第二章 Carnival of Savarin
1
「起きて、ライナス。着いたわよ」
「……起きてる」
甲高い汽笛と同時、膝を揺する小さな手の感触が、浅い眠りを終わらせた。
顔に
『東南部通貫路線、襲撃さる。死傷者二四五人、反革命派の犯行か』
俺とクロニカが出会ってから、ちょうど二週間。幸いにもまだ二度目の襲撃は無い。そして今到着した場所は、恐らく国内で最も、その危険から遠い場所だろう。
身軽なクロニカに続いて、二人分のトランクを持たされた俺がステップを降りる。
ドーム状の鉄骨構造に蓋された首都駅のプラットホームは、大勢の乗客でごった返していた。金持ちの乗客に群がるポーターをよそに、改札口の混雑に並ぶこと数分。
穴あきの切符を駅員に渡し、数冊の車内貸本を返却口に滑り込ませてから駅を出る。
時刻は昼前。夏の日差しに照らされた半円形の
だが特筆には値しない。華やかなりし高層建築が、田舎者を威圧するために並び立っているだけだ。都会は来るたびに印象を変えるが、本性は常に変わらない。
しかし隣に立つ少女は、そんな虚飾の壮麗さを無邪気に指さして、言った。
「わあ……。やっぱり首都だけあって、すごい都会ね。見て、ライナス! あそこのホテル、玄関の前に噴水があるわよ。一番上のお部屋に泊まってみない?」
「アホ言うな。それと、あんまハシャいでるとバカに見えるぞ」
「あなたこそ、あんまり大人ぶっていると、
「……いいから黙ってろ」
ここは元王都にして現
十二年前、この国の
そして今回、俺たちがここに足を運ぶことになった発端は、一週間前に遡る。
『……飽きた』
雑に
列車での出会いから一週間ほど、俺とクロニカは海へ向かい、南部を転々としていた。
道中の寝食は当然、ネズミに食われたような田舎宿の世話になる他ない。
『我慢しろ。この辺の食い物がロクでもないのは、今に始まった事じゃない』
肥沃な土地柄にも
『ねえ……鉄道のある街に着くまで、あとどれぐらいなの?』
『四、五日ってとこだ。
ぐったりと机に
『……
それは、到底この場に望むべくもない
俺だって、詐欺る相手もロクにいない、貧乏くさい田舎に長居したいわけではないのだ。
『まあ、もう少しの辛抱だ』
その呟きに釣られたように、少女の
俺は無言のまま、胡乱気な
……そして今、俺たちはこうして首都にいる。
人が多く、カモに事欠かないのが都会の唯一の利点だ。紅白のレンガで造られたティンバーフレームが立ち並ぶ大通りは、身なりの良い紳士淑女であふれ返っている。
「こっちよ、ライナス! ……もう、ちゃんと付いて来てったら」
着替えの入った真新しい黒のトランクを揺らしながら、上機嫌な声が踊る。
「目的はお料理だけど、まだまだお昼には早いわね。
そう言って、ギンガムチェックのスカートから伸びた革靴の爪先が、石畳を踏んで
断じて、その姿に
「エスコート、よろしくね。ライナス」
そして、それからの小一時間を一言で表すならば、これに尽きる。
「……疲れた」
やっとたどり着いた休憩地点。中央広場のベンチにもたれた途端、俺はそう
頭上に広がる腹立たしいほどの晴天をぼうっと眺めながら、半ば無意識にタバコの火を
「もう疲れたの? ……なんだか、おじさんみたい」
「ほっとけ。言っとくがな、俺はまだ二十八だぞ」
煙と一緒にそう吐き出すと、クロニカは片目で同じ空を見上げて、呟くように言った。
「意外と若いあなたの年齢はさておき、本当にいい天気……そうだ」
手を
どこで手に入れたのか、少女の日記帳はそれなりに分厚く立派だった。装丁の傷み具合から、かなり使い込まれているようだ。きっと何度も読み返しているのだろう。
「そういうのってよ、普通一日の終わりに書くもんじゃないのか」
「私は思い立ったときに書く派なの。じゃないと……ううん、やっぱり何でもない」
言葉尻を打ち切って、ペン先だけが動く。横からちらりと盗み見ると、少女の日記はまるで
そのまま眺めていると、気付けば、
「一応言っておくけれど、勝手に読んだりしたら、ひどい目にあわせるからね」
「もうあってる。……冗談だ、お年頃のポエムに興味持つほど暇じゃない」
ため息交じりの紫煙を吐いたその時、俺はふと、吸い殻の先の景色にそれを見つけた。
あ、と思う間もなく、隣のクロニカも気づいたように、同じものを見る。
「ライナス……あれって」
何と説明するべきか言葉に迷って、俺は結局、淡々と事実を述べた。
「断頭台だ。革命の時、実際に使われたのが、
さんさんとした穏やかな
大通りが交差する六角形の中央広場。ここの通称は、
かつてこの国には、処刑制度があった。
古くは、貴族が罪人を見せしめとした、悪い意味で趣向を凝らした残虐な公開処刑。
そして革命期に吹き荒れた、貴族の血筋を絶やすための、効率重視の断頭処刑。
「……悪い、その、何というか、忘れてた」
歯切れ悪く謝罪する。少女からはあまり語らないが、クロニカもまた残党貴族だ。
管理局に己の因子行使権を明け渡した首都居住貴族たちでさえ、この血なまぐさい記念場に好んで足を運ぶ者はいない。当たり前だが、自分や家族は革命を支持していても、そうではない親類縁者の首が、あの
しかしクロニカはあくまで涼し気に、その忌み刃をじっと眺めながら、言った。
「別に気にしないで。革命で死んだ親類も、友達も……私には誰もいないから」
なぜか。俺には少女のその横顔が、まるで何かを羨ましがる子どものようにも見えて。
六角形の端の時計塔が、頭上の太陽に代わって、その到来を知らせてきた。
それを合図に、クロニカは日記をしまい直すと、俺の手を引いて立ち上がった。
「そんな事より、早く行きましょう、ライナス。忘れないで、私たちの本命は──」
新興の繁華街へ続く大通りの口を指さして、少女は胸弾むように言った。
「レストランよ!」
2
貴族の大量処刑、その言い換えである市民革命は、街の文化にも変革をもたらした。
その一つが、失業した貴族屋敷の使用人たちが開いた、まったく新しい形態の飲食店だ。
その店では、金さえ払えば誰でも平等に、空腹を満たすためではなく、楽しむための食事、流行風に言い換えるなら、
それこそがレストラン。新時代を象徴する飲食店である。
『素敵! そんなお店があるなら是非もないわ。決めた、次の目的地は首都よ』
南部の安宿にて、俺の思考を読むや
無論、俺も異論はない。が、しかし、ふと気になった事がある。
『……そういやお前、いつから旅してんだ。つか、今までどういう生活してきたんだよ』
旅をしてきている割に、クロニカは少々、というには控えめなぐらい世間知らずだ。
少女は数秒黙ってから、小さく言い訳のように
『……秘密。どうしても知りたいなら、ご想像にお任せするわ』
あからさまにはぐらかすようなその態度に、しかし追及する気は起きなかった。別に俺も、奪われた金について以外、コイツに興味などないのだ。
『そうかよ。……じゃ、その態度のデカさは生まれつきか』
胸は小さいのにな、と付け加える直前、テーブルの下の膝が勢いよく蹴りつけられた。不意の衝撃に
『とにかく、レストランよ。とびっきり、
かくして、空前のレストランブームに沸く首都と、クロニカの希望は一致した。
がやがやとした新興の
そしてなお悪いのは、
「……なあ、頼むからいい加減決めてくれよ。もー適当にあの辺の店でいいだろ」
「ダメよ。
退店した客から食事の
〈
「疲れ目になりそう……いくら何でも、こんなにお店があるのは予想外」
「
聞き返すクロニカに、思い出しながら語ってやる。
「昔は、誰でも自由に商売できたわけじゃない。例えばパン屋だったら街に何件まで、小麦は去年までのを使って価格は定価で値引きも値上げも禁止、そんでパン以外の焼き菓子やなんやらを売るのも当然禁止、ってな具合にな」
競争と価格変動を防ぎ、庶民に供給される
「それって、すごく不便だったんじゃないの?」
「ああ。そう考える
雑草の
「あ、見てライナス。あそこのお店から出てきた人が食べたの……高級料理のフルコースだって……! すごくおいしそうよ! 特にデザートが!」
そよ風よりも
「ったく……ガキのくせに
ため息代わりに悪態一つ。俺は遠ざかっていく後ろ姿を追いかけようとして、やめた。
よく考えればこれはチャンスだ。うるさいのが離れた今の内に、邪魔をされずにひと仕事するのも悪くない。限りある時間は、金に換えなければ損失として計上されるだけだから。
そうと決まれば──素早くさり気なく、周囲を流れる雑踏に視線を巡らせる。
シルクハットの紳士、談笑する婦人たち……身持ちの良さそうなカモを探していると、ふと、一つのシルエットが視界に飛び込んできた。
派手な日傘をさした、一人の女。
通りの左右を見物する後ろ姿は優雅と評してなんら差し支えない。ゆったりとした歩調に揺れるプラチナブロンドの髪が、扉の開いた宝物庫のように俺を誘っていた。
決めた、あの女にしよう。
定めた標的の後をつかず離れず歩きながら、取り出した手鏡と
しかし、後ろ暗い決意が足を
「ん? ……って、おい」
道を尋ねているのか、それともナンパか客引きか、それ自体は別にどうでもいい。が、問題なのは、そこに背後からさり気なく近づくもう一人だ。
相方が注意を
「! ま、待て!!」
創意工夫の
あの程度の路上強盗ごときに、俺の
容易に予測し得た犯人の逃走経路に先回りして、通行人の影に隠れ、全力で走り来るひったくりの前に俺はひょいと片足を突き出してやる。
「!? ぐへぇっ!!」
すると哀れな男は気持ちいいぐらいにズッコケて、街灯に頭からぶつかっていった。
男の手をすっぽ抜けたポーチが描く放物線、その先に腕を伸ばして受け止める。
そのまま人混みを縫うように歩きながら、相方に駆け寄るもう一人の男とすれ違う。
瞬間に、バックルを外してベルトを抜き捨ててやった。
「!? ぐはぁっ!!」
唐突にずり下がったズボンに足を取られた男は、小汚い下着を見せつけるようにして相方の隣に顔から滑り込んでいく。
騒ぎ始めた
改めて探す必要もなく。その場で
「失礼、美しいお嬢さん。こちらの

3
彼は女性の手を取り、少し離れた適当なレストランのオープンテラスへ誘導した。
飲み物だけの注文に顔をしかめた
「あ、ありがとうございます。助かりましたわ。その、本当になんてお礼をしたらいいか」
「お礼なんていりませんよ。それより、お
「え、ええ。
歯切れ悪く
しかしなぜか、外見に気を遣っているのは明らかなのに、白い指先だけは
「何か、深い事情がおありのようですね。こうして出会ったのも何かの縁です。
僕でよろしければ、
とは言っても、この手の女の事情など、大抵、水たまりより浅いと決まっているのだが。
「あ、ありがとう! 見ず知らずの
ええと、そういえば、
「ウィルソン=ブロジェットと申します。よろしければ、ウィルと、お呼びください」
それが、今この顔に
決して裕福ではない東部の農家出身ながら、不断の努力と忍耐で大学を卒業した
その立ち振る舞いと雰囲気は自信と爽やかさに満ち
応じて、注文したレモネードのグラスを手に、花のような笑顔が自己紹介を返してきた。
「
ウィルの仮面は、期待以上の好感触を引き出してくれた。それからしばし、彼と彼女が世間話を交えながら、急速に打ち解けていく。
パトリツィアの実家は、南部の裕福な貴族の家系らしい。しかし彼女から、バケモノじみた気配は
なにも貴族の
ふと、溶けた氷がグラスの中でかちりと鳴った。と同時、パトリツィアは内心をこぼす。
親の用意した縁談に、嫌気が差して家出したのだと。
「ありがちな理由ですわ。あなたのような、努力で身を立てた人からは、何不自由なく暮らしてきた小娘の反抗なんて、下らなく見えるでしょう。……笑ってくださって結構です」
「笑いませんよ、決して。……ありがちな理由というのは、それだけ多くの人にとって譲れないという証拠ですから。
「……ありがとう。優しいのね」
涙ぐんで感激するパトリツィアを、俺は仮面の裏から鼻で笑った。
この女を動かす理屈はもう大体つかめた。クロニカではないが、こうして面と向かい合って十分に言葉を交わした今、彼女が何を望んでいるかぐらいは、手に取るように分かる。
パトリツィアはこの出会いを運命だと感じたいのだ。衝動的に実家を飛び出した後悔よりも切実に、必然の偶然に救われたいのだろう。
ならば俺は求められるまま、彼女が信じたい真実の顔を演じてやるだけだ。鳥籠を飛び出した先、
「でも、パティ。聞いてくれ、僕は心配なんだ。さっきの事だけじゃない、君のような美人がこのまま一人旅を続ければ、その内もっと危険な目に遭うかもしれない。正直に言えば、すぐに父君と仲直りして、実家に帰った方がいいと僕は思う」
「それは、そう……ですけど」
「でも、それがどうしても難しいと言うなら、僕を頼ってくれないか」
そう言うと、彼は優しくパトリツィアの手を握った。
「え、えっと……ウィル、それって、あとこの手は、その、あの……」
「……ごめん。急すぎるかもしれないけど、その、嫌だったら拒んでくれて構わないから」
エメラルド色の瞳に偽りない感情を伝える裏で、俺は見えないコインの音を聞く。赤子の手を
「僕と、一緒に来てくれないか、パティ」
「……ウィル」
そして、時が止まったような昼下がりのテラスで、見つめ合う二人の唇が、ゆっくりと近づいていき、触れ合う──寸前で、俺は気付いた。
プラチナブロンドのかかった白い肩越しに、こちらを
「──ぐっはああっ!?!!」
「う、ウィル──っ!?」
視線を介して網膜を突き抜けさらにその奥へ、
神経に直接作用した衝撃力は、ウィルソンと俺の体をパトリツィアから引き
「きゃあああ! ど、どうしましたの、ウィルッ! ちょっと
「ち、ちが……これには、深い、事情があって……」
早く戻れ。脳髄に叩きつけられた命令が、血を介して全身を巡っていた。
「ご、ごめん……じ、実は持病の突発性
「何ですかそのリアクション全振りの病っ!? え、ていうかちょっと待って今の雰囲気でこれで終わりってアリなんですっ!?」
とってつけた言い訳だけを残して、俺はその場から退散する。
幸い数歩で姿勢は復帰し、何とか人混みを抜け、クロニカの下へたどり着けた。
息も絶え絶えに文句を言おうとした直前、少女の冷ややかな声が
「馬鹿」
4
それから数分、ようやく機嫌を直したクロニカに、店は決まったのかと
「……まだよ。途中で私を置いてけぼりにした、
前言撤回、まだ直ってない。
「悪かった。けど、お前もお前だ。日が暮れるまで昼飯選ぶつもりかよ」
「それは、分かってるわよ、でも」
「もういい……黙ってついてこい」
「え、ちょっと──ライナスっ!?」
今度は俺からクロニカの手を握り、半ば強引に連れ立っていく。昼時を過ぎかけた表通りを外れ、ネズミがたむろする薄暗い路地へ。
実際、歩いて分かった事がある。表通りの店は
「ま、待って。こっちにお店なんて──」
「問題ない。さっき、ちらっとそれっぽいのが見えた。ほら、着いたぞ」
果たしてその先に建っていたのは、救いようもなく古臭い面構えの二階建てだった。
しかも立地が悪すぎる。大方、商売を知らない店主が貧乏くじを
「もう、なんなのよ、急に引っ張って……でも、このお花、きれいね」
確かに表通りの有象無象どもに比べれば派手さに欠ける、しかし、それがいいのだ。
甲高いドアベルの音に迎えられながら、少女とともに店の敷居をまたぐ。
「あら、お客様ですね。ようこそ、いらっしゃいませ」
深々とした一礼で出迎えてくれたのは、一人の老齢のメイドだった。太った玉ねぎのように丸い
彼女の案内で席に着く。狭い店内では、白い
「この度は、ようこそおいでくださいました。お若いお二人とは珍しい、まあお客様自体珍しいのですが……さておき、心を込めておもてなしさせていただきます」
老メイドはそう言って、素早く丁寧に水とナプキンを用意してくれた。
「ご親切にどうも、メニューはシェフから?」
「ええ。御品書きはございません。まるで古臭いディナーに招待されたようでしょう?」
「期待通りですよ」
疑問符を浮かべるクロニカをさておいて少し待つと、慌ただしい足音がやってきた。
「い、いらっしゃいませ!」
現れたのは、いかにもコックな男だった。人のよさそうな顔はよく焼けていて、特に一際赤らんだ大きな鼻が、
「どうも。大分歩き回ったせいか腹が減ってましてね。この娘も見かけによらず、よく食べますので、アペタイザーとメインを二種類ずつ、それとパンとワインを頂けますか」
「か、かしこまりました。何か、お嫌いなものは」
「いえ、特にありません。ただこいつはまだ子どもなので、辛口は控えていただけますか」
クロニカの眉がわずかに動いたが、無視を決め込む。
さておき、足早に
「申し訳ございません。何分そそっかしい店主でして、腕は保証いたしますが、久々の
「お気になさらず。……あー、興味本位なのですが、ご夫婦でいらっしゃいますか?」
「いえいえ、店主と私はただの雇い雇われのビジネスラァイクな関係でございます。失礼ながら、お客様の方こそ恋仲同士でしょうか?」
「とんでもない、ただ親戚の娘を預かっているだけですよ」
適当に否定すると、なぜか、老メイドは大きなため息をついた。
「まあ、そうだったのですね。……はあ、すみません、私はてっきりこちらの美しいお嬢様はきっと
「重ねて断じて違います。……というか設定がやたらと細かいなおい」
遮ろうとした俺を無視して、老婆は勝手に話の花を咲かせていく。
「いえ、しかし親戚筋とはいえお若いお二人の事です。これからの展開に恋のスパイスがガロン単位でぶち込まれぬとは限りません。……はっ! そうと決まればこの
「……大丈夫?」
唐突に腰を押さえてうずくまった老婆に、クロニカは控えめに声をかけた。
「し、失礼いたしました。この婆、久方ぶりのアドゥレセンス
よろよろと立ち上がりながらもしっかりと一礼して、老いたメイドは勝手に盛り上がった意気を勝手に阻喪しつつ下がっていった。
「そ、それではどうぞごゆっくり……たとえ墓の下に行っても、この老骨はお二人を応援しておりますゆえ……」
去り際の老女の
「やっぱり大丈夫かこの店……」
「あなたが選んだのよ」
なぜか、どこか上機嫌な微笑を浮かべて、クロニカは言った。
「お前も少しは否定しろよ。あのバアさん、いっそ水でもかけてやれば鎮火したか?」
「多分、何しても油を注いだと思うわ。それにあなたも、満更でもなさそうだったし」
「……なわけあるか。
その時ふと頭の片隅を
あの女もそうだ。恋だの、愛だの、実体のないものに踊らされるほど愚かな事はない。
金で買えないものは無い。いい言葉だと俺は思う。
何かが金で買えないとすれば、それはそもそも最初から、この世に存在していないのだ。
愛、正義、平和……大切な物は、いくら金を積み上げても手に入らない、金に換えられない価値があるのだと人は言う。全く
それらが金で買えないのは、最初から、この世のどこにも存在していないからだ。
無を買おうとしたところで、手に入るものなど何もないのは当然だろう。
「あなたって、つくづく最低だわ。……もう、夢がないんだから」
「ほっとけ。……そんなもんこそ、犬に食わせとけばいいんだよ」
そして待つこと十数分。結論から言えば、料理に関しての心配は
前菜は注文通りの二種類。カリカリと香ばしい魚のフライとほうれん草のキッシュ、メインはリンゴソースのポークソテーとホワイトシチューのパイ包み、そして焼き立てのパンだ。
表の繁盛店では到底不可能な芸当だ。なまじ客数が多いため、工程を減らして手間を省き、作り置きしたお決まりのメニューしか提供できないのは当たり前なのだから。
そして、それこそが正しい商売だ。客一人に割く労力は最低限に、かつ客数は最大限にして利益を優先する。それが不特定多数を相手にする新しい時代の商売だ。
しかし、この店と店主は、かつて貴族の屋敷仕えだった頃から何も変わっていない。
時代に合わせて経営者になることが出来なかった、いつまでも誰かに忠実に仕えることしかできないコックの店は、だからこそ最高のもてなしをしてくれる。
そしてひっそりと、時代の影に消えてゆくのだろう。
「ま、俺にはどうでもいいが。ところで、クロニカ」
「……なによ、そのムカつく顔。『やっぱり俺の言う通りにして正解だっただろこのお子様が』とでも言いたいのかしら?」
一言一句違わず正解だ。片目で俺を
「も、申し訳ございませんお客様! な、何か料理に至らぬ点でもございましたか!」
腰を痛めた老メイドに代わって、丁度食後のお茶を持って来た店主が
「え、ええと、違うの店主さん。あなたの料理はとっても
「今まで食べたどの料理よりも、きっと絶対に美味しかった。このお店に出会えて光栄よ」
それはいつかの昔、この店主がかつて仕えた主人から受けた栄誉の場面、その再現だったのかもしれない。感激した赤ら顔が、
「わ、わたしも、最後に、あなた方のようなお客様が来てくださってよかった……!
ほ、本日のお代は結構でございます。今の
瞬間、店主のその言葉に、俺は嫌な未来を予感して。
しかしもう遅い。テーブルナイフにきらめいた、紫水晶の
「どうして、こんな素敵なお店を閉めるの?」
「え、ええ。お恥ずかしながら、どうも私は商売下手でして──」
「それは
続く少女の言葉が、不意に訪れた沈黙を切り開いた。
「良ければ、事情を話してくれないかしら。こうして出会った縁だもの。力になるわ」
「おい──」
勝手に決めるな、という声は、しかし喉元を過ぎぬままに(視線で)
代わって、クロニカに促された店主は、ためらいがちに口を開き始めた。
「実は……遺産相続について、訴訟を起こされたのです」
その話を要約すると、次のようになる。
店主は元々、とある革命派貴族に仕えていた
そして老いた主人に子供はなく、革命後に病没した彼は、使用人の中で最も信頼していた店主に、没収を免れた財産及びその相続権を正式な遺言状にて譲渡した。
それを元手に、この店を始めたのが数年前。立地は悪く客は少ないが、それでも主人の遺産があれば、少なくとも潰れることは有り得ないし、それだけで充分だった。
ある日、かつて仕えた主家の遠縁だという人物から、不正相続を訴えられるまでは。
「その相手が、ゴードンという人物でして……」
思わず息を
シェリー=ゴードン。首都に多くの高級レストランやホテル・クラブを経営するグルメブーム成金の代表例、というのは表向きに過ぎない。その正体は議員や実業家に密会の場を提供し、汚職を仲介する裏社会の顔役の一人という
どう考えても、たかが詐欺師風情がケンカを売っていい相手じゃないのは明白で、しかしやはり、俺に選択肢など無いことは少女の
「お任せください。私、実を言えば法律家でして……裁判の経験もありますから」
「ほ、本当ですか!」
店主の顔が、パッと明るくなった。上出来とでも言いたげな少女の
この野郎、俺がこれからどれだけ危ない橋を渡ると思ってやがる。
しかし悲しいことに、鍛え上げた作り笑いは本音を押し隠すには充分過ぎた。俺は薄っぺらい偽装を保ちながら、気にかかっていたことを口に出す。
「ああ、それと、興味本位でお聞きしますが、問題の遺産というのは一体いくら程で?」
「あ、はい。ええと、ざっとこれぐらいでしょうか」
耳を疑うような金額に、思わず横目で確認すると、クロニカは
頭の奥の暗闇から、コインの音が聞こえてくる、気が変わったのは言うまでもない。
「ご期待ください。必ず、このお店を取り戻してみせますよ」
俺にとって自明なのは、存在しない愛や忠誠なんかでは断じてない。
そこに確かに実在する金のためなら、命を賭けても悔いはないのだ。
5
そして、数日後。
「──以上のことから、ゴードン氏は到底、相続権を主張できる立場とは考えられません」
首都の
ここにはいないお人よしの店主に負けず劣らずどっしりとした体格をしている。しかし顔は正反対の悪人面だ。彼は葉巻を
まるで、結果は見えていると言わんばかりに。
「ダメだったわね」
「当たり前だ。陪審全員買収されて勝てるかよ」
閉廷後、店に戻った俺は店主に敗訴を伝えて、肩肘を張り疲れた体を席に落とした。
「……ですが、うう……ありがとうございます。こんな、こんな……私などのために」
ティーポットを抱えたまま、店主が感極まったように涙ぐむ。老いたメイドが一礼し、代わりに
「お疲れさまでした、クルーガー様。……結果はともかく、どうかお気を落とさずに。店主も私も、お二人のお気持ちだけで充分救われておりますから」
丁重に感謝を述べて、老メイドは店主とともに奥へ下がっていく。
「それで、次の手は? どうせ用意しているんでしょう」
読んでいたようなクロニカの口ぶりに、俺はそっぽを向いたまま
「ああ。ただし、だ。首尾よく運びたきゃ、一つだけ俺の言う事を聞けよ」
「内容によるわね。変態さん」
「違う。至って真面目な要請だ──この件が片付くまで、絶対に俺の心を
──準備がある、そう言ってライナスは一人店を出ていった。
奥まった
「お、お嬢様、そんな事はなさらずともいいんです。どうかごゆっくりお
「いいの。私、一度ぐらいお皿を洗ってみたかったもの。どうしても気が
「お口に召したようで何よりでございます。クロニカ様」
その時、厨房のカウンターの陰からひょっこりと現れたのは、丸い
店主は彼女の登場に若干の驚きを示しつつ、自らの手前ではないと口にする。
「ええ、私も茶の初歩ぐらいは心得ていますが……彼女の、アリアの紅茶には遠く及びません。本当に、こんな店には
「まあまあ、褒められたところで別に何も出ませんよ。それに、こんなお
聞けば、革命失業した使用人たちの雇用の受け皿となったレストラン、しかし私がライナスと歩いた表通りの店は、若くて体力のある人材を好んで雇用する一方で、
「私のような物覚えも悪く、客引きにも使えぬ老いぼれでは、就職事情は冬を通り越してもはや絶望でございます。まあ、普通は貯金や年金、それも無ければ子や孫に頼るしかない年ですからねえ、仕方のないことではありますが」
にこやかに話す老女──アリア。その柔和な笑顔は、新しいものが
あのへそ曲がりの詐欺師ではないが、私は少しだけ、世の中に嫌な気持ちを覚えた。
「おや、これは申し訳ありません。湿っぽい雰囲気にするつもりは無かったのですが……。どうやらこのカサカサ肌が水分を欲してしまったようで。ここは話題を変えるといたしましょう。──ときにクロニカ様は、どうして旅をなされているので?」
不意の問いかけは、何気ない調子で私の琴線を震わせた。
どうして、旅をしているのか。その問いへの答えは、今も昔も変わらない。
「私は、思い出が欲しいの。色んなものを見て、聞いて、触れて……何よりも切実に、私だけの
しかし、けれど、その意味合いは、あの詐欺師のせいで変わってしまった。
閉じた
それら
あるはずのない希望、存在しなかった
もうこの旅路は、こぼれ落ちていく時計に、砂を継ぎ足すに過ぎないような、先延ばしの逃避行などではない。だからこそ切に願うのだ。
一度きりの、かけがえのないものとなったこの旅に、私は後悔を残したくはないと。
だから助けたい。彼が出会わせてくれた、このお店を。
「クロニカ様?」
「……あ、ごめんなさい。手が、止まってたわね」
気付けば、私の手は水の中の皿に触れたまま、切り離されたように止まっていた。
「いえいえお気になさらず。きっとクルーガー様の事を考えていたのでしょう。私には分かりますとも。あの御仁、少々ニヒルが効きすぎてはいますが中々のハンサム。まったく、羨ましくもあり懐かしくもございます。かくいうこの私も若い時分には、お仕えする家の若君と禁断のラブロマンス大長編を繰り広げていたものですから」
「……そ、そうなの」
心なしか
彼女の
やはり他人の心なんて、見えないに越したことはない。そう結論づけて、私は再び、人生で初めての皿洗いに没頭し始めた。
6
同時刻。
その部屋は書斎というには豪華すぎて、執務室というには悪趣味すぎた。つまりは応接室というのが
部屋の主である太った大男は食事中。ウォルナットの机に白いテーブルクロスを敷き、銀のナイフとフォークで香ばしい肉を切り分け、口に運んでぐちぐちと
そのつやつやとした
「もう一度言ってくれないか、ハッティンソン卿。聞こえなかった」
「ゴードン、その、君に頼みがあるんだ」
ハッティンソンと呼ばれた男は対照的に、貧相な顔つきを苦し気に
「……頼み、頼みか、だろうな。君の頼みなんて一つしかない」
「た、頼む! 少しでいいんだ。あの家の財産事情を教えてやったじゃないか。裁判では勝てるんだろう? だから、私にも──」
「昔なじみの家の財産から、おこぼれを預かりたい。そう言うんだな、ハッティンソン」
目を背けていた事実の構図を突きつけられ、ハッティンソンはややたじろいだ。
しかし、代々の屋敷と老いた使用人たちの顔を思い浮かべて、彼は恥を忍んで
それを見たゴードンは、ナプキンで口元を拭うと、不遜に立ち上がる。
空になった昼食の皿は、いつの間にかテーブルクロスごと跡形もなく消えていた。
「いやだね、断る。と言いたいところだが、そうだな」
言葉を切り、有無を言わさぬ気配とともにゴードンは右脚を前に出した。
「
一瞬、中年の貴族の瞳は、役立たずになり果てた誇りと、落ちぶれた現実に
ゆっくりと跪き、哀れな己の顔をはっきりと写す、磨かれた革靴に舌を
それを見下ろす邪悪に肥えた笑顔は、しかしハッティンソンからは見えなかった。
「ふふ、くく……実に情けないなあ。いいだろう、気が変わったよ」
「じゃ、じゃあ」
「うむ。これ以上恥を
言葉尻が落ちると同時、空気を裂く
「ぐ、っぁ、な、これは……血が、あああッ!!」
ゴードンの手にいつの間にか握られていたのは狩猟用クロスボウ。放たれたのは革命期に猛威を振るった出血矢だった。鋭い先端が皮膚を貫き、ストロー状の空洞が毛管引力によって血液もろとも因子を一気に吸い上げ、強制的に体外へ排出させる。
失血の苦痛にあえぐその口元に、ゴードンは蹴り込むような爪先をねじ込んだ。
「お前ら貴族を見ていると本当に腹が立つよ……これまでさんざん偉そうにふんぞり返っていた分際で、いざ革命が起きると尻尾を振って生き延び、そして落ちぶれるとこまで落ちぶれてからようやくプライドを明け渡す。本当に、あさましい生き物だ」
倒れ伏すハッティンソンの尊厳を最後の一片までも踏みにじりながら、彼は続けた。
「時代は変わったんだ。もうお前らの手に残っていいものは何もない。名誉も、地位も、金も、そしてその血肉の一片までも含めて……お前らの
──そして、一時間後。
食後の葉巻にゆったりと火をつけて、ゴードンは次の来客を新品の
「ようこそ、お嬢さん。長々とお待たせして申し訳ない。ところで、この私にどんな御用だろうか。
「一つ、あなた様と取引をできればと思いまして、シェリー=ゴードン様」
「……詳しい話を聞こうか。ではまず、あなたの名前からうかがっても? レディ」
プラチナブロンドの髪が、青いリボンを揺らしてお辞儀した。
「私は、パトリツィア=ウシュケーンと申します。この度は、とある貴族の少女の身柄を確保するために、どうかあなた様のお力添えを頂きたく、参上いたしましたわ」
7
細い指先が、
「
「あんまり」
裁判所での敗訴から三日後、ここはとある高級ホテルのパーティーホール。彫刻された大理石の柱、真っ白な化粧
余談ではあるが、この建物は先日クロニカと訪れた市街中央の
経営者は無論、シェリー=ゴードン。
そこに今、俺とクロニカは
「それにしても……あなた、お化粧なんてできたのね」
「俺の本業は知ってるだろ。誤魔化し、取り繕いは得意分野だ」
クロニカの姿は、俺が場に
黒いイブニングドレスを着せたクロニカは、先ほどからさり気ない注目を集めていた。
しかし当人は眉間を寄せて不満げな目つきを隠しもない。その理由を問うと、
「気が
「それの何が嫌なんだ?」
「あいにく、私はあなたほど性格悪くないの。……ああ、そういえば、一つ
先日の約束を守って
「思い上がるなら、あと十年は成長してからにしろ。今のお前じゃ馬子にも衣装だ」
「……それ、どこの言葉でどういう意味よ」
今回の計画は、いわば最終手段だ。ゆえに単純にして明快。まず会場に潜入し、主催であるゴードンに挨拶を装って近づく、あるいは彼の目を引く、そして。
「私が、記憶を奪うのね」
「ああ。財産の
法廷で負けた以上、遺産を取り返す手段はもう、法の外にしか残っていなかった。
「何だかすごく強引ね。秘密にしてた割には期待外れなのもあるけれど、もっと、こう、何と言うかスマートな、詐欺師らしい作戦は無かったの?」
「
「最低十五フィート、それ以上だと視線がつながらないわ」
「分かった、じゃ、そろそろ行くぞ」
隣へ差し出した手のひらに、
内気な娘の社交界デビューに付き添う父親、を演じながらさり気なく。主賓席にどかりと座ったデブの標的との距離を詰めていく──最中、不意に楽団の演奏曲が変わった。
陽気なリズムに合わせて、人々が空間を開ける。ダンスの時間だ。
「クロニカ、お前──」
踊れるか。そう言って、傍らの少女へ振り返ったその時。
「こんばんは。そして初めまして、バカな人」
俺が手を取っていたのは、クロニカではなかった。
少女の姿は、いつの間にか
そして息を
「
……
常に冷静であれ。
「ダンス。お上手ですね」
「……誰だ、お前」
白い
黒髪を落とした端正な顔立ちは、人形のような冷たい無機質さを帯びていた。
「私は、ゴードン氏の秘書兼護衛。イヴリーンです」
簡潔な自己紹介は、どうしてか、やけに遠くから聞こえてくる気がした。
「クロニカを、どうした」
自分でも驚くほどに冷めた声だった。視界が締め付けられるような熱い感覚。
「あの娘ですか」

ステップ、そしてターン。するりと、俺の胸元からハンカチが抜き取られた。
「消してしまいました。こんな風に」
イヴリーンは白い布切れを、シャンデリアがつくった己の影に落とした。それは吸い込まれるようにひらりと舞い、黒い領域に触れた瞬間、砂糖細工のように溶け消えた。
間違いない。これは超常の異能。
悲鳴の一つすら残す間もなく、クロニカはこの世から消されたのだと理解して。
「私見ですが、済んだ事よりも、今はご自分の心配をされたらどうです?」
その声が、音楽が遠い。意識は肉体を抜けて、現実の一歩後ろで奇妙に煮えている。
霜が降りたように冷たい女の瞳には、同じく、熱の無い俺の顔が映っていた。
「もう分かっているでしょうが、あなた、出しゃばりすぎましたね」
ステップ、ステップ、そしてターン、ステップ、ターン。
糸に繰られるマリオネットのように、俺の体はほとんど自動的に踊っていた。
そして実感を伴わない頭もまた、一つの言葉を器械的に反復し続けている。
「だから残念ですが、これから死にますよ」
冷静に、冷静になれ。
そうして曲が終わり、お互い最後のターンを踏んで。見つめあった姿勢から数秒。
外面とは裏腹の、熱いぐちゃぐちゃの思考を抱えたまま、ゆっくりと顔を上げると、
葉巻を
8
「虎の尾を踏んだなあ、弁護士」
ゴードンの声が、俺をリンチしていた手下のやくざ者どもを下がらせた。
靴音が床を介して大きく耳を
悪態をつこうとした喉は、唾液の混じった血をむせる以外役に立ちそうもなかった。
「弁護士……実にふざけた肩書だとは思わんか。口先で他人を
反応する形で顔を上げた瞬間、硬い靴の裏に勢いよく踏みつけられた。
「別に答えなくていい。見当はついてる。どうせあの店の金が目当てだろう。だが、俺が本当に聞きたいのはもう一つ……お前と一緒にいた、あの少女は何だ?」
次いで、硬い爪先で顎を蹴られた。血が詰まった喉が奇妙な音を立てる。
「お前はまるで、犬のような顔をしてるな。
苦痛を
ゴードンは、クロニカと騎士団を知っている。そしてそれ以上を知りたがっている。
ならなぜ少女は殺されたのか、それを防ぐために、俺は──だが、ともかく、今は。
「……お前に、
「そうか。もしや法廷でないと口が回らんかね? 悪いが、裁判には連れて行ってやれんな。
太い指がパチリと鳴る。そして再び、俺はリンチの輪に取り囲まれた。
だが、何も喋らない。古今東西、拷問の目的とは一つ。人間という箱の中身を取り出すことなのだから、喋ってしまえば最後、空箱の末路など決まっている。
逆を言えば、口を閉じている間は生きていられるという事で、しかしだからこそ、死んだ方がマシな状態に置かれるのだが──その自論を、俺は身を
「……っ」
だが、ああ、そろそろだ。痛覚というのはある一定を超えるとぼうっと
ともかくそうして、俺の意識は肉体から滑り落ち、己の内に避難していった。
そんなところに安息など、在りはしないと知っているのに。
『大丈夫……大丈夫よ、ライナス。だいじょうぶ、だから……』
天井にぶら下がった父を前にして、姉は何度も繰り返しながら俺を抱きしめた。
十二年前の革命で、俺たちの生活は一変した。父が経営していた劇場は貴族のパトロンを失い、市民の暴動で焼け落ちた。そして一家は破産した。
同時に始まった内戦で社会が混乱する中、俺は気丈に震える腕に抱かれながら、たった一人の家族をずっと
けれど、実際はむしろ真逆だった。
姉さんは俺よりもずっと強く、前を向くことが出来たのだから。
『見て、ライナス』
安アパートと言うには褒めすぎなボロ部屋の小さな食卓に、姉はどこからか拾ってきたガラス瓶を置いてみせた。くすんだ容器の底には、ほんの僅かにコインが
『まだ少しだけど……貯金、始めてみたの』
昼は主として死体の片づけなど、とにかく見つけた仕事を二人でこなす日々。しかし天性の器量の良さか、姉はすぐ夜の酒場で歌手の座を獲得していた。その分の稼ぎを
『これをいっぱい貯めて、また劇場をつくること。それが今の私の夢。どう? ライナス。
いつか舞台が出来たら、今度こそ一緒に劇をしましょ』
彼女の笑顔は、まるで過ぎ去った日々のようにきれいで、それが
俺は壊れ物を扱うように、恐る恐る問いかけた。
『……姉さん、それ、本気?』
『本気も本気、大マジよ。だから……お願い』
そう言って、
『あなたも、諦めないで……一緒に、生きて』
それから
……だから俺は、あやふやな、夢や希望や愛なんて嫌いだ。信じるに値しない。
当時の俺たちに本当に必要だったのは、そんなまやかしでは断じてなかったから。
その現実を直視しないキレイ事が、俺は大嫌いだ。
──意識を飛ばしていたのは、一体どれぐらいだったのだろう。時の感覚は一足先に殴り殺されており、
しかし、いや、一人だけ目の前にいる。それは見るからに鈍そうな大男で、調理師風の汚れた作業着を着た、ぎょろりとした大きな目が俺を捉えた。
「だ、旦那が、後は任せるって言った。……お、俺、普段は
聞いてもない自己紹介をしながら、大男はこちらに背を向け、あまり想像したくない仕事道具を取り出し始めた。
それら一切を無視して、俺は音を立てずに縛られた身を起こす。
すでに走馬灯はいずこかへ走り去っていった。しかし、たった一つの思い出だけが、返り血のようにべったりとはりついたまま、目の前を離れない。
──降りしきる雨、握ったナイフの感触。
──血
あの日あの時──俺が殺した姉の顔が、こびりついたまま離れない。
「俺の作るローストビーフ、ひ、評判なんだ。う、
両肩関節を外し、縄を緩めて腕を解放する。縄抜けは久しぶりだが、運がいいことに首尾よくいった。解いた縄の先端に牛飼いが使うような輪っかを
クロニカは、死んだ。
俺の失敗だ。もう二度と、俺の金は戻ってこない。だからきっと、そのせいなのだ。
これほどまでに熱く激しく狂おしく、胸の内が
「で、でも。旦那から注文が入ると、に、人間も料理する、そんでこっちも評判なんだ。痛いって、やめてって、何でもしゃべるからってみんな言う──」
「おい。ウスノロ」
振り向いた男の頭頂めがけ、俺はカフスボタンを重しにつけた縄の先端を投げ付けた。
輪投げの要領で大男の首に引っ掛けると同時、傷ついた体に
「!! や、やめ、やめ……て」
男はしばらくもがきながら泡を吹き、そして倒れた。
足の拘束も解いて、ふらつきながら立ち上がる。幾度となく冷静さをぶっかけた頭の中で、消しきれない炎が燃え尽きることなく
「俺の怒りを買ったな、クソ野郎」
9
翌日、朝。彼の私室兼、応接間にて。
ゴードンはノックの音で、徹夜明けの浅い眠りから目を覚ました。
「何だ。さっさと入れ」
「し、失礼します!」
来訪者は子飼いのやくざ者。昨晩、例の弁護士の暴行に加わっていた一人である。
「どうした。
「い、いえ……どちらでもありません。ないんですが、その」
机の下から仕置き用の
「と、とっ捕まえていた男ですが、に、逃げられました。朝方、様子を見に行ったら消えてやがりまして、ど、どうやら拷問係のトビーを締め上げて脱出したらしく……」
数分後、血に染まった鞭を新鮮な死体の上に放って、ゴードンは片付けろと
「かしこまりました」
応じて、バルコニーの朝日が部屋の床に延ばした影から、一人の女が立ち上がった。
彼女、イヴリーンと入れ違いに、血と死体が飲まれるように影の下に消える。
「逃げた男ですが、追跡いたしますか。今日中には、捕えることが可能でしょう」
「……いや、後でいい。近々、騎士団の女が来る。お前は俺の
昨夜と同じ
「なぜ、騎士団と取引を?」
突然来訪した騎士団からの使者、パトリツィア。結局、ゴードンは彼女との密約に同意した。その内容は、首都では派手に活動し
「一体どういう風が吹きまわしたのでしょう。大の貴族嫌いのあなたが、連中の仲間になろうとは。……まあ私に関しても、以前からその点は疑問でしたが」
「今日は良く
「失礼。気になったもので」
まあいい、とゴードンはお気に入りの南部産葉巻に火をつけた。
「俺は別に、貴族を殊更恨んでいるわけでもない。ただ、一昔前まで偉そうに人の上に立っていた奴らを踏みつけるのが好きなだけさ。その点、お前は何と言うべきか……そういう典型的な貴族らしいところがない、だから傍に置いている」
イヴリーンは半年ほど前、ふらりと現れた未登録因子保有者、
「これはあくまでビジネス、投資の一環だ。いくら俺でも私情は挟まんよ。騎士団とコネクションを作っておいて損はない。お前も、
開けたバルコニーに望む、眼下の広場の中央で、
〈王〉。革命によって廃された、千年を君臨した不死者の遺体は、今を
「信じているのですか。そのような馬鹿げた話を」
くつくつと、含んだ笑みがこう応えた。
「信じている、どころじゃない。お前には言うが……俺にはあるのさ。〈
己の太鼓腹を
「つまり、これはそのための一歩というわけだ。よって、これからの
「はい」
それは願望か、あるいは妄想か。イヴリーンは問わぬまま
闇の表面に波紋が走る。直後、その黒い平面から吐き出されたのは、一人の少女。
「さて、
良ければ、この私が力になるよ」
どこか芝居がかった、隠す気のない
10
「見え透いた
〈
立ち上がった黒い影が、私とゴードンの間に、つながりかけた視線を断ち切った。
三次元の漆黒は白いドレスの足元から伸びている。そこに立つ女性は短く嘆息して、どこからか、
「お気を付けください、この少女の
そう言うと、女は眼鏡の一つを自分に、もう一つをゴードンに渡した。
思わず
遅まきながら、この女貴族の能力も察しがついた。影の領域の自在操作。先刻までこの身が沈んでいた闇は、武器としては
影のヴェールが再び平面に落ち、黒眼鏡をかけたゴードンが感心気味に顎肉を
「ほう、成程な。あのブロンド女め……
まあいい、助かったぞイヴリーン。ご褒美にナデナデしてやろう」
「普通に嫌です。セクハラで殺しますよ」
冗談だと笑って、黒いレンズを越した欲望の目つきが、私を捉えた。
沸き立つ嫌悪感に
「騎士団と取引したと言ったわね。愚かな人たち、彼らが、約束なんて守ると思うの」
「思わんさ。だからこその交渉であり駆け引きだ。君の身柄さえ押さえておけば、私の有利は揺るがない。たとえ
相手の言葉が終わるや
「ライナスは、私と一緒にいた男は、どうしたの」
「あの男なら、殺したよ」
一瞬、比喩でなく心臓が止まった。
「……と言いたいところだが、どうやら君の相棒は
しかし、思わず漏らした
「だが安心するといい。すぐに捕えて再会させてあげよう。ああ、ところで一つ訊ねるが、ハンバーグは好きかね? 私は好きだ。彼も好きだといいんだが……
毒々しい戦慄に背筋が震える。ライナスではないけれど、私にも目前の肥満体から、他者の生命を消費することを己に許した者特有の、血生臭い横柄さをありありと感じる。
……いや、しかし、これは何かが違う。
この粘ついた、黒眼鏡越しに私を見つめる欲望は、もっと下品で、野卑で、本能的な粘性を帯びている。私は自らの
「あなた、まさか──」
応じたのは、無骨に輝く
「私は、鶏はモモ肉が好きでね。君のはどんな味かな、お嬢さん」
言うが早いか、脂ぎった指に捕まれて、私は
抵抗できない。貴族としては
スカートが乱暴にまくり上げられた。そして振り下ろされた刃はさながらギロチンのように、私の右足を
激痛は、衝撃から一瞬遅れてやって来た。
血
そして
吐き気を催す痛みと、寒気を伴う出血の中で確信した。こいつの正体は──。
「まったく、いけないお嬢さんだ。そんなに
後悔が、傷の痛みより激しく身を焼いた。私のせいで、彼は本当に死んでしまったかもしれない。
閉じた
ゴードンは筋とも骨ともつかない肉片を吐き出して、満足げに口元を拭った。無造作に投げ捨てられた足骨はしゃぶりつくされ、唾液にまみれて輝いている。
「
ドアの向こうの廊下から足音が響く。来意を告げるノックを、ゴードンは快く出迎えた。
「ようこそ、麗しき騎士団のレディ」
「この度は、首尾よく意図を遂げられた頃と思い、ご無礼を承知の上で、
そして現れた女性を、私は知っていた。
間違いない。先日、ライナスと一緒にいた、その女性の名は、確か。
「……パトリツィア=ウシュケーン」
こちらの
11
「
彼女は目を伏せたままクロニカへ一礼し、それから顔を
「生け捕りが条件だと伝えたはずですが、一体これはどういったご了見で?」
「生きてはいるさ。子どもとはいえ貴族だ、少し味見したぐらいで死にはしないだろう。
それに、あなたこそどういう了見だね。この少女の
「あら、お伝えしていませんでしたか。これは失礼を……それより」
事も無げに言って、白手袋の指先が、背後に伸びる己の影にハンカチを落とした。
すると舌打ちとともに、
「人様の足元にモグラを忍ばせるなんて、これも、どういったご了見ですの?」
まいったねと、こちらも悪びれずに肩をすくめるゴードン。
元より、互いに交渉を取りやめる理由はない。片や、己の野望のため騎士団とのつながりを欲し、騎士団はクロニカの身柄を欲している。ここに利害が一致する以上、主導権を握るためのジャブは交わされこそすれ流血には至らない。
「ではお互いさまという事で……ここは一つ、仕切り直すことにしようか。
イヴリーン、もういいぞ。客人にお茶を持ってこい」
無表情のまま
「いいでしょう。
「何かな」
「その少女が本物かどうか、確かめさせていただいても?」
当然の要求に、ゴードンは気を悪くするでもなく、頷いた。
「構わんよ。しかしどうやってだね」
「ありがとうございます。ええ、簡単な事ですわ」
片足を失い、苦痛にあえぐ少女の前まで歩き、パトリツィアはそっと
二人の見つめ合いは数秒。果たして、クロニカは
──やがて
「やっぱり、あなたってホントに……
「ああ。知ってるだろ」
瞬間、
一発、そして二発。肥満体に銃弾が
そして、つい最前までパトリツィア──だった男は正体を現した。
腹部を締め付けていたコルセットがバチリと外れ、肩幅を
それから最後に、化粧とともに見えない仮面が引き
そして高らかに舞い上がる、用済みの変装
「自己紹介がまだだったな。
空いた左手で少女を抱き寄せながら、男は言った。
「ライナス=クルーガー。職業は、詐欺師だ」
12
その三。相手の立場に立つことだ。
「な……さ、詐欺師、だと。ま、まさか……き、きさまは、最初から!」
「正解だ」
くれてやる褒美は決まっていた。
肝心なのは想像力だ。話を聞き、仕草を読み、表情を見て、そこに至るまでの
同じ顔をするなど、造作もない。
最初から、ゴードンの下を訪ねたパトリツィアの正体は、俺だ。
交流を経た彼女の人となりを、せっかくなら使えないかと考えたのは数日前のこと。騎士団を名乗ったのは交渉のためのアドリブだ。実物は、ただのマヌケな家出娘に過ぎない。
ともかく彼女を
後はそのまま、正体を伏せていたクロニカの
だから
「クロニカ……おい、大丈夫か」
力なく
「……ごめんなさい、ライナス。私のせいで、あなたを危険な、目に」
「謝るな、俺のヘマだ。お前が……いや、俺の金が、無事でよかった」
クロニカは見透かすように力なく
一方、血に溺れる芋虫のように荒い呼吸を繰り返すゴードンへ、俺は言った。
「さて、おいハゲ豚。テメエには二つほど借りがあったな。一つは、俺を散々痛めつけてくれたこと。そんで、もう一つは──」
不意に、言い
「こいつに、クロニカに、俺は金を、この俺の金を貸してんだよ。つまりだ。
──俺の一番大事なものに、テメエは手を出したって事だろうが」
激情が、頭を割らんばかりにコインを鳴らしていた。
その音に従って、苦痛に
「ぐご……ま、待ふぇっ──!!」
「悪いが、命乞いは聞いてねえよ。これが俺の判決だ」
喉奥を
白い壁と
「また会いましたね……バカな人」
「っ──!?」
物陰から立ちはだかったのは、ティーセットを持った白波のドレスだった。現れた彼女は部屋の惨状を冷静に眺め、近くのキャビネットに茶盆を置く。
イヴリーン。この女貴族にも借りはある。だがしかし、今はそれよりも。
「あんたの雇い主は死んだ。……多分だけどよ、別に
「いいでしょう」
あっさりと
「確かに私には、そこで死んでるデブを弔う義理も趣味もありません、が」
不意に訪れた沈黙と戦慄の
「あなた方に、質問する義務があります」
数秒後。そこには黒白のエプロンドレスをまとい、
だが真に注目すべきは、その右腕の腕章、
俺は、いや誰もが知っている。それは革命軍──改め、現
「正式な自己紹介は、まだでしたね。では改めまして」
つまりコイツの正体は、俺とクロニカが、最も
「私は、
職業は、軍人です」
13
急変を告げた事態に、悪態をつく暇もない。俺は素早く思考を切り替えた。
軍人。それは共和国政府の行政を、武力によって代理する職業であり、遺産管理局とは、国内に残存する貴族に法の首輪をつけ、その支配下に飼いならすためのお役所、なのだが、
「このメイド服は気にしないでください。前職の名残です」
最大級の疑問を一言で片づけると、メイド改めイヴリーンは事務的に続けた。
「──さておき、色々と聞きたい事もあるでしょうが、それは私も同じこと。では一つ一つ整理していきましょう。まず一点、あなたたちは何者でしょうか」
言わなければ殺す、無言の殺意が、荒れ果てた応接間を支配していた。
できるだけ言葉を選んだ結果、口から出たのは箇条書きのような文句だった。
「こいつはクロニカ。騎士団から身柄を狙われてる」
「なるほど、ではあなたは?」
「……ライナス=クルーガー。ただの道連れだ」
「そうですか。
こつこつと歩み寄った八つ当たり気味の蹴りが、死体を部屋の隅に
「このセクハラデブは本当に何も知らなかったようですね。マジで無駄足でした」
そして乾いた声が、一段とその温度を下げる。
「次に、その小娘貴族に聞きましょう。どうして騎士団は、あなたを狙うのですか」
「それは、コイツが──」
「お前には聞いてない」
声は、すぐ後ろから聴こえた。そして首を
少女の体温はすでに手から離れていた。痛みと衝撃で明滅する視界の先で、荷物のようにクロニカを抱えたイヴリーンが、白い
「
「……っ、割と、本当に、
「なぜ、お前は騎士団に狙われているのですか。それと連中との関係、知っている事の
背骨の
今なら、逃げられるかもしれない。天啓はすぐさま、俺の耳元で
もはや、敵はゴードンなどではない、国家権力だ。……なのに、どうしてか、
銃を取り落とした空手のまま、クロニカを捕えるメイド服へ、俺は言ってしまった。
「……そいつから、手を放せ」
イヴリーンはこちらへ振り返らず、殺意を乗せた失笑だけが飛んできた。
「やはり馬鹿ですね、あなた。オマケ風情が、大人しくしていれば見逃してやってもよかったのですが──いいでしょう、死にたいのなら
「やめて!」
その声と、かつてないほど弱々しく続く言葉に、一番驚き、動揺したのは俺だった。
「何でも
なぜだ。どうして、そんな事を言う。一緒に旅をしたから、助けたから、恩人だからか?
だとしたら買い
「……泣くなよ、アホが」
そしてピタリと、鋭利な影の切っ先が、俺の喉元に突きつけられた。
「なるほど、こっちを人質にするのが正解でしたか。では喋りなさい小娘、私が
しかし、またしてもその瞬間だった。
視界の端を高速で
14
一拍遅れた風切り音が、鼓膜を不気味に震わせた。
次いで、くぐもった、暗く低い響きが、いよいよ悲惨な様相の部屋に木霊する。
「……十二年前、俺はただの、しがない肉屋だった」
喉元の影は消え去っていた。壁に空いた大穴の先へ、イヴリーンはクロニカもろとも退場させられていた。だが、二人の安否に意識を向ける余裕すら、今の俺にはない。
部屋の片隅に立ち上がるソレを、目撃してしまったから。ボトボトと、血とも髄とも分からぬものを垂れ流す肥満体が、一体どうやって声を出しているのかは想像したくない。
「そして革命期の王都では、常に、貴族どもを処刑する人手が不足していた。肉屋という理由だけで、断頭台を任されるぐらいにはな……」
ぐちゃぐちゃという音。割れた頭蓋から出る湯気は、まさか再生しているのか?
唇の隙間から鉛玉を吐き出して、それはくつくつと不気味に笑う。
「ある日の夕方だった。いつも通りに首の無い死体を片付けながら、ふと聞こえたんだ。ルビーの
紡がれる言葉の理解を、理性が拒んだ。なのに、おぞましい独白は続けられ。
「我に返った後で、気が付いたのさ。血の中にソレがあることに。なあ、分かるか。分かるだろう?
ぬるりとした
「あれから俺は何度も何度も食ってきた。貴族どもの肉を、血を! その度に肉体が入れ替わっていくのを感じていたが──まさか、これほどの力があったとは! ……当たり前だが、実際に死んでみなければ、よもや自分が不死身などとは気づかんものだなあ」
瞬間。勢いよく伸びてきた触腕が、俺の胸元に食い込んだ。視界が一瞬の急転を経て、体ごと床に
そんな俺を見下ろしながら、ゴードンは指先についた血を
「面白いな。お前、貴族ではないだろう。
「がっ、ぅぐ……知、るかよ」
「くく、はは。とことん強情な
その言葉に、
食われて、死ぬ。それにはなにか、根源的な恐怖への想像力をかきたてられた。
ただ殺されたり、病気で死んでいくのとは違う。己に食らいつく別の生き物に、自分を奪われながら死んでいく様は、絶対に、生物として許容できないように感じられて。
「──おい」
瞬間、部屋を乱舞する血肉の
立ち上がった影刃に
「私を、無視して……話進めてんじゃねえぞ豚野郎ッ!!」
そして
「イヴリーン……安心しろ。お前も付け合わせだが、ちゃんと味わって
散らばった血肉が、巻き戻っていく……死なないのだ、ああまでしても。
あまりの光景に
そして目を合わせるや、イヴリーンはクロニカを無造作に放り
慌てて、ぐったりとした少女を受け止めた直後、忌々し気な舌打ちが響く。
「不覚です。あの不死性……少々、デブさ加減を見誤っていましたか」
「……一体何なんだよ、あいつは。貴族、なのか?」
違います、とイヴリーンは割れた額から流れる血を振り落とした。
「ああなったアレのような手合いを、私たちは
「悪趣味な、先祖返りよ。ある意味で、貴族よりも……ソレらしい」
「細かい話は後にしましょう。ここは一旦、さっきまでの事は忘れて、協力しませんか」
それは、願ってもない申し出だった。少女の体を抱え直し、膝に力を込める。
すぐ
「ああいいぜ。じゃ、後は任せた」
「は? オイちょっと待て──!!」
再生を終えたゴードンが、猛然とイヴリーンへ襲い掛かる。のに全力で背を向けて、俺は振り返った扉の先へ、クロニカを抱えたまま一目散に駆け出した。
15
出口を目指して、長い廊下を駆け抜ける。腕の中のクロニカが、
「……ライナス、ごめんなさい」
「うるせえ、謝るな、泣くな。俺がヘマした……それだけの、話だ」
「でも、私があのお店を助けてって、最初に言い出さなかったら」
しかし何と言われようと、俺は彼女の責任を認めるわけにはいかない。
「……いいかよく聞けよ。俺がボコられたのも、お前の足も全部。俺が、あの店の金が欲しくて招いた結果だ。断じて、お前の頼みを聞いたせいじゃない」
俺は、詐欺師だ。だから、少女の頼みを聞いて馬鹿を見ただなんて、あり得ない。
廊下の先に現れた扉を蹴破ると、そこは昨夜のパーティーが催されたホールだった。薄暗い
途端、対角上の壁が
「っ、イヴリーン!」
血を吐き、よろめきながら立ち上がるメイド服を認めて、俺は思わず呟いた。
「くそ、時間稼ぎにもならねえのかよ」
「……それが人間の感想ですか」
脅してきたくせによくも言う。そう言い返そうとした時だった。
「貴様ら全員お帰りは許さん。言ったはずだ、一毛残さず食ってやると」
ホールに響く重低音。裸の上半身に筋肉を隆起させたゴードンが、別の入口を蹴倒して現れた。巨漢の背後には、手下のやくざ者たちも群れを成している。
「どうすんだ。このままじゃ俺ら、まとめてあいつの昼飯だぞ」
「レストランでランチになるなんて、笑い話にもなりませんね」
立ち上がって拳を握り、足元の影を立体化させるイヴリーン。しかし、そのダメージが深刻なのは明らかだ。一方で、不敵な笑みを浮かべたゴードンに疲労の気配は無い。
「おい、やる気出してるとこ悪いけどよ、どう考えても逃げた方がいいだろ。
……お前の
「無理です。理由は二つ。一つは、重量問題です。私は影を介して瞬間的に移動できますが、他の生物を抱えたままだと思うように転移距離が伸びません。二人も抱えればなおさらです。もう一つ、
前者はともかく、後者の理由はよく分からなかった。日光が、彼女の能力に対して、何か負の要素として関連するのだろうか。
しかしイヴリーンはそれについて説明してくれるでもなく、こう付け加えた。
「それと、あともう一つありました。一体どこの誰が──私が負けると決めつけた」
乱れたヘッドドレスを付け直して、口元の赤を白い袖で荒々しく拭う黒髪のメイド。それはボロボロに欠けた
「私は、軍人です。そしてそれ以前に、一人の
衰えぬ殺意が決意を告げる。聞くや
「…………おい、イヴリーン」
「これ以上何ですか」
「お前だけじゃ無理だ。この際しょうがねえ、俺も戦う」
「……前半には同意いたしかねますが、後半は歓迎します。何か、手立てがあるのですね」
「ああ、職業柄、打つ手はいつも隠してる」
クロニカの名を呼ぶ。腕の中から見上げる紫水晶と、俺は
「アレを頼む。列車ん時のやつだ。あのワケ分からんのを、もう一度俺に移せ」
「……ダメ」
震える声と、
「あの時、
「いいから早くしろ……やらなきゃ、全員ここで終わりだ」
一触即発。見えない緊張の糸が薄暗がりのホールに張り巡らされている。その一本一本が、何かの拍子にぷつりとイくのを、今か今かと待ち
もはや猶予はなく。だから俺は、吸い込まれそうな
「俺は、大丈夫だ」
当然ながら根拠は一切無い。けれどそれしか道が無いのは明らかだったから。
いつものように、真っ赤な
「信じろよ。……
その時、
少女は小さく
「〈
ゴードンが、動く。そして俺達を
だが刹那、それら一切を無視して。
頭上から
俺もクロニカも。イヴリーンもゴードンたちも。その場の全員が一斉に天井を見上げた。
どういうわけかそこには、真昼の空が
そんな一種の幻想じみた光景が、唐突すぎたせいだろう。
「この度は乱暴な訪問にて大変失礼を。玄関が、開いていなかったものですので」
白いエプロンからぱたぱたと
「お帰りが遅いので心配しておりました。急がねば店主のブランチも冷めてしまいますゆえ──お迎えに上がりましてございます。クルーガー様。クロニカ様」
跳ね起きたように、老女の名を叫ぶクロニカの声は、困惑と驚きに揺れていた。
「アリア! あなた、まさか……でも、どうして──っ!?」
その
ふと隣のイヴリーンもまた、何か様子がおかしいことに俺は気付いた。
震えている。
「……師匠」
ただならず動揺するイヴリーンへ、アリアは旧知らしく応じた。
「これはまた意外な再会。お久しぶりです、イヴリーン。……相変わらず無鉄砲は治っていないようで。そんな生き方では、弾丸よりも短命だと何度も言いつけたはずですが」
「……おいババア、一体何者だ。貴様は」
動揺が抜けたのか、ゴードンが口を開いた。
すると
華麗と言っていいその所作に、俺の背筋はどうしてか、冷たく凍り付いていた。
丸まった老女の背から、どす黒い陽炎が立ち上がるのを錯覚する。まるで、巨大な
今や鼻につくまで濃密に漂い出した気配には、覚えがあるし知っている。それはあのグラキエルすら
血に
「貴様どこの手先だ? 老いぼれ。どうやらお前も貴族らしいが──」
そんなゴードンの声はしかし、そよ風のように切って捨てられた。
「あら? 不思議ですねえ。先ほどからまさかとは思っていましたが……。
どうして豚が、人の言葉を
当然のようにこめかみを怒らせたゴードンは、背後の手下たちへ命じる。
「ぶち殺せ。このババアは目障りだ」
命ぜられるまま、やくざ者たちは兵士のようにクロスボウを構えた。
しかして、一瞬の後に響いたのは、鈍く連続した落下音だった。
男たちの首が、まるでイチジクの実のように、ぼとりとその足元に落ちている。
そして凄惨な衝撃を、つんざくような旋回音が切り裂いた。左右に広げた老いた両手に、刹那の
「ああ……久々ですが、やはり変わらず、何とも心地よいものですね」
血
「悪党の首を、
「き、さまァ────ッ!!」
ゴードンが
けれど豪風の
「老いぼれ! 貴様相当な強さだな! さぞかし名のある貴族と見た! いいぞいいぞ! 飛び入りのメインディッシュとは大歓迎だよ! 多少賞味期限を過ぎているようだが安心しろ。俺は腹を壊したことなど一度もない! その血の一滴まで残さ、ず──」
それは、
大理石の床に流れ出した血の海が、干潮のように消えていた。命だったものが吸い上げられ、老いたメイドの靴底から足首へ、そして全身の血管へと、供物として送られていく。
同時に、老いた小柄が変貌を始めた。
若く、大きく、しなやかに。まるで死人を養分にする食人樹のように、短かった手足が骨格もろともめきめきと伸びて、枯れた肌が
物言わぬ
「そういえば、申し遅れていましたね」
舌なめずりをしながら、若く
「私は、元王立堕落清掃隊〈
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双なる
「懐かしい、感触です」
切断された肉が、飛び散る
まき散らされる端から次々と、吸い取られていくのだ。赤く、どこまでも
酷薄な笑みが告げるのは、その役割に特化した、貴からざる
「〈
ふわりと広がったスカートの裏地、舞い踊る紅髪の隙間に無数の
それを見て、醜悪に膨らんだゴードンの顔が、黄色く濁った
斬られる度、鈍くなっていく再生速度。傷口に残留する痛み。そして何より、血や体力よりも、何かもっと根本的なものを削り取られているような感覚。
それら
「まさ、か……貴様っ! お、俺の不死身を、す、吸うなあああああっッ!!」
「あら、ダイエットはお嫌いでしたか? ですが、もう少しの間だけご辛抱をくださいませ。あなた様の一等の無能を支える一番の無駄な首を、ハチェるまで」
瞬間、長い
「
巻き付かれたゴードンの右腕はそのまま、締め付けるに任せて細切れにされた。そして
「あ、ぁぁあああああアアアアアッッ!!」
膨れ上がった恐怖が、ゴードンの内で引き金を引いた。暴走し、且つ膨張していく生存本能が、忌むべき食欲と結びつき、ここに限界を超えた変異を
「……あら、ご立派」
アリアの眼前。突如として数十倍に膨れ上がった暴食の化身が、縦一文字に胃袋を開陳する。そして無数の歯列を並べた醜悪な
「……ッ!? ゲェッ、

アアアッッ!!!?」
だが次の瞬間、内側から突き上げられるように膨張した胃袋が、耐え切れずに破裂した。
散華する血肉を浴びながら咲き誇るのは、無数の
血
「ですが私を食べるには、品位が到底足りません」
破裂した腹をおさえて命を乞う男の視線を、軽蔑と嘆息がすぱりと斬り捨てた。
「そういうわけで落第です。地獄の底で、一から
白い袖口から生える
数秒も必要とせず、その巨体は連続する衝撃力によって壁へ
そこで
「
回転速度の最高潮に達した瞬間、アリアは自ら血
そして嵐が過ぎた後、ゴードンは跡形すらも残らず、砂のように散り消えていた。
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「助かった……のか」
「そう、みたい……」
砕けた天井から差し込む陽光に、俺とクロニカは並んで
体が、痛い。とにかく疲れた。生還を喜ぶ気力さえも湧かないでいると。
「失礼いたします」
ふと、ひんやりとした指先が首筋にあてられた。直後、そこから流れ込んでくる熱い何かが、全身に枯渇したはずの気力体力、根源的ないのちを巡らせる。
たった数秒後、何事も無かったように上体を起こして、顔を見合わせる俺とクロニカ。その頭上から、若いアリアの声が落ちた。
「あの方から吸い取った生命力をお分けしたのです。疲労や骨折程度ならば、これでもう心配はございませんが……クロニカ様、大変残念ですがその
「大丈夫よ。これだけ生命力をもらえれば、二、三日もすればまた生えてくるわ」
「なんとまあ」
見れば、クロニカの左足は既に出血を止めていた。だけでなく、巻かれた布の下で断面が小さく
「あなたはもしや……いえ、失礼いたしました。ならば
「ありがとう。でもいいわ、こっちを使うから」
「……人を勝手に
寄りかかってくる小柄を受け止めると、すっかりいつも通りの
「……勝手に、ハッピーエンドで終わらせないでください」
その時、ゆらゆらと立ち上がったのは、もう一つのメイド服。イヴリーンもまたアリアからの生命提供を受けたのか、負傷の気配は消えている。
「師匠……あなたは、その二人を助けるのですね」
「はい。今の私は小さなレストランの従業員ですから。これも大切なお客様へのサービスです。住所は後で渡しますので、あなたも是非いらっしゃいませ、イヴリーン」
「遠慮します。私はその二人を重要参考人として、これからしょっぴかねばなりません」
「そうですか」
そこでようやく、震えを止めた拳を握り、冷蒼の瞳が
「もし邪魔をするならば、師匠。私は共和国軍人の責務に従い、あなたを未登録の因子保有者として処罰しなければ──」
「うるさいですね」
「一々、口に出した義務にみっともなくしがみつくのはやめなさい。相変わらず、小便ちびるほど私が
その一言は、果たして彼女のプライドをどれ程刺激したのか。
「失礼しました。では、
「
そうして流れるように成立したのは、殺気立つ二人のメイドの果たし合い。
いつの間にか、その勝敗には俺とクロニカの命運までもが懸けられていたが──。
彼女たちの決着は、あっけないほど一瞬だった。
……そして残念ながら、常人極まる俺の目には、その一瞬に凝縮された二人の攻防を知覚する
つまるところ、眼前に示された結果以外に、語るべき事は何もないのである。
ずるずると、ホールの反対側まで吹き飛んだイヴリーンの体が、激突した壁の破片と一緒に、血の海に沈んでピクリとも動かなくなった。
「ねえ、ライナス。あれってまさか」
「ああ、死んだだろ絶対」
「あら、お二人とも人聞きの悪い。殺してはいませんよ……多分、きっと、恐らく」
弟子の顔面をカノン砲の
なぜか照れたようなその
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そして後日。俺は二人分のトランクを両手に提げて、駅への石畳を歩いている。
色々あった、あり過ぎた首都ともお別れだ。来た時とは反対の夜の大通り、
「おい、夜行便に遅れるぞ。早くしてくれ」
「……分かってるわよ、でも、もう少しだけ」
俺の後ろを遅れて歩くクロニカは、名残惜しいのか、記憶に焼き付けるように通り過ぎて行く街並みを見回していた。
その足は、予告通り中二日ほどで再生を終えていた。そして、あの店の
付け加えるなら、若返ったアリアを見て腰を抜かした店主だけは、つい今朝方まで寝込むことになったが。彼女の話では、しばらくはあの姿のままらしい。
ともかく少なくとも、あの店に関しては円満に解決した。しかしながら、
「さっさと来い。もう俺たちの事は管理局にバレてんだ、急がないと……」
そこでふと、俺は失念していた一大事を思い出して足を止めた。
「? ちょっと、ライナス。さんざん人を
「……忘れてた」
さっと血の気が引いていく。たちまち思い出したその一事に塗り替えられた頭からは、既に他の何もかもはきれいさっぱりすっ飛んでいた。
「金だよ! あの店主から、報酬を
来た道を全力で引き返そうとする俺の足を、しかし
「止めるんじゃねえ! 俺が何のためにあんな目に遭ったと思ってんだ!」
「もちろん私のためでしょ。たとえ
俺の前に歩み寄ったクロニカは、そっと伸ばした両手で俺の頭を下げさせて、一方で、自身はぴんと背伸びして。少しだけ、照れたような微笑と見つめ合ったのは一瞬未満。
それから
「──私からの報酬。これだけじゃ、ご不満かしら?」
俺は何かを反論をしようとして、不覚にも言葉に詰まった、その時だった。
「往来のど真ん中で、何をイチャついてるのですか。あなたたち」
「ッ!! テメエは──!」
ハッとして振り返った先、
イヴリーン。黒髪の額に包帯を巻いた彼女は、相変わらずの無表情だった。
「死んでなかったのかよ」
「生きてたのね。大丈夫?」
「大丈夫ではありません。実際死にかけました」
淡々とした答えが返される。俺は反射的にクロニカの手を握り、逃げ足に力を入れた。
しかし予想に反して、別に襲い掛かってくるという事も無く、代わりに、イヴリーンは心底気が進まないように、用件を切り出してきた。
「……今回の一件を上に報告した結果、とある任務が私に発令されました」
深い、深いため息をついてから、薄い唇がこう告げる。
「あなた方には、これから私が保護と監視を兼ねた護衛として同行します。
そして、本当に残念ですが、拒否権はありません。……あなた方にも、私にも」