青銅製の香炉こうろから、花の蜜のように甘く、森の中にいるかのようなさわやかな香りがゆったりと立ち昇っている。木蓮の香りは気持ちを落ち着かせてくれる。精神がささくれだっているとき、荀彧は好んで木蓮の香を立てていた。

初平二年(一九一年)、故郷の潁川に戦火がせまると予測した荀彧は、一族をつれて河北最大の都市・鄴へ避難していた。

だが、鄴での暮らしは順風満帆とはいいがたい。

原因は荀彧自身と、この地を統治する袁紹との関係にある。

そもそも、彼らのあいだに友好関係が構築される可能性は、きわめてとまではいかないが、かなり低いものであった。袁紹は冀州を韓馥から奪いとったが、その韓馥は荀彧にとって恩人だったのだ。心情的にも道徳的にも、袁紹に対して好意を抱く理由は、荀彧にはなかった。

「それだけなら、まだ選択の余地はあったのだろうが……」

彧は独語して首を振った。

彼は故郷を捨てたつもりはない。避難はあくまで一時的なものであり、力のある人物をつれて、潁川に凱旋するつもりでいる。もちろん、その時期は早ければ早いほどよい。

彧のそうした望みに、袁紹はあてはまらないように思えるのだ。

最大の問題は、北方で勢力を拡大する公孫瓚の存在である。

精強な騎馬軍団を擁する公孫瓚に対抗すべく、袁紹は北に軍勢をむけなければならない。

袁紹に仕えたところで、待っているのは戦の日々でしかないのだ。

しかも、公孫瓚が難敵である以上、これを打ち破るには長い時間がかかるだろう。

彧の望みが叶う日は、ずいぶんと先になりそうだった。

彼はそう考えて、袁紹からの仕官の誘いを丁重に断った。

すでに弟の諶じゅんしんが袁紹に仕えているため、一族の安全は保証されている。

しかし、計算外のことが生じてしまい、荀彧辟易へきえきしていた。

「袁紹がこれほどしつこい男だとは思わなかった……」

袁紹は彼をあきらめようとしなかったのだ。

彧としても礼を失するわけにも、関係を完全に断つわけにもいかない。

結果、袁紹の屋敷に賓客として滞在するという、なんとも中途半端な立場に、彼は置かれているのだった。

「長居をすればするほど、立ち去りにくくなる。あまり長くいられる場所ではなさそうだ。しかし、袁紹のほかに、乱世を乗りきれそうな人物となると……」

どうにかして現状から抜けだせないか、と荀彧が考えていたとき、彼の部屋に足音が近づいてきた。あわただしい足音である。何事だろうかと思うと同時に、扉がひらかれた。姿をあらわしたのは郭嘉だった。

「孔明先輩が、袁紹に仕えることになったようっす!」

「ッ!? ……なにかのまちがいであろう」

彧文若、郭嘉奉孝、そして胡昭孔明。

彼らのあいだで、袁紹に対する評価はかんばしいものではない。

孔明が袁紹に仕えるとは、にわかに信じがたかった。

目を丸くして驚く荀彧に、郭嘉は説明する。

「政庁に呼びだされて、衆臣環視の中で、袁紹に仕えるよう命じられたみたいっす」

「なるほど……断れない状況に追いやられたか」

彧同様、孔明と郭嘉も仕官の誘いを断っていた。

異なるのはその後の待遇である。

袁紹は孔明と郭嘉にはさほどの未練をしめさず、荀彧にのみ執着を見せた。

彧の名声が一頭地を抜いているからであろう。

ようするに、袁紹は孔明と郭嘉の才を見抜けなかったのだ、と荀彧は思う。

「雲行きが怪しくなってきた、どころじゃないっすよ」

「うむ……。これで孔明を召し抱えることに成功すれば、袁紹は私たちにも同じ手を使うだろうな」

今日の孔明の姿は、明日の荀彧と郭嘉の姿でもある。他人事ではないのだ。

ふと、荀彧はある可能性に気づいた。その思いつきを口にする気になったのは、この上ない相談相手が目の前にいたからである。

「孔明のことだ。逃げだすかもしれない」

「……やりそうっすね」

郭嘉はあごに手をあてて考えこむと、なんともいえない苦笑を浮かべた。

「そもそも、袁紹に仕える仕えない以前に、仕官する孔明先輩ってのが想像つかないっす」

「そうだな……私もそう思う」

彧も苦笑する。苦笑しながら思い出す。

昔の荀彧は、孔明に対して正反対の評価をしていた。

てっきり孔明は官吏になるものだと、荀彧は思いこんでいたのだ。


あれは荀彧が十七歳、孔明が十八歳のときだった。

彼らは筆記具を買うために市を歩いていた。

雑踏のなかで交わす会話は、昨今いかがわしい噂が流れている就職事情についてである。

京師けいしでは売官がおこなわれているというが、孔明はどう思う?」

「嘆かわしいことだが、財政が窮乏しているのだから、いたしかたあるまい」

じつはこのとき、荀彧は吹きだしそうになるのをこらえていた。

彼らはあざなを名乗るようになったばかりなのだが、孔明は大人ぶろうとしてか、師の口調をまねていたのである。

孔明の師・劉徳昇りゅうとくしょうは書の大家であり、年齢相応の古めかしい口調の持ち主である。それをまだ年若い孔明がまねしているのだから、おかしくてたまらない。

彧は頬の筋肉を完全に制御して、まじめな声をつくった。

「官の腐敗は、さらなる財政の窮乏をまねくように思うのだが……」

「うむ。そこまで大きな話でなくとも、迷惑な話だ」

売官が流行り、まともな採用枠が減らされれば、彼らもとばっちりを受けかねない。

そう、荀彧はもとより、孔明も当時は官吏を志望していたのである。

彧はそれを当然のことだと受けとめていた。孔明は風変わりな物の見方や奇抜な発想ばかりが目につくが、意外にも地に足のついた考え方をする。書の道を志したのも、書をよくすれば就職に困らないという、現実的な理由からであった。

「君が官吏からはねられることはないよ」

太鼓判を押しながら、荀彧は想像した。

いつか彼らが年を取り、それにともない高位高官になれば、この古風な孔明の口調も似つかわしく感じられる日がくるのだろう。

「君ならうまくいけば、いずれは三公九卿さんこうきゅうけいにだってなれるだろう」

「いやいや、んなわきゃないって」

思わずといったふうに、孔明の口調が素にもどった。

「口調、口調」

「あっ」

孔明はあわてて口をおさえる。

ばつが悪そうな親友の顔を見て、たまりかねた荀彧は笑いだすのだった。


……当時は当然のように官吏になるものと思いこみ、いまでは官吏になることはないと考える。

彧の人を見る目は、見事にはずれたことになる。

ところが、当時もいまも、孔明の性質はなにも変わっていないように、荀彧の目にはうつるのだ。

孔明は二十歳になると、勤務地を自分で選べないからという理由で、官吏志望を撤回した。

そのときですら、荀彧は呆れるではなく、じつに孔明らしい判断だと感じたのである。

各地で不穏の兆候が見えはじめていた。危険な地に送りこまれるのを回避しようとするのは、孔明らしい堅実な考え方だ、と。

結局、荀彧は孔明のことをそれなりに理解しているつもりだが、その予測の枠内に、孔明はおさまってくれないのだった。

ともあれ、過去の回想や人物評より、優先させねばならないことがある。

彧も身の振り方を考えねばなるまい。

「逃げるつもりか否か。孔明に真意を聞きだしたいところだが……」

「それは……やめといたほうがよさそうっすね」

彧の懸念を察したのだろう、郭嘉の声に苦いものがまじった。

「うむ。私たちは袁紹の誘いを拒んだ身だ。ここで孔明と接触すれば、袁紹を無駄に警戒させてしまうだろう」

孔明が本当に逃げるつもりだとしたら、彼の足を引っ張りかねない。

「まあ、孔明先輩が逃げるとしたら、逃亡先はまず潁川でしょうよ。ほかにあてもないし。……で、文若先輩はどうするんすか? 袁紹の真の狙いは、孔明先輩じゃなく文若先輩でしょう?」

指摘され、荀彧は嘆息した。

そのとおり、袁紹は今回の一件を、荀彧を召し抱えるための下準備、あるいは予行演習と見なしているはずだった。荀彧は孔明を巻きこんでしまったのだ。

「私も、そろそろ袁紹のもとをはなれようと思っていたところだ」

「うまく袁紹の機嫌を取っておいてくださいよ」

「そこはなんとかする。袁紹の恩に深く感謝しながら、郷里への想いを熱く語るさ」

巧言令色を弄するのはあまり得意ではないが、そうもいっていられなかった。

「それで奉孝、君はどうするつもりだ?」

「オレも逃げる準備はしておきますよ」

郭嘉は当然のような顔でいった。

彧とちがい、彼は袁紹の屋敷に囲われているわけではない。たいした苦労もなく、逃げだせるだろう。郭嘉のことだから、周囲へのあいさつもろくにせず、行方をくらますつもりかもしれなかった。

彧はもう一度嘆息した。できるかぎり跡を濁さぬ去りかたをしたほうがいい、と伝わるように言葉を選ぶ。

「荀氏も郭氏も、一族の大半はこの地に残ることになるだろう」

「そうっすね。けど、家族はつれていかなきゃならないでしょうし。……まったく、袁紹にもうすこし度量があれば、こんなめんどくさいことにはならなかったのに」

「……まったくだ」

三度目の嘆息とともに、荀彧は短く答えた。短いが、失望を中心として複雑な思いがからみあった声だった。

「だが、このまま鄴にいたところで、無為に時間が過ぎていくだけであろう」

「そう考えれば、いい転機になるかもしれないっすね」

彧と郭嘉は小さく笑いあった。たとえ先が見えなくとも、進まなければ道を切りひらくことはできまい。いまがそのときであるようだった。


このとき袁紹が手に入れそびれたものは、わずか三人の人材にすぎなかった。

まだ孔明と郭嘉は何者でもなく、荀彧ですら名士たちの中心的な立場にいたわけではなかった。彼らは道を歩みはじめたばかりであり、成功も栄誉も、遠い未来の可能性にすぎなかった。

その可能性が、いかに巨大なものであったのか。

後年、袁紹は官渡の戦いにおいて、自分がつかみそこねたものの真価を、まざまざと思い知らされることになる。