが保護者ぶるな。腹立つ」

 憎まれ口をさつそうと無視し、クロニカは長い髪を羊毛のフードにしまい込んで言った。

「でも、明日は絶対、一緒にカフェでティータイムだからね、約束……へっくち!」

 くしゃみだ、最近多い。風邪でも引いたかとくと、クロニカは小首をかしげて言った。

「……風邪? 分からないけど違うわよ。ただ、何となく鼻がむずむずするだけ」

 赤い鼻先をこするその仕草は、はたにはやはり風邪気味に思えるが。

「そうかよ。……言っとくが、熱出しても俺は絶対に面倒見ないからな」

 ──そして二人と別れてからほどなく、俺は、運河を渡す南側の鉄橋に辿たどいた。

 錬鉄製のアイアンケーブルにられたきようりようの上からは、恐らく設計の内だろう、無数の小船が行き交う運河の活況が一望できた。男たちが船から積み荷を運び出し、あるいは逆に積み込んでいく。伝票片手に検品係が駆け回り、そこに休憩中の人夫相手の軽食売りも混じった盛況ぶりはすさまじく、けんそうが、耳をすませばここまで聞こえてきた。

 ふと欄干にほおづえをついた拍子、誰に聞かせるでもない本音が口から転がり落ちる。

「嫌だねえ……」

 あんなふうに労働者として、あくせく真っ当に働くなんて絶対にごめんだと思えた。

 つまるところ俺は、根っからの悪党なのだ。他人を欺き、成果を奪う事でしか生きられない。そしてもう、己の生き方にまつわる後悔などはるか昔に捨ててしまった。

 唯一の肉親すら、金のために手にかけた、あの時に。

「? そういや……」

 その時、ふとしたとらえどころのない思い付きが、突然に脳裏をよぎった。

 通り過ぎたひらめきの正体を確かめるため、新聞をもう一度広げ、見出しを確認する。

 そうしてにわかに動き始めた頭の中で、推測がきざはしを組み上げていく。架空の鐘楼に駆け登り、見えないコインを詰め込んだ、ガラス瓶の音を打ち鳴らすために。

 だが、しかし……不意に力んだ両手が、広げた紙面をくしゃりと握り込んだ。

 足りない。あと一つ、この詐欺に必要なピースが足りない。

 どうする。イヴリーンでは論外だ。だがクロニカでは、さらに問題外だ。

 考えることしばし、どうにも諦めかけた。その時だった。

 視界の端をかすめた人影を見逃さなかったのは、一種の奇跡だったのかもしれない。

 見覚えのある、フリルで縁取られたその日傘に、一瞬で視線はくぎけになった。

「よし……!」

 そして、俺は舞い降りた最後のピースを捕まえに、新聞を投げ捨て歩き出した。


     3


「じゃあ、行きましょうか」

「どこへですか」

「行き先は特に決めてない。まずは、彼に何がピッタリか、探すところから始めましょ」

「……彼?」

 決まってるでしょ、と私は少しだけ、我ながら弾んだ声で言った。

「ライナスよ」

 旅先での私の楽しみは主に三つ、食事と風景、そして服だ。

 服というものは一着一着、基本的にその街の仕立て屋さんでしか出会えない。だから上着一つとっても、土地柄や流行、手がけた職人によって全く違う個性がある。

 だから、私は服が好きなのだ。訪れた思い出を、身につけている気分になれるから。

 けれど今回は、自分に選ぶのではなく。

「なぜ急に、あの男にプレゼントなど」

 キラキラと光るエメラルド色の運河を横手に、真昼の街角をイヴリーンと一緒に歩く。

 気恥ずかしさを押し隠しながら、私はなるだけ簡素に言い切った。

「彼のおかげで、私はここまで旅ができた。……今更だけど、その事に感謝しようと思ったの。でも、何が欲しいか聞いてもどうせアレでしょ? だから──」

 口には出さないが、首都での一件のおびも兼ねてだ。あの店を助けたいというわがままで、彼をとても危険な目に遭わせてしまった。素直にごめんなさいなんて、財産を人質にしている自分が言えた義理ではなく。だからこれは、単なる自己満足に過ぎない。

 けれど、それでも、いつの間にか胸に在ったこの気持ちに、うそはつきたくなかったから。

「とびっきり、似合う物を選んでやるの。あなたも協力してね」

「……構いませんが、あまり期待しないでください。私は、この手の事に慣れていません」

「いいのよ、こういうのは友達と一緒に選ぶから楽しいんだから」

「勝手に友達にしないでください。仲良くする義理は無いと、言ったはずですが」

「そう? だとしても私は気にしないわ。あなたは今から私の友達、決定ね」

 そう言うと、イヴリーンは表情そのものは動かぬまま、面食らったように目をいて。

「……不要です。私の人生に、友人など」

「私は必要。じゃあ決まりね」

 自分よりも少しだけ大きな手を、やや強引に取って握手に持ち込む。

「改めて、友達としてよろしくね、イヴリーン」

 そう言って、少しだけ強めに握った冷たい手のひらは、素っ気なくほどかれてしまったけれど、その反応が気恥ずかしさからなのは見て取れた。

「なんですか……ニヤニヤしないでください」

「ふふ、ごめんね。でもうれしいの、初めての友達だから」

 こちらの薄目の左に気付いたのか、イヴリーンはそっぽを向くように視線をらした。

 そんな彼女の瞳を追いかけた先にちょうど、まち針を模した看板が目に入った。

「ねえ見て! あそこのブティック、丁度いいかも……紳士服もあるみたいだし」

「そのようですね。別に、私としてはどこでも構いませんが」

 投げやりなメイドの手を引いて、店に入る。狭い店内には、詰め込まれるように衣桁ハンガーに掛かった商品が並んでいた。そして中央には小物売り場らしき島が一つ。

 カウンターで針子仕事をしている店員が、ドアベルの音に気付き、こちらに物珍し気な視線を送ってきた。目を合わせ、記憶のさわりを少し読んだ。

 どうやらこの店は近所で評判の腕のいい女将おかみが経営しており、現在外出中。店員の彼女は弟子のようで、今は正直接客よりも師匠から与えられた課題に集中していたいようだ。

 お構いなくと私が身振りで示すと針子の店員は小さく頭を下げて、それきり自らの手元に没頭し始めた。私にとっても都合がいい。せつかくなら、こちらだけで選びたいから。

「やはり、男物は少ないようですね」

「でも、あるにはあるみたい。このジャケットとかシャツとか、サイズも良さそう」

「……その辺はやめておいた方がいでしょう。先ほど気付きましたが、あの詐欺師、どうやら街歩き用らしき中々上等な上下を一式、既にいくつか持っているようで」

 言われてみれば確かに、今までも彼は街に着く度、結構パリッとした服装に着替えていたような気がする。これまであまり気にしてこなかったが、どうやら割と高級品らしい。ここの商品の価格帯からして、流石さすがに品質でまさるのは難しそうだ。であれば、

「普段、身に着けてないような物の方が、いいかしら」

 そう思い、視線を中央の小物売り場に移す。作業手袋やエプロンなど日用品が詰められたワゴンの横で、スカーフやハンカチなどの小物が平棚に整えて陳列されていた。

 せっかくなので幾つか、ちょっと隣のイヴリーンに着けてみることにする。

「いえ、一体何がせっかくなのですか。……ちょっとおい、そのやたらピンクめなリボンを着けてこようとしないでください、子どもっぽくて嫌です」

「じゃあこっちは? あ、これも可愛かわいい」

「だからピンクはやめなさい。水玉模様も却下します」

 妥協してシンプルな赤いストールを首元に巻くと、彼女は鬱陶しそうに顔をしかめて。

「……当初の目的を忘れていませんか」

「大丈夫、こう見えてもちゃんと探してるんだから、ほら。ねえ、これ、いいと思わない?」

「悪くはないでしょうね。うさん臭さが増します」

「ふふ。確かに。……決めた、これにする」

 そうと決まれば、早速残りのお小遣いをはたいて、私はそれを購入した。

 それは、帽子。綿コツトンで仕立てられた黒いミルキーハットだ。

 順序が逆になったが、試しに店内の姿見の前でかぶってみた。思った通り、私の明るい髪色よりは、ライナスの麦茶色の髪の方が、きっと悪くない組み合わせに違いない。

「喜んでくれるといいですね。知りませんけど」

「別に、期待してないわ」

 言いながら、頭に被せた帽子を胸に抱え直す。

 彼は、この思い出を気に入ってくれるだろうか。

 鏡に映る私は、どことなく期待に浮かれたように、口の端を持ち上げていた。


     4


 運河の昼下がり。首都で出会った女貴族、パトリツィアと思いがけず再会した俺は、以前の非礼をびつつ、彼女を手近のカフェに誘っていた。

「あの、ウィル。御病気の具合は……」

「ああ、すっかり完治しましたよ。腕のいい医者が見つかってね。最新医学に基づいた死ぬほどい紅茶療法のおかげで今ではピンピンさ」

「まあ! それは良かったですわ!」

 相変わらずチョロくて助かる。しかしながら、今回のターゲットは彼女ではない。

 俺はさり気なく、カフェテラスの横手を流れるすいぎよく色の対岸へ視線をやった。そこに鎮座するのは、この世で最も厚化粧の建築物。別名、銀行だ。

 今回の狙いは、銀行相手の融資詐欺である。

 一般的に、銀行は金の預け先と思われがちだが、同時に金貸しでもある。むしろ、そちらの方が本業か、貸付金の利子がやつらの利益の源泉なのだから。あとぼったくりの手数料。

 融資詐欺とは、そうした銀行の習性に付け込んだ手口であり、個人を相手にする詐欺と要点は全く変わらない。絶対もうかるし後で返すから金をくれ、という要求を通すだけだ。

 そこに必要なのは、俺自身の立ち振る舞いや架空の会社情報に加えて、もう一つ。

 パトリツィアの手を取って、ウィルソンは真剣な表情で告げた。

「あれから、君のことをずっと探していたんだ」

「え、あ……う、うれしいです。わ、わたくしも、あなたのことが忘れられなくて……。この街にはようで寄っただけですのに、まさか再会できるなんて、感激で──」

「だから、結婚してくれないか」

 途端、パトリツィアの表情筋は完全に停止した。

 もう一つ必要なもの、それは、妻だ。

 独身は、社会的な信用力が低い。はっきり言ってゴミ以下だ。マトモな銀行なら、いい年して独り身の男になんて耳も金も貸したりしない。

 婚姻証明書の偽造も、できないことはない。──が、それでもやはり、この計画を成功させるためには、絶対に実物を持っていく必要がある事を、俺は知っている。

「君と出会った時に、運命を直感したんだ。僕の生涯のパートナーは君しかいないって。だから、もう一度言います。この運命に同意してくれるなら、僕と夫婦に──」

「なりますっ!!

 食い気味の断言に、俺は内心でほくそ笑んだ。間抜けなピースが、ハマった瞬間だ。

 ──そうして無事に婚約を交わした二人は、しばし相談をした後、カフェから出たその足でさっそく対岸の銀行へと赴いた。

 ウィルソンが銀行に行くのは、自身のビジネスへの融資を請うためだ。

 それにパトリツィアが付き添って行く理由は、この婚約を成功させるためである。

 彼女が結婚するためにはまず、なかたがいしている実家の父と和解し、許しを得なければいけない。結婚には両親の承認が必要だからだ。

 彼女の家出は、父親が持って来た縁談が原因だった。であるならば、気に入った結婚相手を見つけたと言えば、あっさりと解決しそうだがそうはいかない。パトリツィアは南部貴族の名家の子女である。その辺の成金と結婚など、真正面から許されるはずがないのだ。よって、もう一工夫が必要となる。

「あの、ですけど、お金を幾ら積んでも……父はそう容易たやすうなずいたりはしないかと」

「分かってるさ。だからこれは、少しきような手段になる。もし君が嫌だと言うならやめよう。僕は堂々とお父様へ挨拶に伺って殴られるよ。君との結婚が許されるまで、何度でも」

「ああ! かわいそうなウィルっ……! そんなこと、わたくしは耐えられませんわ……!

 うん、やりましょう。お父様の体面や家の都合なんて知ったことではありませんし」

 つまりは発想の転換だ。先に、結婚という既成事実の方をつくってしまえばいい。

 法的な結婚には、互いの両親の許可が必要。しかし、すでに結婚していると偽って、夫婦の名義で社会的な契約を交わした場合、どうなるだろうか。

 無論、その契約は無効になる。だがしかし、要はこういう事だ。

 銀行から夫婦の名義で多額の融資を借り受ける。それが後から無効になった場合、ただ金を返すだけでは到底済まされない。当然、賠償もせねばならないはずだ。

 相手はこの州で最大手の地銀だ。もみ消すには少々大きすぎる醜聞スキヤンダルだろうし、名家というのは体面を何より気にする。

 長くなったが、つまりは結婚の事実を認めなかった場合、彼女の実家にすさまじいデメリットが発生するような状況をつくり、父親を脅迫するのである。そのために、パトリツィアは夫婦の名義を詐称して、銀行から多額融資を受けることに賛成した。

「ウィル、あなたって天才ですわ! わたくし、お父様のお顔が屈辱にゆがむのが楽しみです!」

「え、ああ……うん。君が幸せなら何よりだよ。パティ」

 しかしもちろん、本当に結婚するわけではない。あくまでこれは詐欺なのだ。

 よってパトリツィアは、今から行うのが融資詐欺だとは知らないし、自分がこれから結婚詐欺の被害者になるとは思ってもいないだろう。そして、気付く事もできない。


 うそをつくときのコツ、その四。

 嘘とは、相手の望みをかなえるものでなければならない。


 だまされる側には、騙されたい理由があるのだ。都合のいいもうけ話、あり得ない幸運、そういったモノへの下心を捨て切れない限り、どんな人間だってカモになり得る。

 パトリツィアは、家出をした自分は、しかしその選択が間違いではなかったのだと、運命の相手と出会うためのものだったのだと思いたがっている。

 ならば銀行は、どうか。答えはすぐにわかる。いつか、銀行は詐欺師の親戚だと言ったか。しかし血を分けた偽り稼業同士とはいえ、詐欺師おれの方が上だと教えてやる。

 無駄に立派な建物に入り、受付へ向けて、ウィルソンは柔和な笑顔を浮かべた。

「初めまして、私はウィルソン=ブロジェットと申します。こちらは、妻のパトリツィア。

 早速ですが、貴行の融資担当とお話がしたい」


     5


「初めまして、ブロジェットさんとご夫人ですね。私が当行を代表して本日の担当をさせていただきます、ニコラス=ローンと申します」

 立派な応接室で、フチなし眼鏡をかけた壮年の男が礼儀正しく頭を下げた。

「どうも、初めましてローンさん。本日はよろしくお願いします」

 狙い通りだと、俺は内心でほくそ笑んだ。恐らくは副あるいは支店長クラス。初手で決裁権を持つ上役が釣れた。彼らは、どうせ後で自分たちが決めるのだからと先んじて小切手を書いてくれる。どこの職場でもそうだろうが、上の立場であれば臨機応変という名の灰色の規則違反を、程度の差はあれまかり通せるものだ。

 だが無論のこと、そうした融通が利くのは、相応の魅力を備えた客だけである。

 魅力。それは受付への第一印象であり、つまり服装、言動、物腰と、加えてもう一つ。

 だから、いかにも裕福そうな、実物の妻ホンモノが必要なのだ。

 俺は落ち着き払ってソファにかけたまま、隣で緊張した面持ちのパトリツィアの手をでてやった。いくらかは、よくやったという意味合いも込めながら。

「あの……ご無礼ながら、指輪をされていないように見受けられますが?」

「ああ。まだ入籍前でして、それに職人に無理を言ったせいか納品が遅れていましてね」

 左様でしたかと、ローンは軽く謝罪した。そして世間話は終わり、会話は本題に移った。

 ウィルソンは自身の経営する東部の輸出向け農場について、架空の説明を開始した。

「……というわけで、融資をしていただきたいのは、来年度の経営税の支払い分、いわゆるつなぎ資金です。今年は自由貿易の解禁もあってか売り上げが絶好調で……その分税額負担もハネ上がってしまいましてね。収益は売り掛け含めて大部分を投資に回しているので、取り合えず納付期日を無事にやり過ごす必要がありまして」

 もうかった分、増えた税金の支払いに融資を受けたい。ありきたりな理由だが、俺の経験上、この話が最も効く。稼ぎの良い事業主だと思わせられるのだ。

「なるほど、では東部の銀行からは既に融資を?」

「ええ。ですがご存じの通り、今の金利はこちらの方が安いもので、今後はこの州の銀行とお付き合いさせていただければと」

 たとえ事業地からは遠くとも、低金利の銀行から融資を受ける。これもありふれた話だ。

 俺の提出した架空の決済証書と土地権利書をチェックしながら、ローンはうなずいた。

「……ありがとうございます。お話は承りました、書類内容も申し分ございません。お急ぎのようなので、早速この場で小切手をお渡しいたしますよ」

 その言葉に、俺は冷ややかな達成感と、ほのぐらい優越感をたたえて感謝を返した。

 もう一度言おう。だまされる側には、いつだって騙されたい理由がある。

 しかしながら、銀行だって見境なく金を貸したいわけではない。傘を、既に持っている相手に貸す意味はないが、屋根もない相手に貸しても返ってこないのは目に見えている。

 つまり、貸した金を元手に、より多くの金を稼いで、さらに借りて、また稼いで、また借りてくれる……そんな理想の恋人を、こいつらは常に待ち望んでいる。

 だから、俺は望まれるままに存在しない真実を演じてやればいい。

「しかし奥様もやり手ですね。こんな素敵な旦那様をどこで捕まえたのです?」

 小切手を書きつけながら、ローンはパトリツィアにつまらない世辞を向けた。

 問題ない。こっちはちゃんとした天然モノのお嬢様だ。取り繕わせる必要もない。そう思いながら、俺は一息つくような心地で冷めた紅茶に口をつけた。が、その瞬間。

「ぴ、ぴぇええぇええっ……ずず、ぴ、ぴぃ~!!

「ぶっ!?!!

 突然、謎の鳴き声を上げて鼻をすすり始めた隣の女に、俺は思わず噴き出した。

 パトリツィアが、泣いている。なぜか、それはもうぐしゃぐしゃに大号泣していた。

「ご、ごべんなさい。けど……わ、わたくしうれしくて、嬉し、過ぎてっ……これで、ようやく、あなたと結婚できるんだと、思うと……」

 急に何言い出してんだこいつ──喉元まで出かけたのを飲み下して、俺は懸命に隣で泣きじゃくる背中をさすった。

「はは……す、すみません、彼女、すごくなみだもろくて、あと訂正するけど僕らはとっくに結婚してるんだよ! ……ゆっくり吸って、吐いて、ほら、落ち着けそうかい、パティ」

「すー、はー、すー、はー……ぴ、ぴぃ~~っ!!

 ダメそうだった。まさかのアクシデントに、泣きたいのはむしろ俺の方。

 慌ててハンカチを渡してくるローンの顔が引きつっていた。確実に引いてる。

 このままでは、この場がお流れになってしまうかもしれない。架空の事業に実態などない以上、後に回されたついでに突っ込んだ信用調査などされれば終わりだ。だから絶対に、この場で小切手を受け取れなければダメなのだ。だというのに、

「す、すみません……だって、だって……好きな人と結婚できるなんて、そんなこと、ありっこないって、心のどこかで、ずっと思ってたから……!!

「奥様……」

 その時、ふと落とされたローンの声には毛色の違う戸惑いがあった。

 しかし考える余裕はなく、俺はとにかく妻役の背中をさすり続ける。

とうさまに、用意された結婚相手が嫌で、嫌で……家を飛び出して、ようやく運命の人と巡り会って、恋に落ちて……だから、わ、わたくし、嬉し過ぎて、耐え切れなくてぇ……」

 細い肩を抱く俺の腕に、ぱたぱたと熱い涙が落とされた。止めどなくあふす彼女のおもいの丈は、理屈ではない何かに迫っていたが、

(アホが……)

 俺の心境は、驚くほどに寒々としていた。彼女はだまされているのだ。この涙も、明日の夜にはきっと別の色に変わっている。しかし俺には、罪悪感の欠片かけらも湧いてこない。

 ならそんな感情は、詐欺師が持つはずがないのだから。

 けれど、その時湿った沈黙を破ったローンの眼鏡の奥には、そんな情緒がのぞいていた。

「奥様……実は私にも、娘がいます」

「へ?」

 一転、戸惑ったように顔を上げたパトリツィアへ、ローンは気恥ずかしそうに続けた。

「もう数年前になります。恥ずかしながら、ずっと仕事一筋でしたからロクにかまってやれず、せめて縁談だけはいいものをと苦労して相手を見つけてきたんですが、そんな相手とは結婚したくないと、別の男と駆け落ちをされました」

 深いため息を挟んで、ローンは続けた。

「今では年に一回、短い手紙が来るだけです。当時から娘の気持ちが理解できませんでしたが……失礼ながら、今の奥様の様子を見て、少しだけ分かったような気がいたします」

「そ、そうですの……で、でも、ええ、貴方あなたのお嬢さんは、きっと幸せだと思いますわ」

 だってと、パトリツィアは涙とともに言葉を切ってから、はっきりと微笑ほほえんだ。

「運命と出会えて、それを自分で選んだんですもの」

 その言葉に、ローンはそうかもしれませんと吹っ切れたようにうなずいて。

 この部屋で一人、俺は冷え切った胸を抱えながら、人知れず嘆息した。

 どうしてこいつらは、愛だの情だの、そんなあやふやなものに価値をいだせるのだろう。

 愛の言葉はいくらでもある。君が大切だと示す行為は世の中にありふれている。けれど、それらの源泉、その心は、果たしてどこにどれだけ存在する?

 どこにも在りはしない。決して触れないし、見えもしない。そんな真実とはただのあやふやな思い込みだ。昨日の今日で、天気のように簡単に移り変わる。

 それとも、もしかすればこの世でただ一人、あのひだりだけには。

 ──その実在が、見えるのか?

 不意に沸き上がったのは、得体のしれない感覚だった。いらち、焦り、嫌悪。そのどれでもあり、どれでもないような、あまりにも核心的な不安感。

 それを、俺はとつに奥歯で潰して飲み下した。


     6


 結果として、無事に融資を取り付けた俺は、パトリツィアとともに銀行を後にした。

 いろせた午後のしに、手に入れた小切手せんりひんを掲げてほくそ笑む。

 見えないコインの音が聞こえる。それは、俺にだけ鳴り響く祝福の鐘だ。

「チョロいもんだ」

「ウィル? 何か言いまして?」

「いや、何でもないよ。ところで、今日はありがとう。助かったよ」

「……い、いえ。本当にごめんなさい、私ったら、あんな恥ずかしいを……」

「でも、そのおかげで相手が気を許してくれたんだ。の功名さ」

 小切手を懐にしまって、二人並んで歩く。冷えた秋風が吹いて、隣の金髪をなびかせた。

 俺はそっとさりげなく、パトリツィアの指に触れ、そのまま絡み取るように手をつないだ。

「今日は本当にお疲れ様。君のホテルまで送るよ」

 あれだけ盛大に泣いたのだ。すっかり化粧が落ちてしまった彼女を、これからデートに誘うような無神経さは、ウィルソンの性格ではない。

「……あ、ありがとう」

 彼の気遣いを察したのか、パトリツィアは赤らめた顔で小さく頷いた。

 ホテル前に到着した。神殿調の柱を配した、大理石のエントランスで別れを交わす。

「今日は、長々と興味のない話に付き合わせてしまったね。埋め合わせは明日するよ」

「わ、わたくしこそ、みっともない姿をお見せして……幻滅、しましたか?」

「とんでもない、何度も言うけど、もう気にしなくていいさ」

 笑いかけ、明日、ここに迎えに来るよと約束する。それから熱っぽく潤んだ瞳へ、ウィルソンはほおにキスだけをして別れを告げた。

 彼は、紳士だ。そして俺は、もう少しらしたほうがいいと判断した。

 ホテルから出る。顔から仮面をがして、ほのかに夕暮れを匂わせ始めた空気に捨てた。

 それから街に着いた時、チェックインしていた安宿へ向けて歩き出す。

「さて、どうしてやろうかな」

 明日のことを考えると、笑いが止まらなかった。やはりあの女は、俺にとことん利用される運命だったらしい。そう思い、鼻歌混じりに歩いていると。

「あら」

 見知った声。そして、行く先に立っていた紫水晶アメジストが、俺をすくめた。

「奇遇ね、ライナス……いいえ、ウィルと呼んだ方がいいかしら」

 妖精のように、街路樹の下にたたずんでいたのは、予想通りの少女が一人。

 なぜかその頭には、見知らぬ黒い帽子がちょこんと乗っているが。

「……何の用だよ。あの暴力メイドと一緒じゃないのか?」

「さっきまではね。けど、少し長くかかるかもしれないから先に帰ってもらったの。

 ──これから、あなたをしつけるのに」

 冷めた声音が、ぴしゃりと俺の頬を打った。そしてとがめるような半眼が俺をにらむ。

「ひどい事をするなって言ったわよね。あの首都で口説いていた女の人、どうするつもり」

「大方想像つくだろ。それよりお前……なんだそのダサい帽子」

「へえ」

 冷えた汗が頬を伝う。しまった。今の一言が、げきりんに触れたと悟った瞬間。

「ちょっと、そこにひざまずきなさい。──跪け」

 後悔よりも早く、視線を介して入力された命令が、強制的に俺の膝を折った。

 そして、触れあう距離に近づいてきたクロニカはのぞむように俺の頬をつかんだ。

 あかゆきの髪が帳を下ろし、おんひだりが俺の心を、記憶を……魂を読み取っていく。

「ふうん。そう、また結婚するの。それに随分楽しそうだったみたいね、馬鹿」

「うるせえ、よ。大体、誰がお前の食いを稼いでるんだと」

「それはただの口実でしょう。そもそも、そんな必要ないじゃない。

 ……だって旅費ぐらいなら、今は私が記憶してるあなたの口座から──」

「黙れ」

 反射的に喉が動いた。義務感にも似た否定の感情が、強い口調で転がり出る。

 その金は、「俺」が詐欺師であるために、他人をだまし欺き、積み上げてきたものだ。

 これまでの道中、路銀としていやおうなく稼いできた金とは、まったく意味が違う。

 誰にも、ビタ一たりとも譲れない己の存在の立脚点。それが、もしも使われてしまったら。「俺」が俺ではなくなってしまう……いや、待て。

 使うつもりのない金を、ただ積み上げる。そのために、俺は詐欺師になったのか?

 いや、そうだ。そのはず。それで間違いはない。なのに、どうして冷汗が止まらない。

 うっかり転んだ拍子に、大切な宝物にひびを入れてしまったかのような、取り返しのつかない喪失への恐怖感が、胸の奥に亀裂を入れる寸前──。

 俺はどうにか、あらゆる思考を停止した。

 そのままぼうぜんと、空なる心境でクロニカの瞳を見つめ続ける。そうして俺たちは、あかゆきの髪が下ろしたの中で、吐息とともに張り詰めた沈黙をぶつけあう。

 幸いにも、自滅しかけた思考の先までは、少女に悟られなかったようだ、が。

 それは許しに足るものではなく。だからこそ紫紺の魔眼で、少女は俺に判決を下した。

「とりあえず、この街にいる間は」

 詐欺師おれにとって、死刑に等しい宣告を。

「真面目に働いて稼ぎなさい──特に、女性をたぶらかさないこと。いいわね」


     7


 因果応報とは、こういうことを言うのだろうか。

「オイ、そこの新入り! なにノロノロしてんだ。ノルマ運ばなきゃ給料出さねーぞ!」

「す、すいま……せん」

 だとすれば、こんなものがまかり通る世の中はクソったれだ。

 運河のほとりの船着き場。流れを下ってきた貨物船からの荷下ろしは、この街に住む労働者の仕事の一つだ。停泊する船から荷物を運び出し、または積み込んでいく。季節は秋とはいえ、良く晴れた日中の重労働は想像していた百倍以上にキツい。というか死ぬ。

 足がふらつく。肩に背負ったたるを首で支えると、中身の波打ちが重く頭に響いてきた。荷物の大半は酒樽、もっと言えばビール樽だった。水が澄んだ上流の醸造所で作られた麦酒は、運河によって下流の街へ行き渡る。

 ビールは、樽の中でも発酵している。

 ガス圧でパンパンになった樽を運ぶたび、腕と肩が削り取られていくのを錯覚する。

「おい! 何へばってんだ若造! お前だってビール好きだろ!? 好きなもん運んでるくせに、その程度で疲れるなんておかしーだろうがよぉっ! ええ!?

 俺が一樽担いで一往復する間に、両肩に一樽ずつ乗せて二往復する監督役の怒鳴り声が、はや暴論なのか正論なのかも分からない。汗とともに思考力さえ流れ落ちたのか。

「お願い……します。せめて水を──ガ、っ、ごぼっ!?

 弱音を吐いた途端、後頭部をぐいっとつかまれてばしゃん、かわに顔面を沈められた。

「おら! 好きなだけ飲め、このヒョロヒョロ野郎が!」

 再び日の光を見られたのは、窒息死しかける寸前だった。

「おっと、危ねえ。まだ死ぬんじゃねえぞ。明日もあるんだ、今日はこれで勘弁してやるが……あんまり使えないようなら、どうなるか分かるな。……オラ! 返事ィッ!!

 返答しようにも、気道に入った水を吐き出すのがやっとの有様。どうしてこんな目に。本来なら今頃、あのバカ女から更なる大金を巻き上げているはずだったのに。そんなささやかな現実逃避すらも、腹を蹴られて中断させられる。

「おい、聞いてんのか! このヒョロ造! 返事もまともに──」

「そのぐらいに、しておいたらどうです」

 唐突に、怒声と暴力がピタリとんだ。そして短い舌打ちと、足音が遠ざかっていく。

「大丈夫か」

「……ああ、おかげで、助かったよ。あんたは」

 差し出された分厚い手のひらを、遠慮なく握って立ち上がる。

 見上げる先に立っていたのは、いかにも労働者の麻シャツに、張り裂けそうな筋肉を詰め込んだ、灰色の髪の大男だった。不器用そうな無骨な顔が俺を見下ろしている。

 道理で、あの監督役が逃げ出すわけだ。

 こちらが立ち上がったのを確認して、ゆっくりと手を離し、彼は名乗った。

「ヨハン。君と同じ、新入りだ」

 ──それからしばらく。俺たちは、どちらともなく身の上話を始めていた。

 話を聞けば、ヨハン、彼は元々陸軍にいたらしい。その筋肉に見合わず後方支援にあたる補給部隊の中尉だったと言うので、ついついそれを口に出すと。

「帳簿の計算が得意だったから、配属された。軍隊は、筋肉だけを評価するわけじゃない」

 言いながらたるをまとめて四個担ぐ姿は、大した説得力だと評する他ない。

「……じゃ、どういう事情で筋肉の方をかす気になったんだ? 横領でもバレたのか」

 太い首を振って、彼は一身上の都合だと不愛想に答えた。

「軍は辞めた。今は、訳があって旅をしてる。日雇いこれは路銀を稼ぐためだ」

「なら、お互い似た者同士ってことか」

「そうなのか?」

 たずね返す低い声に、俺は力なくうなずき返した。


     8


「一体いつまでそうやって、無意義にむくれているつもりですか」

 午後の運河を見下ろす喫茶店のテラス。黒髪を肩で払い、イヴリーンはぬるくなったコーヒーを口に運びながら、私に訊ねてきた。

 半ば強引に街中のカフェテラスに付き合わせ、昨日の、あのロクデナシについての愚痴を聞かせること一時間。彼女が大分うんざりしているのは、目を見なくても分かる。

 だいじゆの木漏れ日の下、そよ風が私の髪をなだめるようにすかす。でも、それでも、胸の内の感情の嵐は、一向に収まる気配がない。

 私はやるせなく、テーブルの上、半ばまで食べたデザートパフェを見つめた。どっしりとしたサンデーグラスにはたっぷりの生クリームと、桃とリンゴのカットが見事にそびえていた。けれど今は、溶けたクリームの沼に、数切れの果物が沈んでしまっている。

 とてもしかったのだけれど、一人で食べるには、やっぱり少しだけ多過ぎたから。

 イヴリーンは甘いものが嫌いだ。だから、やっぱり、

「本当に馬鹿……一緒に、食べたかったのに」

 白い沼にスプーンを入れ、水っぽくなった甘さを口に含むと、イヴリーンが言った。

「しかし、私にはよく分かりません。どうせ金目当ての結婚詐欺。あなたの立場で、そこまであの男に対して怒りを覚える必要があるのでしょうか」

「そうだけど……それだけじゃ、ない」

 椅子の背にかけた、渡せなかった帽子に意識を向ける。私だって分かっている。一方的に期待して、にされたと感じて、ほとんど衝動的な怒りをぶつけてしまった。

 もう少し、冷静になれていたなら。そんな後悔をすように、私は言った。

「でもあの子は、たまには汗水を垂らして真面目に働いてみるべきなのよ。少し、世の中に対して斜に構えすぎだもの」

「まるで保護者。姉か何かのような言い草ですね」

 イヴリーンに言われて、私は今口走った内容に気が付いた。

「そうね。……もしかしたら、私はその代わりになりたいのかも」

 ライナスへ、私が必要以上に抱くこの感情は、確かにそういう種類のものなのかもしれなかった。放っておけない、おきたくない。ともすると私という精神は、存在しない肉親というものを求めているのだろうか。

「……もしやあの男、姉がいるのですか」

「? そうだけど」

 瞳の中の魂に見た、ライナスの記憶。けれど彼の姉が今どうしているのかまでは読み取れていない。それだけは知られたくないように、いつもすぐ目をらされてしまうから。

 きっと、何かしらの傷なのだろう。無遠慮に踏み込むつもりはない。けど、気にはなる。

 対面で、コトリと、飲みかけのコーヒーカップがソーサーに置かれた。そのどこか寒々しい陶器の響きに乗せて、イヴリーンはつぶやいた。それは奇遇ですね、と。

「私にも、弟がいました。──殺しましたけど」

 沈黙が下りる。調子はずれなそよ風が、テーブルの上を遠慮がちに通り抜けた。

 私は何も言わなかった。なら、知っていたから。最初に会った時、イヴリーンの凍った瞳の中に、たぎる黒い炎の正体を見てしまった。

 私はひだりを閉じたまま、そう、とだけうなずいて、それで会話は終わった。

 しばし、私は残っていたパフェの片付けに没頭し、イヴリーンは黙って運河を眺めていた。

「というか小娘、あなた支払いの事を考えていますか」

「……あ」

 そんな事だろうと思っていましたと、あきれたような嘆息が続く。

「仕方ありません。管理局にツけておきます。これぐらいの出費なら問題ないでしょう」

 袖口の影から取り出した白紙の小切手に書きつけて、イヴリーンは渡してくれた。

「これで支払えるかどうか聞いてきなさい。ダメなら、皿洗いを一人雇えるか聞きなさい」


 ──小切手を持った少女が、席を立ってから暫し。

 一人残ったイヴリーンは、空のカップの前で腕を組み、ぼうっと景色を眺めやった。

 もう一杯、コーヒーのお代わりでも頼もうかと、彼女が考えたその時、

「全部です」

「はい?」

 背後の席から、明らかに戸惑った店員の声が響いた。

「このお店のケーキもパイもお菓子も材料の限り全部です。はやく持ってきなさい」

「で、ですがお客様。失礼ですけど、それほど召し上がられるようには……」

「見えませんか」

 黒白のメイドがちらりと振り向くと、困惑する店員に、席に座った金髪の女性が、悲壮なまでの気迫を立ち上らせていた。

「婚約者にすっぽかされた──この胸の傷心が、見えないのかと聞いたのですわ。よって今、わたくしの乙女心は天地をらいつくすほどにっぱちなのです。理解、できまして?」

 おびえるウエイトレスを店内へたたき返したのは、理解ではなく迫力だった。

 振り返り、その一部始終を目撃していたイヴリーンは、思わず声をかけた。見事な変装だが、見るのは二度目だ。だからその金髪の女貴族は、詐欺師の変装だと知っている。

「一体何をしてるんですか、貴方あなた

「はっ! か、勘違いしないでくださいまし! これはただ傷ついた乙女心を修復するためのやむを得ないやけ食いであって、決してダイエットの誓いを破ったわけでは──。

 ……って、一体どちら様ですのあなた?」

「いや私ですが」

「……あなたのような目つきと、ついでに口も悪そうなメイドの知り合いは、あいにくおりませんが」

「は? そんなこと思ってたんですか殺しますよ。……というか、必要もないのにまた女装してる男に言われたくありません。妙な癖はせめて私の視界外で発散してくれますか」

「じょ、じょそ……っ!? 失敬な! 私はれっきとした生まれ落ちての淑女ですわ!」

「うわ(ドン引き)。役作りもここまでくると恐怖です。というかあなたごときがレディ名乗るとか冷静になってヤベーと思いませんか。この際言っておきます。ここ数日で気付きましたけどあなたイビキがうるさいし地味に足が臭いんですよ」

「──(絶句)」

 そこにぱたぱたと、戻ってきたクロニカが声を発した。

「お待たせ、イヴリーン。ありがとう、支払いは大丈夫だったから──待って、その人」

「……あなたは」

 金髪のへきがんと、あかゆきの紫水晶が、視線を交わして──クロニカはついに見た。ずっとライナスが関わっていた金髪の淑女が、誰で、何者であったのかを。

 そしてとつの目配せは、黒白のメイドにも即座に真相を伝えて。

「……ああ、なるほど。まったく、便利なですね」

 状況の理解と、イヴリーンの行動は全くの同時だった。

「どうやら誤解していたのは私だったようで、先ほどの非礼を謹んでおび申し上げます。──というわけで、死ね」

 瞬時、腰かけていた椅子を倒すと同時、抜き放たれたイヴリーンの足刀は、しかしむなしく空を切る。いつの間にか立ち上がって攻撃を回避していた金の淑女は、低い声で言った。

「……何のです」

「やりますね。バカそうなくせに反射神経はマトモらしい」

「だ、誰が馬鹿ですのっ!! い、いえ、というかそれよりも! 先ほどのそのひだり

 その少女はもしや──癌細胞ドローキヤンサー!?

「……パトリツィア=ウシュケーン。まさか、ホントに騎士団だったなんて」

「? わたくし、名乗りましたっけ? ……ああ、そういえばそういう能力だったかしら」

 いいでしょう、とパトリツィアは優雅にロングスカートの端を持ち上げてみせた。

「とはいえ、まったく面倒な偶然ですわ。ここで出遭ってしまったのも何かの縁、やる気はありませんでしたが任務は任務。大人しく、捕まってもらいますわよ」

 粛然とお辞儀された宣戦布告。対して、クロニカの答えはあっさりとしていた。

「ごめんなさい。あいにくだけど、それは無理なの」

「──グッドルアーでした小娘。では危ないので入っていなさい」

 そして少女の姿はいつかのように残響一つなく、井戸底へ落ちるように立ち消えた。

 影の領域への物質収納。用済みの釣り餌を退避させたイヴリーンは、肉食獣のような笑みを浮かべたまま、ゆらりと立ち上がる。

 対して、パトリツィアは少女の消えた影をにらみながら、冷めた声音で言った。

「あなた、一体何者ですの? 情報では、がんさいぼうは、詐欺師の男と一緒のはずですが」

「はっ。……私に質問しないでください。今からいつくばる分際で、頭が高えんだよ」

 もはや一般人では、遠巻きに眺めるだけで誰も立ち入れない。すさまじい緊迫感が、物理的な圧迫となって昼下がりのカフェテラスを平穏から隔離した。

 そして間もなく、二つの戦意は声もなく、互いに一つの合意を取り付ける。

 すなわち、この場で殺すということを。

 先に動いたのはイヴリーンだった。が、彼女自身は一歩たりとも動いていない。

 四方八方、午後の日差しが大きく伸ばした木立の、そしてテーブルと椅子の影が鋭く立体化して立ち上がるとともに、やりぶすまのようにパトリツィアへ向け発射されたのだ。

 匂いもなく音もない。察知不能の影による奇襲攻撃。しかしながら。

「まあ……ある意味では、丁度いいとも言えますか」

 対象を貫こうとした影の群れは瞬時、その先端から燃え落ちた。

「予定変更です。いではなく、八つ当たりといきましょう」

 水色のコートドレスの背後に揺らめく陽炎は、彼女からあふれる光熱のへんりんに他ならない。舞い落ちた木の葉が炭と化し、テーブルクロスの裾が焦げていく。

 そして金髪を結わえていた、青いリボンが合図のように焼け落ちた。

 淑女たることを己に課したパトリツィアは、平素、身体能力はもとより、血の内にたぎる熱量のすべてをおのずから戒めており、しかしてたった今、彼女はそれを十全に解放した。

「そういえば……名乗り遅れていましたわね。私の名はパトリツィア。騎士団〝仮〟加盟員、南部四大公が一、パトリツィア=ウシュケーンと申します」

 ……ほおたたく熱波を受け流しながら、イヴリーンは無言のまま考える。

 思考の矛先は無論、敵の貴血因子レガリアについて。恐らくは熱を操るたぐいであり、本人を覆う不可視の熱流が、接近物を察知と同時に焼き切っているのだろう。

 その操作性、および感じられる出力を鑑みて、少なくとも一親等級の強力な貴血因子レガリアであることは間違いなかった。

 無言のまま次なる攻め手を模索するイヴリーンに、金の淑女は余裕気に言った。

「名乗られたら、きちんと名乗り返すのがマナーですわよ。というわけで、お名前をどうぞ。

 別に恥じ入らずとも結構ですわ。たとえどれだけいやしい田舎メイドの分際でも、自分の名前を口にする権利ぐらいはありますもの」

 腕を組んで不敵に笑う金髪へきがん。対して、いろの冷眼は短く吐き捨てた。

「ありませんよ」

「……はい?」

「テメエごときに、私の名前を聞く権利はねえって言ったんだ」

 パトリツィアは一瞬真顔になり、それから小さく、肩を震わせて。

「ふ、ふふ、面白いですわ、貴女あなた。──ぶち殺して差し上げます」

「それは、こっちのセリフです」

 そして巻き起こった爆発が、昼下がりのテラスを粉砕した。


「で、負けちゃったわね」

「……負けてません。一時撤退です」

 数分後。街のどこかの屋上で、イヴリーンは焦げた前髪を忌々し気に引きちぎった。

「あのクソアマ……大体、私と相性が悪すぎます。忌々しい、あんな面倒な貴血因子レガリアを持ちやがって」

 影を媒体とする彼女の貴血因子レガリアは、光や高熱に弱い。ほとんど一方的に敗走させられたイヴリーンは、怒り心頭といった様子で石積みの出隅コーナーを蹴り砕いた。

 しを背にして屋上の縁に腰かけたクロニカが、言った。

「それで、リベンジは今晩?」

 返答はせず、イヴリーンは半ば独白のように今後をつぶやいた。

「あなたは宿へ送ります。それから、この街の市警と州軍へ話を通しておかなければ」

「そう。出来れば晩ご飯までには、帰ってきてね」

「保証はできませんが、一つだけ約束しましょう」

 断言したイヴリーンは西へ傾く太陽へ、勢いよく中指を突き立てた。

「あの女、絶対にぶち殺す」

「……生け捕りにしなきゃ、話は聞けないと思うけど」


     9


 丁度太陽が西に沈んだ頃、鳴り響いた終業のらつに労働者たちの歓声が重なった。

 俺はと言えば、残された力を振り絞っても、蚊の鳴く声すら出てこない。

 しかしそれでも歩く。ヨハンの肩を借りながら、歩く。歩かなければならない。

 給料を、受け取るために。

「よーし、野郎ども今日も一日お疲れさん。いつも通り、最初の一杯は店主のご厚意で無料サービスだ。後は、今受け取った労働の対価で好きにしな」

 労働者たちの日当は、運河近くの酒場で配られた。

 十中八九、監督役と酒場の主人が共謀しているのだろう。なけなしの日当とともに渡された泡の滴るジョッキを一口飲んでしまえば、後は坂を滑り落ちていくだけだ。

 だが俺はといえば、晩飯代わりに最初の一杯を片付けてすぐ、騒がしい店内に背を向けた。限度を超えた疲労のせいで、はや胃がこれ以上何も受け付けられないのだ。

 しかし、薄々分かってはいたが。

「おいおい。なに、一人だけシケ込もうとしてんの、新入り」

 出口に立つと同時、背後から肩に手を置かれた。振り返ると、口ひげを白い泡で汚した男が、ウザいほど気安い調子でそう言ってきた。昼間、同じ現場で働いていた同僚だ。

 一昨日の朝飯がまだ挟まってそうな汚い歯並びが、にやりと笑って店の奥を指した。

「先輩とのゲームに付き合わずに帰るなんて、ちょ~っとツれなすぎるんじゃねえ?」

「ギャンブルのお誘いですか?」

「何だよ分かってんじゃん。そうそう、せっかく皆持ってんだからさ、そいつをタネに少し遊ぼうって話よ。それに、運が良けりゃひともうけできるぜ~」

「はあ……いえ、ですけど、その、俺はちょっと……家内に禁止されてまして」

 何でも、真っ当に稼げとか。そう言うと、汗臭い太い腕が首に回される。

「オイ。ダメだろ~。ここで家のことなんか持ち出しちゃよぉ。みんなカミさんとガキのトコへなんて帰りたくもねえし、思い出したくもねえんだからさ」

「すいません」

「へへ、そうそう。分かりゃいいんだよ。じゃ、やるよな?」

「そうですね。少しだけなら、仕方ないですよね」

 心の中で、俺はほくそ笑んだ。しょうがないよな。向こうから誘われたんだから。

 そうして案内されたテーブルには、意外な先客がいた。

「……ライナスか」

「ヨハン。お前……」

 たくまし過ぎる上半身の筋肉が、裸のままぼうぜんと立っていた。どうやら、新人を標的にした恒例行事なのだろう。彼は先に標的となり、給料もろともぐるみをられたようだ。

 丁度いい。昼間の借りを返してやることにする。

「……気をつけろ。イカサマだ」

「見りゃわかるよ」

 小声で耳打ちされるまでもない。テーブルには俺を除いて三人。そして立ち見が二人。全員もれなく、侮るように俺を見下ろしていた。だが、悟られるようでは所詮三流だ。

 ルールが軽く説明され、カードが配られた。特に語るべきこともない、手札の交換を挟みつつ、数字の大小や役の強さを競うありきたりなゲームだ。

 そして、相手方のサマの手口もありきたりだった。目くばせや鼻をすするしぐさなどで、仲間内で手札を教え合い、テーブルの下で不正に交換するだけ。きっと何度も繰り返してきたのだろう。それなりに手慣れてはいるが、それだけだ。

 創意が、工夫が、進歩への意欲がまるで見て取れない。その程度の腕と意識で、俺が命を削って働いた賃金を、こいつらはむしろうというのか。

 気が付くと、こめかみが熱く脈打っていた。一杯しか飲んでいないビールのせいなどではない。正真正銘の腹立たしさが、疲れ切った体を駆け巡る。

上乗せレイズ

 とどのつまり、これから行うのは、ただの八つ当たりだ。

…………んな、バカな」

 あんぐりと口を開けたマヌケな顔ぶれを眺めると、多少ではあるがりゆういんが下がる。

 数ゲームの後、俺の前には巻き上げたしわくちゃの紙幣が、山と折り重なっていた。

 別段、特別な事をしたわけじゃない。やつらがテーブルの下でやっていることを、気付かれないような速度とタイミングで、テーブルの上でやり返しただけだ。

「こ、こいつ、い、イカサマだ!」

 一人の男がそう叫ぶ。だが、それで証明できるのは自分の馬鹿さ加減ぐらいのものだ。

「言うのが遅え。そりゃゲーム中に証拠をつかんで言うセリフだ。そもそも、あんたらだってテーブルの下でこっそりシコシコやってたろうが。何自分らだけ棚上げしてんだよ」

 負け惜しみを無視して、稼いだ金をさっさと懐にしまう。しかし、

「新入り~っ! お、おま、お前ぇっ! 無事に帰れると思うなよ!」

 店中の荒くれたちが俺を取り囲んでいた。ギャンブルにおける一番のタブー。それは大損よりも大勝ちだ。相手の縄張りならなおさら、無かったことにされるのは目に見えている。

 だから、俺は普段賭けをしない。金や技術はともかく、暴力の持ち合わせがないからだ。

 しかし、今日この場限りにおいては、それも問題ないだろう。

「というわけで、取られた分は利子付きで取り返したよ。だから助けてくれるか、中尉殿」

「了解した」

 瞬間、周囲が騒然とどよめいた。今まで背景か、置物のように静かにたたずんでいた屈強な筋肉が、シャツを着直して、バキボキと拳を鳴らしたのだから。


 ──ビール一杯しか入っていない胃袋の中身を、勢いよく路地裏にぶちまけた。

 まだ走れるだけの体力があったことに驚きつつ、口元を拭って心臓を落ち着ける。

「ハァ、ハァ……っ、もう、あそこじゃ働けないな」

「だが、もう十分稼いだだろう」

 そうだなと、切れ切れの同意を返す。あの後、酒場での事態は避けるべくもなく暴力へもつれ込んだ。全員酒が入っていたし、話し合いで解決する方が冗談だ。

 だが真に驚くべきは、ヨハンの暴れっぷりだった。蹴りの一発でまとめて二、三人を吹き飛ばし、テーブルをパン切れのように軽々と引き裂いていたのを思い出す。昼の現場から知ってはいたが、頼もしさを通り越して、もはや背筋の寒くなる筋肉だ。

「ともかく……助かったよ。あんたのおかげだ」

 柄にもなく礼を言った直後、俺は連中にむしられた、ヨハンの給料に思い至った。

 懐から、幾分か色を付けて差し出してやる。しかし、彼はゆっくりと首を横に振った。

「いや、もういいんだ。感謝も、金も……もう、お前から受け取るいわれはない」

「? ……どういう、意味だ?」

 生ぬるい夜風がほおでる。差し込むか細い月明りが、互いの顔を照らしていた。

 ポトリと、差し出した紙幣の上に、小さくて軽い、破片のような何かが落とされた。

 一体何なのか? 反射的に目を凝らした瞬間。

 言い知れぬ戦慄が、背筋をゾクリと駆け抜けた。

「見覚えが、あるか」

 凍った肺が呼吸を止めた。念押しのような低い声に、同意を返す余裕もない。

 鈍く光る小さな金属。それは、まるですさまじい握力に潰されたようにひしゃげた、かつて結婚指輪だったものだ。

 ゆがんだ刻印には、見覚えがあるし知っている。それは数か月前まで俺が身に着けていた、いや、正確には違う。あれをめた薬指に、偽りのない愛を誓っていたのは俺ではなく、アーサー=ティクボーンという、この世のどこにも存在しない男。

 そして今、赤く沸騰したりようで、俺を見下ろす、この男は。

「その髪と目の色、外見的特徴は、妹からの手紙にあった通りだな。加えてさっきの酒場での振る舞い。そして今ので、確信した。ようやく、見つけたぞ。本当の名前も、やっと分かった。……ライナス=クルーガー」

 空っぽの胃の奥から、慄きと吐き気が混濁したまませり上がる。

「俺の名は、ヨハン。ヨハネス=ローレライ」

 一匹の悪党として、詐欺師として、悟らざるを得ない。ヨハン。こいつは。

「お前がたぶらかした花嫁の、エルザの兄だ」

 俺がずっと背を向けてきた、過去からの報いそのものだ。


     10


『拝啓、親愛なるお兄様へ 私は今、いっそ死んでしまいたいです』

 ほんの一月前に、故郷の妹から届いた手紙には、愛する男と結婚する旨が、この世の喜びを端から書き連ねたように記されていた。

 そして今、新しく届いた手紙には、花婿にだまされて財産と純潔を奪われたことが、この世の絶望を手当たり次第に書きなぐったように記されていた。

 ぐしゃりと、駐屯地の宿舎で、ヨハンは気付けば便箋を握りつぶしていた。

 親に、教師に、上官に。ずっと、自分はルールに従って生きてきた。

 ならば、信じていたからだ。真面目に、勤勉に、決まりを守って努力する。そうやって人一倍頑張れば、社会は必ずそれに見合う報酬をくれるはずだと。

 そうすれば、いや、それだけが。不器用な自分が、家族と妹の、幸せを養うに足るだけの見返りを得る、唯一の手段なのだと。そう、信じていたからだ。この瞬間までは。

『詐欺師、だと……』

 本当の名前も分からない。手紙には行方知れずと書かれていた。

 罰を、下さねばならない。この手で、首をへし折ってやらなければ気が済まない。

 かつて抱いたことのない怒りに、重んじていた理性と信じていた常識が音を立てて燃え落ちていく。そうして、彼を縛るルールははや何もなくなり。

 果たしてその日、一人の模範的な青年士官が脱走した。

 ……しかし、それでくいくはずもない。

 軍を脱走して一月余り、くだんの詐欺師の手掛かりは、何も得られなかった。ヨハンは一人、あてもなく歩く。普通の人間なら冷静になって、己の行いを悔やむところだが、しかし後悔できるだけの理性すら、彼はとうに焼き捨ててしまっていた。

『エルザ……エル、ザ』

 すがりつくように最愛の妹の名をつぶやきながら、彷徨さまよあるく。悲劇的な、しかし徒労に過ぎないその努力は決して報われない。はずだった。

 一つの奇跡が、舞い降りるまでは。

『珍しいね、あんた何、行き倒れとかやってる人?』

 行き着いたのはしくも、件の詐欺師が最後に訪れた、人里離れた闇銀行だった。

 そこで彼は見つける。詐欺師と妹が暮らしていた屋敷の権利書と、愛をくした指輪を。

 すぐさま、散弾銃を手に抵抗する店主を半殺しにして、すべてを聞き出した。

 外見、言動、どこへ行ったか……大した情報は得られなかったが、別に構わない。

 この足は、確かに目的へ向かっていると信じられた。だから、たとえどれほどの時間がかかるとしても、残りの生涯全てを賭けて、必ず見つけ出して殺してやる。

 それまで、この愚かな兄には、かのじよあわす顔などないのだから。

 改めてそう誓ってから、およそ一ヶ月と少々ののち、運河都市フィラデリヨンにて。

 人生のレールを踏み外した男の前に、ついに二度目の奇跡が舞い降りた。


     11


 走る。走る。

 頼りない月明りが差し込む路地裏を、脇目なんかふるわけもなくひた走る。とっくに尽き果てた体力を振り絞る理由は一つ。迫り来る脅威から、少しでも命を遠ざけるためだ。

「はぁ、くそ、チクショウ……がっ!」

 もしかしたら、気付けたのかもしれない。アーサーとエルザが交わした会話内容は今でも覚えている。年の離れた兄が軍隊にいると言っていたのも含めて。

 だが、どうして追跡された。金品の後処理含めて夜逃げの手際は完璧だったはず。

 だからあり得ないと、そう思い込んでいたからこそか。可能性を現実に結び付けられなかったから。俺は今何の手立てもなく、殺意全開の筋肉に追われているのか。

「っ!!

 唐突に、視界が左右に大きく開けた。夜空の小望を映す鏡は、緩やかに流れる大量の水、すなわち、運河沿いの道路に出たのだ。

 飛び出した角に背中を付けて、背後の路地をのぞむ。しかしヨハンの姿は無く、足音もいつの間にかんでいた。もしや、振り切れたのか?

 いったん、息を整え周囲を見回した。その瞬間。

 すさまじいごうおんが、鼓膜と水面を一緒くたに震わせた。

 すぐ横の倉庫。かんぬきのかかった木製の大扉が、内側から木っ端みじんに吹き飛んだのだ。

 そして、角材とてつびようの破片を踏みしめながら、死神がゆっくりと、月下に現れた。

「……すまない、エルザ」

 絶句、せざるを得なかった。嚇怒のように立ち昇る白い蒸気。つんざくようなタービンの回転音。その背が負っているのは、鋼鉄の蒸気機関スチームエンジン

 生み出された動力はクランクシャフトを通じて、太い両腕にそれぞれ支えられた、ガラガラと惰性で回転する二門の機関砲ガトリングに接続されている。

 不意に、昨日読んだ地方紙ローカルの、共同通信欄が頭をよぎった。

『陸軍にて、脱走兵による装備盗難事件発生。……目下全力で捜査中。行方不明の軍物資には、政府が蒸気帝国エルビオーンから購入した、蒸気機関バフモトウール(※原語)搭載の新型兵器も含まれており、反革命勢力への供与などが危惧される』

うそ、だろ……」

 それは普通、馬で引っ張って、数人で陣地に据えて、敵の大軍相手に使うものだろう。

 まかり間違っても、単身で装備して、たかが犯罪者一人に向けていいものじゃない。

 蒸気帝国製、汽動式機関砲スチームガトリングキヤノン

 完全武装の一個大隊すらを皆殺しにできる、進化しすぎた暴力の矛先が、この時この瞬間、誤解しようもなく明確に、俺の眉間をしかと狙っていた。

「守らなくちゃ、いけなかったのに。妹は……俺が、守らなきゃ、いけなかったのに」

 滝のように湧き出した冷汗が、震える膝の上からどくどくと流れ落ちていく。

 ざんどうこくか。ヨハンのつぶやきは、まるで壊れた歯車が上げる断末魔のようで。

「すまない、エルザ。兄さんは……何も、何一つ、してやれなかった」

 その両腕の先で、巨大な機関砲がゆっくりと、力強い回転を始めた。

 掃射のための準備回転。悟った瞬間、ようやく生存本能が足を動かす。

「だからせめて、殺してやる。必ず、コイツを殺すから」

 そして連続してはじけ飛ぶ火薬と鉛のほうこうで、やつふくしゆう劇と、俺の決死行が幕開けた。


     12


 同時刻の夜。運河を渡すひとのない大鉄橋の上で、二人の女がたいしていた。

「何か御用ですの? 負け犬さん」

「は? 別に負けていません、逃げただけです」

「あの、それ大体同じ意味ですわ」

 パトリツィアは愚かにも再戦を挑んで来たメイドを、あきれたようにせせら笑った。

がんさいぼうはどこに? 白状すれば、もう一度逃がしてあげてもよろしくてよ」

「はっ、笑えない冗談です。一体、誰が逃げると」

「……さっきあなた、自分で言ってませんでしたっけ」

「忘れました。過去は振り返らない主義なので」

「だからと言って、死に急ぐ必要は無いでしょう。……言っておきますが、命を懸けた程度で勝ちの目はつくれませんわ。だってその因子、わたくしと相性最悪すぎですもの」

 やれやれと、淑女は金髪の肩をすくめて。

「影を操る貴血因子。しかし所詮は日陰の産物。それらしく、光や熱に弱いようですわね。つまりわたくしの〈白日炎天ホワイトフレア〉は、あなたにとっての天敵なのです」

 得意げに断言するパトリツィアを丸ごと無視して、イヴリーンはぽつりとたずねた。

「殺す前に、一つ聞いておきましょう」

「何でしょう? 返り討ちにする前に、答えて差し上げてもよろしくてよ」

「あなたは、どうして騎士団の鉄砲玉などしているのですか。どうせ革命後ものうのうと、何不自由なく過ごしてきたくせに、なぜ今更、政府に歯向かおうと思ったのです」

 パトリツィアは思案するでもなく、まるで、至極どうでもいい事を訊ねられたように。

「別に、わたくしにとっては騎士団の任務など、義理でやっている以上の理由はありませんわ。

 私は私自身の、何より大事な恋路のために、彼らを利用しているだけです」

 再度、胸を張ってそう断言する淑女へ、黒白のメイドはあきれをにじませた。

「なるほどバカなのはよく分かりました。だから教えてあげますが。どんな理由があろうと反政府組織の活動に参加するのは重罪です。並びに、因子の許可無き私的行使もまた同様……あなたはこの国の法下において、処刑台の一歩手前にいるのですよ」

「知りません」

 即答は、鈴の音のように互いの間を突き抜けた。

「どうでもいい事です。どんな罪も罰も、わたくしの、この胸の炎とは比べるまでもありませんもの。わたくしはさっさと仕事を果たして、もう一度、あの人を探して会いに行くのです。

 邪魔をするならお前ごとき、炉端の灰にしますわよ、箒下女メイド

 にべもなく、降伏勧告は蹴りつけられた。返されたのは脅迫じみた宣戦布告。

 けれどイヴリーンは薄く笑う。さながら、狩場に解き放たれた捕食動物のように。

「……気に入りませんわ、その顔。ますますボコりたくなってきました」

「奇遇ですね、私もです」

 かくして雲間から月が差すと同時、両者の間に、音の無い戦鐘ゴングが鳴り響いた。

 初手はイヴリーンから。黒白のメイド服はまばたきよりも早く、月下の夜闇へ消えせる。

 しかし即座に張り巡らせた熱流の探知網サーモレーダーで、パトリツィアは背後に瞬間移動した気配を見破った。そして振り向きざまに放った裏拳が──完全に空を切る。

 直後、別方向から飛来した蹴り足が、彼女の横顔を直撃した。

 弾丸さながらに吹き飛び、橋道を挟んだ向かいの鉄骨にたたきつけられるパトリツィア。

 一撃離脱ヒツトアンドアウエイ。再びイヴリーンは夜の裏側に姿を隠す。

っていても追い切れないでしょう。私の〈夜行影シヤドウテイカー〉は影が濃いほど速く、重く、強くなる。昼間逃げたのは、夜を待っていたからです』

 猛然と立ち上がったパトリツィアが目にしたのは、闇から闇へ、しようする残影だった。

『まだ聞きたい事は色々ありますが……残りは、殺しながら聞くことにします』

 どこからともなく響く声は言葉尻だけを残して、疾走する影はどこまでも苛烈に加速を重ねる。そしてついに、パトリツィアの熱源探知はだでさえ届かぬ領域へと──。

「侮らないでくださいまし。〈白日炎天ホワイトフレア〉、熱域拡大」

 解き放たれる爆熱爆光。パトリツィアの頭上に、太陽を模した光熱源が爆誕した。

 真昼のごとき白光が、鉄橋上の闇を根こそぎ吹き飛ばす。運悪く目覚めてしまった両岸の住人の眼球を焼き尽くすほどの光熱量が、力任せに月夜を引き剝がしていく。

「潜っているなり出てくるなり、お好きにどうぞ。どちらにせよ、ミミズのように焼き尽くして差し上げますわ。……わたくしの顔を足蹴にした、その罪は重くってよ!」

 みるみる内に、夜という夜が日上がっていく。その最中、光熱の外縁部から逃れるように飛び出した黒い影が、へきがんの視界をさっとかすめた。

「そこですわ──熱域、収束」

 途端、急速すぎる熱量の超圧縮が、ごうおんとともに大爆発を引き起こした。爆風が路面を砕き、鉄の橋桁をるケーブルが数本千切れ飛んで、下方の運河に水しぶきを立てる。

 そして、渦巻く爆炎を飛び出した浴びせ蹴りが、パトリツィアの側頭部を直撃した。

「がッッ!!!!??!?

 常人ならば首から上を数百回爆砕してなお余りある衝撃は、鉄橋の上から直射砲の如くパトリツィアをふっ飛ばし、運河を遡って一マイルの上流にたたとす。

 はちょうど、時代から取り残された石造りの旧橋アヴイニヨが架かる場所。

 ひやりとした月光を背後に、こけむした橋脚が支えるアーチ構造に降り立ったイヴリーンは、眼下のなみ飛沫しぶきを冷たく見下ろした。

 彼女の姿は、普段と一線を画していた。黒く真黒く、どこまでも黒い夜闇をそのまま着重ねたような全身。それは足元の夜から、薄紙どころではなく、厚みの一切が存在しない二次元の闇を吸い上げて、自身に付加エンチヤントしていく事で維持されている。

「成程……そういう、事ですのね」

 爆裂する水面。石畳の橋上に復帰したパトリツィアの全身から、滴る水が瞬く間に蒸発する。もうもうと立ちのぼる白煙の下、熱い一筋の血が、端正な顔を伝い落ちた。

「影を幾重にも重ね私の光熱を防御した上で、身体能力を大幅に強化……さらに、消費した分は周囲の夜から即・補充可能、というわけですか」

 互いに数歩を隔てた遠間から、パトリツィアは敵手へ微笑ほほえみを送った。

「メイド風情にしては中々の舞装ドレスをお持ちのようで。褒めて差し上げますわ」

「お褒めに預かっても、別に光栄ではありません。あなたも、さっさと着替えなさい」

 誘うように、夜をまとったイヴリーンは手をこまねいた。

「遠距離戦など小手調べ。己が血を着る、私たちにとっての勝負とは、それからでしょう」

「ええ全く。貴血因子レガリアの出力は、本体──心臓の鼓動から離れるほどに減衰していく。ならば、どうするのが最も効率的な戦闘方法か、答えは明白」

 心からの同意を、パトリツィアはうなずいた。その間合いにこそ、今夜の決着は存在すると。

「「故に、私たちの本領は──」」

 声を重ねて、二人は同時に断言する。

「「近接打撃戦フルコンタクトをおいて他にないっ!!」」

 宣したと同時、破滅的な熱量がパトリツィアの体内で駆動した。沸騰した血潮が血管を破り、外気に触れて発火しながら、黄金の炎弧を描いて主をけんらんに装っていく。

 かつて互いに憎み合う貴族たちは、その鬱憤を、民衆を使った代理戦争スポーツで解消した。そこで死ぬのは平民の仕事、戦場に貴き血は流れないし、その理由もない。

 では、もし仮に、己の命を賭けてでも敵の死を求めるならば、彼らは一体どうしたのか。

「では、踊りましょうかシャルウイーダンス

是非もなしイエス、オフコース

 影と光。互いの構えに力みは皆無。まるで森閑の湖畔の白鳥のように、優美に脚を開き、伸ばす腕は柔らかく。そして示し合わせたように、彼我の間合いが調整される。

 一際冷たい夜風が、運河の水面にさざ波を立てた。

 それを合図として一歩、二歩、三歩と。紡ぎ合うステップは速くもなく遅くもなく。ただ互いの意識の間隙、呼吸の隙間を縫うための靴音は、必然として完全に調和していた。

 二つの靴音、最後の一歩が共鳴し、抱き合うようにすれ違う。まぎれもなくその刹那、重なり合った間合いと時の狭間はざまにて、二人は激突した。

「「ッ!!」」

 左右対称に放たれた右拳のフックを、互いに左手でさばき、ぶつけ合った回し蹴りの反動を、共にかして次撃へつなげ──すれ違いざまに交わされた攻防は十数連撃。後追いで破裂した大気の残響だけをその場に、二人は再び、位置の左右を入れ替えてたいした。

 宮廷舞闘ノーブルクロス

 それは、かつて貴族階級が社交のために催した、舞踏会を起源とする。

 日頃の対立が口論へ、舌戦が死戦へと発展するように、その場において舞踏もまた、舞闘へと発展したのは必然だったのだろう。

 遠間から、互いにステップを踏んで接近し、すれ違いの一瞬に絶命を狙った徒手空拳を交わし合う、超刹那的至近決闘作法ハイヴエロシテイクロスレンジエチケツト

 その特徴として、対決する二者の実力が、高レベルできつこうすればするほど──

「くっ!」

「がッ!」

 拳と肘、更に影刃を合わせた十六連撃が、防御をくぐりパトリツィアの脇腹をえぐる。

 爆熱する肉切骨断カウンターの手刀が、イヴリーンの右顔面を深々と焼き切った。

 両者は血の飛沫しぶきを振り切って、すれ違っては相対し、また引き合うように接近する。

 そして重なり合う一瞬に、二つの命がしのぎを削る。

 その最中、石橋を砕く足音が、拳が散らす衝撃波が、図らずも一つの旋律を奏でていた。

 ──舞闘の律動リズムは、美しく調和する。

 技と血のすべてをさらけ出し、刹那の間際に全てを賭ける、古い時代の決闘作法。

 しかしてはじぶ血と命の輝きが、月明りよりも凄絶に、夜の運河を輝かせた。


     13


 シルクの寝巻に着替えたまま、私は眠るでもなく、臭いのきつい獣脂ロウソクの代わりに、おぼろげな月光を頼りにして手元の日記をめくっていた。

 これまでの思い出をはんすうしながら、しかし内心は現在へとどまったまま、どうしてもここにはいない二人についての思いを巡らし続けてしまう。

 ライナスはまだ帰らない。そして、イヴリーンも。

 テーブルの上に置かれた夕飯は、とっくに待つことを諦めたように冷え切っていた。

「まあ、こうなるだろうとは思ってたけど……」

 イヴリーンは今頃どこかで、あの女貴族、騎士団のパトリツィアと決着を付けているのだろう。正直、心配はあまりしていない。夜となればイヴリーンの因子は全力を発揮できるし、相手もかなり強いけれど、多分、あのメイドが負けることはあり得ない。

 私は彼女たちの目に、その根拠を見つけていた。イヴリーンの冷めた瞳の奥底には、自身すら壊しかねないどす黒い破滅が、たぎるように燃えているのだ。その熱量は、相対するパトリツィアの恋情よりも深く、暗く、そして激しいもので。

 よって、私にとって一番気がかりなのは、もう一人の、詐欺師の方だった。

「……ほんとに、どこをほっつき歩いているのだか」

 彼も男だ。きつい肉体労働の後はきっと浴びるようにお酒を飲んで、どこかの路地裏で寝ているのかもしれない。それとも、単に、私に会いたくないだけか。

 日記のページから、思いがけずに指が離れた。胸元に寄せた手に自然と力がこもったのは、じくりと痛む胸のうずきを、握り消そうとしたためか。

 やりすぎたと、今では結構反省している。この怒りも筋違いなのは、理解している。

 けれどなぜかどうしても、彼の事になると冷静でいられない。自分でも子どもじみたと思うような、稚拙な衝動に駆られてしまう。

 心に感じるつうようが、苦しいような切ないような。初めての感情に戸惑いを覚えるけれど、不思議とそれが不快ではないのはどうしてだろう。

 そして、分からない事はもう一つ。私はまだ、彼の心の底を見通せていないのだ。

 どうして、あの男は詐欺師になんてなったのだろう。

 目が合う度、今まで幾度ものぞんでみたけれど、いつもだけは、彼ではない無数の仮面じんせいが厳重に封をしていて見通せない。

 そう。だからこそ興味が湧いて、一緒に旅をしたいと思ったのが、はじまりだった。

 あの日の頁を指でなぞりながら、彼と出会った時間を、心の中によみがえらせる。

 ……けれど、もう、あまり思い出せない。

 砂糖菓子よりもたやすく崩れていく私の記憶。それでも、せめてつづった言葉の中にとどめておいたはずの彼の声さえ顔さえ、今ではもう遠いものになっていて。

 私は反射的に、隣のベッドに散らばった荷物、地図上に書き加えられた、海までの残り進路コースを視線で測ってみた。残された距離は、あと少し。

 間に合うだろうか。そして何より、やり残した悔いはないだろうか。一つずつ数え上げようとして──真っ先に、自分のベッドに置いた、渡せなかった帽子に目がまった。

「……馬鹿」

 果たして、それは一体どちらだろうか。だがひとまず、それは脇に置いて。

 彼が帰ってきたら謝ろう。そして、やり残しの一つを解消しようと決めた瞬間、

 ──唐突に視界が揺らぐ。脳が浮かされたような感覚に、気付けば私はベッドから転落していた。とつに日記を拾い上げて起き上がろうとした時、それすらままならないほど、呼吸がひどく苦しいのを自覚する。

 ほおにはり付く床板が、とても冷たい。それとも、私の体が熱くなっているのか。

 これは、なに? 得体のしれない感覚に戸惑ったその時、昨日の記憶から声が響いた。

 風邪でも引いたか、そうだ、あの時、彼はそう私にいたのだ。

 でも、今の今まで知らなかった。癌細胞わたしには、関係のない事だったから。

 しかし今はもう違うらしい、だから、これは吉兆なのは間違いないけれど……体の内側から熱くきしむような感覚は全くの初体験で、どうしたらいいのか分からない。

 ただ、む度にひどく切なく、心細くなるのは確かな事実で、

「ライ、ナス……」

 右目から伝う熱いしずくの感触に、私は気付けばその名を寄せていた。


     14


 因果応報とは、こういうことを言うのだろうか。

 だとしたらやはり、こんなものがまかり通る世の中は、どう考えても行き過ぎだ。

「う、ぉぉおおおおっッ!!!?

 凶獣のうなりにも似た多連装銃身バレルの回転音に続き、たたきつけるような鉛の雨音は、身を隠した倉庫のレンガ壁が削り取られていく証拠だ。

 迫り来る死を前に、俺は辛うじて、手近な河岸倉庫の一つへと転がり込んでいた。

 逃げ込んだ先の暗闇には、昼間、嫌というほど嗅いだ、ほのかに酒精を含んだ木の香りが充満していた。ここはビールたるの倉庫だと、気づいたその瞬間。

 硬い何かが決壊したような崩壊音とともに、銃声が倉庫内になだれ込んだ。

 本能が命じるままに、俺は手近な酒樽の陰へ、ネズミのように身を隠して。

「姿を見せろ。どうせまだ、生きているだろう」

 立ち込め出した火薬の匂い。ぶち破られた膠泥モルタルとレンガのざんがいを踏みしめ響くヨハンの声は、決して比喩ではなく、死神の判決に違いなかった。

「出てこい! でよ! 殺してやるぞ! ライナス……クルーガーァアアッッ!!

 絶叫を始める機関砲に、俺は積み上げられた樽の陰で縮こまる。

 背中に伝わる着弾の衝撃。重い酒樽を貫通してきた弾丸が、顔のすぐ横をかすめ去った。

 ふと火薬とは別に、ツンと漂う苦い香りが鼻をいた。噴出するビールの音がそこら中から聞こえてくる。それはすなわち、刻一刻と周囲の遮蔽物は空洞化していくという事で。

 ヤバい。とにかく今は、どうすれば、どうすればいい。鼓動がうるさい冷静になれ。

 考えろ。生き残るためには何をどうすればいい。

 奥歯がかち鳴る恐怖の中、俺はゆっくりと深呼吸して、頭に冷静さを巡らせる。

 一体どれぐらい続いたのだろう、永遠にも思えるような銃声が一時の中断をみたとき、恐怖と冷や汗が、手足を接着剤のように固めていた。

 恐る恐る顔をあげる。にわかに、白い蒸気が倉庫内に漂い出していた。聞こえるのはヨハンの怒りを代弁するかのようなタービンの唸り声。それが吐き出す動力はクランクを経て、二門のガトリングに恐るべき連射力を与えている。その発射速度は毎分……とにかく、数秒あれば人間をひきにくにして肉屋に卸せる程度だろう。

 とりあえずは時間を稼ぐしかない。そう決めて、俺は樽山の裏から声を張り上げた。

「ヨハン! 頼むから落ち着けっ! あんたの妹をだましたのは悪かったよ。謝るし、金だって返す! 処女は返してやれないが──」

「殺す」

 再び回転する鉄火が金切声をあげながら、倉庫内をめちゃくちゃにじゆうりんしていく。頑丈なはずのオークのビールだるが、次々とスイカのように爆散していった。

 両手で頭を押さえ、足を重ねて伸ばし、ビールの水たまりに突っ伏して、カーペットのように床との同化を試みる。被弾面積を少しでも減らすためだ。もう遮蔽性は期待できない。

 跳弾がももかすめた、と思った瞬間、崩れ落ちてきた酒樽のざんがいに背骨を打たれてカエルのようなうめきが口から出た。だが耐えるしかない。もっと撃たせてやらねば。

 再度の永遠の錯覚を経て、唐突に死の合唱が中断された。そして短い舌打ちの音。

 もく通り、馬鹿めと内心で舌を出す。熱くなって撃ちすぎたせいだ。

 俺はゆっくりと身を起こして、今や庫内をもうもうと埋め尽くす白煙を認めた。エンジンが再利用しきれなかった廃蒸気が十分に充満したのだ。露点の低い夜、更に屋内であることも相まって、今のヨハンは五里霧中、どころか自分の指さえも見えないに違いない。

 とは言っても、この副作用的な煙幕効果はそう長くはたないだろう。先にぶち破られた倉庫の壁穴から、蒸気は外気へと解消していくのだから。精々、保って十数秒。

 だからこの隙に、俺がやるべきことは一つ。逃げる──のではなく。

 先刻の酒場での乱闘の最中、ほとんど無意識の内に荒くれの一人からスっておいたのが幸いした。取り出した拳銃の先を、うなり続けるタービン音へ向けて発砲した。

 とつに放った四発は、きっと縁起が良かったのだろう。推測だが、高熱蒸気が動力に変換される前に通る、圧縮機構ハウジングローターに着弾したのではないだろうか。

 そうでなければ、破裂音が鼓膜を震わし、熱い爆風が顔をたたいた説明がつかない。

 予想外の蒸気爆発は倉庫の内壁さえも破壊したらしい。大きく差し込んだ寒々しい月光が、ビールの海に沈んだ、焼け焦げた機関砲の残骸を照らしていた。

 驚くべきことに、その中心に五体満足のままヨハンは立っていた、が。

 焼け焦げたボロボロの筋肉に、後一発、弾の残る銃口を突きつけて、俺は言った。

「どうやら、形勢逆転だな。……てか冷静に考えればよ。いくら何でも銃弾程度で大爆発ってのは問題ありすぎだろ。とんだ欠陥兵器を持ち出しちまったな」

 返事が来るとは期待していなかったが、どういう奇跡か、やつの鼓膜はまだ健在らしく。

「訂正する。これは固定式の装甲砲座から取り外して持ってきたせいだ。動力部のぜいじやくせいは本来、問題にはならない。そしてもう一つ……形勢は、変わってなどいない」

「は……、っ!? うそだろ──ッ!!

 焦げた唇で断言するやいなや、猛然と俺へ向かって突進するヨハン。咄嗟に足を狙って発砲する。嫌に鮮明な赤色が暗がりに飛び散った。命中したのだ。なのに止まらない。

 弾切れの撃鉄がカチリとむなしい音を立てた、その瞬間、腹部にすさまじい衝撃がたたまれた。背中が樽の山にぶつかる。それでも銃は離さなかったが、もう意味は無い。

「ぐっ、ぁ……かっ、お前、本当に、にんげ──」

「そんなもの、いくらでも辞めてやる。お前を殺せるのなら」

 太い指が首を絞める。しかし最悪な事に、それは俺を窒息させるためではなく──固定された顔面にたたまれた鉄拳が、一瞬、意識をあの世までふっ飛ばした。

「言い訳は聞かない。俺はこのまま動かなくなるまでお前を殴る。それからたるに入れて、表の運河に捨てる。それで、すべてを水に流してやる」

 殴打、殴打、膝蹴り、そして殴打殴打殴打。一片までも慈悲を捨て去った暴力の嵐が、しかしそれ故に、切実な怒りと悔しさを俺の芯にこれでもかと叩きつけてくる。

「が、ぁ……、は」

 目の前がかすむ。折れた歯とあふれる血に呼吸を阻まれ、酸欠でゆがんだ視界にどうしてか、歯を食いしばったヨハンだけが鮮明に映る。まぎれもなく、彼は激怒していた。妹を傷つけられたのが許せなくて、たったそれだけの理由で、理性も常識もかなぐり捨てたのだろう。

 俺には、分かる。それが、手に取るように理解できてしまう。

 なぜなら、「俺」もそうだったから。

 どこか遠くの記憶から、けたたましくコインの音が鳴り響く。姉さん、俺はあなた■■■■ことに■■■■なくて、だから詐欺師■■■■■ったのだ。

 自己の内側に勢いよくひびが入った。それは肉体的な傷よりも、もっと致命的な、詐欺師おれの根本に関わる亀裂だった。

 ……ああ、そもそもどうして俺はこんな目に遭っているのだろう。自業自得だ。それは、分かる。けれどもう一つ、俺をここに至る運命に誘ったのはあのひだりと、あの少女。

 彼女へ対して何か、因果の沙汰を受け入れる前に、言い残したことがある気がして。

 ひび割れた心から、それはポトリと転がった。

 はるか昔のようにも思えるつい昨日。思い出した。あの時、見つめ合った少女の瞳には、なぜか涙が浮かんでいて──。

 俺はまだ、クロニカに、一言だって謝っていなかった。

 と同時、何かが吹っ切れた。電流のような衝動が酸素に代わって全身を巡り、一度だけ筋肉を動かす。俺は顔の真横の樽に、裏拳気味に弾切れた銃把を叩きつけた。

 鈍く響いた破砕音、次いで、望んだ結果はすぐ現れた。

 ビールは、樽の中でも発酵している。

 解き放たれるガス圧力。勢いよく噴出した液体が、ヨハンの顔にぶつかった。不意打ちに加えて、噴出液にはホップや清澄剤などの沈殿物も混じっている。ぬめるようなその異物感から、必ず反射的に、人間誰しも逃れようと隙を作るはずだ。

 もく通り、こちらの首を絞める手が僅かに緩んだ。その機を逃さず、ヨハンの胸を思い切りどついて引きがし、床の上を滑るように距離を取る。

「ぐ、おのれ……っ!

 膝をついたきよもんうめく。先に銃弾が貫いたももから、血がとめどなく流れていた。短時間ならば怒りでせたのだろうが、流石さすがにもう限界だろう。しかし、

「諦める、ものか」

めときな。忠告はしたぞ」

 ヨハンは積まれたたるを支えに立ち上がろうとして、ハッと顔色を変えた。気付いたのだ。うずたかく積まれた樽山の均衡が崩れかけている。真ん中から下にかけてガトリングの乱射が集中したのが主要因。そこに先の爆発と、俺を殴りつけていた衝撃が加わると……。

 俺は一度だけ肩をすくめて、それから思いっ切り、隣の樽へタックルをかました。

「ぐ、ぉぉおおおおっッ!!!?

 せきを切ったようにれ始める酒樽の山、巻き込まれるヨハンに背を向けて、俺は全力で倉庫から逃げ出した。

 倒壊の波は瞬く間に連鎖して、すぐさま泡と木片の大洪水が外へと流れ出した。

 間一髪、圧死を免れた俺は、れた破片が散乱した路上から、よろよろと立ち上がった。

 そこでふと、思い出して懐を探る。ひしゃげた結婚指輪を月下に取り出してみる。

 ためいき一つ、とうに意味をくしたそれを運河に投げ捨て、その場を後に歩き出した。

 ふと無性に、見上げたくなった夜空へむけて、俺は愚痴るようにつぶやいた。

「やっぱり、真面目に働いたって……ロクなことねえな」


     15


 そして同刻。また、もう一つの勝負が終わろうとしていた。

 初撃の交錯から十数分、いまだ合わせて十歩の距離を挟んで向かい合う二人は、しかしその戦場を石造の旧大橋アヴイニヨから、倉庫の立ち並ぶ右岸のほとりへ移していた。

 すれ違っては激突し、残心を経て再び向き合う度に、互いに最適な位置調整ポジシヨニングを重ねた結果の移動距離である。

「中々、やりますね……」

「あなた、こそ……」

 ともにまんしんそう。右顔面を深くえぐられたイヴリーンは、幾度もの熱波の至近被爆に夜闇の大半をぎ取られ、全身に重度の火傷やけどを負っている。

 対するパトリツィアの両腕両脚も正視に堪えない有様だった。骨すらさらした血まみれのすねは小刻みに震え、舞闘の要たるステップもおぼつかない。

 だがしかし、両者が吐き出すのはもんあえぎではなく、熱い闘気だった。次の一合がすなわち決着なのだという了解が、血と汗とともに二人のほおを流れ落ちる、その瞬間。

「「え」」

 ふらふらと、引きずるような足取りで路地から現れたのは一人の男だった。


 ……すように路地を抜けた時、俺は左右を挟む異様な気配に気が付いた。

 まず右を向く。すると、そこに立っていたのは焦げた血臭にまみれたメイド服。

「イヴリーン……か? お前、一体……そのケガは──」

「っ!! 危ない! ライナスッ!」

 とつに目をいたイヴリーンが、矢のような警告を飛ばした直後。

「ウィルっ!!

「うごっ!? な、あ……あんたは!」

 背後から加えられた人間一人分の衝撃に思わずたたらを踏む。反射的に振り返って、俺は目を丸くした。抱き着いてきた金髪へきがんの女に、見覚えがあったからだ。

「まさか! こんなタイミングで来てくださるなんて! 決闘者デユエリスト的にはいささか以上にわきまえていない感マシマシですが、乙女的には何も問題ありませんわ! やっぱり、やっぱり! あなたはわたくしの運命の方でしたのね!」

「ちょ、ちょっと待……っつか熱い! 何でか知らんけどメチャ熱いんだよ、アンタ!」

「あ、ごめんなさい……」

 どうしてか、燃えるようにおのずから発光していた女──パトリツィアは、その一言で輝きを止めた。それからしげしげと上目遣いに俺の顔を眺めて、しかし眉根を寄せる。

「うーん? あれ? でもよく見たら、貴方あなたもしかして別人では? 似てはいるんですけれど、わたくしのウィルはもっと何というか、こう、甘くてハンサムで……とにかく、あなたのような性格悪そうな二枚目ではないですわ。というかすっごくお酒臭いんですけどちょっと離れてくださる? 酔っ払いの痴漢とか焼き潰しますわよ」

「アンタから抱き着いてきたんだろ!?

 異様な体温が離れていく。と同時、背後から冷ややかなせきばらいが聞こえた。

「……一体、どういう事でしょうか。あなたたち」


「──じゃあ、わたくし、だまされていましたの」

「そういう事になりますね。馬鹿そうな女だと思っていましたが、見た目以上とは」

 はたから見れば、さぞ奇妙な光景だろう。数分前まで殺し合っていたらしき二人が、石積みで組まれた運河の川べりに──俺を挟んで──並んで腰を落としていた。

 項垂うなだれるパトリツィアは、どこから取り出したのかシルクのハンカチをみながら、恨みがましくこちらを見つめて、いつかの時よりも一層激しくすすり泣いていた。

「~~あんまりですわぁ……!! 運命の人だと思いましたのにぃ……。よりにもよってぇ、癌細胞ドローキヤンサーのオトモ詐欺師だなんてぇぇええ……!」

「俺だって、あんたが騎士団だとは思ってもなかったよ。親が決めた縁談が嫌で家出してきたってのはうそだったのか」

「別に、嘘をついたわけでは、ありません」

 しゃくりあげながら、パトリツィアはつぶやくようにこれまでの経緯を語り始めた。

「家出と、その理由は本当ですわ。でも、父がわたくしの口座を止めたのです。大方、それで帰ってくると思ったのでしょうけど、どうしても、負けたくありませんでしたから」

 だから騎士団に入り、任務を引き受けたのだとパトリツィアは白状した。その見返りとして金を受け取り、家出を続けるために。

「なんて……下らない。そんな動機で……」

 怒りを通り越して、もはやあきれたようなイヴリーン。一方でパトリツィアは鼻水だらけのハンカチを投げ捨てると、今度は俺の左袖をつかみ、ずびずびと鼻をすすり始めた。

「おい。ちょっと、汚なっ! 頼むからやめろ!」

「うるさいですわぁ! わたくしの乙女心をっ、返してくださいぃ!」

 そのまま、一向にまないパトリツィアをしばらくなだめながら、俺は多分疲れていたのだろう、柄にもなく、諭すように語り聞かせたのは、まぎれもない本音だった。

「……運命なんて、どこにもねえよ。あるのは、勝手に高望みする自分だけだ」

 どうして、人は自分の手を動かしもせずに、期待だけはしてしまうのか。

「金でも男でも名誉でも……欲しいものを、運命だとか偶然に託すのをやめてみろ。

 理想の相手を見つけたいなら、まずは親のコネでも何でも利用すんだ。舞い降りるかもしれない奇跡を願ってフラフラしてても、たちの悪い男に引っかかるだけだぞ」

 お前がそれを言うのかという顔のイヴリーンは無視しておく。自覚はある。

「……ですが、それでも、わたくしは」

 つぶやきながら、パトリツィアはふらふらとうつろに立ち上がり、こちらと数歩の距離を取る。

 そして金色の髪が燃え盛り、熱が大気を震わせた。

「いいですわ。もう、吹っ切れました。……続きを、しましょう」

「ええ。やりましょうか。ただし、あなたの相手はこっちです」

「なんで俺だ! 殺す気かテメエ!」

「いえ私もう、このアホの相手をするのが馬鹿馬鹿しく──もとい、疲れてしまったので。

 流れ的にも、あなたを殴った方が彼女もスッキリするでしょう。というわけで、死にたくないなら死ぬ気でけなさい。来ますよ」

 やる気のない警告と同時、迅雷のごとき踏み込みが路面を砕いて瞬発した。反射的に体をこわばらせた俺の額を、白熱したかかと落としがたたる。かに思えた、その寸前。

 ほとんど鋭角に軌道を変えた踵は、俺のすぐ横を擦過して、道路の川べりにめり込んだ。

 溶け落ちた石畳が水面に落ちて、はじけるような蒸発音を立てる。

 俺は、今日だけで何度凍り付いたか分からない背筋を、動かせないまま。

「……無理、です」

 そう言ったパトリツィアが、力なく、抱き着くように俺へ寄りかかった。

「殺せません。わたくしの負けです……だって、詐欺師でも、それでも、好きなんです。

 だから、わたくしはこの運命を、手放したくなんか、ない……」

 その涙に、俺は思わずたじろいでしまう。ほだされたのではない。れた男は最初からどこにも存在しないと知った上で、それでもと言ってのける。その愚かさを通り越した何かに、俺が思いがけずに抱いたのは──恐怖だった。

「だから、もう一回、わたくしとデートしてください。今度は、本当のあなたを知りたいんです」

 本当の自分、その単語が不意打ちのように、俺の芯をぶん殴る。

……っ! 俺は、詐欺師だ」

「知ってます。……でも勘ですが、あなたは悪人ではないと思います。……もちろん、わたくしの乙女心を弄んだのは大罪ですが、えーと、こ、更生の余地ありと認めますわ!」

 違う。彼女は知らない。知る由もない。俺は金のためなら何でもする詐欺師で、そのためなら、最愛の肉親さえも葬る外道だと。

「だ、だから、その……もう一度、チャンスをあげますわ」

 顔を寄せるパトリツィア。ゆっくりと近づく唇が、結果として触れ合うその寸前。

「はい隙ありです」

「がふっ」

 背後からの鋭い手刀が、白い首筋へたたまれた。そしてそのまま気絶したパトリツィアの身体からだはいつかのクロニカのように、黒い影の中へと飲み込まれていく。

「失礼。見るに堪えない三流芝居だったので、つい手が出てしまいました」

 無表情のまま言ってのけるイヴリーンは、白んできた東の空を指さして。

「一応、礼を言っておきましょう。予想以上に役に立ちました、詐欺師。……ではそろそろ帰りなさい。小娘が、きっとあなたを待っていますよ」


     16


 捕らえたパトリツィアの尋問がある。そう言ったイヴリーンと別れてから十数分後。宿の階段を上がり切った瞬間、ついに全身が断末魔を叫んだ。そのまま、半ば倒れ込むようにドアを開き、手探りでロウソクをともす。

 そうして、俺は床の上に投げ出されたように広がるあかゆきの髪を発見した。

──っ!? おい! くそ、しっかりしろ! クロニカッ!」

 少女は、ベッドのすぐ横で倒れていた。慌てて駆け寄り、体に触って容体を確かめる。

 脈はある。だが高熱もあった。とにかく医者を、叩き起こしてでも呼ばなければ。

 そう思ってドアに引き返し、ノブに手をかける寸前──向こう側から蹴破られた木の板が、俺の身体を真っ向から直撃した。

 あおけに倒れ込んだ拍子に後頭部をしたたかに打ち付けた。痛みにうめきながら、さっきまでドアだった木板をどかして、部屋の出口を見上げると。

「──冗談、だろ」

 ぼんやりとしたロウソクの灯に浮かぶ、傷だらけの筋肉と目が合った。

 ぴん、と太い指が、何かを俺の胸元へはじばす。

「忘れ物だ。今度は、地獄まで落とさないよう、しっかり持っていろ」

 捨てたはずのひしゃげた結婚指輪が、ボロボロのシャツを滑って、床へ転がった。

 運命なんて、どこにもない。だからこれは、必然なのだろう。

 死。それは冷たい確信となって、空っぽの胃の中にすとんと落ちてきた。

 それが嫌なら、もう一度逃げるしかない。背後に倒れる少女を置いて。

…………最悪だ」

 なのに、気付けば俺は、立ちはだかるヨハンへ殴りかかっていた。

 そして当然、奇跡が起きると言う事もなく……。


 ──気絶した詐欺師を見下ろす男の目に、一切のちゆうちよは無かった。

「そこまでよ」

 だが寸前で、りんと響いた声とともにおんの視線が、ヨハンの体を縛り付ける。

「っ!? これ、は! 君は、一体……!?

「そう……。あなたの妹は、彼にだまされたのね」

 ヨハンの視線の先で、よろよろと立ち上がったあかゆきの少女は苦し気にあえぎながら、気絶したライナスのそばまで歩を進めた。そして、自身の数倍はある巨漢をにらむ。

つらかったし、悔しかったでしょう。だから、あなたはいくらでも彼を殴っていいし、怒りをぶつける権利がある。でも……それ以上は許さない」

 恐らくは貴血因子レガリアを宿した貴族、詐欺師の連れ合いか。きっとこの少女も騙されているに違いない。そう思い、ヨハンは唯一自由な喉を動かし、真剣に問うた。

「こいつは、詐欺師だ。他人を弄んで私腹を肥やす、人間のくずだ。君は、それを知って」

「ええ。よく、知ってるわ」

 少女は予想に反して、しかうなずいた。そして一言一言、みながら言葉を紡ぐ。

「その上ひねくれてて、女たらしだし、全然優しくないし、人のプレゼントに気付きもしない、ロクでなしの守銭奴だけど……それでも、大切な、私の恩人だか、ら」

 そこで、少女は限界に達したのか、つんのめるように詐欺師の上に倒れ込んだ。その小さな背中へ、恐らく無意識だろうライナスの腕が、抱きめるように動く。

 同時、ヨハンの体は、見えぬ視線の縛鎖から解放される。

 しかし、彼は動かず、その代わりに、重なり合って倒れた二人をじっと見下ろして。

 どれぐらいの間、彼はそうしていただろう。

 固く握り締められていた拳が、静かに解けた。


     17


 俺はまた、夢を見ていた。後戻りなどできないし、する気も無い。あの頃の夢を。

 ある日の朝。俺が起きると、姉は血を吐きながら、同時にひどくせき込んでいた。

 俺の生活は、またしても一変した。その日を境に病人となった姉のため、少しでもまともな食事や、可能ならば薬が欲しかった。そのためには無論、金が要る。

…………

 街に出たのは、いつものような安い駄賃の汚れ仕事を探すためではない。

 焦りと緊張で、喉がひどく渇いていた。しかし不思議と迷いは無かった。ただ、やるしかないという決意がちりちりと、腹に据わって燃えている。

 通りを歩く、二日酔いの革命兵士たちの財布に目を付ける。路地の裏通りを頭の中で思い描く。それから息を吸って、吐いて。

 俺は、小悪党としての第一歩を踏み出したのだ。

 ……盗みに手を染めてから、次第に収入は安定した。

 徐々にではあるが、姉の病状も快復していった。もともと、無理がたたっていたところを病に付け込まれたのだ。休息と栄養、そして薬があれば自然と治る。しかし、

『ライナス……正直に、言いなさい』

『何をだよ』

 粗末なベッドから身を乗り出して、彼女はかすれた声で俺を呼び止めた。その瞬間、ついに来たかという確信が、俺の胸をチクリと刺した。

さないで。私だって、いい加減気付いてるわよ。あなたが引き受けられるような仕事じゃ、あんな食べ物や薬なんて買えるわけないもの』

『……姉さんも、知ってるだろ。俺、手先が器用なんだ、だから──』

『ライナス。こっちを見て……見なさい』

 振り返ると、厳しい母のようなまなしがぐに俺を射抜いた。昔から、この姉には何度もうそを見抜かれてきた。けれど、ここまで居心地が悪くなったのは初めてだ。

 同時に、こみ上げた熱が胸を一杯にした。それはきっと、本来はこの世にいない母に向けられるはずの、未熟な反抗心だったのだろう。

『卑劣な事をしているなら今すぐめて、足を洗いなさい』

 姉は静かに、はっきりと告げた。

『他人から盗むのが悪いのは、それは誰かを傷つける行為だからというだけじゃない。よく聞きなさい、ライナス。他人から奪うことは、何よりあなた自身から、他人を信じる心を奪っていくのよ。……そして最後には、誰からも愛されず、誰も愛せなくなってしまう』

 諭すような声音は、確かに俺をおもんぱかっての言葉だったのだろう。だが、その中には確かに、軽蔑の感情があった。

 瞬間、胸のうちくすぶっていた反発心が、耐えきれないほどに燃え上がった。脳天を揺らす激情に立ちくらみを覚えながら、目前の姉をにらみつける。

 理解して、ほしかった。姉さん、それでも俺はあんたのためにやったんだと。感謝されなくてもいい、そんな事は期待していない。怒鳴られてもたたかれてもいい。けれど、それだけは分かって欲しくて。そうじゃないことが俺には、どうしても耐え切れなくて。

『お願い。あなたの才能を、そんな事に使わないで。いつか舞台に立つのなら──』

────ッ、黙れっ!!

 気付けば、自制心ははる彼方かなたへと吹き飛んでいた。

『姉さんはっ……いつもそうだ! 上から目線で、夢だの希望だのっ、かないもしない理想を押し付けてくるだけじゃねえかッ!』

 一瞬、驚いたような姉の表情が喉元を締め付けて、しかしもう、止まらなかった。

『俺に説教する前に、一人前に稼いでみろよ! 病人が、出来もしないくせにっ……偉そうに口を出すんじゃねえッ!』

 言った。言ってしまった。その勢いのまま、俺は部屋を飛び出して──。


 顔に差し込む朝日のまぶしさで、俺は目を覚ました。

 入った記憶の無いベッドから身を起こす。全身の痛みと違和感に目を向けると、これまた巻いた覚えのない包帯がきつく締められていた。

「目が覚めたか」

「うおっ!!

 反射的に身構える。そんな俺の反応を、ヨハンは無表情のまま見下ろしていた。

 襲いかかって来ないのを怪しんでいると、隣のベッドに眠るクロニカが視界に入った。

「テメエ、そいつから離れ……あ、痛ってぇ!?

「無理をするな。三箇所の銃創、頭部を含む五箇所の骨折、切り傷と打撲は全身くまなく。それと内臓も痛めている。意識があるのが不思議なぐらいだ。ゆっくり、安静に動け」

「全部……お前がやったんだろ」

 俺からすれば当然の批難を、しかし無視して彼は続けた。

「彼女の容態だが……熱は高いが、ただの風邪だ。しっかり看病してやれ」

 言い渡すとともに、れた布巾と水の入ったおけを渡された。

「……なんでだ」

「断じて、許したわけじゃない」

 こちらに背を向けながら、ヨハンは断固とした口調で答えた。

「俺は、お前を生涯許さない。だが、その少女に免じて命だけは見逃してやる。だから、さっさと汚い人生から足を洗って、その娘を幸せにしてやれ。……あと、この金は慰謝料代わりにもらっていく。こっちは、銀行に返すがな」

 いつの間にか、融資詐欺の稼ぎと、酒場でのもうけは、残らずヨハンの手が握っていた。

「え、あ、ちょっと待て。せめて半分置いて──」

 しかし止めるすべはなく、ぼうぜんとした俺を尻目にドアが閉まり、足音が遠ざかっていく。

 全身から、力が抜けていく。そのまま魂まで抜けるようなため息が口から出た。

 仕方ない。命があるだけで儲けものだと思おう。それから、俺は油の切れたような緩慢さでベッドから下りた。桶の上で濡れ布巾を絞った時、クロニカのまぶたが薄く開いて。

「……あの人は?」

「帰った」

 汗ばんだ額を触る。多少は下がったようだが、まだ熱があった。そのまま顔と首筋の汗を拭ってやる。後は自分でやれと言って、横のキャビネットの上に桶を置いた。

「俺は少し、出かけてくる。なんか、欲しいものあるか」

「今は別に。でも、ちょっと待って。……これ」

 そう言ってクロニカがベッドの上で掲げたのは、綿で仕立てられた黒いミルキーハットだった。思い出す、これは確かあの時、少女がかぶっていたもので。

「これ、お前のじゃなかったのか?」

「そんなわけないでしょ……こんなダサい帽子」

 そのとがった唇に、俺はようやく察しがついた。どうして、あんなにこいつが怒ったのか。

「……すまん」

 長い遠回りを経て、ようやく、その一言が口から落ちた。

 すると、クロニカはいつものように微笑ほほえんで、ベッドのそばへ手招きした。

「こっち来て、被らせてあげる」

 俺の足は、ひどく素直に応じてくれた。ぽすりと、かがんだ頭に軽い感触が乗せられる。

「いいじゃない。似合ってるわよ」

「そりゃどうも」


 ──ぱたんとドアが閉じる音を見送って、私は再びベッドに沈み込んだ。

 ほおが熱いのは、まだ熱があるせいで。自然と口角が上がってしまうのは、多分く渡せた達成感のせいだろう。きっとそうに、違いない。

 ふと、いつの間にか寝巻のポケットにまぎれ込んでいた硬い感触を取り出す。

 それは奇妙にひしゃげた、銀色の指輪だった。

 さっき、彼が去り際、ドアの開閉音に隠した言葉を思い出す。

『ありがとな』

 窓辺からの朝日にゆがんだ指輪を透かし見ながら、私は気付けばつぶやいていた。

「……本当に、ひねくれてるんだから」