第四章 官渡の戦い

さらば公孫瓚こうそんさん易京えきけいに死す!

いまから三か月ほど前の建安四年三月、易京城にたてこもっていた公孫瓚を、袁紹が攻め滅ぼした。袁紹は五年もの年月をかけて、ようやく易京城を落としたことになる。

公孫瓚という男は、私の周辺ですこぶる評判が悪かった。劉虞りゅうぐという人望の厚い皇族に対して、「こいつは帝位を狙っている」と難癖をつけて処刑してしまったり、優秀な人材をおとしめては凡庸な人物を重用し、「出世して当然と考えているような者を取り立ててやったところで、私に恩義を感じるわけではなかろう」と公言したり。

こりゃあかんわ。ただし、私のおもな情報源は名士ネットワークだ。名士たちと公孫瓚は折りあいが悪かったから、彼の悪評は差し引いて考えたほうがいいかもしれない。

公孫瓚の首級が許都に送りとどけられた、との報が伝わったとき、司馬懿はこう評した。

「五年も籠城できたことを踏まえれば、有能な将軍ではあったのでしょう」

私はもっともらしくうなずいた。

「うむ、有能な将軍か。名将ではあったが、君主の器ではなかったのであろうな」

公孫瓚は異民族との戦いで頭角をあらわした人物である。彼は白馬義従という強力な騎兵隊を率いて、北の大地を縦横無尽に駆けまわった。将兵の意気はいかずちのとどろくがごとく、騎兵の突進は稲妻のはしるがごとき、とまでいわれていた。その武威は幽州、冀州どころか、青州や兗えんしゅうにまでおよび、袁紹をも圧倒するほどだった。

しかし、界橋かいきょうの戦いで流れが一変する。公孫瓚優勢と思われた界橋の戦いにおいて、勝敗を決定づけたのは、袁紹配下の麹義きくぎという武将である。この麹義、涼州出身なのだ。騎兵戦法を熟知した麹義の活躍によって、白馬義従は壊滅した。

公孫瓚は、その後も袁紹と戦をくりかえしたものの、次第に追いつめられていった。白馬義従を失い、軍事力で圧倒できなくなった公孫瓚には、袁紹に勝る点がなにひとつ残されていなかったのである。

そして六月になって、またひとり、群雄が覇権レースから脱落した。

さらば袁術、江亭こうていに死す!

曹操に負けて逃亡していた袁術が、江亭の地で病没した。もっとも、皇帝を僭称した袁術の場合、覇権レースから脱落したというより、ひとりだけ別の山に登っていったと思ったら、勝手に崖から転落したような感じである。

司馬懿も袁術に対しては容赦がない。いわく、戦をしては敗北をかさね、謀略を好みながら場当たり的である、と。

「民を餓えさせながら、自身は贅のかぎりを尽くすなど、言語道断というしかありません」

「うむ。民を餓えさせる者に、王たる資格はないな」

高祖劉邦りゅうほうの臣、酈食其れきいきも、「王は民をもって天となし、民は食をもって天となす」といっている。真理だと思う。最近、私は「食」について考えることが多い。どうしてかというと、じつは洛陽に食事処を出店したばかりでして。

レストランのオーナーですよ、オーナー!

事の発端は三月にさかのぼる。長安から帰ってきてすぐのことだ。洛陽に店を出してみないか、と鍾繇からお誘いがかかった。どうやら旅の途中、麦粥むぎがゆの味がものたりなくて私がつくった、「焦がしにんにくのごま油」を気に入っていたらしい。癖になるのよね、ああいうの。庖人ほうじん(料理人)も用意してくれるとのこと。それならば、と私は了承した。腕のよい庖人と提携できるのは心強い。私には、ある料理を打倒するという、ささやかな夢があるのだ。

私の宿敵、その料理の名を「なます」という。なますというと、現代日本では酢の物を思い浮かべるかもしれないが、この時代のなますは生肉、生魚を細切りにした料理をいう。ユッケや刺身に近い。「おまえをなますのようにしてやろうか!」とは、お酢に漬けこんでやるという意味ではない。細切りにしてやるぜ! という脅し文句である。

三国志には、このなますに関する、けっこう有名なエピソードがある。劉備にも曹操にも高く評価された陳登ちんとうという武将がいるのだが、彼は川魚のなますを食して、寄生虫によって死んでしまうのだ。

二十歳のころ、前世の記憶がよみがえると同時に、私はなますを食べられなくなった。とくに魚のなますが無理になった。だって、生の川魚だもの。私が料理にこだわるようになったのは、それからだ。家族や友人にも、生肉、生魚はさけて火を通すように忠告はした。寄生虫の存在はこの時代でも知られているので、理解してくれる人はいた。理解してくれない人もいた。理解はしめしたけれども、パクパク食べる奴もいた。郭嘉とか。

おまえだよ、おまえ! おまえが一番危ないんだよォォ!

いや、郭嘉の死因は寄生虫や食中毒ではないから、大丈夫だとは思うけども。結局、言葉だけで変わるほど、文化や風習は軽くないってことだろう。あらたな食習慣をつくりだして、すこしずつ変えていくしかないのである。

しばらくたつと、洛陽の店の評判が陸渾に伝わってくるようになった。幸いなことに、人気は上々のようだ。ここから寄生虫対策、食中毒対策などを広めていければいいと思う。

「そういえば、父から手紙がとどきました」

司馬懿が思い出したようにいった。

「ほう、司馬防どのから」

「はい。洛陽の店に行ってみたようです」

「ほほう?」

「ぜひ、温県にも店を出してほしい、協力は惜しまない。とありました」

ふっふっふ。庶民的な店を心がけたつもりですが、味は妥協しちゃいませんぜ。

温県か……。温泉が湧いていることに由来して、温県と命名された地だ。まさかの温泉旅館フラグ? おほほ、夢がふくらむざます。

「ただ……。私が思いますに、いまは時期が悪いかと」

司馬懿は苦々しげな表情を浮かべた。

「うむ……」

司馬懿が何を懸念しているかは、はっきりしていた。河北四州を平定した袁紹が、次の標的にすえるのはまちがいなく曹操である。袁紹と曹操が争えば、司馬懿の故郷、温県は巻きこまれる可能性が高い。

ちまたでは、「後背の敵をかたづけた袁紹は、すぐにでも曹操領に攻めこむだろう」と予想する声が多い。後世、田豊でんほう沮授そじゅが主張する持久戦をとらずに、郭図らが主張する短期決戦を採用したことが、袁紹の敗因であるともいわれていた。だが、郭図の進言は奇抜なものではなかったのだ。そう考えている人が多いから正しいとはかぎらないが、司馬懿も袁紹は動くと見ているようだし、短期決戦が下策というわけでもないと思う。うん、聞いてみよう。

「仲達、袁紹は持久戦をとらないだろうか?」

「袁紹はみずから動かなければ、ほしいものが手に入りません」

「ほしいものか……」

民人殷盛みんじんいんせい兵糧優足ひょうろうゆうそく、冀州は天下の重資といわれております」

「うむ、肥沃な地だな。人口も多い」

「しかし、袁紹がほしいものは、冀州にはありません。天子があらせられるのも、汝南郡じょなんぐんがあるのも豫州です」

帝は、豫州潁川郡の許都にいる。曹操の傀儡なのはあきらかだった。袁紹は歯噛みをしているだろう。この状況を変えなければ、袁紹は朝廷を介して曹操に命令される立場のままだ。

汝南郡は潁川郡のとなりにある、こちらも文の中心地で、袁紹は汝南袁氏の出身である。そう、袁家の本貫地があるのは豫州であって、冀州ではない。

袁紹自身には、地縁がなくとも冀州の豪族たちをまとめあげて、河北を制する能力があった。……しかし、後継者はどうだろうか。一族の後ろ盾がないのだ。冀州の豪族たちのいいなりになってしまうのではないか。袁紹は、冀州を安寧の地とは考えていないのだろう。

「ふむ。天子も汝南も、待っているだけでは手に入らぬな」

「はい。ですから、袁紹には動かない理由がありません。それでも、袁紹が持久戦を選ぶとしたら……」

「したら?」

「冀州の豪族たちの主張が、袁紹の意思を上まわった場合。豪族を従えるだけの指導力を、袁紹が発揮できなかった場合かと」

「冀州の豪族たちは、持久戦をのぞむ、か」

たしかに、田豊も沮授も冀州の人だ。

「彼らからしてみれば、公孫瓚を倒したことで、ようやく冀州の安定が見えてきたのです。力を入れるべきは治安であり、内政であり、河水を渡っての遠征ではありません」

冀州の豪族たちは、冀州の安定を重視する。当たり前だ。あくまで南をむいている袁紹とは、冀州の重みがちがう。

「袁紹軍の中核をなしているのは、冀州の豪族たちです。彼らは、『二、三年は内政に専念して、足元をかためるべきである。そのあいだに、四方の群雄と手をむすび、曹操を包囲して、疲弊させていけばよい』と、声をそろえて具申するでしょう」

それ、三国志で見たセリフだ! 田豊だったか?

「持久戦で得られるものは、第一に河北の安定です。河北の雄として生きるつもりならば、それでよいのですが……」

「袁紹にそのつもりはない、か。彼はあくまで天下を見ている」

「はい。自領よりも、曹操領のほうが混乱していることを、袁紹は知っています。みすみす曹操に時間をあたえる手はありません。袁紹にしてみれば、持久戦は悪手でしょう。自身の大望や袁家の繁栄よりも、豪族たちの利益を優先させろといわれているようなものです。袁紹はそうした要望をおさえつけて、軍を南に進めなければならない。……持久戦を主張する人物は、その発言力が高ければ高いほど、袁紹に疎まれることになるでしょう」

そこまで読めるのか。

三国志における袁紹軍のイメージといえば、武の二枚看板が顔良と文醜、知の二枚看板が田豊と沮授である。立場は文人のほうが上だから、トップにいるのは田豊と沮授といっていい。このふたりは持久戦を主張したあと、袁紹に冷遇されている。おそらくは、反発する冀州の豪族たちに対する、みせしめの意味合いもあったのだろう。

こうしてみると、袁紹は最初から、短期決戦の腹づもりだったのだ。

田豊と沮授は冀州に基盤があった。豪族たちの意見を代弁する立場にいたからだろうか。彼らは持久戦を主張して、その結果、袁紹の不興を買うことになった。

一方、袁紹と同じ豫州出身の郭図は、主君と価値観を共有していた。だから、短期決戦を主張した。まるで、袁紹の意を汲んだかのように。

……郭図、郭図か。このまま史実どおりに歴史が推移すれば、郭図は百%の確率でフォーエバーしてしまう。

さらば郭図! と、いうつもりはない。なんとかしないとな……。