第一章 Wild bunch


     1


 詐欺師と銀行は、親戚のようなものだと俺は思う。

 夜逃げした新婚生活から持ち出せたのは、数十点の宝飾品と土地屋敷の権利書だった。戦利品すべてを正規貨幣に換算すれば、おおよそ五千ポンドほどのもうけにはなるだろう。

 しかし当然ながら、これら盗んできましたと言わんばかりのシロモノを素直に現金化する事はできない。というわけで、数日かけてのもうひと仕事が不可欠である。

 ふんくさい東部各地を転々としながら、それらを小出しに洗浄していくのだ。

 換金先は、決まってだいたい町外れ、時には道すら通っていないへきに、人目を逃れて建てられた闇銀行だ。そこでは盗品から妻まで、あらゆるものを担保に金を引き出せる。

「土地と屋敷の権利書だ。住所はスティルフィードの田舎町。建物の方は新築一年」

 どこから見ても納屋にしか見えない、はめ込み窓のカウンターに書類を見せる。

 すると薄暗い小屋の奥から、それ以上に後ろ暗い風貌の男が顔を出して言った。

「へえ……。珍しいもん持ち込むね。あんた何、強盗とかやってる人?」

「俺が何だろうと誰の返り血がちょっぴり付いてようと、コイツが本物であることにゃ変わりはねえよ。いいからさっさと金にしてくれ」

 権利書と引き換えに差し出されたのは、小汚くヨれた札束だった。

 発行元が政府ではない闇のカネ、俗にいう野良紙幣ワイルドマネーだ。

 銀行業の自由化。誰でも自分の顔の紙幣を発行できる昨今、この国には大量の野良犬ならぬノラ紙幣が出回っている。その種類は、たぶん百や二百じゃきかないだろう。

 だから盗品や汚れた金は、非公認の闇銀行で非正規の闇カネに転生させるのが定石だ。

 それだけでもう、何をしてもうけた金なのかは誰にもわからない。……しかしながら。

「……こんだけか?」

 受け取った札束はさしたる抵抗もなく、指の間でぐにゃりと折れ曲がった。

「ああ。こっちはリスクを引き受けてるからね、手数料だよ。言っとくけど、そいつは八額紙幣だ。これでもサービスしてる方だぜ」

 正規貨幣に換算して、額面八割の紙幣。だが元々の盗品価値からは相当目減りしている。

 仕方なしに舌打ちで済ましながら、受け取った金を懐にしまった。

 その拍子に、ずっと忘れていた、自身の薬指のそれに気が付いた。

「……なあ、ついでにこいつも頼む」

 左手から指輪を外し、カウンターに置く。

 意味をくした結婚指輪は、まるで死人の指から外されたように見えた。


 そうして数日をかけて、ようやく戦利品すべてのロンダリングは終わった。

 それから、適当な街中の真っ当な自由銀行フリーバンクの窓口に、今月の売り上げを持って来たような顔つきで、俺は堂々と札束を積み上げた。

「振込をお願いします。宛先は首都銀行スミスバンク、名義と口座番号は──」

 こうして、ドブネズミよりかはれいになったノラ紙幣はこの銀行で正規ポンドへ換算され、俺が持っている偽名の口座の一つへと振り込まれていく。

 手続きを進めながら、俺は視界の端で窓口の奥を盗み見た。そこには見るからに頑丈そうな、デカくて丸い金庫の扉がレンガの壁にはめ込まれていた。

 銀行は、詐欺師の親戚だ。

 立派な金庫の中身を皆が信用しているから銀行券は価値を持つ。たとえその中がらんどうで、紙切れが空手形に過ぎなくとも、気付かれない内は何も問題にならない。

 信用が金を生むのはどちらも同じ。つまり銀行業は、合法的な詐欺業務と言い換えてもいい。それが合法である理由は一つ。社会に必要とされているからだ。

 誰も金の価値を信じない社会とは、物々交換しか通用しない原始時代だ。それではあまりにも不便すぎるから、人は嫌でも、金に支配されざるを得ないのだ。

「ありがとうございます。合計で三千六百ポンドと十一シリング七ペンス、送金承りました。手数料は三パーセントになりますので、ご了承ください」

「よろしくお願いします」

 軽くなった足できびすを返し、不必要に立派な建物を後にする。

 ひと仕事を終えたと同時、頭の中で見えないコインが音を鳴らした。俺にしか聞こえない小気味良いきんちようじようが、人生の価値を知らせてくれる。

 この世で確かなものは一つ。それは、金だ。

 理由を述べよう。金とは、数えることができる価値である。

 そして数えられるという事は、誰の目にも明らかで、確かだという事に疑いはない。

 年収十ポンドの貧乏人と、一万ポンドの大富豪。どちらの方がより高い価値を持つか、客観的に説明できる尺度は一つしかないのだ。

 決して目に見えず、まして数えられもしない、きずなだの愛だの正義だの……心という妄想の中にしか存在しない、まやかしの真実どもでは断じてない。

 金こそが、この世で何よりも誠実に、正直に、その人間の価値を映し出すのだ。

 午後の日差しが、街並みの向こうの中央山脈アレゲニへ傾き始めていた。歩きながらタバコに火をつけ、ふとすれ違った新聞売りの少年へ、硬貨を投げて呼び止める。

大陸週報ウイークリーくれ」

「毎度! ところでダンナ、こっちのスプリングパンチ週刊紙もどうです? サンフロン州で起きた話題の結婚詐欺事件について面白いコラムが──」

「結構だ、興味ねえよ」

 受け取った新聞を開き、道端を歩きながら目を通す。次の仕事のネタを探すためだ。

 俺は詐欺師ではあるが、詐欺以外にも盗みや脅迫など、好き嫌いせず多くの悪事に手を染める。この業界、大抵の同業者は一つの専門分野にとどまりがちだ。が、ハッキリ言えば、そういう連中は一度味を占めた手口を繰り返す頭の悪い犬に過ぎない。

 俺は違う。常に新しい手口を模索し、実践し、反省し、改善し、進歩していく。

 捕まらないコツは勤勉であることだ。向上心が無ければ、どんな仕事も続かない。

「おっと、失礼」

「気を付けろ、若造」

 紙面に熱中しているフリをして、肩をぶつけた相手の財布を失敬する。三人ほどスリ抜いたところで、とある見出しが目にまった。と同時に足も止まった。

 そして振り返った先に、開通したての鉄道駅を見定めて、次なる計画は組み上がった。

「……よし」

 まず、金持ちカモに会う。話はそれからだ。どこにいるかって? 心配無用。

 信用が金を生む。よって金持ちは、周囲から金持ちだと思われる場所に生息する。

 家なら一等地、ホテルならスイート。そして……。

 列車なら無論、一等座席フアーストクラスだ。


     2


 始発の汽笛が通り過ぎた、駅のホーム。

 ペンキのげかけた待合ベンチに座りながら、俺は目を閉じていた。

 遠くのこずえから響く鳥のさえずりも、目前を過ぎるまばらな雑踏も耳から排除して、意識だけを己の内へと、深く、深く沈めていく。

 顔とは、その人間のき出しの心と、外の空気との接点なのだと俺は思う。

 だからこそ、人は図らずとも顔に出てしまうものだ。今考えていることや、それまで考えてきたことのすべて、経験と感情の積み重ね、人生そのものが。

 裏を返せば、そこに偽りの真実を張り付けることで、他人など容易に欺ける。

 呼吸すらも切り離した集中下で、意図的に夢を見続ける。それは俺ではない他者の生を創作しながら、同時に自分自身として、その旅路を歩む作業だ。

 あの時あんなことがあった。その時こう思った。何かを忘れ、あるいは糧にして、「彼」は今まで生きてきた。架空の記憶に、感情という肉をつけていく。

 そうして出来上がった仮面じんせいが、今日も俺を別人へと変えるのだ。

 ほどなく、むせるような蒸気を空へ吐きつけて、車輪のいななきがやってきた。

 立ち上がって、ホーム前方に伸びた、品の良い乗車列に並ぶ。

「切符を拝見いたします」

 順番が回る。改札ばさみを持った制服のしやしようへ、「彼」は求められたものを差し出した。

 良い旅を、という一礼に見送られながら、ステップを踏んで車内へ乗り込む。

 背後から聞こえてくる、切符を落としたらしい旅客のろうばいを無視しながら。


「──というわけで、いかがでしょうか。ウィレムさん」

 促した先の相手方、太っちょの紳士は葉巻の灰を落としつつ、悪くないとつぶやいた。

 偶然、居合せた車内で持ちかけた商談。その予想通りの好感触に、「彼」──法律専門家、ジョン=ロウは腹の中で拳を握った。

 彼の眼鏡越しに流れていく車窓の景色が、田園風景から山岳地帯へ切り替わる。

 共和国コロニアルズ東部から南部へ、中央山脈アレゲニ沿い二百マイルの線路を走るのは、澄んだ青空へ高らかな汽笛をえたてる蒸気機関車スチーマーだ。

 この革命後の新時代を象徴する乗り物は、海の向こうの蒸気帝国エルビオーンから政府が購入した国策輸入品だ。高級ホテル並みの一等車から、ブタ箱同然の三等車まで常に満席に近い。金持ちの道楽レベルだった汽車賃は、ここ数年で急激に落ち着いている。

 車輪の振動に合わせて、亜麻リネンのテーブルクロスがひらひらと揺れた。一等車に直結する食堂車両では、上品な身なりをした人々が遅めの昼食に興じていた。

 初老の秘書に次の葉巻を要求しつつ、太った中年紳士、ウィレムは口を開いた。

「確認するが、ジョン君。この話、本当に信じていいものかね」

「もちろんですとも、ウィレムさん。確かに危険な投資ですが、この『熱』は間違いなくしばらくちます。ピークを見極めるのは、私のようなプロならば難しくはありません」

 彼の口を動かしながら、俺は先々週目にした新聞の見出しを思い出していた。

『自由貿易法、議決の見通し』

 革命以前の王国レガートスを統治していた貴族たちは、国土で唯一の西部海岸線を完全に封鎖し、外国船の入国および、万民の出国を禁じていた。俗に言う鎖国体制である。

 その病的なまでの封鎖は、あるものの流出を恐れたからであるが、今はいておこう。

 革命後、鎖国政策はもちろん廃止された。しかしながら全面的な自由貿易だけは、これまで幾度となく保守派が議会通過を阻んできた。だが近年、徐々に勢力を増しつつある輸出向け大農場経営者アグリカルチヤたちが、どうやら力関係を逆転させたようだ。

 よって話はあの見出しに戻る。新聞に記載された例の一報は、二週間を経た今や、いずれ解禁される貿易業への投機的熱病フイーバーとしてちまたにぎわせていた。

 ざっと調べただけで数百社。流行に乗って増殖し続ける大量の貿易会社の大半は、間違いなく、一年とたない泡沫バブルに違いない。

 にもかかわらず多くの人間がそれらの株を買い求めたことで、かつてないほどに株取引の市場は膨らんでいる。では、この無謀な風船を膨らませ続けているのは誰か。

 もちろん、それも新聞の仕業だ。かつては検閲されていた言論が自由化されてから早十二年、今や世間の連中は、日々書き換えられる流行に追い立てられている。

 だからこそ、この「彼」、ジョンはそれを利用するよう勧めているのだ。

「ええ、ウィレムさん。確認のため、もう一度ご説明いたしましょうか」

 うなずくウィレムの瞳に手ごたえを感じつつ、彼は法廷仕込みの口舌を回す。

「もしこの私めを信用して出資していただけるならば、私はそれを元手に幾つかのほうまつ株を購入します。そして得られた売却益の額にかかわらず、五割増の返済をお約束いたします。無論、利益が出れば、そこからもまた五割」

 ジョンの提案を一言でいえば、株の代理購入の持ちかけだ。

 株取引は、面倒だ。事業主が発行した株の買い付けから、売却するなら買い取ってくれる人間を探すまで、一々相手を探して交渉しなければならない。そのため富裕層は普通、そうしたもろもろについて自分よりもうまくやってくれる代理人を雇おうとする。

「君は相当な自信家だな。もし思う通りに株が売れなければ、破産一直線だろうに」

「いやいや、私はむしろ小心者ですよ。……だからこそ、成功を確信しているのです」

 落ち着き払った調子で、代理人候補、ジョンは続けた。

「今の高値は、すぐに下落します。しかし、人間というのはどこまでも自分に都合のいい生き物でして、こう考える連中が必ず一定数いるのです。今は一時的な値下がりに過ぎない、逆に買増しのチャンスだと。……ですから、売り逃げをかける相手には困りませんよ」

「実に面白い考えだね。愚か者を食い物にするわけか」

「お嫌いでしたか?」

「まさか」

 まだわずかに、ウィレムの目には疑いの色があった。だが問題ない。それは裏を返せば信じたい証拠であり、どうせこの男の節穴に、俺の仮面は見抜けなどしないのだから。

「……正直に言えば、実際の取引に関しては、あまり心配していない。というより、素人の私が真に心配すべきは、君を本当に信じていいのかどうか、それに尽きると思うが」

「まったく、おつしやる通り、ごもつともです。が、どうぞご安心ください」

 至極当たり前の話だ。もしジョンが出資金を持ち逃げしてしまえば、あるいは得られた利益を渡さなければ元も子もない。

 ゆえにこれも当然、きちんと相手を安心させる材料を用意してある。

「そうした株取引時の持ち逃げを想定した保険があるのです。少々こちらをご覧ください。ある一定額を超えた株式取引において有効な補償申請書です。売却利益から税金を納める代わりに、持ち逃げや紛失を補償する、いわば投資促進を目的とした期限付きの特例法ですが……ご存じありませんでしたか」

 目を丸くして、初耳だとうなずくウィレム。

「今回の場合は、ウィレムさん御自身が補償対象になっていただきます。そうなると仮に私が不正を働き損害を出した場合、裁判所へこれを持ち込めば補償金が支払われます」

「なるほど……少し、考えさせてくれ」

 ウィレムはしばし、契約書にある財務省の認印を眺めてから、重々しく煙を吐いた。

「……いいだろう。君の話に、乗ってあげよう」

「! ありがとうございます!」

 心の中で、俺は両の拳を握り締めた。契約、もとい、詐欺成立だ。

「君、ペンと小切手を。それと葉巻を彼に」

 差し出された葉巻を受け取って、ジョンは恭しく火をつけた。タバコの交換あるいはおごりは、契約の成立を意味している。古い時代からの風習だ。

「法律家だか商人だか分からんね君は? 仕事を始めて何年だ? 家族はいるのか?」

「もう十年になりますかね。早死にした父が借金を残したので、返済のために弁護人の投資代理を請け負ったのが切っ掛けです。家族は妻が一人だけ。子供はいません」

 ちらりと、テーブルの上の、小切手の額面を盗み見た。

 同時に、頭の中で見えないコインが音を立てる。

 また一段、俺の金が積みあがる。言い知れぬ充実が、腹の底から人生を満たしていく。

 その時ふと、背景と化していた車輪の音にまぎれて貫通扉が閉まる音がした。切符を切りに来たしやしようだろうか、そう思い、何気なく視線を向けた先。

「──っ」

 思わず、張り付けた仮面の奥で、俺は息を飲んでしまった。

 契約書にサインしているウィレムは気づいていない。彼の背後の貫通扉から姿を見せたのは、四角いトランクを片手に引き連れた一人の少女だった。

 小さな肩を通り越して腰まで下りた髪は、妖精のような紅紫マゼンタから雪華じみた白銀へ、不可思議なかい調ちようを自然に織りなしていた。折れそうなほど細い腰から、フリルのついた黒いスカートが細い足首までをふわりと覆う。

 しかし俺が、何よりも目を奪われたのは、それらのいずれでもなく。

 少女は片目を閉じていた。つぶらかなみどり色の右目とは対照的に、ひだりを閉ざすまぶたはしかし無理をしている風もなく、ごく自然に下りたままになっていた。

 その下に一体何があるのか。突発的な好奇心に応えるように、少女はこちらを向いてわずかに口角を上げた。微笑ほほえんでいるのだと、一瞬遅れて理解したその時。

 ゆっくりと、その左眼が開かれた。

 そこに在ったのは、おんに輝くすいしようとう。月下の湖面の清澄さと、しんえんさを混交した──まるで、少女の髪色が溶け合ったかのような紫水晶アメジストが、翠の右目と虹彩異色オツドアイを成して、人形のような澄まし顔にはまっていた。

 俺はつか、そのりようが織りなす色彩に、思わずれてしまった事を白状する。

「どうかしのたかね? ジョン君」

「──ああ、いえ何でもありませんよ。サインはお済みですか? そうですか。では失礼いたします。一応、私の方でも確認を……」

 書類に目を通すふりをする間も、先ほどの少女が脳裏にちらついた。どこぞの良家の娘だろうか。にしては、擦り切れたかばんとくたびれた革靴というのは不自然だが。

 それに何より、あの目は一体何だろうか。今まで出会ってきた誰の瞳にも見たことのない、まるですべてを見透かすようなあの輝きは──。

 いや、やはり、どうでもいい。どうせ俺には関係ないと、散らかった疑念を振り払う。

「ええ、どうもお待たせいたしました。書類に不備はございません。それでは──」

 気を取り直して、小切手を、とジョンが言おうとした瞬間。

 紫水晶アメジストひだりと、再び目が合った。

──っ!

 いつの間にか、見知らぬ少女は俺の座席の隣に立っていた。

 あかゆきの髪が揺れ、からかうような微笑がこちらをのぞむ。

「こんにちは」

「あ、ああ。ご機嫌よう、お嬢さん。何か用かな。悪いが後にしてくれると──」

 絡みつくような、それでいて鈴のように澄んだ声音を、適当にあしらおうとした、直後。

「あなた、うそをついているでしょう」


     3


 嘘をつくときのコツ。その二、

 常に冷静であれ。


 言うまでもないが、場の空気は完全に凍りついていた。

 予想外とは、忘れた頃にやってくる。何も嘘がバレるのは今日が初めてじゃない。これまでも、その度に取り繕い、切り抜けてきた。今もまたその時が来ただけのこと。

 だから落ち着け、俺。

「あの、お嬢さん。……君は、何か思い違いをしているよ。初対面の相手に、一体何の根拠があってそんなことを言えるんだ」

 平静を装った裏で、冷たい汗が背筋を伝う。しかし一体なぜ見抜かれたのか。心当たりの一つも思い当たらないでいると、続けざまに、愛らしい唇が致命打をぶち込んできた。

「あら、それはあなたが一番分かっていることでしょう? 詐欺師さん」

 一瞬で、胃が悲鳴にも似たきしみを上げ、喉の奥が嫌になるほど締め付けられた。

 冷静になれ。この際、見破られたことははやどうでもいい。動揺すれば自白したようなものだ。だが逆に落ち着いてさえいれば、単なる部外者の出まかせで片づけられる。

「……いいかい。見知らぬお嬢さん。私は今この方と大事なお話をしていたんだ。そこに横から割り込んで、私を詐欺師呼ばわりした。立派な名誉毀損だよ。保護者はどこだい?

 しかるべき訴えを行わせてもら──」

「あなたの目的は、初めからそこの小切手だけ」

 声は静かに、そして急所を狙うナイフのように鋭く切り込んできた。

 そして、あどけなさを残す微笑が、すらすらと俺の嘘を解体していく。

「投資の話はただの口実。保険もただの嘘っぱち。そんな法律はどこにも存在しないし、契約書だってお役所のサインと印章を上手に偽造したのでしょう」

 聞いていたはずのない会話への言及は、しかしはっきりとした口調で告げられた。

 一体、何が、起きている。大きすぎるきようがくは、もはや恐怖といっても差し支えない。

 ウィレムが、サインした契約書をもう一度確かめ始めた。

 彼も悟ったのだ。少女の声に宿る、まるで答案を読んでいるかのような明白さに。

「どんなお金持ちだって結局は同じ人間だ。自分は奪う側だと思い込んでいる連中ほど、だましやすいものはない……ふふ、大した人でなしね、あなた」

 歌うような調子に、俺はまるで自分がしゃべっているかのような錯覚を覚えずにはいられなかった。まさか在るはずのない良心が少女の姿をとり、内心の罪を垂れ流しているとでもいうのか。悪夢にしても出来すぎな状況は、しかしどうしようもなく現実で。

…………ジョン君」

 低い声が、鼓膜を揺らした。

「誤解です。ウィレムさん。彼女の言葉こそ、何の証拠もないデタラメに過ぎません」

 ジョンの仮面が最後まで役を演じ切る裏で、俺は敗北を悟っていた。

 証拠の有る無しなど、何の意味もない。人間が従うのは真実であって、事実ではないのだから。疑いを覆せなくなった時点で、もう俺の打つ手は消えている。

 びりびりという音がした。破いた小切手をマッチで灰にして、ウィレムが立ち上がる。

「確かに、証拠はない。だが、私の気が変わるには充分だ。……真実はどちらにせよ、なかなか楽しい時間だったよ。おかげで久しぶりに列車が退屈しなかった。では、失礼する」

「あ、ちょっと! お待ちくださ──」

 ジョンの声を黙殺し、去っていくウィレムの背が貫通扉の向こう側に消えていく。

 遠ざかっていく。聞こえていたコインの音が、俺を確かなものにする金色の声が。

 そこで、一気に力の抜けた体が、座席の上に尻から落ちた。奇妙に明滅する視界の中で、悔しさと怒りが渦を巻き始めるのを、俺はどこか白昼夢のように眺めやって──。

「お疲れ様。大丈夫?」

 ぽっかりと空いた対面の席に、いつの間にか、少女は入れ替わりに座っていた。

 ふと気が付くと、俺はきやしやな胸ぐらを無理やりにつかみ上げていた。眼鏡と一緒に顔からがれ落ちた仮面ジヨンにかわって、生の感情が喉を鳴らす。

「お前は一体、何だ」

「あら、強引ね……そういう趣味なの?」

「知ったことかよ。いいから答えろ、ガキ。どうして俺の邪魔を──」

 再び目が合ったその時、魂を吸い込まれそうなおんひだりに映っていたのは、

!? ──ッ!!

 瞬間、俺は突き飛ばすように少女から手を放した。──そうか、そういう事か。

 もうダメだ、二度と、俺は断じてこの眼を見てはいけない。なぜならば、

「あら、気づいたのね」

 少女の左眼に映っていたのは、俺の内面そのものだった。見知った記憶が、思考や感情が、どうしてか判読できる形をとって小さな眼球の中を渦巻いている。

 心を、直接見ているのだ。そして、そんなが可能なモノは、この世に一つ。

「……貴血因子レガリアっ! まさか、お前は!」

 かつて、この国を支配していた貴族たちが、国外への流出を病的なまでに忌避したもの。

 それは自分たちの血統と、そこに宿る超常の力に他ならない。


     4


 貴血因子レガリアとは、貴族の血に宿るという、形なき遺伝要素を指す一語。

 かつて、貴族たちはこの特別な力により平民を従属させ、王国を絶対的に支配していた。

 しかし革命が彼らの支配に終止符を打った。貴族たちは続々と戦場で死に、あるいは断頭台の露と消え、多くの貴血因子レガリアが家系もろとも断絶した。

 以来一般に、貴血因子レガリアの力を目にする機会はほとんどなくなった。しかし千年にわたって平民を圧倒した異能への恐怖は、社会からまだ抜けきっていない。

 ゆえにそうした逆風の中で現在まで生き残り、家名と因子ちからを残すことが出来たのは、いち早く革命側に寝返った一部の革命派貴族たちか、あるいは、その逆か。

 ──気付けば、午後も三時の食堂車には空席が目立っていた。幸いにも、こちらのもんちやくに注目した者はいなかったようだ。お互い、世間に顔向けできる身の上ではない。

「残党貴族が……俺に一体、何の恨みがある」

 視線を下にらしたまま、俺は努めて抑えた声で吐き捨てた。

「恨み? 別にないわよ」

 あっさりと。形のいい、小さな唇がそう言ってのけた。

「ただ単に、目が合ったあなたが悪い人で、面白そうだったから、つい」

 こみ上げてきた、殺意にも近い怒りを、間一髪で腹の底にしまい直す。

 そして何を言おうか手をこまねく間に、細い指が机の上のメニューに伸びた。

「まだ怒ってるの? 教えてあげる。そういう時は、おいしい食事が一番よ」

 遅めのお昼にしましょう、と勝手に呼び鈴を鳴らされる。汽笛と車輪の騒音、その間を縫うように特徴的な高音が響き、ほどなくベルボーイがやってきた。

「御用でしょうか。レディ」

「ええ。お水を二つ、それと……おススメはなあに?」

 勝手に注文を始める少女のひだりはいつの間にか、またまぶたを下ろしていた。

「今日は上等のうし肉が入っておりますので、当車自慢のシェフが腕によりをかけてビーフシチューにいたしました。是非ご賞味いただければと」

「そう。じゃあそれを一皿。パンもつけて頂戴」

「かしこまりました」

 注文を済ませると、少女は閉じたままの己の左眼を指さして、こう続けた。

「〈真理の義眼アイオブザプロヴイデンス〉。これが私の因子ちから、他者のこころが見えるひだり。……ただし、目を合わせなければ効果がないの。だから、そんなに警戒しないでもいいのよ?」

ちや言うな」

 いつまばたき一つで腹の内を見透かされるともしれないのに、平気でいられる詐欺師などいない。首に刃物を突きつけられた人間が落ち着かないのと一緒だ。

 そんな俺の心中をに、少女は聞いてもいない自己紹介を始めた。

「私はクロニカ。訳あって、旅をしてるの」

 女の一人旅に訳がないワケがない。しかし少女、クロニカはその理由を言うことなく、

「初めて見たわ、あなたみたいな人」

 会話の文脈すらも無視して、勝手気ままにこう告げた。

「まるで仮面みたいに、こころに別の顔を貼りつけていた。……でも、読めたのはそこまで。仮面の裏の底が見えない。あなた、そこに一体何を隠しているの?」

「……何を、言ってんだ」

 言われた意味は理解不能ながら、しかし、頭の奥で不吉な警鐘がけたたましく鳴り響く。

 こいつは、あの眼は、ヤバい。もう逃げろ今すぐ逃げろと、心臓がバクバクと叫び出す。

「ねえ、詐欺師さん。私、あなたに興味が湧いちゃった」

 ねずみをいたぶる猫のような笑顔に、しかし危険と分かりつつ逃げられないのはどういう事か。脳裏に焼き付いたおんの輝きが魔力じみて、俺の内なる深みをつかんで離さない。

 まさか、「俺」は、この少女の眼に──。

 その時、すぐ横にワゴンの音が響いた。ボーイが注文を持ってきたのだ。

「お待たせいたしました、ではごゆっくり」

 列車の震動にも慣れた様子で、ボーイは鮮やかに給仕を終えた。すると待っていましたと言わんばかりに、少女は俺からさっと視線を外すと、目の前の一皿と向き合った。

 赤いうし肉の頂上に白いミルクが垂らされる、ホロホロに煮溶けたそれがスプーンに乗って小さな口に運ばれた。小さくふくらんだほおが、うれしそうにほころぶ。

 流れていく車窓には、残雪の化粧を落としそびれた中央山脈アレゲニの、へきの山裾とそうきゆう

 そんな景色と食事を満喫する少女は、図らずも絵画のような構図を作っていた。

 いつの間にか、ひどく喉が渇いていた。俺はボーイが置いていった、グラスの水を少し飲む。なまぬるい水が胃のに流れ落ちた、と同時、名乗った覚えのない本名を呼ばれた。

「──そういうわけだから、ライナス。あなた、私と一緒に旅をしてくれない?」

「一体どういうわけだ。あとお前正気か? 俺は詐欺師だぞ」

「そうね、でもこれからは私の護衛と道案内役よ。路銀や食べ物、お水、着替えその他必要な物の調達と荷物持ち、あと身の回りの世話をお願いね」

「ふざけんな! そりゃ要するに、ただの奴隷じゃねえか!」

 その提案を受け入れるのに、心の敷地にどれ程の余裕が必要かは知らないが、少なくとも、俺の胸がそこまで広大でないのは確かだ。

「あら、ご不満かしら? でも残念だけど。もうあなたに選択肢は無いのよ」

「……どういう意味だ」

 少女は閉じたひだり、そのまぶたの裏を読み上げるようにそらんじた。

首都銀行スミスバンク、ルーク州立銀行、海上保険組合、西部鉄道基金……」

 唐突に羅列される単語。俺には、すぐさまその意味が理解できた。

 それらはすべて、俺の財産の預け先。今まで詐欺でもうけてきた金をめてある口座と投資先。文字通り俺の全財産であり、積み上げてきた価値の全てだ。

 そして無意識に連鎖してゆく記憶が、一つの異常をしらせた。

 思い出せない。そこに、財産を預けているのは知っている。しかし、どうやってそこにアクセスしていたのか。口座番号、使用していた偽名、窓口、証券の在処ありかそれらの記憶が無い。頭に空いた暗闇をどれだけ探っても、一片たりとも思い出せない。

 思わず吐き気と眩暈めまいに倒れそうになったその時、クロニカの口が小さくスプーンをめるのが見えた。まるでその銀のさじえぐり取ったように、不在の記憶の行方が告げられる。

「〈真理の義眼アイオブザプロヴイデンス〉──第二眼セカンドアイ。ごめんなさい、一つ言い忘れていたわ。この左眼は、こころを見るだけじゃない。視線を介して記憶や感情、思考を切ったり貼ったりつないだり──まあ、イロイロと出来ちゃうの」

 ちやすら帯びた微笑が、形だけのような同情をつぶやいた。

つらいでしょうね。見るまでもなく、お察しするわ」

 背筋を駆け抜けた戦慄は、しかし、そんな気休めで慰められるものでは断じて無い。

 自分を支えていた確かな価値が、一瞬にして奪われた。絶望が腹の底から渦巻いて、一気に脳天まで駆け上がる。それを一抹の理性で堪えながら、俺はかすれた声で言った。

「……取引か」

「ええ。一緒に旅をしてくれたら、思い出せるようにしてあげる。でも断れば、あなたの記憶とお金は二度と戻らない」

 果たして俺の返答は、魂まで抜け落ちていくような、深い、深いため息だった。

 これは、報いだろうか。今までさんざん他人をだましてきた罰なのだろうか。まさか心を読み、記憶を奪う化け物に目を付けられるなんて。

「良かったじゃない。こんな美少女と一緒の旅なんて。言っとくけど、詐欺じゃないわよ」

 それよりも、よっぽど質が悪い。なんて言葉は、きっと口にする必要もないのだろう。

「これからよろしくね、ライナス」

 こうして、詐欺師ライナス=クルーガーは生涯最大の敗北を喫したのだ。

「……で、何だって、俺なんだ」

 車輪の震動が、投げ出した足裏をたたく。俺は座席にもたれたまま声を発した。

 どうして、もっと利用しやすそうな善人ではなく、日々を真面目に生きるだけの詐欺師が、こんな目に遭わなくちゃいけないのか。

「なんとなく、楽しそうだからよ。詐欺師と一緒に旅をするのって、きっと退屈しないし、いい思い出になると思わない?」

 ヒトの記憶を奪っておいて、思い出とはよく言えたものだ。

「それに、あなたはうそつきだから、虚構わたしにぴったりって思ったの」

 意味が分からない。この少女が一体何を考えているのか、目の前しか見えない俺には、その真意など読み取れない。だがしかし、遊ばれているのだけは確実で。

 だから、それがとてつもなく悔しくて、無性に腹が立って仕方がなかった。

 ふと、食事を終えたクロニカが、ナプキンで口元を拭いながら問うてくる。

「……私としては、あなたをもっと知りたいわ。どうして、詐欺師なんてしているの?」

「金が欲しいからだよ」

 それだけ? と言いたげな視線から目をらしながら、言葉を続ける。

「誰だって、自分の長所を自分のために使うもんだろ。俺は人をだますのが得意で、それが一番きるのがこの職業、つか……ああもう。心が読めるんなら一々聞くな」

 俺の言葉に、少女は車窓のに透けるようなあかゆきの髪をかしながら、言った。

「確かに私は他人のこころが見えるけど、時には見えづらい相手もいるの。あなたの場合は特に、張り付けたものが邪魔だから、自分から言葉にしてくれると助かるわ」

 さらりとされた要求は残酷極まりない。種を明かせと言われた手品師は死ぬしかないというのに、クロニカは好奇心に任せて殺し文句を重ねてくる。

「その心の上っ面、あなたは仮面と呼んでいるようだけど……本当に、そんなもので人を騙せるものなの? 言ってしまえば、ただの思い込みじゃない」

 計算づくか、その言葉は絶妙に俺のプライドを引っいた。しかし普段なら聞き流せる挑発に、乗ってしまったのはやはりここ数分の状況が目まぐるしすぎたせいか。

「……嘘をつくときのコツ、知ってるか」

「いいえ」

「その一、真実だけを話すこと。自分がマジに確信してる、真実だけをな」

「嘘をつくのに、真実を話すの?」

 想定通りの疑問だった。閉ざされたひだりへ向けて、俺は強くうなずいてみせる。

「本音で嘘をつくのは簡単だ。嘘を本当だと思ってる人間に成りきればいい」

 たとえ事実とは異なることでも、それは真実だと本気で信じている人間はいる。だからそういう人間に成りきれば、どんな嘘でも正直に口にできる。

「つまり、あなたは嘘をつくたび別人を演じているのね」

「そんな感じだ。自分をそういう人間だと思い込む。んで使い終わったら、仮面みたいに引っぺがす。コツさえつかめば誰にでもできるさ。職場や家庭に世間体ってあるだろ」

「無いけど?」

「……お前以外の世の中の全員にはあるんだよ。そこで皆、何かしらを演じてるもんなんだ。そのくせ他人には本当を要求する。だから騙される」

 神妙に寄った少女の眉根が、にわかには信じがたいと額に書いた。

「どれだけ本人がそう思っていたって、うそはしょせん嘘でしょう。実際に真実じゃない思い込みをつき通すなんて、いくらなんでも無理があると思うのだけれど」

「違うな。まず一つ、お前は誤解してるだろ。真実とは事実じゃない。事実ってのは、誰がどう思っていようが関係なく現実に起きる出来事だ。けど真実ってのは、その事実がどういう意味を持つのかって言葉なんだよ」

 この世の事実に本来意味などない。ただ、意味という名の真実が後付けされるだけだ。

 例えば、ある人間が死んだとしよう。それは事実だ。だが、ソイツがどんな人間だったか、要は周囲からどう思われていたかという真実によって、死人はよみがえらないが葬儀の列は長くも短くもなるし、香典の額も変わる。

 だから俺は、嘘をつく。現実に存在する事実を変えることはできないが、人の心の中にしかない、真実という名の思い込みを変えることなら、いくらでも可能だから。

「真実と嘘の境目なんて、コインの裏表みたいなもんだ。人は自分の信じたいものを信じられなくなった時、さっきまでの真実を嘘へとひっくり返す。その逆もまたありき──だから要は、何が嘘で何が真実かなんて、そいつの心一つであっさり覆るのさ」

「……心、一つ」

 そこまで言った時、クロニカは俺の言葉をはんすうするように小さくつぶやいた。まさか感銘を受けたわけでもあるまいが、一体何が気にかかったのだろうか。

 そう考えていると、車輪の振動が次第にゆっくりとしたペースを取り始めた。そして程なく、列車は一際甲高い到着の汽笛とともに、長閑のどかな田舎町の駅に停車した。

 車窓を開けてのぞいてみると、山裾に広がる田園風景を背に、乗務員たちが燃料補給を始め、まばらな乗客たちがホームで乗降していく。停車時間は十数分程度だろう。

「どうする、降りるか」

 俺としても、もうこの列車に用はない。

 テーブルの上、飲みかけのグラスを挟んで、対面の少女に問いかけた。

 その時だった。乱暴に扉を開く音と、それに続く靴音が、俺の思考に差し挟まれる。

 いやおうなく、そちらに注意を向けた瞬間。

「動くな」

 後方の貫通扉から現れた男たちが、素早く俺たちの席を取り囲んだ。


     5


「動くな」

 低い脅し文句は、乗降のけんそうの中でもよく聞こえた。だから二度も言わなくていい。

 向かい合って座る俺とクロニカを見下ろす男たちは三人。そしてどうやらこの場で騒ぎを起こす気はないのか、彼らは落ち着いた口調で脅迫文を述べた。

「この駅で、我々と一緒に降りてもらう」

 そう言うと、一人が袖口からちらりと銃口をのぞかせた。他の二人もコートの下が膨らんでいる。そして全員が、クロニカを見ようとしない。つまり、知っているのだ。

 一体、こいつらは何者なのか。それは今現在どうでもいい。

 重要なのは、どうすればこの降って湧いた窮地を切り抜けられるのか。しかし誠に残念ながら、俺には自慢できるような腕っぷしもなければ、銃も持っていない。

 視界の端でクロニカの様子をうかがう。あかゆきの少女は慌てる様子もなく、ただ無表情のままテーブルをじっと見つめていた。

 ふと思った。無関係だと言えば、コイツはともかく俺だけは助かるのではないだろうか。

「立て、一緒に来い」

 言うやいなや、クロニカの方に詰めよる二人が目隠しのつもりか黒い布を取り出した。

 そして、乱暴に少女の髪をつかむのが見えて──気が付けば、俺は動いていた。

「おっと」

 言われた通り、恐る恐る立ち上がる、ふりをして、膝でテーブルを軽くかちあげる。

 すると、水の残っていたグラスが音を立てて倒れ、派手に中身をぶちまけた。

 結果、男たちは反射的に視線をそこへ向けた。その時丁度、木立を抜けた車窓から強い西日が差し込んで──。

 倒れたグラスから滴る水に、開眼した紫水晶アメジストひだりが反射した。

 途端、三人の男たちは糸が切れたように、どさりとその場に崩れ落ちる。

 何事かとこちらを向いた他の乗客たちは、そのままクロニカが視線を向けると、本当に何事もなかったように、元通りに向き直った。

「……今、何したんだ」

第二眼セカンドアイ。記憶をメチャクチャにシャッフルしてあげたの。しばらく起きられないはずよ。……ああ、他の人たちは、今見たものを忘れてもらっただけ」

 改めて背筋が凍る。逃げる隙ぐらいは期待していたが、いちべつでこれとは想定外だ。

 向き直ったクロニカは、褒めてあげると言わんばかりに微笑ほほえみながら、言った。

「やるじゃない、カッコよかったわよ」

「……お前がやったんだろ」

 とつに口をついた否定は、後ろめたさからでは断じてないと思いたい。

 ひとまず動かない三人を窓際に座らせる。それと同時に出発の汽笛が鳴り響き、重たい鋼鉄の箱が再びゆっくりと前進を始めた。

「で、こいつら一体何者だ」

「知らない」

「とぼけんな。こいつらはお前の眼を知ってた。……追われてたんだな」

 すると悪戯いたずらがバレたように、クロニカは小さく舌を出した。

「そう、実を言うとね。だから助けが欲しかったのも本音の一つ」

「なら詐欺師じゃなくて警察に頼め。心配すんな、ろうは誰でもタダで入れる」

 それじゃダメよ、とクロニカはほおづえとため息を同時についた。

「私は旅が好きなの。色んなものを見て、聞いて、触れて、味わって、そうして歩いたあかしをこの世界に刻みたいし、私の心にも思い出を刻みたい。おりの中の鳥になるのはごめんよ」

 危機感があるのかないのか、歌うような語り口に、俺は嘆息混じりにき返した。

「くだらねえ……それより、こいつらについて教えろ」

 自分が、取り返しのつかない泥沼に入り込んでいる確信が生じる。しかしもう引き返せない以上、せめて可能な限り沼の深さを測りたいのが人情だ。

「彼らは、自分たちを〝騎士団〟と名乗っているみたい」

 おんの揺らめきが視界をかすめ、内心の疑問への答えが寄こされた。

「あなたの想像通りよ。騎士団とは、少数の残党貴族とその従者たちからなる秘密結社。共和国コロニアルズ各地での反政府的な破壊行為が、主な活動内容ね」

 月一の頻度で新聞をにぎやかすありふれた反政府組織という説明に、クロニカは一転、落とした声で補足した。

「そして騎士団かれらの目的は、〈王〉をよみがえらせること」

 鼓膜に飛び込んできた単語に、思わず、耳を疑わざるを得なかった。

〈王〉。人間を超えた貴族たちの更に上に立つ存在。それはかつて、王国レガートスを千年間支配していた、不老不死の君主の名だ。

「……お前、それ本気で言ってんのか?」

 しかしながら、今となってはその実在は非常に疑わしい。貴族たちが超常の力を持っているのは事実だが、その頂点に君臨する存在は語られこそすれ、その目で見た者は誰もいない。革命で陥落した王都からも、ついにその死体すら見つからなかったという。

 そのため一説では、〈王〉など最初から存在せず、貴族たちが利害調整役として必要とした記号に過ぎなかったと言われている。もちろん、俺もその意見に賛成だ。千年生きる不死身なんて、信じる方がどうかしている。しかしながら、

「ええ、〈王〉はいるわよ。少なくとも、私はこの眼で見たことがあるもの」

 にわかには信じがたい供述を、ひだりを伏せた少女はあっさりと言ってのけた。

「だからこそ、騎士団は私をつけ狙うの。今となっては私の左眼だけが、やつの玉座につながる唯一の道だから」

 はぐらかすように、要領を語らないクロニカを、しかし追及する気にはなれなかった。

 革命、貴族、〈王〉……それらは俺の人生とは、次元の違う領域の問題だ。関わったところで、ロクな事にならないのは目に見えている。

 しかし残念なことに、何もかもがもう遅すぎた。この少女に眼を付けられたことで、俺の人生はゆっくりと、別の世界から侵食されつつある。

 だから今はもう、それを認めて切り替えるしかなかった。無事生き延びて金を取り戻すには、迫りつつある脅威から目を背けても仕方ない。

 こんとうした三人に視線を戻す。確か、前の駅で降りろと言っていた。つまりは、そこに仲間がいたのだろう。他の情報は読めなかったのかたずねると、クロニカは首を横に振った。

「いいえ、ダメだったわ。この人たちは『私を連れて駅で降りる』という命令以外、何も聞かされていないみたい」

「下っ端ってワケか。ったく」

「お金にならない面倒は嫌い?」

「ああ。あと、生意気なガキも嫌いだ」

「でも、見捨てなかった」

「金のためだ」

 吐き捨てたついでに、再度訊ねる。もう一つ、まだ明らかにしたい事があった。

「それで、一体どこまでだ」

「何が?」

「ゴールだよ。具体的にまで、お前に付いていけばいいんだって聞いてんだ。その騎士団とやらに追われてる状況で、何の当てもなく旅してるわけじゃないだろ」

「だとしたら困ってしまうわね。あなたはこれから、人よりも少し目がいいだけのか弱い美少女と、どこまでも、終わりのない逃避行をしなければいけなくなっちゃうもの」

「この野郎……」

「安心して。ちゃんと目的地はあるから」

 細い指先が、車窓の先に見える白いさんりよう、その先を指してこう言った。

「海」

 希望か、あるいは憧憬か、少女が口にした単語は隠しきれない熱を帯びていた。

「港で船に乗って、大海原を渡って外国へ、そのままずっと、ずっと遠くへ逃げ続けるの」

 そしてかすかに潤んだ右目は、車窓に広がる山裾の先に、見えない海原を見ているようで。

「だからライナス。あなたには、私がこの国を出るまで手助けしてほしいの。海まで着いたら、記憶を戻してあげるわ。その先も一緒に来ると言うのなら、止めはしないけど」

「もちろんお断りだ……分かった、海までだな」

 知らず知らずのため息が口をついた。気乗りしない。現在、俺たちが乗るのは中央山脈アレゲニ沿いの東南部路線。鎖国が解かれた西部海岸は、千マイルも離れた真反対の方角にある。

 鉄道や乗合馬車、船舶を最短距離で駆使したとて、ざっと見積もって三か月。遠すぎる。なによりその間ずっとこちらの考えが筒抜けだと思うと、死んだ方がマシかもしれない。

 だが俺にとって金は命より重いのだ。よって諦めるという選択肢はなく、それに何より。

「? どうしたの、ヒトの顔をじっと見つめて」

「何でもねえよ。……何でもねえから目を合わせようとするな」

 この澄まし顔を、このまま勝ち誇らせておくのは、我慢がならなかった。

 心を読む瞳。そんな反則技に苦汁を飲まされてしまった自分が、悔しくてたまらない。

 このままで終われるほど、俺の詐欺師人生は安くはないのだ。よって、見ていろ。

「絶対、づらかかしてやる」

「……見えなくても、聞こえてるわよ。つくづく面白い男ね、あなたって」

 あきれ交じりの微笑を聞き流して、俺は考える。ひとまず目下の問題は次の駅だろう。この三人がしくじった以上、先回りした仲間がそこで乗り込んでくるかもしれない。

 その時だった。汽笛と車輪の間を縫うように、別種の音が耳に入った。

 硬い何かの先端が、線路上の砂利をたたくようなその調子を、奇妙に感じたその瞬間。

 天井から響いた衝撃が、車両全体を揺るがした。

 テーブルと座席が波打ち、何事かと上を見上げた乗客たちのざわめきが広がる。

 それから一拍遅れて、天井を突き破った人影が、重々しく車内に降り立つと同時。

 その場の全員が、息を飲む音が確かに聴こえた。

「……臭い」

 不気味なほどに低い、びたろうごくの奥から響くような声が無言の中に木霊する。

 病的なほどのそうしんに、丈の長いコートをかぶせた男。神経質なほどでつけたとびいろの髪の下、丸い黒目が死肉をついばむ鳥のような不吉さでぎょろりと動いた。

────

 俺には、他人の心など見えない。けれど分かる。どうしようもなく分かってしまう。

 視線の先の瘦身からにじみ出る、暗くよどんだ、血錆びたその匂いが。

 それは、自らの手で他人の命を握りつぶし、誰かの人生を靴底に踏みつぶしてきた者特有の、隠しきれない血の臭気。

 俺のような詐欺師こものとは違う、生粋の殺人者の匂いだった。


     6


 背筋がひりつく。しびれた吐き気を胃に感じながら、その男から目が離せない。

 車輪も汽笛も、乗客のどよめきさえ背景と化した視界のど真ん中に、男はまがまがしくたたずんでいた。一秒たりと合わせていられないようなゆがんだ瞳が、こちらを向く。

「ようやく会えたな。癌細胞ドローキヤンサー。一応は同族だ。礼儀として名乗りおこう。騎士団守護士第二列セカンドガーズ、アイゼルレッド=グラキエルだ」

 暗く重々しい自己紹介を聞いた途端、クロニカはびくりと肩を震わせて。

「伏せてっ!」

 切迫した叫びが車内に響いた。そばにいた俺は、強引に袖を引かれて従わされた、直後。

「……臭いと言ったぞ。平民にんげんどもが」

 グラキエル、そう名乗った男の身体からだが内側から沸騰したようにうごめいた。そして鋭く、空気を引き裂くような破裂音とともに、何かが彼の上半身から射出される。

 食堂車の壁に、窓に、そして乗客たちへ無差別に突き刺さったそれらの正体は、針。

 血のように赤い、細くとがったとげ状の針が、まるで乱暴なくぎちのように、乗客たちを壁に叩きつけながらメチャクチャにはりつけていた。

「なっ……!

 頭上をかすめて、壁に突き立ったとげ針の震動がビリビリと頭蓋に伝わった。恐怖が息を止める。理解が追い付かない。尻餅をついたまま、膝が震えて立ち上がれない。

 惨劇の中心で直立したグラキエルが、俺ではなくクロニカを見下ろしながら言った。

「よくけたな。心を見たのか? いいぞ。その調子で死なぬようにしろ。殺すなと言われているが、努力するのはお前の義務だ。間違っても、オレに気を遣わせるなよ」

「随分と、傲慢な言い草ね」

 とつに盾にしていたのか、トゲだらけのトランクの陰から、少女はゆっくりと立ち上がった。そして片目を閉ざした強い嫌悪と警戒が、グラキエルと名乗った男をにらむ。

「騎士団の貴族……初めて会うけれど、手段を選ぶつもりは無いみたいね。そんなに私が欲しいの? 変質者さん」

 挑発的なクロニカの口ぶりに対して、不気味に瘦せこけたほおは、なぜかれんびんゆがんだ。

「その口ぶり。やはり聞いていた通りらしいな、癌細胞ドローキヤンサー

 まるで、いくばくもない病人を哀れむような声は、しかし悪意と侮蔑に満ちていた。

おぼえていないのだろう。所詮お前は、つかがんさいぼうだ」

 その言葉が、少女の内の一体何に触れたのか、俺には咄嗟の事で分からなかった。

 しかし確かに、怒ったように白銀と紅紫の髪が揺らめいた。そして心を見抜き狂わせる、開眼した紫水晶アメジストが男を睨んで──。

「無駄だ」

「ッ、ぁ──!

 瞬間、クロニカははじかれたようにひだりを押さえ、背後へたたらを踏んだ。

「確かに貴様の眼は厄介だが、それも平民ヒユーマンに限った話。因子を保持する貴族われらならば、干渉を弾くなど容易たやすいことだ……くく、背信の報いだな」

 きしるような嘲笑を浮かべるグラキエル。言葉の意味はともかくとして、俺は悟った。

 この男には、クロニカの左眼が通じないのだ。心は読めるようだが、俺やあの哀れな三人にしたような頭の中身への操作は、理屈は知らないが不可能らしい。

 冷たい泥水のような絶望が、不意に喉元にせり上がった。

 この貴族バケモノは、前の駅でクロニカを待ち構えていたに違いない。それがどういう冗談か、走る列車に追いつき、直接乗りこんで来たのだ。

「しかし、余計な手間を取らせてくれたな……ああ、全く不愉快だ。貴様の無駄なあがきのせいで、このオレがっ! こんな不潔な場所に! 足を踏み入れる羽目になるとは!」

 ぶつぶつといらつグラキエルの体から、呪われた枝のように棘が伸びていく。呼応するように濃さを増す血びた気配が、覆しがたい事実として鼻をついた。

 それは決してせない、その人間の背骨に刻まれ、血を介して全身を巡り、皮膚から発散される特有の雰囲気。魂に染み付いた、殺人者の経験値に他ならない。

 はっとして振り返った先、左眼を押さえた指の間から、赤い血を流すクロニカが見えた。

 俺は、ただの詐欺師だ。人の心はいくらでもせるが、現実相手にそうはいかない。

 だからもう、俺にはどうしようもない。少女を見捨てて、この場から逃げる以外には。

 そこまで考えたその瞬間、不意に、死臭立ち込める空気を鋭利な音が切り裂いた。

 二発、続いて三発。その標的は、俺ではなかった。

 小さな身体からだが、無慈悲なとげ針に連続で貫かれる。細い喉笛に刺さった赤い凶器が、奇妙に遅い視界にはっきりと見えて、血れたおんと目が合った。

 すべては、一瞬の事。無造作に蹴散らされた花のように、少女が倒れていく。

 そこに在った命が、散っていく。生と死に挟まれた、決定的な刹那に。

 いまだこちらを見つめている。そのひだりは、一体、俺に何を伝えようと──。

────ッ!!

 瞬間、震えていた足がついに動いた。と同時、半ば無意識に、懐から銃を抜き放つ。

 先刻の三人から、念のため弾薬もろともスリ取っておいた拳銃だ。引き金をためらう理由はない。幸いにも発砲した三発は過たず、グラキエルの胴体に命中した。

 枯れ木のような体が着弾の衝撃に大きくった。その結果に背を向けて、倒れたクロニカを強引に抱き寄せ、俺は先頭側の貫通扉へ向け走り出す。

 不安なほどに軽い体重を引きずりながら、振り返らずに弾倉を撃ち尽くす。そのまま扉まで数歩の車内を、かつてないほどの全力で駆け抜けた。

 そして扉に手をかけた瞬間、後ろから、空気を裂くような発射音が響いた。

 間一髪。背後に閉めた扉が穴だらけになるのを、気にかける余裕は毛ほどもない。

 動かないクロニカを抱えたまま、俺は前方の車両へみっともなく転がり込んだ。

 三両にまたがるそこもまた食堂車だった。まばらな乗客はけげんな顔をこちらに向けて、それから気付いたように悲鳴を上げるが、言い訳も警告もしている暇はない。

 俺は彼らを突き飛ばすようにこじ開けて、さらに前方へと走り抜ける。

「お、お客様! 一体何が──」

 血相を変えて駆け寄ってきた乗務員の眉間に、棘針が突き立った。

 巻き起こる悲鳴と絶叫の中、背後から、何かを踏みにじるような靴音が木霊する。

わめくな、鳴くな。臭いんだよ平民ヒユーマンどもが。ああ、ああ! とても耐えられん。掃除が必要だ」

 そして、きむしるがごとき神経質なその叫びが、惨劇の合図となった。

 弓兵の一斉射のような棘の雨が、乗客たちを次々と壁や座席に縫いめていく。ほとんど無座別の攻撃は、衝動的な殺意の発露以外の何ものでもなかった。

「クソ、がッ!」

 とつに、目の前の死体を背中にしょって盾にする。しかし防ぎきれなかった針が腕とふくらはぎに容赦なく突き刺さった。

 まるで、けた金属を流し込まれたような苦痛だった。線路のカーブに沿って車両が傾き、足を滑らせ、抱きしめた少女を落としそうになるのを必死でこらえる。

 そして次の車両へ移る。もう乗客の反応になど、脇目も振らずに駆け抜ける。

 痛みよりも、背後から迫る脅威の存在が脳髄を激しく焦がした。グラキエル。弾をぶち込んでも死なない、貴血因子レガリアを宿した貴族。クロニカの身柄を狙っているという騎士団の一員。そして何より、とても話が通じるようなやからではなかった。

 緊迫と焦燥が鼓動を早くする。どうすればいい。このまま進んでも行き止まりだ。ならば、いっそ飛び降りるべきか。衝動的な思い付きをすぐさま却下した。仮に無事だったとしても意味は無い。相手は走行中の列車に追いついてくるような理不尽なのだから。

 それより、そもそもライナス、お前は一体何をしている? そいつはもう死んでるから、さっさと捨てろよ。お前一人なら、やつはもしかしたら追ってこないかもしれないだろ。

「ハァ、……はあ、畜生……! がっ、ぁ!? ァアアアッ!!

 瞬間、見えない出口を求めて迷走していた思考に、爆発的な激痛がたたまれた。これまでとは比にならぬ、骨の髄を直にヤスリで削られているような衝撃に、とても立っていられない。倒れた拍子にクロニカを取り落とすが、気にする余裕は一切なかった。手足に刺さったとげ針が発火したように、猛烈な苦痛を肉体の奥へとねじ込んでくる。

「何、だっ……! こりゃ、ぁっ……!!

 押し寄せる痛みが喉を詰まらせて息が出来ない。床から伝わるレールの震動が激痛をさらに加速させる。つまり俺はひんの芋虫めいて、車両の間でもがくのが精一杯。

「畜、生っ……」

 間もなく、横倒しになった世界がかすんでいく。意識が、急速に遠のいていく。

 そして視界の端に一瞬、ゆらめくような紫の光を見て、そこですべてが闇に包まれた。


     7


 これは一種の現実逃避か。音を上げた意識が逃げ込んだのは、過去の時代の夢だった。

 すなわち、何も知らなかった、知らないでいられた、ガキの頃の俺だ。

 とある有力貴族のの下、王都の一等地で父が経営する劇場の裏庭。打ち捨てられた古い舞台装置の影に隠れて、俺は部屋から持ち出したチョコレートをかじっていた。

 もう、馬鹿のように叫びながら走り回っていれば幸せなほど幼くはない。かといって、沸き上がる幼稚な反発心を御せるほど熟してもいない。そんな年頃だった。

 つまりは、親から行けと命じられた学校をサボったはいいが、しかしくされる以外にやることもない、そんなある日の出来事だった。

『あ、やっぱここにいたのね、ライナス』

『……姉さん』

 ペンキのげた立て板の上から、のぞむように、見知った姉の顔が現れた。

 長い亜麻色の髪。身内びいを抜きにしても美人な早熟の少女は、劇場付き一座の主演女優を務めるのに不足なく、寡婦をやれと言われれば秒で泣き出す巧みな演者は、しかしその時は、身内にだけ見せる人懐っこい素の笑顔を浮かべていた。

 物心ついたときには、一緒に擦り傷まみれで裏庭を駆け回っていたはずなのに。いつの間にか大人の仮面を幾つも身に着けるようになった彼女へ、俺は嫉妬のような憧れと母代わりへの寂しさを持て余しながら、言った。

『こんなとこ来てていいのかよ。もう昼の部が始まるだろ』

『あなたこそ。もう学校の始業から大分つわよ』

 そう言うと、長いスカートに覆われた膝が隣に座り込んだ。

『予定が変わったの。なんでも、前々から狙ってたサーカスの団長を父さんがついに口説き落としたらしくて、今日だけウチでってもらうんだって。だから暇な私は久しぶりに可愛かわいい弟と遊ぼっかなーって』

『じゃ、俺が学校行ってたらどうするつもりだったのさ』

『行ってるわけないでしょ。それぐらいお見通しよ』

 即答に、反論しようとして、しかしすぐに諦めた。やはり彼女にはかなわない。

『ねえねえ、そんなに学校ってつまんないの?』

 姉の純粋な好奇心に、しかし気の利いた返答が出来るほど、俺はまだ大人ではなかった。

『つまらない……ことは無いけど、それ以上に、嫌だ』

 そっか、と言ったきり姉はそれ以上踏み込まなかった。言葉にすればもろくなる部分をそのままにしておいてくれる、なんだかんだで、俺は彼女のこういうところが好きだった。

『それに、父さんの言いつけ通り学校行って勉強しても、どうせここの経営なんて俺には無理さ。金稼ぎになんて興味ないし』

 そのまま自分をすようにつなげた言葉は、しかし今度はあっけなく撃ち返された。

『でもどうせ、他にやりたいこともないんでしょ』

『そりゃ、そうだけど……』

 姉はしばし、考えるように空を見上げ、それから唐突に、乾いた手をパチンとたたく。

『じゃあさ、ライナス! 私と一緒に舞台に立ってみない?』

『はあ?』

『そうと決まれば……早速練習よ! まずは声の出し方からね。さ、立ちなさい』

『ちょ、ちょっと待てよ、姉さん』

 すぐさま講師の声色に切り替わる姉へ、俺は慌てて反対した。

『演技なんて、俺には無理だよ。あんな大げさに動くなんて、その、恥ずかしいし……』

『だーいじょうぶ、大丈夫。すぐに慣れるわよ。だからお姉ちゃんに任せて』

 付け加えるように、身をかがめた彼女が耳元でささやく。

『きっと才能あるわよ、ライナス』

 それから目を合わせてぐに、こう言い聞かせられた。

『あなたは、人並みには他人の心が分かる子よ。でも演技には、それ以上に自分の心を理解して、上手に使うことが大切なの。その点、あなたはきっと人並み外れてるわ』

 それに、と言いながら姉の白い手がズボンのポケットに突っ込まれる。不意を突かれて驚く間もなく、隠していたチョコレートの包み紙が取り出された。

『けっこー大胆不敵で器用だし……これ、私が引き出しに入れといたチョコよね。最近減ってると思ったから、鍵までかけといたのに』

『……あ、いや、それは』

『罰として、今日はぶっ倒れるまで声を振り絞ること。それじゃ一発目行くわよ!』

 再び、一段と強く背中をたたく姉に、しかし勘弁してくれと叫ぶ間もなく。

 そこで俺の意識は、現実へと引き上げられた。


     8


「あら、起きたわね」

 まぶたを開けると、こちらをのぞむ紫水晶と目が合った。後頭部の感触からして、どうやら少女の膝に寝かされているらしい。そしてなぜか、痛みは引いていた。

「丁度良かったわ、ライナス。あなたの方は抜き終わったところよ……痛覚を一時的に封じてあるから痛みは無いでしょ? 次は私の、コレを抜くのを手伝ってくれない?」

 困ったように微笑するクロニカの喉元は、赤黒いとげ針が生々しく貫いていた。

「っ!! クロニカ、お前、生きてっ……!!

 とつに身を起こす。少女は見て分かるほどに悲惨な状態だった。喉元を貫く一本は間違いなく致命傷で、さらに右肩と胸、脇腹と左のももまで。

 どう考えても、生きてしやべっていられるはずがない。にもかかわらず、

「この棘、血を吸って成長するみたいなの。ああ、外見じゃなくて内側の話よ。吸えば吸うほど、獲物の骨肉の奥へ根を伸ばして、その痛みで行動不能にするわけね」

 平然と、そう言ってのけるクロニカの表情は、しかし僅かに汗ばみ、青ざめていた。

「くそっ!」

 とにかく、あらゆる懸念を後回しにして周囲を見回すと、こもった熱気と香ばしさが鼻を突いた。ここは、どうやら客車を抜けた先にあるちゆうぼう車のようだった。

 火にかかったままの鍋を無視し、辺りをひっくり返して使えそうな物をかき集めてから、力なく調理台に寄りかかったクロニカ、その体に刺さった棘針に手をかけた。

 ぐいっと引き抜くと、ぶちぶちとした感触とともに、柔らかい皮と肉が根こそぎについてくる。そして果汁のようにあふした鮮血が、なまぬるい現実感で俺の両手をらした。

 やはりこれは、人間が耐え切れるような負傷じゃ断じてない、はずなのに。

「化け物、ね……いいわ、素直な人は好きよ」

 こちらの思考の先を読んだのか、クロニカは真っ赤な唇をゆがめて自嘲した。

「因子を宿した貴族は、平民にんげんとは生き物としての構造つくりからして違うの。これぐらいじゃ死にはしない……まあ、私はその中でも頑丈な方だけれど」

 漂う血臭。肉をえぐられたきやしや身体からだは、今にももろく崩れ落ちそうな気すらした。

「……あいつ、グラキエルは、追ってきてないのか」

「そうみたい。今のところは、だけどね。思考をのぞいたから分かるのよ。彼、どうやら乗客全員皆殺しにする気みたい。私たちの事は後回し、どうせ針をいくらか刺せばロクに動けはしないと思っているようね」

「……そうか」

 助けに行く、などという同情心は、どうやら逃げる最中に落としてしまったらしい。ここに至っては、自分と彼女以外を気にかける余裕などなかった。

 酒で傷口を洗い、清潔そうな布で止血してやる。途中、一時的に邪魔な衣服を脱がせた時、少女はかすかに顔を赤らめた。

「変態」

「純然たる医療行為だ。安心しろ。こんなせたヤギみたいな体に妙な気は起こさねえよ」

「……そういう余計なことこそ、心にしまっておきなさい」

 数分かけて応急処置を終える。少女の服を着せ直しながら、俺の頭はこの場をどうやって脱するのかで一杯だった。

 そんな俺の心境を読んだのか。クロニカは、しかし投げやりに首を横に振った。

「無理よ。人間の足じゃ、どうあがいても逃げられないわ……私を、見捨てない限りはね」

 真っ赤に染まった棚板に寄りかかりながら、少女は問うてきた。

「幸い、やつはそう早くここに来るわけじゃない。手早く皆殺すよりも、最大限に苦しめる悪癖のおかげで、悩む時間は十分にあるわ。だから、答えを聞かせて? ライナス」

 矛盾している。さっきは助けろと言っていたくせに、今度は見捨てても構わないとうそぶく少女の口ぶりは、まるで近づいてきた足音を悟り、壁を掘る手を止めた死刑囚のようで。

「諦めたのか」

 そう問い返すと、クロニカは穏やかに、力なく肯定した。

「……うん、そうね。奴に、私のは通じなかった。試したのは初めてだったけど、やっぱり貴族相手にはダメみたいね。本体の仕業か、それとも単に劣化してるせいかしら。どちらにせよ、もう構わないけれど」

 自分だけの理屈をつぶやきながら、細い指先が、血が彩を添えた紅紫マゼンタと白銀の髪をいじる。

 怖くはないのかと重ねて問うと、こう返された。

「怖いわ。でも不思議ね。いざその時が来てみると、意外と、どうでもいい気分にもなるの。たぶん、もうずっと前から、私はとっくに……疲れてたのかも」

 なぜか。少女の血まみれの諦観に感じたのは、痛々しさよりもいらたしさだった。

「……お前が諦めるのは勝手だ。けど、俺の金はどうなる」

「さあ……もしかして、私が捕まって殺される前に記憶を戻してほしいの? ごめんなさい、それはお断りよ。私、誰かさんと違って約束は守る主義なの」

 この期に及んで、いや、だからこそなのか。少女はからかうように言った。

「それとも逃げる前に、私を拷問して取り戻してみる? 好きにしなさい。めちゃくちゃにするなり、このまま見捨てるなり、どちらでも。あなたのお気に召すまま」

 糸の切れたような手足から投げ出された少女の言葉が、俺の靴先に転がった。

 いま分かった。こいつはきっと、逃げ切れるなんて最初から思っていなかったのだ。

 いつかこうなると知っていながら、それでも、歩いてきたのだ。

 どうして、さっさと官憲なりに捕まってしまわないのか、どうして、いっそ自殺してしまわないのか。そして何より、そんな旅路に何を得られるというのか。

 俺には、まったく理解できないながら、一つだけ、はっきりしている事があった。

「……ムカつくんだよ」

「え?」

 この期に及んで金を返さない、のはまだいい、理解できる。俺がクロニカでも絶対そうするに違いない。自分が死ぬ横で得をする奴が現れるのは死ぬほど腹立たしいからだ。

 だから、俺が心底気に食わないのはもう一つの方。

 最後まで意味深な、人を食ったような微笑を浮かべながら、絶望を受け入れるこの少女に俺は一度負けた。詐欺師として、負けたのだ。そしてまだ、勝っていない。

 ゆえに、このまま金を奪われたまま、俺が詐欺師おれたるプライドを傷つけられたまま、永久に勝ち逃げされるなんて、たとえ死んでも認めるわけにはいかないだろう。

 不意に、煮えくり返った腹の底から、沈んでいた記憶がふきこぼれた。

 ──冷たくなった姉の顔、何も映さない瞳。

 ──窓の外で、降りしきる白い雨。

 ──右手に握ったナイフの感覚と、赤。

 思い出す。そうだ、だから、俺がどうするかなんて、とっくに決まっていたのだ。

 後ろを向いて、空の拳銃に弾を込め直すと、驚いたような気配が背中をたたいた。

「……え。ちょっと、あなた……本気?」

 心が見える癖に、一体何を驚いているのか。俺は背を向けたまま肩をすくめてみせる。

 俺にとって、確かな事は一つ、金は命よりも重い。そして積み上げてきた詐欺師としての誇りもまた、命を賭けるには十分すぎることに矛盾はない。

「安心しろ。やると決めたからには死ぬつもりはねえよ」

 深く息を吸って、吐く。めいっぱい取り込んだ酸素に乗せて、冷静さを全身に巡らせる。

 二十年の詐欺師人生、犯したも巻き込まれた事故アクシデントも数えきれない。けれどどんな時も、俺はこうやってそのすべてを乗り切ってきた。

 狭いキッチンを見回しながら、自分の中身を掘り返す。今現在に至るこの十数分間と、これまでの人生の経験値を総動員して、かすかに見えた道筋に目を凝らす。

「あの化け物を、ぶち殺す。そんで生き延びるぞ」

 その言葉は誰でもなく、自分自身に言い聞かせるためだ。


     9


 この世で確かなものは一つ。

 それは、苦痛いたみだ。

 拷問吏。グラキエルは十二歳の時に因子を発現し、同時に父の役職を引き継いだ。

 初仕事は、連行した男の前で、その妻子を拷問することだった。

 最終的に、針のむしろと化した死体二つを渡して、男だけは無傷で解放した。

 程なく、男はかつて家族だったものの前で首をり、自ら見せしめとなった。

 平民にんげんはすぐに忘れる。与えられた分際を、自らが下等ないきものであるという自覚を、放っておけばすぐに忘れ、貴族に歯向かいだす。

 だから彼らには教え込まなければいけないのだ。決して忘れないように、その体と心にらいえいごうの苦痛を刻み込み、愚かな大衆への見せしめとしなければならない。

 言うまでもなく汚れた仕事だ。しかし、これは誰かがやらねばならぬ仕事であり、そしてきっと、過ちを犯してしまったのは、貴族われわれの方なのだ。

 我々、尊き血を宿す者たちが、正しく家畜どもを教育できなかったから、やつらに与える痛みと絶望が少なすぎたから、革命などが成功してしまったのだ。

 故に、騎士団の使命は一つ。癌細胞ドローキヤンサーを治療し、〈王〉が御復活を遂げられた暁には、今度こそ完璧に平民どもを教育してやらなければ──。

「うっ……げ、くそ、最悪の気分だ」

「これでも、大分端折はしよったのだけれど……大丈夫?」

 大丈夫だと、痛む頭を振って返答する。

 クロニカの視線を介して伝えられた、グラキエルの記憶が脳裏を過ぎ去ってゆく。そのあまりにも凄惨な光景の数々に、俺は若干以上に後悔しつつ吐き捨てた。

 そこにはやつの、言葉にならない矛盾した悪意も乗っていた。

 不潔な生き物と関わるのは耐え難い。しかし、同時にどうしようもなく楽しいのだ。がクズらしく、人のカタチを失って壊れていく様がたまらない。

 ゆがんだ支配欲と同情無き残虐さの化身。その人間性は、端的に言って終わってる。

むなくそ悪いが……大体わかった」

 無論、話が通じるような手合いじゃない。相手はこちらが、交渉に値する生物だとは夢にも思っていないのだ。しかしだからこそ、そこに付け入るスキがある。

「時間がねえ、急ぐぞ」

 タバコに火をけ、ふらつく頭に活を入れる。そして俺は準備を進めた。

 こちらを殺すためにやって来る、奴を殺すための準備を。


 数分後、ちゆうぼう車の後方入り口を、荒々しい圧力がぶち破った。

「来たか」

 俺たちは調理台の陰に身を隠していた。横には逆さに伏せたずんどう鍋が一つ。中にはクロニカが入っている。俺の分はない。最初の試練は、ともかく生き延びることだ。

 そして倒れた扉を踏みつけて、続々と侵入して来たのは、後方の客車の乗客たちだった。

 ただし、その有様は正視の許容を超えていた。全身に無数のとげ針を生やしたおぞましく真っ赤な仙人掌さぼてんたちが、しかし絶命すら許可されぬまま歩かされている。

 体内に貫入した針が、まだ生きている神経を強引に刺激し駆動させているのだ。そんな悲痛極まる棘人間の死行進デスマーチは、キッチンの中程で不意に停止した。

 そして一同にぶるぶると、不規則かつ小刻みに震えながら、予兆のように絶叫して。

「っ!!

 様子見の頭を引っ込めた瞬間、彼らは一斉に爆発した。体内の血液を爆発的に吸い上げ成長した棘針が、骨肉の破片とともにはじけ飛び、周囲を無差別に破壊する。

 車両は一瞬で穴だらけになったのだろう。ごうおんとともに激しい風が吹き込んできた。

 そして程なく、破片を踏みつける靴音と神経質な声が聞こえた。

「どうした……姿を見せろ。まだ生きているだろう」

 爆風と破片に切り裂かれた、痛む手足を動かし、俺は調理台の裏から立ち上がった。

「ああ。おかげさまで、一張羅が台無しだ」

 すぐ隣の足元で、あちこちくぼんでボロボロの寸胴鍋が内から軽く持ち上げられた。いつでもいけるという事らしい。

 グラキエルは、こちらと目を合わせるなり不快げに眉をひそめてみせた。

平民ヒユーマン風情が……一体誰に許可を得て、オレに向かってドブ臭い口を開いている。許せんな。許さんよ。よって殺す」

「そりゃこっちのセリフだ。ヘッジホッグ野郎」

 不意の怒りにどうもくした顔に向けて、俺は効きもしない銃を構えた。

「お前ら貴族様は、今じゃ社会に歯向かう立派な害獣だって知ってるか。善良な市民の義務ってワケじゃないが、ここで駆除してやるよ」

 あからさまに過ぎる挑発は、しかし有効だと俺は知っている。

 なら、先ほど少女のひだりが伝えてくれたのだから。平民にんげんの苦痛と絶望に酔いしれる優越種、そのプライドに引っかき傷でもつけようものなら、必ず反応するはずだ。きっと最大限にこちらの尊厳を踏みにじるため、一手間を凝らすに違いない。

 演技でなく、握った銃が小刻みに震えた。すぐさま、見抜いたような嘲笑がされる。

「くく、虚勢を張るな、下等生物。怖いのか? 震えているぞ」

「ああ、怖いね。しやべるハリネズミは初めて見た」

 見え透いた挑発を畳みかけると、見えない殺気が、俺に焦点を合わせるのを感じた。

 今、決めたな。この生意気な獲物をいつくばらせ、命乞いを聞きながら殺そうと。

「……おい劣等。オレはたった今、少しだけ気が変わったぞ。その度胸に免じて一度だけ、命を拾う機会チヤンスをやろうという気にだ」

 粘度を濃くした殺気と裏腹に、ひどく落ち着いた声でグラキエルは続けた。

「足元に隠している小娘を差し出せ。そうすれば、貴様だけは生かしてやろう」

 当然ながら、俺が漏らしたのは失笑だった。

「あんた、うそが下手だな」

「なんだと?」

「今のセリフは、真実から出た言葉じゃない。それに本音が顔に書いてあるぜ。期待を裏切られた俺の絶望が見たい……合ってるだろ?」

 男の表情が、いらちにゆがんだのが分かった。針がうごめき──来る!

「今だ! クロニカッ!!

 発砲しながら座り込むように台の陰に落ち、撃ち出されるとげ針をかわす。当然、こちらの弾も外すがどうでもいい。俺の役目は、最後まで注意を引き付けておく事なのだから。

 入れ替わりに立ち上がったクロニカが、足元のそれを両手で放るように投げ付けた。

 少女の細腕には重かったのだろう。それは回転しながら、不格好な放物線を描いて。


『……本当に、それを投げつければいいの?』

『ああ。ヘタに触るなよ。使うまではずんどうかぶせて守るぞ。最悪、俺たちが吹っ飛ぶ』

 その物体を前にして、クロニカはあからさまな疑いの視線を向けてきた。

『この列車は、蒸気帝国エルビオーンから輸入した中古品だ。だから、ちゆうぼうの設備も向こうのもんを付いてきたそのままに使ってる』

 俺は火を止めて、かかっていた調理中の両手鍋を持ち上げた。ねじ切り式の密閉蓋の上、そこに空いたベル付きの小さな蒸気孔を、詰め物をしてしっかりと塞いでいく。

『……一体何なの、それ』

『あのシチュー、かったか』

 クロニカへ背を向けたまま、俺はどこかで仕入れた雑学を語り聞かせた。

『揺れる上に狭い車内だと、ひっくり返った時に面倒な大鍋は嫌われる。だから基本的に走行中の煮込み料理はコイツで作る。小さくて密閉できるし、何より客を待たせず短時間で具材が柔らかく仕上がるからだ』

 盛り上がった熱い鍋蓋を爪先でたたきながら、その下にある力の大きさを確かめる。

『圧力鍋。コイツは使い方を誤ると──』


 どうなるのか。その答えが、今現実に示された。

 自身に向け緩やかに飛来する物体へ、グラキエルは妥当に対処した。針を伸ばし、串刺しに射止めて投げ返す。普通のとうてき物なら有効だろう。だが、この場合は間違いだ。

!!

 すさまじい破裂音がとどろく寸前、俺はクロニカを押し倒して床に伏せた。

 何が起きたのかは見るまでもない。高温高圧の調理器具に内容された具汁と気圧が、針によって穿うがたれた穴から、恐るべき破壊力として解き放たれたのだ。

 その単発威力は先のとげ人間にも劣りはしない。爆音の耳鳴りを振り切って顔を出した先、グラキエルは右上半身を失った状態で車両の内壁にめり込んでいた。顔面には鍋蓋が突き刺さり、くびが真横にへし折れている。しかし、これで死んだとは思えない。

 半壊した調理台を乗り越え駆け寄り、俺はやつの胴体へ全力で蹴りを入れた。それで、ボロボロだった壁はついに限界を突破し、グラキエルはそのまま車外に投げ出された。

「悪いが、お前はここで乗り換えだ」

 血まみれの拷問吏は後ろ向きの慣性に引かれるまま、砂利の上を数度跳ねて、そして回転する車輪の地獄に巻き込まれた。

 骨肉がき潰れるすさまじい異音が響く。そうして飛び散る人体の破片と飛沫しぶきが、けれど見る見るうちに後ろへ流れていくのを見届けて。

 俺は体から、どっと力が抜けていくのを感じた。


     10


「お疲れ様、ライナス。やったわね」

「だといいが……あぁ、クソ、まだ頭がクラクラしやがる」

 軽やかな靴音とともに、クロニカは前方の貫通扉から現れた。包帯の下の出血はどうやらもう止まっているらしかった。確かに、本人の言った通り頑丈な生き物だ。

 あれから数分。俺たちは吹きさらしと化したちゆうぼう車を後に、前方の給炭車両へ移動していた。すすけた石炭のコンテナに背中を預け、座り込んだまま俺は言った。

「どこ行ってたんだ」

「前の機関室よ。運転してる人たちへの命令を、上書きしてきたの」

 どうやら俺が気を失っていた間に、コックたちを操って機関員たちを呼び出し、騒ぎを気にせず列車を運行させるよう命じていたようだ。

 俺は適当なあいづちを打ちながら、強壮薬の瓶をひねる。に効くかは不明だが、各車両には乗客の体調不良に備えて簡単な医薬品が常備されているのが幸いした。

「お前も飲むか」

 薬は嫌いと言って、クロニカは首を横に振った。子供らしいとこもあるんだなとつぶやくと、軽く膝を蹴られた。元気なようで何よりだ。

「さて、それじゃあ、私はちょっと客車に戻るわ。荷物を、置いてきたままだったもの」

 そう言って、俺の目の前を黒いスカートが翻った。……しかし確か、クロニカのトランクはあの時、盾代わりに穴だらけになったはずだ。中身が無事とは思えない。

「そうね……確かに、着替えの服は全部ダメになっちゃったかもしれないけど、それでも、あの中には他に大事なものが入ってるから」

「? 何だよ、大事な物って」

 何気なく問いかけた俺に、クロニカは言いよどむような気配を挟んでから、言った。

「日記よ。ずっと書いてるの、この旅のことを」

 それだけは、たとえ穴だらけになっていても捨て置けないと。

 日記。その単語に、俺は何かを思い至ろうとして、しかし、今は頭がく回らない。

「……ちょっと待てよ。俺も行く。こっちの荷物も、あるしな」

 ついでに、もう少し薬が欲しかった。傷口が痛くて仕方ない。できれば強めの麻酔薬チンキがどこかの車両にないかと、ふらふらと立ち上がると同時。

「そうだ。一応お礼を、言っておくわ……上手くいくなんて、期待してなかったけど」

 振り返ったクロニカの言葉に対して、俺の答えは決まっていた。

「金のためだ」

うそつき」

 クロニカはくだんひだりを閉じたまま、一転してはにかむように、唇を曲げてみせた。

「あなたは嘘つきだから、そんな言葉、信じてあげない」

 言ってろ、そう吐き捨てようとした瞬間。

 不意にぽすりと、軽い体重が胸に飛び込んできた。まるで抱き着かれたような格好に、一瞬、俺は思わず停止して──。

 そこで唐突に、熱い感触が腹部を貫いた。

────ッッ!!

「かっ──……ぁ、ライ、ナスっ……!!

 目線を下げると、少女の腹から飛び出した、血れたくいの先端が俺の腹を刺し、背中を貫いたところだった。

 えぐるような圧迫感と致命的な痛みが、差し込まれた胴体から全身を焼き尽くす。急転する視界。足の裏が浮いたと感じた途端、背骨に強い衝撃が走る。

 腹に刺さった杭ごと射出されたのだと気付いた時には、積まれた石炭箱の側面に、俺はピンめされた標本昆虫さながら、クロニカと一緒に打ち付けられていた。

 抱き合ったような姿勢のまま、もろともに貫かれた少女を気にかける余裕はない。

 メキメキと床下を突き破っててくる異形。それは絶え間なく生え続ける無数のとげ針で、上半身の致命傷と断裂した下半身をいびつに再生しながら動いていた。

 焦げ臭い金属の摩擦音とともに揺れが止まった。車両の連結部が破損したのか。ともかく停止した箱の中に、低くくぐもった、混じり気の無い憎悪が充満した。

「……だと、思う。答えろよ、劣等種。なぜこのオレが、下だ。貴様ら人畜生を詰め込んで揺れる臭い箱の、よりにもよってぇっ!! 車輪の下にぃっ! このオレが敷かれなければならなかったぁっ! なあ! 貴様のせいだろうが、ゴミ虫がァッ!!

 振りかざされるきようを前に、ああ死ぬのだと、俺は頭の奥で理解した。

「楽には、死なさんぞ。お前は法を犯した。オレが上で貴様が下と定められた、〈かみ〉の敷いた摂理に背いたのだ……報いを、受けるべきだ」

 瞬間、両の手足が棘針によって貫かれ、骨ごと固定された。

「〈死性魔ダーインウイードル〉……覚悟しろ劣等種。らいえいごう、我がどつきよくが! 貴様を地獄の最底辺に縫い留めてやる!」

 そして額に刺さった棘針が、じわじわとその下へ、激痛の根を食いこませてくる。自分のものとは思えない絶叫が喉を震わせ、理性を離れた手足が折れそうなほどけいれんする。

 ……これは、報いなのだろうか。今まで散々、他人を欺き利用してきた詐欺師に相応ふさわしい罰が下っているのか。そう考えると、なぜかひどく納得できた。

 薄れゆく意識の中、はっきりとしているのは気が狂う程の苦痛だけで、けれどそれに対する万策はとうに尽きている。やれることは、すべてやったのだ。

 だから不思議と後悔もない──いや、だが、それだけは、なければならない。

 なぜなら俺は詐欺師だから。金が、金を、金で、金に、金のためなら何でもする人間のくずが、このまま潔く死ぬなんて、おかしいに決まっている。

 目線を下げる。抱き合わせのまま共に貫かれる、串刺しの少女をそこに見る。

 そのひだりに奪われたまま戻らない金へ、あるいは、そこに■■■かもしれない「俺」の■■に、最後のおもいをせようとしたその瞬間。

 暗転していく世界の中で、透明な熱に濡れた紫水晶が、こちらを静かに見つめ返した。

────!!

 交わる視線。網膜を介して注ぎ込まれた何かが、刹那の際に脳髄を震わせる。

 それは、今まさに命をさいな苦痛いたみよりもなお鮮烈で。

 視界を閉ざしていく暗闇よりもなお致命的な、みように過ぎる虚無だった。


 ……そして俺は、落ちていく。

 どこへ? 分からない。真っ暗なその闇は全くもつて意味不明だった。ただ、何だ? 口にしようにも、余りに単純すぎて逆に言い表せない。

 理解は及ばず、共感の余地もない。うつろにして意味不明な暗黒が、俺という個人を跡形もなくしやくしながら飲み込んでいく。

 顔も名前も人生もろとも、俺が俺であるすべてをられ、俺だった俺のようなものは何者でもなくなり、破滅的な坂を転がり落ちていく──いや、けれど、ちょっと待て。

 それを自覚している、この「俺」は一体なんだ。

 その瞬間、まぎれもない「俺」自身の内側から、あの音が、聞こえた。


     11


 やめてと叫んだ。彼の名を呼んだ。

 気が付けば熱い感触が、私のほおを流れ落ちていた。

「ライナス……っ!!

 進行形で貫かれ苛まれる傷口なんかより、胸の奥がひどく熱くて息が苦しい。

 どうして、出会ったばかりの詐欺師の死に際に、こんなに心が揺れ動くのか分からない。

 彼はうそつきで、根性がひねくれた利己主義者で、打算的なお金の亡者で、つまりはとても同情できるような人間じゃない。それはこころを見たから知っている。

 なのに、死んでほしくないと思ってしまう、自分自身が分からない。

『あなた、嘘をついているでしょう』

 単なる興味本位だった。好奇心で、ちょっかいを出してみただけ。

『これからよろしくね、ライナス』

 一緒に旅をしてほしいと言ったのもそう。ふとした気まぐれの、寄り道に過ぎない。

 なぜなら、この旅路の果ては最初から決まっている。刻一刻と崩れ落ちていく道の先に待っているのは、どこでもない虚無の底。それだけは、ずっと前から知っている。

 けれど、それでも、私は思い出が欲しかったのだ。

 見て、聞いて、触れて、ほんの少しでも私という足跡を、この世界に残したかった。

 そして、ああ、今ようやく気が付いた。

 何者でもない虚構わたし一人で歩く旅路は、あまりにも寂しすぎたから……。

 その結果がこの様だ。私のせいで、彼は地獄以上の残酷さでなぶり殺される。

 そんな心のどこかで覚悟していたはずの結末を前に、予想もしていなかった激情が、もう動けない体の内でどうしようもなく荒れ狂ってしまう。

「……いやだ」

 何が嫌なのか。クロニカわたしを構成する無数の未練と何一つ変わらない、しかし今まさに生まれた、の感情としての新たな後悔が、未練にしないでと絶叫する。

 だって、私はまだ、もう少しだけ、彼と一緒に、旅をしたいのだから。

 それを自覚した瞬間、あふしたおもいが何かの引き金を引いた。

 そして発動するのは、私自身もこの瞬間まで知らなかった、己の因子の三つ目の能力。

 視線の行く先。死にゆく男の瞳の奥へ吸い込まれるように、その力はたたまれて。

「……なんだ?」

 背後から響くグラキエルの声は、まるで私の代弁じみて揺れていた。

 突如殴られたように、首を仰いでこんとうしたライナス。密着した彼の体が、不気味に震え始める。流れ出た多量の血も、穴だらけの筋肉も骨も関係なく。まるで彼の中に入り込んだ別の生き物が、死体を無理やり動かしているみたいに。

 そこでようやく、私は彼に何をしてしまったのかを悟り始めて……。

 瞬間、ひんのはずのライナスが、撃ち出されたかのように跳ね上がった。

 猛烈な勢いに、彼の体を刺しとどめていたとげ針が抜け、私の体ごと床に落ちる。

「っ!? なん……何が起き──」

 ヤツのきようがくが最後まで続かなかった理由は、横倒しの視界がはっきりと捉えていた。

 赤い棘に覆われたグラキエルの右腕が、音もなく、引きちぎられていたのだから。

 そして獣じみた叫びが、車両を内から食い破らんばかりに響き渡った。

「GIAAAAAAAAAA!!

 その声は、ライナス=クルーガーでも、彼が演じてきたかりそめの人生の誰のものでもない。

真理の義眼アイオブザプロヴイデンス第三眼サードアイ

 こんぱく転写。誰かの記憶、感情、魂のすべてを対象とした別の人物へ上書きする機能。

 見る見るうちに、ライナスだった肉体が変貌していく。網膜に焼き付いた致命的な情報は一瞬で脳を汚染するにとどまらず、脳幹から脊髄へ流れ込み、血液を乗っ取り全身へ。そうしながら一人の男の存在を、人間でも貴族でもない何かへと造り替えていく。

 無造作に、ライナスは握っていたグラキエルの右腕を貪り始めた。

 貴血因子レガリアによる異能の棘針を、ばりぼりとくだきながら己の血肉へと替えていく。そしてあっという間に肉体の再生を終えて、らんらんとしたそうぼうが敵を捉えた。

 その瞳に宿る異質さに、グラキエルは息をんでろうばいしたのだろう。

「っ……く、平民ヒユーマン!! な、何だ何なのだ貴様その目は……か、下等生物の分際で、オレの……このオレの力に、逆らうかァッ!」

 おじすような喝破とともに、とうごとく棘針が発射された。

 致命の豪雨に、けれど真正面からライナスの体は飛び込んだ。かわしもらしもその素振りすらしない。ヒトの理屈に沿った動きなど一切行わず、骨肉を穿うがつ棘針を取り込みながら肉薄し、素手の一撃が数百の棘を砕いてグラキエル本体を殴り飛ばす。

 詰まれた石炭箱をなぎ倒し、貫通扉ごと隣の車両へ吹き飛んでいく貴族を追って、ライナスは両脚をバネ仕掛けのように瞬発させた。

 ざんがいの上に倒れ伏すグラキエル。その腕をもぎ、足を砕き、増殖するとげを知らぬとばかりにまとめてへし折って解体していく有様は、人外のはんちゆうすら逸していた。

 ──以上の状況を、倒れたままに見つめることしかできない。そんな私の脳裏で、忌まわしい知識が次々と連鎖して、一つの予想を形作る。

 貴血因子レガリアとは形なき遺伝要素。人間の血中からその魂と結びつき、肉体を貴族へと変える寄生君主パラサイトモナクの生態情報。

 このひだりが彼に移してしまったものは、けれど貴血因子そのていどでは断じてない。

 なぜなら、見えるのだ。変貌した彼の瞳の中でうごめく暗黒は、まともな平民にんげんの魂などではなく、貴族ですらない。

 その闇は、まさに。私が生まれた、忌まわしき故郷ふるさとそのもの──。

「ぁ……ああ、あ」

 血れた唇からほとばしったのは、取り返しのつかない事をしてしまったという嘆きだった。

 ライナスという男の人生はいま、完全に終わった。

「がッ!! ぐ、ぉぉおっ! き、貴様はぁァァァァッ!?

 そんな私の絶望を中断させるように、絶叫が拷問吏の喉から迸った。グラキエルは必死の形相で棘針を連射し、ライナスの体を天井の外へと吹き飛ばして遠ざける。

 そして荒い息とともに、血走った憎悪が私に向けられた。

「貴様ァッ! 貴様か貴様だな! 何をした! 忌々しい、呪われし癌細胞ドローキヤンサーッ! お前はあの平民にんげんにぃ、一体何を──」

「うるさい……わよ。教えてあげるから、もう、しやべらないで」

 黙らせるように、私は哀れな貴族の瞳へ、知る限りのすべてを投げ付けてやった。

〈王〉とは、貴血因子レガリアとは、そしてお前たち貴族とは、一体何なのか。

 図らずも、全てを知ってしまったグラキエルから、このとき完全に表情が消えて。

 色を失ったその顔面に、砲弾のような拳が突き刺さった。

 天井を突き破って、強襲する獣のように獲物を押し倒し、バラバラに引き裂いていく。再生する棘針の速度を上回る勢いで解体し、しまいには胸像のように頭と胸だけを引き抜いて──ぐしゃりと、両手でそれを握りつぶした。

 そうして足元にこぼれ落ちた血と脳髄の残骸を、彼は一体どれぐらいの時間、きむしり続けていたのだろう。

「……ライナス」

 ようやく、静寂を取り戻した車内で、私は再び彼と向き合った。

 ぼうぜんと、糸が切れたように立ち尽くす男の瞳は、はや何も映していない。精神が先に死んでしまった肉体もまた変異に耐え切れず、遠からず自壊するだろう。

「ごめんなさい……」

 もう届かない、ゆえにまんに過ぎない謝罪が、涙と一緒に床に落ちた。その時だった。

「──え」

 力なく垂れ下がった、動くはずのない彼の腕が小刻みに震えた。それから虚空をさまよった指先が、何かを見つけたように彼自身の顔へと向かう。

 そこに、見えない何かを求めて指が動き、存在しない厚みをつかんだ途端。

「ふざ、けんな」

 破けるような音が観えて、彼の内側から、顔の無い闇ががれ落ちた。

 そしてかすれた声が静寂を伝って、あつに取られた私の鼓膜を震わせる。

「金、返せよ」


     12


 聞こえる。

 コインの音が聞こえる。存在しない金の音が、過ぎ去ったあの日から、けたたましい警鐘を鳴り響かせている。「俺」は俺に戻らなくてはいけないのだと、だから。

「ふざ、けんな」

 俺を塗り潰そうとする暗黒を、仮面と定義した端っこに指をかけて。

「金、返せよ」

 ついに指先がそれを剥ぎ取った瞬間、押し寄せた解放感は思わず窒息しかける程だった。

 色彩を取り戻した世界の中心で固まった少女の顔に向けて、何か言ってやりたかったが、酸欠の頭では皮肉の一つも浮かばない。仕方がないので舌打ち一つ。

「どうして、なんで……あなたは」

「さあな……必死だったから、何をやって、何がどうなったかなんて、覚えてねえよ。

 ……けど、俺の、勝ちだな」

 づらをかかせてやると、言った。判定は微妙だが、同じような物だろう。

 その小憎たらしい澄まし顔が、驚く様が見られたから。

 丁度そこが限界点。体の節々がまるで壊れた人形のように悲鳴を上げ、ついに体重を支えることを放棄した両脚が崩れるまま、俺はあおけに倒れ伏す。

 そして重いしようすいでいねいに、取り戻したばかりの意識を投げ出そうとした、その時だった。


 はじけたようなクロニカの笑い声が、俺の鼓膜を震わせたのは。


「は、はは……ふ、ふふ……あは、ははははははは──ッ!

 思わず顔を上げた先、少女は体を折り、ひだりを押さえながら、大口を開けてこうしようしていた。

 笑う。わらう。わらう。細い肩を、砕けそうなほどに震わせて、その一身に表している感情は、歓喜以外の何ものにも見えない故に、俺は我が目を疑った。

 一体、何がそんなにうれしいのか。

 命が助かった事か? いや違う、この反応はそんな次元のものではないと直感する。

 ならば何なのかと、その先へ思考を進める前に、

「私、本当に、ほんとうに……あなたと会えて、良かった」

 歓喜をむせぶ少女の壮絶な有様に、俺は言葉を失った。

 見開かれたひだりからの落涙じみた流血は尋常じゃない。眼下周辺に浮かんだ血管は残らず破れ、ひび割れた陶器人形のように、色白い顔には赤い亀裂が無残に刻まれていた。

 にもかかわらず、今のクロニカは苦痛を感じているようには見えなかった。

 傷ついた左眼をでながら、青ざめた唇がことぐ訳は、俺にはまったく分からない。

「あなたが、詐欺師だったから」

 なのに彼女は、俺を理由に感謝を告げた。

「あなたが、全然素直じゃない、ひねくれ者だったから……無いはずの顔を引きがしてしまうぐらいの、とんでもないおおうそつきだった……おかげで、私は、ようやく──」

 そこで言葉を切った、血まみれの笑顔が晴れやかに言った。

「この旅に、終着駅ゴールが見えたの」

 その瞳は、俺でも、俺の心でもなく、はるか先、海よりも遠い場所を見ているように思えた。


 ──それから、しばしの時を置いて。

 ようやく笑い終えた少女に、俺は躊躇ためらいがちに声をかけた。

 すでに汽笛と車輪の残響は影も形もなく、血に汚れた壁の隙間から差し込んだあかねいろゆうが、少女の姿を薄暗がりに照らしている。

「なあ……これから、どうすんだ」

 拭い残った乾いた血を微笑にはりつけたまま、クロニカは言った。

「言ったでしょ。海まで旅をするの。もちろん、あなたも一緒よ」

 迷惑だと言い返す直前、クロニカはこちらを遮りながら、まるで歌うように言った。

「でもまずは、お互い大変な目に遭った事だし、どこかでゆっくり休みましょう。あったかいお風呂とふかふかのベッドがあって、それから、景色のれいな宿がいいわ!」

 そこでボロボロになった服の裾をつまんで、クロニカはやれやれと嘆息してみせた。

 改めて、客車に置いてきた荷物トランクを取りに行かないと、とこぼす少女を、もう一度呼び止めて、俺は言った。

 今晩泊まることになる田舎の安宿で、無いものねだりされるよりはマシだろうから。

「景色だけなら、すぐかなえてやる。……横向いてろ」

 言うが早いか、きしむ足に活を入れ、穴だらけの車両の西壁を蹴りつける。傷ついた安普請のツーバイフレームは張りぼてのように奥へ倒れ、それと入れ替わりに、息を飲むクロニカの前に一つの景色が立ち上がった。

「……うそ

 西──海の方角へと沈んでいく真っ赤なゆうは、ちょうど白くしゆんけん中央山脈アレゲニの、切り立った峰々に溶けていくところだった。

 木の葉とともに吹き込んで来たやまおろしに、長い髪がたなびいて。

 どれぐらいの時間、少女は異色のこうさいで、溶け落ちる夕焼けを眺めていたのだろうか。

「ありがとう」

 振り返った微笑から贈られた感謝に、俺は聞こえていないフリをした。