第一章 Wild bunch
1
詐欺師と銀行は、親戚のようなものだと俺は思う。
夜逃げした新婚生活から持ち出せたのは、数十点の宝飾品と土地屋敷の権利書だった。戦利品
しかし当然ながら、これら盗んできましたと言わんばかりのシロモノを素直に現金化する事はできない。というわけで、数日かけてのもうひと仕事が不可欠である。
換金先は、決まってだいたい町外れ、時には道すら通っていない
「土地と屋敷の権利書だ。住所はスティルフィードの田舎町。建物の方は新築一年」
どこから見ても納屋にしか見えない、はめ込み窓のカウンターに書類を見せる。
すると薄暗い小屋の奥から、それ以上に後ろ暗い風貌の男が顔を出して言った。
「へえ……。珍しいもん持ち込むね。あんた何、強盗とかやってる人?」
「俺が何だろうと誰の返り血がちょっぴり付いてようと、コイツが本物であることにゃ変わりはねえよ。いいからさっさと金にしてくれ」
権利書と引き換えに差し出されたのは、小汚くヨれた札束だった。
発行元が政府ではない闇のカネ、俗にいう
銀行業の自由化。誰でも自分の顔の紙幣を発行できる昨今、この国には大量の野良犬ならぬノラ紙幣が出回っている。その種類は、たぶん百や二百じゃきかないだろう。
だから盗品や汚れた金は、非公認の闇銀行で非正規の闇カネに転生させるのが定石だ。
それだけでもう、何をして
「……こんだけか?」
受け取った札束はさしたる抵抗もなく、指の間でぐにゃりと折れ曲がった。
「ああ。こっちはリスクを引き受けてるからね、手数料だよ。言っとくけど、そいつは八額紙幣だ。これでもサービスしてる方だぜ」
正規貨幣に換算して、額面八割の紙幣。だが元々の盗品価値からは相当目減りしている。
仕方なしに舌打ちで済ましながら、受け取った金を懐にしまった。
その拍子に、ずっと忘れていた、自身の薬指のそれに気が付いた。
「……なあ、ついでにこいつも頼む」
左手から指輪を外し、カウンターに置く。
意味を
そうして数日をかけて、ようやく戦利品
それから、適当な街中の真っ当な
「振込をお願いします。宛先は
こうして、ドブネズミよりかは
手続きを進めながら、俺は視界の端で窓口の奥を盗み見た。そこには見るからに頑丈そうな、デカくて丸い金庫の扉がレンガの壁にはめ込まれていた。
銀行は、詐欺師の親戚だ。
立派な金庫の中身を皆が信用しているから銀行券は価値を持つ。たとえその中が
信用が金を生むのはどちらも同じ。つまり銀行業は、合法的な詐欺業務と言い換えてもいい。それが合法である理由は一つ。社会に必要とされているからだ。
誰も金の価値を信じない社会とは、物々交換しか通用しない原始時代だ。それではあまりにも不便すぎるから、人は嫌でも、金に支配されざるを得ないのだ。
「ありがとうございます。合計で三千六百ポンドと十一シリング七ペンス、送金承りました。手数料は三パーセントになりますので、ご了承ください」
「よろしくお願いします」
軽くなった足で
ひと仕事を終えたと同時、頭の中で見えないコインが音を鳴らした。俺にしか聞こえない小気味良い
この世で確かなものは一つ。それは、金だ。
理由を述べよう。金とは、数えることができる価値である。
そして数えられるという事は、誰の目にも明らかで、確かだという事に疑いはない。
年収十ポンドの貧乏人と、一万ポンドの大富豪。どちらの方がより高い価値を持つか、客観的に説明できる尺度は一つしかないのだ。
決して目に見えず、まして数えられもしない、
金こそが、この世で何よりも誠実に、正直に、その人間の価値を映し出すのだ。
午後の日差しが、街並みの向こうの
「
「毎度! ところでダンナ、こっちの
「結構だ、興味ねえよ」
受け取った新聞を開き、道端を歩きながら目を通す。次の仕事のネタを探すためだ。
俺は詐欺師ではあるが、詐欺以外にも盗みや脅迫など、好き嫌いせず多くの悪事に手を染める。この業界、大抵の同業者は一つの専門分野に
俺は違う。常に新しい手口を模索し、実践し、反省し、改善し、進歩していく。
捕まらないコツは勤勉であることだ。向上心が無ければ、どんな仕事も続かない。
「おっと、失礼」
「気を付けろ、若造」
紙面に熱中しているフリをして、肩をぶつけた相手の財布を失敬する。三人ほどスリ抜いたところで、とある見出しが目に
そして振り返った先に、開通したての鉄道駅を見定めて、次なる計画は組み上がった。
「……よし」
まず、
信用が金を生む。よって金持ちは、周囲から金持ちだと思われる場所に生息する。
家なら一等地、ホテルならスイート。そして……。
列車なら無論、
2
始発の汽笛が通り過ぎた、駅のホーム。
ペンキの
遠くの
顔とは、その人間の
だからこそ、人は図らずとも顔に出てしまうものだ。今考えていることや、それまで考えてきたことの
裏を返せば、そこに偽りの真実を張り付けることで、他人など容易に欺ける。
呼吸すらも切り離した集中下で、意図的に夢を見続ける。それは俺ではない他者の生を創作しながら、同時に自分自身として、その旅路を歩む作業だ。
あの時あんなことがあった。その時こう思った。何かを忘れ、あるいは糧にして、「彼」は今まで生きてきた。架空の記憶に、感情という肉をつけていく。
そうして出来上がった
ほどなく、むせるような蒸気を空へ吐きつけて、車輪のいななきがやってきた。
立ち上がって、ホーム前方に伸びた、品の良い乗車列に並ぶ。
「切符を拝見いたします」
順番が回る。改札
良い旅を、という一礼に見送られながら、ステップを踏んで車内へ乗り込む。
背後から聞こえてくる、切符を落としたらしい旅客の
「──というわけで、いかがでしょうか。ウィレムさん」
促した先の相手方、太っちょの紳士は葉巻の灰を落としつつ、悪くないとつぶやいた。
偶然、居合せた車内で持ちかけた商談。その予想通りの好感触に、「彼」──法律専門家、ジョン=ロウは腹の中で拳を握った。
彼の
この革命後の新時代を象徴する乗り物は、海の向こうの
車輪の振動に合わせて、
初老の秘書に次の葉巻を要求しつつ、太った中年紳士、ウィレムは口を開いた。
「確認するが、ジョン君。この話、本当に信じていいものかね」
「もちろんですとも、ウィレムさん。確かに危険な投資ですが、この『熱』は間違いなくしばらく
彼の口を動かしながら、俺は先々週目にした新聞の見出しを思い出していた。
『自由貿易法、議決の見通し』
革命以前の
その病的なまでの封鎖は、あるものの流出を恐れたからであるが、今は
革命後、鎖国政策はもちろん廃止された。しかしながら全面的な自由貿易だけは、これまで幾度となく保守派が議会通過を阻んできた。だが近年、徐々に勢力を増しつつある輸出向け
よって話はあの見出しに戻る。新聞に記載された例の一報は、二週間を経た今や、いずれ解禁される貿易業への
ざっと調べただけで数百社。流行に乗って増殖し続ける大量の貿易会社の大半は、間違いなく、一年と
にもかかわらず多くの人間がそれらの株を買い求めたことで、かつてないほどに株取引の市場は膨らんでいる。では、この無謀な風船を膨らませ続けているのは誰か。
もちろん、それも新聞の仕業だ。かつては検閲されていた言論が自由化されてから早十二年、今や世間の連中は、日々書き換えられる流行に追い立てられている。
だからこそ、この「彼」、ジョンはそれを利用するよう勧めているのだ。
「ええ、ウィレムさん。確認のため、もう一度ご説明いたしましょうか」
「もしこの私めを信用して出資していただけるならば、私はそれを元手に幾つかの
ジョンの提案を一言でいえば、株の代理購入の持ちかけだ。
株取引は、面倒だ。事業主が発行した株の買い付けから、売却するなら買い取ってくれる人間を探すまで、一々相手を探して交渉しなければならない。そのため富裕層は普通、そうした
「君は相当な自信家だな。もし思う通りに株が売れなければ、破産一直線だろうに」
「いやいや、私はむしろ小心者ですよ。……だからこそ、成功を確信しているのです」
落ち着き払った調子で、代理人候補、ジョンは続けた。
「今の高値は、すぐに下落します。しかし、人間というのはどこまでも自分に都合のいい生き物でして、こう考える連中が必ず一定数いるのです。今は一時的な値下がりに過ぎない、逆に買増しのチャンスだと。……ですから、売り逃げをかける相手には困りませんよ」
「実に面白い考えだね。愚か者を食い物にするわけか」
「お嫌いでしたか?」
「まさか」
まだわずかに、ウィレムの目には疑いの色があった。だが問題ない。それは裏を返せば信じたい証拠であり、どうせこの男の節穴に、俺の仮面は見抜けなどしないのだから。
「……正直に言えば、実際の取引に関しては、あまり心配していない。というより、素人の私が真に心配すべきは、君を本当に信じていいのかどうか、それに尽きると思うが」
「まったく、
至極当たり前の話だ。もしジョンが出資金を持ち逃げしてしまえば、あるいは得られた利益を渡さなければ元も子もない。
ゆえにこれも当然、きちんと相手を安心させる材料を用意してある。
「そうした株取引時の持ち逃げを想定した保険があるのです。少々こちらをご覧ください。ある一定額を超えた株式取引において有効な補償申請書です。売却利益から税金を納める代わりに、持ち逃げや紛失を補償する、いわば投資促進を目的とした期限付きの特例法ですが……ご存じありませんでしたか」
目を丸くして、初耳だと
「今回の場合は、ウィレムさん御自身が補償対象になっていただきます。そうなると仮に私が不正を働き損害を出した場合、裁判所へこれを持ち込めば補償金が支払われます」
「なるほど……少し、考えさせてくれ」
ウィレムはしばし、契約書にある財務省の認印を眺めてから、重々しく煙を吐いた。
「……いいだろう。君の話に、乗ってあげよう」
「! ありがとうございます!」
心の中で、俺は両の拳を握り締めた。契約、もとい、詐欺成立だ。
「君、ペンと小切手を。それと葉巻を彼に」
差し出された葉巻を受け取って、ジョンは恭しく火をつけた。タバコの交換あるいは
「法律家だか商人だか分からんね君は? 仕事を始めて何年だ? 家族はいるのか?」
「もう十年になりますかね。早死にした父が借金を残したので、返済のために弁護人の投資代理を請け負ったのが切っ掛けです。家族は妻が一人だけ。子供はいません」
ちらりと、テーブルの上の、小切手の額面を盗み見た。
同時に、頭の中で見えないコインが音を立てる。
また一段、俺の金が積みあがる。言い知れぬ充実が、腹の底から人生を満たしていく。
その時ふと、背景と化していた車輪の音に
「──っ」
思わず、張り付けた仮面の奥で、俺は息を飲んでしまった。
契約書にサインしているウィレムは気づいていない。彼の背後の貫通扉から姿を見せたのは、四角いトランクを片手に引き連れた一人の少女だった。
小さな肩を通り越して腰まで下りた髪は、妖精のような
しかし俺が、何よりも目を奪われたのは、それらの
少女は片目を閉じていた。つぶらかな
その下に一体何があるのか。突発的な好奇心に応えるように、少女はこちらを向いてわずかに口角を上げた。
ゆっくりと、その左眼が開かれた。
そこに在ったのは、
俺は
「どうかしのたかね? ジョン君」
「──ああ、いえ何でもありませんよ。サインはお済みですか? そうですか。では失礼いたします。一応、私の方でも確認を……」
書類に目を通すふりをする間も、先ほどの少女が脳裏にちらついた。どこぞの良家の娘だろうか。にしては、擦り切れた
それに何より、あの目は一体何だろうか。今まで出会ってきた誰の瞳にも見たことのない、まるで
いや、やはり、どうでもいい。どうせ俺には関係ないと、散らかった疑念を振り払う。

「ええ、どうもお待たせいたしました。書類に不備はございません。それでは──」
気を取り直して、小切手を、とジョンが言おうとした瞬間。
「──っ!」
いつの間にか、見知らぬ少女は俺の座席の隣に立っていた。
「こんにちは」
「あ、ああ。ご機嫌よう、お嬢さん。何か用かな。悪いが後にしてくれると──」
絡みつくような、それでいて鈴のように澄んだ声音を、適当にあしらおうとした、直後。
「あなた、
3
嘘をつくときのコツ。その二、
常に冷静であれ。
言うまでもないが、場の空気は完全に凍りついていた。
予想外とは、忘れた頃にやってくる。何も嘘がバレるのは今日が初めてじゃない。これまでも、その度に取り繕い、切り抜けてきた。今もまたその時が来ただけのこと。
だから落ち着け、俺。
「あの、お嬢さん。……君は、何か思い違いをしているよ。初対面の相手に、一体何の根拠があってそんなことを言えるんだ」
平静を装った裏で、冷たい汗が背筋を伝う。しかし一体なぜ見抜かれたのか。心当たりの一つも思い当たらないでいると、続けざまに、愛らしい唇が致命打をぶち込んできた。
「あら、それはあなたが一番分かっていることでしょう? 詐欺師さん」
一瞬で、胃が悲鳴にも似た
冷静になれ。この際、見破られたことは
「……いいかい。見知らぬお嬢さん。私は今この方と大事なお話をしていたんだ。そこに横から割り込んで、私を詐欺師呼ばわりした。立派な名誉毀損だよ。保護者はどこだい?
しかるべき訴えを行わせてもら──」
「あなたの目的は、初めからそこの小切手だけ」
声は静かに、そして急所を狙うナイフのように鋭く切り込んできた。
そして、あどけなさを残す微笑が、すらすらと俺の嘘を解体していく。
「投資の話はただの口実。保険もただの嘘っぱち。そんな法律はどこにも存在しないし、契約書だってお役所のサインと印章を上手に偽造したのでしょう」
聞いていたはずのない会話への言及は、しかしはっきりとした口調で告げられた。
一体、何が、起きている。大きすぎる
ウィレムが、サインした契約書をもう一度確かめ始めた。
彼も悟ったのだ。少女の声に宿る、まるで答案を読んでいるかのような明白さに。
「どんなお金持ちだって結局は同じ人間だ。自分は奪う側だと思い込んでいる連中ほど、
歌うような調子に、俺はまるで自分がしゃべっているかのような錯覚を覚えずにはいられなかった。まさか在るはずのない良心が少女の姿をとり、内心の罪を垂れ流しているとでもいうのか。悪夢にしても出来すぎな状況は、しかしどうしようもなく現実で。
「…………ジョン君」
低い声が、鼓膜を揺らした。
「誤解です。ウィレムさん。彼女の言葉こそ、何の証拠もないデタラメに過ぎません」
ジョンの仮面が最後まで役を演じ切る裏で、俺は敗北を悟っていた。
証拠の有る無しなど、何の意味もない。人間が従うのは真実であって、事実ではないのだから。疑いを覆せなくなった時点で、もう俺の打つ手は消えている。
びりびりという音がした。破いた小切手をマッチで灰にして、ウィレムが立ち上がる。
「確かに、証拠はない。だが、私の気が変わるには充分だ。……真実はどちらにせよ、なかなか楽しい時間だったよ。おかげで久しぶりに列車が退屈しなかった。では、失礼する」
「あ、ちょっと! お待ちくださ──」
ジョンの声を黙殺し、去っていくウィレムの背が貫通扉の向こう側に消えていく。
遠ざかっていく。聞こえていたコインの音が、俺を確かなものにする金色の声が。
そこで、一気に力の抜けた体が、座席の上に尻から落ちた。奇妙に明滅する視界の中で、悔しさと怒りが渦を巻き始めるのを、俺はどこか白昼夢のように眺めやって──。
「お疲れ様。大丈夫?」
ぽっかりと空いた対面の席に、いつの間にか、少女は入れ替わりに座っていた。
ふと気が付くと、俺は
「お前は一体、何だ」
「あら、強引ね……そういう趣味なの?」
「知ったことかよ。いいから答えろ、ガキ。どうして俺の邪魔を──」
再び目が合ったその時、魂を吸い込まれそうな
「!? ──ッ!!」
瞬間、俺は突き飛ばすように少女から手を放した。──そうか、そういう事か。
もうダメだ、二度と、俺は断じてこの眼を見てはいけない。なぜならば、
「あら、気づいたのね」
少女の左眼に映っていたのは、俺の内面そのものだった。見知った記憶が、思考や感情が、どうしてか判読できる形をとって小さな眼球の中を渦巻いている。
心を、直接見ているのだ。そして、そんな
「……
かつて、この国を支配していた貴族たちが、国外への流出を病的なまでに忌避したもの。
それは自分たちの血統と、そこに宿る超常の力に他ならない。
4
かつて、貴族たちはこの特別な力により平民を従属させ、王国を絶対的に支配していた。
しかし革命が彼らの支配に終止符を打った。貴族たちは続々と戦場で死に、あるいは断頭台の露と消え、多くの
以来一般に、
ゆえにそうした逆風の中で現在まで生き残り、家名と
──気付けば、午後も三時の食堂車には空席が目立っていた。幸いにも、こちらの
「残党貴族が……俺に一体、何の恨みがある」
視線を下に
「恨み? 別にないわよ」
あっさりと。形のいい、小さな唇がそう言ってのけた。
「ただ単に、目が合ったあなたが悪い人で、面白そうだったから、つい」
こみ上げてきた、殺意にも近い怒りを、間一髪で腹の底にしまい直す。
そして何を言おうか手をこまねく間に、細い指が机の上のメニューに伸びた。
「まだ怒ってるの? 教えてあげる。そういう時は、おいしい食事が一番よ」
遅めのお昼にしましょう、と勝手に呼び鈴を鳴らされる。汽笛と車輪の騒音、その間を縫うように特徴的な高音が響き、ほどなくベルボーイがやってきた。
「御用でしょうか。レディ」
「ええ。お水を二つ、それと……おススメはなあに?」
勝手に注文を始める少女の
「今日は上等の
「そう。じゃあそれを一皿。パンもつけて頂戴」
「かしこまりました」
注文を済ませると、少女は閉じたままの己の左眼を指さして、こう続けた。
「〈
「
いつ
そんな俺の心中を
「私はクロニカ。訳あって、旅をしてるの」
女の一人旅に訳がないワケがない。しかし少女、クロニカはその理由を言うことなく、
「初めて見たわ、あなたみたいな人」
会話の文脈すらも無視して、勝手気ままにこう告げた。
「まるで仮面みたいに、
「……何を、言ってんだ」
言われた意味は理解不能ながら、しかし、頭の奥で不吉な警鐘がけたたましく鳴り響く。
こいつは、あの眼は、ヤバい。もう逃げろ今すぐ逃げろと、心臓がバクバクと叫び出す。
「ねえ、詐欺師さん。私、あなたに興味が湧いちゃった」
まさか、「俺」は、この少女の眼に──。
その時、すぐ横にワゴンの音が響いた。ボーイが注文を持ってきたのだ。
「お待たせいたしました、ではごゆっくり」
列車の震動にも慣れた様子で、ボーイは鮮やかに給仕を終えた。すると待っていましたと言わんばかりに、少女は俺からさっと視線を外すと、目の前の一皿と向き合った。
赤い
流れていく車窓には、残雪の化粧を落としそびれた
そんな景色と食事を満喫する少女は、図らずも絵画のような構図を作っていた。
いつの間にか、ひどく喉が渇いていた。俺はボーイが置いていった、グラスの水を少し飲む。
「──そういうわけだから、ライナス。あなた、私と一緒に旅をしてくれない?」
「一体どういうわけだ。あとお前正気か? 俺は詐欺師だぞ」
「そうね、でもこれからは私の護衛と道案内役よ。路銀や食べ物、お水、着替えその他必要な物の調達と荷物持ち、あと身の回りの世話をお願いね」
「ふざけんな! そりゃ要するに、ただの奴隷じゃねえか!」
その提案を受け入れるのに、心の敷地にどれ程の余裕が必要かは知らないが、少なくとも、俺の胸がそこまで広大でないのは確かだ。
「あら、ご不満かしら? でも残念だけど。もうあなたに選択肢は無いのよ」
「……どういう意味だ」
少女は閉じた
「
唐突に羅列される単語。俺には、すぐさまその意味が理解できた。
それらは
そして無意識に連鎖してゆく記憶が、一つの異常を
思い出せない。そこに、財産を預けているのは知っている。しかし、どうやってそこにアクセスしていたのか。口座番号、使用していた偽名、窓口、証券の
思わず吐き気と
「〈
「
背筋を駆け抜けた戦慄は、しかし、そんな気休めで慰められるものでは断じて無い。
自分を支えていた確かな価値が、一瞬にして奪われた。絶望が腹の底から渦巻いて、一気に脳天まで駆け上がる。それを一抹の理性で堪えながら、俺は
「……取引か」
「ええ。一緒に旅をしてくれたら、思い出せるようにしてあげる。でも断れば、あなたの記憶とお金は二度と戻らない」
果たして俺の返答は、魂まで抜け落ちていくような、深い、深いため息だった。
これは、報いだろうか。今までさんざん他人を
「良かったじゃない。こんな美少女と一緒の旅なんて。言っとくけど、詐欺じゃないわよ」
それよりも、よっぽど質が悪い。なんて言葉は、きっと口にする必要もないのだろう。
「これからよろしくね、ライナス」
こうして、詐欺師ライナス=クルーガーは生涯最大の敗北を喫したのだ。
「……で、何だって、俺なんだ」
車輪の震動が、投げ出した足裏を
どうして、もっと利用しやすそうな善人ではなく、日々を真面目に生きるだけの詐欺師が、こんな目に遭わなくちゃいけないのか。
「なんとなく、楽しそうだからよ。詐欺師と一緒に旅をするのって、きっと退屈しないし、いい思い出になると思わない?」
ヒトの記憶を奪っておいて、思い出とはよく言えたものだ。
「それに、あなたは
意味が分からない。この少女が一体何を考えているのか、目の前しか見えない俺には、その真意など読み取れない。だがしかし、遊ばれているのだけは確実で。
だから、それがとてつもなく悔しくて、無性に腹が立って仕方がなかった。
ふと、食事を終えたクロニカが、ナプキンで口元を拭いながら問うてくる。
「……私としては、あなたをもっと知りたいわ。どうして、詐欺師なんてしているの?」
「金が欲しいからだよ」
それだけ? と言いたげな視線から目を
「誰だって、自分の長所を自分のために使うもんだろ。俺は人を
俺の言葉に、少女は車窓の
「確かに私は他人の
さらりと
「その心の上っ面、あなたは仮面と呼んでいるようだけど……本当に、そんなもので人を騙せるものなの? 言ってしまえば、ただの思い込みじゃない」
計算づくか、その言葉は絶妙に俺のプライドを引っ
「……嘘をつくときのコツ、知ってるか」
「いいえ」
「その一、真実だけを話すこと。自分がマジに確信してる、真実だけをな」
「嘘をつくのに、真実を話すの?」
想定通りの疑問だった。閉ざされた
「本音で嘘をつくのは簡単だ。嘘を本当だと思ってる人間に成りきればいい」
たとえ事実とは異なることでも、それは真実だと本気で信じている人間はいる。だからそういう人間に成りきれば、どんな嘘でも正直に口にできる。
「つまり、あなたは嘘をつくたび別人を演じているのね」
「そんな感じだ。自分をそういう人間だと思い込む。んで使い終わったら、仮面みたいに引っぺがす。コツさえ
「無いけど?」
「……お前以外の世の中の全員にはあるんだよ。そこで皆、何かしらを演じてるもんなんだ。そのくせ他人には本当を要求する。だから騙される」
神妙に寄った少女の眉根が、にわかには信じがたいと額に書いた。
「どれだけ本人がそう思っていたって、
「違うな。まず一つ、お前は誤解してるだろ。真実とは、事実じゃない。事実ってのは、誰がどう思っていようが関係なく現実に起きる出来事だ。けど真実ってのは、その事実がどういう意味を持つのかって言葉なんだよ」
この世の事実に本来意味などない。ただ、意味という名の真実が後付けされるだけだ。
例えば、ある人間が死んだとしよう。それは事実だ。だが、ソイツがどんな人間だったか、要は周囲からどう思われていたかという真実によって、死人は
だから俺は、嘘をつく。現実に存在する事実を変えることはできないが、人の心の中にしかない、真実という名の思い込みを変えることなら、いくらでも可能だから。
「真実と嘘の境目なんて、コインの裏表みたいなもんだ。人は自分の信じたいものを信じられなくなった時、さっきまでの真実を嘘へとひっくり返す。その逆もまたありき──だから要は、何が嘘で何が真実かなんて、そいつの心一つであっさり覆るのさ」
「……心、一つ」
そこまで言った時、クロニカは俺の言葉を
そう考えていると、車輪の振動が次第にゆっくりとしたペースを取り始めた。そして程なく、列車は一際甲高い到着の汽笛とともに、
車窓を開けて
「どうする、降りるか」
俺としても、もうこの列車に用はない。
テーブルの上、飲みかけのグラスを挟んで、対面の少女に問いかけた。
その時だった。乱暴に扉を開く音と、それに続く靴音が、俺の思考に差し挟まれる。
「動くな」
後方の貫通扉から現れた男たちが、素早く俺たちの席を取り囲んだ。
5
「動くな」
低い脅し文句は、乗降の
向かい合って座る俺とクロニカを見下ろす男たちは三人。そしてどうやらこの場で騒ぎを起こす気はないのか、彼らは落ち着いた口調で脅迫文を述べた。
「この駅で、我々と一緒に降りてもらう」
そう言うと、一人が袖口からちらりと銃口をのぞかせた。他の二人もコートの下が膨らんでいる。そして全員が、クロニカを見ようとしない。つまり、知っているのだ。
一体、こいつらは何者なのか。それは今現在どうでもいい。
重要なのは、どうすればこの降って湧いた窮地を切り抜けられるのか。しかし誠に残念ながら、俺には自慢できるような腕っぷしもなければ、銃も持っていない。
視界の端でクロニカの様子をうかがう。
ふと思った。無関係だと言えば、コイツはともかく俺だけは助かるのではないだろうか。
「立て、一緒に来い」
言うや
そして、乱暴に少女の髪を
「おっと」
言われた通り、恐る恐る立ち上がる、ふりをして、膝でテーブルを軽くかちあげる。
すると、水の残っていたグラスが音を立てて倒れ、派手に中身をぶちまけた。
結果、男たちは反射的に視線をそこへ向けた。その時丁度、木立を抜けた車窓から強い西日が差し込んで──。
倒れたグラスから滴る水に、開眼した
途端、三人の男たちは糸が切れたように、どさりとその場に崩れ落ちる。
何事かとこちらを向いた他の乗客たちは、そのままクロニカが視線を向けると、本当に何事もなかったように、元通りに向き直った。
「……今、何したんだ」
「
改めて背筋が凍る。逃げる隙ぐらいは期待していたが、
向き直ったクロニカは、褒めてあげると言わんばかりに
「やるじゃない、カッコよかったわよ」
「……お前がやったんだろ」
ひとまず動かない三人を窓際に座らせる。それと同時に出発の汽笛が鳴り響き、重たい鋼鉄の箱が再びゆっくりと前進を始めた。
「で、こいつら一体何者だ」
「知らない」
「とぼけんな。こいつらはお前の眼を知ってた。……追われてたんだな」
すると
「そう、実を言うとね。だから助けが欲しかったのも本音の一つ」
「なら詐欺師じゃなくて警察に頼め。心配すんな、
それじゃダメよ、とクロニカは
「私は旅が好きなの。色んなものを見て、聞いて、触れて、味わって、そうして歩いた
危機感があるのかないのか、歌うような語り口に、俺は嘆息混じりに
「くだらねえ……それより、こいつらについて教えろ」
自分が、取り返しのつかない泥沼に入り込んでいる確信が生じる。しかしもう引き返せない以上、せめて可能な限り沼の深さを測りたいのが人情だ。
「彼らは、自分たちを〝騎士団〟と名乗っているみたい」
「あなたの想像通りよ。騎士団とは、少数の残党貴族とその従者たちからなる秘密結社。
月一の頻度で新聞を
「そして
鼓膜に飛び込んできた単語に、思わず、耳を疑わざるを得なかった。
〈王〉。人間を超えた貴族たちの更に上に立つ存在。それはかつて、
「……お前、それ本気で言ってんのか?」
しかしながら、今となってはその実在は非常に疑わしい。貴族たちが超常の力を持っているのは事実だが、その頂点に君臨する存在は語られこそすれ、その目で見た者は誰もいない。革命で陥落した王都からも、
そのため一説では、〈王〉など最初から存在せず、貴族たちが利害調整役として必要とした記号に過ぎなかったと言われている。もちろん、俺もその意見に賛成だ。千年生きる不死身なんて、信じる方がどうかしている。しかしながら、
「ええ、〈王〉はいるわよ。少なくとも、私はこの眼で見たことがあるもの」
にわかには信じがたい供述を、
「だからこそ、騎士団は私をつけ狙うの。今となっては私の左眼だけが、
はぐらかすように、要領を語らないクロニカを、しかし追及する気にはなれなかった。
革命、貴族、〈王〉……それらは俺の人生とは、次元の違う領域の問題だ。関わったところで、ロクな事にならないのは目に見えている。
しかし残念なことに、何もかもがもう遅すぎた。この少女に眼を付けられたことで、俺の人生はゆっくりと、別の世界から侵食されつつある。
だから今はもう、それを認めて切り替えるしかなかった。無事生き延びて金を取り戻すには、迫りつつある脅威から目を背けても仕方ない。
「いいえ、ダメだったわ。この人たちは『私を連れて駅で降りる』という命令以外、何も聞かされていないみたい」
「下っ端ってワケか。ったく」
「お金にならない面倒は嫌い?」
「ああ。あと、生意気なガキも嫌いだ」
「でも、見捨てなかった」
「金のためだ」
吐き捨てたついでに、再度訊ねる。もう一つ、まだ明らかにしたい事があった。
「それで、一体どこまでだ」
「何が?」
「ゴールだよ。具体的に
「だとしたら困ってしまうわね。あなたはこれから、人よりも少し目がいいだけのか弱い美少女と、どこまでも、終わりのない逃避行をしなければいけなくなっちゃうもの」
「この野郎……」
「安心して。ちゃんと目的地はあるから」
細い指先が、車窓の先に見える白い
「海」
希望か、あるいは憧憬か、少女が口にした単語は隠しきれない熱を帯びていた。
「港で船に乗って、大海原を渡って外国へ、そのままずっと、ずっと遠くへ逃げ続けるの」
そして
「だからライナス。あなたには、私がこの国を出るまで手助けしてほしいの。海まで着いたら、記憶を戻してあげるわ。その先も一緒に来ると言うのなら、止めはしないけど」
「もちろんお断りだ……分かった、海までだな」
知らず知らずのため息が口をついた。気乗りしない。現在、俺たちが乗るのは
鉄道や乗合馬車、船舶を最短距離で駆使したとて、ざっと見積もって三か月。遠すぎる。なによりその間ずっとこちらの考えが筒抜けだと思うと、死んだ方がマシかもしれない。
だが俺にとって金は命より重いのだ。よって諦めるという選択肢はなく、それに何より。
「? どうしたの、ヒトの顔をじっと見つめて」
「何でもねえよ。……何でもねえから目を合わせようとするな」
この澄まし顔を、このまま勝ち誇らせておくのは、我慢がならなかった。
心を読む瞳。そんな反則技に苦汁を飲まされてしまった自分が、悔しくてたまらない。
このままで終われるほど、俺の詐欺師人生は安くはないのだ。よって、見ていろ。
「絶対、
「……見えなくても、聞こえてるわよ。つくづく面白い男ね、あなたって」
その時だった。汽笛と車輪の間を縫うように、別種の音が耳に入った。
硬い何かの先端が、線路上の砂利を
天井から響いた衝撃が、車両全体を揺るがした。
テーブルと座席が波打ち、何事かと上を見上げた乗客たちのざわめきが広がる。
それから一拍遅れて、天井を突き破った人影が、重々しく車内に降り立つと同時。
その場の全員が、息を飲む音が確かに聴こえた。
「……臭い」
不気味なほどに低い、
病的なほどの
「────」
俺には、他人の心など見えない。けれど分かる。どうしようもなく分かってしまう。
視線の先の瘦身からにじみ出る、暗く
それは、自らの手で他人の命を握りつぶし、誰かの人生を靴底に踏みつぶしてきた者特有の、隠しきれない血の臭気。
俺のような
6
背筋がひりつく。
車輪も汽笛も、乗客のどよめきさえ背景と化した視界のど真ん中に、男は
「ようやく会えたな。
暗く重々しい自己紹介を聞いた途端、クロニカはびくりと肩を震わせて。
「伏せてっ!」
切迫した叫びが車内に響いた。
「……臭いと言ったぞ。
グラキエル、そう名乗った男の
食堂車の壁に、窓に、そして乗客たちへ無差別に突き刺さったそれらの正体は、針。
血のように赤い、細く
「なっ……!」
頭上を
惨劇の中心で直立したグラキエルが、俺ではなくクロニカを見下ろしながら言った。
「よく
「随分と、傲慢な言い草ね」
「騎士団の貴族……初めて会うけれど、手段を選ぶつもりは無いみたいね。そんなに私が欲しいの? 変質者さん」
挑発的なクロニカの口ぶりに対して、不気味に瘦せこけた
「その口ぶり。やはり聞いていた通りらしいな、
まるで、いくばくもない病人を哀れむような声は、しかし悪意と侮蔑に満ちていた。
「
その言葉が、少女の内の一体何に触れたのか、俺には咄嗟の事で分からなかった。
しかし確かに、怒ったように白銀と紅紫の髪が揺らめいた。そして心を見抜き狂わせる、開眼した
「無駄だ」
「ッ、ぁ──!」
瞬間、クロニカは
「確かに貴様の眼は厄介だが、それも
この男には、クロニカの左眼が通じないのだ。心は読めるようだが、俺やあの哀れな三人にしたような頭の中身への操作は、理屈は知らないが不可能らしい。
冷たい泥水のような絶望が、不意に喉元にせり上がった。
この
「しかし、余計な手間を取らせてくれたな……ああ、全く不愉快だ。貴様の無駄なあがきのせいで、このオレがっ! こんな不潔な場所に! 足を踏み入れる羽目になるとは!」
ぶつぶつと
それは決して
はっとして振り返った先、左眼を押さえた指の間から、赤い血を流すクロニカが見えた。
俺は、ただの詐欺師だ。人の心はいくらでも
だからもう、俺にはどうしようもない。少女を見捨てて、この場から逃げる以外には。
そこまで考えたその瞬間、不意に、死臭立ち込める空気を鋭利な音が切り裂いた。
二発、続いて三発。その標的は、俺ではなかった。
小さな
すべては、一瞬の事。無造作に蹴散らされた花のように、少女が倒れていく。
そこに在った命が、散っていく。生と死に挟まれた、決定的な刹那に。
いまだこちらを見つめている。その
「────ッ!!」
瞬間、震えていた足がついに動いた。と同時、半ば無意識に、懐から銃を抜き放つ。
先刻の三人から、念のため弾薬
枯れ木のような体が着弾の衝撃に大きく
不安なほどに軽い体重を引きずりながら、振り返らずに弾倉を撃ち尽くす。そのまま扉まで数歩の車内を、かつてないほどの全力で駆け抜けた。
そして扉に手をかけた瞬間、後ろから、空気を裂くような発射音が響いた。
間一髪。背後に閉めた扉が穴だらけになるのを、気にかける余裕は毛ほどもない。
動かないクロニカを抱えたまま、俺は前方の車両へみっともなく転がり込んだ。
三両にまたがるそこもまた食堂車だった。まばらな乗客はけげんな顔をこちらに向けて、それから気付いたように悲鳴を上げるが、言い訳も警告もしている暇はない。
俺は彼らを突き飛ばすようにこじ開けて、さらに前方へと走り抜ける。
「お、お客様! 一体何が──」
血相を変えて駆け寄ってきた乗務員の眉間に、棘針が突き立った。
巻き起こる悲鳴と絶叫の中、背後から、何かを踏みにじるような靴音が木霊する。
「
そして、
弓兵の一斉射のような棘の雨が、乗客たちを次々と壁や座席に縫い
「クソ、がッ!」
まるで、
そして次の車両へ移る。もう乗客の反応になど、脇目も振らずに駆け抜ける。
痛みよりも、背後から迫る脅威の存在が脳髄を激しく焦がした。グラキエル。弾をぶち込んでも死なない、
緊迫と焦燥が鼓動を早くする。どうすればいい。このまま進んでも行き止まりだ。ならば、いっそ飛び降りるべきか。衝動的な思い付きをすぐさま却下した。仮に無事だったとしても意味は無い。相手は走行中の列車に追いついてくるような理不尽なのだから。
それより、そもそもライナス、お前は一体何をしている? そいつはもう死んでるから、さっさと捨てろよ。お前一人なら、
「ハァ、……はあ、畜生……! がっ、ぁ!? ァアアアッ!!」
瞬間、見えない出口を求めて迷走していた思考に、爆発的な激痛が
「何、だっ……! こりゃ、ぁっ……!!」
押し寄せる痛みが喉を詰まらせて息が出来ない。床から伝わるレールの震動が激痛をさらに加速させる。つまり俺は
「畜、生っ……」
間もなく、横倒しになった世界が
そして視界の端に一瞬、ゆらめくような紫の光を見て、そこで
7
これは一種の現実逃避か。音を上げた意識が逃げ込んだのは、過去の時代の夢だった。
とある有力貴族の
もう、馬鹿のように叫びながら走り回っていれば幸せなほど幼くはない。かといって、沸き上がる幼稚な反発心を御せるほど熟してもいない。そんな年頃だった。
つまりは、親から行けと命じられた学校をサボったはいいが、しかし
『あ、やっぱここにいたのね、ライナス』
『……姉さん』
ペンキの
長い亜麻色の髪。身内
物心ついたときには、一緒に擦り傷まみれで裏庭を駆け回っていたはずなのに。いつの間にか大人の仮面を幾つも身に着けるようになった彼女へ、俺は嫉妬のような憧れと母代わりへの寂しさを持て余しながら、言った。
『こんなとこ来てていいのかよ。もう昼の部が始まるだろ』
『あなたこそ。もう学校の始業から大分
そう言うと、長いスカートに覆われた膝が隣に座り込んだ。
『予定が変わったの。なんでも、前々から狙ってたサーカスの団長を父さんがついに口説き落としたらしくて、今日だけウチで
『じゃ、俺が学校行ってたらどうするつもりだったのさ』
『行ってるわけないでしょ。それぐらいお見通しよ』
即答に、反論しようとして、しかしすぐに諦めた。やはり彼女には
『ねえねえ、そんなに学校ってつまんないの?』
姉の純粋な好奇心に、しかし気の利いた返答が出来るほど、俺はまだ大人ではなかった。
『つまらない……ことは無いけど、それ以上に、嫌だ』
そっか、と言ったきり姉はそれ以上踏み込まなかった。言葉にすれば
『それに、父さんの言いつけ通り学校行って勉強しても、どうせここの経営なんて俺には無理さ。金稼ぎになんて興味ないし』
そのまま自分を
『でもどうせ、他にやりたいこともないんでしょ』
『そりゃ、そうだけど……』
姉はしばし、考えるように空を見上げ、それから唐突に、乾いた手をパチンと
『じゃあさ、ライナス! 私と一緒に舞台に立ってみない?』
『はあ?』
『そうと決まれば……早速練習よ! まずは声の出し方からね。さ、立ちなさい』
『ちょ、ちょっと待てよ、姉さん』
すぐさま講師の声色に切り替わる姉へ、俺は慌てて反対した。
『演技なんて、俺には無理だよ。あんな大げさに動くなんて、その、恥ずかしいし……』
『だーいじょうぶ、大丈夫。すぐに慣れるわよ。だからお姉ちゃんに任せて』
付け加えるように、身をかがめた彼女が耳元で
『きっと才能あるわよ、ライナス』
それから目を合わせて
『あなたは、人並みには他人の心が分かる子よ。でも演技には、それ以上に自分の心を理解して、上手に使うことが大切なの。その点、あなたはきっと人並み外れてるわ』
それに、と言いながら姉の白い手がズボンのポケットに突っ込まれる。不意を突かれて驚く間もなく、隠していたチョコレートの包み紙が取り出された。
『けっこー大胆不敵で器用だし……これ、私が引き出しに入れといたチョコよね。最近減ってると思ったから、鍵までかけといたのに』
『……あ、いや、それは』
『罰として、今日はぶっ倒れるまで声を振り絞ること。それじゃ一発目行くわよ!』
再び、一段と強く背中を
そこで俺の意識は、現実へと引き上げられた。
8
「あら、起きたわね」
「丁度良かったわ、ライナス。あなたの方は抜き終わったところよ……痛覚を一時的に封じてあるから痛みは無いでしょ? 次は私の、コレを抜くのを手伝ってくれない?」
困ったように微笑するクロニカの喉元は、赤黒い
「っ!! クロニカ、お前、生きてっ……!!」
どう考えても、生きて
「この棘、血を吸って成長するみたいなの。ああ、外見じゃなくて内側の話よ。吸えば吸うほど、獲物の骨肉の奥へ根を伸ばして、その痛みで行動不能にするわけね」
平然と、そう言ってのけるクロニカの表情は、しかし僅かに汗ばみ、青ざめていた。
「くそっ!」
とにかく、あらゆる懸念を後回しにして周囲を見回すと、こもった熱気と香ばしさが鼻を突いた。ここは、どうやら客車を抜けた先にある
火にかかったままの鍋を無視し、辺りをひっくり返して使えそうな物をかき集めてから、力なく調理台に寄りかかったクロニカ、その体に刺さった棘針に手をかけた。
ぐいっと引き抜くと、ぶちぶちとした感触とともに、柔らかい皮と肉が根こそぎについてくる。そして果汁のように
やはりこれは、人間が耐え切れるような負傷じゃ断じてない、はずなのに。
「化け物、ね……いいわ、素直な人は好きよ」
こちらの思考の先を読んだのか、クロニカは真っ赤な唇を
「因子を宿した貴族は、
漂う血臭。肉を
「……あいつ、グラキエルは、追ってきてないのか」
「そうみたい。今のところは、だけどね。思考を
「……そうか」
助けに行く、などという同情心は、どうやら逃げる最中に落としてしまったらしい。ここに至っては、自分と彼女以外を気にかける余裕などなかった。
酒で傷口を洗い、清潔そうな布で止血してやる。途中、一時的に邪魔な衣服を脱がせた時、少女は
「変態」
「純然たる医療行為だ。安心しろ。こんな
「……そういう余計なことこそ、心にしまっておきなさい」
数分かけて応急処置を終える。少女の服を着せ直しながら、俺の頭はこの場をどうやって脱するのかで一杯だった。
そんな俺の心境を読んだのか。クロニカは、しかし投げやりに首を横に振った。
「無理よ。人間の足じゃ、どうあがいても逃げられないわ……私を、見捨てない限りはね」
真っ赤に染まった棚板に寄りかかりながら、少女は問うてきた。

「幸い、
矛盾している。さっきは助けろと言っていたくせに、今度は見捨てても構わないと
「諦めたのか」
そう問い返すと、クロニカは穏やかに、力なく肯定した。
「……うん、そうね。奴に、私の
自分だけの理屈を
怖くはないのかと重ねて問うと、こう返された。
「怖いわ。でも不思議ね。いざその時が来てみると、意外と、どうでもいい気分にもなるの。たぶん、もうずっと前から、私はとっくに……疲れてたのかも」
なぜか。少女の血まみれの諦観に感じたのは、痛々しさよりも
「……お前が諦めるのは勝手だ。けど、俺の金はどうなる」
「さあ……もしかして、私が捕まって殺される前に記憶を戻してほしいの? ごめんなさい、それはお断りよ。私、誰かさんと違って約束は守る主義なの」
この期に及んで、いや、だからこそなのか。少女はからかうように言った。
「それとも逃げる前に、私を拷問して取り戻してみる? 好きにしなさい。めちゃくちゃにするなり、このまま見捨てるなり、どちらでも。あなたのお気に召すまま」
糸の切れたような手足から投げ出された少女の言葉が、俺の靴先に転がった。
いま分かった。こいつはきっと、逃げ切れるなんて最初から思っていなかったのだ。
いつかこうなると知っていながら、それでも、歩いてきたのだ。
どうして、さっさと官憲なりに捕まってしまわないのか、どうして、いっそ自殺してしまわないのか。そして何より、そんな旅路に何を得られるというのか。
俺には、まったく理解できないながら、一つだけ、はっきりしている事があった。
「……ムカつくんだよ」
「え?」
この期に及んで金を返さない、のはまだいい、理解できる。俺がクロニカでも絶対そうするに違いない。自分が死ぬ横で得をする奴が現れるのは死ぬほど腹立たしいからだ。
だから、俺が心底気に食わないのはもう一つの方。
最後まで意味深な、人を食ったような微笑を浮かべながら、絶望を受け入れるこの少女に俺は一度負けた。詐欺師として、負けたのだ。そしてまだ、勝っていない。
ゆえに、このまま金を奪われたまま、俺が
不意に、煮えくり返った腹の底から、沈んでいた記憶がふきこぼれた。
──冷たくなった姉の顔、何も映さない瞳。
──窓の外で、降りしきる白い雨。
──右手に握ったナイフの感覚と、赤。
思い出す。そうだ、だから、俺がどうするかなんて、とっくに決まっていたのだ。
後ろを向いて、空の拳銃に弾を込め直すと、驚いたような気配が背中を
「……え。ちょっと、あなた……本気?」
心が見える癖に、一体何を驚いているのか。俺は背を向けたまま肩をすくめてみせる。
俺にとって、確かな事は一つ、金は命よりも重い。そして積み上げてきた詐欺師としての誇りもまた、命を賭けるには十分すぎることに矛盾はない。
「安心しろ。やると決めたからには死ぬつもりはねえよ」
深く息を吸って、吐く。めいっぱい取り込んだ酸素に乗せて、冷静さを全身に巡らせる。
二十年の詐欺師人生、犯した
狭いキッチンを見回しながら、自分の中身を掘り返す。今現在に至るこの十数分間と、これまでの人生の経験値を総動員して、
「あの化け物を、ぶち殺す。そんで生き延びるぞ」
その言葉は誰でもなく、自分自身に言い聞かせるためだ。
9
この世で確かなものは一つ。
それは、
拷問吏。グラキエルは十二歳の時に因子を発現し、同時に父の役職を引き継いだ。
初仕事は、連行した男の前で、その妻子を拷問することだった。
最終的に、針のむしろと化した死体二つを渡して、男だけは無傷で解放した。
程なく、男はかつて家族だったものの前で首を
だから彼らには教え込まなければいけないのだ。決して忘れないように、その体と心に
言うまでもなく汚れた仕事だ。しかし、これは誰かがやらねばならぬ仕事であり、そしてきっと、過ちを犯してしまったのは、
我々、尊き血を宿す者たちが、正しく家畜どもを教育できなかったから、
故に、騎士団の使命は一つ。
「うっ……げ、くそ、最悪の気分だ」
「これでも、大分
大丈夫だと、痛む頭を振って返答する。
クロニカの視線を介して伝えられた、グラキエルの記憶が脳裏を過ぎ去ってゆく。そのあまりにも凄惨な光景の数々に、俺は若干以上に後悔しつつ吐き捨てた。
そこには
不潔な生き物と関わるのは耐え難い。しかし、同時にどうしようもなく楽しいのだ。
「
無論、話が通じるような手合いじゃない。相手はこちらが、交渉に値する生物だとは夢にも思っていないのだ。しかしだからこそ、そこに付け入るスキがある。
「時間がねえ、急ぐぞ」
タバコに火を
こちらを殺すためにやって来る、奴を殺すための準備を。
数分後、
「来たか」
俺たちは調理台の陰に身を隠していた。横には逆さに伏せた
そして倒れた扉を踏みつけて、続々と侵入して来たのは、後方の客車の乗客たちだった。
ただし、その有様は正視の許容を超えていた。全身に無数の
体内に貫入した針が、まだ生きている神経を強引に刺激し駆動させているのだ。そんな悲痛極まる棘人間の
そして一同にぶるぶると、不規則かつ小刻みに震えながら、予兆のように絶叫して。
「っ!!」
様子見の頭を引っ込めた瞬間、彼らは一斉に爆発した。体内の血液を爆発的に吸い上げ成長した棘針が、骨肉の破片とともにはじけ飛び、周囲を無差別に破壊する。
車両は一瞬で穴だらけになったのだろう。
そして程なく、破片を踏みつける靴音と神経質な声が聞こえた。
「どうした……姿を見せろ。まだ生きているだろう」
爆風と破片に切り裂かれた、痛む手足を動かし、俺は調理台の裏から立ち上がった。
「ああ。おかげさまで、一張羅が台無しだ」
すぐ隣の足元で、あちこち
グラキエルは、こちらと目を合わせるなり不快げに眉をひそめてみせた。
「
「そりゃこっちのセリフだ。ヘッジホッグ野郎」
不意の怒りに
「お前ら貴族様は、今じゃ社会に歯向かう立派な害獣だって知ってるか。善良な市民の義務ってワケじゃないが、ここで駆除してやるよ」
あからさまに過ぎる挑発は、しかし有効だと俺は知っている。
演技でなく、握った銃が小刻みに震えた。すぐさま、見抜いたような嘲笑が
「くく、虚勢を張るな、下等生物。怖いのか? 震えているぞ」
「ああ、怖いね。
見え透いた挑発を畳みかけると、見えない殺気が、俺に焦点を合わせるのを感じた。
今、決めたな。この生意気な獲物を
「……おい劣等。オレはたった今、少しだけ気が変わったぞ。その度胸に免じて一度だけ、命を拾う
粘度を濃くした殺気と裏腹に、ひどく落ち着いた声でグラキエルは続けた。
「足元に隠している小娘を差し出せ。そうすれば、貴様だけは生かしてやろう」
当然ながら、俺が漏らしたのは失笑だった。
「あんた、
「なんだと?」
「今のセリフは、真実から出た言葉じゃない。それに本音が顔に書いてあるぜ。期待を裏切られた俺の絶望が見たい……合ってるだろ?」
男の表情が、
「今だ! クロニカッ!!」
発砲しながら座り込むように台の陰に落ち、撃ち出される
入れ替わりに立ち上がったクロニカが、足元のそれを両手で放るように投げ付けた。
少女の細腕には重かったのだろう。それは回転しながら、不格好な放物線を描いて。
『……本当に、それを投げつければいいの?』
『ああ。ヘタに触るなよ。使うまでは
その物体を前にして、クロニカはあからさまな疑いの視線を向けてきた。
『この列車は、
俺は火を止めて、かかっていた調理中の両手鍋を持ち上げた。ねじ切り式の密閉蓋の上、そこに空いたベル付きの小さな蒸気孔を、詰め物をしてしっかりと塞いでいく。
『……一体何なの、それ』
『あのシチュー、
クロニカへ背を向けたまま、俺はどこかで仕入れた雑学を語り聞かせた。
『揺れる上に狭い車内だと、ひっくり返った時に面倒な大鍋は嫌われる。だから基本的に走行中の煮込み料理はコイツで作る。小さくて密閉できるし、何より客を待たせず短時間で具材が柔らかく仕上がるからだ』
盛り上がった熱い鍋蓋を爪先で
『圧力鍋。コイツは使い方を誤ると──』
どうなるのか。その答えが、今現実に示された。
自身に向け緩やかに飛来する物体へ、グラキエルは妥当に対処した。針を伸ばし、串刺しに射止めて投げ返す。普通の
「!!」
すさまじい破裂音が
何が起きたのかは見るまでもない。高温高圧の調理器具に内容された具汁と気圧が、針によって
その単発威力は先の
半壊した調理台を乗り越え駆け寄り、俺は
「悪いが、お前はここで乗り換えだ」
血まみれの拷問吏は後ろ向きの慣性に引かれるまま、砂利の上を数度跳ねて、そして回転する車輪の地獄に巻き込まれた。
骨肉が
俺は体から、どっと力が抜けていくのを感じた。
10
「お疲れ様、ライナス。やったわね」
「だといいが……あぁ、クソ、まだ頭がクラクラしやがる」
軽やかな靴音とともに、クロニカは前方の貫通扉から現れた。包帯の下の出血はどうやらもう止まっているらしかった。確かに、本人の言った通り頑丈な生き物だ。
あれから数分。俺たちは吹きさらしと化した
「どこ行ってたんだ」
「前の機関室よ。運転してる人たちへの命令を、上書きしてきたの」
どうやら俺が気を失っていた間に、コックたちを操って機関員たちを呼び出し、騒ぎを気にせず列車を運行させるよう命じていたようだ。
俺は適当な
「お前も飲むか」
薬は嫌いと言って、クロニカは首を横に振った。子供らしいとこもあるんだなと
「さて、それじゃあ、私はちょっと客車に戻るわ。荷物を、置いてきたままだったもの」
そう言って、俺の目の前を黒いスカートが翻った。……しかし確か、クロニカのトランクはあの時、盾代わりに穴だらけになったはずだ。中身が無事とは思えない。
「そうね……確かに、着替えの服は全部ダメになっちゃったかもしれないけど、それでも、あの中には他に大事なものが入ってるから」
「? 何だよ、大事な物って」
何気なく問いかけた俺に、クロニカは言い
「日記よ。ずっと書いてるの、この旅のことを」
それだけは、たとえ穴だらけになっていても捨て置けないと。
日記。その単語に、俺は何かを思い至ろうとして、しかし、今は頭が
「……ちょっと待てよ。俺も行く。こっちの荷物も、あるしな」
ついでに、もう少し薬が欲しかった。傷口が痛くて仕方ない。できれば強めの
「そうだ。一応お礼を、言っておくわ……上手くいくなんて、期待してなかったけど」
振り返ったクロニカの言葉に対して、俺の答えは決まっていた。
「金のためだ」
「
クロニカは
「あなたは嘘つきだから、そんな言葉、信じてあげない」
言ってろ、そう吐き捨てようとした瞬間。
不意にぽすりと、軽い体重が胸に飛び込んできた。まるで抱き着かれたような格好に、一瞬、俺は思わず停止して──。
そこで唐突に、熱い感触が腹部を貫いた。
「────ッッ!!」
「かっ──……ぁ、ライ、ナスっ……!!」
目線を下げると、少女の腹から飛び出した、血
腹に刺さった杭ごと射出されたのだと気付いた時には、積まれた石炭箱の側面に、俺はピン
抱き合ったような姿勢のまま、
メキメキと床下を突き破って
焦げ臭い金属の摩擦音とともに揺れが止まった。車両の連結部が破損したのか。ともかく停止した箱の中に、低くくぐもった、混じり気の無い憎悪が充満した。
「……
振りかざされる
「楽には、死なさんぞ。お前は法を犯した。オレが上で貴様が下と定められた、〈
瞬間、両の手足が棘針によって貫かれ、骨ごと固定された。
「〈
そして額に刺さった棘針が、じわじわとその下へ、激痛の根を食いこませてくる。自分のものとは思えない絶叫が喉を震わせ、理性を離れた手足が折れそうなほど
……これは、報いなのだろうか。今まで散々、他人を欺き利用してきた詐欺師に
薄れゆく意識の中、はっきりとしているのは気が狂う程の苦痛だけで、けれどそれに対する万策はとうに尽きている。やれることは、すべてやったのだ。
だから不思議と後悔もない──いや、だが、それだけは、なければならない。
なぜなら俺は詐欺師だから。金が、金を、金で、金に、金のためなら何でもする人間の
目線を下げる。抱き合わせのまま共に貫かれる、串刺しの少女をそこに見る。
その
暗転していく世界の中で、透明な熱に濡れた紫水晶が、こちらを静かに見つめ返した。
「────!!」
交わる視線。網膜を介して注ぎ込まれた何かが、刹那の際に脳髄を震わせる。
それは、今まさに命を
視界を閉ざしていく暗闇よりもなお致命的な、
……そして俺は、落ちていく。
どこへ? 分からない。真っ暗なその闇は全く
理解は及ばず、共感の余地もない。
顔も名前も人生もろとも、俺が俺である
それを自覚している、この「俺」は一体なんだ。
その瞬間、
11
やめてと叫んだ。彼の名を呼んだ。
気が付けば熱い感触が、私の
「ライナス……っ!!」
進行形で貫かれ苛まれる傷口なんかより、胸の奥がひどく熱くて息が苦しい。
どうして、出会ったばかりの詐欺師の死に際に、こんなに心が揺れ動くのか分からない。
彼は
なのに、死んでほしくないと思ってしまう、自分自身が分からない。
『あなた、嘘をついているでしょう』
単なる興味本位だった。好奇心で、ちょっかいを出してみただけ。
『これからよろしくね、ライナス』
一緒に旅をしてほしいと言ったのもそう。ふとした気まぐれの、寄り道に過ぎない。
なぜなら、この旅路の果ては最初から決まっている。刻一刻と崩れ落ちていく道の先に待っているのは、どこでもない虚無の底。それだけは、ずっと前から知っている。
けれど、それでも、私は思い出が欲しかったのだ。
見て、聞いて、触れて、ほんの少しでも私という足跡を、この世界に残したかった。
そして、ああ、今ようやく気が付いた。
何者でもない
その結果がこの様だ。私のせいで、彼は地獄以上の残酷さで
そんな心のどこかで覚悟していたはずの結末を前に、予想もしていなかった激情が、もう動けない体の内でどうしようもなく荒れ狂ってしまう。
「……いやだ」
何が嫌なのか。
だって、私はまだ、もう少しだけ、彼と一緒に、旅をしたいのだから。
それを自覚した瞬間、
そして発動するのは、私自身もこの瞬間まで知らなかった、己の因子の三つ目の能力。
視線の行く先。死にゆく男の瞳の奥へ吸い込まれるように、その力は
「……なんだ?」
背後から響くグラキエルの声は、まるで私の代弁じみて揺れていた。
突如殴られたように、首を仰いで
そこでようやく、私は彼に何をしてしまったのかを悟り始めて……。
瞬間、
猛烈な勢いに、彼の体を刺し
「っ!? なん……何が起き──」
ヤツの
赤い棘に覆われたグラキエルの右腕が、音もなく、引きちぎられていたのだから。
そして獣じみた叫びが、車両を内から食い破らんばかりに響き渡った。
「GIAAAAAAAAAA!!」
その声は、ライナス=クルーガーでも、彼が演じてきた
〈
見る見るうちに、ライナスだった肉体が変貌していく。網膜に焼き付いた致命的な情報は一瞬で脳を汚染するにとどまらず、脳幹から脊髄へ流れ込み、血液を乗っ取り全身へ。そうしながら一人の男の存在を、人間でも貴族でもない何かへと造り替えていく。
無造作に、ライナスは握っていたグラキエルの右腕を貪り始めた。
その瞳に宿る異質さに、グラキエルは息を
「っ……く、
致命の豪雨に、けれど真正面からライナスの体は飛び込んだ。
詰まれた石炭箱をなぎ倒し、貫通扉ごと隣の車両へ吹き飛んでいく貴族を追って、ライナスは両脚をバネ仕掛けのように瞬発させた。
──以上の状況を、倒れたままに見つめることしかできない。そんな私の脳裏で、忌まわしい知識が次々と連鎖して、一つの予想を形作る。
この
なぜなら、見えるのだ。変貌した彼の瞳の中で
その闇は、まさに。私が生まれた、忌まわしき
「ぁ……ああ、あ」
血
ライナスという男の人生はいま、完全に終わった。
「がッ!! ぐ、ぉぉおっ! き、貴様はぁァァァァッ!?」
そんな私の絶望を中断させるように、絶叫が拷問吏の喉から迸った。グラキエルは必死の形相で棘針を連射し、ライナスの体を天井の外へと吹き飛ばして遠ざける。
そして荒い息とともに、血走った憎悪が私に向けられた。
「貴様ァッ! 貴様か貴様だな! 何をした! 忌々しい、呪われし
「うるさい……わよ。教えてあげるから、もう、
黙らせるように、私は哀れな貴族の瞳へ、知る限りの
〈王〉とは、
図らずも、全てを知ってしまったグラキエルから、このとき完全に表情が消えて。
色を失ったその顔面に、砲弾のような拳が突き刺さった。
天井を突き破って、強襲する獣のように獲物を押し倒し、バラバラに引き裂いていく。再生する棘針の速度を上回る勢いで解体し、しまいには胸像のように頭と胸だけを引き抜いて──ぐしゃりと、両手でそれを握りつぶした。
そうして足元にこぼれ落ちた血と脳髄の残骸を、彼は一体どれぐらいの時間、
「……ライナス」
ようやく、静寂を取り戻した車内で、私は再び彼と向き合った。
「ごめんなさい……」
もう届かない、ゆえに
「──え」
力なく垂れ下がった、動くはずのない彼の腕が小刻みに震えた。それから虚空をさまよった指先が、何かを見つけたように彼自身の顔へと向かう。
そこに、見えない何かを求めて指が動き、存在しない厚みを
「ふざ、けんな」
破けるような音が観えて、彼の内側から、顔の無い闇が
そして
「金、返せよ」
12
聞こえる。
コインの音が聞こえる。存在しない金の音が、過ぎ去ったあの日から、けたたましい警鐘を鳴り響かせている。「俺」は俺に戻らなくてはいけないのだと、だから。
「ふざ、けんな」
俺を塗り潰そうとする暗黒を、仮面と定義した端っこに指をかけて。
「金、返せよ」
色彩を取り戻した世界の中心で固まった少女の顔に向けて、何か言ってやりたかったが、酸欠の頭では皮肉の一つも浮かばない。仕方がないので舌打ち一つ。
「どうして、なんで……あなたは」
「さあな……必死だったから、何をやって、何がどうなったかなんて、覚えてねえよ。
……けど、俺の、勝ちだな」
その小憎たらしい澄まし顔が、驚く様が見られたから。
丁度そこが限界点。体の節々がまるで壊れた人形のように悲鳴を上げ、ついに体重を支えることを放棄した両脚が崩れるまま、俺は
そして重い
「は、はは……ふ、ふふ……あは、ははははははは──ッ!」
思わず顔を上げた先、少女は体を折り、
笑う。
一体、何がそんなに
命が助かった事か? いや違う、この反応はそんな次元のものではないと直感する。
ならば何なのかと、その先へ思考を進める前に、
「私、本当に、ほんとうに……あなたと会えて、良かった」
歓喜を
見開かれた
にも
傷ついた左眼を
「あなたが、詐欺師だったから」
なのに彼女は、俺を理由に感謝を告げた。
「あなたが、全然素直じゃない、ひねくれ者だったから……無いはずの顔を引き
そこで言葉を切った、血まみれの笑顔が晴れやかに言った。
「この旅に、
その瞳は、俺でも、俺の心でもなく、
──それから、
ようやく笑い終えた少女に、俺は
すでに汽笛と車輪の残響は影も形もなく、血に汚れた壁の隙間から差し込んだ
「なあ……これから、どうすんだ」
拭い残った乾いた血を微笑にはりつけたまま、クロニカは言った。
「言ったでしょ。海まで旅をするの。もちろん、あなたも一緒よ」
迷惑だと言い返す直前、クロニカはこちらを遮りながら、まるで歌うように言った。
「でもまずは、お互い大変な目に遭った事だし、どこかでゆっくり休みましょう。あったかいお風呂とふかふかのベッドがあって、それから、景色の
そこでボロボロになった服の裾をつまんで、クロニカはやれやれと嘆息してみせた。
改めて、客車に置いてきた
今晩泊まることになる田舎の安宿で、無いものねだりされるよりはマシだろうから。
「景色だけなら、すぐ
言うが早いか、
「……
西──海の方角へと沈んでいく真っ赤な
木の葉とともに吹き込んで来た
どれぐらいの時間、少女は異色の
「ありがとう」
振り返った微笑から贈られた感謝に、俺は聞こえていないフリをした。