それはひとたび眠れば、必ずやってくる回避不可能な悪夢だった。

 圧倒的な生々しさと質量を持っており、空気まで再現し、セーラを苦しみに苦しめる。

 迫りくる眼球。

 化物に変わっていく大好きだった兄たち。

 エドも、ジョニーも、セーラのために命を捨てた。

 しかし生き残った彼女もまた、眼球に追い詰められる。

 背後には壁、前には眼球の群れ。

 触れれば最後。

 体に入り込み、触れた部位を〝増殖〟させ、やがて相手を無数の頭や手足の生えた化物に変える。

『はっ……かはっ……あ……あぁ……エド、ジョニー……せっかく守ってもらったのに、ごめんなさいっす。おらもすぐ、そっちに行くっすから』

 セーラは諦めきっていた。

 よわい十の少女を前にしても眼球たちは止まらない。

 コロコロと転がり、肌に触れ、体内に潜り込む。

『いや……いやっす……ああぁ……おらは、やっぱり……死にたく……ない……っ』

 今さら命が惜しくなったところで、どうにもならない。

 眼球は容赦なく体を転がり上ってくる。

 セーラは爪をガリガリと壁に突き立てるが、道が開けることはなかった。

『あう……うぁっ、ひううぅ……きもち、わる……いやだ、おらは、化物になんて……なりたく……っ』

 爪ががれ、指先に血がにじむ。

 脚が増えた。

 体がふくららんだ。

 吐き気がせり上がってきたと思ったら、口から内臓に似た何かが出てきた。

 症状は止まらず、セーラは兄たちと同じ肉塊へと変貌していく。

『や……やめ……うぶっ、お、ご……ひぐっ、ふ、ぐ、ごぉっ……お……ん、ぎいぃぃいいいいッ!』


 ◇◇◇


「いやあぁぁぁあああああッ!」

 叫びながら、セーラはガバッと起き上がる。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 肩を上下させる彼女の全身は冷や汗で濡れており、金色の髪が頬に張り付く。

「う……あ……うあぁ……!」

 悪夢を見た。

 だがただの夢ではなく、大部分はセーラが実際に体験してきた〝記憶〟。

 その光景を見せられるたび、彼女は両手で顔を覆い、肩を震わせ、涙を流しながら嘆く。

 ――大切な人が死んで、自分だけが生き残ってしまった。

 その悲しみと罪悪感が胸を満たし、耐えられなくなるのだ。

 そんなセーラを、青い肌の女性が優しく胸に抱きよせた。

 三魔将の一人、ネイガスだ。

 教会の不穏な動きやオリジンコアについて調べていた彼女は、王国の各地に点在する研究所跡地を調べていた。

 だが思うように成果は出ず、思いきって本丸である王都に乗り込んだのだ。

 そこで教会について調べているうちに、偶然に眼球に追われるセーラを発見し、助けたというわけである。

 セーラを救出したネイガスは、すぐに調査を切り上げ王都から脱出した。

 ガディオとすれ違ったのはその道中で、とっさにフラムへの伝言を頼んだのだが――それからすでに数日が経過していた。

 現在、二人は王都から離れた山小屋に身を潜めている。

「よしよし、心配いらないわ。あいつらはここにはいないんだから」

 眼球は、王都を出た瞬間にぴたりと追うのを止めていた。

「もし襲ってくるやつがいても、私が守ってあげるわ」

 最初こそ魔族であるネイガスに対し心を閉ざしていたセーラだったが、今では背中に手を回し、自ら胸に顔を埋めている。



 魔族を信用したわけではない。

 自分を育ててきた教会にも裏切られ、フラムたちとも離ればなれになり、今は頼れる相手がネイガスしかいないだけだ。

「う……ううぅ……なんで、みんなが……あんな目に遭わなくちゃならないんすか……!」

「セーラちゃんたちが悪いわけじゃないわ」

「だったらどうして……っ!」

 ネイガスは何も言わずに、彼女の頭をで続けた。

 『教会が悪い』と言ってしまう手もあったが、セーラも、エドも、ジョニーも、みな教会の一員なのだ。

 悪いのは組織ではなく、それを統べる上の連中と、彼らを操るオリジンである。

「おらは……追放、されたんすよね……」

 しばしの嗚咽のあと、先ほどよりも少し落ち着いた様子で、セーラはネイガスに尋ねた。

「聞いた限りはそうみたいね」

 教会はセーラを裏切り者として追放し、二度と王都に戻って来られないようにした。

 今や彼女は大罪人である。

 教会の人間に見つかれば、連行され、申し開きの場すら与えられずに処刑されるだろう。

「でもね、風を操って声を聞いてみたけど、教会の人たちは心配してたみたいよ」

「……そう、っすか」

「みんながみんな、処分に納得してるわけじゃないわ。ううん、むしろ不可解な処分が出たからこそ不信感を抱いている。だから大丈夫。じきに疑いは晴れて、王都に帰れるわ」

 心地よい言葉と温もりに、セーラは目を細めまどろむ。

 だがふいに、何かを思い出したように顔をあげ、胸の谷間からネイガスの顔を見上げる。

「んー? どうしたの」

 向けられる視線に、彼女は微笑んだ。

「なんで……ネイガスは、そこまでおらに優しくしてくれるんすか? おらは教会の人間で、魔族を憎んでるんすよ」

「困ってる子がいるのに、放っておけるわけがないじゃない」

「悪夢にうなされて起きたら、いつも抱きしめてくれたっす。おらがあのときのことを思い出して泣いたり暴れたりしても、嫌な顔一つせずになぐさめてくれたっす。そんなの、誰にだってできることじゃないっすよ」

「うーん……そうねえ」

 他の理由が無いといえば、嘘になる。

 あまり言いたくないのだが、ネイガスが王都を訪れていた理由は、〝教会について調べるため〟だけではなかったのだ。

「何か隠してるんすか?」

 セーラの純粋な瞳がネイガスに真っ直ぐに向けられる。

 単純に知りたがっているだけの彼女に答えないのは、誠実さに欠けるとネイガスは感じた。

「変なことを言うけど、引かないでね?」

「引くようなことなんすか?」

 そう聞かれると『うん』とは言いづらい。

 だがネイガスには『ノー』とも言えない後ろめたさがあった。

「洞窟ではじめて会ったとき、私、セーラちゃんのこと『かわいい』って言ったじゃない」

「そういえば言ってたっすね」

「だから、セーラちゃんに会えないかなーと思って……」

「……へ? おらに、会うため?」

「は、半分よ! 残り半分はちゃんと教会の悪事を暴くために……って待って待って、離れていかないで距離を取らないでー!」

 ネイガスから離れ、ずりずりと後ずさるセーラ。

「動機は下心だったんすか!?

「違うわ! 巻き込まれてたのがセーラちゃんじゃなくても助けてた、それは嘘偽りない事実よ」

「まあ……そこに関しては、疑ってないっすけど」

 ネイガスの優しさは下心だけから来るものではない。

 それは受けてきたセーラが一番よく知っていることだ。

 付け焼き刃の優しさでは、必ずどこかに違和感が生じてしまうはずだから。

「ただ、本音を全て包み隠さずに出せって言われたら、ねえ?」

「うぅ……どう反応していいかわからないっす。でも、それだけっすよね? もう、何か隠してたりはしてないっすよね?」

「……」

「なんで黙るんすかー!?

「その……セーラちゃん、フラムちゃんを呼ぶときは〝おねーさん〟って言ってたじゃない?」

「言ってたっすね。だってネイガスは魔族で……おらは、一方的に憎んでたっすから」

「そのわだかまりも少し解けたってことで、私のこともおねーさんって呼んでみるっていうのはどうかしら」

 ネイガスは心なしか鼻息荒く、そう提案した。

 その表情はセーラから見ても、どことなく変態っぽい。

「嫌っす」

 セーラは即答する。

「なんでぇ!?

「なんか気持ち悪いっす。ネイガスはネイガスで十分っす!」

「えぇー! 呼び捨てなんて味気ないじゃなーい! 試しに呼んでみましょうよー!」

 子供のように駄々をこねるネイガス。

 セーラの中の、魔族に対するイメージがガラガラと音を立てて崩れていく。

 ネイガスはしばらく唇をとがらせていたが、何かを思い出したように「はっ」と真剣な顔になって、何やらぶつぶつとつぶやきはじめた。

「……いや、呼び捨てっていうのも、それはそれで距離感が縮まってアリなんじゃないかしら。おねーさんって言うと〝憧れ〟とか〝たかの花〟って感じが出るけど、呼び捨てだと身内というか、手が届く範囲内にいるみたいで……たぎるわ」

 ドン引きしてさらに距離を取るセーラ。

 そのまま小屋から出ていこうとする。

「おら、一人で旅に出るっす」

 ネイガスはそんなセーラに後ろからしがみつき、必死で彼女を止めた。

「離すっすー! 変態との二人旅なんて耐えられないっすー!」

「反省する! 今のはちょっとヤバかったって反省するから踏みとどまってぇー!」

「今ので〝ちょっと〟とか言ってる時点で無理っすよぉー!」

「わかったわ、もう呼び捨てでいいし呼び方で変な妄想はしないって約束するから!」

「……本当っすね?」

「ど、努力します」

「まったく信用できないっすけど、ひとまずは信じるっす」

 セーラが止まると、ネイガスはほっと胸を撫でおろす。

 そして二人はまたベッドに戻り、今度はセーラがネイガスの脚の上に座り、その胸を背もたれ代わりにした。

「あんまり嬉しくないっすけど、いつの間にか夢のことを忘れてたっす」

「作戦通りね」

「嘘はよくないっすよ」

 セーラの手がネイガスの太ももをつねる。

「痛い痛い痛い」

「まあ、こうして気兼ねなく話せる時点で、とっくにネイガスのこと信用してるんすよね。我ながら単純っすよ、あれだけ魔族を憎んでたっすのに」

 とはいえセーラがネイガスに心を許したのは、ただ優しくされただけが理由ではない。

 ネイガスをはじめとした魔族は空を飛べる。

 だから国境線を簡単に越えて、こうして王国に侵入してしまえるわけだ。

(その気になれば、王国を壊滅させるのは簡単なはずなんすよね……)

 なのに魔族は、自分から攻め込むことはなかった。

 その時点で、王国の物語で描かれるような『人間を傷つける怪物』という魔族像は崩壊するのである。

「ゆくゆくは王国の人たちみんなが、セーラちゃんみたいになるといいんだけど」

「小さい子供に下心丸出しで近づくネイガスみたいなのがいるから、厳しいかもしれないっすね」

しんらつ……セーラちゃんって意外と毒舌なのね」

「相手は選ぶっすよ」

「これは喜ぶべきなのかしら」

「できればなげいてほしいっす」

 ネイガスは明らかに嬉しそうだった。

 つねっても罵倒しても駄目なら、もはや彼女は無敵である。

 しかし、そんな無敵なネイガスの表情がふいに曇る。

「でも、私だって魔族の全てを知っているわけではないのよね。魔族が人間を殺すことはない、その認識が間違っている可能性だって……」

「怪しい人が、いるんすか?」

「いないと思いたい。けど、オリジンの力が漏れてる時点で怪しむべきなのよ」

れる?」

「……ねえセーラちゃん、私はまだ教会の施設の調査を続けるつもりよ。手ぶらじゃ魔王城に帰れないもの」

「そうっすか。おらは……」

「安全な場所まで連れて行くことはできる。けど教会から追放処分を受けているということは、オリジン教の影響がある場所は無理なのよ」

「それ、王国全土じゃないっすか」

「ええ、だから安全な場所は魔族領ということになるわね」

「魔族の中に、人間はおら一人だけで……ってことっすか」

「積極的に関わることを禁じているだけで、魔族は人間のことを嫌ってるわけじゃないわ。見ての通り基本的に温厚な種族だし、みんな優しくしてくれると思うわよ」

 ネイガスの言葉は事実だ。

 人間を見たからといって一方的に恐れたり、敵対したりはしないし、むしろ相手が子供となればなおさら丁寧にもてなすだろう。

 しかし――ネイガス個人ならまだしも、魔族という存在に対するセーラの疑念が消えたわけではないのだ。

「それが無理なら、このまま私に付いてくる? 教会と敵対することにはなるし、化物と戦うことにもなるわ。魔族領で過ごすよりずっと危険だけど――」

「おらは……回復魔法が使えるぐらいで、大して強くないっす。役に立てるかわからないっすよ?」

「そこは心配しなくていいわ、セーラちゃんを見ているだけで私のやる気が上がるもの! かわいいは正義!」

「そういうところが一番心配っす」

 今のはセーラの不安を取り除くために、わざと茶化しただけだ。

 ……半分ほど本気だったかもしれないが。

「というか、『使えるぐらい』とか謙遜けんそんしてるけど、回復魔法を使える相手と一緒にいるのって、かなりの安心感よ。だから私としては、セーラちゃんが付いてきてくれるのは心の底からウェルカムなの」

 それはネイガスの嘘偽りない本心だった。

 歓迎されているなら、セーラに断る理由はない。

「じゃあ……付いていくっす。おらだって、教会のことを知りたいっすからね」

「やったー! セーラちゃんとの二人旅の始まりよー! いえーいっ!」

「ただしっ! 変なことを言うのは禁止っすよ? セクハラしたら本気で殴るっすからね!?

「それは難しいわねえ。私、可愛いものを見ると歯止めが利かなくなっちゃうのよ。ほら、魔族だから」

「魔族関係ないっすよそれ。とにかく絶対にそういうのは許さないっすから……むがっ!?

 ネイガスはセーラを強引に引き寄せ、その顔を胸に沈めた。

「私も悪い癖だとは思ってるのよ? でもセーラちゃんがかわいいのが悪いのー!」

 もがもがと暴れるセーラだが、魔族は魔力だけでなく身体能力も人間より高い。

 やがて諦めたセーラは、おとなしく身を委ねる。

 肌は青いが、温かいし、柔らかいし、やけにいい匂いがする。

 セーラとしては認めたくないが、こうして心地よい温もりに包まれている間だけは、王都で起きた惨劇を思い出さずに済んだ。

 八年前、魔族に故郷を滅ぼされた頃のことを、セーラはほとんど覚えていない。

 今、彼女を苦しめる悲しみも、憎しみも、心の傷も――その大部分は、数日前にエドとジョニーを奪った教会のせいで生じたものだ。

 ましてや、セーラはネイガスに命と心を救われている。

 魔族に対する憎悪が薄れていくのは当然なのかもしれない。

「……ぷはっ!」

 セーラは、ずぼっとネイガスの豊満な胸から顔をあげ、彼女と向かい合った。

「はぁ、言ってるそばからこれっすからね。先が思いやられるっす」

「セーラちゃんが慣れるまで私、頑張るわ!」

「慣らそうとするなっす! まあ、とりあえず……よろしく頼むっすよ、ネイガス」

 不満げに頬を膨らますセーラだったが、それでも挨拶はきちっとする。

 教会――いや、親代わりだったエルンにそうしつけられてきたからだ。

「こちらこそ、末永くよろしくね」

 二人は生まれ育った場所も、肌の色も、目の色だって違う。

 けれど触れ合った肌ごしに伝わる体温は、等しく温かい。

 魔族も人間も同じ生き物なのだと、セーラは今さらながら、そう実感するのだった。