第二章 Carnival of Savarin


     1


 美食グルメなんて言葉ができたのは、ここ最近の話だ。

「起きて、ライナス。着いたわよ」

「……起きてる」

 甲高い汽笛と同時、膝を揺する小さな手の感触が、浅い眠りを終わらせた。

 顔にかぶせていた新聞を外すと、直前まで読んでいた大見出しが視界をかすめた。

『東南部通貫路線、襲撃さる。死傷者二四五人、反革命派の犯行か』

 俺とクロニカが出会ってから、ちょうど二週間。幸いにもまだ二度目の襲撃は無い。そして今到着した場所は、恐らく国内で最も、その危険から遠い場所だろう。

 身軽なクロニカに続いて、二人分のトランクを持たされた俺がステップを降りる。

 ドーム状の鉄骨構造に蓋された首都駅のプラットホームは、大勢の乗客でごった返していた。金持ちの乗客に群がるポーターをよそに、改札口の混雑に並ぶこと数分。

 穴あきの切符を駅員に渡し、数冊の車内貸本を返却口に滑り込ませてから駅を出る。

 時刻は昼前。夏の日差しに照らされた半円形の駅前広場ステイシヨンスクエアからは、パノラマのように首都の街並みが見渡せた。

 だが特筆には値しない。華やかなりし高層建築が、田舎者を威圧するために並び立っているだけだ。都会は来るたびに印象を変えるが、本性は常に変わらない。

 しかし隣に立つ少女は、そんな虚飾の壮麗さを無邪気に指さして、言った。

「わあ……。やっぱり首都だけあって、すごい都会ね。見て、ライナス! あそこのホテル、玄関の前に噴水があるわよ。一番上のお部屋に泊まってみない?」

「アホ言うな。それと、あんまハシャいでるとバカに見えるぞ」

「あなたこそ、あんまり大人ぶっていると、かえって子どもっぽく見えるわよ」

「……いいから黙ってろ」

 ここは元王都にして現共和国コロニアルズ首都、パリントン。

 十二年前、この国のすべてをひっくり返した震源地。国民議会が自由の風を吹かす新都の礎には、打ち砕かれた旧弊のざんがいと、処刑された貴族たちのえんが埋められている。

 そして今回、俺たちがここに足を運ぶことになった発端は、一週間前に遡る。


『……飽きた』

 雑にでられたジャガイモと、ほぼ脂身だけのベーコンの山盛りを前に、クロニカは白旗代わりにフォークを振りながら、うんざりしたようにつぶやいた。

 列車での出会いから一週間ほど、俺とクロニカは海へ向かい、南部を転々としていた。

 道中の寝食は当然、ネズミに食われたような田舎宿の世話になる他ない。

『我慢しろ。この辺の食い物がロクでもないのは、今に始まった事じゃない』

 肥沃な土地柄にもかかわらず、南部四州の食糧事情はひどく貧しい。その理由は革命で急加速したモノカルチャ、つまりは、新たに地主となった小金持ちブルジヨアたちが、こぞって利益率の高いタバコや綿花の作付けばかりを小作人に強要しているせいだろう。

『ねえ……鉄道のある街に着くまで、あとどれぐらいなの?』

『四、五日ってとこだ。にらむなよ、この辺は道だってロクなもんじゃない』

 ぐったりと机にほおをつけたまま、クロニカは塩辛いイモ山に向かってため息をこぼす。

『……しいものが、食べたい』

 それは、到底この場に望むべくもないぜいたくで、だからこそ俺たちの利害は一致した。

 俺だって、詐欺る相手もロクにいない、貧乏くさい田舎に長居したいわけではないのだ。

『まあ、もう少しの辛抱だ』

 その呟きに釣られたように、少女のひだり胡乱うろんにこちらを見上げた。

 俺は無言のまま、胡乱気な紫水晶アメジストに、次の目的地を教えてやった。


 ……そして今、俺たちはこうして首都にいる。

 人が多く、カモに事欠かないのが都会の唯一の利点だ。紅白のレンガで造られたティンバーフレームが立ち並ぶ大通りは、身なりの良い紳士淑女であふれ返っている。

「こっちよ、ライナス! ……もう、ちゃんと付いて来てったら」

 着替えの入った真新しい黒のトランクを揺らしながら、上機嫌な声が踊る。

「目的はお料理だけど、まだまだお昼には早いわね。せつかくの首都だし、食前酒アペリテイフの代わりに、色々と見て回りましょう」

 そう言って、ギンガムチェックのスカートから伸びた革靴の爪先が、石畳を踏んで微笑ほほえんだ。白いノースリーヴのシャツに、これまた白いツバ広帽子の下、二色を織りなす長い髪が、先端の白銀をしに溶かしながら揺れている。首都に来る前に装いを新調した(俺の金で)少女は、盛夏の季節を等身大にコーデしていた。

 断じて、その姿にれたわけではない。ないが、渋々、俺は差し出された手を取った。

「エスコート、よろしくね。ライナス」

 そして、それからの小一時間を一言で表すならば、これに尽きる。

「……疲れた」

 やっとたどり着いた休憩地点。中央広場のベンチにもたれた途端、俺はそうつぶやいていた。

 洒落じやれたブティックに付き合わされ、ガラス張りの植物園に寄り道され、宝飾店の前で興味津々に立ち止まられて肝を冷やされ、歩くのが遅いと文句を言われ……職業柄、女の街歩きに付き合い慣れた俺でも、コイツが相手ではいささか以上にへきえきする。

 頭上に広がる腹立たしいほどの晴天をぼうっと眺めながら、半ば無意識にタバコの火をけた途端、隣に座ったクロニカがぽつりと言ってきた。

「もう疲れたの? ……なんだか、おじさんみたい」

「ほっとけ。言っとくがな、俺はまだ二十八だぞ」

 煙と一緒にそう吐き出すと、クロニカは片目で同じ空を見上げて、呟くように言った。

「意外と若いあなたの年齢はさておき、本当にいい天気……そうだ」

 手をたたくやいなや、少女はトランクから一冊の本──いや、前に言っていた日記か──を取り出し、ペン先を軽く拭ってから、さらさらとそこに書きつけていく。

 どこで手に入れたのか、少女の日記帳はそれなりに分厚く立派だった。装丁の傷み具合から、かなり使い込まれているようだ。きっと何度も読み返しているのだろう。

「そういうのってよ、普通一日の終わりに書くもんじゃないのか」

「私は思い立ったときに書く派なの。じゃないと……ううん、やっぱり何でもない」

 言葉尻を打ち切って、ペン先だけが動く。横からちらりと盗み見ると、少女の日記はまるで備忘録メモのように、短い文章のまとまりがあちこちに散っていた。

 そのまま眺めていると、気付けば、にらむような半眼がこちらへ向いていた。

「一応言っておくけれど、勝手に読んだりしたら、ひどい目にあわせるからね」

「もうあってる。……冗談だ、お年頃のポエムに興味持つほど暇じゃない」

 ため息交じりの紫煙を吐いたその時、俺はふと、吸い殻の先の景色にそれを見つけた。

 あ、と思う間もなく、隣のクロニカも気づいたように、同じものを見る。

「ライナス……あれって」

 何と説明するべきか言葉に迷って、俺は結局、淡々と事実を述べた。

「断頭台だ。革命の時、実際に使われたのが、記念碑モニユメントになってんだよ」

 さんさんとした穏やかなの下に、血びたままに並べられた数群の処刑台。

 大通りが交差する六角形の中央広場。ここの通称は、革命ギロチン広場という。

 かつてこの国には、処刑制度があった。

 古くは、貴族が罪人を見せしめとした、悪い意味で趣向を凝らした残虐な公開処刑。

 そして革命期に吹き荒れた、貴族の血筋を絶やすための、効率重視の断頭処刑。

「……悪い、その、何というか、忘れてた」

 歯切れ悪く謝罪する。少女からはあまり語らないが、クロニカもまた残党貴族だ。

 管理局に己の因子行使権を明け渡した首都居住貴族たちでさえ、この血なまぐさい記念場に好んで足を運ぶ者はいない。当たり前だが、自分や家族は革命を支持していても、そうではない親類縁者の首が、あのやいばに切り落とされている者も多いのだ。

 しかしクロニカはあくまで涼し気に、その忌み刃をじっと眺めながら、言った。

「別に気にしないで。革命で死んだ親類も、友達も……私には誰もいないから」

 なぜか。俺には少女のその横顔が、まるで何かを羨ましがる子どものようにも見えて。

 六角形の端の時計塔が、頭上の太陽に代わって、その到来を知らせてきた。

 それを合図に、クロニカは日記をしまい直すと、俺の手を引いて立ち上がった。

「そんな事より、早く行きましょう、ライナス。忘れないで、私たちの本命は──」

 新興の繁華街へ続く大通りの口を指さして、少女は胸弾むように言った。

「レストランよ!」


     2


 貴族の大量処刑、その言い換えである市民革命は、街の文化にも変革をもたらした。

 その一つが、失業した貴族屋敷の使用人たちが開いた、まったく新しい形態の飲食店だ。

 その店では、金さえ払えば誰でも平等に、空腹を満たすためではなく、楽しむための食事、流行風に言い換えるなら、美食グルメが味わえる。

 それこそがレストラン。新時代を象徴する飲食店である。

『素敵! そんなお店があるなら是非もないわ。決めた、次の目的地は首都よ』

 南部の安宿にて、俺の思考を読むやいなや、クロニカは意気揚々と顔を上げてそう言った。

 無論、俺も異論はない。が、しかし、ふと気になった事がある。

『……そういやお前、いつから旅してんだ。つか、今までどういう生活してきたんだよ』

 旅をしてきている割に、クロニカは少々、というには控えめなぐらい世間知らずだ。

 少女は数秒黙ってから、小さく言い訳のようにつぶやいた。

『……秘密。どうしても知りたいなら、ご想像にお任せするわ』

 あからさまにはぐらかすようなその態度に、しかし追及する気は起きなかった。別に俺も、奪われた金について以外、コイツに興味などないのだ。

『そうかよ。……じゃ、その態度のデカさは生まれつきか』

 胸は小さいのにな、と付け加える直前、テーブルの下の膝が勢いよく蹴りつけられた。不意の衝撃にもんぜつしていると、ひだりを開けたれん微笑ほほえみがこちらを見下ろしていた。

『とにかく、レストランよ。とびっきり、しいお店へ連れて行ってね』


 かくして、空前のレストランブームに沸く首都と、クロニカの希望は一致した。

 がやがやとした新興の美食グルメ通りには、老若男女入り交じった、浮かれ気分の雑踏がひしめいている。今や自分もその一部なのかと思うと、途方もなくうんざりさせられた。

 そしてなお悪いのは、ためいきをつく口が、残念ながら一つしかないという事だ。

「……なあ、頼むからいい加減決めてくれよ。もー適当にあの辺の店でいいだろ」

「ダメよ。せつかく初めてのレストランだもの。しっかり選んで思い出に残さなくちゃ。……あのお店は、魚介のグラタンが美味しそう。でも、他はイマイチみたい。あっちのメインディッシュは……え、うそでしょ、カタツムリなんて食べるの」

 退店した客から食事の記憶メニユー感想レビユーを読んでいるのか、紫の左眼をせわしなく動かすクロニカの歩みはここ数十分ほど、遅々として進んでいない。

真理の義眼アイオブザプロヴイデンス〉。クロニカは普段、例の左眼を閉じている。その理由は本人いわく、見たいものばかりが目に入るわけではないのと。

「疲れ目になりそう……いくら何でも、こんなにお店があるのは予想外」

組合ギルドがなくなったせいだよ」

 聞き返すクロニカに、思い出しながら語ってやる。

「昔は、誰でも自由に商売できたわけじゃない。例えばパン屋だったら街に何件まで、小麦は去年までのを使って価格は定価で値引きも値上げも禁止、そんでパン以外の焼き菓子やなんやらを売るのも当然禁止、ってな具合にな」

 競争と価格変動を防ぎ、庶民に供給されるの質を安定させるため。そういう名目で革命以前の商業組合ギルド制度は存在していた。しかしながら、

「それって、すごく不便だったんじゃないの?」

「ああ。そう考えるやつが多かったから、なくなった。その結果がこのザマだ」

 雑草のごとく並び立つレストランどもは、そうした制限が撤廃された弊害だ。本来の需要が無視された挙句、ブームが過ぎれば大半は潰れていく。と、そこまで口にしたとき。

「あ、見てライナス。あそこのお店から出てきた人が食べたの……高級料理のフルコースだって……! すごくおいしそうよ! 特にデザートが!」

 そよ風よりも容易たやすく俺の話を無視して、クロニカはもう駆け出していた。

「ったく……ガキのくせにぜいたくな、ロクな大人にならねえぞ」

 ため息代わりに悪態一つ。俺は遠ざかっていく後ろ姿を追いかけようとして、やめた。

 よく考えればこれはチャンスだ。うるさいのが離れた今の内に、邪魔をされずにひと仕事するのも悪くない。限りある時間は、金に換えなければ損失として計上されるだけだから。

 そうと決まれば──素早くさり気なく、周囲を流れる雑踏に視線を巡らせる。

 シルクハットの紳士、談笑する婦人たち……身持ちの良さそうなカモを探していると、ふと、一つのシルエットが視界に飛び込んできた。

 派手な日傘をさした、一人の女。左右非対称アシンメトリーの裾をした水色のコートドレスに、過剰なぐらい絞ったウエストからすらりと伸びたロングスカートは、一見でどこかのれいじようだと教えてくれる。

 通りの左右を見物する後ろ姿は優雅と評してなんら差し支えない。ゆったりとした歩調に揺れるプラチナブロンドの髪が、扉の開いた宝物庫のように俺を誘っていた。

 決めた、あの女にしよう。

 定めた標的の後をつかず離れず歩きながら、取り出した手鏡とぐしで身だしなみを整える。何事も、もちろん悪事も、第一印象が重要だ。

 しかし、後ろ暗い決意が足をかす途中で、俺は視界の端にそれをとがめた。

「ん? ……って、おい」

 くだんの女へ、人混みからひょっこり現れた、見知らぬ男が話しかけていた。

 道を尋ねているのか、それともナンパか客引きか、それ自体は別にどうでもいい。が、問題なのは、そこに背後からさり気なく近づくもう一人だ。

 相方が注意をらしている内に、そいつが女のポーチを強引にひったくった。

「! ま、待て!!

 とつに叫んで、足止め役の男も追いかけるふりをしてその場から走り出す。

 創意工夫の欠片かけらもない、俺に言わせれば三流の手口。腹が立つより先に足が動いた。

 あの程度の路上強盗ごときに、俺の獲物かのじよを渡すわけにはいかない。

 容易に予測し得た犯人の逃走経路に先回りして、通行人の影に隠れ、全力で走り来るひったくりの前に俺はひょいと片足を突き出してやる。

!? ぐへぇっ!!

 すると哀れな男は気持ちいいぐらいにズッコケて、街灯に頭からぶつかっていった。

 男の手をすっぽ抜けたポーチが描く放物線、その先に腕を伸ばして受け止める。

 そのまま人混みを縫うように歩きながら、相方に駆け寄るもう一人の男とすれ違う。

 瞬間に、バックルを外してベルトを抜き捨ててやった。

!? ぐはぁっ!!

 唐突にずり下がったズボンに足を取られた男は、小汚い下着を見せつけるようにして相方の隣に顔から滑り込んでいく。

 騒ぎ始めたうまたちを尻目に、俺は用意した人生をいつもの仕草で顔にかぶった。

 改めて探す必要もなく。その場でぼうぜんと立ち尽くしていた日傘の女に、偶然を装った声音で話しかける。

「失礼、美しいお嬢さん。こちらのかばん、落としましたよ」


     3


 彼は女性の手を取り、少し離れた適当なレストランのオープンテラスへ誘導した。

 飲み物だけの注文に顔をしかめた給仕ウエイターに、たっぷりチップを渡してやる。にこやかに言われるまでもなく、ごゆっくりするつもりだ。

「あ、ありがとうございます。助かりましたわ。その、本当になんてお礼をしたらいいか」

「お礼なんていりませんよ。それより、おはありませんか。あなたのようなれんな女性が、一人でこんな人混みを歩くなんていささか不用心でしょう」

「え、ええ。わたくしもそれは重々承知なのですが……ちょっとした事情がございまして」

 歯切れ悪くうつむく彼女に、内心やはりかと得心した。

 椿つばきつやめくプラチナブロンドの髪、青いリボンは少女らし過ぎるが、色合いとしては似合っているし美しい。真珠のイヤリングは言うまでもなく、香水も高級品だ。

 しかしなぜか、外見に気を遣っているのは明らかなのに、白い指先だけは爪化粧ネイルをしていないのが気になったが、まあ、無視できる範囲の違和感だ。

「何か、深い事情がおありのようですね。こうして出会ったのも何かの縁です。

 僕でよろしければ、貴女あなたの力にならせてくれませんか」

 とは言っても、この手の女の事情など、大抵、水たまりより浅いと決まっているのだが。

「あ、ありがとう! 見ず知らずのわたくしに、こんな良くしてくれる人なんて初めてです!

 ええと、そういえば、貴方あなたまえは」

「ウィルソン=ブロジェットと申します。よろしければ、ウィルと、お呼びください」

 それが、今この顔にかぶっている、俺ではない「彼」の名だった。

 決して裕福ではない東部の農家出身ながら、不断の努力と忍耐で大学を卒業した知識人インテリゲンテイアは、今や広大な綿花畑と工場を所有する、若き実業家である。

 その立ち振る舞いと雰囲気は自信と爽やかさに満ちあふれており、いわば、女性にとっての一つの理想像に合致する。彼の唯一の欠点は、実在しないことぐらいだ。

 応じて、注文したレモネードのグラスを手に、花のような笑顔が自己紹介を返してきた。

もちろんです、ウィル! わたくしはパトリツィア=ウシュケーンと申しますの。どうぞ、パティとお呼びになって下さい」

 ウィルの仮面は、期待以上の好感触を引き出してくれた。それからしばし、彼と彼女が世間話を交えながら、急速に打ち解けていく。

 パトリツィアの実家は、南部の裕福な貴族の家系らしい。しかし彼女から、バケモノじみた気配はじんも感じない。そもそも、あんなひったくりの餌食になるほどの鈍くささだ。

 なにも貴族のすべてが貴血因子レガリアを宿しているわけではない。因子は一人の親から、一人の子にしか継承されない。つまり両親が貴族でも、その子どもの内、因子を宿せるのは二人まで。そのほかの兄弟姉妹は名ばかり貴族の一般人となる。さらに言えば、革命後も残存する貴族家系の大半は、とっくに因子遺伝自体が途絶えてしまっている。

 ふと、溶けた氷がグラスの中でかちりと鳴った。と同時、パトリツィアは内心をこぼす。

 親の用意した縁談に、嫌気が差して家出したのだと。

「ありがちな理由ですわ。あなたのような、努力で身を立てた人からは、何不自由なく暮らしてきた小娘の反抗なんて、下らなく見えるでしょう。……笑ってくださって結構です」

「笑いませんよ、決して。……ありがちな理由というのは、それだけ多くの人にとって譲れないという証拠ですから。貴女あなたの真剣な選択を、笑ったりなんかしませんよ」

「……ありがとう。優しいのね」

 涙ぐんで感激するパトリツィアを、俺は仮面の裏から鼻で笑った。

 この女を動かす理屈はもう大体つかめた。クロニカではないが、こうして面と向かい合って十分に言葉を交わした今、彼女が何を望んでいるかぐらいは、手に取るように分かる。

 パトリツィアはこの出会いを運命だと感じたいのだ。衝動的に実家を飛び出した後悔よりも切実に、必然の偶然に救われたいのだろう。

 ならば俺は求められるまま、彼女が信じたい真実の顔を演じてやるだけだ。鳥籠を飛び出した先、辿たどいた理想の湖面が、悪魔の鏡だと知れぬままに沈めてやろう。

「でも、パティ。聞いてくれ、僕は心配なんだ。さっきの事だけじゃない、君のような美人がこのまま一人旅を続ければ、その内もっと危険な目に遭うかもしれない。正直に言えば、すぐに父君と仲直りして、実家に帰った方がいいと僕は思う」

「それは、そう……ですけど」

「でも、それがどうしても難しいと言うなら、僕を頼ってくれないか」

 そう言うと、彼は優しくパトリツィアの手を握った。

「え、えっと……ウィル、それって、あとこの手は、その、あの……」

「……ごめん。急すぎるかもしれないけど、その、嫌だったら拒んでくれて構わないから」

 エメラルド色の瞳に偽りない感情を伝える裏で、俺は見えないコインの音を聞く。赤子の手をひねるがごとくだ。この女の身も心も実家の金も、今やすべては俺の手中に収まった。

「僕と、一緒に来てくれないか、パティ」

「……ウィル」

 そして、時が止まったような昼下がりのテラスで、見つめ合う二人の唇が、ゆっくりと近づいていき、触れ合う──寸前で、俺は気付いた。

 プラチナブロンドのかかった白い肩越しに、こちらをにらむ、おんの眼光に。

「──ぐっはああっ!?!!

「う、ウィル──っ!?

 視線を介して網膜を突き抜けさらにその奥へ、たたきつけられたクロニカの意思がハンマーのように脳髄を揺るがしてきた。

 神経に直接作用した衝撃力は、ウィルソンと俺の体をパトリツィアから引きがすだけにとどまらず、ブリッジの体勢で背後の植木鉢へ、勢いよく突っ込ませる。

「きゃあああ! ど、どうしましたの、ウィルッ! ちょっとあふれ出る情熱パツシヨンが斬新すぎませんッ!?

「ち、ちが……これには、深い、事情があって……」

 った上半身を起こ、せない。きしむ背骨はアーチを描いて硬直したまま、頭も植木鉢から取り出せない。しかし、両脚だけは俺の意思を無視して立ち上がる。

 早く戻れ。脳髄に叩きつけられた命令が、血を介して全身を巡っていた。

「ご、ごめん……じ、実は持病の突発性り病の発作が……きょ、今日は失礼するよ」

「何ですかそのリアクション全振りの病っ!? え、ていうかちょっと待って今の雰囲気でこれで終わりってアリなんですっ!?

 とってつけた言い訳だけを残して、俺はその場から退散する。

 幸い数歩で姿勢は復帰し、何とか人混みを抜け、クロニカの下へたどり着けた。

 息も絶え絶えに文句を言おうとした直前、少女の冷ややかな声がほおを打った。

「馬鹿」


     4


 それから数分、ようやく機嫌を直したクロニカに、店は決まったのかといてみると。

「……まだよ。途中で私を置いてけぼりにした、うそつきの女たらしを探してたから」

 前言撤回、まだ直ってない。

「悪かった。けど、お前もお前だ。日が暮れるまで昼飯選ぶつもりかよ」

「それは、分かってるわよ、でも」

 うつむき、口ごもるクロニカ。しかしこれ以上付き合って歩くのは限界だった。主に腰が。

「もういい……黙ってついてこい」

「え、ちょっと──ライナスっ!?

 今度は俺からクロニカの手を握り、半ば強引に連れ立っていく。昼時を過ぎかけた表通りを外れ、ネズミがたむろする薄暗い路地へ。

 実際、歩いて分かった事がある。表通りの店はすべてハズレだ。特に、繁盛店はなおさら。

「ま、待って。こっちにお店なんて──」

「問題ない。さっき、ちらっとそれっぽいのが見えた。ほら、着いたぞ」

 果たしてその先に建っていたのは、救いようもなく古臭い面構えの二階建てだった。

 しかも立地が悪すぎる。大方、商売を知らない店主が貧乏くじをつかまされたのだろう。

「もう、なんなのよ、急に引っ張って……でも、このお花、きれいね」

 みずみずしいハイビスカスの花壇に顔を寄せて、クロニカは小さくつぶやいた。よく掃除された店先は清潔で、ネズミけらしい太った猫が一匹、軒の上で欠伸あくびをしている。

 確かに表通りの有象無象どもに比べれば派手さに欠ける、しかし、それがいいのだ。

 甲高いドアベルの音に迎えられながら、少女とともに店の敷居をまたぐ。

「あら、お客様ですね。ようこそ、いらっしゃいませ」

 深々とした一礼で出迎えてくれたのは、一人の老齢のメイドだった。太った玉ねぎのように丸いかつぷくが、年季の入った白いエプロンと妙に似合っている。

 彼女の案内で席に着く。狭い店内では、白いしつくいの壁がオレンジ色のあかりを穏やかに反射していた。よく磨かれたテーブルは、安物ながらにこくたんじみた艶と品を帯びている。

「この度は、ようこそおいでくださいました。お若いお二人とは珍しい、まあお客様自体珍しいのですが……さておき、心を込めておもてなしさせていただきます」

 老メイドはそう言って、素早く丁寧に水とナプキンを用意してくれた。

「ご親切にどうも、メニューはシェフから?」

「ええ。御品書きはございません。まるで古臭いディナーに招待されたようでしょう?」

「期待通りですよ」

 疑問符を浮かべるクロニカをさておいて少し待つと、慌ただしい足音がやってきた。

「い、いらっしゃいませ!」

 現れたのは、いかにもコックな男だった。人のよさそうな顔はよく焼けていて、特に一際赤らんだ大きな鼻が、ちゆうぼうの火に長くあぶられてきたことを物語っている。

「どうも。大分歩き回ったせいか腹が減ってましてね。この娘も見かけによらず、よく食べますので、アペタイザーとメインを二種類ずつ、それとパンとワインを頂けますか」

「か、かしこまりました。何か、お嫌いなものは」

「いえ、特にありません。ただこいつはまだ子どもなので、辛口は控えていただけますか」

 クロニカの眉がわずかに動いたが、無視を決め込む。

 さておき、足早にちゆうぼうへ引っ込んでいった店主に替わり、老メイドが頭を下げて。

「申し訳ございません。何分そそっかしい店主でして、腕は保証いたしますが、久々のらいきやく様に緊張しているようで、どうかご容赦を」

「お気になさらず。……あー、興味本位なのですが、ご夫婦でいらっしゃいますか?」

「いえいえ、店主と私はただの雇い雇われのビジネスラァイクな関係でございます。失礼ながら、お客様の方こそ恋仲同士でしょうか?」

「とんでもない、ただ親戚の娘を預かっているだけですよ」

 適当に否定すると、なぜか、老メイドは大きなため息をついた。

「まあ、そうだったのですね。……はあ、すみません、私はてっきりこちらの美しいお嬢様はきっとかの裕福なお家柄で、庭師のあなた様と踏み入ってしまった道ならぬ恋の逃避行の末にここへ来られたのだと妄想、もとい推測していたのですが……」

「重ねて断じて違います。……というか設定がやたらと細かいなおい」

 遮ろうとした俺を無視して、老婆は勝手に話の花を咲かせていく。

「いえ、しかし親戚筋とはいえお若いお二人の事です。これからの展開に恋のスパイスがガロン単位でぶち込まれぬとは限りません。……はっ! そうと決まればこのばあもうかうかしておれませぬ! 是非とも、今日のお食事が、お二人を愛とロマンス渦巻く底無し沼へと滑落事故させますよう誠心誠意お節介を──って痛ぁっ!?

「……大丈夫?」

 唐突に腰を押さえてうずくまった老婆に、クロニカは控えめに声をかけた。

「し、失礼いたしました。この婆、久方ぶりのアドゥレセンスあふれる恋の気配に、少々テンションガリ上がりいたしまして、こ、腰が付いていけず……」

 よろよろと立ち上がりながらもしっかりと一礼して、老いたメイドは勝手に盛り上がった意気を勝手に阻喪しつつ下がっていった。

「そ、それではどうぞごゆっくり……たとえ墓の下に行っても、この老骨はお二人を応援しておりますゆえ……」

 去り際の老女の親指サムズアツプに、俺は思わず、頭を抱えた。

「やっぱり大丈夫かこの店……」

「あなたが選んだのよ」

 なぜか、どこか上機嫌な微笑を浮かべて、クロニカは言った。

「お前も少しは否定しろよ。あのバアさん、いっそ水でもかけてやれば鎮火したか?」

「多分、何しても油を注いだと思うわ。それにあなたも、満更でもなさそうだったし」

「……なわけあるか。あいにく、そこまで三流じゃない」

 その時ふと頭の片隅をよぎったのは、先ほどのパトリツィアの顔だった。

 あの女もそうだ。恋だの、愛だの、実体のないものに踊らされるほど愚かな事はない。

 金で買えないものは無い。いい言葉だと俺は思う。

 何かが金で買えないとすれば、それはそもそも最初から、この世に存在していないのだ。

 愛、正義、平和……大切な物は、いくら金を積み上げても手に入らない、金に換えられない価値があるのだと人は言う。全くもつて甚だしい誤解に違いない。

 それらが金で買えないのは、最初から、この世のどこにも存在していないからだ。

 無を買おうとしたところで、手に入るものなど何もないのは当然だろう。

「あなたって、つくづく最低だわ。……もう、夢がないんだから」

「ほっとけ。……そんなもんこそ、犬に食わせとけばいいんだよ」

 そして待つこと十数分。結論から言えば、料理に関しての心配はゆうに終わった。

 前菜は注文通りの二種類。カリカリと香ばしい魚のフライとほうれん草のキッシュ、メインはリンゴソースのポークソテーとホワイトシチューのパイ包み、そして焼き立てのパンだ。いずれも手間を惜しまず、この一席のために調理された一品オーダーメイド

 表の繁盛店では到底不可能な芸当だ。なまじ客数が多いため、工程を減らして手間を省き、作り置きしたお決まりのメニューしか提供できないのは当たり前なのだから。

 そして、それこそが正しい商売だ。客一人に割く労力は最低限に、かつ客数は最大限にして利益を優先する。それが不特定多数を相手にする新しい時代の商売だ。

 しかし、この店と店主は、かつて貴族の屋敷仕えだった頃から何も変わっていない。

 時代に合わせて経営者になることが出来なかった、いつまでも誰かに忠実に仕えることしかできないコックの店は、だからこそ最高のもてなしをしてくれる。

 そしてひっそりと、時代の影に消えてゆくのだろう。

「ま、俺にはどうでもいいが。ところで、クロニカ」

「……なによ、そのムカつく顔。『やっぱり俺の言う通りにして正解だっただろこのお子様が』とでも言いたいのかしら?」

 一言一句違わず正解だ。片目で俺をにらむ少女の顔に、けんのんさを感じ取ったのか、

「も、申し訳ございませんお客様! な、何か料理に至らぬ点でもございましたか!」

 腰を痛めた老メイドに代わって、丁度食後のお茶を持って来た店主がろうばいした。

 流石さすがのクロニカも、予想外からの反応を慌てて否定する。

「え、ええと、違うの店主さん。あなたの料理はとってもしいけど……その、この男の前で認めたくないと言うか……ああもう! 私の負け」

 ためいき一つ。テーブルの下でこちらの足を蹴りつけると、クロニカはしとやかに席を立ち、スカートの裾をつまんだ完璧なお辞儀カーテシーで店主をねぎらった。

「今まで食べたどの料理よりも、きっと絶対に美味しかった。このお店に出会えて光栄よ」

 それはいつかの昔、この店主がかつて仕えた主人から受けた栄誉の場面、その再現だったのかもしれない。感激した赤ら顔が、むせびながら何度も頭を下げる。

「わ、わたしも、最後に、あなた方のようなお客様が来てくださってよかった……!

 ほ、本日のお代は結構でございます。今のことだけで、この店は報われましたから」

 瞬間、店主のその言葉に、俺は嫌な未来を予感して。

 しかしもう遅い。テーブルナイフにきらめいた、紫水晶のまばたきがそう語っていた。

「どうして、こんな素敵なお店を閉めるの?」

「え、ええ。お恥ずかしながら、どうも私は商売下手でして──」

「それはうそ

 続く少女の言葉が、不意に訪れた沈黙を切り開いた。

「良ければ、事情を話してくれないかしら。こうして出会った縁だもの。力になるわ」

「おい──」

 勝手に決めるな、という声は、しかし喉元を過ぎぬままに(視線で)ころされてしまった。

 代わって、クロニカに促された店主は、ためらいがちに口を開き始めた。

「実は……遺産相続について、訴訟を起こされたのです」

 その話を要約すると、次のようになる。

 店主は元々、とある革命派貴族に仕えていた料理番コツクだったという。

 そして老いた主人に子供はなく、革命後に病没した彼は、使用人の中で最も信頼していた店主に、没収を免れた財産及びその相続権を正式な遺言状にて譲渡した。

 それを元手に、この店を始めたのが数年前。立地は悪く客は少ないが、それでも主人の遺産があれば、少なくとも潰れることは有り得ないし、それだけで充分だった。

 ある日、かつて仕えた主家の遠縁だという人物から、不正相続を訴えられるまでは。

「その相手が、ゴードンという人物でして……」

 思わず息をんだ。いつぱしの小悪党を自認する俺の耳にも、その名は届いている。

 シェリー=ゴードン。首都に多くの高級レストランやホテル・クラブを経営するグルメブーム成金の代表例、というのは表向きに過ぎない。その正体は議員や実業家に密会の場を提供し、汚職を仲介する裏社会の顔役の一人といううわさだ。

 どう考えても、たかが詐欺師風情がケンカを売っていい相手じゃないのは明白で、しかしやはり、俺に選択肢など無いことは少女のひだりが語っている。

「お任せください。私、実を言えば法律家でして……裁判の経験もありますから」

「ほ、本当ですか!」

 店主の顔が、パッと明るくなった。上出来とでも言いたげな少女の微笑ほほえみが憎たらしい。

 この野郎、俺がこれからどれだけ危ない橋を渡ると思ってやがる。

 しかし悲しいことに、鍛え上げた作り笑いは本音を押し隠すには充分過ぎた。俺は薄っぺらい偽装を保ちながら、気にかかっていたことを口に出す。

「ああ、それと、興味本位でお聞きしますが、問題の遺産というのは一体いくら程で?」

「あ、はい。ええと、ざっとこれぐらいでしょうか」

 耳を疑うような金額に、思わず横目で確認すると、クロニカはあきれたようにうなずいた。

 頭の奥の暗闇から、コインの音が聞こえてくる、気が変わったのは言うまでもない。

「ご期待ください。必ず、このお店を取り戻してみせますよ」

 俺にとって自明なのは、存在しない愛や忠誠なんかでは断じてない。

 そこに確かに実在する金のためなら、命を賭けても悔いはないのだ。


     5


 そして、数日後。

「──以上のことから、ゴードン氏は到底、相続権を主張できる立場とは考えられません」

 首都の至上裁判所シユプリームコートに堂々とした声を響かせながら、俺は対岸の席に深く腰掛けたシェリー=ゴードン、本人の様子を盗み見た。

 ここにはいないお人よしの店主に負けず劣らずどっしりとした体格をしている。しかし顔は正反対の悪人面だ。彼は葉巻をくわえたままひどくつまらなそうにこちらを眺めていた。

 まるで、結果は見えていると言わんばかりに。

「ダメだったわね」

「当たり前だ。陪審全員買収されて勝てるかよ」

 閉廷後、店に戻った俺は店主に敗訴を伝えて、肩肘を張り疲れた体を席に落とした。

「……ですが、うう……ありがとうございます。こんな、こんな……私などのために」

 ティーポットを抱えたまま、店主が感極まったように涙ぐむ。老いたメイドが一礼し、代わりにかぐわしい紅茶を注いでくれた。

「お疲れさまでした、クルーガー様。……結果はともかく、どうかお気を落とさずに。店主も私も、お二人のお気持ちだけで充分救われておりますから」

 丁重に感謝を述べて、老メイドは店主とともに奥へ下がっていく。

「それで、次の手は? どうせ用意しているんでしょう」

 読んでいたようなクロニカの口ぶりに、俺はそっぽを向いたままうなずいた。

「ああ。ただし、だ。首尾よく運びたきゃ、一つだけ俺の言う事を聞けよ」

「内容によるわね。変態さん」

「違う。至って真面目な要請だ──この件が片付くまで、絶対に俺の心をのぞくなよ」


 ──準備がある、そう言ってライナスは一人店を出ていった。

 奥まったちゆうぼうで皿洗いを手伝いながら、残された私は時間を潰すことにした。

「お、お嬢様、そんな事はなさらずともいいんです。どうかごゆっくりおくつろぎ下さい」

「いいの。私、一度ぐらいお皿を洗ってみたかったもの。どうしても気がとがめるなら、さっきの紅茶のお礼代わりよ。本当に、ビックリするぐらいしかったから」

「お口に召したようで何よりでございます。クロニカ様」

 その時、厨房のカウンターの陰からひょっこりと現れたのは、丸いかつぷくのメイド服。

 店主は彼女の登場に若干の驚きを示しつつ、自らの手前ではないと口にする。

「ええ、私も茶の初歩ぐらいは心得ていますが……彼女の、アリアの紅茶には遠く及びません。本当に、こんな店にはもつたいないメイドです」

「まあまあ、褒められたところで別に何も出ませんよ。それに、こんなおちやみだけが取り柄の老人を雇ってくれたのはこの店ぐらいのものですよ」

 聞けば、革命失業した使用人たちの雇用の受け皿となったレストラン、しかし私がライナスと歩いた表通りの店は、若くて体力のある人材を好んで雇用する一方で、

「私のような物覚えも悪く、客引きにも使えぬ老いぼれでは、就職事情は冬を通り越してもはや絶望でございます。まあ、普通は貯金や年金、それも無ければ子や孫に頼るしかない年ですからねえ、仕方のないことではありますが」

 にこやかに話す老女──アリア。その柔和な笑顔は、新しいものがあふれ続ける世の中から、追いやられていく事への寂しさを押し隠しているのだろうか。

 あのへそ曲がりの詐欺師ではないが、私は少しだけ、世の中に嫌な気持ちを覚えた。

「おや、これは申し訳ありません。湿っぽい雰囲気にするつもりは無かったのですが……。どうやらこのカサカサ肌が水分を欲してしまったようで。ここは話題を変えるといたしましょう。──ときにクロニカ様は、どうして旅をなされているので?」

 不意の問いかけは、何気ない調子で私の琴線を震わせた。

 どうして、旅をしているのか。その問いへの答えは、今も昔も変わらない。

「私は、思い出が欲しいの。色んなものを見て、聞いて、触れて……何よりも切実に、私だけの足跡じんせいが欲しい」

 しかし、けれど、その意味合いは、あの詐欺師のせいで変わってしまった。

 閉じたひだりの裏がずきりとうずく。表面上は治ったものの、刻まれた傷は癒えてなどいない。ずっと、はじまりと私をつないでいた見えない縛鎖が、壊れかけているのを感じる。

 それらすべては、彼のおかげなのだ。

 あるはずのない希望、存在しなかった終点ゴールが今なら見える。変えられないはずの運命を、一人の詐欺師が、乗り換えさせてくれた。

 もうこの旅路は、こぼれ落ちていく時計に、砂を継ぎ足すに過ぎないような、先延ばしの逃避行などではない。だからこそ切に願うのだ。

 一度きりの、かけがえのないものとなったこの旅に、私は後悔を残したくはないと。

 だから助けたい。彼が出会わせてくれた、このお店を。

「クロニカ様?」

「……あ、ごめんなさい。手が、止まってたわね」

 気付けば、私の手は水の中の皿に触れたまま、切り離されたように止まっていた。

「いえいえお気になさらず。きっとクルーガー様の事を考えていたのでしょう。私には分かりますとも。あの御仁、少々ニヒルが効きすぎてはいますが中々のハンサム。まったく、羨ましくもあり懐かしくもございます。かくいうこの私も若い時分には、お仕えする家の若君と禁断のラブロマンス大長編を繰り広げていたものですから」

「……そ、そうなの」

 心なしかほおを赤らめて昔を語るアリアへ、私は一瞬開きかけたひだりを閉じた。

 彼女のれきしのぞくのはやめておく。失礼な気がするし、何より本当に大長編だったら……見たいような、見てはいけないような、しかしやっぱりよしておく。

 やはり他人の心なんて、見えないに越したことはない。そう結論づけて、私は再び、人生で初めての皿洗いに没頭し始めた。


     6


 同時刻。

 その部屋は書斎というには豪華すぎて、執務室というには悪趣味すぎた。つまりは応接室というのが相応ふさわしく、来客に主人の権威を見せびらかすための空間である。

 部屋の主である太った大男は食事中。ウォルナットの机に白いテーブルクロスを敷き、銀のナイフとフォークで香ばしい肉を切り分け、口に運んでぐちぐちとんでいく。

 そのつやつやとした禿げ頭の脂が、シャンデリアの光にぎらついていた。

「もう一度言ってくれないか、ハッティンソン卿。聞こえなかった」

「ゴードン、その、君に頼みがあるんだ」

 ハッティンソンと呼ばれた男は対照的に、貧相な顔つきを苦し気にゆがめた。衣服は上等なものだが、肝心の彼自身が、まさに没落貴族という風にやつれていた。

「……頼み、頼みか、だろうな。君の頼みなんて一つしかない」

「た、頼む! 少しでいいんだ。あの家の財産事情を教えてやったじゃないか。裁判では勝てるんだろう? だから、私にも──」

「昔なじみの家の財産から、おこぼれを預かりたい。そう言うんだな、ハッティンソン」

 目を背けていた事実の構図を突きつけられ、ハッティンソンはややたじろいだ。

 しかし、代々の屋敷と老いた使用人たちの顔を思い浮かべて、彼は恥を忍んでうなずいた。

 それを見たゴードンは、ナプキンで口元を拭うと、不遜に立ち上がる。

 空になった昼食の皿は、いつの間にかテーブルクロスごと跡形もなく消えていた。

「いやだね、断る。と言いたいところだが、そうだな」

 言葉を切り、有無を言わさぬ気配とともにゴードンは右脚を前に出した。

ひざまずいて靴をめる機会をやろう。もしかしたら、俺の気が変わるかもしれないぞ」

 一瞬、中年の貴族の瞳は、役立たずになり果てた誇りと、落ちぶれた現実にする覚悟の狭間はざまで揺れた。しかし彼が決断に要したのは数秒だけだった。

 ゆっくりと跪き、哀れな己の顔をはっきりと写す、磨かれた革靴に舌をわせる。

 それを見下ろす邪悪に肥えた笑顔は、しかしハッティンソンからは見えなかった。

「ふふ、くく……実に情けないなあ。いいだろう、気が変わったよ」

「じゃ、じゃあ」

「うむ。これ以上恥をさらさせるのは、かわいそうだからな」

 言葉尻が落ちると同時、空気を裂くしよう音が、ハッティンソンの首に突き刺さった。

「ぐ、っぁ、な、これは……血が、あああッ!!

 ゴードンの手にいつの間にか握られていたのは狩猟用クロスボウ。放たれたのは革命期に猛威を振るった出血矢だった。鋭い先端が皮膚を貫き、ストロー状の空洞が毛管引力によって血液もろとも因子を一気に吸い上げ、強制的に体外へ排出させる。

 失血の苦痛にあえぐその口元に、ゴードンは蹴り込むような爪先をねじ込んだ。

「お前ら貴族を見ていると本当に腹が立つよ……これまでさんざん偉そうにふんぞり返っていた分際で、いざ革命が起きると尻尾を振って生き延び、そして落ちぶれるとこまで落ちぶれてからようやくプライドを明け渡す。本当に、あさましい生き物だ」

 倒れ伏すハッティンソンの尊厳を最後の一片までも踏みにじりながら、彼は続けた。

「時代は変わったんだ。もうお前らの手に残っていいものは何もない。名誉も、地位も、金も、そしてその血肉の一片までも含めて……お前らのすべては、俺のものだ」

 ──そして、一時間後。

 食後の葉巻にゆったりと火をつけて、ゴードンは次の来客を新品のじゆうたんの上に通した。

「ようこそ、お嬢さん。長々とお待たせして申し訳ない。ところで、この私にどんな御用だろうか。うわさに聞く──騎士団の使者が」

「一つ、あなた様と取引をできればと思いまして、シェリー=ゴードン様」

「……詳しい話を聞こうか。ではまず、あなたの名前からうかがっても? レディ」

 プラチナブロンドの髪が、青いリボンを揺らしてお辞儀した。

「私は、パトリツィア=ウシュケーンと申します。この度は、とある貴族の少女の身柄を確保するために、どうかあなた様のお力添えを頂きたく、参上いたしましたわ」


     7


 細い指先が、どん織のテーブルクロスに並んだ大皿からクラッカーを一枚取り上げた。

いか」

「あんまり」

 裁判所での敗訴から三日後、ここはとある高級ホテルのパーティーホール。彫刻された大理石の柱、真っ白な化粧しつくいの天井には豪華なシャンデリアがるされていて、その下でピカピカの金管楽団の演奏と、招待客たちのお上品なけんそうが混成していた。

 余談ではあるが、この建物は先日クロニカと訪れた市街中央の革命ギロチン広場、処刑場の跡地を見下ろすように建っている。流石さすがにいいセンスだと言う他なかった。

 経営者は無論、シェリー=ゴードン。晩餐会パーテイの主催も彼だ。

 そこに今、俺とクロニカはまぎれ込んでいる。受付をどうしたかは言うまでもない。

「それにしても……あなた、お化粧なんてできたのね」

「俺の本業は知ってるだろ。誤魔化し、取り繕いは得意分野だ」

 クロニカの姿は、俺が場に相応ふさわしく整えた。とは言っても、素材のおかげで大した手間は必要なかった。絹糸のようなあかゆきの髪は軽くかき上げてうなじさらし、べっ甲の髪飾りでめてある。それから口紅は薄く、ほおに軽く粉をまぶせば即席女優の完成だ。

 黒いイブニングドレスを着せたクロニカは、先ほどからさり気ない注目を集めていた。

 しかし当人は眉間を寄せて不満げな目つきを隠しもない。その理由を問うと、

「気がるのよ。男の人たちから下心で見られるし、女性からは敵意や嫉妬を向けられる。むこうは隠してるつもりでも、私には見えてしまうから」

「それの何が嫌なんだ?」

「あいにく、私はあなたほど性格悪くないの。……ああ、そういえば、一つき忘れていたんだけど──ねえライナス、この格好って、あなたの好みなの?」

 先日の約束を守ってひだりは封じたまま、クロニカはからかうように告げてきた。

「思い上がるなら、あと十年は成長してからにしろ。今のお前じゃ馬子にも衣装だ」

「……それ、どこの言葉でどういう意味よ」

 今回の計画は、いわば最終手段だ。ゆえに単純にして明快。まず会場に潜入し、主催であるゴードンに挨拶を装って近づく、あるいは彼の目を引く、そして。

「私が、記憶を奪うのね」

「ああ。財産の在処ありか、愛人の住所、ついでに親の顔も奪ってやれ。それで万事解決だ」

 法廷で負けた以上、遺産を取り返す手段はもう、法の外にしか残っていなかった。

「何だかすごく強引ね。秘密にしてた割には期待外れなのもあるけれど、もっと、こう、何と言うかスマートな、詐欺師らしい作戦は無かったの?」

ちや言うな。悪党をたたきのめすなんて専門外だ。……で、どれぐらいまで近づけばいい」

「最低十五フィート、それ以上だと視線がつながらないわ」

「分かった、じゃ、そろそろ行くぞ」

 くいけばこれで終わる。事前の仕込みのがあった。そしてかけておいた保険の成果だろうか、今のところ危惧していたような気配もない。

 隣へ差し出した手のひらに、そろえた指の感触が触れた。俺はクロニカを伴ってゆっくりと、赤いじゆうたんの敷かれた会場へとぎ出した。

 内気な娘の社交界デビューに付き添う父親、を演じながらさり気なく。主賓席にどかりと座ったデブの標的との距離を詰めていく──最中、不意に楽団の演奏曲が変わった。

 陽気なリズムに合わせて、人々が空間を開ける。ダンスの時間だ。

 流石さすがに無視するわけにはいかない。不審過ぎて一発アウトだ。ゆえにここは仕方ない。

「クロニカ、お前──」

 踊れるか。そう言って、傍らの少女へ振り返ったその時。

「こんばんは。そして初めまして、バカな人」

 俺が手を取っていたのは、クロニカではなかった。

 少女の姿は、いつの間にかこつぜんと消えていた。入れ替わりに、いろの黒髪の下から俺をのぞくのは、まったく見知らぬアイスブルーの瞳。

 そして息をむ暇もなく、氷のような無表情が、有無を言わさぬように告げてきた。

一曲、いかがでしょうかシヤルウイーダンス


 ……うそをつくときのコツ、その二。

 常に冷静であれ。


「ダンス。お上手ですね」

「……誰だ、お前」

 白い波形模様モアレのウエストに手を当てて、シルクの手袋と手を取りながら踊る。

 黒髪を落とした端正な顔立ちは、人形のような冷たい無機質さを帯びていた。

 硝子がらす玉のようなあおい瞳がチリチリと、探るように俺を観察する。

「私は、ゴードン氏の秘書兼護衛。イヴリーンです」

 簡潔な自己紹介は、どうしてか、やけに遠くから聞こえてくる気がした。

「クロニカを、どうした」

 自分でも驚くほどに冷めた声だった。視界が締め付けられるような熱い感覚。はじびそうな腹の底の衝動を、まんてきな無関心の蓋で押さえつける。

「あの娘ですか」

 ステップ、そしてターン。するりと、俺の胸元からハンカチが抜き取られた。

「消してしまいました。こんな風に」

 イヴリーンは白い布切れを、シャンデリアがつくった己の影に落とした。それは吸い込まれるようにひらりと舞い、黒い領域に触れた瞬間、砂糖細工のように溶け消えた。

 間違いない。これは超常の異能。貴血因子レガリアの力以外にあり得ない。

 悲鳴の一つすら残す間もなく、クロニカはこの世から消されたのだと理解して。

「私見ですが、済んだ事よりも、今はご自分の心配をされたらどうです?」

 その声が、音楽が遠い。意識は肉体を抜けて、現実の一歩後ろで奇妙に煮えている。

 霜が降りたように冷たい女の瞳には、同じく、熱の無い俺の顔が映っていた。

「もう分かっているでしょうが、あなた、出しゃばりすぎましたね」

 ステップ、ステップ、そしてターン、ステップ、ターン。

 糸に繰られるマリオネットのように、俺の体はほとんど自動的に踊っていた。

 そして実感を伴わない頭もまた、一つの言葉を器械的に反復し続けている。

「だから残念ですが、これから死にますよ」

 冷静に、冷静になれ。

 そうして曲が終わり、お互い最後のターンを踏んで。見つめあった姿勢から数秒。

 外面とは裏腹の、熱いぐちゃぐちゃの思考を抱えたまま、ゆっくりと顔を上げると、

 葉巻をくわえたゴードンが、つまらなそうな顔で立っていた。


     8


「虎の尾を踏んだなあ、弁護士」

 まばゆいシャンデリアのあかりがまぶたの裏から消えないうちに、俺は薄暗い倉庫の薄汚い床に縛られた手足を投げだしていた。

 ゴードンの声が、俺をリンチしていた手下のやくざ者どもを下がらせた。

 靴音が床を介して大きく耳をたたく。ほおに落とされた葉巻の吸い殻が、傷口を焼く。

 悪態をつこうとした喉は、唾液の混じった血をむせる以外役に立ちそうもなかった。

「弁護士……実にふざけた肩書だとは思わんか。口先で他人をまもることなどできはしない。よって今、お前は暴力によっていつくばっているわけだが──で、目的は何だ?」

 反応する形で顔を上げた瞬間、硬い靴の裏に勢いよく踏みつけられた。

「別に答えなくていい。見当はついてる。どうせあの店の金が目当てだろう。だが、俺が本当に聞きたいのはもう一つ……お前と一緒にいた、あの少女は何だ?」

 次いで、硬い爪先で顎を蹴られた。血が詰まった喉が奇妙な音を立てる。

「お前はまるで、犬のような顔をしてるな。あるじは、きっと彼女だろう。言えよ、一体どうして、お前はあの少女と一緒にいる。そしてなぜ、騎士団の連中は彼女を狙っている?」

 苦痛をこらえながら、どうにか己に向けられた言葉の意図をとりまとめる。

 ゴードンは、クロニカと騎士団を知っている。そしてそれ以上を知りたがっている。

 ならなぜ少女は殺されたのか、それを防ぐために、俺は──だが、ともかく、今は。

「……お前に、しやべることは、何もねえよ」

「そうか。もしや法廷でないと口が回らんかね? 悪いが、裁判には連れて行ってやれんな。なら、俺の判決はもう下っている」

 太い指がパチリと鳴る。そして再び、俺はリンチの輪に取り囲まれた。

 だが、何も喋らない。古今東西、拷問の目的とは一つ。人間という箱の中身を取り出すことなのだから、喋ってしまえば最後、空箱の末路など決まっている。

 逆を言えば、口を閉じている間は生きていられるという事で、しかしだからこそ、死んだ方がマシな状態に置かれるのだが──その自論を、俺は身をもつて証明していた。

「……っ」

 だが、ああ、そろそろだ。痛覚というのはある一定を超えるとぼうっとしてくる。きっと意気地なしの脳みそが、苦痛に耐えかねて逃げ場を見つけるのだろう。

 ともかくそうして、俺の意識は肉体から滑り落ち、己の内に避難していった。

 そんなところに安息など、在りはしないと知っているのに。


『大丈夫……大丈夫よ、ライナス。だいじょうぶ、だから……』

 天井にぶら下がった父を前にして、姉は何度も繰り返しながら俺を抱きしめた。

 十二年前の革命で、俺たちの生活は一変した。父が経営していた劇場は貴族のパトロンを失い、市民の暴動で焼け落ちた。そして一家は破産した。

 同時に始まった内戦で社会が混乱する中、俺は気丈に震える腕に抱かれながら、たった一人の家族をずっとそばで守るのだと、ひどく青臭い決意を固めたのを覚えている。

 けれど、実際はむしろ真逆だった。

 姉さんは俺よりもずっと強く、前を向くことが出来たのだから。

『見て、ライナス』

 安アパートと言うには褒めすぎなボロ部屋の小さな食卓に、姉はどこからか拾ってきたガラス瓶を置いてみせた。くすんだ容器の底には、ほんの僅かにコインがまっている。

『まだ少しだけど……貯金、始めてみたの』

 昼は主として死体の片づけなど、とにかく見つけた仕事を二人でこなす日々。しかし天性の器量の良さか、姉はすぐ夜の酒場で歌手の座を獲得していた。その分の稼ぎをめているのだというのは容易に理解できた。

『これをいっぱい貯めて、また劇場をつくること。それが今の私の夢。どう? ライナス。

 いつか舞台が出来たら、今度こそ一緒に劇をしましょ』

 彼女の笑顔は、まるで過ぎ去った日々のようにきれいで、それがまぶしかったから。

 俺は壊れ物を扱うように、恐る恐る問いかけた。

『……姉さん、それ、本気?』

『本気も本気、大マジよ。だから……お願い』

 そう言って、せた両腕が俺を抱きしめた。

『あなたも、諦めないで……一緒に、生きて』

 それからぐの事だった。無理がたたった姉が血を吐き、倒れたのは。

 ……だから俺は、あやふやな、夢や希望や愛なんて嫌いだ。信じるに値しない。

 当時の俺たちに本当に必要だったのは、そんなまやかしでは断じてなかったから。

 その現実を直視しないキレイ事が、俺は大嫌いだ。


 ──意識を飛ばしていたのは、一体どれぐらいだったのだろう。時の感覚は一足先に殴り殺されており、まぶたを開けると、そこにゴードンたちの姿はもう見えなかった。

 しかし、いや、一人だけ目の前にいる。それは見るからに鈍そうな大男で、調理師風の汚れた作業着を着た、ぎょろりとした大きな目が俺を捉えた。

「だ、旦那が、後は任せるって言った。……お、俺、普段はちゆうぼうで働いてるんだ」

 聞いてもない自己紹介をしながら、大男はこちらに背を向け、あまり想像したくない仕事道具を取り出し始めた。したごしらえのつもりか、大仰に金属音を響かせ恐怖をあおりながら。

 それら一切を無視して、俺は音を立てずに縛られた身を起こす。

 すでに走馬灯はいずこかへ走り去っていった。しかし、たった一つの思い出だけが、返り血のようにべったりとはりついたまま、目の前を離れない。

 ──降りしきる雨、握ったナイフの感触。

 ──血れたガラス瓶の中で響く、コインの音。

 あの日あの時──俺が殺した姉の顔がこびりついたまま離れない

「俺の作るローストビーフ、ひ、評判なんだ。う、いって、み、みんな、お客さんもゴードンの旦那も言ってくれるんだ。あ、あんたもきっとそう言う。間違いない」

 両肩関節を外し、縄を緩めて腕を解放する。縄抜けは久しぶりだが、運がいいことに首尾よくいった。解いた縄の先端に牛飼いが使うような輪っかをくくる。

 クロニカは、死んだ。

 俺の失敗だ。もう二度と、俺の金は戻ってこない。だからきっと、そのせいなのだ。

 これほどまでに熱く激しく狂おしく、胸の内がたぎっているのは。

「で、でも。旦那から注文が入ると、に、人間も料理する、そんでこっちも評判なんだ。痛いって、やめてって、何でもしゃべるからってみんな言う──」

「おい。ウスノロ」

 振り向いた男の頭頂めがけ、俺はカフスボタンを重しにつけた縄の先端を投げ付けた。

 輪投げの要領で大男の首に引っ掛けると同時、傷ついた体にむちち、全力で引き絞る。するとぴんと張った手応えとともに、急激に閉塞したなわひもが男のくびを圧迫した。

!! や、やめ、やめ……て」

 男はしばらくもがきながら泡を吹き、そして倒れた。

 足の拘束も解いて、ふらつきながら立ち上がる。幾度となく冷静さをぶっかけた頭の中で、消しきれない炎が燃え尽きることなくくすぶっていた。

「俺の怒りを買ったな、クソ野郎」


     9


 翌日、朝。彼の私室兼、応接間にて。

 ゴードンはノックの音で、徹夜明けの浅い眠りから目を覚ました。

「何だ。さっさと入れ」

「し、失礼します!」

 来訪者は子飼いのやくざ者。昨晩、例の弁護士の暴行に加わっていた一人である。

「どうした。やつが何か吐いたか? まさか、その前に殺してしまったんじゃないだろうな」

「い、いえ……どちらでもありません。ないんですが、その」

 机の下から仕置き用のむちを取り出しながら、言ってみろ、と低く脅す。

「と、とっ捕まえていた男ですが、に、逃げられました。朝方、様子を見に行ったら消えてやがりまして、ど、どうやら拷問係のトビーを締め上げて脱出したらしく……」

 数分後、血に染まった鞭を新鮮な死体の上に放って、ゴードンは片付けろとつぶやいた。

「かしこまりました」

 応じて、バルコニーの朝日が部屋の床に延ばした影から、一人の女が立ち上がった。

 彼女、イヴリーンと入れ違いに、血と死体が飲まれるように影の下に消える。

「逃げた男ですが、追跡いたしますか。今日中には、捕えることが可能でしょう」

「……いや、後でいい。近々、騎士団の女が来る。お前は俺のそばにいろ、イヴリーン」

 昨夜と同じ波形模様モアレのドレスが、うなずくように一礼してから、たずねた。

「なぜ、騎士団と取引を?」

 突然来訪した騎士団からの使者、パトリツィア。結局、ゴードンは彼女との密約に同意した。その内容は、首都では派手に活動しづらい彼女ら騎士団に代わって、クロニカという貴族の少女を捕獲すること。その見返りとして、ゴードンは騎士団での地位を要求した。

「一体どういう風が吹きまわしたのでしょう。大の貴族嫌いのあなたが、連中の仲間になろうとは。……まあ私に関しても、以前からその点は疑問でしたが」

「今日は良くしやべるな。無愛想なお前にしては珍しい」

「失礼。気になったもので」

 まあいい、とゴードンはお気に入りの南部産葉巻に火をつけた。

「俺は別に、貴族を殊更恨んでいるわけでもない。ただ、一昔前まで偉そうに人の上に立っていた奴らを踏みつけるのが好きなだけさ。その点、お前は何と言うべきか……そういう典型的な貴族らしいところがない、だから傍に置いている」

 イヴリーンは半年ほど前、ふらりと現れた未登録因子保有者、すなわち、残党貴族である。そして今では、ゴードンの片腕と呼ぶべき立場にあった。

「これはあくまでビジネス、投資の一環だ。いくら俺でも私情は挟まんよ。騎士団とコネクションを作っておいて損はない。お前も、うわさぐらいは聞いているだろう……騎士団やつらは、〈王〉の遺体を持っていると」

 開けたバルコニーに望む、眼下の広場の中央で、びた断頭台が、物言わぬまま朝日を浴びていた。それはまるで、逃してしまった罪人の首を待ちわびているように。

〈王〉。革命によって廃された、千年を君臨した不死者の遺体は、今をもつてなお行方が分からぬまま。そして一説には、その不死身の死体を手に入れた者は、この国の新たな支配者に成れるとまことしやかにささやかれている。

「信じているのですか。そのような馬鹿げた話を」

 くつくつと、含んだ笑みがこう応えた。

「信じている、どころじゃない。お前には言うが……俺にはあるのさ。〈かみ〉の死肉を手に入れれば、必ず、この国を手に入れられる確信が」

 己の太鼓腹をでながらそううそぶく、彼の声は成程確かな自信に満ちていた。

「つまり、これはそのための一歩というわけだ。よって、これからの騎士団れんちゆうとの交渉を有利にするためにも、もっと情報を集めねばな。──出せ、イヴリーン」

「はい」

 それは願望か、あるいは妄想か。イヴリーンは問わぬままうなずいて、足元の影を動かした。

 闇の表面に波紋が走る。直後、その黒い平面から吐き出されたのは、一人の少女。

 すい色の右目が顔を上げるなり、あかゆきの長髪を振って、ゴードンをきっとにらむ。

「さて、しそうなお嬢さん、どうして君は追われているのか、話してくれないか。

 良ければ、この私が力になるよ」

 どこか芝居がかった、隠す気のないまんの声で、ゴードンはそう問いかけた。


     10


「見え透いたうそね、だから見るまでもないけれど──後悔させてあげる」

真理の義眼アイオブザプロヴイデンス〉第二眼。私を見下ろすぎらついた瞳に、精神を直接破壊するいちべつが、たたまれるその寸前。

 立ち上がった黒い影が、私とゴードンの間に、つながりかけた視線を断ち切った。

 三次元の漆黒は白いドレスの足元から伸びている。そこに立つ女性は短く嘆息して、どこからか、黒眼鏡オペラグラスを二つまみげた。

「お気を付けください、この少女の貴血因子レガリアは、物理的な威力を持たない代わりに、精神干渉に特化しているようです。恐らく能力の基点は眼球、ひきがねはその視線でしょう」

 そう言うと、女は眼鏡の一つを自分に、もう一つをゴードンに渡した。

 思わずみする。単純だが、私の能力に対する完璧な封じ手だ。相手の目を見ることかなわぬ限り、この左眼球は何の役にも立たない。

 遅まきながら、この女貴族の能力も察しがついた。影の領域の自在操作。先刻までこの身が沈んでいた闇は、武器としてはもちろん、己の感覚器として収納物を精査できるのだろう。

 影のヴェールが再び平面に落ち、黒眼鏡をかけたゴードンが感心気味に顎肉をでた。

「ほう、成程な。あのブロンド女め……たばかってくれる。あえて、俺に言わなんだか。

 まあいい、助かったぞイヴリーン。ご褒美にナデナデしてやろう」

「普通に嫌です。セクハラで殺しますよ」

 冗談だと笑って、黒いレンズを越した欲望の目つきが、私を捉えた。

 沸き立つ嫌悪感にあと退ずさりしつつ、私はどうにか、挑むように声を飛ばした。

「騎士団と取引したと言ったわね。愚かな人たち、彼らが、約束なんて守ると思うの」

「思わんさ。だからこその交渉であり駆け引きだ。君の身柄さえ押さえておけば、私の有利は揺るがない。たとえやつらが強硬手段に出ようにも、では無理だ。だから心配には及ばんよ。君は大人しく、私の糧になる事だけを考えていればいい」

 相手の言葉が終わるやいなや、私は、ずっと気がかりだったことをたずねていた。

「ライナスは、私と一緒にいた男は、どうしたの」

「あの男なら、殺したよ」

 一瞬、比喩でなく心臓が止まった。

「……と言いたいところだが、どうやら君の相棒はちゆうぼうのゴキブリ並みにしぶといらしい。少々痛めつけはしたが、逃げられてしまった」

 しかし、思わず漏らしたあんの吐息をたたつぶすように、ゴードンは続けた。

「だが安心するといい。すぐに捕えて再会させてあげよう。ああ、ところで一つ訊ねるが、ハンバーグは好きかね? 私は好きだ。彼も好きだといいんだが……あらきにして、しようをたっぷりとかけてやれば、どちらだろうと気にならなくなるか」

 毒々しい戦慄に背筋が震える。ライナスではないけれど、私にも目前の肥満体から、他者の生命を消費することを己に許した者特有の、血生臭い横柄さをありありと感じる。

 ……いや、しかし、これは何かが違う。

 この粘ついた、黒眼鏡越しに私を見つめる欲望は、もっと下品で、野卑で、本能的な粘性を帯びている。私は自らのひだりの奥の故郷ふるさとに、同じものをよく知っていた。

「あなた、まさか──」

 応じたのは、無骨に輝くやいばの輝きだった。ゴードンが、無造作に机の下から取り出したのは、鏡になるまでよく研がれた一振りの肉切り包丁。

「私は、鶏はモモ肉が好きでね。君のはどんな味かな、お嬢さん」

 言うが早いか、脂ぎった指に捕まれて、私はじゆうたんの上に組み伏せられていた。

 抵抗できない。貴族としてはいびつがんさいぼうの身には、ただの少女以上のりよりよくはないのだ。

 スカートが乱暴にまくり上げられた。そして振り下ろされた刃はさながらギロチンのように、私の右足をだいたいから斬り落とす。

 激痛は、衝撃から一瞬遅れてやって来た。

 血れた包丁を片手に、ゴードンは拾い上げた私の右脚をねぶり、そしてかじりついた。

 そして鶏モモ肉チキンレツグのように、血の滴る生足を貪っていく。

 吐き気を催す痛みと、寒気を伴う出血の中で確信した。こいつの正体は──。

「まったく、いけないお嬢さんだ。そんなにしそうな匂いをさせて大人を誘うなんて……なんて悪い子だ。思わず、つまみ食いをしてしまったじゃないか」

 しやくおんに混じった声が、焼かれるような痛みとともに木霊する。けれど、私は自分の身よりもなお、ここにはいない彼の事を案じずにはいられなかった。この異常者が痛めつけたと言ったからには、きっと生半可ではない。

 後悔が、傷の痛みより激しく身を焼いた。私のせいで、彼は本当に死んでしまったかもしれない。

 閉じたまぶたの裏から熱い何かがこぼれ落ちる。恥知らずにも、私は泣いていた。

 ゴードンは筋とも骨ともつかない肉片を吐き出して、満足げに口元を拭った。無造作に投げ捨てられた足骨はしゃぶりつくされ、唾液にまみれて輝いている。

ごちそうさまメルスイーボーク。美味しかったよお嬢さん……このまま君自身も、そのそうな瞳ごと頂きたいところだが、今はやめておこう。お客人が来たようだ」

 ドアの向こうの廊下から足音が響く。来意を告げるノックを、ゴードンは快く出迎えた。

「ようこそ、麗しき騎士団のレディ」

「この度は、首尾よく意図を遂げられた頃と思い、ご無礼を承知の上で、まねきに預からずに参上いたしました。どうかお許しを、ムッシュ・ゴードン」

 そして現れた女性を、私は知っていた。

 間違いない。先日、ライナスと一緒にいた、その女性の名は、確か。

「……パトリツィア=ウシュケーン」

 こちらのつぶやきに。金髪の淑女は薄く微笑ほほえんだ。


     11


癌細胞ドローキヤンサーの少女……初めましてですが、わたくしの名は、申すまでもないようですね。そして何の用かも、言うまでもないでしょう」

 彼女は目を伏せたままクロニカへ一礼し、それから顔をらして向き直る。

「生け捕りが条件だと伝えたはずですが、一体これはどういったご了見で?」

「生きてはいるさ。子どもとはいえ貴族だ、少し味見したぐらいで死にはしないだろう。

 それに、あなたこそどういう了見だね。この少女のの力を、黙っていたな」

「あら、お伝えしていませんでしたか。これは失礼を……それより」

 事も無げに言って、白手袋の指先が、背後に伸びる己の影にハンカチを落とした。

 すると舌打ちとともに、いろの髪と白波のドレスが、水鳥のように闇から躍り出る。

「人様の足元にモグラを忍ばせるなんて、これも、どういったご了見ですの?」

 まいったねと、こちらも悪びれずに肩をすくめるゴードン。

 元より、互いに交渉を取りやめる理由はない。片や、己の野望のため騎士団とのつながりを欲し、騎士団はクロニカの身柄を欲している。ここに利害が一致する以上、主導権を握るためのジャブは交わされこそすれ流血には至らない。

「ではお互いさまという事で……ここは一つ、仕切り直すことにしようか。

 イヴリーン、もういいぞ。客人にお茶を持ってこい」

 無表情のままうなずいて、イヴリーンは物陰に消えた。

「いいでしょう。わたくしも、改めてご無礼をおび申し上げます。──では本題に入る前に、一つだけよろしくて?」

「何かな」

「その少女が本物かどうか、確かめさせていただいても?」

 当然の要求に、ゴードンは気を悪くするでもなく、頷いた。

「構わんよ。しかしどうやってだね」

「ありがとうございます。ええ、簡単な事ですわ」

 片足を失い、苦痛にあえぐ少女の前まで歩き、パトリツィアはそっとひざまずいて、細い顎をくいと上げさせた。大粒の汗に濡れた左まぶたが開き、紫水晶アメジストのぞく。

 二人の見つめ合いは数秒。果たして、クロニカはぼうぜんと息をみ、

 ──やがてあんを浮かべて、微笑ほほえんだ。


「やっぱり、あなたってホントに……うそつき」


「ああ。知ってるだろ」

 瞬間、どうもくしたゴードンへ、差し出されたレースの袖口に硝煙が咲いた。

 一発、そして二発。肥満体に銃弾がたたまれ、用済みのデリンジャーが床に落ちる。

 そして、つい最前までパトリツィア──だった男は正体を現した。

 腹部を締め付けていたコルセットがバチリと外れ、肩幅をすファーが落ちた。金髪のウィッグとドレスを脱ぎ捨て、喉仏を叩いて声色が戻る。

 それから最後に、化粧とともに見えない仮面が引きがされた。

 そして高らかに舞い上がる、用済みの変装しようの下からすらりと現れたのは、手品師めいた右手が握るライフル銃。

「自己紹介がまだだったな。だまして悪いが、俺は貴族のお嬢様でも、弁護士でもない」

 空いた左手で少女を抱き寄せながら、男は言った。

「ライナス=クルーガー。職業は、詐欺師だ」


     12


 うそをつくときのコツを教えよう。

 その三。相手の立場に立つことだ。


「な……さ、詐欺師、だと。ま、まさか……き、きさまは、最初から!」

「正解だ」

 くれてやる褒美は決まっていた。たびいつくばった腹に銃弾をぶち込む。

 肝心なのは想像力だ。話を聞き、仕草を読み、表情を見て、そこに至るまでの人生はいけいを己の心中に想像する。そのようにして、相手の立場に立ちさえすれば、

 同じ顔をするなど、造作もない。

 最初から、ゴードンの下を訪ねたパトリツィアの正体は、俺だ。

 交流を経た彼女の人となりを、せっかくなら使えないかと考えたのは数日前のこと。騎士団を名乗ったのは交渉のためのアドリブだ。実物は、ただのマヌケな家出娘に過ぎない。

 ともかく彼女をかたって、俺はゴードンにあえてクロニカの情報を伝えた。そしてもく通り、腰の重い支配者気取りのデブはパーティーを開いてまで、俺たちをおびせた。

 後はそのまま、正体を伏せていたクロニカのひだりで万事解決のはずだった。仮に失敗して捕まったとしても、身柄を取引材料にするからには、少なくとも殺されはしない。

 だからすべての誤算は、イヴリーンだ。彼女のせいで俺は捕まり、挙句クロニカが死んだものだと──ともかく、この借りは、いずれきっちり返してやらねばならないが。

「クロニカ……おい、大丈夫か」

 力なくうなずく、少女の顔は青ざめていた。急ぎ、脱ぎ捨てた変装を包帯代わりに巻いてやる。バッサリと斬り落とされただいたいは、常人ならとうに失血で死んでいる。

「……ごめんなさい、ライナス。私のせいで、あなたを危険な、目に」

「謝るな、俺のヘマだ。お前が……いや、俺の金が、無事でよかった」

 クロニカは見透かすように力なく微笑ほほえんで、紅紫色のうなじを俺の胸に預けてきた。おおと失血のせいか、長いまつまぶたが、気絶したように瞳をしまう。

 一方、血に溺れる芋虫のように荒い呼吸を繰り返すゴードンへ、俺は言った。

「さて、おいハゲ豚。テメエには二つほど借りがあったな。一つは、俺を散々痛めつけてくれたこと。そんで、もう一つは──」

 不意に、言いよどむ。間をもたせようと反射的に血まみれの太鼓腹を蹴りつけた途端、ずっとくすぶっていた激情が、思いついたばかりの理屈にあわせて喉を出た。

「こいつに、クロニカに、俺は金を、この俺の金を貸してんだよ。つまりだ。

 ──俺の一番大事なものに、テメエは手を出したって事だろうが」

 激情が、頭を割らんばかりにコインを鳴らしていた。

 その音に従って、苦痛にあえぐ真っ赤に汚れた口にライフルの銃口をねじ込み、

「ぐご……ま、待ふぇっ──!!

「悪いが、命乞いは聞いてねえよ。これが俺の判決だ」

 喉奥をえぐる感触に向けて引き金を絞り、弾丸が、ゴードンの頭蓋をたたった。

 白い壁とこくたんの戸棚へ、鮮血とのう漿しようが勢いよく飛び散る。そのグロテスクな開花を見届けてから、俺はぐったりとしたクロニカを抱え、きびすを返す──その瞬間。

「また会いましたね……バカな人」

っ──!?

 物陰から立ちはだかったのは、ティーセットを持った白波のドレスだった。現れた彼女は部屋の惨状を冷静に眺め、近くのキャビネットに茶盆を置く。

 イヴリーン。この女貴族にも借りはある。だがしかし、今はそれよりも。

「あんたの雇い主は死んだ。……多分だけどよ、別にあだちするほど深い仲だったわけでもないんじゃないか。だから提案だ。俺たちを見逃してくれたら──」

「いいでしょう」

 あっさりとうなずくイヴリーン。……なのに、どうしてだろうか。緊張が背筋をつかんで離さない。まるで、本当の危機はこれからだと警告するように。

「確かに私には、そこで死んでるデブを弔う義理も趣味もありません、が」

 不意に訪れた沈黙と戦慄のまくあいで、イヴリーンは両腕を広げた。立ち上がった彼女の影が、忠実な従者のようにあるじの服を取り払い、新たな装いへと着せ替えていく。

「あなた方に、質問する義務があります」

 数秒後。そこには黒白のエプロンドレスをまとい、いろの髪の頂点にヘッドドレスをいただいた……いわゆる、メイド服が一輪、たたずむように咲いていた。

 だが真に注目すべきは、その右腕の腕章、しらくわえた単頭わしのマーク。

 俺は、いや誰もが知っている。それは革命軍──改め、現共和国陸軍コロニアルグランツ紋章シンボルマーク

「正式な自己紹介は、まだでしたね。では改めまして」

 つまりコイツの正体は、俺とクロニカが、最もってはいけない人種。

「私は、共和国陸軍コロニアルグランツ第七遺産管理局所属、イヴリーン=ハベルハバル特務中尉。

 職業は、軍人です」


     13


 急変を告げた事態に、悪態をつく暇もない。俺は素早く思考を切り替えた。

 軍人。それは共和国政府の行政を、武力によって代理する職業であり、遺産管理局とは、国内に残存する貴族に法の首輪をつけ、その支配下に飼いならすためのお役所、なのだが、

「このメイド服は気にしないでください。前職の名残です」

 最大級の疑問を一言で片づけると、メイド改めイヴリーンは事務的に続けた。

「──さておき、色々と聞きたい事もあるでしょうが、それは私も同じこと。では一つ一つ整理していきましょう。まず一点、あなたたちは何者でしょうか」

 言わなければ殺す、無言の殺意が、荒れ果てた応接間を支配していた。

 できるだけ言葉を選んだ結果、口から出たのは箇条書きのような文句だった。

「こいつはクロニカ。騎士団から身柄を狙われてる」

「なるほど、ではあなたは?」

「……ライナス=クルーガー。ただの道連れだ」

「そうですか。うそ臭いですが良しとしましょう。では、改めまして、私は共和政府に所属する軍人です。現在の任務は、騎士団と名乗る反政府組織をせんめつすること。そのために、やつらに関する情報を、持っていそうな人間の懐に潜入していたところなのですが……」

 こつこつと歩み寄った八つ当たり気味の蹴りが、死体を部屋の隅にたたきつけた。

「このセクハラデブは本当に何も知らなかったようですね。マジで無駄足でした」

 そして乾いた声が、一段とその温度を下げる。

「次に、その小娘貴族に聞きましょう。どうして騎士団は、あなたを狙うのですか」

「それは、コイツが──」

「お前には聞いてない」

 声は、すぐ後ろから聴こえた。そして首をつかまれたと感じた瞬間、俺は壁に叩きつけられていた。ずるずると床に落ちながら、信じられないりよりよくで投げ飛ばされたと理解する。

 少女の体温はすでに手から離れていた。痛みと衝撃で明滅する視界の先で、荷物のようにクロニカを抱えたイヴリーンが、白いほおを引っぱたくのが見えた。

たぬき寝入りはやめなさい。うっかりそのまま永眠させたくなります」

「……っ、割と、本当に、つらいのだけれど……私に、何の用かしら、軍人さん」

 もんを浮かべるクロニカに、しかしイヴリーンは頓着しない。

「なぜ、お前は騎士団に狙われているのですか。それと連中との関係、知っている事のすべて、洗いざらい吐いてもらいます。もし私の捜査にかせる情報が得られれば、あなたを生かすことも前向きに検討して差し上げましょう」

 背骨のきしみをこらえて、どうにか立ち上がる。体重の預け所を無意識に探した手先が、偶然か、あるいは意図的か、廊下につながる扉のノブを掴んだ。

 今なら、逃げられるかもしれない。天啓はすぐさま、俺の耳元でささやいた。

 もはや、敵はゴードンなどではない、国家権力だ。……なのに、どうしてか、

 銃を取り落とした空手のまま、クロニカを捕えるメイド服へ、俺は言ってしまった。

「……そいつから、手を放せ」

 イヴリーンはこちらへ振り返らず、殺意を乗せた失笑だけが飛んできた。

「やはり馬鹿ですね、あなた。オマケ風情が、大人しくしていれば見逃してやってもよかったのですが──いいでしょう、死にたいのならかなえてやる」

 あるじの意に従って、因子による影のやいばが立体化する。一体、どんな言い訳でそれに立ち向かおうか、俺は頭をフル回転させて──そこで、唐突にクロニカが叫んだ。

「やめて!」

 その声と、かつてないほど弱々しく続く言葉に、一番驚き、動揺したのは俺だった。

「何でもしやべるから、だから……お願い。彼を、殺さないで」

 なぜだ。どうして、そんな事を言う。一緒に旅をしたから、助けたから、恩人だからか?

 だとしたら買いかぶりだ。俺はただのくず人間、すべては金のために過ぎない。だから、なあ、

「……泣くなよ、アホが」

 そしてピタリと、鋭利な影の切っ先が、俺の喉元に突きつけられた。

「なるほど、こっちを人質にするのが正解でしたか。では喋りなさい小娘、私がうそだと思えば、この男の首から上は冗談を言えない事態になりますので、しからず」

 しかし、またしてもその瞬間だった。

 視界の端を高速でかすめた何かが、激音とともにイヴリーンをはじばしたのは。


     14


 一拍遅れた風切り音が、鼓膜を不気味に震わせた。

 ぼうぜんと見上げると、書棚と壁を引き裂きながら、血肉でできた巨大なむちが旋回していた。

 次いで、くぐもった、暗く低い響きが、いよいよ悲惨な様相の部屋に木霊する。

「……十二年前、俺はただの、しがない肉屋だった」

 喉元の影は消え去っていた。壁に空いた大穴の先へ、イヴリーンはクロニカもろとも退場させられていた。だが、二人の安否に意識を向ける余裕すら、今の俺にはない。

 部屋の片隅に立ち上がるソレを、目撃してしまったから。ボトボトと、血とも髄とも分からぬものを垂れ流す肥満体が、一体どうやって声を出しているのかは想像したくない。

「そして革命期の王都では、常に、貴族どもを処刑する人手が不足していた。肉屋という理由だけで、断頭台を任されるぐらいにはな……」

 ぐちゃぐちゃという音。割れた頭蓋から出る湯気は、まさか再生しているのか?

 唇の隙間から鉛玉を吐き出して、それはくつくつと不気味に笑う。

「ある日の夕方だった。いつも通りに首の無い死体を片付けながら、ふと聞こえたんだ。ルビーのゆうに輝いた、ワインよりも赤い断面が──食ってくれと、ささやいていることに」

 紡がれる言葉の理解を、理性が拒んだ。なのに、おぞましい独白は続けられ。

「我に返った後で、気が付いたのさ。血の中にソレがあることに。なあ、分かるか。分かるだろう? 貴血因子レガリアの継承とは、親から子への遺伝だけではなかったんだ」

 ぬるりとしたおじが背筋をいあがると同時、爆発的なこうしようが鼓膜を震わせた。

「あれから俺は何度も何度も食ってきた。貴族どもの肉を、血を! その度に肉体が入れ替わっていくのを感じていたが──まさか、これほどの力があったとは! ……当たり前だが、実際に死んでみなければ、よもや自分が不死身などとは気づかんものだなあ」

 瞬間。勢いよく伸びてきた触腕が、俺の胸元に食い込んだ。視界が一瞬の急転を経て、体ごと床にたたきつけられる。全身がはじぶような衝撃に、血を吐きながらもんぜつする。

 そんな俺を見下ろしながら、ゴードンは指先についた血をめて、言った。

「面白いな。お前、貴族ではないだろう。貴血因子レガリアを宿していないのは分かる。だがお前の血は、面白い味がするぞ。それにどうして、そのケガで動ける?」

「がっ、ぅぐ……知、るかよ」

「くく、はは。とことん強情なやつだ。構わんさ。お前の正体は舌で確かめるとしよう。切り落とした頭をほじって、脳みそを欠片かけらも残さず、味わいながらすすってやるぞ」

 その言葉に、らんらんとしたそうぼうに、とても形容しがたいおじが首筋を伝う。

 食われて、死ぬ。それにはなにか、根源的な恐怖への想像力をかきたてられた。

 ただ殺されたり、病気で死んでいくのとは違う。己に食らいつく別の生き物に、自分を奪われながら死んでいく様は、絶対に、生物として許容できないように感じられて。

「──おい」

 瞬間、部屋を乱舞する血肉のむちが突如として切断され、慣性のまま壁を汚した。

 立ち上がった影刃にどうもくするゴードンの背後に、いつの間にか、メイドは立っていた。

「私を、無視して……話進めてんじゃねえぞ豚野郎ッ!!

 そしてうなりを上げて旋回した蹴り足が、ゴードンの首から上を粉砕した。だけでなく、連続する影刃が醜く膨らんだ肉体を細切れに引き裂き散らす。が、しかし、

「イヴリーン……安心しろ。お前も付け合わせだが、ちゃんと味わってってやるさ」

 散らばった血肉が、巻き戻っていく……死なないのだ、ああまでしても。

 あまりの光景にがくぜんとしていると、すぐ隣の物陰から、少女を抱いたメイドが出現した。

 そして目を合わせるや、イヴリーンはクロニカを無造作に放りした。

 慌てて、ぐったりとした少女を受け止めた直後、忌々し気な舌打ちが響く。

「不覚です。あの不死性……少々、デブさ加減を見誤っていましたか」

「……一体何なんだよ、あいつは。貴族、なのか?」

 違います、とイヴリーンは割れた額から流れる血を振り落とした。

「ああなったアレのような手合いを、私たちは屍食継承者カルニバリストと言います。貴族の死体を食すという方法で貴血因子レガリアを不完全に継承した、モドキと言うべきですか。遺伝を介さない外道ゆえ異能力までは有しませんが、繰り返しの死体食で進行していく不死性が、あそこまで成長するとかなりの脅威です」

「悪趣味な、先祖返りよ。ある意味で、貴族よりも……ソレらしい」

 つぶやいたクロニカへ、イヴリーンはいぶかるように視線を向け、しかしぐに戻した。

「細かい話は後にしましょう。ここは一旦、さっきまでの事は忘れて、協力しませんか」

 それは、願ってもない申し出だった。少女の体を抱え直し、膝に力を込める。

 すぐそばには、廊下へつながる扉がある。

「ああいいぜ。じゃ、後は任せた」

「は? オイちょっと待て──!!

 再生を終えたゴードンが、猛然とイヴリーンへ襲い掛かる。のに全力で背を向けて、俺は振り返った扉の先へ、クロニカを抱えたまま一目散に駆け出した。


     15


 出口を目指して、長い廊下を駆け抜ける。腕の中のクロニカが、かすれ声でつぶやいた。

「……ライナス、ごめんなさい」

「うるせえ、謝るな、泣くな。俺がヘマした……それだけの、話だ」

「でも、私があのお店を助けてって、最初に言い出さなかったら」

 しかし何と言われようと、俺は彼女の責任を認めるわけにはいかない。ならば、

「……いいかよく聞けよ。俺がボコられたのも、お前の足も全部。俺が、あの店の金が欲しくて招いた結果だ。断じて、お前の頼みを聞いたせいじゃない」

 俺は、詐欺師だ。だから、少女の頼みを聞いて馬鹿を見ただなんて、あり得ない。

 廊下の先に現れた扉を蹴破ると、そこは昨夜のパーティーが催されたホールだった。薄暗いらんどうに足音を響かせながら、出口を探して周囲を見回す。

 途端、対角上の壁がごうおんとともに破壊され、吹き飛んできた何かがすぐ横に着弾した。

「っ、イヴリーン!」

 血を吐き、よろめきながら立ち上がるメイド服を認めて、俺は思わず呟いた。

「くそ、時間稼ぎにもならねえのかよ」

「……それが人間の感想ですか」

 脅してきたくせによくも言う。そう言い返そうとした時だった。

「貴様ら全員お帰りは許さん。言ったはずだ、一毛残さず食ってやると」

 ホールに響く重低音。裸の上半身に筋肉を隆起させたゴードンが、別の入口を蹴倒して現れた。巨漢の背後には、手下のやくざ者たちも群れを成している。

「どうすんだ。このままじゃ俺ら、まとめてあいつの昼飯だぞ」

「レストランでランチになるなんて、笑い話にもなりませんね」

 立ち上がって拳を握り、足元の影を立体化させるイヴリーン。しかし、そのダメージが深刻なのは明らかだ。一方で、不敵な笑みを浮かべたゴードンに疲労の気配は無い。

「おい、やる気出してるとこ悪いけどよ、どう考えても逃げた方がいいだろ。

 ……お前の因子ちからで、建物の外へ出られないか」

「無理です。理由は二つ。一つは、重量問題です。私は影を介して瞬間的に移動できますが、他の生物を抱えたままだと思うように転移距離が伸びません。二人も抱えればなおさらです。もう一つ、あいにくと外は昼間です」

 前者はともかく、後者の理由はよく分からなかった。日光が、彼女の能力に対して、何か負の要素として関連するのだろうか。

 しかしイヴリーンはそれについて説明してくれるでもなく、こう付け加えた。

「それと、あともう一つありました。一体どこの誰が──私が負けると決めつけた」

 乱れたヘッドドレスを付け直して、口元の赤を白い袖で荒々しく拭う黒髪のメイド。それはボロボロに欠けたやいばが、なお返り血を求めているがごとく。

「私は、軍人です。そしてそれ以前に、一人の黒箒メイドです。ゴミを相手に、逃げ出す尻尾など持ち合わせておりません」

 衰えぬ殺意が決意を告げる。聞くやいなや、俺は説得の無駄を悟った。

…………おい、イヴリーン」

「これ以上何ですか」

「お前だけじゃ無理だ。この際しょうがねえ、俺も戦う」

「……前半には同意いたしかねますが、後半は歓迎します。何か、手立てがあるのですね」

「ああ、職業柄、打つ手はいつも隠してる」

 クロニカの名を呼ぶ。腕の中から見上げる紫水晶と、俺はぐに視線を交わした。

「アレを頼む。列車ん時のやつだ。あのワケ分からんのを、もう一度俺に移せ」

「……ダメ」

 震える声と、かすかに潤んだ右目が、泣きそうに見えたのは気のせいだろうか。

「あの時、くいったのは奇跡よ。それに気付いているでしょう、自分の体の異変に。だからダメ。もう一度やれば今度こそ、あなたの自我は──」

「いいから早くしろ……やらなきゃ、全員ここで終わりだ」

 一触即発。見えない緊張の糸が薄暗がりのホールに張り巡らされている。その一本一本が、何かの拍子にぷつりとイくのを、今か今かと待ちびていた。

 もはや猶予はなく。だから俺は、吸い込まれそうなひだりの輝きへ向けて断言する。

「俺は、大丈夫だ」

 当然ながら根拠は一切無い。けれどそれしか道が無いのは明らかだったから。

 いつものように、真っ赤なうそを、一つきりの真実だと言い切ってみせた。

「信じろよ。……だまされたと思って」

 その時、おんの左眼がこぼした涙は、どういう意味だったのか。分からないが、しかし、

 少女は小さくうなずいた。交わした視線に異相のしんえんが混じり出す。あの時と、同じように。

「〈真理の義眼アイオブザプロヴイデンス〉──第三眼サードアイ

 ゴードンが、動く。そして俺達をかばうように、黒影の凶器が立ちはだかる。

 だが刹那、それら一切を無視して。


 頭上からとどろいた大音響が、その場のすべてを中断させた。


 俺もクロニカも。イヴリーンもゴードンたちも。その場の全員が一斉に天井を見上げた。

 どういうわけかそこには、真昼の空がのぞいていた。三階建てのパレス建築をぶち抜きながら差し込んだ陽光の中、砕け散ったシャンデリアの破片がくず星の如くきらめき舞っていた。

 そんな一種の幻想じみた光景が、唐突すぎたせいだろう。

「この度は乱暴な訪問にて大変失礼を。玄関が、開いていなかったものですので」

 白いエプロンからぱたぱたとほこりを払うその老女に、気付くのが遅れたのは。

「お帰りが遅いので心配しておりました。急がねば店主のブランチも冷めてしまいますゆえ──お迎えに上がりましてございます。クルーガー様。クロニカ様」

 跳ね起きたように、老女の名を叫ぶクロニカの声は、困惑と驚きに揺れていた。

「アリア! あなた、まさか……でも、どうして──っ!?

 そのひだりは一体、柔和なおうなめんの奥に何を見てしまったのか。少女は半ばで絶句する。

 ふと隣のイヴリーンもまた、何か様子がおかしいことに俺は気付いた。

 震えている。おびえている。殺気は霧散し、見開かれたアイスブルーの瞳ははや他の何ものも眼中に入れる余裕が無いようで。青ざめた唇が、ぽつりとつぶやいた。

「……師匠」

 ただならず動揺するイヴリーンへ、アリアは旧知らしく応じた。

「これはまた意外な再会。お久しぶりです、イヴリーン。……相変わらず無鉄砲は治っていないようで。そんな生き方では、弾丸よりも短命だと何度も言いつけたはずですが」

「……おいババア、一体何者だ。貴様は」

 動揺が抜けたのか、ゴードンが口を開いた。

 するといんぎんに振り返った老女は、スカートの端をつまみ、片方の爪先を立て、見事なお辞儀カーテシーで応じて見せる。

 華麗と言っていいその所作に、俺の背筋はどうしてか、冷たく凍り付いていた。

 丸まった老女の背から、どす黒い陽炎が立ち上がるのを錯覚する。まるで、巨大なやいばの先端が、老骨に積み重なった時間の地層を押し上げ、突き破らんとしているかのように。

 今や鼻につくまで濃密に漂い出した気配には、覚えがあるし知っている。それはあのグラキエルすらはるりようする程の、決してせない、人生に染み付いた業の匂い。

 血にびた魂が放つ、殺人者の気配だ。

「貴様どこの手先だ? 老いぼれ。どうやらお前も貴族らしいが──」

 そんなゴードンの声はしかし、そよ風のように切って捨てられた。

「あら? 不思議ですねえ。先ほどからまさかとは思っていましたが……。

 どうして豚が、人の言葉をしやべるのですか?」

 当然のようにこめかみを怒らせたゴードンは、背後の手下たちへ命じる。

「ぶち殺せ。このババアは目障りだ」

 命ぜられるまま、やくざ者たちは兵士のようにクロスボウを構えた。

 しかして、一瞬の後に響いたのは、鈍く連続した落下音だった。

 男たちの首が、まるでイチジクの実のように、ぼとりとその足元に落ちている。

 そして凄惨な衝撃を、つんざくような旋回音が切り裂いた。左右に広げた老いた両手に、刹那のおうさつさしめた凶器が回転しながら舞い戻る。

「ああ……久々ですが、やはり変わらず、何とも心地よいものですね」

 血れた二振りの手斧ハチエツト。無骨な刃から滴り落ちる血はしかし、一滴たりとも地に落ちず、柄へと伝ってしわがれた手を濡らす。

「悪党の首を、ハチェる刎ねる感触は」

「き、さまァ────ッ!!

 ゴードンがえた。よく来てくれたと言わんばかりの歓迎を、拳に込めてたたきつける。

 けれど豪風のてつついは空振りに終わった。老女は羽のようにふわりと飛び立ち、回転しながら醜悪な巨漢の背後、そこに出来たばかりの血の海へと、音を立てて着地する。

「老いぼれ! 貴様相当な強さだな! さぞかし名のある貴族と見た! いいぞいいぞ! 飛び入りのメインディッシュとは大歓迎だよ! 多少賞味期限を過ぎているようだが安心しろ。俺は腹を壊したことなど一度もない! その血の一滴まで残さ、ず──」

 けんこうと振り返ったゴードンが、絶句したのも無理はない。

 それは、はたから見ていた俺も同じだったから。

 大理石の床に流れ出した血の海が、干潮のように消えていた。命だったものが吸い上げられ、老いたメイドの靴底から足首へ、そして全身の血管へと、供物として送られていく。

 同時に、老いた小柄が変貌を始めた。

 若く、大きく、しなやかに。まるで死人を養分にする食人樹のように、短かった手足が骨格もろともめきめきと伸びて、枯れた肌がみずみずしい生気を取り戻していく。

 物言わぬむくろたちの、ごろり落ちた生首さえも吸い尽くした後。そこにはいろの長髪を落としたメイドが一輪、彼岸の果ての血染花のごとく、粛然とたたずんでいた。

「そういえば、申し遅れていましたね」

 舌なめずりをしながら、若くあでやかな声音が告げる。白い細指の隙間から、都合八枚計四対、鈍く光るじんがすらりと生えた。

「私は、元王立堕落清掃隊〈黒い箒ブルームズイーパー〉一番ぼうき、アリア・ザ・ハチェット。職業は飲食店勤務。特技は、お茶の支度と──ゴミの掃除でございます」


     16


 双なる手斧ハチエツトが空間に斬撃を描く。鮮血を一身に浴びながら、アリアは陶然と微笑ほほえんだ。

「懐かしい、感触です」

 切断された肉が、飛び散る飛沫しぶきが、しかし一片一滴たりとも地に落ちることは無い。

 まき散らされる端から次々と、吸い取られていくのだ。赤く、どこまでもあかい、鮮血で編まれた斧刃が、一粒たりとも逃しはしないと命の断片を貪り尽くす。

 酷薄な笑みが告げるのは、その役割に特化した、貴からざるまれの銘。

「〈吸血偏ライヴハチエツツ〉、そうてん開始」

 ふわりと広がったスカートの裏地、舞い踊る紅髪の隙間に無数の手斧ハチエツトがずらりと並ぶ。

 それを見て、醜悪に膨らんだゴードンの顔が、黄色く濁ったりようを見開いた。

 斬られる度、鈍くなっていく再生速度。傷口に残留する痛み。そして何より、血や体力よりも、何かもっと根本的なものを削り取られているような感覚。

 それらすべてが、眼前において無数に生え続ける、赤いやいばつながった。

「まさ、か……貴様っ! お、俺の不死身を、す、吸うなあああああっッ!!

「あら、ダイエットはお嫌いでしたか? ですが、もう少しの間だけご辛抱をくださいませ。あなた様の一等の無能を支える一番の無駄な首を、ハチェるまで」

 瞬間、長いいろの髪房からじんが生えそろい、蛇腹状に連続する手斧ハチエツトむちと化した。

手斧ハチエツト真拳、奥義──血鎖連アンドロメダス

 巻き付かれたゴードンの右腕はそのまま、締め付けるに任せて細切れにされた。そしてあふした鮮血もろとも、無尽蔵の生命そのものが、刃に飲まれて吸い尽くされていく。

「あ、ぁぁあああああアアアアアッッ!!

 膨れ上がった恐怖が、ゴードンの内で引き金を引いた。暴走し、且つ膨張していく生存本能が、忌むべき食欲と結びつき、ここに限界を超えた変異をあらわす。

「……あら、ご立派」

 アリアの眼前。突如として数十倍に膨れ上がった暴食の化身が、縦一文字に胃袋を開陳する。そして無数の歯列を並べた醜悪なあぎとが、緋色のメイドを跡形もなく飲み込んだ。

……ッ!? ゲェッ、アアアッッ!!!?

 だが次の瞬間、内側から突き上げられるように膨張した胃袋が、耐え切れずに破裂した。

 散華する血肉を浴びながら咲き誇るのは、無数の手斧ハチエツトで編まれた巨大な紅

 血れの花弁が解けるただなかと立ち尽くしたまま、アリアはあでやかに微笑ほほえんで。

「ですが私を食べるには、品位が到底足りません」

 破裂した腹をおさえて命を乞う男の視線を、軽蔑と嘆息がすぱりと斬り捨てた。

「そういうわけで落第です。地獄の底で、一から食事作法マナーを覚え直しなさい」

 白い袖口から生える手斧ハチエツトに限りは無い。犠牲者の命で編まれた吸血斧の群れはしゆうのように撃ち出され、ゴードンの体に次々と突き刺さっていく。

 数秒も必要とせず、その巨体は連続する衝撃力によって壁へはりつけされた。

 そこでとうてきみ、しかし無慈悲に舞い踊るアリアの回転は止まらない。その腕先が徐々に徐々に、巨大な戦斧へと変貌していく。

手斧ハチエツト真拳、究極奥義──血葬嵐フランシスカ・テユポーンズ

 回転速度の最高潮に達した瞬間、アリアは自ら血びた竜巻と化して突撃した。無数の手斧ハチエツトもろとも巨体を引き裂き、巻き込み、くだく。

 そして嵐が過ぎた後、ゴードンは跡形すらも残らず、砂のように散り消えていた。


     17


「助かった……のか」

「そう、みたい……」

 砕けた天井から差し込む陽光に、俺とクロニカは並んであおけになっていた。

 体が、痛い。とにかく疲れた。生還を喜ぶ気力さえも湧かないでいると。

「失礼いたします」

 ふと、ひんやりとした指先が首筋にあてられた。直後、そこから流れ込んでくる熱い何かが、全身に枯渇したはずの気力体力、根源的ないのちを巡らせる。

 たった数秒後、何事も無かったように上体を起こして、顔を見合わせる俺とクロニカ。その頭上から、若いアリアの声が落ちた。

「あの方から吸い取った生命力をお分けしたのです。疲労や骨折程度ならば、これでもう心配はございませんが……クロニカ様、大変残念ですがその足だけは──」

「大丈夫よ。これだけ生命力をもらえれば、二、三日もすればまた生えてくるわ」

「なんとまあ」

 見れば、クロニカの左足は既に出血を止めていた。だけでなく、巻かれた布の下で断面が小さくうごめいている。それを見たアリアは、驚いたように口元を隠して。

「あなたはもしや……いえ、失礼いたしました。ならばぎようこうと言ったところですが、それでも再生を終えるまでは不便でございましょう。どうぞ、私の手をお取りください」

「ありがとう。でもいいわ、こっちを使うから」

「……人を勝手にまつづえにすんじゃねえ」

 寄りかかってくる小柄を受け止めると、すっかりいつも通りの微笑ほほえみが、悪戯いたずらっぽく見上げてきた。抗議の無意味を早々に悟って、明け渡した右腕がぎゅっと握られる。

「……勝手に、ハッピーエンドで終わらせないでください」

 その時、ゆらゆらと立ち上がったのは、もう一つのメイド服。イヴリーンもまたアリアからの生命提供を受けたのか、負傷の気配は消えている。

「師匠……あなたは、その二人を助けるのですね」

「はい。今の私は小さなレストランの従業員ですから。これも大切なお客様へのサービスです。住所は後で渡しますので、あなたも是非いらっしゃいませ、イヴリーン」

「遠慮します。私はその二人を重要参考人として、これからしょっぴかねばなりません」

「そうですか」

 そこでようやく、震えを止めた拳を握り、冷蒼の瞳がいろのメイドをにらむ。

「もし邪魔をするならば、師匠。私は共和国軍人の責務に従い、あなたを未登録の因子保有者として処罰しなければ──」

「うるさいですね」

 けなな気勢を、一言で。アリアはあきれたように切り捨てた。

「一々、口に出した義務にみっともなくしがみつくのはやめなさい。相変わらず、小便ちびるほど私がこわいなら、素直になればいいでしょう。見逃してあげますよ?」

 その一言は、果たして彼女のプライドをどれ程刺激したのか。

 まばたきの後、イヴリーンは視線の温度を下げて、言った。

「失礼しました。では、ことに甘えまして──元〈黒い箒ブルームズイーパー〉七番箒、イヴリーン=ハベルハバル。これより我が師を、ぶち殺させていただきます」

い面構えです。よろしい、馬鹿弟子。では久しぶりに相手をしてさしあげましょう。もしも百億万が一、一撃でも先に入れられれば、今回は私が譲りましょう」

 そうして流れるように成立したのは、殺気立つ二人のメイドの果たし合い。

 いつの間にか、その勝敗には俺とクロニカの命運までもが懸けられていたが──。


 彼女たちの決着は、あっけないほど一瞬だった。


 ……そして残念ながら、常人極まる俺の目には、その一瞬に凝縮された二人の攻防を知覚するすべはなく。

 つまるところ、眼前に示された結果以外に、語るべき事は何もないのである。

 ずるずると、ホールの反対側まで吹き飛んだイヴリーンの体が、激突した壁の破片と一緒に、血の海に沈んでピクリとも動かなくなった。

「ねえ、ライナス。あれってまさか」

「ああ、死んだだろ絶対」

「あら、お二人とも人聞きの悪い。殺してはいませんよ……多分、きっと、恐らく」

 弟子の顔面をカノン砲のごとく殴り飛ばした拳を解いて、ひらひらと弁解するアリア。

 なぜか照れたようなその微笑ほほえみに、俺もクロニカも、それ以上は何も言えなかった。


     18


 そして後日。俺は二人分のトランクを両手に提げて、駅への石畳を歩いている。

 色々あった、あり過ぎた首都ともお別れだ。来た時とは反対の夜の大通り、灯に照らされた石畳には、昼間の往来の靴跡がびっしりと浮かび上がっている。

「おい、夜行便に遅れるぞ。早くしてくれ」

「……分かってるわよ、でも、もう少しだけ」

 俺の後ろを遅れて歩くクロニカは、名残惜しいのか、記憶に焼き付けるように通り過ぎて行く街並みを見回していた。

 その足は、予告通り中二日ほどで再生を終えていた。そして、あの店のてんまつはと言えば、ゴードンが死んだことで賄賂が途絶え、判決は控訴審にてひっくり返った。

 付け加えるなら、若返ったアリアを見て腰を抜かした店主だけは、つい今朝方まで寝込むことになったが。彼女の話では、しばらくはあの姿のままらしい。

 ともかく少なくとも、あの店に関しては円満に解決した。しかしながら、

「さっさと来い。もう俺たちの事は管理局にバレてんだ、急がないと……」

 そこでふと、俺は失念していた一大事を思い出して足を止めた。

「? ちょっと、ライナス。さんざん人をかしておいて、あなたこそどうして──」

「……忘れてた」

 さっと血の気が引いていく。たちまち思い出したその一事に塗り替えられた頭からは、既に他の何もかもはきれいさっぱりすっ飛んでいた。

「金だよ! あの店主から、報酬をもらうの忘れてた!」

 来た道を全力で引き返そうとする俺の足を、しかしおんひだりが縫いめた。

「止めるんじゃねえ! 俺が何のためにあんな目に遭ったと思ってんだ!」

「もちろん私のためでしょ。たとえうそでも、そういう事にしておいてくれたら──」

 俺の前に歩み寄ったクロニカは、そっと伸ばした両手で俺の頭を下げさせて、一方で、自身はぴんと背伸びして。少しだけ、照れたような微笑と見つめ合ったのは一瞬未満。

 それからほおに柔らかい口づけが触れて、離れた。

「──私からの報酬。これだけじゃ、ご不満かしら?」

 俺は何かを反論をしようとして、不覚にも言葉に詰まった、その時だった。

「往来のど真ん中で、何をイチャついてるのですか。あなたたち」

「ッ!! テメエは──!」

 ハッとして振り返った先、こうこうとした街灯の下に、ひとむらの花のようにたたずむメイドがいた。

 イヴリーン。黒髪の額に包帯を巻いた彼女は、相変わらずの無表情だった。

「死んでなかったのかよ」

「生きてたのね。大丈夫?」

「大丈夫ではありません。実際死にかけました」

 淡々とした答えが返される。俺は反射的にクロニカの手を握り、逃げ足に力を入れた。

 しかし予想に反して、別に襲い掛かってくるという事も無く、代わりに、イヴリーンは心底気が進まないように、用件を切り出してきた。

「……今回の一件を上に報告した結果、とある任務が私に発令されました」

 深い、深いため息をついてから、薄い唇がこう告げる。

「あなた方には、これから私が保護と監視を兼ねた護衛として同行します。

 そして、本当に残念ですが、拒否権はありません。……あなた方にも、私にも」