俺はヘンセンを南へ出て、旧領都アーベルに来ていた。

 アルバンと、ゴルカの族長ドゥシャンも来ている。それとほかの文官たち、そしてリーゼも一緒だ。

 レゥ族と反体制派。これからその代表たちと、決戦に向けて最後の意識合わせを行うのだ。

 会合の場所は、普段アーベルの参事会が使っている会議室である。

 俺たちは、その室内で先方を待っていた。

 それにしても、このアーベルに来たのがずいぶん久しぶりに思える。そう時が経っているわけでもないのだが。

 こう目まぐるしく状況が変わる日々の中に居ると、少し前のことが遥かな過去にも感じられてしまう。

 あの官舎を訪れてみようかと思ったが、今日は時間が無い。

 今度あらためて、ミアと共に行くとしようか。

 官舎での日々は、俺にとって価値ある思い出だ。

 彼女にとってもそうであってくれたら嬉しい。

「ロルフ。反体制派の代表が着いたみたい。もうすぐここに来るわ」

「分かった」

 リーゼに答え、懐から一枚の手紙を取り出して、再度目を通す。

 フリーダがヘンセンの議会へ宛てたものだ。

 首尾よく反体制派の合意が得られたことを伝える手紙だった。

 吉報である。最も欲しかったしらせだ。彼女は本当によくやってくれた。

 あのアールベック子爵邸の地下で会った時からずっと、とても頼りになる人だ。

 今、俺を取り巻く誰も彼もが、同じ目的に向けてまいしん、腐心している。

 フリーダやトーリら人間たちは、渉外に情報収集にと時間を惜しんで動き続けている。

 それにヴィリもゴルカも、魔族の高官たちは日々、計画を詰めているのだ。

 そして戦いに向け、たゆまず訓練を続ける戦友たち。そこにはトマスやダンのような新たな希望も加わってくれた。

 皆がひたすらに同じ方向を見据えている。

 それを思うと、どうも熱に浮かされるような感覚に包まれる。

 どうやら俺は、この状況に軽い高揚を覚えているらしい。

 守るべきものがあって、目的があって、そして共にそこを目指す者たちが居る。

 これだけで、こうも日々は意味を持つのだ。

 そんなことを思いながら、フリーダの手紙に目を落とす。

 それにしても、前回のタリアン邸へ救援を願う手紙でも思ったが、妙に丸みのある可愛らしい文字だ。

 彼女のイメージと少しばかり合わない。

 そんな、やや失礼かもしれないことを考えていると、入室者があった。

 数名の随行員を連れて現れたのは、反体制派の代表者だ。

 俺たちは起立して迎える。

「呼びかけに応じてくれてありがとう。ヴィリ族の族長、アルバンだ」

「ドゥシャンだ。ゴルカ族の族長をしている。今日の出会いに感謝する」

「デニスです。アルテアンの傭兵ギルドの長で、反体制派の、まあ、リーダーですな」

 続いて、俺やリーゼたちも挨拶をして、それぞれ席についた。

 デニスは、挨拶の際、俺を興味深げに見つめていた。

「にしても、まさかこんな日が来るとはね。驚いてますよ」

 席に着くや、彼が言う。

 嘆息しながら肩をすくめていた。

「魔族なんぞと手を組む日が来るとは、かな?」

「そうですが、〝なんぞ〟とは言わない方が良いでしょうな、ドゥシャン殿。正規の同盟でこそないが、同じ目的のために手を組むのですから」

「然り。我らの間に上も下も無い。その思いが何より重要だ」

 デニスとアルバンの言うとおりだ。

 それさえ分かっていれば、共に戦える。

 まだこの場に、ぎこちなさは多分にあるが、この戦いが終わればそれも変わっているはずだ。

 魔族と人間が手を組んで戦いに勝つという前例を作ることが出来れば、それは歴史において宝石のような価値を持つと俺は信じている。

「ロルフ殿。フリーダがよろしくと言ってたよ」

「いま彼女は?」

「旧アルテアン領で傭兵たちをまとめてる。大丈夫。みんな言うこと聞いてるよ。彼女、凄く人気あるから」

 人気か。頷ける話だ。

 あの器量にあの剣技だからな。

 気風の良い性格も、戦う者たちから好まれることだろう。

「彼女、君のことを話す時、やたら熱っぽい目をするんだよ。傭兵たちに恨まれるようなこと、しない方が良いかもよ」

「していない。二度ほど裸を見たが、それは───」

「駄目だろそれ」

「いや、不可抗力で」

「隣を見た方が良いよ」

 デニスの言葉に従い横を見ると、リーゼがものすごい目で俺をにらんでいる。

 なるほど、どうやら俺の不徳だったようだ。

 前後の事情がどうであれ、女性の裸を見てしまうような無作法に及んだのなら、ただ反省すべきなのだ。

 不可抗力などと言い訳をする時点で、こころちがいというものなのだろう。

「分かった。大いに反省する」

………………

「分かってなさそうだけど、まあ良いか」

 にやりと笑うデニス。

 それからリーゼの顔を見て、興味深そうに言った。

「人間と魔族がね。それがかなえば……ふむ、まあ」

 どこか感慨を感じさせる声音だった。

 よく分からないが、アルバンとドゥシャンが得心したように頷いている。

「お着きになりましたよ」

 そこへ係の者が声をかける。

 レゥ族の代表も来たようだ。

 旧アルテアン領を含めたレゥ族の支配地域からこのアーベルへ来るには、途中イスフェルト領を、つまり王国を通らねばならない。

 元より氏族間の交流はあり、おんみつに行き来できるルートも確保されているそうだが、それでも重責ある者がおいそれと来られるものではない。

 にもかかわらず、彼は現れた。

「ど、どうも。ヴァルターです」

 先のアルテアン領奪取でも活躍した、魔族の英雄ヴァルターだ。

 無造作に伸ばした髪に、線の細い体。

 浮世離れした学者のような風貌だった。

 先ほどと同じように挨拶を交わす。

 そのたび、や、どうもどうもと妙に恐縮するヴァルター。

 対照的に、彼に随行するレゥ族の者たちが俺やデニスへ向ける視線は、やや険しい。

 現状、仕方の無いことだが。

「では始めよう。まずはヴィリ・ゴルカ側の編制から。リーゼ」

「はい」

 アルバンの指示を受け、リーゼが説明を始める。

 決戦へ向けた会合が始まった。



「これにより、三正面作戦が確定しました。北からヴィリ族とゴルカ族。南からレゥ族。そして東から反体制派が攻め入るかたちです」

 常に無く整った言葉で説明するリーゼ。

 表情がやや凝り固まっている。緊張しているようだ。

 この会合が重要を極めるものであると分かっているのだろう。

 彼女も緊張などするのだな、と考えていると、それが顔に出ていたのか、ぎろりと鋭い目を向けられた。

 今日はよくリーゼに睨まれる日だ。

「デニスさんたち人間側と、よく渡りがつきましたねえ」

 ヴァルターが言った。

 敵意は無く、ただ驚きを声に乗せただけのものに聞こえる。

「要するに、世界が新たな局面を迎えつつあるということでしょうな」

「そう。俺がこの場に居ることが、一つの証左だよ」

 デニスの言葉を俺が補足する。

 なにせ将軍なのだ。皆と違う色の肌を持つ者が、軍を率いている。

 それにヴァルター一行は、このアーベルに来て、魔族と人間が協業する光景なども見ているはずだ。

 これらの事実に、一定の説得力はあることだろう。

「まあ、心配は分かります。わだかまりはありますよ。でも」

 頭を搔きながらデニスは言う。

「この戦いに勝ち、生きて再会出来たら、我々の関係も変化するかもしれません」

「ええ、それを望みます」

 ヴァルターが答え、皆が頷いた。

 その点から言っても、この戦いは重要なのだ。

「まあ、当初から三正面作戦が望まれていたわけですし、それが成るならちょうじょうというものですよね」

「そうね。で、リーゼ。敵軍に関する予想は?」

 ヴァルターに続いて発言したのは、彼の随行員の一人で、エリーカという女性だ。

 どうも口ぶりから言って、リーゼと旧知らしい。

「まずは当然ながら済生軍。それから、ロルフの予想では第一騎士団が出てくるわ」

 王国最強、第一騎士団の名をリーゼが挙げると、場に緊張が満ちる。

 ヨナ教団にとって霊峰ドゥ・ツェリンは絶対に守らねばならない、信仰の象徴なのだ。

 そしてヨナ教団と王国は、優先事項を共有している。

 ゆえに王国はこの戦いに最高戦力を使おうとするだろう。

「やはり第一騎士団ですか……かの英雄、ティセリウスが出てくるわけですね」

「本当の英雄はヴァルターよ。それを分からせてやるわ!」

 英雄と称される者の随行員なら、副官のような任を帯びていることだろう。

 慎重な判断を促すのが役割の一つであるはずだ。

 だがこの二人は、ヴァルターが穏健派で、エリーカが彼の背を押すような関係にある。

 ほかに、もう二人の随行員が居るが、いずれも少し困った顔をしていた。

「それと、ローランド商会から報告が来ている」

 やや重々しく言ったのはアルバンだった。

 卓上に紙束を広げながら、報告の内容を告げる。

「王国は各地で、騎士たちの任地を大幅に組み替えているようだ。見る限り、これは……」

「第一を動かしつつ、かつ第二騎士団も動員するためのもの、か」

 俺が継いだ言葉に、皆が口を引き結ぶ。

 有利な防戦側にある王国だが、対するこちらは大兵力だ。

 もし反体制派の合流まで敵が読み切っていれば、済生軍と第一騎士団を合わせても兵数で劣ることに気づく。

 そうなれば、当然そこを埋めようとするだろう。

 だが、第一と第二を同時に動員するなど、並大抵のことではない。

 たいへんな手腕が必要だ。

 人と物とカネが濁流のように動くなか、その流れを把握してコントロールし切り、すべての差し障りを排除することで初めて可能になる。

 それほどのブレインが居るのだ。やはり中央は油断ならない。

「ステファン・クロンヘイム……」

 リーゼが口にしたのは、第二騎士団を率いる団長の名だ。

 清廉かつ公正。だが過度に厳格ということもなく、柔軟な優しさを持つ人物と聞く。

 その優れた人品から、清騎士、正道の騎士と称される男だ。

 そして言うまでも無く、恐ろしく強い。

「第一騎士団と第二騎士団。ティセリウスとクロンヘイムが同じ戦場に出てくるとはな」

「加えて済生軍も強いぞ。騎士団と同等以上という評価もある。所属する者の中では、侯爵の息子が有名だな」

 ドゥシャンの述懐を、アルバンが補足した。

「侯爵の子。アルフレッド・イスフェルトですね。確かに彼も要注意です」

 そしてヴァルターが口にした名は、俺も知っている。

 騎士団長に匹敵する力を持つとされる魔導士だ。

 改めて考えるまでも無く、敵の戦力は凄まじい。

 だが、俺たちも打てる手はすべて打ち、戦力をそろえて策を整えた。

 そして士気では決して負けていない。

 勝つのだ。

 至るべき未来のために。



「で、どうなの? そいつの腕のほどは。あんまり失望させて欲しくないんだけど」

 会合が終わり、俺たちは互いに勝利を誓って会議室を後にした。

 アルバンとドゥシャンは、デニスに声をかけ、連れ立って出て行った。

 人間との溝を埋めるため、一席設けてあるらしい。

 そのへんは文官に任せ、俺は俺でレゥ族の面々と向かい合っている。

 こちらの腕前を確認しておきたい、という先方の求めに応じ、俺たちは訓練場にやってきたのだ。

 かつて領軍が使い、今はアーベルの駐留軍が利用している場所である。

 先方の求めと言っても、ヴァルターは申し訳なさそうに頭を搔いている。

 これを望んだのは、彼の随行員のエリーカだ。

 ずいぶんと勝気そうな女性で、訓練場に着くなり、俺の力量について訊いてきたのだ。

 それに対しリーゼが答える。

「あんたんとこの英雄サマより余程強いわよ」

「はぁ? 協力を求めておいてそのぐさは何?」

「それはお互い様でしょ。あんたこそロルフに失礼な態度とらないで」

 会合中から、リーゼとエリーカが旧知であることは何となく分かっていたが、どうも互いの態度にとげがある。

 気安さも見て取れるし、不仲というわけではないと思うが。

「ヴァルターが居なきゃ、今度の戦いは勝負にならないんだからね!」

「それはロルフも同じですぅー! むしろロルフの方が強いし重要ですぅー!」

「あんたアタマ沸いてんじゃないの!? そいつがヴァルターに勝てるわけないでし!!

「本気!? うちのロルフの方が百倍強いわよ!!

 何だろう。

 何が始まったんだこれは。

 帰って良いのだろうか。

 やや困惑する俺へ、ほかに二人居たヴァルターの随行員が小声で伝えてきた。

 ちなみに二人は男性で、名はギードとグンターというそうだ。

「エリーカはリーゼ殿と同じく、レゥ族の族長の娘なのだ」

「同い年で、子供のころから何かにつけて張り合っているらしい」

 なるほど、二人は同じ立場にあるのか。

 どうやらライバルのようなものみたいだ。

「ヴァルターがどれだけ強いか理解してないでしょ! アルテアン領の戦いでは『赫雷イグニートスタブ』で敵将を一撃だったんだからね! 分かってる? 超高難度魔法よ!」

「『赫雷イグニートスタブ』? ああ、アーベルの戦いで、ロルフが斬った魔法ね」

ちゃちゃ言ってんじゃないわよ!!

「事実よ!!

 更にヒートアップしていく二人。

 ヴァルターはおろおろするばかりで、ギードとグンターは額に手をあて溜息を吐いている。

 俺が止めた方が良いんだろうか。

 そんなことを思っていると、エリーカがこちらにつかつかと近づいてきた。

 彼女は慣れた動作で剣を抜く。

 そして鋭い風切り音のあと、切っ先が俺の喉元に突きつけられた。

「ふん! ぜんぜん反応出来ないじゃない!」

「お、おいエリーカ!」

「人間とは言え、約定ある相手にそれは駄目だ!」

 ギードとグンターがいさめるが、エリーカは口を三日月にして勝ち誇っている。

 俺はと言うと、手に持った短剣を返すべきか迷っていた。

 初太刀に目を引いて、本命の短剣を突き入れる戦法であることはすぐ分かったので、一応、エリーカの腰から短剣を抜き取ったのだ。

 殺気が無かったから放置でも良かったが、短剣を失った場合の技の展開に一瞬、興味を覚え、つい動いてしまった。

 彼女が短剣を奪われたことに気づいていないので、特に展開は無かったが。

「これ……」

 その短剣を差し出す。

 柄に綺麗な彫りが入った、中々の業物だ。

「え……」

 彼女は俺の手にある短剣に気づいたあと、自分の腰に目を向け、ぶら下がる空のさやを見た。

 次に笑顔が強張り、そしてその顔が真っ赤に染まる。

「あーーーっはっはっは! 取られてるじゃん! 剣、取られてるじゃん!」

~~~~~~!!

「〝ふん、ぜんぜん反応出来ないじゃない〟だっけ? ねえ、もっかい言って! さっきのもっかい言って!」

「ぐぐ……!!

 腹を抱えて大笑いし、あおるリーゼ。

 エリーカはぶるぶると震え出してしまった。

 ギードとグンターは目を見開き、驚いた表情をしている。

「だ、だから何よ! ヴァルターの方が強いのは変わらないわ!」

「悪いけどそれは勘違いなのよね。あんたは剣を取られたことにも気づかない程よわよわだから、強さについて理解出来ないんじゃない? 私はロルフを理解出来てるけど」

「もう一度言ってみなさいよ!!

 俺は剣士、ヴァルターは魔導士である。

 そして剣士と魔導士は、戦場における運用方法がまったく違うので、単純に強さを比較出来るものではない。

 研鑽のほどを競い合うのは良いが、適切な相手と競う方が建設的だ。

 それは割と常識的な話で、二人にも分からぬはずは無いのだが、どうも理屈の外で口論を続けている。

「ロルフは『凍檻コキュートス』に閉じ込められても、それを斬って生還したのよ」

 ふふんと胸を張るリーゼ。

 その姿を見て、俺はなるほどと胸中で手を打つ。

 彼女は俺を自慢したがっているのだ。

 俺という友を誇ってくれている。

「さっきから妄言のスケールが滅茶苦茶なのよ!」

「事実だっつってんでしょ!」

 誇りたいと誰かに思ってもらえているなら、誇られるに相応ふさわしくあるべきだ。

 意気に感じるとはそういうこと。

 騎士団では大切な人たちを失望させてしまった。

 自分の歩んだ道を恥じてはいないが、期待に応えられなかったのは事実だ。

 この場面で一歩を引くのは正しくない。

 信じてくれているリーゼに、恥をかかせてはならないのだ。

 自身の強さを強調すべき場面だろう。

「フッ。俺に勝てると思っているのか」

「きゅ、急にどうしたの?」

 リーゼが困惑している。

 台詞せりふを間違ったかもしれない。

「あ、あの。強い弱いはともかく、手合わせするのは構いませんよ。魔法を斬るって話、僕も興味がありますし……」

 ヴァルターがおずおずと言った。



 距離を取って向き合う俺とヴァルター。

 頭を搔きながら、恐縮したように彼は言う。

「貴方が魔法を斬るって話は聞いてました。それで、一体どういうものなのかと……。ここに来たのはそれを見せてもらうという目的もあって……」

 申し訳なさそうな口調だが、彼の目には、興味や探求心といったものが強く見て取れる。

 会った時、彼の風貌を見て学者のようだと思ったが、あながち間違っていないようだ。

 その探求心のもと、彼は今の強さへ至ったのだろう。

「魔法を斬れるのは、この剣があるからだ」

「おお! それが煤の剣ですね! 貴方しかさわれないという……!」

「それ以前に魔法を剣で捉えられるわけないでしょ!」

「ロルフには出来るんですぅー!」

 まだ騒いでいる。

 確信出来たが、やはりこの二人は仲が良いようだ。

「えーと……ははは、何かすみません」

「謝罪なんかしてくれ。それより、あんたは敬意と信頼を得ている。俺も魔族社会でそうなる必要があるんだ。色々手本とさせてもらいたい」

「今さら殊勝に振る舞っても遅いのよ! 魔法なんか斬れませんって言いなさい!」

「ロルフ! そういうのいいから! 負けたらぶっとばすわよ!」

 ………………

「あの、やっぱり何か、すみません」

「こちらこそ」

 そう言って、両者構えをとる。

 リーゼとエリーカはまだ何か騒いでいるが、俺はその音を世界から消した。

 対面するヴァルターの表情はさっきまでと打って変わり、細めた目で俺を見ている。

 彼も今、俺と同じ世界に居ることが分かる。

 ずしりと周囲が重くなった。

 空気が質量を主張している。

 フェリシアと相対あいたいした時も、この感覚を味わった。

 だが、感じる重さはあの時を大きく超える。

 渦巻く魔力の奔流を纏い、ヴァルターが杖を構えている。

 本来なら踏み込んで斬りかかる場面だが、これは力を見せ合う場。

 彼は魔法を見せ、俺は魔法を斬らねばならない。

 だが、ここが戦場だったとしても、俺は踏み込まなかったと思う。

 彼が纏う魔力は図抜けており、そして全身に油断ならぬ迫力がある。

 あそこに踏み込むのは危険だ。

 その警戒を裏付けるように、更に空気が重くなり、そして冷えた。

 呼応して、俺の精神も一段深い場所へ潜り、集中を強める。

 次の瞬間、ヴァルターが詠唱した。

「『風刃ブリーズグリント』!」

 発生が早い。

 詠唱が終わるや、ほぼ……いや、一切タイムラグ無く、風の刃が射出された。

 そして数がおかしい。

 この魔法で生成される風の刃は、通常一つだ。

 まれに熟練の術者が二つを同時に撃ち出すらしいが、今は、俺に向けて六つの刃が飛来している。

 そのうえ不可視に近い。

風刃ブリーズグリント』は魔力光を纏うため、刃の位置が相手に知れてしまう。

 だから技術によって上手く魔力光を抑えることが重要なのだ。

 ヴァルターの場合、その技術が非常に高度であるらしく、刃の位置は極限まで隠蔽されている。

 結果、高速で飛来する刃を視認するのは困難になっている。

 凄い。驚くべきことだ。

 エリーカがあれだけ誇るのも頷ける。

 だが風である以上、音はするし、肌で感じることも出来る。

 だから六という数も分かった。

 聴覚と触覚で対応出来るなら十分だ。

 俺は全身を脱力し、それと反比例するように感覚を最大限高め、刃を捕捉する。

 …………!

 ヴァルターの技術は、まったく見事なものだ。

 六枚の刃は、すべてが俺の体をギリギリかすめる位置と角度で飛来している。

 完璧にコントロールされているのだ。

 こちらも全力の剣技で応えねばならない。

 俺は脱力した体に一瞬で力を込め、剣を振った。

 一振りで刃を二枚。三振りで計六枚を処理する。

 ひゅっと消失音が響き、すべての刃が無くなった。

「えっ?」

 エリーカが声をあげた。

 ギードとグンターは声を失っている。

 そしてリーゼは腕を組み、満足げだ。

「ふふん!」

「なんと……」

 ヴァルターも驚いている。

 力を示すことは出来たようだ。

「今よ! 斬り込みなさい!」

「いや、リーゼ。もう良いだろう?」

 互いに腕のほどを確認し合うことは出来た。

 決戦前に無理も出来ないし、これ以上は必要あるまい。

「そうですね。僕も、もう十分かと。エリーカも良いよね?」

「う……まあ、うん」

「まあうんって何よ。魔法が斬れると信じてませんでした、ゴメンナサイって言いなさい。ほれ、言いなさい」

「ぐ……こいつ……!!

 エリーカを煽るリーゼ。

 心底から嬉しそうな笑顔だった。

「まあまあ。とにかくロルフ殿の力のほどは分かった。彼の強さは疑うべくもない」

「それにリーゼ殿を見る限り、彼はヴィリ族内で信頼を得ているようだ。我々も信じるべきだろう」

 ギード、グンターが諫める。

 俺を信じると言ってくれた。

 また一つ、壁が取り払われたのだ。

「それはいいとして、エリーカはゴメンナサイしなさい。ほれほれ」

「ぬぐぐ……!!

 ……たぶん。



「それにしても物凄い剣技ですね」

「まだまだ道半ばだよヴァルター殿。凄いのはこの剣さ」

 そう言って剣を見せる。

 漆黒をたたえる煤の剣を。

「魅入られるような黒ですねえ。貴方しか手に出来ないという点も興味深い。一体どういういわれの剣なんですか?」

「これは古竜グウェイルオルの炎に焼かれた剣なんだ。それはあくまで伝承だが、俺は事実と確信していて───」

「竜!? グウェイルオルと!?

「ああ」

 途端に目を輝かせるヴァルター。

 学者然とした風貌のとおり、伝承の類は好きと見える。

「ちょ、ちょっと触らせてもらえませんか?」

「構わないが、火傷やけどするぞ」

「ちょっとだけ! ちょっとだけですからうあっちゃぁぁぁぁぁ!

 ヴァルターは興奮するまま、煤の剣に触れた。

 そして手に火傷を負い転げ回る。

「何してんのよヴァルター!」

「まったく……」

 エリーカが声をあげ、ギードとグンターはあきれている。

 それにめげず、起き上がったヴァルターは俺に詰め寄った。

「さ、さすが古竜ゆかりの剣! なぜ貴方はさわれるのですか!?

「俺には魔力が無いんだ。おそらく、この剣は魔力を拒絶していると思われる」

「な、なるほど! グウェイルオルは魔法を嫌ったとされますからね!」

 興奮を強め、拳を振り立てるヴァルター。

 その様子に、リーゼが尋ねる。

「ヴァルターさんは竜が好きなの?」

「あっ……!

 何故かエリーカたちが、マズいという表情を見せた。

 それをよそに、ヴァルターは熱っぽい口調で語り出す。

「好きですとも! 良いですか? 古竜グウェイルオルが吐く炎は、鋼を炭に変えたと言われています! ですがこの逸話は、炎の凄まじさを伝えるだけのものではありません! 竜の炎に、ある種の神性が認められることが重要なのですよ! 炎を浴びたものに何らかの神秘が発現するケースは実際に報告されています! これは決して突飛な論ではなく、歴史に積み重ねられた幾つもの事象がそれを真実たらしめているのです! かのアガトもその一つであるという説をご存知ですか? 僕はそこをずいぶん調べましたが、文献をひもとけば、その説に一定以上の説得力があることが分かるのです!」

「おおっ? ヴァルター殿、詳しいじゃないか。貴方もアガトに関する説を支持しているのか?」

「ではロルフ殿も? ええ、ええ! もちろんです! 地域や地形から言って、アガトの入江が冬でも凍らないのは理屈が通りませんからね! かつて竜の炎がかの地をめたという説を採用すれば、アガトに関する様々な事象に説明がつくのです! 近くの山中で竜の爪痕とおぼしきものが見つかっていることもご存知ですよね?」

「もちろんだ。炎の神性については、ほかにも様々なケースが挙げられているぞ。グウェイルオルの炎がベゼ地方の肥沃化に関わっているという説は知っているか? これに関しては論拠の積み上げが不十分で、現状では否定されることが多いが、現地の民はそろって肯定しているんだ。りゅうジュヴァに関する伝承で有名なベゼで、このケースは興味深い。そもそもジュヴァの炎については神性が伝わっていないという点に意味がある。二柱の竜の相違は最も意義深いテーマの一つだからな」

「分かります! 分かります!」

 リーゼやエリーカが妙に冷めた目をしているのが少し気になるが、それより同好の士に会えたことが嬉しい。

 俺たちは、しばし竜について語り合うのだった。



「はい、ロルフさん。馬乳酒、おすそわけです」

「ありがとうエマさん。ああそうだ。ちょっと待ってくれ」

 俺はヘンセンの自宅に戻っていた。

 決戦を控えても、日々の訓練は変わらない。

 庭先で素振りを終え、井戸で体を拭いていると、エマが馬乳酒を分けてくれた。

「これ、俺からもおすそわけを」

 隣家の奥方である彼女からは、いつも貰ってばかりだ。

 良い近所づきあいのため、こちらからもおすそわけを、と以前から思っていた。

 忙しくて、中々機会を得られなかったが。

「鹿肉じゃないですか! こんなに上等なの、どうしたんですか?」

「アーベルからの帰りに出くわしてな。俺が仕留めたんだ」

「ええっ、本当ですか?」

 驚くエマ。

 実際、狩猟の心得をまったく持たぬ俺が、森の中で偶然出くわした野生動物を仕留めることなど、そうそう起こり得ない。

 運が良かったのだ。

 戦いを前に、さいさきが良いというものだろう。

「まあ、処理は分かる者にやってもらったけどな」

「ありがとうございます。うちの人も鹿肉は大好きで。早速今夜いただきますね!」

 そのフランクも、明日からしばらく出征だ。

 いよいよ戦いが始まる。

 しばらく一人になるエマだが、寂しそうな顔は見せない。

 周りに気を遣わせたくないと考えているのだろう。

 彼女の夫を、必ず妻のもとに帰してやらねばならない。

 そして俺も生きて帰るのだ。



「うむ……」

 旨い。

 馬乳酒は俺の生活にとって欠かせぬものになった。

 心地よい酸味と、涼やかなほろ苦さ。

 冷たく綺麗な小川へ身を浸したかのような気分になれる。

………………

 家の中、一人座って夜を迎える。

 俺はわんに揺れる馬乳酒へ目を落とし、考えた。

 いよいよ進発となる明日のことを。

 そしてこれまでのことを。

 あれは約九か月前。

 俺がこのヘンセンを訪れている間に、領軍が攻めてきたのだ。

 魔族軍はそれを撃退し、返す刀でバラステア砦を落とす。

 そして領都アーベルを陥落させ、ストレーム領を奪取した。

 それからひとつき半ののち。

 俺たちはタリアン子爵を討ち、領境の平原で第三騎士団を撃破。

 タリアン領を落とした。

 その後、敵にバラステア砦を突かれるも、これを撃退。

 ここまでとうの日々で、いずれも厳しい戦いだった。

 だが、いま臨もうとしているのは、それらとは比べ物にならないほど大きな戦いだ。

 そして、重要な戦いなのだ。

 今、俺たちにとって良い流れが来ている。

 戦勝を続け、少しずつ王国領に踏み込んでいる。

 人間による参事会は上手く機能しており、ローランド商会という味方も得た。

 魔族領と旧王国領の垣根を取り払って経済圏を作り、文化を交わらせている。

 望んだ世界のへんりんが、見えつつあるのだ。

 次の戦いに勝てば、それは更に現実味を帯びるだろう。

 勝たなければならない。

 勝たなければ。

………………

 霊峰ドゥ・ツェリン。

 ヨナ教団にとって信仰の象徴の一つ。彼らにしてみれば、絶対に守るべき拠点だ。

 そして、教団と密接に繫がる王国としても、霊峰の陥落など許せない。

 だから敵は、その防衛に全力を挙げてくる。

 教団の精強極まる軍、済生軍に、王国からは第一騎士団と第二騎士団。

 恐ろしい布陣だ。

 こちらも万全を期してはいる。

 俺たちヴィリ・ゴルカ連合に加え、レゥ族、更に人間の反体制派。

 大兵力である。レゥ族の兵数はヴィリ・ゴルカ連合に匹敵するし、反体制派も想定された以上に大規模だった。

 しかし、それでも厳しい戦いになる。

 敵はかつてないほど強大なのだ。

「……ティセリウス団長か」

 口をついて出たのは、第一騎士団団長の名。

 王国最強の騎士であり、俺を理解してくれた人。

 そして、敵だ。

 俺と同じように、彼女にも戦う理由がある。

 譲れぬ強い思いが、きっとあることだろう。

 それに加え、ステファン・クロンヘイムが率いる第二騎士団。

 更に、侯爵の息子であるアルフレッド・イスフェルトを擁する済生軍。

 いずれも難敵だ。

………………

 今の俺は一軍を預かる身で、そこには大勢の仲間が居る。

 それは本当に感謝すべきことだ。

 だが、多くの者の命を預かる責は、あまりに重い。

 そして、一人も欠けずに帰ってくることは不可能だ。

 戦いは必ず誰かをうしなわせるし、何かを損なわせる。

 それは避けようの無い未来なのだ。

 なればこそ、絶対に勝たねばならない。

 そうでなければ、すべてが無駄になってしまう。

 命も、時間も。すべてが。

………………

 夜に静寂が満ちる。

 俺は馬乳酒をあおった。

 皆は決戦前夜をどう迎えているだろうか。

 隣家のフランクは、もう帰宅しているはずだ。

 無事を誓い、無事を祈り、夫婦で大事な時を過ごしていることだろう。

 ほかの者たちもそうだ。

 父母から激励される者。

 兄弟姉妹から別れを惜しまれる者。

 恋人と抱きしめ合う者。

 あるいは、去った魂と語らう者。

 あちこちの家で、これから戦う者たちが、愛する人と過ごしているのだ。

 そして、戦う前の最後の平穏を与えられている。

 誰も一人ではない。

………………

 家の中を見まわした。

 今夜は、やけに広く感じる。

………………静かだな」

 虫の音一つ無い夜。

 誰も居らず、何も聞こえない。

 時間が凍っているかのような静寂の中に、一人俺は居た。

「ふぅ…………

 何とは無しに、息を吐く。

 ただの吐息が、やけに大きく聞こえる。

………………

 静かだ。


 ────こん、こん


 ごく控えめなノック。

 だいぶ明るくなってきた彼女だが、この小さなノックの音は変わらない。

「どうぞ。入ってくれ」

 ドアが開き、少女が現れた。

 ミアだ。

「……あの」

「ミア。こっちに来て座ると良い」

 椀に馬乳酒を注ぎ、対面に座ったミアへ差し出す。

 彼女もこれが好きなのだ。

 酒と銘打たれているが酒精はほぼ無く、子供もよく飲む。

「ありがとうございます……」

 緊張した面持ちで椀を両手で持ち、口に運ぶミア。

 それから、おずおずと話し出した。

「あの……ごめんなさい。大事な時間なのに」

 命がけの戦いに赴く日の前夜。

 大切な時間だ。

 そういった感覚は普通、十三歳の女の子に分かるものでもないと思うが、ミアという子には分かるのだ。

「大事な時間だからこそ、ミアが来てくれて嬉しいよ」

「は、はい……」

 はにかむように俯くミア。

 本当に、表情を見せてくれるようになった。

「あの……」

「うん」

「すごく大きな、戦いなんですよね。いつもよりもっと……」

「そうだな」

 戦いについて何かをミアの耳に入れたりは、誰もしていない。

 だが、多くの者たちが忙しく準備にあたっているのだ。

 ミアは察してしまうのだろう。

「大丈夫。必ず帰ってくる」

「分かってます……」

「ほう?」

 即答だった。嬉しい話だ。

 信用があるようだな。

「ロルフ様は、強いですから。すごく……」

「強いかな? ミアがお墨付きをくれるか?」

「はい。砦でも、わたしを助けてくれましたし……」

 あの時はミアの危機に激昂し、常に無く暴れるような戦い方をしてしまった。

 今にしてみれば反省点も多いが、ミアがそう言ってくれるなら有り難い。

「……だから、怖がらなくても大丈夫です」

「やっぱりミアには分かってしまうか?」

「……はい」

 戦いは怖い。それは当然だ。

 戦いを前に、怖さを感じぬことなど無い。

 だが、人は勇気を手に、いつだって恐怖へ立ち向かえる。

 これまでずっと、俺はそうしてきた。

 恐怖自体は人にとってある種必要な感情だし、恐怖を恥じる必要も無い。

 それも分かっている。

 だが、今夜はいつにも増して、落ち着かない。

 胸中でおきのようにくすぶる恐怖を、上手く処理出来ないでいる。

 怖いのだ。

 少しでも判断を誤れば負ける。多くを喪う。

 今度の戦いは、そういう戦いなのだから。

 それを思っていると、ミアが立ち上がった。

 そして俺のそばに来る。

「ミア?」

 その行動の意味が分からず、俺は座ったまま彼女の顔を見上げる。

 するとミアは俺の頭に両腕を回し、そのまま胸に抱いた。

「……大丈夫です。ロルフ様は負けません。…………いちばん、いちばん強いですから」

 いちばん強い。

 ミアはそう言ってくれた。

 彼女の中で、俺は最強の男であるらしい。

 その期待に応えるために、頑張らねばならないようだ。

 それからミアは、俺の頭を胸から離し、そして目を覗き込むように見つめてきた。

 数秒の沈黙を置いて、今までで最も強く、はっきりした口調で言う。

「待ってますから、早く帰ってきてくださいね」

「……ああ、分かったよミア。ありがとう」

 感謝の言葉が、自然と口をついて出た。

 胸の中の恐怖が急速にしおれていくのを感じる。

「不思議だ。ミアはどうして、人の考えていることが分かるんだ?」

 壮絶な経験を持つ子だ。

 その日々が、人の心を見通せるほどの深みを彼女に与えているのかもしれない。

 だがそれにしても、ここまで正確に分かってしまうとは。

 まったくお手上げと言うほか無い。

「……誰のでも分かるわけじゃありません。ロルフ様の考えてることが分かるだけです」

「……? 俺だけそんなに分かりやすいかな?」

………………

 ミアは再び、俺の頭に腕を回して抱きしめる。

 だが、さっきより妙に力が強い。

 と言うか物凄く強い。全力で絞めてきている。

 ミア? 痛いのだが。

 あと苦しい。

 しかし声が出せない。

………………

………………

 決戦前夜は、こうして更けていった。



 翌日、ロルフたちはヘンセンを進発した。

 そして霊峰ドゥ・ツェリンへ向け進軍を開始する。

 旧ストレーム領、および旧タリアン領を通り、イスフェルト領へ向かうのだ。

 バラステア砦を抜け、旧ストレーム領へ至ったのは、進発から二日後の朝だった。

 ヘンセンからバラステア砦への移動には、単騎でも丸一日かかる。

 大軍であるにもかかわらず、そこを二日弱で踏破したのは、かなりの早さであった。

 士気と統制が高いレベルにあることが分かる。

 それから彼らは、アーベルの近郊で野営の準備に入った。

 大軍であるため当然だが、街の中に寝床を得ることは出来ない。

 しかしアーベルは、彼らが戦勝によって得た街である。

 それなのに入れないというのは、やや道理に合わない話のようでもあった。

 彼らも、肩をいからせて占領地を歩きたいわけではない。

 だが身命を賭して戦った者たちが、そして今また戦いに赴く者たちが、街の灯に照らされることも無く、ただ外壁を眺めながら地面に寝ることになる。

 それを少し気の毒に思ったリーゼは、幹部たちと相談し、街へ入ることを兵たちに許した。ロルフも迷わず同意した。

 アーベルで宿を取ることは不可としても、野営までの数時間、街で過ごすことを許可したのだ。

 それを受け、多くの者が喜びアーベルへ入っていく。

 男性兵の中には、命がけの戦いを前に、ぬくもりを求めてしょうかんへ向かう者も居た。

 そしてそれ以外の者のうち、多くは酒場へ足を向けた。

 ただ、魔族と人間が共に暮らすこの街にあっても、融和への課題は山積している。

 酒場に関しては、魔族が集まる店、人間が集まる店が半ば固定されているのだ。

 よって魔族兵たちは余計な衝突を避けるため、魔族の多い酒場へ入っていった。

 今回の戦いが終われば、そんな光景も少しは変わるかもしれない。

 街を眺めながら、幾人かの者たちはそう思ったという。

 この戦いの意味を知る者の中には、人間の多い酒場をえて訪れる者も居たようだった。

 いずれにせよ、その夜は皆がつかの酔いを得た。



「お兄さん、お兄さん」

「いらねえ」

 一人、夜道を歩くシグ。

 そこへしょうが声をかけるも、彼はすげなく断る。

 シグは、酒場で時間を潰そうとアーベルに来ているだけであり、そういう気分ではなかったのだ。

「ちょっと。〝いらねえ〟はないでしょ」

「うるせえな。とっととせろ」

「はぁ? 何よそれ?」

 苛立つ女。

 下に見られがちな立ちんぼのがいしょうだからこそ、プライドは捨てないと決めている。そういう類の女であるようだった。

 だが、シグにとっては知ったことではない。

「うるせえっつってんだよ」

「あんた! 娼婦だからってそういう態度……!」

「あ?」

 女は激昂するが、シグは気にしたふうも無く視線を返す。

 その視線に、女は後ずさった。

「ちょ、ちょっと……」

 一睨みしただけである。

 だが肉食獣のような眼光に、女はひるんでいた。

…………

「な、なんなのよ!」

 おびえに声を上ずらせながら、じりじりと後ろに下がる女。

 それから、どうにかして台詞ぜりふを絞り出す。

「ドロールハウンドみたいな目をして! もういいわよ!」

 そう言うと、女は背を向けて足早に歩き去った。

 途中、何度か振り返ってシグを見る。

 嚙みつかれるとでも思ったのかもしれない。

「ふん」

 鼻を一つ鳴らすと、シグは目についた酒場へ入っていった。

 比較的大きく、にぎやかな大衆酒場である。

 ずかずかと奥へ行き、いちばん隅、一人がけのテーブルへ。

 そしてエールを注文した。

「はい、おまちどう」

 運ばれてくるエールを喉に流し込む。

 すぐさま飲み干すと、次を注文。

 そしてまた、ただ無言でエールを口に運ぶ。

 彼はしばしば酒を欲する。

 しかし実のところ、酒の味はさして好きではない。

 そして心地よく酔えるたちでもない。

 それでも酒が必要だった。

 酔いはシグに、追想をもたらす。

 酒を飲むとシグは、昔日から今日に至る日々を鮮明に思い出すのだ。

 ゆえにシグは、酒を欲した。

…………

 シグの座るテーブルだけが静かだった。

 店内では弦楽器がかき鳴らされ、人々が歌い踊っている。

 明るく楽し気な雰囲気の中、それに目もくれず、シグはエールだけを飲み続けていた。

 何杯もあおる。

 彼が飲むのは、決まってブラウン・エールだった。

 いま目の前に置かれているのは、五杯目のそれだ。

 大きな木のカップの中で、濁りの強い茶色が揺れている。

 それを一息に飲み干すシグ。

 ほどなく次の一杯が運ばれてくる。

 卓上に置かれた次の水面。それをシグはじっと見つめた。

 八杯目か、十杯目か。

 酒に強いシグがようやく酔いを得たころ、水面が何かを語りかけてくる。

 ゆらり、ゆらりと。

 水面はシグに記憶の扉を開かせるのだ。

 その揺れに合わせるように、ぽろり、ぽろりと記憶がまろび出る。

 シグの求めていた追想が始まる。

 彼の記憶は、甘美なものではない。

 痛みと屈辱、そして怒りに満ちている。

 シグはそれを、一つ一つ思い出していく。

…………

 親の顔を知らず、路上孤児ストリートチルドレンとして貧民窟スラムで育った。

 廃材でこしらえた住処すみかで、同じ境遇の者たちと肩を寄せ合って雨露をしのいだ。

 そして食べ物を盗み、泥水をすすって生きてきたのだ。

 その後生き延び、長じたあとも、目に入る世界はシグにとって唾棄すべきものであった。

 価値など無いのに尊大な者。

 富める者にへつらう者。

 いずれも腹が立って仕方なかった。

 傭兵団の一員として各地を転戦した時など、どこへ行っても何かに怒っていた。

 このアーベルでは、子供へ剣を突き立てる者に出くわした。

 到底許し得ぬことであった。

 魔族なら子供であっても殺して良いと、そういうことらしい。

 シグは、それを理解する気には全くなれなかった。

 剣を突き立てた男は辺境伯、すなわちこの地の領主であったが、そんなことは関係が無かった。

 怒りのままに斬り伏せてやったのだ。

 だが、辺境伯が特別愚かだったわけではない。

 どちらを向いてもそんな者ばかり。

 シグが見てきた世界は、シグの記憶は、ひたすら怒りに満ちている。

…………

 しかし忘れたくはない。

 より正確に言うと、忘れてはならないと理解していた。

 なぜ忘れてはならないのかと問われれば、きっとシグは答えるだろう。

 知るかよ、と。五月蠅うるせえ、と。

 実際のところ、理由など知ったことではない。

 だが忘れてはならない。

 決して怒りを忘れてはならない。

 そのことをシグは理解しているのだ。

…………

 十五杯目のエールを呷るシグ。

 近づき難い雰囲気であった。

 だが、それに気づかぬほどに酔っているらしい一人の男が、シグに話しかける。

「なあ、あんた」

 中年の男であった。

 エールを手に、シグの傍に立っている。

「あ?」

「ザハルト大隊の人だろう?」

…………

 数か月前、シグが属していた傭兵団、ザハルト大隊は、この街に滞在していた。

 その際、酒場にも訪れている。

 ゆえに男は、シグの顔に見覚えがあるようだった。

「だったら何だ?」

「いやあ、大変だったな!」

 ザハルト大隊は、辺境伯の意を受け、ロルフたちヴィリ族軍と戦った。

 そして敗れたのだ。

 団のリーダー、エストバリ姉弟は共に敗死。

 残った団員は離散し、ザハルト大隊は消滅したのだった。

「お仲間は散り散りになったみたいだが、あんたはこの街に残ったのか。良いところだろう?」

「知らねえよ」

 男の物言いは無遠慮なものであったが、表情に悪意は無かった。

 ただの酔客である。

 ゆえにシグも、鼻面を殴りはしなかった。

 よほど機嫌が悪ければその限りではなかったかもしれないが。

「なぁに、気にするな。ありゃあ相手が悪かった!」

「あん? 分かるのかよ」

「だってよ、あん時の相手、あの後タリアン領まで落として、今度はイスフェルト領まで侵攻しようとしてんだぜ」

…………

「まったく、どえらいことだよなぁ」

 男は人間だが、魔族軍の侵攻をそう評した。

 何とは無しに、シグは訊いてみる。

「魔族にやられて腹は立たねえのか?」

「立つさ。そりゃあもうムカつくねえ!」

 そう言って、男は手に持ったエールを喉へ流し込む。

 そして大きく息を吐くと、赤ら顔で言った。

「しかし実際、相手が強かったわけだしよ」

「だから強い弱いがお前に分かんのかってんだよ」

「いや、分かんねえ!」

 男はげらげらと豪快に笑う。

 完全にめいていしているようだ。

 そして笑顔のまま言った。

「でも強いんじゃないのか? あんたらに勝ったんだから!」

「だったら今度の戦も勝つかもしんねえな」

「いやー! どうかなあ? な?」

 ややれつの回らない調子で、気分良く叫んでいる。

 どうとも取れる男の言葉。

 しかし、酩酊した相手にその意図をただす気にもなれなかった。

「ははは! とにかく、こうして吞めりゃいいのよ!」

「能天気なこったな。この領が落ちてるんだぜ」

「まあ、ほれ! いいんだよ! 辺境伯も戦上手ではあったがよ、良い領主ってわけでもなかったからよ!」

「ああ、そいつは俺が斬った」

「ははは! そうかそうか!」

 男は、ばしばしとシグの肩を叩く。

 酒場の冗句と捉えたようだった。

「何にせよ、強い奴と戦って負けたんだ! 恥じることはないぜ! なあ!」

「別に恥じちゃいねえよ」

 そう言って立ち上がり、飲みしろをテーブルに置く。

 そして歩き出す。

 ずいぶん飲んだが、ふらつく素振りは無かった。

「兄ちゃん、またな!」

 シグの背に向けて叫ぶ男。

 返事せぬまま、シグは酒場を後にした。



「……ふん」

 夜道を歩きながら、シグは先ほどの男を思い出す。

 彼もヨナ教徒であるはずで、霊峰の陥落を歓迎出来るわけも無い。

 この街には信仰へ傾倒し切っていない者が多いと聞くが、それでも教義は教義である。

 そして実際、彼は魔族への怒りを口にしていた。

「〝そりゃあもうムカつく〟、ね」

 だが、それはただの怒りだった。嫌悪ではなかったように思える。

 もっとも、酒によって無分別な寛容を得ていただけかもしれない。

 元より自分が言っていることがよく分かっていないだけかもしれない。

 そして恐らく、あの男は霊峰が陥落するとは思っていないだろう。

 戦いの当事者たち以外で、霊峰が落ちると信じる者はそう居ない。

 霊峰ドゥ・ツェリンは、それほどの存在なのだ。

…………

 しかしあの男は、少なくとも、強きを強いと言った。

 どこかロルフたちを認めるような口ぶりだったように思う。

 何でもない酔客の態度が、何かが変わりかけていることを示している。シグにはそう見えた。

………………

 酒がシグに与えた追想。

 世界は、どうしようも無いものだと思っていた。

 ただ痛苦を与えてくるだけ。

 ただ怒りを催させるだけ。

 だから憎んでいた。

 そして今も憎んでいる。

 この世界はロクでもないと思っている。

 だが、変わるというのなら。

 変えられるというのなら……。

「ちょ、ちょっと! やめて!」

 シグの思考を、金切り声が中断させる。

 顔を向けると、横合いの路地の奥で、男女が小競り合いをしていた。

 男は、身なりから察するにまともな職の者ではない。

 女の方は、濃い化粧と露出の多い服を身に纏っていた。

「また娼婦か」

 旧ストレーム領では、今のところ善政が敷かれている。

 経済はよく回り、治安も悪くない。

 だが、街娼を取り締まる法は無かった。

 正しくは、今の世でそれを取り締まることは出来ないのだ。無くしようのない者たちである。

 ゆえに、このアーベルにも彼女たちは居る。

 そして娼婦が居れば、それを利用しようとする者たちも居る。

 だから、娼婦と客引きの小競り合いなど、日常茶飯事であろう。

 シグにとっても、特に興味を引く光景ではなかった。

…………

 だが、女の顔に見覚えがあったのだ。

 酒場に入る前、無下にあしらったあの娼婦であった。

 そうであっても、本来ならシグにとって、どうと言うことの無い話である。

 一片の興味も示さず立ち去るのが、彼にとっての常であった。

 しかし、立ち去り際の、女の言葉が耳に残っている。


 ────ドロールハウンドみたいな目をして!


 ドロールハウンドは大型の猟犬を更に一回り大きくし、著しくどうもうにしたような魔物である。

 牙によだれを滴らせ、血走った目で得物を探す、凶悪な獣なのだ。

 さすがのシグも、そんなものにたとえられたのは初めてであった。

………………

 子供のころ、泥の中の水たまりに映る自分は、さして目つきの悪い顔をしていなかったように思う。

 いつからだろうか。凶相とも呼ぶべき顔になったのは。

 憎み、憎み続けた結果、こうなったとでもいうのだろうか。

 そんなことを思わせた女に、シグはほんの少しの興味を覚える。

「……ふん」

 路地に足を向け、奥へ入っていくシグ。

 細くて暗い路地の奥では、男と女がまだ争っていた。

「何するのよ! ふざけんなこの!」

「黙りやがれ! ばいが舐めやがって」

「その売女で商売してるドサンピンが何言ってんのよ!」

「てめえ!! その口、二度と利けなくしてやる!!

 男は激昂のまま、短刀を抜いた。

 そして女の髪をつかみ、その短刀を振り上げる。

 顔を傷つけるつもりなのだ。

 言うことを聞かなくなった娼婦は、商品として成立しない。

 その商品価値を消してしまおうというつもりである。

「ひいぃぃっ!?

 女の悲鳴。

 気位が高くとも、恐れには身が竦む。

 シグに睨まれても捨て台詞を口に出来た女だが、顔に迫る白刃には叫喚するほかない。

 娼婦は目に涙をにじませ、恐怖と絶望で顔を歪ませていた。

「おい」

 声をかけ、男に踏み留まらせる。

 振り上げた手を止めさせてから、冷静になるよう促すのだ。

 それがこういうケースにおいては、大体にして正しい行動である。

 しかしシグはそんなことを知らないし、知っていたとしてもそれを選ばない。

 だから彼は、声をかけると同時に男へ蹴りを見舞っていた。

「ぐぁっ!?

 蹴り飛ばされた男は、短い悲鳴をあげる。

 かなり体格の良い男であったが、シグの強烈な蹴りを受け、派手に転がされた。

 そして倒れ込むと、何が起きたのかを理解するのに数秒を要し、その後ようやく起き上がった。

「ぐ……てめえ! 何のつもりだ!」

 取り落とした短刀をすかさず拾い、男は構えた。

 声も表情も、ふんを極めている。

「え、あんたは……」

 女は驚きに目を丸くした。

 彼女をいちべつすると、シグは男に向き直る。

「女助けて二枚目気取りか!」

「そんなんじゃねえよ」

「その女はぬすっとだぞ!」

「知ったことか」

 いさかいの原因になど興味は無い。

 相手の事情など知ったことではない。

 だが、相手にはシグのルールを守らせる。

 すなわち、武器を振り上げる以上は、攻撃されてもしというルールである。

「調子こいてると後悔するぞ兄ちゃん!」

「はん、そうかよ」

 男は、怒鳴って威嚇することを優先しているようで、中々かかってこなかった。

 面倒に感じたシグは、正面から男に近づいていく。

 事も無げに、丸腰のままずかずかと歩いてくるシグを前にし、男は更に怒りを強めた。

「おい! 刺されてえのか!」

「いいや?」

「俺がやれねえと思ってんのか! おぅコラ!!

「ちょ、ちょっと!」

 女は泡を食って静止しようとする。

 この男は極めて気の短い性格で、これまでもにんじょう沙汰を起こしていた。

 それを知っている女は、シグが刺されると思ったのだ。

 高をくくって近づけば、本当に刺し殺されてしまうと。

「クソが! 死ねや!!

「駄目! 止めて!」

「うるせえんだよ!!

 苛立ちに叫んだのはシグであった。

 彼は右拳を男の顔面へたたき込む。

 男が突き込んだ短刀は、シグに届かなかった。

「ごぶ!?

 男は鼻から血をこぼしながら、仰向けに倒れる。

 だがこんとうは免れたようで、シグが近づくと、よろよろと起き上がった。

 そして、落とした短刀を拾い上げ、再び構え直す。

「……殺す! ぜってえ殺したら!!

「やってみろや!!

 男より数段ドスの利いた声で凄むと、シグはずいと男に接近し、その腕をひねり上げる。

 そして男が短刀を取り落とすや、肩口へ肘を叩き込むのだった。

「ぐあぁっ!?

 たび、倒れる男。

 シグは、その男の腹へ、爪先を蹴り込んだ。

「ごぶっ!」

 もう一度。更にもう一度。

 呼吸が出来なくなるほどに強烈な蹴りを、続けざまに腹へ見舞った。

 やがて男は、地に伏したまま背を丸め、震え出してしまった。

「あ……あぐ……」

「寝転がってんじゃねえぞてめ!!

 理不尽な怒りに叫ぶシグであった。



 声にならぬ悲鳴をあげながら男が逃げ去ったのち。

 路地にはシグと女の姿があった。

「あ、あのさ……」

 女が口を開く。

 だが、そのまま二の句を継ぐことが出来ず、沈黙した。

 シグは、少しの興味と成り行きで男を蹴飛ばしたが、ただそれだけだ。

 ゆえに、そのまま立ち去ろうとした。

「え、ちょっと!」

「あん?」

 慌てた様子で女が声をかける。

 シグが振り向くと、女は言った。

「あの、ありがとう」

「ああ」

「……助かった。あいつ、顔切ろうとしてたし。ヤバかったから」

 女は、刃を思い出して震えた。

 商売上、荒事には多少なりとも慣れている。

 暴力を目にすることも少なくはない。

 だからシグの苛烈な暴力にも、さして忌避感は抱かなかった。

 だが、顔に迫る刃は怖い。そればかりは無理からぬことなのだ。

 一応は女性に対する経験値を持つシグのこと。そこは理解するのだった。

「……まあ、その顔に傷が入っちゃもったいねえからな。俺のこれと違って」

 シグは自身の頰を指し示す。

 そこには大きな傷があった。

 ロルフとの戦いでつけられた傷である。

 ふふ、と笑って女は言った。

「あのね。あたし、上前をハネようとしちゃったの。お金なくてさ」

「そうか」

 女は相場を大きく超える上納金を取られていた。

 それで貧窮し、軽挙に及んだのだった。

 彼女はそこまでは語らなかったが、シグには想像がついた。

 よくある話なのだ。

「あの……やっぱり、ヤる? お金はいいよ」

 貧窮しているにもかかわらず、タダでと女は申し出た。

 だが、それでもシグは素っ気ない。

「いや、やめとく」

「そう……」

「あれだ、戻らなきゃなんねえからよ」

「戻るって?」

「街の外に集まってる奴らんとこ」

「ああ。あんた、兵隊さんなんだ」

 本当のところは、単に抱く気が起きなかっただけである。

 戻らなければならないと言ったが、定められた自由時間を律儀に守るシグではない。

 だが、それを理由にした。

 シグが持つ、なけなしの礼節を、最大限発揮した結果であった。

「大変だね、戦いに行くんでしょ」

「お前も大変な商売だろ」

「と言っても、この仕事はもう無理だけどね……」

 さっきの男は、末端の客引きに過ぎない。

 大抵の売春は組織化されており、この女もその一員なのだ。

 そして組織のカネに手をつけようとした女が許されるはずも無い。

 彼女がこの街で商売を続けることは不可能だろう。

「はは……どうにもならないね」

「何が?」

「いやほら、親も学も無い女が、どうにかしたくていてみたけどさ」

…………

「ま、こんなもん」

 女の瞳に浮かぶ諦念。

 彼女の心境は、シグにも分かった。

 あの貧民窟スラムの光景。

 苛立たしいだけの者たち。

 下らなくて、どこまでも変わり映えのしない世界。

「じゃあ街を出ろよ」

「出ろったって、ほかに行くところなんて……」

「バラステア砦は人手不足だって話だ。飯炊きでも掃除婦でもやってみりゃいいだろ。いっそヘンセンでもいいしよ」

 物流の中継地点となっているバラステア砦は、輸送に携わる者たちで連日ごった返している。

 厳しい肉体労働になるが、職はあるようだった。

 また、経済圏が広がっている現在、シグの言うとおりヘンセンに職を求めることも不可能ではない。

 かなり思い切った考えではあるが。

「へ、ヘンセン? 魔族の町でしょ? バラステア砦だって軍事施設なんだし……」

「そうだな。まあ思うようにしろ」

 突き放すように言うと、シグは女に背を向けて歩き出す。

 特に挨拶も無く去ろうとする彼だった。

 その背へ女は問いかける。

「そ、そんなこと出来ると思う?」

「知らねえよ。やってみなきゃ分かんねえだろ」

 少なくとも、受け入れたくもない世界を甘んじて受け入れてはならない。

 それがシグの思いであった。

「あんたには出来るの?」

「さあな。少なくとも俺は、生き汚くはあるな」

 立ち止まり、最後に一度だけ振り返る。

「なんせドロールハウンドだからよ」

「ごめんって……」

 縮こまる女。

 それを見て、少しだけ、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべると、シグは今度こそ立ち去っていく。

 女の選択が、意味のあるものになれば良いと、願ってやらなくもない彼だった。



 霊峰ドゥ・ツェリン。

 次の戦いの場。

 ロルフたち魔族軍が間もなく攻め入ってくる地である。

 山肌には岩が多く、木々は少ない。荒涼とした灰色の山である。

 そこに濃い霧が立ち込める光景は神秘的で、ここが神の御座であることを人々に信じさせる。

 礼拝の時期には、神の息吹に触れたいと願う多くの信徒たちが訪れるのだ。霧に覆われ、谷もあるが、標高は低く、勾配ゆるやかな山であるため、正しい道を通れば危険は少ない。

 信徒たちがその道の先に目指すのは、山頂に建つ大神殿である。

 その大神殿で、いま会合が持たれていた。

 ある者は神事と対極にあると捉え、またある者はそれこそ神事と言うであろう会合。

 軍議である。

「第一騎士団、第二騎士団、共に到着しております」

 その報告を受けおうように頷くのは、この地の領主であり、またヨナ教の司教でもある男。

 バルブロ・イスフェルト侯爵である。

「済生軍の状況はどうか」

「は。編制は予定どおり完了しました。全軍投入可能です」

 同じ動作で頷くイスフェルト侯爵。

 戦いが始まろうとしているこの状況にあっても、態度に乱れはない。

 そのさまに、部下たちは安堵を覚える。

 攻め入る敵は大軍で、三方から霊峰を落としに向かってきている。

 その敵は魔族軍ばかりではない。

 事前に予想されていたとおり、王国の反体制派も挙兵したのだ。

 迫る大兵力。イスフェルト領が始まって以来、大神殿が建てられて以来の異常事態である。

 にもかかわらず、イスフェルト侯爵に焦りは見られない。

 事態を軽く見ているのではなく、十分な備えをしたうえで、この状況を迎えているからだ。

 その態度は部下たちにもでんする。

 大きな戦いを前にしても、狼狽える者はこの場に居なかった。

 彼らの済生軍は精強で、兵数も多い。

 全軍を糾合すれば、騎士団一つ分より多いほどだ。

 そして今回は、まさに全軍の糾合に成功している。

 そこへ王国の最高戦力。

 第一騎士団および第二騎士団である。

 王女が約定したとおり、彼らはすでに到着している。

 更に霊峰は要害である。

 低い山だが、越えられぬ谷が幾つもあり、山頂へ至るルートは制限されている。

 地形が、攻め入る側に大きな不利を強いるのだ。

 それらを思えば、この場に居る幹部たちに恐れは無い。

 神の名のもと、愚か者たちを断罪するのみである。

「信徒の立ち入りは禁止していような」

「は。元より礼拝の時期には遠いこともあり、もうこの地に一般信徒は居りません」

 侯爵の問いに、幹部の一人がそう答えた。

 今、霊峰に人の姿は無い。

 これから戦う者を除いて。

 一般信徒を遠ざけることは、王女セラフィーナから、固く申し渡されていたことだった。

 侯爵としても否やは無い。

 今回の敵の中には、人間も含まれている。

 魔族だけではなく、人間も斬り伏せることになるのだ。

 信徒たちに見せたい光景ではなかった。

「足止めの方はどうか」

 侯爵が問うたのは、敵が霊峰に至る前にこちらから接敵し、進軍を止めるという策についてだ。

 要害である霊峰に引き込んで戦うのは良いとして、正直に三正面作戦を許す必要は無い。

 三方いずれかの軍を足止めし、敵が霊峰に攻め入るタイミングをズラしてやるだけでも、良い状況を作れるはずだった。

「反体制派なら足止めも可能かと思われたのですが、敵の進軍も巧みで。難しいようです」

 幹部が、やや申し訳なさそうに答える。

 狙っていたのは、霊峰の外での会戦ではなく、工作で敵の進軍速度を抑えることだ。

 最も兵数の少ない、東から来ている反体制派に対してならそれも叶うかと思われたが、そうもいかないようである。

 だが、侯爵に失望した様子は無い。

 概ね予想どおりだったのだ。

「敵もそのあたりは予想して進軍計画を立てている。警戒も十分だろう。やむを得ん」

 済生軍の最高司令官であるイスフェルト侯爵は、軍務においても優れた知見を持っている。

 情報の重要性を正しく理解しており、敵に関するデータも詳細に集めてあった。

 したがって反体制派のリーダー、デニスが頭の回る者であることも心得ており、足止めが難しいことも織り込み済みなのだ。

「だが、この報告によると反体制派の兵数は想定より少ないな。兵力を秘匿しつつ進軍しているのかもしれん。気をつけろ」

「はっ。魔族どもの兵数は想定どおりですが、やはり大兵力です」

「ああ、油断出来ん。だが警戒すれども萎縮はせぬように。御山におけるこちらの有利は変わらない。そのうえ神器もある。必要なら禁術の使用も辞さぬ」

 女神ヨナによってもたらされる、様々な奇跡。

 魔力を持たぬはずの人間が魔法を行使することもその一つ。

 そしてこの大神殿には、ほかにも神のわざが存在するのだ。

 それを向けられた異教徒に、生き延びる術は無い。

 教団に言わせれば、なんびとも、神の威光から逃れることは出来ないのだ。

「禁術まで? そんなもん無くても勝てるでしょう」

 突如、場にそぐわぬ、くだけた口調で声をあげたのはしょうひげを生やした黒髪の男だった。

 周囲に居た幹部のうち何人かは眉をひそめ、何人かは「またか」と言いたげに呆れた顔を見せる。

 だが侯爵は表情を変えない。

「スヴェン。おいそれとは使わぬ。禁じられているから禁術なのだ」

「知ってますよ。魔族のいけにえが百人ほども必要というアレでしょう」

 スヴェンの言葉には、やや嫌悪感が滲んでいるようでもあった。

 けいけいしんすがることを良しとしないようだ。

「ではスヴェンよ。神器の方はどうする? お前が使うか?」

 イスフェルト侯爵が問う。

 スヴェンは、剣技については済生軍でも随一である。

 神器と呼ばれる強力な剣を持つに相応しいのは彼なのだ。

 その点は、彼の態度を快く思わない者も含め、皆が認めるところであった。

「んー、考えときます」

 スヴェンがすげなく答えると、その態度を気にしたふうも無く、次にイスフェルト侯爵は別の者へ声をかけた。

 侯爵の視線の先に居たのは済生軍最強と称される魔導の天才。

 スヴェン以上の勇名を持つ者である。

「アルフレッド。戦う準備は出来ているか?」

「ええ、いつでも」

 端正な顔立ちをしている。

 耳まで隠れる美しい金髪が特徴的な男であった。

 侯爵の息子、アルフレッド・イスフェルトだ。

「御山を荒らす者たちへ、罪を教えてやりましょう。女神ヨナの名のもとに」

 れいな眼差しに、冷たい声音。

 大きな戦いを前に、気負いも高揚も感じさせず、彼は答えた。



 神殿内にて幹部たちの軍議が行われているころ。

 その神殿の脇へしつらえられた花壇の前にしゃがみ込む、大きな背中があった。

 背も高く、肩幅も広い。

 その大きさからは分かりづらいが、それは若い女の背中だった。

 茶色い髪は短くウェーブがかかったクセ毛で、面立ちはやや牧歌的。歳は二十歳はたち前後。

 その顔に汗を浮かべつつ、しかし口元に僅かな笑みを湛え、せっせと花壇の世話をしていた。

 花がとても好きなことが見て取れる。

「おさんら、綺麗な花を咲かすだぞ」

 穏やかな声は、その声の主の心根もまた穏やかであることを表していた。

 それに合わせるように名も淑やかで、女はマレーナと言った。

 だが、彼女が名で呼ばれることは少ない。

「おいデブ!」

「あぐ!?

 背中に強烈な衝撃。

 蹴られたのだ。

 そのまま彼女は、花壇に倒れ込んでしまった。

 花に向けていた優しい笑顔が、たちまち痛みに歪む。

「二、三日のうちに敵が攻めてくるってのに、土いじりなんかしてる場合かよ! 防具の手入れは全員分終わったのか!?

「お、終わってるだよ。ちゃんと倉庫に……あ、これ!」

「あん? なんだそれ」

「お、お守りだよ! かしの木炭で作ったやつ! みんなの分もあるだ! おらの村ではよく……」

「いるかよ! そんなもんで勝てるわけねえだろ!」

「うぐっ!」

 再度、蹴りつけられるマレーナ。

 それから男は吐き捨てるように言って去って行った。

「暇なら剣でもいでろ! 言われねえでも動け!」

 だが、勝手に剣に触れば、それを理由に暴力を振るわれていたに違いない。

 男は嫌悪の対象へ、向けるべき嫌悪を向けただけなのだ。

「う……」

 のろのろと起き上がるマレーナ。

 マレーナが倒れ伏したことで、花壇が荒れてしまっている。

「あ……ごめんな」

 そう言って再びしゃがみ込み、荒れた株を植え直す。

 きっと綺麗な花を咲かせるはずなのだ。

 その美しい花々を頭に思い浮かべ、笑顔を浮かべてせっせと花壇を整えるマレーナ。

 だが笑顔は悲痛だった。

「ごめんな……ごめんな……」

 一生懸命に手を動かしながら、マレーナは花壇に謝り続けた。

 それは、酷薄な運命を押しつける何かに許しを乞うているようでもあった。

 マレーナは幸福ではなかった。

 貧しい農村の生まれで、八歳の折、両親を病に奪われる。

 だが、その地を教区としていたヨナ教の助祭に引き取られ、以後は教会で暮らすこととなった。

 助祭の善行は必ずしも善意によるものではなかった。

 名望を得て地位を高めるための児童養護である。

 だがそれは珍しい話ではない。

 マレーナは、食い扶持のため、歳にそぐわぬ労働を強いられたが、日々を生きることは出来た。

 親も頼るあても無い彼女にとって、寝床と食べ物を与えられるだけで十分に有り難かった。

 だが、十四歳のある日、マレーナの人生は更に不幸の度合いを深める。

 彼女に魔力があることが分かったのだ。

 しんの秘奥を受ける前にである。

 人間は魔力を持たない。

 秘奥を受け、初めて授けられるのだ。

 だがマレーナは、それ以前から魔力を持っている。

 あり得ない話だ。

 これは、優れた才能とたたえられる類のものではなかった。

 女神ヨナと繫がることで初めて与えられるはずの魔力を、何故か持ってしまっているという点は、教団のシステムの否定なのだ。

 加えて、彼女の魔力に説明をつける、ある仮定が立ってしまう。

 マレーナに魔族の血が混ざっているという仮定である。

 魔族は生まれた時から魔力を持つ。

 その血が流れているなら、彼女の魔力にも説明がつく。

 数代前のどこかに、魔族が居るのかもしれなかった。

 だが、この仮定を許容することは、教団にとってあり得ない。

 ヨナ教では、魔族を滅ぼすべき劣悪種と捉えており、人間と同等とは見ていない。

 人間と魔族の間に子が生まれることは無いとしているのだ。

 とは言え、これは教義における建て前であり、現実は違う。

 殆どの人間は魔族を性愛の対象としないが、魔族の奴隷を慰み者にする〝好事家〟が、意に反して子をしてしまうケースは稀にあるのだ。

 しかし出産されることはまず無い。

 王国も教団も、それを許しはしない。

 そのような子を生かし、育てたことが知れれば、ただでは済まないだろう。

 混血を存在し得ぬものと位置づける以上、それを育てることに対する罰則も存在しないが、しかし見逃されることは無いのである。

 それは、奴隷をはらませてしまった者たちにとっても、分かり切っていることだった。

 そもそも、彼らにも子を祝福する思いなど無い。

 よって、人間と魔族の間に出来た子は、一切の記録に残ること無く、堕胎されるのだ。

 だが、中には例外も存在し得る。

 網目を抜けたケースはあるだろう。

 そんな、存在し得ぬ者の血がどこかで混ざった。

 そう推測されるのがマレーナなのだ。

 あくまで推測であることと、また、彼女を引き取った助祭がすでに遠地に赴任しており、彼女に関して何らかの責を負う者がすでに居なかったことから、マレーナは謀殺の憂き目に遭わずに済んだ。

 だがそれもいつまで続くか。

 とがめられることが無いのは、マレーナが路傍の石だからである。

 教団や王国で強い権限を持つ者に彼女のことが知れれば、そのような危うい存在は摘み取っておくべし、という判断が為されることだろう。

 それはそう先のことではない。

 そして、その日が来るまでマレーナと共にあるのは、ただ差別と迫害のみである。

 魔族の血が流れるとうわさされる彼女に、教団内でまともな待遇が与えられるはずも無かった。

 すでに魔力を持つ以上、しんの秘奥は与えられない。

 労働は苛烈になるばかりで、暴力も日常茶飯事。そして寝食は粗末だった。

 にもかかわらず、体質ゆえか体は大きく育っていた。

 そしてそれもまた、彼女が人間と異なる存在であることの根拠であるように捉えられ、迫害はより強くなったのだ。

 数年前に済生軍へ徴発され、へきで雑用に追われる日々を過ごしたが、ここでも迫害を受けるのみ。

 今回の戦いへ招集され、この大神殿に来たのは数日前だが、やはり差別は変わらない。

 共に招集されてきた旧知の者たちから、暴力を受け続けていた。

 だがマレーナにとって、暴力は大きな問題ではなかった。

 彼女をさいなむのは、もっと別のものだったのだ。

 ぼろり、と。

 涙が落ちて、花壇に染みを作る。

「う……」

 えつが漏れた。

 努めて作っていた笑顔が、ぐしゃりと崩れる。

「うっ……ぐ……」

 彼女から十数メートル離れた場所を、何人かの兵が談笑しながら歩いていく。涙の向こうに滲むばかりだが、マレーナにとってまぶしい光景だった。

 これまで何度も、楽し気に語らう者たちの輪へ、マレーナは近づいていった。

 笑顔を浮かべ、自分も輪に入れてもらえると思って。

 だが彼女を持っていたのはぞうごんだった。

 そして暴力と共に追い返された。

 最初はマレーナにも、何事なのか分からなかった。

 皆の虫の居所が悪かったのかと思い、また何度か笑顔と共に歩み寄るが、そのたびたたされた。

 その度に泣き、そしてやがて理解する。

 自分は嫌われている。

 八歳まで居た農村には、優しい父母こそ居たが、同じ年ごろの友達は居なかった。

 教会に引き取られてからは、働くだけの毎日で、誰とも話すことが無かった。

 そして軍に徴発されてからも、この状況である。

 ぼろりぼろりと、大粒の涙が零れていく。

 嗚咽と共に、大きな体が震える。

「さ……さみしいよう。お、おらぁ……淋しいよう」

 マレーナは一人だった。

 だが不幸なことに、彼女は孤独が嫌いだった。

 父母を失ってより孤独しか知らぬ彼女が孤独を嫌うのは、悲劇と言うほか無い。

「淋しい、淋しいよう…………。おっ父、おっ母。会いてえよう…………

 友達が欲しかった。

 ただそれだけなのだ。

 だが酷薄な世界は、それだけの願いすら叶えてはくれなかった。

 少なくとも、今のところは。



 旧タリアン領の中心部にある、ローランド商会本部。

 その一室に、彼らは居た。

 商会の会長トーリと、その娘アイナ。そしてアイナの友人カロラである。

「……ロルフさんたち、今はどのあたりでしょうか」

「イスフェルト領に入ったころだろうね」

 落ち着かない様子のカロラに、トーリが答える。

 ロルフたちは敵地に着いたはずだ。

 そして霊峰に至れば開戦である。

「アイナ。落ち着きなさい」

 カロラ同様、アイナにも落ち着きが無い。

 立ち上がって、無為にうろうろする彼女をトーリがたしなめる。

「は、はい」

「気持ちは分かるが、焦っても何にもならないからね」

「そ、そうですね。恥ずかしいです……。戦場に立つのは私たちじゃないのに」

 彼女が羞恥を感じるのは、戦う者たちへの敬意があるからこそだ。

 それを分かっているためトーリは黙したが、ロルフなら「貴女あなたがたも共に戦っているのだ」と言ってくれるだろう。

 しかも本心で。

 トーリは商人である以上、打算を忘れないし、他者の打算にも敏感である。

 そんな彼からしてみれば、ロルフはまったくな若者だった。

 ロルフが望む世界を、トーリも見てみたいと思っている。

 そのために様々な助力を行ってきたし、これからもそのつもりだ。

 だからこそ、この戦いでロルフたちに勝ってもらわなければならない。

 旧王国領と魔族領に成立させた経済圏は上手くいきつつあるが、まだ課題は多い。

 特に両種族間の感情面でのしこりは、やはり難しい問題だ。

 そんな中、大きな勝利は人心の安定に繫がるはずだ。

 人間と魔族が共同戦線を張り、王国の強大な戦力を破ったとなれば、その影響は計り知れない。

 両者の距離は、きっと大きく縮まるだろう。

 もっとも、そういった点を抜きにしても、今度の戦いは勝たなければならない。

 なにせ、負ければ道を大幅に後退することになる。

 この旧タリアン領の維持も難しくなるだろうし、結果再び王国領に組み入れられれば、商会はどうなることか。

 それでも、トーリは表情に焦燥を見せない。

 そういった感情を顔に出さないのが一流の商人である。

「フリーダも大丈夫でしょうか」

 アイナが言った。

 友人であり、トーリとも懇意にしている傭兵フリーダは、今回、反体制派との橋渡しとして活躍し、そのまま彼らと共に戦闘へ参加しているのだ。

「大丈夫よ。彼女は強いからね」

 カロラが元気づけるように言った。

 娘とその友人───トーリから見ればカロラも娘同然だが───が励まし合う光景を、トーリはとても好んだ。

 自然と浮かんだ笑顔のまま、彼は伝える。

「そうだな。それに、いま彼女と共にあるデニスは信用出来る男だ。私とは旧知でね。物事がよく見えている。頼りになるよ」

 彼の言葉に、娘たちは頷いた。

 戦場に向かっている旧友たち。盟友たち。

 北、南、東の三方から霊峰を目指している。

 彼らはきっと勝ってくれる。

 帰ってきてくれる。

 三人は胸の中でそれを思い、不安を取り払う。

 そして願った。

 皆さん、ご武運を、と。



 霊峰ドゥ・ツェリン山頂、大神殿近く、第一騎士団野営地。

 エステル・ティセリウスはピンクブロンドを風になびかせ、腕を組んだまま遠くを眺めていた。

 その背後から、男が一人近づいてくる。

「お嬢様。敵はイスフェルト領に入ったとのこと。開戦予想日に変更はありません」

「分かった」

 男は副団長のフランシス・ベルマンだった。

 五十代後半。オールバックの白髪にしらひげを持った細身の男性。まるで貴族家の家令を思わせる風体である。

 実際、ベルマンは家令としてティセリウス伯爵家に務めていた。

 約二十年前、当主である伯爵が、騎士を志す娘エステルのために、高名な騎士であったベルマンを家に引き入れたのだ。

 伯爵が、彼に剣の指南役ではなく家令の職を与えたのは、常にちゅうにあってエステルを指導させるためであり、また、キャリアの絶頂期にあった騎士を引き抜いた以上、可能な限りの厚遇が必要で、すべての使用人に勝る権限と高給を与えるためであった。

 よって、実際に家令の職務が期待されたわけでは無いが、ベルマンは才ある男で、家令としての仕事も難なく遂行した。

 本業である剣と軍略の指導も優れたもので、もともと非凡極まる少女であったエステルはたちまち成長していった。

 そしてエステルが騎士団に入団したのちは、ベルマンも団に復帰し、以降も彼女を支えている。

「それとお嬢様。そちらは西です。意中の人物が来るのは北ですぞ」

「うるさい」

 ベルマンは家令であった時のりで、公的でない場ではティセリウスを〝お嬢様〟と呼ぶのだ。

 彼は上官たる彼女に対しても遠慮の無い物言いをする。

 この二人の浅からぬ歴史が見て取れるというものであった。

「と言うか西からは誰も来ません。いったい何を見据えておられるのですか?」

「うるさいと言っている」

 やや語気を強めて振り返るティセリウス。

 その表情を見たベルマンは彼女の心情を理解した。

 そして大仰に嘆息する。

「未だ迷いがお有りではないですか。ヴァレニウス団長にあのような態度までとっておいて」

………………

 叱られた子供のように、バツの悪そうな表情を見せるティセリウス。

 反論し得ぬものがあるようだ。

「人の恋心をどうこう言える立場でもないでしょうに。お嬢様こそ、く身を固めておらねばならぬのですぞ」

「うるさいぞ。黙れ」

「だいたい王国の女子の平均結婚年齢を、ご自分が幾つ踏み越えているのか分かっておいでですか? 社交の場に出るでもなく、休日のたびに部屋で一人酔い潰れる始末。私の故郷では、そういう女性を乾物女と」

「どうしてそう辛辣なんだ! いいから黙れ!」

 怒鳴り声をあげるティセリウス。

 気のせいか、やや涙目になっているようにも見える。

 ベルマンは、やれやれといった風情で首を振り訊いた。

「それで、イスフェルト侯爵は何と仰せでしたか? 我が団の役割は?」

「山頂付近で待機」

「ほう……」

 ベルマンは、やや驚きを持ってその言葉を迎えた。

 敵は三方から攻めてくる。

 ヴィリ・ゴルカ連合とレゥ族、そして反体制派だ。

 対して王国・教団サイドは、第一騎士団と第二騎士団、そして済生軍。こちらも三勢力である。

 よって、単純にそれぞれが三方を守る戦術が、まず考えられる。

 だが、この戦いの最高司令官、バルブロ・イスフェルト侯爵はそうしなかった。

 第一騎士団を予備戦力として後方待機に回したのだ。

 これは騎士団への疑心あってのことではないだろう。

 戦術上、理にかなった判断なのだ。

「イスフェルト侯爵は、世間の評判どおり有能な男であるようですな」

「ああ」

 戦力の逐次投入を避けるという、教練書に従うばかりの用兵を侯爵が見せたなら、それはティセリウスの冷笑を買ったことだろう。

 だが彼は地形を理解している。

 この地を治める者ゆえ当然ではあるだろうが、それを差し引いても良い判断と言えた。

 攻める三方は、谷によって戦場を隔てられ、限定的にしか行き来できない。

 基本的に山頂を目指すのみだ。

 それに彼らの連合は消極的なものと考えられる。魔族と反体制派は別々に動くというのが大方の予想だった。

 これらの条件から、三方が有機的に繫がることは、おそらく無い。

 だが防衛側は違う。

 山頂側からなら、いずれの方面にも自由に兵を投入出来る。

 兵力の流動的運用が可能なのだ。

 このアドバンテージは大きい。活かさなければならない。

 それに攻撃側が三方のいずれかを突破して山頂に至ったら、即座に大神殿を制圧出来てしまううえ、そこから他方面へ向かい防衛側の後背を突ける。

 よって、初期段階では山頂に予備戦力を置き、戦況に応じてその兵を動かすという策が正解なのだ。

 イスフェルト侯爵はそれを選択した。

「話していて分かったが、そこそこ頭の良い貴族だ。最近では珍しい」

 危険な物言い。

 それをとがめるでもなく、ベルマンは言った。

「まあ、やがて出番は来ます。ゆっくり待つとしましょう」

 その言葉に頷くティセリウス。

 そして視線を北へ向けるのだった。



 開戦予定日を翌日に控えた夜。

 霊峰ドゥ・ツェリンから南方へ少し離れた地点に、魔族軍の姿があった。

 ロルフたちと反対側、南から霊峰へ攻め入ろうとしている者たち。

 レゥ族軍である。

 この夜の野営を経て、早朝から麓へ移動し、そして攻め込むのだ。

 決戦を前にした最後の野営である。

 装備と作戦のチェックを終えた兵たちは、毛布を巻いた体を横たえていた。

…………

 そんな中、夜の霊峰をただ見上げる者が居た。

 ぼさぼさの髪、線の細い体。ややえない学者のようにも見える彼は、しかしこの軍で最強の戦力であった。

 英雄と呼ばれる男、ヴァルターである。

 彼は草地に座り、ただ山を見ている。

 あたりはすでに夜闇へ沈んでいたが、それでも霊峰は、遠大な姿を見せていた。

 待ち構える王国軍のかがりが、山の姿を浮かび上がらせている。

 更に、りょうせんがじわりと白く、闇の中に滲んでいた。

 木々の少ない荒涼とした霊峰は、岩ばかりの山肌で月光を照り返しているのだ。

 そして霊峰ドゥ・ツェリンは高さこそ無いが、裾野が非常に広い。

 ヴァルターの視界を端から端まで占拠し、圧倒するかのような存在感を示している。

 神の御座と称されるのも理解出来ると、ヴァルターは素直に感じた。

「荘厳だなあ」

「何が?」

 独り言を問い返され、ヴァルターはびくりと肩を震わせた。

 振り返った先に居たのはエリーカである。

 彼女はヴァルターを半目でめつけていた。

「英雄が背後への接近を簡単に許してちゃ駄目よ」

「そんなこと言われても……」

 エリーカは一流の剣士である。

 その気配を察知する自信などヴァルターには無かった。

 そもそも彼は、元より戦いを志した者ではない。

 ただ魔導の探求を好み、修めてきただけなのだ。

 しかし、そういった事情を知りながらもエリーカは叱りつける。

「そんなこと言われても、じゃないでしょ。しゃんとしなさいよ」

「し、してるよ」

「野営だって軍事行動なのよ? ましてここは敵地だっていうのに、そんなにぼーっとして」

「うるさいなあ……もう」

「……は?」

 しまった、とヴァルターは思った。

 エリーカの声音は変わっていなかったが、強くイラついている。

 ヴァルターにはそれが分かるのだ。

 ゆえに彼は、慌てて取り繕うのだった。

「い、いや。ほら。ぼーっとしてたわけじゃなくて、霊峰を見てたんだよ。明日の戦場をさ」

「それで出てきた感想が〝荘厳〟なの? 戦場を見ての所見がそれ?」

「ち、ちくちくと……」

「は?」

「だ、だってほら。荘厳だろ、実際」

 そう言って、彼は霊峰へ目を向ける。

 エリーカもその視線を追った。

 彼と彼女の見上げる先、夜の闇に巨山はそびえている。

 雄大な佇まいで、そこに待ち受けている。

 月明かりの中、圧倒的な存在感を放っていた。

…………

…………

 無言で山を見上げる二人。

 しばしの沈黙を経て、エリーカはヴァルターの隣に座る。

 それから口を開いた。

「そうね。敵の本拠であっても美しいものは美しいわ」

「神と結びつけられるのも分かるよ」

 太古より、山は信仰と共にある。

 その威容が、人に神の存在を感じさせるのだ。

 霊峰ドゥ・ツェリンの姿は、充分に神威を醸すものだった。

「かと言って、吞まれないでよ」

「吞まれないよ」

 即答するヴァルター。

 雄大な自然に見入ってはいても、気圧されはしない。

 その雄大な山はつまり要害であり、明日は多くの命を吸い上げることになるだろう。

 だが、ここで二の足を踏んではいられないのだ。

「絶対に勝たなきゃならないんだからね」

「自覚があるなら良いわ」

 エリーカの言う自覚とは、英雄の自覚である。

 ヴァルターの才能は、彼に英雄という役割を与えた。

 その役割にある者は、戦いの中で迷いを見せてはならない。

 ヴァルターには、それがきちんと分かっていた。

 この、いかにも気弱な青年は、しかし自身の責務を理解しているのだ。

「そもそも、神威の象徴だからこそ、あそこを落とさなきゃならないんだ」

 霊峰ドゥ・ツェリンは女神信仰の象徴の一つである。

 ゆえにこそ攻め落とすのだ。

 それは女神信仰を屋台骨とする王国に対して、大きな一手となるだろう。

「そう言うからには、戦いが始まってオドオドしないでよね」

「いつもオドオドなんてしてないだろ」

「どうだか」

 エリーカの口元には小さく優しい笑み。

 軽口を叩きはしても、彼女はヴァルターを信じていた。

 目の前にそびえる巨山がいかに荘厳であろうとも、彼はそれを制する。

 エリーカは、心底からそう思っているのだ。

「霊峰。こんな日が来るとはね」

 エリーカの漏らした感想にはやや言葉が不足していたが、ヴァルターには彼女の言わんとするところが分かる。

 霊峰ドゥ・ツェリンに攻め込むプランは、本来現実的ではなかった。

 こうして実際に見れば分かる。眼前にそびえる巨大な要害は、攻め落とせるような代物ではない。

 だがそれは、自分たちだけでは、という前提つきである。

 志を同じくする者たちがあれば、話は変わってくる。

「ヴィリ族とゴルカ族、反体制派に感謝だよね、エリーカ」

「そうね」

「特にヴィリ族は凄いよ」

 顔を山に向けたまま、ヴァルターは言う。

 先日会った者たちのことを思い出しているのだ。

「立て続けに勝って、こんなところまで来たんだから。急にだよ?」

 ストレーム領の先々代の領主、当時の辺境伯がバラステア砦を建設して以来、長い間ヴィリ族はその砦を越えられないでいた。

 だが、この一年あまりで情勢は大きく変わったのだ。

 砦を越えてストレーム領を落としたヴィリ族は、次いでゴルカ族と共に第三騎士団を破り、タリアン領も陥落させた。

 そして霊峰を擁するイスフェルト領まで来たのだった。

「確かに、ここまで急に物事が動くなんてね」

「原因はロルフ殿だと思うよ」

 ヴァルターは、新しく得た友の名を口にした。

 初めての、人間の友人である。

 竜に傾倒する者同士、実に趣味が合った。

 だが、それだけではない。

 武勇ももあり、そして何より、信じられないほど懐が深い。

 ヴァルターには、友のことがよく分かるのだった。

 そして確信を持っている。ヴィリ族の躍進が、彼に起因していると。

「たいしたことないわよ、あんな奴」

「いやいや、彼は凄いよ。僕の魔法を全部斬るのを見たろ?」

「……まあ、人間にしては中々やるかもね」

「人間にしては、か。まだ人間を信じる気にはなれない?」

「それは……ね」

 一朝一夕にはいかない感情のもつれが、エリーカにもあった。

「反体制派のデニス殿も話せる人だったよ」

「分かってる。協力する以上、ちゃんと信じるわ。ひとずはね」

 信じつつも、一先ずはと但し書きを付けずにはいられなかった。

 処理し切れない思いがあった。

 この戦いに勝つことが出来れば、それも変わるのだろうか。

 そんなことを考えるエリーカ。

 彼女は、自らの変化を望んでいるようでもあった。

 それに気づいたのか、ヴァルターは静かに言う。

「勝たなきゃね」

「勝つのは当然として、死なないでよ。英雄は戦後にこそ必要なんだから」

 エリーカが口にした、戦後という言葉。

 今回の戦いだけではなく、王国との戦いのすべてが、戦争が終わった後のことを彼女は言っている。

 それまで生き残ってくれと、そう望んでいる。

 当然の要求であり、そして切なる願いであった。

「象徴としての英雄? 僕に出来るかね、そんなの」

「出来なくてもやるの」

「向いてないんだけどなあ」

「そんなことないわよ」

「ないかなあ」

 不毛にも思える、しかし二人にとって大切なやりとり。

 それを交わしたかと思えば、今度は沈黙が訪れた。

 二人は、言葉の無い時間を苦にはしない仲であった。

 だから静かに霊峰を見上げている。

 雄大で恐ろしい明日の戦場を。

 何分経っただろうか。エリーカが口を開いた。

「これ、勝ったら凄いことになるよね」

 今さらながらの感想。

 聞くまでもないことを口にしたのは、どこか現実味を感じられていないからだろうか。

 今回の戦いは、それほどの大事業なのだ。

 あの霊峰で待ち受ける強敵たちを討ち破り、この地を陥落せしめることが出来れば、戦局は大きく変わるだろう。

「そりゃあ凄いよ。物凄い」

「でも今までで一番、厳しい戦いになるわ」

「そうだね」

「ねえ、ヴァルター」

 エリーカの声音が変わる。

 膝を抱えて座ったまま、その膝に顎を乗せ、顔をヴァルターへ向けていた。

「私がヴァルターを守るからね」

 それはエリーカの口癖のようなもので、ヴァルターは何度も聞かされていた。

 これを言う時、決まってエリーカの声は穏やかだった。

 それなのに、言葉には強い意思が込められている。

「エリーカ。常々思ってるんだけど」

「うん」

「僕が守るんじゃ駄目なの?」

 英雄と称される以上、守る側の立場であるはずなのだ。

 その疑問を口にするヴァルターだったが、エリーカはくすりと笑って否定した。

「駄目。私はヴァルターの保護者だし」

「いや……違うから」

 意義を申し立てるヴァルターだが、その声はやや弱々しい。

 否定し得ぬものがあるようだった。

「違わないでしょ。子供のころから、泣いてばかりのヴァルターを守ってきたんだから」

「泣いてばかりってことはなかったと思うけど」

「ほら、あれ。本の時。あの時なんて凄かったじゃない。大泣き」

 子供のころから本の虫で、蔵書院に入り浸っていたヴァルター。

 そんな息子に、ある時父母は本を一冊、買い与えた。

 竜の伝承に関する本だった。

 ヴァルターは大いに喜び、いつもそれを持ち歩いた。

 だが、内向的で線の細いヴァルターは、子供の社会で弱者だった。

 果たして近所のガキ大将に小突かれ、本を奪われたのだ。

 ガキ大将は本になど興味は無かったが、ヴァルターが大切そうにそれを持ち歩く様を見て、奪いたくなったらしい。

「座り込んで、ずーっと泣いてて」

「そんなでもなかっただろ」

「私が本を取り戻してあげるまで、泣きっぱなしだったじゃない」

 長じてから、子供のころのことで揶揄われる経験は誰にもあるが、ヴァルターにとってそれは日常だった。

 何年経っても、昔日を蒸し返される。

 エリーカにとって、ヴァルターはいつまでも保護すべき弟分であるようだった。

「あの時も、私がヴァルターを守ってあげるって言ったでしょ」

「……ん? いや待って。あの時は、僕がエリーカを守るって言ったんだよ」

「ずっと泣いてたのに?」

「あれ……?」

 知能と比例して記憶力も優れているはずのヴァルター。

 だが、エリーカに言われると、自分が間違っているような気がしてくる。

「ふふ。ヴァルターの記憶違いじゃない?」

「えーと……」

 考え込むヴァルターと、どうしてか楽しそうなエリーカ。

 そこへ人影が近づいた。

「そろそろ休んだらどうだ?」

「うわ!?

 考え込んでいるところへ背後から声をかけられ、エリーカの時と同様、またも肩を震わせるヴァルター。

 そこには男が二人。先日のアーベルでの会議にも同行した、ギードとグンターが居た。

「すまん。驚かせてしまったか?」

「少し前から居たんだが、声をかけづらい雰囲気だったからな」

「いや、いいよそういうの。声かけてよ……」

「ちなみに私は気づいてたわ」

 そう言って笑い合う。

 和やかだった。

 決戦前夜のものとは思えない光景だった。

 明日、命を懸けて戦う者たち。

 だからこそ、その瞬間を大切に、笑顔を交わすのだった。



 霊峰南部、中腹。

 そこに第二騎士団は展開していた。

 王国東部の戦線を支え、そのことごとくで勝ち切り、そして霊峰へやってきたのだ。

 ここでも勝つために。

「いよいよだな……」

 そうつぶやいたのはステファン・クロンヘイムだった。

 三十歳を迎えて数年経つが、風貌は二十代前半に見える。

 やや小柄で、瞳にはあどけなさすら残り、どこか少年のような印象を与える男である。

 だが実力は、そのような可愛らしいものではない。

 王国において紛れも無く最高の戦力の一人であり、第二騎士団の団長なのだ。

「アネッテ。各部隊の配置は?」

「いずれも予定どおりに展開中。まもなく配置完了の見込みです」

 答えたのは長身の女性だった。

 副団長のアネッテである。

 やや不愛想だが、彼女がクロンヘイムに向ける敬愛の念はつとに有名であった。

「分かった。それとフェリクス。北と東の状況は?」

「予定と変わらずです。北、東とも済生軍が展開しています」

 答えたのは背の低い中年男性。参謀長のフェリクスである。

 彼が言ったとおり、北側、東側とも済生軍が防衛にあたっているのだ。

 兵数は済生軍が最も多い。

 また、攻撃側のうち、反体制派が最も寡兵である。

 司令官イスフェルト侯爵は、済生軍を分け、メインの部隊を北に向けてヴィリ・ゴルカ連合へぶつけることとした。

 残りを東の反体制派に向けたのだ。

 そして南、レゥ族との戦いを受け持つのが、彼ら第二騎士団である。

「第一が予備戦力か。心強いね」

「危なくなっても、すぐティセリウス団長が助けに来てくれるわけですから」

「黙れフェリクス。そんな状況にはならない」

「す、すみません」

 アネッテに睨まれ、身を縮こませるフェリクス。

 第五騎士団のエドガー・ベイロンと同じく、彼は軍拡後の体制刷新に際して参謀長へ就けられた男である。

 もう新参と言えぬほどには務めているものの、常より腰が低く、自信の無さげな男であった。

「まあ、第一を後ろに置く方針は妥当だよ。イスフェルト侯爵はちゃんと考えてくれてるね」

「タリアン子爵、アルテアン伯爵と、領を接する盟友が立て続けに斃れました。あだを討ちたい気持ちがあるのでしょう」

 やや強い口調になるアネッテ。

 表情からも、敵に対する憤りが見て取れる。

「勇戦むなしく敗れた彼らのためにも、必ずや勝たなければ」

「うん。考え方は自由だ。でも僕は彼らのために戦いたくはないかな」

「え?」

「正直、あの二人については、あまり好きじゃなかったよ。死者を悪く言いたくはないけど」

「タリアン子爵は騎士団長を務められたのですよ? まさにひとかたならぬ人物です。アルテアン伯爵も、自領が災害に見舞われた大変な時期にお父上の後を継ぎ、復興に力を尽くされた立派な方ではないですか」

「そういう見方もある。でも僕の目には、領民の暮らしより自身の欲を優先させる男に見えたんだよ」

「そ、そうなのですか」

「言っておくけど、あくまで僕の意見だからね」

 そう強調するクロンヘイム。

 でも、今やその種の貴族は珍しくないよ。と続けるのは止めておいた。

「まあ、死者のためより、国の未来のために戦う、ということで良いじゃないか」

「お、仰るとおりです」

 ついしょうするように答えるアネッテ。

 その姿にやや苦笑しながら、クロンヘイムは考える。

 王女はどう思っているのだろうか、と。

 あまり感情を表に出さない彼女だが、憂いてはいるはずだ。

 国を何とかしたいと思っている。

 だが王女とて、与えられた権限は踏み越えられない。

 国王は病に臥せったままだが、未だ至尊の座にあるのだ。

 それをないがしろにして専横に及ぶなど、あの王女には出来ない。

 今はまだ、王国は魔族たちより大きな力を持ち、なお優勢にある。

 だが、バラステア砦の陥落以降、何かが変わったのだ。

 このままでは、国は望まぬ局面を迎えるかもしれない。

 それを阻止するためにも、自らの国を守るためにも、勝たねばならない。

 そう決意を新たにするクロンヘイムだった。